しかしどうしてこうなってしまうのだろう、手塚ちよという名の老人は、音のとおり千代に八千代に生きるぐらいの気構えで居て、ぷりぷりとそう怒るのだ。
しかしどうしてこうなってしまうのだろう、自分の決意など世界の蚊帳の外、巡るリズムと何ら関しないのだということを思い知らされる。片倉一弥の家にドテラを返しに行ってから丁度一月が経過して、もう二度と会うつもりもなくて。
俺様は今、片倉一弥の目の前に居るのである。
「……だからねえ、あたしはさっきから何度も言ってるだろ。そりゃ確かにお会計は済ませていないよ、だけどねえ」
「ええ、……あの、おばあちゃんの言ってることはよく判ってます。ただですね、あの、ベルが鳴っちゃうと、どうしても……」
「そんなのは、あんた、ねえ、あんたたちの都合でしょうよ。あたしはねえ、十八でおじいさんのところに嫁いできて、ええと、……ええ、そうだ、六十八年、ずうっとこの街に住んでるんだよ、そんなあたしが、あんた、どうして万引きなんてするのかね」
白衣の左胸に「健康相談係・かたくら」のネームプレートを付けた男は、額に薄っすら汗を浮かべて眉根は困惑に下がり、怒る手塚老人の対応を副店長に命じられて彼女をドリンク類の在庫段ボールが雑然と並ぶ事務室に「連行」したはいいが、彼女が万引き犯でないことはもうかれこれ三年この店に勤務し幾度となく顔を合わせたことのある片倉一弥には判り切っているのだ。
しかし新任の店長というのが融通の利かないくせに尺の合わないポンコツ定規のような男で、そいつがうっかり会計を済まさぬまま店の外へ出てしまったために防犯ゲートを反応させた手塚老人に対してマニュアル通りのリアクションしか取れないせいで、話が大きくこじれている。従業員・片倉一弥としては―ましてやパート社員の彼としては―副店長の命に背くわけには行かず、かといって常連客の小さなミスをそのまま警察に届けることなど出来ようはずも無く。副店長が日頃から会計に時間のかかる老人を持て余していたことも原因の一つにあると判る以上、一弥は益々厄介な状況である。
だが俺様を呼んだのは手塚老人である。
今年の八月で八十六歳になったちよの周囲には、彼女の気を大いに滅入らせるようなことが続いている。
一つには、夫の他界であって、此れがほんの一月前のこと。もともと心臓が悪くって病院通いが続いていたのだが、とうとう発作を起こして、そのまま快復することなく逝ってしまった。伴って、庭の在る家土地の所有を巡って、未だ四十九日も終わっていないというのに二人の子と其の嫁が俄かに鋭い欲をちらつかせるようになったこと。それまでは老人二人暮しの家に寄り付きもしなかったくせに、このところ頻繁にやってくるようになった。息子と嫁どもはあろうことか、孫まで使って取り入ろうとしてくる。無論目に入れたって痛くないほど愛しい孫たちが、親の薄汚い欲を纏っておばあちゃんおばあちゃんとやって来るのは、彼女にとって余りにも悲しいこと。こんなことならあんな土地、おじいさんが倒れたときにすぐに処分してしまえばよかったのだ。
そしてもう一つは、……彼女自身の肉体のことだ。気はしゃんとしているつもり、大きな病気もしてこなかった、しかしそんな自分も八十六、「あたしの家系は代々長生きなんだよ」と、八十八まで生きた母を自慢にして居たが、その年まであともう二年しかない。櫛の歯が抜けるように知り合いの老人が亡くなる、訃報が届いたと思ったら、自分より三つも年下の人だったりする、迫り来る恐怖と自分ばかり無縁で居られるはずもないが、整頓出来る物思いでもない。そして、「いつでもお元気で」と、目の前の片倉一弥に言われたことがある、しかし、彼女はそれを思い出せない。