ビス子の唄 前

 ビスケットたんは語る。

 どこに自分を置くかのスタンスが大事なのだ。「彼」の外側か内側か、それさえ誤らなければそう難しい仕事ではないと、僕は思っている。対象と、例えば膚を重ね唇を重ね「愛してるよ大好き」と、言葉にすることと素直にそう思うこととの間には大いなる溝が横たわっていて、僕はその溝の手前から口にメガホンを当てて、「大好きだよー」と言うのが得意なのだ。

 笑って言う「大好き」が欲しいと言うなら笑うし、泣いて言って欲しいなら僕は泣く。そのために存在してしまっているのだから、宿命などという大袈裟な表現も僕はしない。一日に何度も、何度も、何度も、……、対象の傷を癒すならば、いちいち心を削って居ては身が持たない。だからこの身体の少しも潤うことなく、僕は言ってみれば淡々と、其れをする能力に長けた優秀な砂糖菓子だ。

 と。

 格好つけて語るくらい、僕には出来るのだった。

 呼ばれても居ないのに現れた僕を見て、片倉一弥は戸惑ったように視線を揺らす。

「え……?」

 薄く開いた唇からはそんな間抜けな呟きが漏れる、「何で?」……。

 そう、あなたは呼んでいない。あなたの抱える些細な悩み程度では、僕は呼ばれたりはしない。単に、後をつけただけのこと、兄が特定の相手にのめり込むようなこと、あってはならない。

「さっき居た、ぶどう色のね、あれ、俺のお兄ちゃん」

「……ぶどうの……」

「そ。本当ならね、あなたみたいな若い男の人のところには俺が来ることになってるのね。だけど、どうしてかな、わかんないけど、……多分ちょっとしたアクシデントだねえ、お兄ちゃんがあなたの処に来ちゃった。でも、大丈夫だよ、今日はちゃんと俺があなたに甘い甘いものをあげるからさ」

 対象が男でも女でも、僕のやり方は変わらない。変えないほうが楽だし、それが本当だとも思う。段階を踏んで、指をすんなり舐めるなら其れで我が身の甘味を分け与えるし、それで満足しない―多くは男の―場合には、もう少しラディカルな遣り方を択ぶだけ。一日にキスをする相手の数、片手で収まらなくなる日だってある。

 それだけ傷付いている人ということだから、僕が暇なら一番良いのだ。

 だが、僕が要らなくなる日は来ないし、来て欲しいとも思わない。

「……そう、あなたは、家族に辛い思いをさせられたんだね」

 僕は、兄よりは男に好かれる顔に天使と呼ばれたっていいような微笑を浮かべて言った。兄の指を咥えたことがあるはずの男は、しかしまだ僕の指に唇を当てはしない。だから僕はそのまま掌をその髪に当てて、二度、するりするりと撫ぜた。栄養が足りていない髪の先は、少しぱさついていた。

「君、は……?」

「ですから……、あのひとの、さっきの紫色のの、弟。ビスケットたん。ビス子って呼んでいいよ」

 にこ、と僕は笑った。

 川のこちら側から、向こう側の人に笑った。

「俺たちがどんなモノかは、お兄ちゃんに聞いたでしょ? 悲しんでる人、傷付いてる人、真ッ当にしていても降りかかる理不尽な痛みを味わった人を癒すために、俺たちは居るの」

 天使でも悪魔でも、妖精でもいいけど、もっともっとイイモノだよと、僕は言った。髪に触れるだけで、この片倉一弥という人の生い立ちも悲しみの理由も、もっともっと深いところに在る暴虐のナイフの存在にも、或いは脇道に逸れて彼の女性経験が一度も無いことまで、僕は行き着く。

 また何かの間違いで兄が呼ばれるようなことになっては厄介だ。

「……弟が、居るんだね」

 勝手に心を覗き込んで、僕は言い切る。「馬鹿な弟なんだね。お兄ちゃんはすごくすごく優しいのに、お兄ちゃんのことを……」こんな演技、兄はほとんど出来ない。相手が幼子や老人で在れば無理もないかもしれない。もちろん、僕はそれを責める気なんて無い、彼は彼を求める人を癒せば良い、僕は僕を求める人を。それだけのことだ。

「……いいよ、判ってる」

 片倉一弥は眉間が痛いように、泣きそうな微笑を浮かべて首を振った。その表情を形作る為に、彼の表情筋が軋んだのを僕の耳は聞き分けてしまう。しかし何を「判ってる」のか、瞬時に把握することが出来なかった。

