09

 ビス子はまた館町歩の家に行ったのだろうか。

 そして片倉一弥の家に行くのだろうか。

 片倉一弥は俺様を呼ばない。約束をしたからか、それとも、俺様の恐れるようなことにはなっていないからか。

 俺様たちが癒した後、「対象」がどうなるかは俺様たちの関知出来ることではないし、すべきことではない。大袈裟に言えばそれは服務規定違反。そう考えればビス子のしていることは立派に違反だが、とっくに気付いているはずの久一が彼を咎めた様子はない。俺様も俺様で、仕事とは言え都合四度、一弥の部屋を訪れているのだし、そこに突っ込むことはしがたいのだが。

 心配なのだ、と素直に言おう。

 俺様は片倉一弥という一人の対象のことを、心配している。

 同じ対象と複数回会うことじたい、稀である。何度も会って不必要な思い入れが生じ、「その結果入り浸って特定の人間を癒しすぎるのは不公平だからね」と俺様は二十七年前に生み出されたばかりのときに、ビス子と二人、久一に言い聞かされた。しかし不可抗力、だと思うが、これだけ顔を合わせて、俺様は久一に言われたとおり、一弥に向かう思い入れが身の中に生まれてしまったことは否定出来ない。あの、実際には俺様より年下の、ちょっと暗くて不器用で、しかし誠実で真面目で優しい男に、これ以上不条理の棘の刺さることのないようにと祈っている。そしてその棘を刺すのが、決して俺様の弟ではないようにと。

 考えごとのせいで、俺様は少しばかり不安定な飛び方をして居た。そんなだから、ビルの屋上の柵に足を引っ掛けて、コンクリートに顔から突っ込みそうになった。慌てて手を付いて、……角の先っぽが少しかけてしまったではないか。

 やれやれと、柵に腰掛けて足をぶらぶら、眼下の街を見下ろす。人間離れしたこの黒地に緑の目は人間並みの視力しか持っていないので、此処からはありんこよりももっと小さな人間たちが右往左往している姿しか見えない。

 要するにあれが「社会」と呼ばれるもので、俺様が降りていって一人ひとりの顔を見分けたとき、彼らは「人間」と呼ばれるようになるのだろうと俺様は考える。

 巨大なベルトコンベアに乗って振り分けられる、そこに人格がある事をしばしば忘れてしまうような存在がベルトコンベアを作っているのだから、痛みが生まれてしまうのは当然と言えた。だが悲しいかな、人間は二本の足がちゃんと生えているのに、自分の足からそのコンベアから飛び降りることは出来ない。仮に飛び降りることが出来たとしたって、その下には生ゴミが堆積している、悪臭を放つ其れをもとより嫌悪していた彼らに、自ら其処へ落ちるだけの度胸があるだろうか? そもそも其処から発される匂いを「悪臭」と定義するように、創造主によって教育されている彼らなのだ。痛みがあって当然、苦しくって当然、……「当然」の構造を顧みたとき、それは慣習以外の何物も関与していないことに気付いて愕然とするが、そこはそれ、上手に知らんぷりをして見せる。人間はそんな技術に長けた生き物だ。

 ……片倉一弥も、「家庭」という社会から逸脱せんとして苦しむ。

 論の利はビス子と館町歩にあるのかもしれないとは思う。一弥は慣習を知っている、大体、彼は元はといえば「家族」のために利己を排して働いてきた人間だ。家族なる括りが重要と、誰より理解しているはずだ。

 今、そこからの逸脱を択ぶとき、足元から漂う腐臭には誰よりも敏感なはずだ。

 それなら、戻った方が得だ、……時間がきっと全てを洗い流す。

 しかし、彼には自信がないのだ。彼の胸の中にあって、俺様が確かに触れた狂気のナイフ。あれが、まさに彼がずっと守ってきた「家族」を傷つけてしまわないかどうか、怖れているのだろう。

