08

 俺様の季節になったと、馬鹿が言ったので俺様は大層気分を害した。確かに街角八百屋の店先には幾らいつでも何でも手に入る世の中とは言えやはり季語、風物詩、ぴんと張った紫色の実を房にたくさん膨らましたその果物が籠に載って並ぶ。最近は紅い奴とか緑の奴とか、当たり前に手に入るようにはなったけれど、やっぱりそれは、ああ、確かに俺様の肌と同じ色をしているものが代表格というわけだ。

 しかし「ぶどうの季節」とは何だ、「ぶどうの季節」とは。

 腹を立てたら「そっかあ、やっぱりぶどうは自分のこと『ぶどう』って思ってるんだねえ」と笑いやがった。頭に来たので呼ばれても居ないのに塒を飛び出してふらふらしている。高まった空には乳清を撒き散らしたような雲が広がっていて、そこに焔の色した夕焼けが自らの光で季節を描き出す。

 相変わらず退屈な毎日である。

 退屈であるのはいいことだが、しかし退屈であっては困るのだが、現在のところ退屈してしまっている。俺様を呼ぶのは幼子と老人、日に二度三度ぽつりぽつりと。弱者が多く泣く世の中、……本当はもっと退屈な方がいいのだろうが、存在意義を自分で疑うのは悲しいではないか。

 弟は相変わらず多忙な毎日である。

 病蔓延するこの社会、時々俺様は人間でなくて良かったと思う。しかし人間という、病める生き物、悲しき生き物、そこにある種の魅力を見出すことが出来なければ、この仕事を続ける事だって出来ないだろう。人間になりたいとは思わないながら、その気持ちを理解することは、仕事に大いに役立つだろうとは思う。彼らにとっての悩みの場所である「社会」なるもの、俺様にとってはビス子と久一の居るあの塒程度の広さしかないのだ。

「お」

 北東から南西へ、空を駆ける弟と擦れ違った。

「おー、仕事?」

「いや、馬鹿が馬鹿なことを言ったので出てきた。お前はまたこれから?」

「うむ。……あのさあ、さっきね、八百屋さんの前通りがかったのね。そしたらさ」

「それ以上言ったら殴ってしまうかもしれないからとっとと行け」

 ちなみに去年も二人に同じ事を言われた俺様である。どいつもこいつも本当に失礼だ。

 子供らの学校は二学期の半ばに入り、中学生はそろそろ中間試験、……高校生もそうだろうが、生憎俺様を呼ぶのはせいぜい中学生までで、それ以上になると弟の管轄になる。「めんどっちぃのが多いよ」と弟は顔を顰めていたっけ。相手しないで済むのは羨ましいよ、と。「プライドと言うことばっか一人前でさあ、うっとうしいったらありゃしない」そういう少年少女たちの低年齢化が進んでいるのも事実で、……口車ぐるぐるぐる、寛大なる俺様も時にプツリと行きそうになるときもある。何が悲しくて小学生に「あんたにゃわかんねーよ」などと言われなければならないのだ。

 老人たちにとっては、紅葉を迎える時期はさほど気鬱にはならないだろうが、これから寒くなって、木の葉が枯れて散る頃にはどうにも無常なる季節と自分を重ねてしまいがち。とはいえ晩秋十一月には大相撲があるじゃん、暮れには紅白もあるし、一月にはまたほら、正月場所、それに年末年始のテレビは面白いのも多いよ、時代劇のスペシャルもある、だから長生きしねえと損だよって、無責任に俺様が言って回るのはもう少し先だ。

 俺様は季節の移り変わりと救済対象との接し方が斯様に変わるが弟はそうではない。要するに十代後半から五十代ぐらいまでの、特にこの街の人間というのは季節なんて気にしている暇はないのかもしれない。

 秋は寂しいものだ。それは夏の喧騒と冬の空寒さに挟まれて、どうしても針がマイナスに触れていく気がするからだろう。マセガキどもはいっちょまえに失恋なんぞして、それなりに傷付いて、……そういう対象が増える時期でもある。恋愛感情なんて俺様には無縁なもので「ふーん、それで?」……、そんな訊き方はないだろうと童貞の中学一年生に説教されたこともある。

