01


 風のオルゴールが鳴る音が聴こえる場所に、俺様が居ました。

 

 

 世界が不幸せだ。

 俺様も不幸せだ。

 夜も昼も靄のかかったような東京の空を飛びながら人間の生活というものを見下ろして居る俺様に言わせれば、人間とは可哀相な生き物だということだ。不条理且つ理不尽な傷、抱え込んで病んで潰れて、死ぬか弾けるかの二者択一。悲しみは悲しみのまま、不必要なほどに乱暴な形で誰かに託されて、何処まで行っても止まらない。例えば今日も人が人を殺す、耐え難い苦痛に負けて刃を握り、罪無き誰かを傷つける。その先に在るのが復讐でなくて何だ?

 だから俺様は世界を救いたいと、……思ったところで俺様が見下ろすことが出来るのは東京都の二十三区内に限られてはいるのだけれど、しかしせめて自分の目の届く範囲ぐらいは、誰も彼も傷の委ねあいのような真似をしなくていいようになればいいのに。

 だが俺様にはそんな力もない。この指がどんなに瑞々しい甘さを帯びていようとも、俺様には。

「そんなん気にしてたの?」

 ちううと人の項を気安く吸って弟が言う、生まれつき小麦色の膚から、ハチミツバターの匂いをぷんぷんさせて、笑う。「お兄ちゃんは優しいんだ」

「もう夢の中か。……裸のままで寝ンな、腹下しても知らないぞ」

「ちゃんと起きてるよ。……そーじゃなくってー。みんなみんなみんながお兄ちゃんを求めてるわけじゃないってことだよ。俺のことだってそう。そんなあっちゃこっちゃから呼ばれてたら俺ら何人居たって足りないでしょー」

 それは確かに、ビス子の言う通りかも知れない。現実に全ての生きとし生ける人間たちの苦しみを癒そうと考えたなら、圧倒的に俺様たちの数は足りていない。俺様の考えに大いに甘い処があることは認めざるを得ない。

「お兄ちゃんや俺が呼ばれないっていうのはさ、要するにそういう人たちは別に苦しんでなんかいないってことだよ」

「足を閉じろ」

「えっち」

「見たくも無いわそんなもの」

 苺色の舌で唇を舐めて、起き上がったビス子はやれやれとあぐらをかく、だから足を閉じろと言っているのだ。俺様の視線が逸れたのを見て、我が弟ながら危ういことこの上なし、言わば虫歯になるような笑みを浮かべる。無遠慮に俺様の頬の辺りに視線を送り、「お兄ちゃんにだったら覗き込まれたっていいよ」と言う。「そんな趣味などないわ」と、強がりでもなく言うのに、ビス子はくすくすと笑うのだ。腹の底で蜂蜜がぽこりと湧いた、怒鳴ってやろうと思ったところ、

「おっ」

 彼の角の先に呼び声が届いた。左右のこめかみから生えた螺旋状の細い角は、残念ながら俺様の額に生えたぶっとい単角よりもずっと感度がいいのである。

「……しょーがねーなー」

 俺様の口ぶりを真似て立ち上がると面倒そうに脱いだまま畳むことはおろか広げることもしていないせいで、丸まったままのパンツ、その上にスパッツを穿いて、上は黒のTシャツ一枚。さすがに裸のまま出て行くような馬鹿な真似はしないでくれる。それなりの常識は身につけていてくれてよかったと思う。あくまで「それなり」だが。

 小麦色の肌に蜂蜜色の髪という取り合わせは、角さえ隠せば人間に混じっても遜色がなく、その辺りは羨ましいとも思う。夜闇に突然ビス子が表れて心臓を凍らせる者はいないだろう。愛らしく整った相貌は、重要な部分が隠れれば少女のようにさえ映る。

 俺様などほとんど「ぶどうのおばけ」だ。

 俺様の肌は紫色、髪はストロベリィの紅をベースにミントゼリィの緑の艶が光る。左眼の上に生えた稲妻型の単角も濃淡紫ツートンカラー。耳は人の其れとは異なり、尖っている。

 そして尻尾。ビス子の其れはほとんど目立たないしスパッツがずれて覗けたとしても、兎のように丸い愛らしい毛玉だ。対して俺は、そのまま腰に巻けてしまうぐらいに長くぬめぬめと蛇のように光る、これまたストロベリィとミントゼリィ。先はご丁寧に矢印。

 何より怖れられるのはこの双眸である。黒地に透き通って光る新緑色。ちなみにビス子は人間同様、白地にりんご色の瞳を持っている。

 一緒に並べばまるで、天使と悪魔。

「んーしたら、兄君、行って参るぞ」

「おう。……なんだ」

「行って参るぞと言っておるのだ」

「……だから行って来いと言っておるのだ。……なんだ、鬱陶しい」

「可愛い弟にキスのひとつも出来ないのか貴様は、詰まらん男だ」

 背伸びをして、俺様の頬に尊大な口付けをひとつ、ごしごしと拭いて馬鹿者と怒鳴ろうと思った時には、もうふわりと窓から姿を消した後だった。

「ビスケットは勤勉だねえ」

 声が降る。

「その言葉の前提は『比較』か?」

 睨み上げたら、声の主はくすくすと笑って、

「いやあ、そんなつもりはないんだけど、……だってお前も十分に真面目な子だ。……怒ったか? ぶどう」

 俺様たちの居住空間は人間のリビングルームに酷似していて、ソファ、テーブル、しかしフローリングの上に布団を敷いて居る。天井からぬるっと靴下の足先が覗いたかと思うと、声と共に「久一」が降りてきた。

