02

 少年は世界で一番大切な命を失った。

 抱き締めた腕の中で其れは眠りの底、少年には骨ばった輪郭とボサボサの毛皮の乾いた手触りばかりを与えて、今はもう遠い処、何度呼べど声は届かぬ向こう側、傍らでしゃがみこんだ人ならぬ命――要するに俺様――は今少し黙って、ゆっくり泣かせてやろうと思っていた。

 「彼」は少年のいちばんはじめの友達だったのだ。

 仕事にかまけて振り向いてはくれない親の間に、生まれつき丈夫でない体で生まれてきた少年、ただ一匹、何となく少年の側で生きていた「彼」のことを、愛したのは必然だったろう。「彼」はいつでも無愛想な顔をして、しかし少年がその名を呼べば不機嫌そうにやって来て、目の前でごろんと横になる。決して愛らしい見目ではなく、在る者が見ればそれは怖い生き物だったかもしれない。だが少年は何と言われようと平気で「彼」を愛した。目付きが悪くて、体が妙に大きくて、乱暴な「彼」は少年の前でごろんと横たわって見せることで唯一、あったかい情のそこに在ることを認めるのだ。

 そんな少年のたった一人の友達が死んだ。

 少年は九つになっていた。

 もう、夜中に暗闇で怯えることはなくなっていた。いじめられるのが怖くて学校を休むこともしなくなっていた。

 たった一匹の、面相の悪い黒猫の「友達」が側に居てくれたから、少年は相変わらずひ弱なままで、いじめられればまだすぐに泣いてしまうけれど、転ぶことなく歩きつづけていた。

 そんな少年の、友達が死んだ。少年の腕の中で「彼」は全身の何処からも力を失しながら、つくりもののように身体を硬く変じさせていた。「彼」は二十二年生きた。

 「彼」本来の寿命を勘案すれば十分すぎるほど長く、大きな病気も怪我もしないでここまで来られたのだから、其れは大往生と言ってもいい、幸せな生涯だったと言ってもいい、少年と出会い、少年の理性と愛情を注がれて生きた最後の九年間は特に。

「……眠れねーぞ、お前がそんな風にしてたら」

 俺様の言葉に、少年は首を振る。乾ききった「彼」の体は、少年の涙だって届かない。その細い腕の力では、その体に温もりを取り戻させることは、もう出来ない。

 「彼」はいつも温かい身体をして居た。冬の少年の布団の中に潜り込み、少年が入る頃にはぽかぽかと温かくなるように。そして少年が入ってくると迷惑そうに身を翻して居なくなるくせに、少年が眠りにつく頃にはまた、いつの間にか傍らで丸くなっていた。少年が叱られて泣いたようなときには、手の甲の上にそっと尻尾を乗せて。

 全てはもう帰らない。

 ……あと一分でも長く、側に居たかった、居させて欲しかった。願いは全て、少年が生きる限りは超えることの出来ぬ透明で冷たい壁に跳ね返されて、「彼」には届かないのだ。

 しかし、俺様は言う。

 何も判っていないで、だけど言う。

「何で猫って奴は、人間を置いて先に死ぬんだろうな?」

 言葉は見えないけれど、その耳にきっと吸い込まれる。

「こいつらは無愛想なくせして、何もかんも判ってやがる。人間の喜びも悲しみも、全部人間よりも上手に噛み分けてな。……こいつはお前を置いて死ぬのが、さぞ心残りだったに違いねえさ。『こんな泣き虫のガキは、俺が居なかったらすぐにヘバっちまう。だから、死んで溜まるか、一日でも長く生きてやる』って。……じじいのくせに、ずっとな、闘い続けてきたんだ。だんだん目も見えなくなって、体が言うこと聞かなくなって、まっすぐ歩けねえようになって、考えもまとまらんようになってきて、……でもな、こいつはお前のために、闘い続けてきたんだ、お前のことがさ、大好きだったからだよ」