 それにしても、今日は暇である。空をふらふら飛んで、また忙しいビス子にぶつかるのも何だか気まずい気もする、いつまでもむくれているのは子供みたいだという自覚もある、塒に戻ろうか、……久一はいざとなったら無視してりゃいいのだ。

 ふわり、身を翻しかけたところに、いん、と俺様の鈍感な単角に微弱な波長が引っ掛かる。それはか細く弱々しく、瞬き一回の間にもう見えなくなるほど頼りない。

 死を覚悟した、或いは圧倒的な絶望の中に在る、子供や老人の放つそれではない。もっと軽く、些細な、……しかしそれは、あくまで俺様の感覚にとっては。

 つまり、本来ビス子が拾うべき声である。だがビス子は先ほど、今の声とはまるで逆の方向へ飛んでいったばかりだ。

 既視感、或いは確信。

「……なんで?」

 俺様は思わず角の先を掴んだ。

 俺様を呼ぶように、もう一度、この掌の指の間をすり抜けて、もう一度、……確かに俺様の名を、……って、ちょっと待て、俺様の名前は「ぶどう」じゃない!

 だがそれは紛れもなく、片倉一弥の声だった。「声」を聞いたなら、後は本能が反応してしまう、呼ばれれば、行かないわけにはいかないのだ、俺様たちはそういう生き物だから。決してちょっと疲れたときの話相手などではない!

 本能に基づいて俺様は飛ぶ。どこかで夕焼け小焼けが鳴り出した、五時である。

 いつか、……もう随分前の気もする、ソックスシューズを取り戻しに行ったときに、これぐらいの時間に忍び込んだらあいつがちょうど帰ってきたところだった。ということは今日は早番だったのか。そんなことどうでもいい、どうでもいいのだが。

 見覚えのあるマンションが視界に現れた。

 呼ぶ声は、もう止んでいる。

 あの窓の向こうに片倉一弥が居るのだ。

「……俺様はそんな手軽な生き物じゃねーんだぞ」

 俺様は、十五メートル先の窓に向かって言った。

「本当に、……困ってる相手を、死にそうになってる相手を助けてやるために居るんだ……」

 しかし、今は片倉一弥以外、誰も俺を呼びはしない。

「何だってんだよ」

 十メートル先の窓に向かって独語して、……死にそうになってんじゃねーだろうな、ぞくり、襟足が粟立った。

「……もっと早くにビス子呼んでりゃいいんだ!」

 畜生、と舌を打って、俺様は窓をすり抜ける。明かりのついていない、薄汚れた匂いの、しかし既に三度入った事のある部屋の。

 卓袱台に右肘を付いた片倉一弥は、左手に便箋を握りつぶしたまま、ゆっくり俺様へと眼を向けた。

 生きている。

「……おう……」

 と彼が言うから、

「おう……」

 俺様も思わずそう答えた。つまらんことで呼ぶな他二十七つは在ったはずの文句及び苦情を瞬間、忘れた。くたびれきったような白い顔に浮かんだ青い隈、まだ膨らんだままの鞄の中には汚れた白衣が入っているはずだ。シャワーもまだ浴びていない様子で、何となく、みすぼらしい。

「……来てくれたんだな。……来てくれたんだな」

 二度、一弥は言った。

 俺様は憮然として、お前が呼んだんだろう、と唇を尖らせたくなった。

「お前に届くか判んなかったけど……」

 彼は笑った……、という表現は正確ではない。正しくは、「表情筋を操作して笑いの形に変えた」だけだ。

「呼んでみたんだ。……あの子じゃなくて、俺は……、お前と話をしたかった」

「『あの子』……、ああ、ビス子のことか。……どうして? あいつは優秀な俺様の優秀な弟だ、お前のことを俺様なんかよりもずっと上手に」

 言いながら虚しさを感じ始めたところで、一弥は首を横に振って「俺は、お前がいい」と、わがままを言うように、しかしきっぱりと、決然と、一弥は言った。

 びり、と俺様の中で何か、破れた。

「……お前は人の心が読めるんだったな」

「ああ?」

「……話すの、しんどいからさ、……代わりに読んでくれよ」

「お……、おう、わかった」

 どうもこの男は勝手が違うな、と思う。俺様を見ても少しも驚かないし、妙な言い方になるが何処か慣れたように見える。ともかく、言われるまでもなく俺様はそのつもりで居たので、彼の中へ潜り込んでみる。

 と、ざく、俺様の指先に深々と刃物の切っ先がめり込んだ。

「うあ、……いて……」

 思わず顔を顰めて手を引っ込めて、……近付こうとする者全てを排除するように張り巡らされた刃のバリケードが、銀色の光を全て外側に向けて入口に張り巡らされている。……何が在った……?