 彼が怒りや憾みに任せて父親に向けて刃を振り上げたとき、第一に傷付くのは、館町歩という彼の弟であり、母親である。彼はそれを耐え得るような残酷な人間ではないということを、俺様は断言出来る。

 しかし、今のままで居たって。彼はすぐ足元から漂う腐臭をもまた、怖れる。それを贅沢だ我儘だと言う奴も居るかもしれないが、進むも止まるも地獄の境遇を、誰が笑えるだろう。「きっと上手く行く」……ビス子の言ったこと、納得もするし、あいつの方が俺様などよりもずっと経験がある、きっとあいつの方が正しい。

 俺様は一弥にキスをした。力を与えた。背中を押すことも抑えることも出来ないと思うから、せめて何をするにしても前向きに居られたらいい、……「微力ながら」、そんな謙虚な言い方もしたくなるのだった。

 ……あいつ今頃どうしてるだろう?

 考えまいと思っても、考えてしまう。こういう日に限って暇で暇で、しかしあくびをするより考えは積り思いは募る。昼のこの時間には仕事のはずだ、あるいは今日は休日だろうか。そんなことを考えてどうなるどうすると、自問すれば「考えちゃいけないってのかよ」、自分の頭を膝蹴りしたいような気分になるばかり。

 しかし、会いに行ってはいけない。俺様は仕事をしたのだ、それでいいのだ、それ以上は何も要らない。彼は、あれは「one of them」俺様の救う人間たちの中に、たまたま若い男が混じってしまったというだけのこと。どういう訳か、ビス子の双角ではなく、俺様の鈍感なる単角にだけ引っ掛かる特殊な電波を持つ男が居たというだけのこと。二十七年も生きていればそれなりにいろいろなことがあったって不思議は無い。

 後は野となれ山となれ、そういう風に居ればいい。大体、二十七年間で一体何人の人間を俺様は癒してきた? その大多数の顔を、俺様は忘れてしまった。片倉一弥なんて人間が居た事だって、今に忘れてしまえるだろう。

 がり、と俺様は角を折って、口に放り込んだ。これだけの甘さを、俺様は一弥に与えた。特別措置としてキスまでしてやった。俺様はやるべきことを、十分、十二分にしてやった。

 がり、がり、ごり、奥歯で噛み砕くと、紫の破片が臼歯の隙間に詰まる。それを舌でほじくって、ほじくって、ほじくり切れなくて、手袋を外して小指の爪で掻き出す。

「……別に……」

 俺様は指を舐めながら独語していた。自分の尖った耳に風の音と共に吸い込まれる声は、まるで俺様の声ではないように、か細いように聴こえた。

「俺様は、……暇なんだ。それに、……別に会いに行くわけじゃねえし、……休憩時間に何処で何しようが俺様の勝手だ。……それに、この間みたいに困ってるばーさんとかいるかもしれねえし、……それに」

 俺様は頭がいいので、理由なんて幾つでも作り出せる気がした。

 だがそれは無理に捻出するのだ、寧ろ捏造するのだ、頭がいいのでそこまで判ってしまう。

 何だっていい、俺様の言葉だけが本当になる。

 手袋をはめなおして、俺様は空へ真っ直ぐに飛び出す、百の、千の、理由を超えて、自由な俺様は飛んでいる。俺様の飛びようは俺様が定義すればいいことだ、文句は言わせない。

 環七を二度通り越して高度を緩めたのは都電沿い、住宅のひしめき合う中にこのところやたらと高いマンションが混じるようになった、その足元に細長く横たわる商店街の、年代モノの百貨店? デパート? の一階が一弥の勤務先である。手塚老人に呼び出されたときに、既に一度来ている。

