11

 俺様が何をしたか、久一には一目瞭然だろう。俺様の側に跪いた彼は黙ったまま、俺様の頭をぐりぐりと撫ぜる。それから俺様を布団に寝かせ、下肢を拭きながら、

「殺しちゃったか」

 頷くことも首を振ることも出来ない疲れきった俺様に、久一は笑って言った。

「そして、お前も行くんだねえ」

 俺様にはどんな想像があっただろう?

 久一に叱られる? それもあったかもしれない。ビス子は久一にもそれなりに懐いていたし、久一も彼女を憎からず思っていたはずで。

 黙る久一が、少し怖かった。全能なる彼の怒りがどれほどのものかは想像すら出来ない。ただ彼は穏やかににこにこ笑っている。そこにどんな感情が内在するのか、いつも通りのその笑顔が立ち塞がって、見えたことも無い。

「贅沢を言うようだけどさ、ちゃんと俺にも相談して欲しかったなあ。お別れの挨拶も言いたかったし、最後にもう一度ぐらいビス子のおっぱい舐めたかったし」

 でもいいよ、と言う。そのとらえどころのない笑顔の向こう側に詰まった毒を、彼は閉じ込めたままで言うのだ。

「その分、お前に言っとこう。ビスケットに言えなかった分までお前に押し付けてしまおう。アルフレッド」

 と……、呼ばれて、それが自分の本当の名前であったことを、俺様はずっと忘れていた。二十年近く前に「ぶどうのおばけ」呼ばわりが始まってから、この男は一度たりとも俺様を本名で呼ばなかったから。それでも俺様の耳の、彼の声でそう呼ばれるためだけに空けられた余白に、声がすとんと落ち着く。

「ありがとうね、長いこと。……初めてだよ、ビス子にしろ君にしろ、二十七年間も俺の側に居てくれたのは」

 俺様の髪を解き、苺の紅、ミントの翠、光を吸い込んで「いやらしい髪の色」、随分前にそう言われて以来、そうなんだろうかとビルの窓に自分が映るたびに髪の色が気になっていた。

「お前たちを苦しめていたのは俺だからな……、お前たちを『そういう』形に作り出し、悩ませていたのは、他ならぬ俺だから。申し訳ないとも思ってる、だけど、……うん、お前たちが『死』の影に怯え、俺の側に長いこと一緒に居てくれたことに、心から感謝する」

 髪先にキスを重ねながら、またしばらく久一は黙りこくる。無言のまま、俺様の身体の隅々の、匂いを嗅いでいた

「ビス子とお前が居なくなったから、また創らなきゃいけない。俺はお前たちを何度だって作り出すことは出来る、その気になれば、そっくりそのままビス子とお前と同じ身体の砂糖菓子を作って、同じ心を宿らせることだって出来る。けれどね、もし彼らがそっくりそのままお前たちと同じように居てくれたとしても、俺にとって、お前たちは、お前たちだけだから」

 悲しいような虚しいような、言葉は俺様の中で居場所を失う。悲鳴を上げる人間が居ない日などない。俺様がここを出れば、久一は急いでまた砂糖菓子を造らなければならないのだ。

「思えば、二十七年ってさ、本当にすごい、長い時間だ。その時間を経たからこそ、お前は誰かに恋をすることが出来た。俺はお前に何もしてあげられなかったけれど、それは心から祝福したい」

 久一の孤独と引き換えに。

 そして彼の孤独にかりそめの癒しを。

 巡る、廻る。俺様はビス子を道連れにして、輪から出外れた。

 久一は最後まで俺様を責めなかった。ビス子を殺したことも、彼を一人きりにすることも。ただ微笑んで俺様を見送って。

 透き通った夜の空を飛びながら、明日が十月十三日、俺様にとって此れまで何の意味も持たなかった日に打つピリオドは、指に力を入れて黒く、しっかりと。眼下の街、見下ろすのもこれが最後だ。二十七年間で変わらないところの方がずっと少ない。俺様一人変わらなかった。

