03

「泣いてンじゃねーよ」

 両の拳で涙を拭うのは、まだ彼が幼いことの証だった。

 十歳という年齢、俺様が生まれたばかりの頃にはまだ幼子と大差ないものだったが、最近の十歳は平気で万引きもするのだ。しかし内包する感情の傷付きやすさにそう差が在るわけでもなくて、彼は食らった大目玉が苦しい苦しいと泣いているのだった。

 この少年は万引きをした。店の隅っこに在ったオモチャ入りのチョコレートをポケットに忍ばせて店を出ようとしたところで、店員に腕を掴まれて。後はお決まりのパターン、と言ってそんなパターンがあっても辛いのだが、店舗の事務室で店員に尋問され、そこへ両親が遣ってきて、引っ叩かれた回数は二十四回。

「そんな擦んな、後で痛くなるぞ」

 眼も頬も耳も、真っ赤である。

 いかなる理由があったとしても、万引きは窃盗であり、犯罪であり、断じて許されるものではないと、彼を四方八方から責め立てた「法」は平べったい顔をして言い、その顔の角で彼を何度も打ち据えた。泣こうが喚こうが貴様のしたことは犯罪だ、貴様は十歳にして犯罪者なのだ、ロクな大人になりはしない、もう人生を踏み外したも同然だ、世間さまにどう顔向けをすればいいのか。

 だが、単なる万引き犯の少年であったなら、どうして俺様がわざわざやって来ようか、……苦い思いをしながら俺様は言った。

「悦べ、お前は択ばれた」

 海の底より深い慈悲を、どうしてこの少年は俺様以外の誰からも享けることが出来ないのだろうかと嘆きながら。

 事実と真実は違う。「事実」はこの少年が万引きをしたという、ただそれだけ。

 しかし真実はもう少し深いところにある。頭に血の昇った大人たちは、皮の一枚を剥がす手間さえ惜しんだのだ。

「……言っちまやあいいと、俺様は思うけどなあ」

 少年はぶるぶると首を横に振る。言葉は言葉未満の音として擲たれるが、解釈することは十分に可能だった。

「そうだろうけどさ、……苦しいのは誰だ? 悲しいのは誰だ? ……お前がそんなに痛い思いして泣いて、……死ぬ理由なんて何処にもありゃしねーんだぞ?」

 俺様は少しく声を張り上げた。階下から吹き上げる風は、刃の音を立てて俺様と少年の間を駆け抜ける。九階建てマンションの屋上からひょいと見下ろせば、とっぷりと暮れた夜の街路樹は、定食に添えたパセリのように小さく見える。

 少年がまた、何事か言いかけるのを、俺様は遮った。

「死ぬのは痛いぞ」死んだことはないけれど。

「……死ぬのは、お前だけが痛いんじゃねえ。お前が庇った連中は、もっともっと痛い。お前が盗みを働いて死んだんなら、連中は人殺しだ。お前が抱え込んだ痛みはな、到底お前一人で飲み込んだまま持ってけるようなもんじゃねえ、連中の胸の中に、おんなじぐらいの傷を残すんだ」

 俺様はこの少年の考え方を否定する気は無い。否定する場所にも居ないと思う。自分を悪者にして逃げ果せた彼の同級生たちを指弾することも出来ないし、そんな「友達」を庇おうとして傷つききった少年の気持ちというのも判るのだ。

 だが、俺様にとって必要なのは、いまこの少年が死なないことなのだ。ネガティヴの連鎖を、此処で止めたい。十字架を背負った「友達」は、ひょっとしたら明日にでも俺様を呼ぶかもしれない。