 おい、俺様だぞ、開けろよ。

 俺様は語り掛ける。

 お前が読めっつったのに、こんなんあるか馬鹿者。

 ……怒鳴り散らしたら、俺様の目の前で刃の砦は瓦解した。奥に向かってもう少し潜行する、……執拗に、性格の悪いポジショニングの刃物―あるものは果物ナイフ、あるものは針、またあるものは撒きビシのような格好をしていた―があちこちに散りばめられている。これは「自己防衛」だと俺様には判る。誰にも這入られたくない奥底を隠すために。深い傷を負い自らの閉じた心の中は、得てしてこういう性質の悪いものでとッ散らかっている。もちろん斯様に概念上の物を見ることなど、普通の人間には出来ない芸当で、だから一般的には「心を閉ざす」なんて言い方をされる。

 襲いくる刃たちから身をかわし、奥へと。

 俺様は鋭く危険な切っ先を向ける壁と相対する。おいこら、どうやって読めってんだ馬鹿! また毒づいてやろうと思った刹那に、俺様は丁度、人ひとり、いや砂糖菓子一人通れるほどの隙間があるのを見付ける。ぎらん、と銀の光がおぞましく美しく輝いた。

 間近に寄って見ると、それは俺様一人分の隙間だった。俺様の輪郭だけ切り取られ、俺様だけが、身を屈めることも捩ることもなく、するりと歩いてくぐり抜けることが出来る。

 これでは仮にビス子を呼んだところで、あいつはここで立ち往生してしまうだろう。あいつは俺様よりほんの少し背が小さいが、こめかみから生える双角があり、ならばと横を向いてすり抜けようとすれば、短いがしっかりとした尻尾と、あくまで「それなり」にだがそれでも「それなり」に、このところ膨らみ始めた乳房がある。

 服の輪郭までぴったりと合わせて、俺様は針の壁をすり抜けた。ようやく深部である。

 そして俺様は思わず腰を抜かす、いや、抜かしそうになっただけだ、抜かしてなどいない!

 だが、

「おあっ」

 そんな声を上げてしまったことは、認める。全身の毛穴がぷつぷつと開いた。俺様など踏み潰されてしまいそうなほど大きな、大きな大きな、……小山のような、

「お兄ちゃん」

 それは、そう言う。

「帰って来て欲しい、ずっと、待ってるから。お兄ちゃんが帰ってきてくれるって、信じてるから」

「ビス子……!」

 それは、俺様の弟だった。

 恐ろしいほど巨大化しているが、見間違えるはずもない、俺様の弟だった。

「お兄ちゃん」

 おにぃちゃん、おにぃちゃん、……彼の声が無限大の空間のどこかでこだまする、おにいちゃあん、おにいちゃあん……、幾度もどこかでぶつかって、交じり合って、やがて音ではなくなる。

「帰って来てくれないと、『僕、寂しくて、辛い、よ』」

「何だこれは」

 思わず、俺様は口走っていた。目の前の片倉一弥はくったりと笑う、しかし、それもやはり上辺ばかりのもの。

 一弥の心の深部で、俺様はやっと「お兄ちゃん」は俺様に向けられて発される言葉ではないのだということに気付いた。すると、ぐにゃぐにゃと、ビス子の輪郭が潤んだように波立って、朧に壊れて、会ったことのない少年の姿になる。

「……お兄ちゃん」

 少しく慌てたが、一弥に弟が居たことをすぐに思い出す。随分と年の離れて、幼い、……いま中学一年生ぐらいかと片手間に記憶を辿って、九つ下だからこれでも中三と気付く。

「どうして帰ってきてくれないの?」

 少年の顔は一弥に少し面影が似ている気もした。しっとりと耳までの髪は黒い、ぱっちりとした目だが、それでも少し暗い印象の表情、言ってしまえば少しオタクっぽいということになろうか。

