ビス子の唄 後

 月が綺麗だと言ったら、歩はこっくりと子供のように頷いた。

「よく悲鳴上げなかったね、えらいよ」

 転げまわっていた鼓動をやっとのことで収めたばかりの歩は僕が髪を撫ぜても、ただ呆然と頷くばかりで、のろのろと僕を見上げるとやっとのことで、

「あなたは、なんなの?」

 彼は訊いた。

「……あなたは……、あの、……」

「びっくりした?」

 僕は悪戯めいた微笑みで返す。

「空なんて飛んだの、初めてでしょ」

 当たり前だ人間なんだから。

「俺は人間じゃないの。ほら……、見て、尻尾付いてるでしょ?」

 尻を向けて、スパッツのウエストから零している兄に比べてずっと短い尾を見せた。色は角と同じ象牙色で、先に向かって徐々に紺色のグラデが掛かっている。紺色は僕の両眼と同じ色だ。

「理不尽な痛みに苦しむ君のために現れた、天使、悪魔、妖精、でも多分、もっと、ずっと、イイモノ」

 まだ少年の身体はかすかに震えている。冷たいコンクリートの上に尻を落としたまま立ち上がれないのを見るに、どうやら腰を抜かしてしまったらしい。

 僕としたことが、焦りと興奮に任せて随分と無茶なことをした。だが、まだ収まってはいない。

「理不尽……」

「歩」

 ひざまずいて、視線の高さを合わせる、少年の目は強制白昼夢、貧血の中に未だ在るように、頼りなく揺れる。

「俺は……、君を助けに来た」

 ここからの言葉が少しばかり胡散臭くぎこちなくなるのは、こんな自分になるのが初めてだから、

「君の……、ためにね、俺は来た」

 そして彼の目に見える輪郭は真実の顔をしていたとしても、僕の目にはハリボテの嘘とはっきりわかってしまうから。

「……『お兄ちゃん』、ね、歩はお兄ちゃんと仲直りしたいんだね」

「……なんで?」

 痛みを覚えたように顔を顰めて「どうして、そんなの」

「俺は君のことなら何でも知ってるよ。例えばね、君が高いところにびっくりして、おしっこちびっちゃったのも知ってる」

 真ッ赤になって、泣きそうになった。僕は掌の上の獲物をいたぶる、肉食獣の気持ちを知る。

「俺は、君のために現れた、天使、悪魔、それよりイイモノ」

 同じ事をまた言って、僕は顔を寄せて微笑んで見せた。思わず強張った肩がおかしくて、歩の髪を子供にするように撫ぜた。

「話、聞かせてよ。……俺は空だって飛べるし人の心だって読める、歩、君のために飛んであげるよ」

 海は遠いのに、なぜか少し塩辛い風が吹いた。僕の髪先でくるんと跳ねて、去ってゆく。歩はまだ躊躇うように黙っていたが、やがて踏み切るように語り始める。

「さっきの、ね、……僕の……、お母さんと……、お父さんなんだけど、……僕が五つの時に、離婚して、でも、……去年、お父さんがいきなり戻ってきて『やりなおそうよ』って、もう昔みたいに乱暴したりしないずっと大事にしていくからって、約束するからって、……お母さん、それで、再婚するってすぐ決めて、最初は……、僕も嬉しかった。お母さんがずっと一人で働いて僕のこと、ずっと……」

「いいお母さんだよね、看護婦さんだっけ?」

「うん……、そんなことまで判っちゃうの?」

「もちろん。……続けて?」

「……お母さん、喜んでたし、……だから、お父さんがまた戻ってきて、昔みたいに一緒に暮らしていけるって……」

 でも、と歩は言葉を止める。確かすぎる憂鬱の影が、その愛らしい目許を過った。

「……『お兄ちゃん』?」

 僕が手を差し伸べると、頷く。

「お兄ちゃんが、帰ってきてくれない」

 ぽつり、言ったきり、歩はまた黙りこくってしまった。僕も、既知の知識、しかしそれ以上の理由で強いて言葉を引き出そうとはしなかった。

「あの、僕は、小さかったから」

 ほんの少しの弁解が口調に混じった。「お兄ちゃんが、……僕の知らない、覚えてないところで、どれだけ苦労したか知らなかった。高校入る前から毎日アルバイトして、……頭も良かったんだよ、運動も出来たし、でも、部活も勉強もする時間ないくらい、遊びに行ったりもしないで、大学も諦めて」

 この子と、この子の兄との間には九つもの年の差がある。兄が十代の半ば以降、歩が間もなく重なる時間のほとんど全てを費やして、家族のために働いた。その姿を、歩は見て来なかった。「そんなことより、……なんでウチはこんななんだろ、こんな風なんだろって、つまんなかった」幼かった少年は、自らその気持ちを理解するに至れば兄へかけたい言葉が溢れて止まらなくなる。

 そこに、父が戻ってきた。経済状況は一変する。父は家庭内での態度はどうあれ、月収は彼女の母の稼ぎに実家からの仕送りを加えたものの軽く倍を行く。父の暴力的な振る舞いは一応治っていたし、記憶の奥底に在って、今はもうほとんど朧になってしまった「団欒」というものを、歩は新しく塗り重ねてゆく。