 ゆっくりと、俺様は飛ぶ。紅白の光のラインを引いた環状線を越えて、ゆっくりと高度を下げる。片倉一弥のアパートが近付いてくる。俺様は一度だけ街を振り返り、果たして自分の居たことでこの街を少しでも痛みから守ることが出来たのだろうかと、答える者のない問いをぽかんと心の中、煙の形で浮かべて、すぐに掻き消した。

 アパートの、例の部屋、もう灯りが点いていた。

「早番」というのが、四時に上がって五時に帰宅する日。

「通し」というのが、九時に上がって十時に帰宅する日。

 俺様はそんなことまで、もう覚えてしまっていた。別段、暗記に努力を要するようなことではなかったけれど、彼が週に一日の休みを除いてあの店で、傷付いた心と問題を抱える身体と、引き摺って働いているのだということを、俺様は単に一人のフリーターとしてではなく、片倉一弥という個人として認識したいつからか、知覚してしまっていた。

 ヴェランダで降りて、一つ、息を吸って吐く。

 季節感のない紺のカーテンの向こうに、片倉一弥が此方に背を向けている。背中を丸めて、恐らくはインスタントラーメンを啜っているのだろう。ゴミ箱代わりに口を開いて床に置かれたゴミ袋―初日に俺様が足を突っ込んで転んだそれ―の中には、いくつもの「丸三食品北の一番 味噌味」が入っていた。恐らく近所のスーパーで買っているはずのもので、安い日に幾つも幾つも纏め買いをするのだろう。

 もっと栄養のあるものを食え。

 もっと身体にいいものを食え。

 そうしたらその顔色だってもう少しよくなるはずだ、ジャンクフードばっかりでは、きっと心臓にだって良くない。

「……ん」

 音もなく入った積りなのに、一弥は背後の気配に、敏感に振り返った。味噌のスープと油揚げ麺の匂いが鼻につく。ちゅる、と一本吸い飲んで、

「……おお……、びっくりした」

 彼は眼を丸くして俺様を見上げる。俺様はもう、ソックスシューズを脱いで手に持っていた。窓辺に並べて置いて、丼の載った卓袱台の向かいに座った。

「うまいか?」

「いや……、うまくて食べてるんじゃないから」

 そうだろうなと思う。

「どうしたんだ?」

「……いいよ、食ってからで」

「ああ、そう」

「別に急いで食わなくていいからな」

 俺様は頬杖を付いて、片倉一弥がほんの少し頬を紅くして味噌ラーメンを啜るのを眺めて待った。せめて卵ぐらい入れろよと思う、或いは野菜の一種類くらい。例えばキャベツを一枚刻んで一緒に茹でるとか。

 けれど、そんなみみっちくて健気な倹約はもうしなくてもいいんだ。

 俺様は初めて一弥の飯を食うところを見ながら、心の中のあるべき場所に、何かが収まるのを感じる。そこは既に物があった場所、……同じ重さが掛かって、俺様は、……小さく「ああ」と溜め息を吐いた。

「……ん?」

 小さなことだ。

「いや……、何でもないよ」

 小さなこと、些細なこと、……しかし、ぴったりと嵌まる。俺の中に開いていた穴が埋まった気がする。

 食べ終えた一弥が、流しに丼を置いて、歯を磨いてから戻ってくる。俺様が明日も仕事かと訊いたら、そうだと答えた。薄荷の匂いが、脂っこいラーメンの匂いを遠くへ追い遣る。

「弟が迷惑をかけたな」

 座りなおした一弥に、俺様は言った。

「あいつはあいつなりに、お前の弟の役に立ちたいと思ってた。……いや、それだけじゃない、あいつは……、まあ、その、なんだ、……俺様がうらやましかったんだそうだ。お前に、……うん、あの、POPに描いてもらったり、大事に思われてる俺様のことが」