 俺様の胃の辺りに、嫌味な苦いものが生じ、ちくりと針状の痛みを与えた。さっき、そうだ、ビス子は俺様と擦れ違って……。

「僕、お兄ちゃんが帰ってくるのをずっと待ってるんだよ。……まだ、やり直せるよ、みんなで仲良く暮らしていけるよ。お兄ちゃんが居ないと……、寂しいよ」

 不意に、かさり、ぐしゃぐしゃ、ぐしゃ、そんな音を立てながら、一弥の弟の身体は、まるで紙くずのように捻られ搾られ「おにい」言葉の「って、るよ」断片を「く」まだその身体の何処からか、発する。

 俺様は顔を上げた。一弥は疲れたような形而上の笑いを、白い頬に貼り付けているばかりだ。

 俺様の問う処は判ると、彼は頷く。

「……あれから、何度か、来たよ」

 彼の左手には便箋が握り潰されている。弟からビス子が託された手紙だと、俺様にはすぐに判った。

「ビス子が……」

「うん。三回か四回か、……その度に、歩の書いた手紙を持ってくるんだ」

 片倉一弥は、また家族のことで悩んでいるのだ。

 弟に「帰って来て欲しい」と請われているのだ、執拗に。

 意地を張っているのではない、素直になれていないのではない、単に苦しいのだ。自分を虐げた存在、自分の人生を歪めた存在、それら全てを赦せと言うのか、ずっとずっとずっと守り育てて来た、あの男よりもずっと「父親」だった俺に、赦せと言うのか。

 だが、弟がどれほど傷付いているかということぐらい、一弥には判ってしまう。父親の代わりに守り育て、父親よりも側に居た。弟の気持ちは一弥が最も良く理解出来るのだ。男同士の兄弟としては、珍しいぐらいに兄は弟を大事にしていたし、弟は兄を慕っていた。年の離れていることも無関係ではなかったろうが。

「なあ、ぶどう」

 一弥の呼び方にも、今は腹を立てないで居た。

「俺は……、わがままかなあ? いや……、わがままじゃないって自分で判っててさ、……しょうがないことだって、判ってやってるんだけどさ、でも……、なあ」

 一弥は目を閉じる、

「誰かに、認めて欲しいんだよ。……俺は間違ってないって、おかしくなんかないって……」

 守り育てて来た弟が居る。

「ビス子には、俺様が止めるように言い聞かせておく」

 俺様は言った。

「こんなの、ルール違反だ。……俺様たちは俺様たちを呼んだ対象に甘味を与えて癒せばそれでいい、……逆に言えばそれ以上、してはいけない」

「……歩が頼んだんだよ、きっと。あの子はただ、歩のことを思ってくれただけだろう」

「同じことだ」

 俺様は、怒っているのだろうか、それとも、悲しんでいるのだろうか。仮にそのどちらかだとして、……何に対して?

「一弥」

 手袋を外し、指を差し出した。「……季節物だぞ」

 一弥の顔の前へ、右の手を垂らす。人間には毒々しいと言われたって仕方がない色の膚、色の爪、だが俺様がどう思おうと甘味は詰まっているのだ。

 一弥は素直に俺様の指を舐めた。舌を伸ばして……、ひと舐め、ふた舐め、したところで、しっかりと両手で俺様の手首を掴んで、しゃぶりついた。左手でその少し汚れた髪に触れる。くたびれきった体の奥底へ俺様の甘味が流れ、わずかずつ吸収され、少しでも力となれればと、……他の誰に舐めさせるときと少しも変わらず、俺様は願う。

「ごめん……、……ありがとう……、な。忙しいだろうに、わざわざ……」

 一弥はティッシュで俺様の手を拭きながら、謝る。

「別に……、忙しくなんかない。俺様は大体……、暇だからな」

「そうなのか……? ……あの子、お前はすごく忙しいって言ってたけど」

 ビス子。

 迸りかけた言葉を飲み込んで、俺様は手袋をはめた。一弥は僅かながら、しかし確かに、力を取り戻した表情で

「なんだか、お前が元気じゃなくなっちゃったみたいに見えるな」

 と申し訳無さそうに笑う。

「お前は……、どうするんだ?」

 問いに、一弥は首を振る。

「どうしようもないさ」諦めも含めたその言葉には、まだ苦味が残っていた。「だって、……やっぱり俺は戻れない、どうしても……。あいつは早く俺のことなんて忘れて、……向こうで幸せになれるんなら、なればいい」