 俺様は猫ではない。だが、人間の心を読むことは、猫と同じように出来る。合わせ鏡のように映し出す俺様の並べる言葉が、「彼」の思っていたものとそう遠からぬ処にあるのだということには確信が在った。

 というか、ほとんど人間の考えるところと変わりはしない。「彼」が、もう壮年から老年に差しかかろうとしたときに少年と出会い、ただ一匹、少年の側に居続けることに、少年の親たちは反対した。元々「彼」はこの家の庭に図々しく居座っていて、……居座るどころか、ふと目を離すと勝手に窓から上がりこんで居るような厄介者であって、そこに何より可愛い第一子、生まれたならば不衛生な野良猫など遠くへ遣ってしまいたいと思うのは自然だったろう。

 その日も「彼」は、勝手に上がりこんでいた。夏の暑い暑い日で、風通しのいい玄関の冷たいタイルの上、この家の主の靴を枕にして寝そべっていたのである。

 と、見たことのない生き物――それは彼と体の大きさもあまり変わらないようだった――が、のそのそと這って来るのに気付く。ああ、これが例のあれかと、彼は察して、こいつが居るから俺が居辛くなったのだと、そもそも寝そべる権利すら与えられていないはずの彼は、迷惑げに髭を歪めた。彼の眼線のずらした端を、喃語を喋りながら四足で歩く人間未満は、彼の意識が外のオートバイの駆け抜ける音で一瞬途絶えたところを縫って、彼の長い尾を、力いっぱい握り締めたのである。思わず悲鳴を上げて飛び上がって、後は野生の反射神経に任せて引っ掻いてやろうと思ったところ、赤子はきゃっきゃと笑い、彼の鳴き声に呼ばれて赤子の父母が顔を覗かせたものだから、彼は指先の爪を思わず仕舞う。計算が働いたのは事実である、「此処でこの赤子に取り入っておけば」……、そう考えたのだ。

 一方的な友達扱いをされた。赤子に理性が宿るまでは、それはほとんど「オモチャ」扱いだったかもしれない。然るに、彼は自分の生活のために耐えた。幾度噛んでやろうと思ったか知れないが、少なくとも屋根のある、涼しく温かい室内で、苦労することなく餌に在りつけることの在り難さといったら。

 そして少年に物心が宿って以後は、彼も少年の側に在る自分というものを、しかと定義するようになっていた。それは計算づくの思想のはずで、家猫の狡さとも言えた。しかし彼は、少年が転んで泣けば家の中の何処に居ても駆けつけるようになった、老いた猫は、まだ猫より頭が悪いように見える子供に、「居場所を貰った」という確たる理由に基づいて、側に居続けようと、情を伝わせた。

 小学校に入っても、いじめられたと言っては泣いて帰ってくる。めそめそしてんじゃない、男だったらもっとしゃきっとしろよと、俺に人間の言葉が喋れたなら言ってやるのに。泣くな、負けるな、挫けるな、お前はそんなに弱い子だったのか、……叱りつけてやるのに、そしてこの手がもっと器用に動いたなら、力いっぱい抱き締めてやるのに。

 願いはひとつだって叶わないまま、彼はそれまで出来たことの一つひとつを失っていき、最後にはただ側に居続けることすら出来ずに。

 だけど、

「こいつは嬉しかったろうさ」

 俺様は言った。

「今日、お前が泣かずに帰ってきた。……こいつは知ってたぜ? お前がいじめっこたちに怒鳴り返したのを、ちゃーんと知ってた。だから、安心したんだ。……お前はもう大丈夫だ、何も心配要らない……。そう信じることが出来たから、やっと闘うのをやめられたんだよ」

 少年は閉じられた黒猫の瞳を見つめる。乾いた体のどこにも、何の表情も残っていないように見えて、しかし肉の器から抜けることを許された「彼」は今、自由の腕で少年をしっかりと抱き締めているのだ。