 一弥はきょとんと俺様の顔を見詰める。それから、見る見るうちにすまなそうな顔になった。

「……やっぱり、ああいうことはしないほうがよかったのか」

 俯いて、

「描けば、……お前がまた来てくれるだろうって、そう思ったんだ」

 言うのに、俺様はきっぱりと首を横に振った。

「いや。……お前だって悪気があってやったんじゃねえんだろ? しょうがないことだった」

 それに。……あいつはもう居ないし。そういうことは言わなかった。その代わりに、

「俺様は、……やっぱりお前は実家に帰るのがいいんだと思う」

 残り少ない命の時間を自ら縮めると思いながら言った。終止線の場所は、自分の意志で決めたい。そこから逃げようとは思わないけれど、万に一つも、逃げ出そうなどと思えないように。

 一弥の表情が曇る。

「お前が帰りたがってないのは、俺様には判ってる。けどな、……ちょっと我慢すりゃそれでいいんだ。お前の心に潜った俺様は、お前が親父にどんな辛い思いをさせられてきたか知ってる。そして、……俺様の眼から見ても、お前の親父は五年や六年ぐらいの時間でちょっと反省したからって、変われるような奴じゃないだろうってことも判る。だけどな、……俺様は、お前に長生きして欲しい。お前に、ずっとずっとこれからも、生きて行って欲しい。理屈じゃなしに、……心から、そう願う」

 何をどう言うかぐらい、考えておくべきだっただろうか。俺様の言葉は不器用で、流れは時折滞り、うまく意味が伝わるかどうかの自信もなかった。ただ、一弥は黙って聴いてくれている。

「お前が……、苦しんでるのを、俺様は誰より知ってる、いや、俺様しか知らない。お前が実家に帰るのが、本当に辛くて、嫌で、……だから嫌いじゃない弟の手紙にも苦しまなきゃいけない。お前の中でお前の弟の姿が、醜く歪んでいく様を……、俺様は見た。そんな風に姿を歪ませてしまう自分自身にすら、お前は苦しんでいる。……お前がお前の中に抱えたナイフを、苦しみに耐えかねて、いつか暴力性の赴くままに解き放ってしまうのを、お前が何より恐れているのを、俺様は知ってる」

 まとまらない言葉は、変にまとめようとしないほうがいいのかもしれないと俺様は思い始めていた。そう簡単に俺様が総括出来るような状態ならば、一弥はこうまで深い苦しみの中に溺れることも無かったのだ。そしてこれからも、一弥は泥沼の中で足掻きつづけるほか無いのだ。やがてその心が音もなく折れて、在る力全て、物を壊すことに使うことが無いように、俺様はやって来たのだ。

 俺様は、笑って見せた。

「だけどな、お前は家に戻った方がいい。糞親父とお袋と弟、家族を騙くらかして、病院に行く金を引き出すためだけに、家に戻れ。身体が大丈夫になったらまた出てくりゃいい。お前が糞親父のことを許せる日は、多分来ないだろうし……、別に来なくてもいいと俺様は思う」

 一弥は不安げに俺様の顔を見る。

 紡がれる言葉は判っていた。全てを拒絶し、俺様だけが通れたその心の扉を、俺様は思い出していた。

「不安なのは、判る」

 俺様は頷いて、立ち上がった。腕を組んで、虚勢と言われたっていい、この指で、一弥の鼻を指差した。

「だから俺様が来てやった。言ったろ、俺様がお前を決定的に不幸にはしないってな。至高の砂糖菓子、この甘味でお前に全てを乗り越える力をくれてやる」

 俺様は笑って見せた。

「死」という、あまりに茫洋としたものは、例えば不安として雲のように、恐怖として闇のように、俺様の周囲に漂っている。しかし俺様は怯えてはいなかった。ビス子の最後の顔を見たからだと思う。ビス子は笑っていた。無邪気な少女のように、子供のように、俺様が彼の息の根を止めるとき、笑っていた。恐ろしさに、悲しさに、泣いているのは俺様のほうだったのだ。