「……俺は、大丈夫だよ、ありがとう、……ええと、ビスケット?」

「大丈夫なんかじゃないよ」

 弟の顔をして僕は言う。

「お兄ちゃんの辛そうな顔、我慢して笑う顔、見たくない。泣きたいときには泣けばいいじゃない、……俺で何かの役に立てるなら」

「そうじゃない……、そうじゃなくて……」

 片倉一弥はゆるゆると首を振る。青褪めた顔で笑いながら、

「大丈夫……、ごめんな。あの、……来てくれたのは、すごく、すごく嬉しいんだけど、自分で何とかしなきゃなんないことだよな」

 変な奴、と僕は無遠慮に思う。片倉一弥の眉間の皺は少しばかり解れる。それはそのまま、彼の冷えきった心が少し温まったことを示している。元々僕が呼ばれるほどの傷は其処に無かったのだし、このビスケットの身から漂う甘い馨りが彼の心を癒したのだと解釈できたなら、悪い気はしない。

 そう、プロセスなどどうでもいい。何にせよ、この男が僕の存在によって、少しでもその心を温めたのならば、其れは僕の仕事の結果であり、僕の存在意義を認めるものだ。

 そのために僕は居るのだ。

 それ以外しなくても良いのだ。

 するべきことだけをしていれば。

 僕は多分、今日これから戻ったら、兄にそう言うのだ。僕たちは二人だけの兄と弟、血のつながりは無くても確かな絆を互いに深々と握り合って居る。

 僕が片倉一弥を癒した一週間後、アクシデント―「単なるアクシデント」と兄は強調していた―で、兄は一度だけあの男と会ってしまったが、それから一月が経って、もう兄は元のペースを取り戻したようだ。僕が呼ばれて出掛けるまで「塒」に居るのに、僕が戻ってくる頃には先に帰っていて、ぼうっと待っている。それなりに仕事をこなしてはいるようだが、僕に言わせれば物の数ではない。しかし、兄は兄のするべきことを、毎日着実にこなしている。

 僕は老人や子供が苦手だ。

 ついつい邪険に扱ってしまう。何かの間違いで子供の元に降り立ってしまうこともあるが、まるで勝手が違う。泣き喚くのを見て居ると引っ叩いて放ったまま何処かへ行ってしまいたい気に駆られるし、老人の口の中に指を突っ込むなど、想像するだけで肌がぷつぷつと沸くような気になる。その点だけは兄を見習うべきだ。もちろん彼にはそういった対象しかないから仕方がないといえばそれまでだが、泣く子も絶望しきった老人も、根気強く相手して、必ず最後は緩やかに微笑ませて見せるに違いない。日に一度や二度とはいえ、真似が出来るかと問われれば。

「得意不得意あっていいよね」

 珍しく、兄が夜遅くになって呼び出され、僕が一人、久一の元に残された。彼と口付けを交わし、今日の痛みを全て吐き出して少し呆然としている僕の耳に、不意に彼が言葉を差し込んだ。

「ぶどうはお前のようには出来ないだろうし、お前もぶどうのようには出来ない。前にも話したことあるかもしれない、……お前たちをまるで違う個性の子として創ったのは、まさにそれが理由だ」

 久一は、僕たちが生み出される前にどんな砂糖菓子が働いていたのかを話すことはしない。僕たちが出来るのは彼の言葉の断片から想像することぐらいで、恐らく彼らもまた勤勉に働いていたのだろう。何年か何十年かは知らないが、やがて抱えた思いに耐え兼ねて消滅していったに違いない。久一の口ぶりからすると、僕たちの前に居た、恐らくは複数の砂糖菓子たちは、今の僕たちのように個性が二つに分かれたような兄弟ではなくて、守備範囲の等しい者たちだったようだ。

「もちろん……、俺は多少、反省もしている、失敗したかなあと思う時もある。兄であるぶどうが老人と子供、弟のお前がそれ以外の人間を癒す形にしたということじたいは間違っていなかったろう。ただ、お前たちを作った頃にはまだ、こうまで若者たちが病的な傷を抱えては居なかったからね、お前一人でもどうにか出来るだろうと踏んでいたんだ。実際お前たちが生まれたばかりのころは、今ほどみんな病んではいなかったろ? でも……」