 気付くのが遅えよ、不貞腐れたように毒づきながら。

「ゆっくり眠らせてやれ。……でもって、ちゃんと、言えるな」

 少年は函の中に、ゆっくりと彼の身体を横たえる。拳で涙を拭った少年は、まっすぐに彼を見詰めて言う、

「ありがとう」

 いい子だと、撫ぜたのは俺様の手ではなかった。

 ……死ぬというのは、悲しいことだ。どうしたって避けられないことだ。幼い子供の柔らかな心には、一際深い傷を付ける。既に言ったとおり、俺様たちの甘味は一時的に痛みを和らげる働きしか持たないのであって、「癒す」とは言うものの、実体は案外情けないものなのだ。

 それでも俺様は思う、これは「明日を創り出す仕事だ」、……こう言うと企業のキャッチコピーみたいで好かないけど。

 でもやっぱり、俺様はこの子供の明日を創り出した……、という言い方がおこがましいなら、今日の少年を明日に繋げることぐらいは出来たつもりでいる。

 秋の兆しの色をした夕焼けを背に空を飛ぶ。

 珍しく忙しかった一日が暮れていく。今日は、……どうしてか子供が相次いだ。親に辛い折檻を受けた少女に、成績第一人間性第二の親にこっぴどく叱られた少年に、先ほどの猫を失った少年。子供というのは本当に敏感で、また間近の大人である親ですら想像出来ないほど突飛な発想をする能力を持って居るものなのだから、其の心に触れるときには慎重でなくてはならないはずなのに―そして大人たちだって元々はそうまで傷つきやすい心を持っていたはずなのに―怠惰さと軽率さによって、しばしばそれを忘れる。

 傷を負った子供たちは、自傷自殺までも簡単に選択肢へ入れてしまうし、刃を己に向けるよりはと、外へ乱暴な遣り方で放つ子供だって居る。そんな子供らの数が増加傾向になってから、慌てたように教育や情報インフラを犯人に仕立て上げてその場しのぎの安易な施策に走る。子供というものが、極端に個性的で傷付きやすい生き物であったことを、「元子供」が思い出したなら、「死にたい」或いは「殺したい」と思う子の居ることだって飲み込めよう。そう思うことを認めぬのではなく、それでも前を向いて生きていくための癒しを、大人が与えてやるべきなのだと、学者でも教師でもなければ、人の親でもない俺様はこの仕事をしていて思う。さっきの猫の子供は、非常に純度の高い感情として「この猫が居なくなったら僕はもう生きていけない」ぐらいのことを思ったろう。そう思うことは、ほとんど自然な感情だ。問題はそれを、そっと止める力を惜しまぬことなのだ。

 しばらく空をうろついていたが、ひとまず俺様を呼ぶ声は途切れたようだ。

 勝手なもので、子供ばかり続いたから、そろそろじじいばばあの方がいいなと思った。それでもし希望が叶ったとしたら、今夜塒に戻る頃には「やっぱり子供のほうがいいなあ」などと思う俺様なのだけど。

 午後五時を報せるチャイムが、足元の中学校から鳴る。一旦帰って昼寝でもしようかなと思いつき、それよりも今朝からずっと心細い足をどうにかした方がいいと思い直す。夕べの、片倉一弥の部屋は此処からそう遠くもない。昨日、というか日付変わった今日未明、晩飯の洗い物がまだ済んでいなかったことから想像するに、恐らく毎日仕事で遅くまで働いているのだろう。この時間であれば居ないはずだ、忍び込んで靴だけ取って、昼寝はその後でも遅くはない。

 顔は合わせないほうがいい。呼ばれてもいないのに何度も行くのは、「あまり好ましくないねえ」と久一が言っていた。別に奴の言うことを素直に聞くわけではないのだが、一人の人間に執着されれば、俺様たちにとって消滅のリスクは増す。