 だから、そう悪いもんじゃない、きっと。

 少なくともビス子は、他の誰でもない、この俺様の手で死んだ。俺様で無ければあいつにあんな表情を浮かべさせることが出来なかったことは明らかだ。

 俺様もそれは同じこと。

 一弥ならば俺様を、包み込んで逝かせてくれる。

「甘味……?」

「そうだ。俺様の身体の何処を舐めても甘いのはもう知ってるだろ? だから今夜はお前に……、俺様の甘味の全てをやろうと思って来てやったんだ。この舌の、膚の、……俺様の命そのものの甘味を、他でもないお前にな」

 俺様自身、それを望んでいるからこそ、恐ろしさよりも先に立つものがあるのだ。自分の身体が何処からどう見ても「ぶどうのおばけ」で、また少年の形をしていることを、俺様は初めて悔しく思う。もっと魅力的な姿ならば、或いは、ビス子と同じ姿だったならばと思う。

「悦べ、お前は、……選ばれた」

 だが、こういう形に生み出されたことを今更恥ずかしいとも思わない。拒まれるかもしれないという不安は俺様の中にはほとんどなかった。人間の一般的な性の価値観と照合すれば、抵抗は当然あって然るべきもの、しかし、俺様がキスをしても拒絶しなかった一弥の、俺様はもう内側に居るも当然だった。

 自信、と言っては可笑しいか。俺様は自分の死のスイッチを自らの指で押すのだ。

「一弥」

 一歩、無礼を承知でぐいと卓袱台の上に足を乗せて、「ちょっ……、卓袱台に乗っ」一弥が慌てたように言う、聴く耳を貸さなかった俺様の足元で、卓袱台の足がかくんと、膝が抜けたように外れて、

「おあ!」

 俺様の身体はそのまま一弥の胸の上に落ちる。

「っぶ!」

 危うくこの単角で彼のことを刺し貫いてしまうところ。予想もしていなかった事態に、俺様は動転する。この身、どういう風に食おうとお前の自由だと偉そうに言って卓袱台の上に座ろうと、そう、俺様は思いつきのまま。

「……あ、危ないなあ……」

 一弥が心底驚いたように溜め息を吐く。「立て付けが悪くって、……足一本外れっぱなしなんだから、無茶するなよ……。心読めるんだったらこれぐらい……」

「ひ、人ンちの卓袱台のことまで気にしてられるか!」

 細い体の一弥は、それでも少年の身体よりもずっと逞しく頼もしく、俺様はその胸の上で妙な安定感で以って支えられていた。

「お前……、ドジだな」

「な、う、うるさい!」

「大きい声出すなって。もう時間も遅いんだし……」

 仰向け一弥の身体に抱きとめられたまま、俺様は緊張や興奮よりも単に驚愕によっての動悸をダイレクトに彼へ伝えていた。

「どっかぶつけなかったか?」

 訊く彼に、俺様は居たたまれないような気持ちにさせられる。

 そのシャツの向こう、苦い身体がある。この甘味で癒したいと、俺様の本能が震えながら呟いた。

 俺様は砂糖菓子だ。悩み苦しむ人の心に、我が身の甘味でほんの少し力を与える砂糖菓子だ。自分のありようを、疑いもせずに生きてきた。数多の人の心を癒すことが生きる理由、そして悦びであると信じて、ずっと。

 要するに俺様は、自分の存在を否定するのだ。他の誰を救うことよりも「お前を救いたい」と願った。今宵また何処かで子供が、老人が、孤独に泣いているのかもしれない。しかしそれに耳を傾けることもせず、ただ俺様は俺様の物思いにだけ忠実に、死ぬことを選んだ。「本当にそれほどのものか」と、久一は俺様に訊かなかった。まるで俺様がこうなることを予め知っていたように。

 いや、実際彼は知っていたのだろう。砂糖菓子が永久に年をとらぬ身体として生み出されながら、必ずいつかは彼の元を去ってしまうという事実が在る以上、俺様だけを例外視していたはずもなく、いつかは必ずこうして、誰かを好きになり、命を落すことを。そしてそれは、全能なる彼が止められるものでもないということを。