「だけど、お前の弟はお前が帰ってくることが幸せだって信じてんだろ?」

「信じるのは……、自由さ」

 振り切るのには、悲しい力が要るようだった。

「ただ俺は……、もう、二度と、あの男の顔は見たくない。見たら……、殺しちゃうかもしれない」

 お前には判るだろう、と一弥は俺様の眼を見た。俺様は頷くほかない。この男が幼い頃、どれほどの悲しみの中に在ったか、そして遊びたい盛りの頃、全てを捨てて家族のために働くことを強いられたか、俺様は既に知っていた。その上母親も弟も、その男に奪われたのだ。

「そう、か」

 俺様はぽんと一弥の頭を撫ぜた。「じゃあ……、頑張れ」

 うん、と一弥は頷く。苦味で出来たようなその身の中で、俺様の甘味がどれほどの力を持てるのか、俺様は悔しいことに全く覚束ないのだ。ひょっとしたらまたビス子は弟の手紙を携えてやってきて、この男の苦しみを生み出してしまうのではないか。……そしてこの男は優しいものだから、やがて折れて弟のもとに戻るのではないか。一弥が恐れるのはまさにその点だ。弟の元に戻る、父の元に戻る、しかし永遠に赦せる日は来ないだろう。しかし最早、弟のため母のため、毒を放つことは赦されず、貝のように心を閉ざしてただ耐えることが強いられる。今はそれなりに円滑に回っているはずの「家庭」の調和は、戻った一弥が黙って居さえすれば、今後も保たれるはず、そしてその場に組み込まれた一弥は自らそれを壊すだけの残酷さを持ち合わせてはいないのだ。

 それを「我儘」と呼ぶのはあまりに酷いと俺様は思う。

 不条理に虐げられた子供の気持ちは、彼らと接している俺様は誰より判っているつもりだ。赦せるならば赦してしまうのが当人のためになるとは思う一方で、赦す行為に心が捩れ壊れそうに成るのを嘆くことすら、狭量だなどと誰が責められる?

「俺様はお前のことを認めてやる」

 俺様は言った。やけに、性急に。

「お前がわがままじゃないことを、……人一倍苦しんで、でもって、頑張ってることを、俺様は認めてやる。他の誰かがお前のことを悪く言っても、俺様だけは、……ちゃんと、判っててやるからな。他の誰も届けないお前の心の中まで俺様は入ったんだ、お前のことを一番よく理解してんのは、この俺様だ」

 目を閉じろ、と俺様は言った。「いいものをやろう」

 一弥は素直にそうした。

 身を屈めて、俺様は一弥にキスをした。そのまま、思い切り舌を捩じ込んで―苦い―ただ俺様の―苦い―甘味を―苦い―生きる力を―苦い―この男に分け与えるために。

 唇を離した、……苦いッ……!

「……ぶどう……、おま、え……」

「お前は……、毒のような男だな! どんだけ苦いんだ!」

 水を飲む、とフラフラ流しに向かったが、流しには今朝か夕べか其の前からか判らないが汚れた皿が溜まっている。慌てたように一弥が立ち上がり、冷蔵庫から「甘いものなら……」当惑顔で取り出された紙パックのカルピスを其の手から引っ手繰って、一息に飲み干した。

「全部飲んじゃったのか……? ……原液を?」

「仕方ないだろ! だって……、すっげえ苦かった!」

 思い出して、……まだ舌がビリビリするような気がした。

「ぶどう……、あの……」

 一弥の困惑しきって居る理由は判る、……一弥は男だし、俺様も何処から見たって男の外見だ、というか、実際男である、言わんとしている処はちゃんと。

 だが「……下らんことを気にするな。甘かっただろうが」、俺様はぽかんと開いた一弥の口を指差した。

「ここまでしてやったんだからな、簡単に負けたら承知しないぞ」

 しばらく呆然と、彼は俺様の顔を見ていた。まじまじ、まじまじと。人の顔に穴を開ける気か。

「……お前、今、のっ、……俺ッ、……ファーストキスだ!」

「あ?」

「……俺のっ……」

「ああ、そりゃあ働くので忙しくてそういうことする相手も居なかったんだろうしな。別に気にするこたーないだろ、お前が童貞なのも俺様は知っているんだからな」

「そっ」

「そ」のまま一弥は固まって、しばらく動かなかった。心の中を覗くまでもなく、男とキスを、……その生涯最初のキスを、してしまったことに彼が硬直していることは俺様にも判る。