 我が器用なる弟は「また遭いたいーって、超呼んでくる人間もいるんだ、大して苦しんでもいないくせに」そういったてあいは全部まるっと上手に無視をする。「だって俺はあんたらのダッチワイフじゃないっつーの」……などと言うこの弟が彼ら或いは彼女らとのボーダーラインぎりぎりの交渉をしているらしいことには、まあ言及しないで置こう。

 夕べのマンションの窓から、するり忍び込む。俺様が足を突っ込んだ可燃ゴミの袋はもう無くて、今朝のうちに持って行ったと見える。

 相変わらず清潔とは言いがたい部屋ではあるが、ゴミ袋一つ分は片付いている。昨日袋の一番上に破片が乗っかっていた便箋も含め、丸ごと捨てたのだろう。ゴミと洗い物が片付いた部屋では、一際濃いクレパスと画用紙の匂いが漂っているように感じられた。

 さて、靴だ。

 何処に脱いだんだっけ、記憶をくるりと辿って、窓辺に目を遣るがそこには無い。だがほとんど探すこともなく、玄関に見付けた。ソックスはぺらりと玄関マットの上に寝そべっていて、靴は抜け殻のように二つ並んで俺様を待っていた。俺様が取りに来ることを想定していたのだろうか。捨てられていたって仕方が無いけれど、案外優しい奴らしい、そう思ったところでぶしゅっと俺様はくしゃみをした。馬鹿に出来ない薄布一枚、保温性通気性とも良いから夏場も脱ぐことなど思いつかなかったが、一日脱いで過ごして、……風邪をひいてしまったのだろうか。馬鹿らしい。

「ぶぁっくしゅ!」

 ちょっとばかし弱った身体は、元々こんな甘くて美味しい訳だしウイルスも見逃してはくれないようだ。夏風邪は馬鹿がひくという、九月も半ばを過ぎた、俺様は馬鹿なんかじゃない。つ、と鼻水が垂れる、やっべ、慌てて、ティッシュティッシュ、中途半端に足に引っ掛かったソックスにすくわれ踏み出した足を俺様自身の尻尾に絡めて、……呆気なく俺様はすっ転んだ。

「……いってぇ……」

 空を飛べる者として、あるまじき失態、

「……何やってんの?」

 そして晒した醜態、……鼻水垂らして、尻餅をついている俺様……、恐る恐る振り返ると、くたびれた様子で鞄を提げた片倉一弥が玄関口に立っていた。

「う、うわっ、うわあっ、何見てんだお前! 馬鹿!」

「あんまり騒がしくしないでよ、隣のおばさんに怒られる」

 一弥は足で靴を脱ぎ、鞄の中の白衣を洗濯機に突っ込むと、手洗いうがい「……鼻水垂れてる」しなくてもいいのにそう指摘して、薬缶を火にかける。俺様が部屋に居ることに、ほとんど何の驚きも無いまま彼は、布団の脇のボックスティッシュを持ってきた。

「な、なんでこんなに早く……!」

「早番だったから……。何してるんだ? もう来ないんじゃなかったのか」

 洟をかむ俺様はいたたまれなさに頬の熱くなっている自覚がある。そんな俺様をほとんど無視して、一弥は狭苦しい台所で立ったまま煙草を吸い始める。三度、煙たい呼吸をしてから振り返り、俺様の手からティッシュを受け取り、すぐ側の屑入れに捨てた。

「……くッ……、靴っ、靴取りに来ただけだ! 別に何か他に用があった訳じゃないッ」

「ああ……、そうか。忘れていくからどうしたもんかなって思ってたよ。警察へ届けに行くのも変だしね」

 まあ、そのうち俺の居ないときにでも取りに来るだろうとは思った、と一弥は言って煙草の火を消す。

「風邪をひいたの?」

 お湯が湧いた。魔法瓶に移し替えながら訊く彼は、俺様が言うより先に、

「悪かった、俺のせいだね」

 あっさりとそう言った。

 しかし、こうもあっさりと謝られてしまうと、……それ以上何も言えないではないか。俺様は相変わらず右の膝にソックスを引っ掛けてへたりこんだおかしな体勢のまま、水を張った鍋を火にかけ、冷蔵庫から何やら取り出す一弥を見上げていた。