いや、正確には覚えているのだが、……ああ、あたしはこの人と何度か会ったことがあるわ、確か親切でいいお兄ちゃん、いつも腰が低くて丁寧で、そう、重たい荷物をうちまで持って来てもらったこともあったっけ、……しかし、今目の前に居て困惑しきっている一弥が、果たして自分の記憶の中の青年なのかどうか、確かめて「違う」と言われるのが怖い。つい今朝も、顔を洗うときに外したはずの眼鏡がないないと家中探し回って、鏡の前に戻ってきたら自分の額にかかっていたという、さながら漫画のような事態に直面して落ち込みきっていたのだ。その上、会計を忘れて帰ろうとするなど、……。
手塚ちよを包み込んでいるのは紛れも無い恐怖感だ。もやのように自分を包む恐怖をもがいて脱ぎ捨てようとして暴れるから、怒りっぽくも見えてしまう。
厳密なことを言えば、こんな程度で俺様が呼ばれる訳がないのだが。
片倉一弥は手塚老人に困惑しきっている。ただ個人的に感心するのは、決して適当にあしらうような真似はせず、背の低い老人に腰を屈めて視線を合わせて、ゆっくりとはっきりと、丁寧な言葉で状況の理解を求める根気強さである。俺様の想像していた通り、この男は大いに真面目な人間なのだった。
「ばーちゃんさあ、まあ、とりあえず座ろうぜ」
俺様も腰を曲げて、手塚老人の肩に手を置いた。
「さっきから思ってたけど、何なんだいあんたは」
ぐい、と手塚老人、俺様を睨む。眼鏡の奥の目はぱっちりしていて、愛嬌がある。
「俺様はねえ、……ええと、この店のマスコットキャラクター」
「マスコットだって? ……こんな趣味の悪い色のマスコットが居るもんかい、まるでぶどうのおばけじゃないか」
「ぶ……ッ、……ばっ……、ばーちゃん、な、ほら、あの、とりあえず座ろう。な、ほら」
こめかみをぴくぴくさせながらの俺様の言葉に、反射的に一弥が椅子を宛がう。
「気がきかねえな、お客さんだろ、お茶ぐらいお出ししろよ」
俺様が言ってやると、一瞬俺様を睨んだが、急須に茶葉を入れる。俺様は電気ポットの湯の中身を確認する一弥にこっそりと囁く、傍らに立つと、あの部屋の匂いがかすかに鼻に届いた。
「……どうすんだ」
「……どうすんだって?」
「……どうやったらあのばーちゃん帰してやれんだ」
「……万引きの場合は、警察に通報する決まりになってる」
「出来んのかよ」
「出来るわけないだろう、そんなこと」
一弥は自らの保身のために老婦人の身柄を警察に委ねるようなことはしないつもりなのだ。俺様は大いに気を良くする。通報されれば、彼女の気を滅入らせる息子夫婦がやって来ることになるだろう、きっと残酷としか言いようの無い展開が待っている。そんな事態は未然に防がなくてはという気持ちは、一弥も同じようだった。
「いい。手塚さんのおばあちゃんには帰っていただく」
一弥は急須に湯を入れながら、決然と言った。茶を注ぐ前の湯呑みにも、きちんと湯を入れて温めて。
「……どうせ怒られんぞ」
「仕方が無いだろ……、俺のことは……」
「……まあ、しんどくなったらまた俺様の……、弟を、呼べよ」
「……別に……、大してしんどくなんかない。……っていうか大体なんでお前がいるんだ」
「あのばーちゃんに呼ばれたからに決まってんだろ、別にお前に会うために来たんじゃない」
一弥は「お待たせしました」と、少し青褪めたような顔で、茶を出す。小さな老人の眼に宿る憤怒とその背後の悲しみを見て、芯を一本通し直すために、一つ密やかに深呼吸。
「……本日は、ご無礼を致しまして、誠に申し訳ございませんでした。防犯ゲートの調整がおかしくなっておりましたようで、手塚様には大変なご迷惑をかけてしまいました。……二度とこのようなことの無いように、再発防止に努めて参りますので、……どうか、お許しください」
九十度に腰を折り、片倉一弥は頭を下げる。