 しかし、俺様が一弥のためにしてやれることといえば、指を舐めさせるように、この身の甘味を少しでも与えることだ。断っておくが俺様はビス子のようにそんじょそこらの誰とでもキスをする訳ではないぞ、そもそも俺様にキスして欲しいとせがむ相手などいるものか。

「……ぶどうの味がするんだな」

 困ることに飽きたように溜め息を吐いて、手を広げて彼は言った。

「……俺様は『ぶどうのおばけ』だからな」

 むっと唇を尖らせて、しかし俺様は言った、「そしてそんじょそこらの八百屋の店先に並んでるようなぶどうじゃないぞ、百パー純性果汁のぶどう様だ、どうせお前は貧乏だから巨峰なんて食えないだろう。だから俺様が食わせてやったんだ、感謝しろ」我ながら、俺様っていいやつ、本当にサービス精神旺盛ないいやつ。

「ああ、……ええと、……ありがとう」

「ふん、俺様は俺様の仕事をしたまでだ、別に感謝される謂れなどないわ」

 その言葉に内心、ちょっと、かなり、嬉しいのは事実だが、それを表情に出さない才能が俺様にはあるはずだった。

「じゃあ、俺様は行くからな。……もう一度言うが、俺様は滅多に誰かにこの口の、舌の」

 深紫の舌をれ、と出して見せて、

「味を教えたりはしないんだ。だから事の重大さを真摯に受け止めると共に、もう俺様を呼んだりすることなく頑張れ。判ったか」

「もう……、会えないのか?」

「会えない方が幸せと思え。お前が頑張れている限り、そして不条理な痛みに苛まれん限りは、俺様は二度と現れない。……言っておくが、自傷的にクヨクヨしたところで俺様の角には引っ掛からんからな」

 というか、本来お前のようなやつの処にはビス子が行くはずなのだ。

 何故俺様が呼び声に感応して来てしまったのか、俺様にはまだ判らない。そもそも「この程度」と言っては何だが、実際これ以上酷い状況に陥っている若者だって居るはずで、だから俺様はまず俺様が呼ばれてしまったことにも疑問を抱いている。

「弟にはきちんと俺様が、馬鹿なことをやめるように言い聞かせておくから心配するな。……じゃあな」

 あ、と思った。俺様よりもずっと大きな身体は、去り際に俺様のことを後ろからぎゅっと、拘束したのだ。

「わう! こら! 何してんだ!」

 一弥は「ありがとうな」と言った、「ありがとう……」二度、三度、繰り返して。

「……言っただろ、仕事をしただけだ」

「だけど、俺は、……うん、頑張るよ」

 ぽん、と弾みをつけて、一弥は俺様を離した。振り返った顔は、もう自然な笑顔だった。

「約束する、もうお前を呼んだりしない」

 小指を立てて差し出されて、一瞬何だか判らなかった。俺様にその苦そうな指を舐めろと言っているのか、……口を寄せる前に、俺様はやっと自分の小指を出して、絡めた。

「ごめんな」

 そして、

「さよなら」

 と彼は言って、指を解いた。

「おう」

 俺様も、一歩窓辺に進んだところで、もう一度振り返って、

「……元気でな」

 頷いた、その笑顔がご馳走だ。

 ビス子と久一、もとい、久一以外の誰かに、あんな風にぎゅっとされたことはない。まだ俺様の、露出の多い肌のあちこちはじんわりと温かい。一思いにヴェランダから空に飛び出すと、釣瓶落としの陽にもうすっかり冷たくなった風があっという間に俺様の身体を冷やしてしまうのが、何だか辛く惜しいように思えた。

 肌が冷えるにしたがって、心も少し冷たくなる。

 ……何をしているのだ……。

 俺様の弟が、……優秀な砂糖菓子のビス子が、よりにもよって、傷を生み出す手助けをしているなどと。何かの間違いに決まっていると一蹴出来たらいいが、俺様が一弥の閉ざされた心中で見たのは紛れもなくビス子だ。あいつは一弥の弟と、「結託」と言っていいのか判らないが―一弥の弟がそれを望んでいることは明白だが―一弥を、彼にとっては痛みを生む場所でしかない家に連れ戻そうと蠢いているのは疑いようのない事実らしかった。