 一弥は居るだろうか。

 当たり前の客の顔して入っていければいいのだが、俺様は屋上からすいと天井と床を三度抜けて落ちて、フロアの蛍光灯と蛍光灯の隙間から覗き下ろした。ドラッグストアとしては中ぐらいの規模で、白衣若しくはポロシャツの従業員が全部で三人店内には居るが、一弥の姿はなかった。その代わり、一弥の苦手な副店長が居る。ドラッグストアの副店長よりも、営業主任なんて役職が似合いそうな、体格のがっしりした顔の大きい男だった。愛想よくお客に薬を勧めているが、見ている限り眼が笑っていなくて、嘘っぽい。

 ありがとうございました、勧めた薬を買って帰った客に、空虚な謝意の声を上げる。耳元で張り上げられたら鬱陶しい声だと俺様は思った。手招きでアルバイトの少女を呼びつけると、レジを彼女に任せて憮然とした顔になり、従業員控え室へ入っていく。

 片倉さん、という声が聴こえた気がした。

 一弥はやっぱり居るのだ。

 俺様は天井裏を移動して、ぬ、と控え室を覗き下ろす。

 青白い顔でスツールに座り、胸を抑える片倉一弥が居た。

「大丈夫? まだしんどいの?」

 言葉は優しいように思えるが、相応しい声の出し方というものがあろう。責めるような棘を隠す事無く副店長は一弥に言い放つ。

「……すみません、……まだ、ちょっと……」

「そう。まあ、無理してくれなくていいから。心臓だっけ?」

「……はい」

「まあ、心臓はね、止まったらまずい場所だからね、ゆっくり休んで」

 デリカシーの一欠けらもない言葉にも、すみません、ありがとうございます、一弥はかすかに震えながら頭を下げる。

 副店長が出て行って俺様を止める者は消えた。

「心臓って何だ」

 そのまんま降りていったら、びく、と一弥が目を丸くする。その顔は紙のように真っ白で、座っているのに、眼を開けているのに、貧血起こして昏倒しているかのようだ。左手を、ファスナーを少し開けた白衣の上から胸元に当てて、其の額には薄っすらと汗を滲ませて。

「……なんで……、もう……、え……?」

 あ、と一弥が心臓から手を離す、……数秒そのままの形で動かないから、本当に心臓が止まってしまったのではないかと、俺様は青褪めた、……ああ、うるさい、どうせこれ以上悪くなり様の無い顔色だ!

 ほう……、と一弥がゆっくりと長い息を吐く。

「……びっくりしたら収まった……。……何で? この間もう来ないって、言ってたじゃないかよ……。角折れてるけどどうした、大丈夫か?」

 両の掌で顔を拭う、嘘のように、一弥の顔に血の色が戻ってくる。

「……心臓って……、何だよ」

「ん?」

「心臓がどうかしたのかよ」

 俺様の問いに、一弥は「ああ」、小さく笑って、首を横に振った。

「何でもない、ちょっと動悸がしただけだ。……時々在るんだ、どきどきどきって、いつもよりちょっと早く打っちゃって、ちょっとフラフラするんだ。でもしばらく休めば治まるから、大丈夫」

 子供に聴かせるように、一弥は言った。その微笑みも、疲れてはいるが、優しい。そう言えばこいつは俺様に笑うようになったな、なぜか俺様はそんなことを考えた。初めて会ったとき、泣いていたその顔を、意識はしなくても当然俺様は、笑わせたいと思っていたのだ……。

「嘘をつくな」

 大丈夫な訳あるか、あんな顔色をして、脂汗を浮かべて、震えて、……心臓って。心臓って!