「な、ばーちゃん、コイツもこう言ってんだし、……ほら、ばーちゃん手ぇ出して。……これあげるよ、高級ブランドもんの飴玉。騙されたと思って舐めてみてよ、蕩けるほどに甘ぁい甘ぁい、俺様オススメの飴玉だから」
胡散臭げに俺様が皺の掌に転がしてあげた飴玉をしばらく見ていたが、やがて諦めたように口に放り込んだ。あたしゃあんまり甘いものはよくないって言われているんだよと、毒っぽい言葉がそこにあるのも、俺様には見えていた。
「申し訳……、ございませんでした」
一弥が搾り出すように、言う。わがままの自覚がある俺様は、少しばかり感動すら覚えて一弥の頭の天辺を見ていた。つむじが二つあるのだった。
……ふう、と手塚老人が息を吐く。
「……顔をあげておくれ」
おずおずと、顔を上げた一弥が見るのは、穏やかになった老婦人の顔である。多少愚痴っぽくもあるが、八十六年の経験が彼女自身に告げる、これ以上責め立てては可哀相、と。
「あたしも……、うっかりしてたね。ちょっと色々考えてたせいで、ボケッとしちゃってさ。とんだ迷惑をかけちまった」
彼女は、少し照れ臭そうに、そして優しく微笑んでいた。
「……おばあちゃん……」
「お巡りさんを呼びなさい、なに、きちんと話せば判ってくれるだろうさ」
弾かれたように、一弥は首をぶんぶんと横に振った「呼びません、おばあちゃんは何にも悪くないです」
しかし、諭すように老人はゆるゆると手を振る。
「それじゃああんたが困るでしょ、店長さんに怒られちまうよ」
「いえ、俺……、私は、宜しいんです、大丈夫です。ですから……、どうか、このままお帰りください」
「でも」
「本当に……、大丈夫です」
一弥の眼には、力が篭っていた。俺様はそっと老人の肩に手を置く。
「ばーちゃん、こいつもああ言ってんだ」
こんな程度でいちいち呼ばれていたのでは、俺様だって多忙になるはずだが、要するに此れは言ってみれば「合わせ技一本」というやつ、悲しみが底を支える老人の苛立ちと、一弥の深い困惑と嘆きが重なって、俺様の鈍感なる単角にくるりと引っ掛かったに違いなかった。
「……そうかい?」
しっかりと、一弥は頷いた。「店の入口までお送りいたします」と、椅子から降りた手塚老人の手を取る。店のフロアまで俺様が出るわけにも行かないので、俺様は壁から抜けて空へ飛んだ。見下ろすのは、「また寄らせてもらうよ」と言った老女に深々と頭を下げて見送る一弥の姿で、もちろん一分後を思っての憂鬱や不安も伴って痛みがあるけれど、それは恐らく俺様が癒す必要もない程度のものだ。ビス子の呼ばれることも無いだろうと思った。ただ俺様は、……「するべきこと」だけをした。片倉一弥と顔を合わせたのはただの偶然で、そう何度も「偶然」は起こり得ない。ただ俺様は、俺様の暗闇から一度は救い上げた男が、俺様が救うだけの価値のある男だったのだということをはっきりと確かめられただけで満足するべきなのだ。
老人を見送って店に入る間際に、一弥は一度だけ空を見上げた。ぼうっと見下ろす俺様と眼が合った。こうして見ると、あいつはずいぶん優しい眼をしている。一週間前にビス子が癒したからこそある優しい眼だと思う。ありがとうなと、虚空に向けて小さく彼は手を振った。俺様は何と返事をしたらいいか判らないまま、彼が店に入っていくまで、ぼうっと見下ろしたままだった。俺様は俺様の心臓がとても酸っぱいものの溜まった水槽の中に沈められて、ずいぶんとしみて、痛くて、きゅうっと縮こまったような錯覚に陥る。眉間に皺を寄せて、どうしてか、唇が尖る。
行こう、……居たってしょうがねえし、とっとと仕事に……、俺様の仕事に。どうせ誰にも呼ばれちゃいねえけど、ここに居る理由だってねえし。
行こう。
俺様は、口に出して言った。言って、もう振り返らないつもりで、身を翻した。