「……だけど、お兄ちゃんは帰ってこないんだ?」

「僕のせいだ」

 歩はきっぱりと言った。

「僕が、何にも知らな過ぎたから。お兄ちゃんがずっとしてきた苦労の少しだって僕は知らないで、……お父さんが帰ってきたよ、お兄ちゃんも一緒に暮らそうなんて簡単に言って、……お兄ちゃんがそれを渋ったから、苦しくって、悲しくって、だから」

「ひどいこと、言っちゃった?」

「……『いつまで引き摺ってるの』って……」

 なるほど、と僕は思う、それは余りに残酷だ。

 兄は弟を母を守るために人生の半分以上を棒に振ってきた。そうするほかない状況に追い込まれたからしたのであって、どんな言葉で自分を納得させようにも「俺の自由選択による人生じゃない」という思いをずっと言葉にしないで隠し持っていたはずだ。内心のどこかで感謝を求める思いが在ったって誰も否定は出来ない。

 そこへ、諸悪の根源である存在が戻ってきた、自分がずっとずうっと守りつづけた大切な家族たちは、呆気なくそちらへ靡いた。

 自分だけ物分りの悪い、我儘な、家族団欒への障害と定義されて。

 歩はまた黙り、悔やむように俯いた。僕はその苦味が彼の身体の隅々まで行き渡るのを待ってから、訊いた。

「歩は、どうしたい?」

 既に答えは知っている。ただ僕は、彼の感情に火を点けるために訊くのだ。

「……『お兄ちゃん』に、帰って来て欲しい?」

 躊躇いがちに、一度頷いた。

 力を篭めて、もう一度頷いた。

「そっか、……そうだよなあ……。俺にもお兄ちゃんいるけど、……お兄ちゃんって、いいよね」

 歩は僕の顔を見る。

「お兄ちゃん、居るの。可愛いよ? まあ、普通の人間から見たらちょっとグロいかもしんないけど、優しくって、素直じゃなくて、ちょっとバカでね、大人ぶってるけどちっとも大人じゃなくって、寧ろ俺なんかよりもガキっぽくって、……でも俺はお兄ちゃんのこと大好き」

 歩も、そうなんだね、僕の言葉に、小さく。

「うっし、じゃあ、判った」

 平たい胸をトンと叩いて、僕は立ち上がる。不慣れな遣り方で、僕はしかし、ふわりと浮かび上がってその顔の前に小指をそっと差し出した。

「このビス子たんに任せなさい、俺はきっと君の願いを叶えてあげる、君のお兄ちゃんをあなたの傍に、この家に、連れ戻してあげる。大丈夫、ちょっとへそ曲げてるだけだよ」

 僕のキスの味、覚えてる? 憮然と、しかし真っ赤。

「俺は、誰より甘い砂糖菓子、人の冷たく苦くなった心を癒してあげるのが仕事。この俺の甘味に掛かれば君のお兄ちゃんだって」

「お兄ちゃんとキスするの!?」

「ん、ま、まあ、そうだね、しないでおく方法も考えよう」

 一瞬の、ベクトルのおかしな嫉妬に触れて、僕は少し可笑しいような気になった。その気持ちが、妙に理解出来た。うん、そうだね、『お兄ちゃん』は大事だよね。

「……ゆびきり。歩のために頑張るよ」

 彼はまだ猜疑心の全てを消したわけではないらしかった。

 しかし、僕の差し出した小指に、案外に温かい指を絡めた。

「お母さんが仕事から帰ってくるまで、ちゃんと留守番してんだぞ」どうして、遊びに行きたい、唇を尖らす子の頭をぐりぐりと撫ぜて、小指を差し出して「その代わり今度の日曜は遊びに連れてってやるから」、しっかりと絡めた約束は違えられることはなくいつも叶えられた。

 ……片倉一弥はそういう兄だった。

 僕は歩の記憶から指を離す。

「じゃあ、俺は行くね。また来るから。……俺は携帯もパソコンも持ってないけど、歩が辛いと思った時には必ず駆けつけるからさ、でも、歩が辛いって思う前に君のお兄ちゃんを連れ戻せたら、それが一番いいよな」

 まだ信じきられてはいないが、「信じて」と僕は言わなかった。僕は僕のためにそうするのだ、歩のためでも、もちろん片倉一弥のためでもない、ひょっとしたら兄のためでもないのかもしれない、寧ろ開き直って、此れは僕のためだ、僕自身の愛情に基づいてするのだと思ったほうが、気持ち良い。

「んじゃね」

 僕は透き通った秋の夜空に向かって飛び立つ、身体が妙に火照っていて、……まだ興奮しているのだ、子供のように。

「今宵の仕事はこれにて終了」、最後に今一度、ビスケットたんは騙る。兄の鈍感な角にも、僕の双角にだって引っ掛からないほどの些細な痛みを貪って、僕は騙る。


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