「俺様が潜れば、お前の考えてることなんて全部判るんだぞ……、俺様に隠し事が出来ると思ってるのか」

「いや……、別に、隠してるわけじゃないよ」

 ふ、と一弥は両手を広げて見せた。

「原因は判らない。中学二年からだったかな、時々、動悸がして。高校の頃になって治まって、まあみんなそうなのかなって気にもとめてなかったんだけど、でも、ここ二年くらいまた出るようになってさ。でも別に、そんなたいしたもんじゃないよ、じっとしてれば治るのはもう判ってるし、もう慣れた」

 一弥は平然と言った。

 嘘だ、と俺様はすぐに判る。

 笑顔も泣き顔も見た相手が嘘をつく顔を見抜けないでどうする。

「震えてたじゃねえか。……怖いんだろ?」

「まあ……。不安は不安だ、原因が判らないんだし、病院行って診てもらえばいいんだろうけど、そんな時間もお金もないし」

「そんなん、……お前」

「仕方ないさ」

 一弥は傍らのロッカーの上に置いた、緑茶のペットボトル、ぐいと一口煽る。色は一応緑茶だが、味気なさそうに彼は蓋を閉める。

「そうだ、それより……」

 一弥はロッカーを開ける。着替えが折り畳まれて入った奥から、大事そうにA4サイズの、妙にてかてか光る髪を取り出すと、俺様に向けて、それを見せる。

「勝手に使わせてもらった。……絵、下手糞だけどさ」

 A4の変哲の無いコピー用紙に、俺様が居た。

 ポスターカラーというのだろうか、ある種のマーカーでぐりぐりと描かれた俺様が、風邪薬の宣伝をして居た。

 俺様が丸文字で「効果的!」と言っている。俺様の足元に書かれた薬の名前に見覚えがあった、……俺様の風邪を治した薬だ。

「『POP』っていうんだ……、お前は知らないかもしれないけど、こういうドラッグストアとかスーパーとかでさ、安くしてるやつとかおすすめのとか、こういうので宣伝する……。この風邪薬、先月うちの会社で売上コンクールやってたから、俺が描いたんだけど」

 もっと上手に描ければ良かったんだけどさ、と彼は照れ隠しのように笑う。

「昔、さ。弟に、色んな絵を描いて見せてやってさ。あいつが喜ぶから。いっぱい描いてるうちに、まあ、そんな上達はしなかったけど、絵を描くことは俺のほとんど唯一の特技かもしれない」

 俺様は何と言ったらいいか、判らなくなって、ただ呆然と一弥の描いたPOPを見ていた。其れを『POP』と呼ぶことぐらい俺様だって知っている、どういう役割を果たすものかだって。

 単角、黒と緑の眼、尖った耳も、この紅いスカーフも、ソックスシューズも。

 俺様だった。

「もうコンクール終わったんだけど、捨てるに忍びなくって、取ってたんだ。……お前に見せられて良かった」

 くい、と一弥は俺様に向かってPOPを差し出す。「嫌じゃなかったら、持って帰ってよ」

「え……?」

「要らないなら、俺が持ってるけど」

 A4の変哲の無いコピー用紙には、太幅の、ラミネートテープとでも呼ぶんだろうか、それでコーティングされていた。てかてかしているのはそのせいだ。

 どこまでも透き通る純粋な、……それは俺様への感謝の気持ちだ、優しく真っ直ぐに、俺様の胸へと届く感謝の気持ちだった。

「ところで……、お前はいいのか? もう俺の前に来ないって、昨日言ったばっかりなのに」

 何とも言えないままの俺様に、一弥は問うた。

「……それとも、誰かに、何て言うか、呼ばれたのか?」

「それは……」

 口篭もる俺様のことを見上げて、一弥は微笑んでいる。本当に優しい微笑だと、俺様は思った。俺様に向けて、この男の抱いている感情を俺様は苦しいぐらい明瞭に把握できるのだ。この男は、今俺様と会えたことを、心から嬉しんでいる。