 僕が生まれて二年もしないうちに仕事量に大差が生まれた。兄を呼ぶ人の数はこの高齢化社会に於いても決して多くはなく(当然といえば当然だ、社会の高齢化に伴って子の数が減っているのだから)、二十代から五十代、健全なる精神を持っているはずの年代の傷が深刻化している。言わば幼稚な大人が増えたということだが、僕の見下ろす世界全体に発生する事件が相対的に増えたわけではない。ただ、ほんの十年間の感覚としても、やはりおかしな大人が増えたなとは感じる。

「……いいよ、俺は……。俺に出来ることをするだけ」

 久一に、首を振って笑う。普段へらへらと笑っている彼だが、考えの足りない訳ではなくて、寧ろ残酷なほどの叡智を備えている。だって彼は神様のような存在なのだ。

「お兄ちゃんにしんどい思いされるよりは、俺が頑張ってる方が楽だし」

 これは正直なところだった。あまり器用とは言えないあの人が、日々の癒しの旅でくたくたに疲れきり、射精という形で消滅を択んでしまうかもしれないことは想像に難くない。

 そこまで考えて、また僕は片倉一弥のことを少し思った。もうあの人と兄が会うことは無いはずと思っても、少し、怖い。

「久一」

 去りかけた彼の背中に声をかけて、両腕を開いた。

「ぎゅ」

 彼は首を傾げて、

「ぎゅ?」

 馬鹿のように聞き返した。いじわるだ。

「ぎゅーって、させてやる。久々にそういう気分になったのだ」

「ほう。つまり何らかの寂しさ乃至は不安を覚えてしまったので、本当はお兄たんにしてもらいたい抱擁を、珍しく遅くまでお兄たんが還ってこないものだから俺に代わりをさせようという魂胆」

「はい、偉い、よく出来ました。其処まで判ってんだったらとっととぎゅー」

 久一は、揺ら揺らっと笑う。僕たちが吸い込んできた傷を受け持ってというよりは、傷そのものとして在る彼は、僕の身体を抱き上げて、ぎゅ、布団に下ろしてシャツを捲りあげて、僕の身に刻まれた跡を一つひとつ、キスして消してゆく。そのついでに、「いい?」と訊いてから、ひらべったいながらもうすピンクで自分のモノながら綺麗と思っているおっぱいの先を、一度だけ舐めた。

「……お前は危ないことをするなあ」

 内股に点けられた跡を見て、眉間に皺を寄せる。「……知らないよ? お前が此処から居なくなったら、ぶどうがどんなに悲しむか」

 ふっ、と一息で幾つも消し去る。

「……したら、あんたがお兄ちゃんを守るんだ。……いや、あんたじゃなくても。俺の代わりの誰かを作るでしょ?」

 そういうことは冗談でも言ってはダメだよ? 久一は真面目な顔をして言った。兄はあまり久一のこういう顔は知らないだろう。

「大事にしなきゃ、ダメだよ? 自分の事……。お前を大事に思ってるのは、お前自身だけじゃないんだから」

 双角にキスをして、彼はもう一度、僕の胸を満たす強さで抱き締めて、襟足から指を入れた。彼は、僕の膚に裸に触れたところで理性の摩耗する気配はなく、たっぷりと僕の髪の匂いを吸い込んで、やがて離した。僕も満足していた。セックス二回分ぐらい、満足していた。

「貴様人の弟に何をしているッ」

 兄が帰ってきた。久一の背中に蹴りを入れようとするのをくるりと避けられて、その腕の中に閉じ込められてもがく。

「おかえり、ぶどう」

「ぶどうって呼ぶな馬鹿!」

 もう久一はいつもの顔だった。無理矢理に深いキスをして、見て居る僕でさえ、可愛いなあと思ってしまうような表情を兄に浮かべさせると、毒を吐き出して「おやすみん」、くしゅくしゅと兄の髪を撫ぜて消えた。

「あの馬鹿め……。おい、何か妙なことされなかった、大丈夫か」

 足首に引っ掛かった僕の下着をぐいと引き上げる。僕は笑って、僕の体の片隅ですら傷付くのを怖れる兄に、ぎゅ、しがみ付いた。「っお!」そのまま彼は尻餅をつく。葡萄色の身体からは葡萄の馨りがぷつぷつと染み出し、舐めればやはり葡萄の味、甘酸っぱくってほんの少しだけ渋いのが、僕の兄だった。