 一弥から受け容れた痛みを吸い取らせたら、久一が言った。「おや珍しい」

「何がだ」

「ふたつ。まずひとつは、お前が誰かとキスをするなんてねえ。お前の唇は俺だけのものだと思っていたんだけど」

「勝手に人の身体の所有権を主張するんじゃないッ。……仕事のためだ、文句あるか」

「滅相もない。ただ珍しいと思っただけ。そしてもう一つ」

「……なんだ」

「ビス子に腹を立てているんだねえ」

 きっと睨みつけることで俺様は認めてしまった。

「あんま喧嘩しちゃダメだよ? お前もビス子も、俺の可愛い可愛い砂糖菓子なんだからね?」

 喧嘩の理由も訊かずに、久一はさっさと居なくなった。先刻承知なのだろうか、だとしたら何故、ビス子を叱らないのだろうか。

 いずれにせよ、ビス子には言うべきことを言ってやらなければいけない。ビス子の帰ってくるのを待つ間、やっぱり俺様を呼ぶ声は無く、一方でビス子の帰りはいつも通り遅く、だから退屈に任せて心を落ち着けるにはもってこいの余白があった。

 こういうとき、苦いことを考えるよりは、楽しいことで胸を満たして居た方が得だろう。塞いでしまう心は、ついつい内へ内へベクトルが向かってしまう。しかし自分の中なんて覗き込んだところで、別に心踊る楽しいことがたくさん在る訳でもない、考えるだけ損である。

 たくさん「ありがとう」と言われた。

 思い返すと、心のささくれは少し寝る。

 俺様がいいやつだからだ。

 だが、ちゃんと素直に礼を言う、あいつもいいやつだ。それはちゃんと俺様も、認める。そして、だから、あいつは苦しまなくていい、頑張ると約束した、あいつがきっと頑張れるであろう事は、俺様は十分に信じられる、……其処まで考えて俺様はまた、ビス子のことに考えが及びそうになって慌てて止める。

 ファーストキスがどうとか言っていたっけ。

 俺様のファーストキスは久一だった。「甘いね」と、奴は微笑んで、「いつか苦しんで困ってる人を見て、……本当に心からその人のことを救ってあげたいって思ったときには、こうしてお前の一番の甘味を、その人に分けてあげるんだよ」と言った。俺様は一弥にキスをすることに躊躇いは無かったが、しかし、……乙女じゃあるまいし処女じゃあるまいしだけど童貞か、ファーストキスがどうとか。俺様は少しあいつが滑稽に思えた。

 遠慮してやったほうがよかったのだろうか。

 いや、あの後の笑顔を見れば、俺様はやっぱり正しい。

 それにしても、苦い口の中だった。思い出すだけで耳の下が焦げそうだ。あんな味をいつでも口にしているのだとしたら、さぞかしと思う。

 恐らく人間というのが須くああまで苦い思いを日々して生きているものではなかろう。大多数は時たまで済んでいて、俺様たちのような存在に触れないまま過ごすのだし、一部のけしからぬ、恵まれた連中は不条理な痛みなどとは生涯無縁で生きていく。しかし人が人の間に生まれるというそれだけで既に物理的な摩擦が生じるのだ。社会の、人間関係の中に組み込まれれば、「しょうがない」では済まされない痛みの、猖獗を究めることは想像に難くなく、幾割か―少ないことを、俺様は望むが―が一弥のような苦い口中をしているのだろう。

 彼らの傷を癒すのが仕事、もっと言えば、存在理由だ。それなのに、新たな傷をその手で生み出すなど。

 ……結局ビス子のことに戻ってしまった。

「兄者、何をそんなところで眠っておる」

 待ちくたびれてフローリングの上で寝てしまったことにも驚いたが、それ以上に驚いたのは、俺様が責めたらビス子は少しも悪びれる様子もなく、

「俺は、それが必要だと思ったからしてるだけだもん」

 と抜かしたこと。

 思わずその眼を覗き込んで、

「……正気か?」

 近付きすぎた唇に、キスをされて、

「もちろん」

 さらりビス子は言って退ける。

「……そっかー、あの『お兄ちゃん』はまたお兄ちゃんのこと呼んじったかー。……ったく器用なことするよなあ、俺に引っ掛からない声でわーざわーざお兄ちゃんのこと呼ぶなんて」