 お前は、あいつらの犬みたいなもんなんだなあ、だけど、

「お前があいつらを庇いたいって思うんならさ」俺様には到底真似の出来ないことだけど「最後まで守り通せよ。今だってあいつらは、お前が罪を被って、あいつらの名前出さずに口を割らずに居ることで、お前が想像するよりもずっと怖い思いをしてんだ。此処でお前が死んだりしたら、あいつらも、お前の親父もお袋も、どんだけ苦しい思いをすると思うよ。お前はお前の親の事だって、嫌いじゃねーんだろ?」

 しゃくりあげて、少年は俺様の顔を見る。鼻の下で鼻水が光る、無様な顔だと思う、しかし十歳の少年の顔だと思う。

「……もう気付いてんだろうと思うけど、俺様は悪魔だ」

 俺様は、身の丈より長い尻尾を螺旋に巻いて見せた。矢印型のフォルムはその嘘にはぴったりだ。

「お前みたいな中途半端な悪党よりも、お前の言うことに耳を傾けないでお前を殴った親どもや、お前が庇ったところで何の得にもならんような連中、……そりゃあもう立派な悪党どもを、上手いこと俺様の同属にしてやろうかなと思ってる。……なあに、簡単なこと、連中の血を吸って、変わりに俺様のどす黒い悪魔の血を一滴混ぜてやれば、忽ち奴らは俺様の奴隷よ。お前が死ねば連中を守る者は居なくなる、後は俺様の自由だ。それで構わねえんならとっとと死ねよ」

 俺様は手を伸ばし、少年の涙に濡れた頬に触れる。そこは本当に塩辛くて苦い。宛てのない思いを抱えて、「死」すらリアルに描き出す場所は、それはもう、苦しい程に。

「お前が死ねば、俺様は心置きなく奴らを蹂躙できる……、蹂躙って判るか? 好きほーだいって意味だ。お前の『友達』を、親父お袋を、俺様の奴隷にして好きほーだい。……想像するだけで心踊るなあ」

 少年の怯えきった双眸に映る俺様は紫色の膚に黒と緑の常人とは逆転した瞳、マンションの壁面からふわり浮かび上がって現れた俺様が、人間の科学や理性とは無縁の存在だということくらい、決定的には馬鹿でない少年は理解しているらしいから、俺様の脅しは随分と効果を発揮するようだった。

「っつーかな、お前が居ると、俺様は自分のやりたいことが出来ないんだ。お前の思いが、……命がけの思いが、お前をいじめたあいつらを護ってやがる。それが、お前が死ねば消えるんだ、俺も自由に仕事が出来るようになる。……どうする? それでも死ぬか?」

 かちかちと少年の奥歯が鳴る。

 俺様はさほどサディストではないんだと思う。思いたくないが、思ってしまう。

「……死ぬの、やめるか?」

 かく、かく、かく、少年が三度、小刻みに頷いた。か細く震える身体を抱き締めて、屋上の縁から離れた。少年はまた、泣き出していた。何もかもかなぐり捨てて、声を上げて泣き出していた。

 子供の泣くのを見るのは好きではない。好きだったらこんな仕事やってられるかと思う。辛い涙にこの胸が捩れるから、どうにか泣き止ませてやりたいと思うのが人ならぬ俺様の身にも宿る人情という奴だろう。

「……お前は良い子だ。俺様が苦しくなるぐらい良い子だ」

 何度も何度も、震える髪を撫ぜた。

「泣くンじゃねえ……、お前が泣かなきゃいけない理由なんてありゃしない」

 稲妻型の単角の先を、ぱきりと折った。神経が通っていない、というか、この角は角に見えて俺様の体の一部ではないのだ。三角形の欠片を、その唇を開かせて、押し込んだ。甘い甘い「ぶどうのおばけ」の飴の角だ。泣く子を癒す甘味の塊、この俺様を前にいつまでもめそめそ泣いていられると思うな。

「……ホラ」

 階下から、慌しく上がってくる足音が二つ、

「お前は、誰よりも良い子だ」

 近付いてくる足音を耳にして、俺様は腕を解くと、そっと浮き上がった。暗闇に溶けた俺様が見るのは、俺様の角よりももっとずっと甘いはずの、両親の腕に抱かれた少年の横顔だ。