「一弥、俺様は、お前が好きだよ。俺様のことをずっと好きで居てくれたお前のことが、大好きだよ」

 命を賭して捧げるだけの思いならば、何処までもエゴであったっていいものだと、久一がそうまで言うかは、俺様は知らない。

「ぶどう」

 ただ俺様は、要するにエゴイスティックにそう思うのだ。自分を殺すだけの思いならばと。

 ビス子を殺した罪も、俺様は抱えて逝こう。あの最後の笑顔を、俺様の中に閉じ込めて、一緒に逝こう。

「……何故、気付かなかったんだろうな、我ながら間が抜けてる」

 唇を一弥の頬に当てながら、俺様は言った。

「どうして、お前の呼ぶ声が俺様に引っ掛かったのか。どうして、俺様はずっとお前のことが気になっていたのか。……ちゃんと理由が在ったのに、ずっと単なる偶然だと思ってた。だけど……、さっき、やっと気付いた、……気付いたってか、思い出した」

 丁度これはマウントポジション、ただ態度がでかいのは今に始まったことではないので、我慢してもらうとしよう。

「……でかくなったな」

 改めて見下ろす、それなりに端正な相貌。乱れた髪に指を入れて直してやりながら、俺様は思いついて、彼の前髪を全部額にかけた。「でも、面影は残ってる」

「……ぶどう……」

 ずっとずっと昔、俺様を呼んだ子供が居た。父親に理不尽な暴力を振るわれ、目の前で母親を殴られ、その荒れ狂う様を前に、絶望しきった子供だった。俺様は砂糖菓子九年目、もうそうすることを習慣として、マンションの屋上から踏み切ろうとした少年を救い上げて、……あろうことかその子供は俺様を見て「ぶどうのおばけ」と抜かしやがった。

 そしてその日から俺様の名前はアルフレッドではなく「ぶどうのおばけ」になった。

 その子供は図工の授業で、家族の絵を描きましょうと先生に言われたのに、俺様の絵を描いた。彼にとって家族と呼べるのは、顔を殴られた母親でも、もちろん暴力的な父親でもなく、あの瞬間俺様だけだったのかもしれない。

「……お前があの夜、あの糞親父に殴られる原因になったのは何だった? ……箸の使い方だ。くだらねえよな。お前は不器用で、上手に箸を使えなかった、鉛筆握りでな。……それでも上手にラーメンくらい食えるんだよな」

 何故初めてこの部屋に来た夜、俺様を見てこいつが「ぶどうのおばけ」と迷いなく言ったのか。

 本来ならば俺様の管轄外である若い男が、俺様を呼ぶことが出来たのか。

 ついさっきまで気付くことが出来なかった自分が、ひどく悔しい。

 こいつは、ずっと覚えていたのに。

「……全く……、健気なことだよ。お前はあれからずっと苦しんで悩んで、でもその間ずっと俺様のことを思って、自分を支えてたのか」

 いや、……あるいは、ずっと呼び続けていたのかもしれない。あのときのように泣きながら、俺様のことを。

 一弥の奥底に在った小さな函の中には、ずっと俺様が居たのだ。きつく鍵を閉めて、本当に辛いときだけ、涙を浮かべてその中のものを、そっと、覗き見る。クレヨンで描いた、まだ決して上手いとは言えない絵。

 俺様の記憶が、あの中にあった。

「……まさか、って、思ったよ」

 一弥は少し笑って、俺様の手を取る。

「あんまりにも、似てた。似すぎてた。……瓜二つだって。……ああ、あいつ以外にも同じようにしてる子がいるんだなあって、……でも、同じ味がした。お前の指は、ずっと昔に、俺が舐めたのと、同じ味がした」

 そんときに、確信したよと一弥は言う。「ぶどうのおばけだ、って」

 また会えた、ぶどうに、また会えた。

 二十七年間生きたからだ、久一が言った気がする。……だから誰かに、好きになってもらえた。十二三年で死んでいたら、自分を好きになってくれた相手の願いさえ、俺様は叶えられなかった。