「違う。……ただ、……俺様は……、そうだ、弟が、またお前の処へ行ったんじゃないか、だから、……そのつまり、止められなくって」

「ああ……、うん、確かに来た。来たけど、……申し訳ないけど、無視するようにしてるよ。俺はだって、何言われたって戻る積りは無いんだし」

「でも……」

 辛いのだろう、言いかけた俺様に、一弥はいいや、と首を振る。

「お前が、……その、うん、お前の、……お陰で、まだ頑張れてるよ」

 す、と彼は視線を俺様から逸らした。

「……何でもいいさ。また会えて良かった、偶然でも、ありがたい」

 偶然なんかじゃない。

 言い張りたい気が咽喉元を突き上げた……。俺様はお前に会いに来てやったんだ、……心配だから、……そうだ、ああそうさ、俺様はっ、お前のことがっ、心配で心配で心配で仕方が無い!

 お前がまた泣いてるんじゃないか、お前が苦しんでるんじゃないか。

 これは仕事なのに、……オンとオフ、俺様は上手に使い分けることが出来るつもりでいたのに、事実そうやって二十七年間生きてきたっていうのに。

 ……何だ、心臓って何だ!

 あんな風に、震えて、怖れて、内から外から、お前を苛むもの、……苦しんでいるのはお前だけではないはずなのにお前以外にだって山ほどいるはずなのにたくさんのたくさんのたくさんの泣く子を悲しむ老人を癒してきた俺様なのに。

「……ぶどう……?」

 俺様は、お前が傷付くことが一番怖い。

「……お前は、恵まれた男だな」

 その苦悩を知っていながら、俺様は俯いて言った、少し、皮肉に唇を歪めて。

「……お前は……、決定的に不幸な人間じゃ、決してない。……いや……」

 はっ……、と俺様は、息を短く吸って、……はぁ……っ、吐く息は、揺れた。

「俺様が、お前を決定的に不幸にはしない、……したくない」

 ぶどう、と声を掛けられて、俺様は背を向けた。「また」

 俺様は浅いところで一度深呼吸を挟んでから、

「……またな」

 飛び上がって天井へ抜けた。

「申し訳ありませんでした、……もう大丈夫です」一弥が控え室から出て行くと、レジに居た一弥と同じくらい年の女性従業員―胸元に「薬剤師」と在るから、彼女も一弥の些細なストレスの種にはなっているのだろう―と副店長が一瞬目線を合わせる、その隙間に流れるものは忌わしいように俺様は思う、一弥はそんなものに気付かなかったふりをして「レジ、代わります」……ふと天井を見上げた。

 

 

 

 

 病気については詳しくない。俺様は空を飛ぶし人の心を読むけれど、全知なる存在ではない。そこへ持って来て、「心臓が悪い」と言われて、俺様はもうほとんど恐怖し切って居る。

 俺様にだって心臓はある、基本、人間と同じ内臓器官を持って居る。緊張すればどきどき走るそれ、恐らく射精の瞬間までは動き続けるであろう心臓、止まってしまえば俺様だって死ぬ。だが考えてみると、それが何故動いているのかということについて、俺様はほとんど何も知らないのだった。

 聞いた話では、体外に摘出しても、心臓自体は動き続けているのだそうだ。

 自分の身の中にあって、動き続けているのが当然のものが、自分の意志とは無関係にどくどくどくどく早鐘を刻む、……想像するだけで、俺様は鼓動が少し早まる気がした。

 片倉一弥はまさにその場所に疾患を抱えているのだ。それでいて、診断を受けたこともないし、そもそも診察を受ける金を持って居ない。不安を不安のまま抱えながら、来る日も来る日も生活のために働き、自然、空く腹をジャンクフードで塞いで、胃を削るような家族のストレスをどうにかこうにか遣り過ごし、時に泣く。

