通りがかったのは偶然である。僕を呼ぶ者は東京都二十三区、ばらばらに散らばっていて、例えば中野区に居た一時間後には墨田区に居て、その後にはまた杉並区なんて日常茶飯事で、一週間で二十三区制覇してしまう事だってある。兄がぼそりと「……最近千代田区行ってねえ」などと呟く、僕にはありえないことだ。
墨田区のとある町だ。スパッツがずれたままでもどうせ誰に見られるものでもないのだしと平気で飛んでいた僕は、呼ぶ声と声の合間に見たものが、音ならば耳元で鳴いた羽音、物体としてなら鼻にぶつかった砂粒のような。
何?
何に弾かれたのか判らなかった。ぴたりと動きを止めて、思わず周囲を見回した。午後二時半当たり前の街少し離れたところを市電がのろのろ走っていく。足元には、買い物に出てきた年寄りや学校帰りの子供らが行き交う。
何が引っ掛かったのか。もう一度、通りに視線を下ろした。そこは小さな商店街。レンガタイルの道の両脇には、昔ながらの乾物屋雑貨屋があるかと思えば、すぐ隣には真新しいコンビニエンス・ストアがあって、その向かいには今にも傾きそうな三階建てのスーパーマーケットがある。その一階の東寄りに、チェーン系のドラッグストアが入っている。
店頭に並べられているのは、ボックスティッシュ、ロールペーパー、キッチンペーパー、それから廉価な洗剤に二十三区指定のゴミ袋、籠に山積みにされたスナック菓子、珍しくもない品揃えだ。
少し汚れた白衣を身につけて、店頭商品の陳列をしているのが片倉一弥だということに気付いたが、僕を止まらせたのは彼ではない。彼が向かう籠にささった「POP」と呼ぶのだろうか、A4の用紙にポスターカラーで手書きされた値札である。
愕然とする。
僕の口は少しの間、ぽかんと空いたままだった。
紫の膚に紅い髪に稲妻型の単角、毒色のスカーフ、切り詰めた裾のデニムパンツ。
見るからに脱ぎ履きが面倒そうな、ソックスシューズ。
それは何処からどう見たって、僕の兄だった。その絵の巧拙はこの際置いても、見誤るはずの無い、兄の姿だった。偉そうに腕を組んで、その脇に書かれた吹き出しには「おすすめ!」と。何がおすすめなのかと見てみれば、セールの使い捨てカイロで、よく見れば兄はそのカイロを寒そうな腹に当てているのだ。
何だあれは。
暫し言葉とはぐれて、僕はただ呆然と思考すらも見失う。よろよろと、建物の中に潜り込みながら、
「何あれ」
口に出して言っても、答えはまだ出ない。身体の芯がすうっと冷たくなったような気がしながら、そっと天井裏から店内を見る。
片倉一弥の筆跡を知る。店内のあちこちに、店頭のものと同じ字体のPOPが貼付されている。
一際目を引くのは棚の端、風邪薬のコーナー、大手メーカーの品を脇に追い遣って拡大販売されているのは、どうやらこのチェーンのプライベートブランドのものらしい、馴染みの無い風邪薬で、豪勢に四列並べられている。
「風邪による発熱・のどの痛み・せき・鼻水に! 八種類の有効成分が効果的!」、そう高らかに謳っているのが。
僕の全身を駆け巡った感情を何と呼べばいいのか。
何と言えば、共感を得られるのか。
……片倉一弥は何をやっているのだ……。
「ああ……」
僕の唇から嘆きにも似た声が漏れる。視線の先、POPをしげしげと見ていた若い主婦が、手に提げた籠にその薬を入れる。冷却シートが既に籠の中に在る事を見れば、季節の変わり目に旦那が風邪を引いた、そんなところだろう。店頭の品出しを終えて店内に戻ってきた片倉一弥は、そのまま栄養ドリンクの棚で品定めする若い主婦に声をかける。
「お風邪のドリンクをお探しですか?」
営業とか接客とか、冠に付こうとも優しく「スマイル」
彼の微笑みは、僕も多分兄も見たことがない類のものだった。其れが意味するところは、単純に彼が僕たちを必要としていないということで、即ち彼の心は悩みから徐々に解放されつつあるのだということ、僕たちの仕事が上手くいったのだということ。
だが僕の催すこの不快感、身を翻してもう一度見る、僕の兄が「効果的!」と風邪薬の効能を謳う。
「ありがとうございました」
薦めるままに栄養ドリンクを購入して帰って行く主婦の後ろ姿に、片倉一弥は深々とお辞儀をする。そして、自作のPOPに視線を遣る。