「知ってるんだろうけど」

 相変わらずその相貌には疲れが浮かんでいるが、夕べと比べれば少し人間らしい顔色になっているように見える。まあ、俺様と比べれば誰だって健康的な色ということにはなるのだが。

「俺、薬屋で働いてるからさ……。風邪薬、安く買って余ってるのあるから分けてあげるよ。お腹空っぽのまんまで飲んだら気持ち悪くなるから、……夕飯、まだだろ?」

 薬について話すときに、一弥の表情は少し仕事の匂いを帯びた。この男は疲れきってはいるが、仕事が嫌いではないのだなと判る。思えば、家族関係で痛い思いを強いられているのだから、仕事はいい気散じになるのだろう。

「……そんな、気を遣うな。俺様は別に物など食わなくても生きてけんだ」

「だったら尚更放っておいたら悪化するぞ、……ちゃんと栄養取って薬飲んで寝ればすぐ良くなる」

 にこりとも笑わずに彼は言うが、客に向けては愛想笑いを振り撒くのだろう。不意に屈み込むと、気安く俺様の単角の生えた額に手の甲を当てて、「……熱があるじゃないか」と呟く。

「温かいもの作ってやるから、……靴のままでいいから、そんなところで転がってないで中入りなよ」

 俺様、人間に世話を焼かれている、人間の世話を焼くのが仕事の俺様が!

 かっとして、怒鳴り上げそうになったが、面倒でやめた。言われてみれば、両肩から背中に掛けて、普段は何とも思わないようなベストが重たくすら感じられる。俺様たちの身体は人間とは異なるが、人間同様の器官を備えていて、それらに負荷が掛かればやっぱり平気では居られない。仕事に集中している間は感じなかった倦怠感に加えて、唾を呑むと喉がぐいっと硬いような痛みを訴える。

 靴を履くのも億劫で、ずるずると汚れた床まで移動して、壁に寄りかかった。クレパスと煙草臭い部屋の隅っこでへばっている俺様というのは、多分に情けない図のはずだが、頓着出来るほどの元気もない。台所からは一弥が何かを摩り下ろしている音が聴こえてくるが、鼻が利かないので其れが何なのか、わからない。ぼうっと待っていたら、湯気の立つ器を手にした一弥が、「別に、布団使ってもよかったのに」と言って、卓袱台に器を置いた。丼の中には薄黄色のとろりとしていかにも熱そうな液体がたっぷりと入っていて、濛々と湯気が立っている。

「食欲が無いなら、これだけでも腹に入れなよ。温まるから」

 卓袱台の前に座らされて、

「大体……、そんな格好で居たら風邪ひくのは当たり前だ」

 肩に黴臭いどてらを掛けられて、……何とも妙なことになってしまったと思う。

「熱いからな、火傷しないようにしなよ」

 うるさい判っている、言い放つ元気も無い俺様は、手袋を外しレンゲを掴んで、一思いに、その、なんだか良く判らないがスープらしきものを啜った。とろみを帯びた其れが俺様の上唇と舌を苛烈な温度で刺し、