 さて。

 今日の俺様の格好はみっともない。手に持つのも鬱陶しいので肩に掛けているドテラのせいだ。ドテラを肩に掛けた悪魔なんて聴いたことがないだろう。中の綿が大分薄くなっているなと思ったら、右袖と裾のところが破けて中味がはみ出している。それでもあの、決して裕福ではない男にとっては貴重な防寒着であるはずで、今はまだシーズンオフだけど借りっ放しというのも俺様の沽券に関わる。本当は昼間の、あいつが留守のうちにこっそり返してしまおうと思っていたのだが、まだ風邪が治りきっていなかったしビス子も寝ているよう勧める上、誰からも呼ばれなかったので、仕方なく夕方まで動きださなかったため。

 ということにして置けば良い、世界はそれで納得する。別にあの男の帰ってくる時間を計算して、この時間まで仕事をして居たわけではないし、開いた穴を繕ったのは単純に暇だったからだ。ただ、おかげさまで風邪は一晩で治ったようだ。薬のせいか、布団に包まってしばらくしたら随分と汗をかいて、夜中に眩暈を堪えながら起きて、水蜜を啜ったような記憶がある。ビス子が夜半過ぎに帰ってきて、額に冷たい手を当ててくれたのが、大層気持ちよくって、俺様としては非常に非常に稀有なことだが素直に弟がいとおしく可愛く見えて「愛している」と言ったかもしれない。それから目を閉じて、……さすがにあの薬、苦いだけのことはある、翌朝起きたときには腰が少しふわつくような感じこそまだ残っていたが、俺様の身体は八割方快復していた。

 ちゃんと礼を言わなくては、……俺様は不義理な者ではないのだ。

 一言礼を渡して、このドテラを返して、それで終いだ。それで。

「ふーうーん」

 さっき、夕方、擦れ違ったビス子はそんなリアクションをした。可愛くない奴だ。

 呼ぶ声の隙間、というか俺様の場合はビス子と違って隙間だらけだが、とにかく空白の時間はやっぱり夜にやって来た。なので、ちょうど夕飯時と判りながら、寧ろその時間を狙った上で、俺様は三度あのマンションのヴェランダへやって来た。今度は最初からソックスシューズを脱いで、カーテンの裾から明かりの漏れる窓をすり抜ける。

 片倉一弥は居た。俺様の顔を見ても、余り驚かなかった。逆に俺様が少しくショックを受けたのは、彼の顔色が、また優れなくなっていたから。

「これ、返しに来てやったぞ」

「……ああ……」

 疲弊しきっている証拠は、その反応の遅さだ。

「……わざわざ……、良かったのに、そのまんま持って行っても」

「そういう訳には行かん、俺様は借りパクなどしない」

 夕べにか、今朝にか、食べたらしいトーストが乗っていた皿が、そのまま卓袱台の上に置かれている。パンくずがカラカラに乾いたそのすぐ横には、飲みかけのコーヒーカップが置かれている。この男はブラックを飲むらしい。俺様とは違うんだな、と思った。甘酸っぱいルシアンティーが美味しいのに。

「……ここに、置けばいいか?」

「何処でもいいよ、……別に」

 何かあったのだ、良くない何かが。

 母親の再婚に伴って、また家族に何かを言われたのかもしれない。いい大人なのだから少しぐらいでは揺らがぬつもりで、しかし既に深く傷付き慣れた膚は、また簡単に開いてしまうのだ。

 俺様の折れた単角をちらっと見ただけで、何も言わない。昨日「ありがとう」と言ってくれた男とはまるで別人のようで、しかしおととい初めて見たときによく似た顔をしていた。違うのは涙がそこに在るか無いかばかりかもしれなかった。