 また会いたい、会いたい、会いたい、一弥は願って、……苦しみにぶつかっては、俺様だけに聴こえる声を上げた。その全てに答えられたかどうかは覚束ない一方で、俺様自身、呼ばれたいと願い、その声を探していた。

 だから、こうして。

 ……それはやっぱり、どこまでもエゴだ。しかし、砂糖菓子で在ることを止める俺様は、何処までも自己中心的に容認する。

 キスの邪魔になる角をぱきりと折って放り、俺様は真っ直ぐに一弥に唇を重ねた。一弥はやはり拒まなかった。俺様はそのまま調子に乗って、苦くて辛い口の中へ舌を這い入らせる。ぴく、と一弥の身が強張ったのも構わず、その舌に舌を絡み付ける。

「悦べよ、一弥」

 息継ぎの合間に俺様は言う。

「俺様がここまでしてやるのは、……本当に、お前しか居ない」

 一弥の腕がおずおずと俺様を抱き締めた。あの日俺様よりずっと小さかった子供は、いま、こんな風に温かい掌をして、しっかりした腕をして、俺様の棺となる。

「お前に俺様の魂を飲ませてやる。……お前は本当に、本当に、恵まれた男だ」

 俺様は言って、笑った。恐怖心を脱ぎ捨てた後には、欲に駆られて動く、葡萄色の身体があるばかりだった。

「……えっと、ぶどう、あの……」

「……なんだよ」

「俺は、……お前の知っての通りさ、その、こういうことを、誰ともしないで生きてきて、全然、判らない。だから……、上手に出来るかどうか判らない」

 そんなこと期待してねえよ、クールで居たいのに俺様は唇の端が、どうしても微笑みの形を作ってしまう。

「……ただ、……その、ええとつまり何だ、アレだ、ほら、……な?」

「……何言ってんだ」

「ううううるさい、俺様だってそんなやり方とか詳しくないしだな、でもお前は俺様に任せときゃいいんだ!」

 緊張している、……こんなの、しなかったら嘘だ。自分の命を賭けて居るのだ。しかし、此れは恐怖ではない、決して無い。俺に上手に出来るだろうか、不安はただその一点のみ。

「……ってか、お前は俺様みたいな相手とこういうことするのに抵抗はないんだな」

「ん……? ん……、そう、言われてみればそうだけど」

「俺様も別に同性愛者って訳じゃないけどな、俺様は雄とか雌とかそういう概念で相手をとらえて来なかったから」

 一弥は、ほんの少しだけ考えてから、小さく微笑む。

「男だからとか、そういう気持ちは無いよ。俺はずっと、お前が好きだったから」

 この男は、ひょっとしたら、ひょっとしなくても、すごく馬鹿だ。

 しかし、そんな言葉に胸がぐしゃぐしゃになってしまう俺様も、多分同じように馬鹿なのだろう。

「……パンツ、下ろせ」

 俯いて、俺様は言った。何事か言いかけた一弥の言葉を、無理矢理に制して、「いいから下ろせ」

 俺様は、俺様の紫の角をばきりと折った。まだ躊躇う一弥の代わりにベルトを引っ張って解く。

「洗ってない……」

「知るか。そんなもん、俺様が来るまでに風呂に入ってなかったお前が悪いんだ」

 我ながら支離滅裂と思う言葉を俺様は平気で吐いて、一弥の前に膝で立つ。無愛想なグレーのトランクスの中から男性器を取り出すまでにあった逡巡は、本当に一瞬だけだったと思いたい。

「うお……」

 見たことが無い、ある訳が無い、一度だって、……久一がどんな風なのかだって俺様は知らないのだ。そもそもあいつにこの類のものが生えているかどうかさえ、見たことが無い以上確信を持って俺様は言えない。

「……あんまり……、見ないでくれ、恥ずかしいから」

 一弥が、目を逸らしてぶつりと言う。童貞だから無理もないか。同様に俺様だって童貞なのだ。子供の身体をしている俺様には、やはり子供の形をしたものしか生えていなくて、だから自分のものとは本当に全く違う印象のそれを前に、恐怖心は否めないにしろそれ以上に……、これは、好奇心?