「ぶあつぁあ!」

 思わず引っくり返しかける。

「……熱いって言ったろ……。ゆっくり冷ましながら……」

 はあ、と一弥が呆れたように言う。俺様がすっ飛ばしたレンゲを洗って戻って来て、半分程掬い取ったものを吹いて冷ます。

「……子供扱いするんじゃない」

「ああ……、そうか、お前、子供なのは見た目だけか」

「そうだ。俺様は……、お前なんかよりもずっとずっと長く生きているんだぞ、馬鹿に」

「してない。……大人だったらもうちょっと慎重に啜ればいいんだ」

 ほら、と催促されて、仕方無く、ガキ扱いを我慢した。口に含んで舌に広がったのは、歯が溶けるほど甘く、しかし底辺を辛味が支える生姜湯だ。

「……随分甘ったるいな」

「お前、甘い方がいいんだと思ったから……、砂糖を倍にして入れた」

 三口啜ったところで、体の芯がぼうっと熱くなってきた。辛味成分が俺様の心臓まで届き、火を点けたのだ。今にたっぷりと汗をかいて、それが引けば熱も下がるはずだと思いながら、一弥からレンゲを受け取って、丼に満ちた生姜湯をひと掬いずつ、ゆっくりと啜っていった。鼻は相変わらず詰まっていて判らないが、俺様の膚に浮かんだ汗の粒はじわりじわりと一弥の鼻に、果実の匂いを届けているはずだ。一弥は生姜湯を啜る俺様の横顔をじっと眺めていて、それ以外何もしない。丼の半分程が無くなったところで、「お前は何も食べないのか」と訊いたときに、「帰りに豚丼を食べてきたから」(此れだって普段の俺様だったらひと嗅ぎで判ったはずだ)と答えた以外、言葉も発さない。

 俺様が食べ終えた丼を卓袱台に置くと、其れを流しに持って行って洗い、戻ってくるときには風邪薬の小瓶と水を持っていた。

「卵アレルギーは無いか?」

「ない。ってか、食べたことがない」

「そうか、じゃあこれでいい。……というか、お前みたいないきものは薬を飲んでも大丈夫なものなのかな。……子供だから錠数も減らさないといけないな。お前、年は幾つなんだ?」

「二十七だ」

「そうか。そうじゃなくて、体の年齢を訊いてるんだ」

「……十三だ」

 じゃあ二錠だ、と瓶の蓋を外し、俺様の掌に、二粒零す。錠剤は白い小さなもので、砂糖でのコーティングはされていない。

「……本当に効くのか」

 瓶には「熱・のど・せきに」などと書かれたラヴェルが貼られており、裏を見れば細かな字でびっしりと成分名が表示されている。

「……大人は三錠と書いてあるぞ」

「お前は大人じゃないだろう」

「どこのメーカーのだ、見たことが無いぞ」

「うちの会社のプライベートブランドだ」

「本当に効くんだろうな? 安物で俺様の風邪を治せると思っているのか」

「つべこべ言わずさっさと飲めよ」

「うううるさい、今飲もうと思ってたところだ!」

 掌の白い錠剤はアセトアミノフェンやらジヒドロコデインリン酸塩やらクロルフェニラニ……クロムフェ……クロルフェニラミンマレイン酸塩やら、一つひとつ取り出だしたってバニラアイスとかメイプルシロップとか桃のコンポートとかそういう類の、人間の微笑を生み出せるようなものは無く……。

「……ひょっとして、薬が嫌いなのか?」

「何だと! 俺様がっ、この俺様がっ、苦い薬を飲めないなどとっ」

「だったら、早く飲みなよ」

「うるさい! 自分のペースで飲む!」

 勢いをつけて口の中に放り込み、力づくで嚥下した。ぐび、と空気ごと飲みきって、……眼を白黒させる。俺様の場合は黒と緑だが。

「……おえ」

「そうしたら、帰って温かくして寝てな」

 一弥はあくまで無愛想にそう言い放つと、夕べから壁に掛けたままの洗濯物を、面倒臭げに畳み始めた。洗濯物が片付けば、またこの部屋の環境は良くなる。一弥が好もしい生活環境を作らんと、前向きな行動をしているのを見せられて、俺様は率直に、嬉しいと思った。