「何があったんだ、言え。俺様の仕事についてはもう知ってるだろう」

 別に何も、言って、一弥はごろんと横になった。身体を少し、俺様とは反対に傾けて此方に背中を向ける。

 それでも呼ばれなかった、単角は反応しなかった。念のために言っておくが、折ったところで俺様たちの角は砂糖細工なので、折れたって一晩寝れば治るし、アンテナが内蔵されているわけではない。一弥が悲しんでいれば、……強い悲しみの中に在ったとすれば、俺様はきっと気付けたはずだ。然るに、……一弥はそう深い悲しみの中にはないということ、だが紛れもなく言えるのは、またその心の傷付くようなことが起こってしまったのだということ。

 俺様たちの仕事は何度も言うように頓服である。その心の自己治癒能力に委ねる他は無い。傷によって傷の生まれてしまう負の連鎖を止めたいという俺様の切なる願いは弟言うところの「しょうがない」で片付けられるような甘ったるいものだと判っているし、そもそも俺様は単角の感度だって悪いのだが、願いは止まらない。

 一昨日、その思考の中に潜行したときに、俺様の指先にちくりと刺さったあのナイフが、少し浮き上がって見えるような気がして、なんだか怖かった。呆気なくうろたえてしまいそうになって、

「……俺様の指を舐めろ」

 いや、実際俺様はうろたえていたのかも知れない。呼ばれてもいないのに現れて、単角に反応するほどの悲しみも持っていない人間相手に、指を突き出していた。一弥は眉間に皺を寄せて、彼の顔の前に座った俺様のことを見上げた。ほんの少し鬱陶しげに見られたことに、益々焦る。

「俺様の指を舐めろ、辛いんだったら俺様の」

「……いいよ、別に、辛かないし……」

 また、ごろん、逆の方向へ寝返りを打つ。言葉を発する口の形は不平不満を言うのが得意そうで、一人きりの彼はその不平不満で殻を作り出し内側から補強し、己が耳に汚い言葉を聴くことで自らの心を益々傷つけるのだということは明らかだ。

 素直に事態を話すとは思えない、潜ろう、そう思ったところだった。す、と背後に特有の気配と甘い匂いが生じた。

「……何してんの?」

 ビス子が立って居た。

「お前……、こそ……」

「呼ばれたから来たんだよー。……ひょっとしてドテラってこの人のだったん?」

 ビス子はすぐに、布団の上に先ほど俺様が畳んで置いたドテラを見付けて、それから沈み込んで横たわる男の後ろ頭に目を遣る。それからビス子は俺様を責めるような眼で俺様を見た。

 彼の言いたい処はよく判る。

 それこそ、普段俺様が彼に「そういうことのないように」と言い聞かせていることを、まさにこの俺様がしてしまっているのだから。

「……おっ……、俺様はドテラを返しに来ただけだ、お前だって知ってるだろう。俺様は呼ばれてなんかいない、用事が済んだから帰るだけだ」

「ふーうーうーん」

 俺様は慌てて、……ビス子の視線から逃げるように立ち上がって部屋を出た。空を飛びながら、俺様は自分の飛行軌道が全く安定していないことに気付いている。ドテラを脱いだおかげで身は軽いはずなのに、今度はその軽さを乗りこなせていない。嫌な具合に心臓が跳ねる。其れはビス子にあらぬところを見られてしまったからだけではない。

 ――大丈夫、ビス子なら、あの男のことを上手に治してやれる。だってあいつは俺様などよりもよほど優秀な――俺様のものではない言葉が、俺様の中でこだました。

 ……無性に、……腹が立つ、とは違う、……怒っている訳ではない……、と思う、……そうではなくて……。

 生まれて初めて、俺様は自分の弟に嫉妬したのだ。

 アイツの、優れた砂糖菓子であることは生まれたときから判っていたことで、「だから俺はお兄くんの分まで頑張るから、お兄くんはのんびりしておるがいいよ」と言うのに甘え、もちろん感謝してきた。例えば一弥のような若い世代から中年ぐらいまでの男女は彼が、そして子供や老人は俺様が請け負うことで、二人で上手にこの広い街の悲劇の種を丹念に潰してきたのだ。