「……全く。折角早く帰ってきたんなら、先に寝てればいいんだ」

 彼は首に僕を実らせながら、ぶつぶつと呟く。

「お兄は俺が起きて待ってたの嬉しくないの?」

 知るか、と可愛くない、しかしタオルケットで僕の身体を包み込むのは、優しい。

「とっとと寝れ。どうせ明日もお前の方がたくさん呼ばれんだから」

 響きの中に、嫉妬も羨望も皆無。頭をぽんぽんと撫ぜて、彼は僕に枕の半分以上を寄越してしまう。そしていつも自分の腕を枕にして、単角が刺さるからという理由で向こうを向いて寝る。

「ッふァん!」

 何となく、尻尾を引っ張りたくなった。角は一本しかないくせに、尻尾は身長より長くて、もてあまし気味だ。

「んなっ、何、ッ、なに!」

「ひさしぶしに、……握って寝てもい?」

「ひさしぶし?」

 僕の言葉に、肩越し振り返った彼は、むっとして「勝手にしやがれ」、ぷいとまた向こうを向いてしまった。蛇のような触り心地の尻尾に頬を当てながら、僕は目を閉じ、暫しの眠りに就く。

 俺はお兄ちゃんが大好き。

 今日も幾度となく口にした言葉、嘘に埋もれた中で、それはプラチナの光を放つ。「お兄ちゃん、大好きだよ」

 唇を寄せた尻尾の先が、ぴくっと動いた。

 

 

 

 

 僕たちと出会った者たちのほとんどは、僕たちを夢想の産物と解釈する。科学の枠の外に居る存在に対して、人間たちは理論的解釈が出来ず、たとえ身体の端所に名残が残っていても、それを単なる夢だったと思い込むことくらいしか対応出来ないのだ。そのことは 僕たちにとっては都合が良く、また重要なことだ。「こんな甘い子とエッチなことしたんだ」などと吹聴して廻られてはたまらない、ましてや僕たちを呼ぶからくりが精神的な苦痛にあるとばれて、傷の連鎖が始まってしまえば、僕たちの生きる理由はなくなってしまう。

 もっとも僕はこの通り、こめかみから生えた双角と眼を除けば人間にしか見えないから、誤魔化すのはたやすい。兄はふらふらと飛び回って部屋に飛び込むことで、つまりは却って己が存在の非現実性を強調することで必要な解釈を誘い出すが、僕は寧ろ人間のふりをして彼ら彼女らの前に現れる。つまり「ビスケットのおばけ」ではなく、偶然現れた甘い匂いの少年なのだ。

 「ぶどうのおばけ」の彼は、二十年近く前に小学生の描いた絵の中に登場した。そのときは慌てて彼が「いいか、あのことは他の誰かに言ったらダメなんだ。約束だぞ」と小指を結びに行った。そんなことをしなくても、少年の母親や担任の教師は、自動的にそれを「夢」と断定してくれる、少年が「ほんとうにいたんだ」と幾ら言い張ったって、子供にとって絶対的な存在に言われればさほど力も持たない。一つのコミュニティ、例えば学校や会社という一団体における僕たちを呼ぶ者の数は一人に満たないから、それぐらいの対応で問題もないのだ。一人の人間が僕たちを複数回呼ぶこともない。何故って、呼ばれたところで僕たちに応じる術が無いのだ。理不尽に生じる苦しみ、悲しみ、痛み、悩み、そういったものが臨界を迎える寸前に発される叫びだけが、僕たちの角に届く。「会いたいから」程度で呼ばれたって、生憎聞こえやしないのである。

 僕たちに恋をしたって、それは空に向かって「好きだ」と言うようなもの。初めから応えることなど期待してはいけない。

 だから僕は恵まれている。

 僕には兄に、久一に、……真っ直ぐかどうかは自信がない、兄の左眼の上に生えた稲妻型の角のように、紆余曲折がないはずも無いが向かう思い、其れを除けばたいした感情は宿っていないかもしれない。二十七年間上辺だけで「大好き」「愛してる」と言うことで、自分の仕事をし、同時に精神の安寧を保ってきて、それ以外に「対象」と僕との間に要るものは無かった。

 僕にはいつの頃からか「ぶどうのおばけ」と呼ばれるようになった兄と、僕を生み出した久一しか居ないし、彼ら二人以外要らない。あとどれほど残された僕の生か判らないが、今以上を望むことは此れからだって無いだろう。ただ僕僕二人の側でこれからも生きて行ければ其れでいい。望むのは、その時間の一分、一秒でも、長からんことを。

 鬱陶しい言い方になるのを自覚の上で僕はこう問うてみる、「愛っていつ生まれたの?」

 僕が兄と久一を、初めて見たその時から「好き」と思ったはずもない。僕は雛鳥ではなかったし、そもそもそんな単純な構造はしていない。ただ、初めから他人だった訳でもなかった、僕にTシャツを何枚も何枚も着せ替えて、