 ちえ、とビス子は唇を尖らす。

「……あんな事はもう止めろ」

「あんなことって?」

「とぼけるな。……片倉一弥の元へ弟の手紙を届けたり」

「俺の口から『戻ってやんなよ』って説得したり?」

「そうだ! お前、自分のしてることの意味判ってんのか?」

「判ってるよ、百万も承知」

「だったら!」

「けど、これが必要なことなんだもん。俺にとっても、あなたにとっても、あの兄弟にとってもね」

 ビス子はくるりんと指を廻して、ころんと横になる、その頭の落ち着く先は俺様の膝の上だったりする。

「片倉一弥が家に戻ってこない限り、館町歩は永遠に嘆き続けるよ。でもって片倉一弥を永遠に苦しめ続けるだろうねえ」

「俺様たちの仕事は何だ、……お悩み解決人じゃないんだぞ、あいつら兄弟の関係はあいつらがどうにかする、俺様たちはあいつらが前向きに生きていけるように、ほんの少し背中を押すだけでいいんだ」

「でも、『お兄ちゃんが帰ってこないと死んじゃう』って言われたら?」

 ビス子は俺様の顔を見上げたまま、えへらと笑ってそう言った。

「あの子が死んだら、片倉一弥はどれだけ嘆き苦しむだろうね」

 俺様の気持ちを見透すかのように、ビス子の言葉は笑顔とは裏腹に鋭かった。

「そんな……、まさか」

「おやあ? 兄くん、そんな楽観的じゃいかんだろー、悲しみによる自殺者ゼロが兄くんの目標ではなかったかなあ?」

「それは……」

 んしょ、とビス子は起き上がる。

「大丈夫だよ」

 俺様の弟は、きっぱりとそう言い切る。

「片倉一弥は、きっと館町歩の所に戻ってくる。そして、……そりゃあ最初のうちはしんどいかもしんないけど、でも、きっとそのうち治るよ。『何で俺あんなに怒ってたんだろう』って気になると思う。喧嘩別れしてたってやっぱり家族は家族なんだしさ、他人にゃ理解出来ない絆だってあるだろうさ。きっと上手く行くよ」

 ビス子は俺様の首に纏わり付いた。

「俺とお兄ちゃんだって、見えない絆でぎゅーって結ばれてるじゃん?」

 俺様は、すぐには頷けなかった。「ねえ?」言われて、頷かなければいけないのだと思って、頷いた。

「お兄ちゃんは何も心配しなくていい。俺、頑張るからさ」

「……なんでお前ばっかり頑張んなきゃいけないんだ」

「そりゃあ、呼ぶ人が一杯居るから。片倉一弥みたいなの、俺の下にはいーっぱい、いるから。世の中が今より少し優しくなったら、こんな頑張んなくてよくなるんだけどねえ」

 ころんと、今度は布団の上に横たわって、「寝よ」とビス子が言う。俺様は黙って頷いて、その隣に横になった。

 何かおかしいな、と気付く。

 何をしているのかを、ビス子は極めて上手に隠しているのだ。もちろん一弥の弟、館町歩の傷を癒すために、一弥に手紙を書かせたり、その手紙をわざわざ届けたりしているのだろう。だが、俺様が一弥の中で見た、ビス子のイメージ、一弥を圧倒的な痛みと苦味とで圧迫する、あのビス子の姿。俺様は一弥のもっと深部まで潜ってみればよかったと少しく後悔する。何を言われたのか、何をされたのか、もっと読み取っておくべきだった。

「……お前は、一弥に何て言ったんだ?」

「あん?」

「あいつの中に潜った。……お前は、……あいつに、すごく、怖がられてるぞ」

 くす、とビス子は笑って、

「失礼しちゃうなあ……、俺、そんな怖い?」

 頬に指を当てて訊いた。ビス子が何かを隠しているのは明らかだったが、訊いたところで素直に答えるようには思えない。

 互い甘い肌をぴったり重ねて目を閉じながら、俺様はすぐ隣の弟が判らなくて、……この感情を、不安と呼ぼうか、寂しさと呼ぼうか。先ほどの一眠りが効いているのかもしれない、眠りが、遠い。

 俺様が考えてしまうのは、どうしても一弥のことだった。


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