「……触るぞ、じっと、してろよ」

 声が震えないように、努力をして。

 一弥が一応頷いたのを確かめてから、手袋を外した両手でそっと、包んだ。だらんと力なくぶら下がっていて生温かくて、まだ柔らかく、俺様の眼と鼻の先、俺様のものとは違う形で。

 射精が自分のピリオドと知っているから、俺様は自分で自分の物に触ったことすらない。そんないきものだから、他人のそこを触れることに、必要以上の興奮を抱いてしまうことの妥当性を、……この男だけは理解していてくれていいはずだ。

 意を決して、口付けを、する。

「……うわ……」

 そんな声を出したこの男を幸せにしたい、この男を、救いたい、ただその一心? そんな清いものでもない。恐らく俺様は同時に、初めて自分の性欲を形に出来ることを――この命と引き換えに手にするのであったとしても――悦びと感じているのだ。

 一弥の性器は、俺様の舌にはとても苦いものだった。それは洗っていないからではなく、この男の持っている「痛み」や「毒」の味だと思う。あのとき、そしてさっき、絡めた舌よりもなお、俺様の舌に刺さるような苦味を纏っている。だが、……これも先刻承知のこと、俺様の甘い甘い甘い舌で舐めることで亀頭や尿道から浸透して、この男がほんの少しでも甘くなってくれたなら。

「ぶどう……、なあ、そんなの……!」

 ぎゅ、と一弥の指が俺様の髪のひとふさを握った。口に鼓動が届くようになって、急に苦しく思えるようになって、ふと抜いて見たら、一弥の性器は勃起していた。俺様の甘ったるい唾液を纏って、ヒクヒクと震えている様はとんでもなく卑猥で。

 俺様も大いに興奮する。

 息も止まるような心持になって、再び咥え込んだ。苦い性器が、俺様の舌の動き一つひとつでリアルに脈動する。男が射精までどれほどの時間が掛かるものなのか、俺様には全く判らないが、一分、一秒でも早くこの男に快楽を与えたいと、俺様の腹の底が叫ぶ。口元から品のない音が立つ、涎が泡立って唇の端から零れる、そんなこと、全て、どうでもいい。ただ俺様がしなければいけないのは、悪魔のように尖った俺様の犬歯がこの男を傷付けるようなことが決して無いように努力することばかり。頬を窄めて吸い上げて、弦のように張り詰めた筋を舐めて、時には首を傾けて陰嚢にしゃぶりつく、一連の動作は全て無意識で、愛情に基づいて行われ、自分の苦しささえ俺様はどうでもいいと思えて。

 口の中で、鼓動があらぶる。

「ぶどう……ッ、ちょっと、たんま! ちょっと!」

「え? ……うおあ!」

 俺に少しの後悔が残るとすれば、それはその瞬間の鼓動をこの舌で感じることが出来なかったことだろうか。

 しかし、俺様はそれでも満足を得る。

 この顔にばら蒔かれた「蜜」と呼ぶには苦すぎる粘液は、俺様の舌が甘い証だからだ。

「……だから……、たんまって言ったのに……」

 息を荒げて一弥が言う。俺様は俺様の頬に鼻に額に、散らされた液体がどろりと重たく伝うのを呆然の中に感じ、ただただ、狂おしいほどの喜悦に溺れる自分を意識する。指に絡めた其れは絹のように白く、煮溶かした砂糖が冷えて固まった時の色によく似ている。