 救済対象があいつと重なることなど、今までに一度も無かった。そして重なってしまったとき、こんな風に思う自分がいることなど、俺様は知らなかった。

 知りたくもなかった。

 ふらふらと塒に戻った俺様は、久一の軽口を全て無視して、それはフテ寝だと指摘されれば「悪いか」と逆に怒鳴ってやりたいような……、寧ろそうやって怒鳴る機会を与えられることを半ば期待しつつ。呼ばれることすらなかった。そしてビス子がまだ帰ってこないということは、あいつは忙しく飛び回っているということだ。片倉一弥は彼のone of themであって、themが在ればこそ思いついたのであろう彼の「やり方」は、確かに片倉一弥を含めた多くの者を救うのだろう。しかし、ビス子は片倉一弥の何処まで辿り着くのだろう。俺様が思わず手を引っ込めたナイフの在ったことを踏まえて、あいつはスパッツを下ろして見せるのだろうか。あの童貞に、その全てとまでは言わないが片鱗でも味わわせるような真似を。俺様が絶対しないような真似を。

 知りたくないけれど。

 そんなことを考えているのだから、良く眠れようはずもない。俺様は真夜中に、

「ビスケットたん只今帰還ッ」

 彼が帰ってくるまで、二十三回寝返りを打った。

「兄くん、起きたまえよー」

 こっちが起きていることを知りながら、肩を揺する。憮然と目を開けると、スパッツはいつものとおり少しずれていて、ウエストにパンツが覗いている。

「ド淫乱が、眠る邪魔をするんじゃねえ」

 邪険に言ってやるのだが、彼は案外真面目な顔をして、俺様の顔の前にきちんと膝を揃えて正座する。ばりばりと、長い後ろ髪を掻き毟りながら起き上がり、「何だ」と訊いた俺様に、

「ああいうのはよくないと思います」

 彼はそう言った。俺様は皮肉っぽく口を歪ませて―こういう悪い笑い顔は本当に得意だった―「じゃあ俺様は、えっちなのは良くないと思います」

「真面目な話してんの。……お兄ちゃんがいっつも言ってることじゃん、身体で何しようと勝手だけど、心まで踏み込むんじゃないって、……執着心が芽生えたりしたら面倒になるからって」

「ああ、その通りだ。だから俺様は別にあの男に執着なんてしてねえし」

 ビス子はまた、じいっと俺様を見る。しばらくそうやって居たが、不意に立ち上がると丈の短いシャツにスパッツにパンツ、全てばさりと脱ぎ捨てて、

「あなたは、あなたのするべきことだけをしてればいいと、俺は思う」

 と言った。

 あの後、何件も回ったのだろう。仕事を終えて、まだ久一に癒される前の、ビス子の裸を見るのは随分と久しぶりだった。……大概俺様の方が帰ってくるのは先で、この有能なる弟が帰ってくる頃は夢の中に居る。

 弟の裸身に、少しく圧倒された。それでも表情を動かさないで居るくらいはどうにか出来た。

 美しい少年の裸体には、あちこちに赤い跡が在る。触れればかすかに膨らんで居ることが判るそれは、全て男に吸わせたもので、彼の痩せた胸にも、幾つも散らばっている。彼は全て受け入れて、それを己が職掌と定義し、人間を癒す。俺様が指を咥えさせたり角を折って舐めさせたり、そんな容易い在り様ではない。