「……何かいいことがあったか」

 背中を向けたまま、一弥は「なんにも」と答える。靴下の左右もきちんと合わせて、Tシャツも丁寧に畳んで。

「ただ……、お前みたいなのが来ちゃったってことは相当やばかったんだなって思ったから。だから、ちょっとでも良くならないと」

 その言葉に、「そうか」と答えながら、唇の端がひくひくした。シンプルな達成感が、風邪の身体に活力を注ぎ込む。

 ビス子にしてもそうだが、俺様たちは同じ人間の所に二度も三度も現れるようなことはない。だから彼らの「その後」がどうなったかは、想像するしかない。俺様たちを舐めることで彼らの精神が少しでも快復することは確かだが、踏み台にして立ち直れるかどうかは彼ら自身の問題であって、俺様たちの関しない処で行なわれている。

 ビス子がニュースを――あの部屋にだってテレビぐらい在るのだ――見て「あー、こいつんとここないだ俺が行ったのに」と顔を顰めるのを見たことは何度もある。俺様たちの力には限界もある。多くは癒せていると思いながらも、確たる裏付けがある訳でもない。だからこんな風に目の前で、ほんの少しでも元気になった姿を見せられるのは、……感動的だ。

「頑張れよ」

 俺様は珍しく、優しい言葉を発していた。唇には自然と微笑みも浮かんでいた。元々ビス子のように人の好く顔ではないから、あまり優しい微笑ではない自覚もあるが、俺様は満足していた。

「ぶどうのおばけ」

 俺様が玄関へ向かおうとしたところだった、機嫌の非常に宜しい俺様は、その名前で呼び止められても、腹を立てずに振り向いた。一弥が畳む手を止めて、此方に向き直っていた。

「昨日は……、みっともないところ見られたし、自分の事で一杯一杯だったから、言えなかったけど」

 そういう表情を浮かべるのは、やはり得意でないと見える。だからと言って、見せられた微笑の印象の、悪かろうはずもない。

「……ありがとうな」

「よせよ、そんな……、いいよ、俺様は……」

 こういう生き物なんだ、と言う途中で、信じられないことに俺様は両眼が潤んでいた。

 ありがとう。

 胎の底が少し腫れたような心持になる。ぼうっと温かくて、苦しい。誤魔化す為に何度も瞬きをした。一弥は気付いていないように、あまり力感の無い微笑を俺様に向けるばかりだ。

 俺様たちが、癒す相手と顔を合わせるのはほとんど一回きりのことだ。昨日の老人のようにその場で言葉をくれることも在るには在るが、しかし彼はやはり今朝を待たずに息を引き取った、感謝される謂れはないと思う。

 自分が甘味を与えた相手が、自分の甘味によって確かに力を得てポジティヴな姿勢を取り戻し、感謝の気持ちをそのまま言葉にするのに出会う瞬間など、望むべくも無い。翌日から「彼」がどうなったかを、俺様たちは考える立場にはないのだから。ただ世間が平穏に廻っているのを見て、一つの傷が連鎖して新たな痛みを生むことだけはなかったのだと知ることが出来るくらい。弟の癒したはずの者が、また誰かを傷つけたことで、そちらへ癒しに向かう弟の姿はとても寂しいものだ。

 然るに、俺様は。

「……別に……、お前がどうなろうと知ったことか」

 俺様は背中を向けた。胎から全身に広がる熱が、首筋に汗を呼ぶ。風邪薬が効きはじめたのだろうか、少し眩暈がした「俺様は自分の仕事をしただけだ、それだけのことだ」どくん、どくん、どくん、俺様の甘い血に乗って、熱が巡る。……本当に、早く帰って寝たほうがいいようだ。

 そのまま俺様は大股で短い廊下を横切り、ソックスに足を通して扉を抜けた。振り返るのはよそうと首を固めて、ギザギザの地平線に融けていく夕陽を背にして真っ直ぐに自分の塒へ帰ることにした。元々鈍感な俺様の単角は感冒のせいで益々鈍くなってしまったようで、しばらく塒がどっちだったかさえ迷ってしまう。ほうほうの体で辿り着いた部屋にはビス子も久一も居なくて、俺様はもう何も考えないまま、布団に包まって目を閉じた。


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