 これが一弥の精液だ。

 一弥の、……悲しみや痛みから搾り出された液体だ。

 そっと、舐めてみて、

「苦ッ……」

 びりり、体中が痺れる。

「な、何でそんなの……、舐めちゃダメだ」

 言われても、苦しくても、俺様は止めなかった。顔に散った雫を一つずつ指で掬い取り、舐めて、飲み込んだ。焼けるような喉越し、引っ掛かって、噎せそうになるのを堪えて、一弥の性器の先端に滲んだ残滓をも、俺様は舐め取った。

「にっげぇえ……」

 さすがに笑う余裕は無かった。一弥は跪いて、ティッシュで俺様の顔を丁寧に拭いていく。自分の性器は後回しだ。

「どうすんだよ……、もう、今日はカルピス無いんだぞ」

 一弥は、どこまでも無意識に無自覚に、困惑しきって言う。俺様の顔を拭う手を止めて、……口にしたら可哀想か、そう思って、頬に口付けをした。

「苦かったぞ、お前の精液、めちゃめちゃ苦かった」

「当たり前だそんなの……、まずいに決まってるだろう……」

 一弥はしっかりと俺様を抱き締めて、泣きそうな声を出した。その、金の溜まらなさそうな耳たぶにも一度キスをして、

「勘違いするな……、不味いなんてこれっぽっちも思ってないぞ、ただ『苦い』って思っただけだ……」

 俺様はその耳に言葉を差し込む。

「でもって、俺様は嬉しいぞ。……すごく、すごくすごくすごく嬉しいぞ。お前が俺様でちゃんと、気持ちよくなってくれたんだからな」

 ぎゅう、ぎゅう、ぎゅうう、抱擁の腕の力は強く、俺は暫くその胸の中で落ち着いていた。なんと安定感のある場所だろうかと、驚きすら覚える。久一に抱かれるときにも俺様は十分な安らぎを得ていたはずで、奴と比べるつもりもないのだが、このままこうして抱かれていると俺様は、何だか眠くなってしまいそうな気がする。全てをかなぐり捨てた上でここに来ているのに、その意地までも捨てて、このまま眠りに就いてしまったらどんなに幸せだろうかと。

 しかし、俺様はぽんぽんと一弥の背中を叩いて、その腕の中から抜け出した。よろりと、今にも泣き出しそうな一弥の前に立ち上がって、自分のベルトに親指をかけた。

「お前の元気の源に、俺様はなりたいと思った。お前が俺様のことを好きで居てくれるんなら、俺様もお前のことが好きだ。ずっとずっと、……これから先もずうっと、俺様はお前のことが大好きだぞ」

 さっきからデニムの前が異様なほどに窮屈だ。元々このデニム、久一の奴がワンサイズ小さく作ったものだ、曰く「こう、ね、きゅっと引き締まった太腿がすーっと見えるのってすごく萌えると思ったんだ」、あの男は誰より賢くて誰より馬鹿だ。

「……俺様のは、すげー甘いぞ。なんてったって『ぶどうのおばけ』だからな。お前のとは比べ物にならんほど甘くて、ひょっとしたら虫歯になっちまうかもしれないな」

 俺様は笑って言った。

「だから、し終わった後はちゃんと歯ぁ磨いて寝ろよ」

 一弥はぱくぱく、何度か言葉を紡ぐための糸を手繰るのに難儀してから、やっと少しだけ微笑んで、

「ここも、葡萄色、なんだな」

 と言った。

「大きなお世話だ。でも葡萄の味がして、美味しいぞ」

「……うん、お前の身体は何処も彼処も、葡萄の味がして……、甘酸っぱくって、すごく美味しいと思う」

「この身の、俺様の身体の甘さでお前が元気になるんなら、それでいい」

「……うん」

 一弥がまだ少しの躊躇いを経て、しかし、俺様の性器を、口に含んで、

「……すごく、甘い」

 と掠れた声で言って、……すぐに再び、しゃぶり付いた。苦い舌の絡む感触に、俺様は頭のてっぺんから魂がすっと抜けていくような感覚に陥る。

 俺様は、俺様が終焉へと近付く「刻々」という音を、最後に聴いた。

 


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