 ……悪かった、と俺様は言った。俺様がその程度の在り様で居られるのは、俺様の単角の感度が悪くて、幼子や老人程度しか癒すことが出来ないから。

 ビス子は言う、「逆に俺はお兄ちゃんみたいに、子供あやしたりとか出来ないから」と。僅かにそこばかり、俺様は俺様の居場所を見付けていればいいのだ。

「……調子に、乗ってたかもしれない。……初めて若い男に呼ばれて……」

「うん。……でも、あなたのことを呼ぶ人たちだけ助けていれば、あなたはそれでいい」

「ああ……、判ってる」

 ビス子の言うことは一から十まで、百まで、正しい。

「……俺は、慣れてるからさ。人の心の外側を包む膚に触れて、……同じように俺も膚に触らせてさ、でも、この身体の中には誰も入れない。俺はそういう風に、出来るから。でも、お兄ちゃんはなれないし、俺みたいになんてしなくていい」

「判ってる、判ってる、……もう、言うな」

 ふ、と彼は微笑む。まだ「毒」を逃していないものだから、その微笑みは疲れているし、顔にも本来の艶がない。

 俺様は、どうやって片倉一弥を癒したのか、訊きたいような訊きたくないような、そんな気持ちで。……久一がいつからか忽然とそこに居て「けんか?」「違う、俺がどんだけお兄ちゃんのこと好きか知ってんでしょ?」などと遣り取りをして「ビス子の裸はいっつもエロくて可愛いねえ」とほのぼのとした声で言った。

「人の弟を淫乱呼ばわりするんじゃないッ」

 ……ええと、何の話をしてたんだっけか。暫し見失う俺様の前で、久一が弟の唇を思う存分吸い上げて、毒を飲み込む。

 俺様の感情を、ビス子がこう定義した。

「情がうつったね」

 それはばっさりと切り捨てるように。「移る」のではなく「伝染る」と彼は言いたいのだと、俺様には判った。

「えー、なになに? ぶどう、初恋?」

 久一が嬉しそうに楽しそうに、俺様をからかう。

「ダメだよー? 恋なんてしたら砂糖菓子失格だからね? ぶどうはただでさえ感度も態度も悪いんだから」

 くすくす笑いながら言いたいだけ言って、ただ、これ以上この場所に居るべきではないと、さすがに「神」は賢明なる判断を下したのだろう。ビス子の身体に散った紅い跡を、彼を震わせることなく一つひとつ消して行き、最後に深い口付けをして、「毒」を全て吸い上げる。そして「仲良くね」と、背を向けて天井に消えた。

 俺様は奴の背中を睨みながら、しかし厳然と存在する規律を一番残酷に表現した言葉を前に、怒鳴り返すことも出来ない。

「俺だってさ、……今はもう、慣れたけど」

 ビス子は俺様から眼を逸らして言う。「最初の頃はキツかったよ。めっちゃキツかった。何度……、ねえ」

 判っている、と俺様はうめいた。彼の瑞々しい肌の一枚内側には、俺様のまだ知らない悲しみが詰まっている。

「それでもホラ、俺にはお兄ちゃんと、久一も居るから」

 ぴったりと俺様の胸に額を当てて、ぎゅうと抱き付いて「お兄たん、好きだから、おいらはそれでいい」、彼は少しだけ濡れた声で言った。

 ビス子はいま、こうして俺様の側に居る。

 つまり、ビス子は俺様同様、依然として久一以外の誰ともそういう行為を完了させていないということを意味する。

 男の前で平気で裸になってみせる、甘い言葉を囁きながら、彼らを愛撫する。「彼ら」だけではない、相手が女性のときだって同じ程に在る。いずれにせよ、彼は救済の対象と口付けを交わすし、舌を絡める、その肌を優しく舐め、愛の言葉を囁く。

 「お兄ちゃん」が死んじゃったら、俺、すごく悲しい。だってお兄ちゃんにもう会えなくなっちゃうもん……。

 その全てを演技とは、俺様は呼べない。身体に基づく精神の動きは、俺様たちだって人間と同じように制御出来るものではないのだ。真心を篭めて対象に触れ、彼ら彼女らを癒せば癒すほど、上辺だけでは片付けられない思いが生ずるのは宿命だ。