 考えては俺様の胎の底に降り溜まる暗い思いは、その日の帰り一件仕事をして得た毒を久一に吸い出されてもまだ俺様の中に残っていた。

 ビス子はまだ、帰ってきていない。夜の十時過ぎである。

「確かにそういう病気があることは聴いたことがあるよ」

 思い切って、俺様は久一に訊いた。もちろん、今日一弥の元へ言ったことは黙っている。先刻承知かもしれないが、俺様から曝露するような類の話でもない。

 俺もそんな詳しくはないけど、と前置きして、

「幾つかパターンくらいあったんじゃないかな。日常生活に支障のないレヴェルの一般的な不整脈なら、ほとんどの人が無自覚のうちに発症しているらしいけど、そうではなくて、もうちょっと危険な型のもね、あるって話だよ」

「危険な形の」

 俺様はさりげない風を装って訊いた。彼はうん、と頷いて、

「突然死の原因になったりするような。実際、突然死の何割かはその危険な不整脈が原因って言われてるね」

 死、という言葉がその口から発されたのを聴いて、俺様はほとんどもう、膝から力が抜けて、その場にへたり込んでしまいそうになった。どうにかそれを遣り過ごした時、俺様の中で薄っすらと答えが輪郭を定めつつあった。

「ところで……、さっきから気になってたけど其れはどうしたの?」

 俺様の変調に気付かないらしい久一が、俺様が左手に丸めて持ったPOPを指差す。俺様は「なんでもない」とだけ言って、布団に潜り込んだ。あくまで疲れたから眠るだけだと装って。

 夜半過ぎにビス子が帰ってきた。久一に毒を解き放って、彼女は冷たい身体で布団に入って来た。俺様はおかえりを言ってやる気も起きないで、ただずっと眠れないで、POPを抱いていた。

 ビス子は幾度か俺様の髪を撫ぜていたが、不意に「片倉一弥に会ったんだね?」、寝たふりをする俺様に言った。

「……まあ、いいよ、俺も今日、歩と会って来たし」

 俺様は、寝たふりを続けられなくなった。ビス子が俺様の手から、POPを抜き取ったから。

「ああ……、これかあ」

 ビス子は溜め息混じりにPOPを広げて、笑うでもなく怒るでもなく言った。

「ちっとも似てないよねえ」

 返せ、と言う力さえ湧かない。

「俺、片倉一弥を諦めてないよ。俺が、じゃないか。歩だね」

 ビス子は冷たい目をしてPOPを見て言う。

「何故……、そんなに片倉一弥を連れ戻すことに拘る」

「お兄ちゃんはどうしてそんなに彼に拘るの?」

「質問に質問で返すな」

 ビス子はじっと、愛らしい両眼を瞬かせながらPOPを見詰めていた。しばらく黙りこくって描かれた俺様を見詰めている。……確かにお世辞にも上手とは言えないが、それでもはっきりと俺様は其処に一弥の純な純な思いを観ることが出来た。一弥がどんな気持ちで、どんな表情で、俺様を描いたのかまで、俺様はかなり精確に読み取ることが出来るようだった。

「気付いたみたいだね、お兄ちゃん。あの男の心臓が悪いこと」

 種明かしをする手品師みたいな顔で、ビス子は言う。

「……ああ」

「あの男、放っといたら死んじゃうかもよ? お金もない訳だし、病院にもかかれないよね? そうなったら俺の『お客』も傷ついちゃうの、判るでしょ?」

 弟の客であるところの館町歩が、最も強く一弥の帰還を望むのだ。

 ……俺様は、自分がついさっきまで気付かなかった一弥の抱える身体の問題を、とうの昔にビス子が見抜いていたことに悔しさ以上の悲しさを覚える。

「でも、……それだけじゃないよ、うん。……そうだねえ、憎たらしいから、かなあ」

 ビス子が顔をほんのかすかに歪めて、……俺様が止める暇も無かった、POPを、ぐしゃりと折り曲げる。

「片倉一弥が、憎たらしいんだろうな、俺は」

 細い腕に在る全ての力を動員して、ビス子がPOPを握り潰していく。

 乾いた音が、自分の掌によって発されたのだと言うことを、俺様はまだ受け容れられないで居た。


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