その眼は何処までも優しい。
ぐつりと音を立てて、僕の中で何かが煮える。水面まで上がってぽこりと破裂した泡からは、瘴気のような毒の匂いが漂う。
「POPの効果、覿面じゃないか」
片倉一弥より少し年かさの、眼鏡をかけた白衣の男が彼の肩に手を置く。名札には「店長」と読める。
「キュアゴールドはコンクール品ですから……、注力したPOPを描くのは当然のことです」
兄が宣伝するPOPには「キュアゴールド三日分1490円」と太字で書かれている。
「実際、このPOPを置いてから数字がどんどん伸びてるんだよ。……この、なんだろ、ぶどうのおばけみたいなのは、どういう?」
「どういう……、……そう……、あの、この店のマスコットキャラクターみたいなものがあってもいいかなと思いまして」
「片倉さんが自分で考えたの?」
「いえ、そういう訳じゃないですけど……。インパクトがあっていいかなと思うんですが、……まずいでしょうか」
「いやいや」
慌てたように店長が首を振り、改めてPOPを見遣る。
「いいんじゃないかな。まあ、本部に何か言われるかも知れないけど……、片倉さんは何、マンガとかそういうの書く人?」
「え?」
「いや、さ、上手に描けてるから。ほら最近、そういうの描く人多いでしょ」
「ああ……、漫画は描かないですけど、昔」
店長の僕語は、入口から老女が入って来たことで中断される。馴染みの客らしい、片倉一弥は飛んで行って「手塚さん、こんにちは」、営業、接客、どちらをつけても頭がぐらつく、ピュアな微笑を浮かべて挨拶をした。
ビビッド・カラーを幾つも混ぜると、結局は灰色になる。僕は何とも形容しがたい不快感を抱えたまま、よろよろと店から離れた。片倉一弥が一体どういう表情で兄の姿をPOPに写し描いたのか、その心理には触れたくないような気がした、きっと僕の見たくないものが一杯詰まっているのだ。では僕は何が見たくないのか何を不快と思うのか。僕自身にも掴むことが出来ない。今は混ざりきって灰色一色になってしまった感情を因数分解して、元の配合を知るのは難しく思える。
兄にはこのことを絶対に黙っていようと決めた。言う必要も無いし、言ってメリットのあることではない、兄にとって久一にとって、僕にとって。兄が片倉一弥に対して、―それは僕に言わせれば相当に甘ったるい考え方だが―「ありがとう」と言われたことによって生まれる悦びを抱き、在ろうことか対象に惹かれていたことは明らかだ。そんなのってあるか、僕は乱暴な言葉を使いたくなる。たった一度「ありがとう」と言われたぐらいでコロリと行くのか、ならば僕はどうなるのだ、日毎夜毎男の女の前に裸を晒し、膚を重ね自らの中に鬱屈した欲を堆積させながら物の数としての対象を癒すことで仕事を続ける僕はどうなるのだ。
兄だって、僕や久一と共に居ることが幸せのはずなのだ。
それ以外あってはいけないのだ。「それ以外」を認めないから、僕たちはこういう身体の形をしている、愛情の結果放たれる精液であり奪われる処女が、そのまま命の消滅と、厳然と結びついている。死ぬことが悦びなどという法があるだろうか。
僕の身体を流れる血が熱くなって、この身体はその熱でバターのようにとろとろ融けそうだ。
あなたに、俺とお兄ちゃんの幸福な日常を壊されてたまるものか。
あなたの元に兄が現れることは二度と無い、そんなことは僕が絶対に許さない。あなたのしたことを見れば、兄はまた呆気なく動揺してしまうだろう。彼を悩ませることすら、そもそも許しがたい。あのひとは、僕と、久一と、共に在ることこそが、それだけが、唯一の幸せなのだ。そしてその幸福は一日でも長く、可能な限り持続させなければならない。
不安材料は全て排除しなければ。
そこまで思いを詰めて、溜め息を吐いた。
ただ、吐き出しきれていない、咽喉の辺りにまだ少し、塊が残っているように思う。無理に吐き散らかそうとして、少し涙が滲んだ。
上手ではない、決して、上手ではなかったあの絵、兄を描いたあの絵、兄はカイロを腹に当てたりしないし、苦いものは嫌いだから薬なんて飲まない。何がマスコットキャラクターだ、あんなもの。
呟きながら、僕は顔がぼうっと紅くなる、自分の考えていることの、余りの馬鹿らしさが恥ずかしくなったのだ。僕は兄に嫉妬している?