「これが一番似合うかな、ビス子は」

 そう、気付いたときには僕はビス子だった。「眼もぱっちりしてるし、こういうビビッドな色が似合う。そう思うよね?」

 今は「ぶどう」と呼ばれる兄は、当時どんな名前を付けられていたか覚えていない、なんだか横文字で、長ったらしくて、だから久一は略して呼んでいた気がする。その名を僕が呼んだ記憶が無いのは当然、ずっと「お兄たん」「兄君」「兄上」「兄様」「あにき」「お兄ちゃん」……、それで済ませてきたからだ。

 彼は「いいんじゃね?」と風船ガムをくちゃくちゃやりながら答えた。時折ぷうと膨らます彼は、そういえばあの頃はいつでも髪を下ろしていて、ちょうどそのときは布団の上で裸だったか。そう、彼も久一に服を択んでもらっている最中で。……ええと、何と言ったのだったか彼の本名、……、

「……の番だよ」

 兄はあの頃はもう少し久一に対しては素直で、その分今ほど僕がベタベタと膚を重ねることに慣れてもいなかった。彼に与えられたのはデニム地ショート丈のベストというかチョッキというか。襟元には毒々しい苺色のスカーフを巻いている。そしてザックリバラバラと裾を解かれた太腿までのこれもデニムのパンツ、そして余りに無防備な足回りを冷やさぬ為にと、靴まで繋がったニーソックス―これは彼を非常にしばしば「うっとうしいわ!」と苛立たせる原因となる、だってソックスから伸びるストラップはそのまま彼の首輪にまで繋がっているのだから―、俺がシャツのスパッツなのにどうしてお兄ちゃんはそんな凝った格好なのと、多少の嫉妬も篭めて訊いたら、久一は笑って「……は肌の色がお前と違うからねえ。普通の格好だったら却って変。でもビス子は人間と同じ肌の色をしているから、そういうノーマルな格好をして居た方がいい」

 そのとき定義された兄と僕の格好は二十七年間変わらず続いていて、気付けば僕はTシャツにスパッツという取り合わせが膚の上に重ねた膚として全く違和感が無くなっているし、兄も鬱陶しい鬱陶しいと言いながら今も変わらぬ格好をしている。兄を見て「ぶどうのおばけ」と言ってしまうのは失礼ながら正解で、アヴァンギャルドと評してしまうのが一番しっくりくるあの格好を見れば、彼が天使か悪魔かを俄かに判別出来るはずもなく、だからついつい口にしてしまうのだろう、あの少年の姿に向けて「ぶどうのおばけ」と。

 ある日にぷりぷり怒って、

「今日な、クソガキに、『ぶどうのおばけ』って言われたぞ」

 彼は帰るなりそう言った。それまで、やっぱり思い出せないが長ったらしい横文字の名前を略して、……ああ、そうだ、「アル」と呼んでいた、だから本名は多分アルなんとかだ、とにかく久一は彼のことはそう呼んでいたのだが、その日から彼は「ぶどう」になった。申し訳ないがアルなんとかよりもそっちの方が余ッ程似合っていて、だから久一は大爆笑して、兄の機嫌を大いに損ねた。

 以来二十年近く兄は「ぶどう」呼ばわりをされている。

 「お兄ちゃん」はいつでもいつまでも「お兄ちゃん」だし、僕は愚弟の「ビス子」、そして久一が側に居る。此処が世界であり、僕たちが行くのは世界の外側だ。

 世界はこれ以上広く在る必要はないし、今より狭くても困る。普遍的に不変なものなど在りはしないのだけれど、僕は「ならばせめて」と願う、ならばせめて、この世界の壊れる日が、一日でも先になりますように。

 そしてそれは容易なことのように思えた。僕は日々の仕事に、辛さを感じない訳ではないけれど乗りこなす術を身につけている。兄が老人や子供に心奪われるとも考え辛い。だからいつかは必ず崩壊するにしても、それはもう随分先のことで、せいぜい今は朧な不安だけ味わっていればいいのだと思っていた。

 僕は幸せなのだ。

 放ちようのない欲を身に宿しながらも、そんな欲、永遠に抱え込んだままでいい。二人を失う悲しみ苦しみと比べれば。

 僕は片倉一弥を憎んでしまうのかもしれない。

 いや、既に憎んでいるのかもしれない。


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