 その瑞々しい肌の下に、何万回もの失恋が在る。

「俺にはお兄ちゃんだけ居ればいいんだ。……お兄ちゃんのこと、本当に、本当に大好きだから。お兄ちゃんと一緒にずっとこうやって仕事していきたいから、俺はこれからも……、ずっとずっと、誰ともやらないよ」

 俺様と同じ日に作られたビス子は、俺様のことを「お兄ちゃん」と呼ぶ。俺様も兄のつもりでいて、しかし実際には血のつながりも無いし、ほんの少し俺様の方が背が高いばかり、年齢も実は同じ、だから兄弟を証明するものは何もない。

「……判ってる、俺様だって……、そんなことするもんか」

 しかし、それでも通い合うものはある。絆などと言うのは青臭いが、多分そういうものなのだろう。

 ビス子が、嬉しい、と、……ほんの少し、涙を浮かべて、単角を避ける為に顔を傾けて、唇を重ねてきた。互い、舐めたい舌を止めるのに苦労しながら、重ね合わせるだけのキスをした。舌を絡めたら、それだけでは済まなくなってしまいそうで、怖かった。

 ビス子が久一以外の手によって射精した瞬間、彼はその肉体から甘さ全てを失い、存在意義を喪くし、消滅する。

 それは、俺様も同様。

 俺様たちは裸で抱き合ったまま、ただ互いに「抱き合う」という行為だけを愉しんでいた。そして「久一は酷いね」、ビス子の言うことに、完全同意する。何故こんな形に生み出したのだ、こんな、欲をどこにも遣れない形に。男にしろ女にしろ、時と共に欲は重なり、行き場を失う。全ては久一が、俺様たちが持って帰ってきた毒と一緒に吸い飲んでしまう。

「でも」

 ビス子は、俺様の頬に小さな口付けをいくつもいくつも落としながら、言う。

「……俺はね、お兄ちゃんのこと、大好きだからさ。ほんっとに、めちゃめちゃ、大好きだからさ」

 こんぐらい、と俺様の指を下半身に導いて、悪戯っぽく笑う。俺様は笑い返せない。

「だから……、俺と同じ思いさせるのは、悲しいし、……うん、やっぱり、久一を恨む」

 俺様はただ、頷くだけだ。

「……大丈夫だ、俺様は何処へも行きゃしない、……俺様だってお前のこと、好きだからな」

「うん、……こんくらい?」

「ああ……、……触るなよ?」

「うん……、触りたいけど、我慢してる」

 ……いつか、とビス子は泣き声で言う。

「……いつか、もう、本当にダメになったらさ」

「……ああ……」

「お兄ちゃん、……俺のこと、逝かせてくれる?」

 睫毛が濡れている、精一杯に笑おうとして、唇の端がぴくぴくと震える。

「俺のこと、……抱いて、逝かせてくれる? ……他の誰にも、久一にだって見せたことない、可愛い俺、お兄ちゃんにだけ見せてあげる」

 馬鹿者、馬鹿者、馬鹿者、……、俺様は何も言えないで、ビス子の後ろ頭に拳骨を当てて、そのまま肩に胸に埋めた。

「……一人だけで逝かせるか」

 俺様は片倉一弥をビス子が癒すところを、想像したいとも思わなかった。ただ確かなのは、ビス子の存在によって彼がまた甦るのだという見通しだけで。

 しかし同じように確かなことは、俺様が居たことで一弥は一時的にしろ甦り、俺様に向けて……、あろうことか、この俺様に向けて、……「ありがとう」と、言ったということ。

 もう二度と逢うことはないだろう、ビス子の言う通り、俺様は俺様のするべきことだけをしていればいい、泣く子や孤老を癒す、東京二十三区上空の旅は続くのだ。


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