そんな馬鹿な。
だが、同じ相手と二度三度顔を合わせ、その相手から確かな感謝の情を贈られ、またああして形に残るやり方で影響を与え続けている兄は、しかし砂糖菓子としては鈍感な単角しか持たず、子供や老人を癒すのが関の山で、そもそも片倉一弥に出会う機会さえ与えられないのが本当のはずだ。
たった一度出会っただけの相手に、そうまでされた兄が、僕は羨ましいのか。
僕の方がずっと数多くの者を癒してきたというのに。僕はやめようやめようと思いながらも、片倉一弥がポスターカラーを何色も使って、あの下手糞な絵を描くときの顔を想像してしまった。想像して、益々腹を立ててしまった。兄の存在によって救われた心ならば、其れをそのまま認めてやればいいだけのことなのに、どうしてか、こんなにも、腹が立つ。何故片倉一弥なのか、何故、兄なのか、と。
この毒を、すぐに久一に吸い取ってもらいたい、しかし呼ぶ声はまたいつ何処で鳴るか判らない。今夜も帰るのは遅くなるのか、また幾つもの毒を抱えなければならないのかと思うと、正直気が重い。こんなささくれだった自分では誰も癒せないかもしれないと懸念するが、実際に呼ばれてしまえば平気に振る舞ってしまう自分が、僕は嫌いではないのかもしれない。
夜の七時を回った頃だ。
「僕が角に引っ掛かった呼び声に誘われて、行ったのは世田谷区、墨田区からでは少し時間が掛かった。変哲のないマンションの一室から発信された声はか細い男の子のものだ。もちろん僕が呼ばれたのだから、それは男の子といっても幼児ではなく、低くとも高校生以上の子に決まっていた、二十七歳の僕にとっては高校生だって可愛い男の子である。ただし僕はショタコンではない、少年の姿をした兄に萌えて萌えて大変だけれど、僕はショタコンではない」……、僕はこういう具合に物騙る。
七階の角部屋、ベランダから覗き込む、机に突っ伏しているのは耳に掛かるほどの長さの、しっとりとした黒髪の、どことなく華奢な印象の「男の子」、壁に制服が掛けられている、此処からバスで十分程のところにある、公立中学のものだ。つまり、「男の子」は本当に男の子、中学生ということになる。
傍らに立っても、顔を上げる気配は無い。或いは僕の存在にまだ気付いていないのかもしれない。少年は伏したまま、時折小さく震える。泣いているのだ。
「……大丈夫?」
大丈夫でないと判っている相手に向かってそう訊ねるのも馬鹿らしいが、大体僕はいつもそう切り出す。その耳に聞き覚えのない声に、少年は泣き顔のままがばっと顔を上げて、僕を見て声を上げかける。その唇に、
「君が泣いてるの、見えたからさ」
反射的に人差し指を当てて声を押し止める。
二重瞼、睫毛は長い、涙の気配が消えればそれなりに愛らしい顔をしているに違いない。もっとも、中学生の男の子にとって「可愛い」はちっとも嬉しくない言葉に違いなかったが。
ただ、僕はそう言ってやりたい気になった。掌に乗せた駒を見るような目で。
「……大きな声は出さないで。……俺は……、まあ、見てのとおり怪しいもんだけど」
だけど僕は緊張して居るのかもしれない。
いや、自分を騙すのはやめよう。僕は緊張して居る、大いに。不慣れなことをしようとしているのだから当然であっても、少し、悔しい。
僕はそっと、ぎちぎちに強張った人差し指を引く。
「君の心に傷を負わせるようなもんとは違うから、さ」
伸ばした人差し指を折り畳むのに左手が必要だった。
少年は怪訝そうに濡れたままの頬で僕の顔を見る、視線がこめかみの双角と先の尖った耳の辺りを彷徨うのは仕方が無い。僕は、す、は、短く深く鋭い深呼吸を一つ挟んで、
「はじめまして、……館町、歩ちゃん」
にこ、と笑った。微笑んで発した優しい声を自分の耳で聴いて、どうにか平常心を取り戻す。男の子なのに「ちゃん」付けで呼ばれて、少し気分を害したようだが、僕の角を見て、尋常ならざるものを当然のように感じているのだろう、何も言葉は発されない。こういうリアクションはいつもの通りで、言うまでもなく性欲で生きているような男相手が一番やりやすい。この子にそんなものが備わっていないことはその無垢な顔を見れば明らかだ、多分、ちんちんの毛だってまだ生えてないんだろう。
くるり、僕は部屋を見回した。彼の年が十四歳の中学三年生であること(これは正直驚きだった、一年生だろうと思ったから)、本、特にミステリを読むのが好きなこと、余り外に出るのは好きでないらしいということ、今は外しているけれど、傍らにセルフレームの眼鏡がある、割合にこざっぱりした部屋の中で、彼の心の中だけが散らかっているようだった。
壁にはクレヨンで書かれた猫や犬や人間の絵が張られている。中学生の部屋としては異質なポスターだ。
「これ、変?」
僕は双角を指差す。象牙色したそれを、難なくぱきりと根元から折り取って見せる。
「あんま似合わないかな」
彼一人が泣いている部屋に突如として現れた僕は文句の付けようのない不審者であり、その上訳の判らないファッションをしていたら、僕の第一印象は「変人」である。だが彼は仮令相手が変人であっても、反射的な軽蔑や差別をするような子ではないと、僕はそこまで読み取って机の上に飴細工を置いた。
「……あなたは、誰?」
「俺はビス子」
「びす……こ……?」
「本名はビスケット、だけど長いから『ビス子』って、俺のお兄ちゃんが省略して呼んだのが始まり、もう、ずっとずっと、ずっと昔のことだよ」
彼は僕が意図して発した単語に反応した。僕は表情を変えぬまま「どうして泣いてたん?」、その唇に、今度は強張らせないと意識しながらまた指を伸ばす。唇を右から左に辿ったら、彼は嫌そうに顔を背ける。ただ、彼の瑞々しい唇の、隙間にかすかな甘味は間違いなく這い入って行く、
「別に……」
だが、かたくなな表情をなかなか崩せない。
本当ならば、もっと落ち着いているはずだ。
もっと、ずっと、スマートな遣り方で慰めるはずだ。
ただ、僕はある種の焦りに駆られていた。
「いっ……」
嫌、と言う少年の抗いを飲み込んだ。ごめんねと謝りながらも、僕は狡猾にそれ以上を手にするためにの唇を奪った。
少年の華奢な爪が宙を引っ掻く。
吸い取った邪魔な理性は僕の舌の上、男の精液よりもずっと苦く、彼の耳はじっとりと紅く。
解放すると、歩は恐れ慄いたような、一方で、張り詰めたものの解けたような、鋭さが削れた眼で僕を見上げる。
僕の「仕事」はもう終わっている。
僕が与えた甘味は少年の血に溶け、その身を巡り、力を与える。一人で泣いているなんて馬鹿らしいと思い直して、それより明日も学校行かなきゃなんないんだからさっさと寝よう、あ、でも英語の課題やってないや。彼がそんな正常なリズムを取り戻すために、僕の舌は仕事をした。
「俺はね、……歩」
だが、僕は彼女の耳に、そうっと言葉を差し込む、僕が何度も僕に兄に繰り返して来た言葉が、僕の胃のあちこちに尖った角をぶつけて、痛みを味わわせた。
「俺は」
歩、と廊下から、疲れたような女性の声とノックの音がする。反射的に彼が立ち上がり、
「うるさい! ほっといてよ!」
僕すら思わず飛び上がるほどのヴォリュームで声を上げた。今のが館町歩の母親に違いない、そして、少し遅れてもう少し重たい足音が響き「歩」、低い男の声が聴こえて来る。
「……お父さんとお母さん?」
僕が囁いて訊くと、憎々しげに歩は頷く。
「……ケンカしたん?」
知っていながら訊いたら、彼は頷かなかった。
「この様子では、先の仕事で終わったと窓を出たところで、もう一度呼ばれていたに違いない」と僕はまた物騙る。ともあれ僕の此処に居る妥当性が証明された。しっちゃかめっちゃかに散らかった彼の状況は根が深く、僕にとっては大いに興味深いものだった。
「お願い、……ほっといて」
僕にではなく、ドアに向かって彼は言う、その唇はまた震え、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。傍らに立つ僕は、さざ波にぐちゃぐちゃに揺れながら、それでもはっきりと彼が内奥に抱える痛みを覗き込んで、読み取ることが出来る。そして一方では砂糖菓子として働く救護本能、もう一方は、二十七年も生きた者なら誰もが手にするであろう、狡猾な計算、二つながら抱えて、この迷いを、躊躇いを、どくん、どくん、鳴る心臓のスピードを、愉しむぐらいの心の余裕が僕には生まれつつあった。
「……歩、鍵を開けて頂戴」
母の願う声に背を向ける、合鍵を持って来い、などと父親が妻に命じる声が漏れ聞こえる。
「歩」
僕は拳を固めたその手を取った。
「こっち」
そのまま、ベランダへと続く窓辺へと導く。「逃げよう」
「逃げ……?」
「君と話がしたいんだ、君の悩みを俺に訊かせてよ。俺は君の力になれる」