「ぶどうと呼ぶな!」

 彼の名が「久一」かどうかの確証はないが、「神様」だなんて呼びたい相手ではない、だから「久一」でいい。

「いいじゃないか、折角貰った名前だ、ありがたく名乗りなよ」

 声の主は完全なる人間の姿をしている。シャツにジーンズ、黒い髪はヘア・ワックスでザックリと角を作り、額を丸出しにしているせいで幼くも見えるその微笑みは穏やかだが、……穏やかなのだが、見るこちらの感情はちっとも穏やかにならない。

「……知ってるよ、お前はとても優しい子だ」

 若々しく、よく通る声の主は、実は俺様たちの主でもあって、創造主などと大仰に呼ぶことも出来るが、俺様は彼のことを呼び捨てにする、「お前」呼ばわりだってする。

「何しに来た、お前にはお前の仕事があンだろうが」

 久一はにこりと笑う、俺様の悲しみとはまるで無縁に在るような姿は、例えば一昨日、商店街で三人の人間をナイフで殺害した女の顔を映し出すし、或いは先週、雑踏する駅前で二人に斬り付け警官に囲まれたところで刃を飲んで自殺した男の顔にも見える。「久一」であり「お前」であり、そもそも彼は苦い毒だった。

「判りきったことを問うよな。ビスケットもその点はよく似ているよ、さすがに兄弟だね」

 久一は稲妻型した俺様の角の先を指でつんと突く、触るなと唸りを上げてもひょいと身を翻し、「いいじゃないか、俺も暇なの。どうせまだ何も感じないんだろ?」

 くつ、と笑い声を秘めて彼は言った。「可愛い子供たち、パパのことは癒してくれないの?」

「鬱陶しいわ。俺様の視界に入ンじゃないっ」

「いい匂いだ、甘ぁい甘ぁい葡萄の匂い」

 憎たらしいことに久一は俺様より頭ひとつ以上も背が高い。もっとも俺様をこの身長この肉体に生み出したのがそもそもこの男であって、だから奴が俺の角を握ることなど造作もない。

 俺様の意志とは無関係に、俺様の自慢の角は其の掌にべったりと吸い付く。奴が掌を剥がすときには、短く硬い糸を引き、それがぷつぷつ音を立てて切れる。薄紫色に染まった掌を、奴は一度嗅いでから、嬉しげに舐めるのだ。

「……貴様がそうやって触るから感度が下がるんだ」

「ああ、それはごめんね、不感症は寂しい」

 子供のように掌を舐める。

 ……中和されて往くのを見る。

 俺様の中でとぐろを巻いていた幾つかの魂が彼に移り、ただ其れだけで満ち足りて、尾を引いて去ってゆくのを。俺様の中で行き場を喪っていた久一への苛立ちも同じように中和される。或いは相殺されると言うべきか。その魂の尾の、細く儚く糸のように伸びた尾の描く軌跡を見るのが、俺様は好きなのだと思う。

 痛んだ胸の奥底、ちくり、窓の外へ顔を向けた俺様に久一が気付く。

 にこ、と笑って「いってらっしゃい」、言うくせに、俺様の首筋に指を這わせて、「いってらっしゃいのキスをしてあげようか」

 うるさい黙れ離せどっか行けくたばれ死んでしまえ二度と俺様の目の前に面を見せるな。

 まったく。

 窓から飛び出して、明るい夜空に身を躍らせれば、後は見えない風が俺様を導く。透明な階の上、半ば強制的に足を運び、降りていった先は、……アア嫌だ、病院だ。顔を顰めながら覗き込んだ窓の先、俺様の鼻を濃密な死の臭いが突っつく。

 夜の病院が怖いと人間は言う。なるほど、俺様も夜の病院はあまり好きではない。都内に在る病院のほとんどを網羅しており日に一度のペースであちこち通っているけれど、相変わらず好きにはなれない。薬、病人の汗や垢の、そして涙の臭い、其れが俺様を呼ぶのだ、俺様の角を誘うのだ。

「おい、そこのじじい」

 窓の鍵など俺様の前では何の役にも立ちはしない。硝子を擦り抜けてひらりと入って、「おいコラ寝てんな」

 個室なんて生意気なと思いはするが、意識がそこに止まっているのが奇蹟のような有り様で、呼吸のたびに痩せ細った胸が上下する。その呼吸ひとつが、老人の残り僅かな命の灯火を揺らがせる。濃密な死の気配の向こう側に、在って然るべきはずの悲嘆の存在感は希薄だ。部屋の中を見回すと、明らかに富裕層に属するはずのこの老人の家族の存在を感じさせる物は少ない。

 いや、正確に言えば、無いわけではない。ベッドの傍らには、上手に編まれたマフラーが置かれている。其れに触れなくとも俺様には、其れが誰の編んだものなのかということは判る。

 俺様がこういった事態に接することは、全く珍しくもなんとも無いのだが、だから免疫が出来ていて平然と此れを呑み込めるかと問われれば答えはノーだ。ベッド脇のスイッチを入れて、白熱球で照らした。痩せこけた頬の皺は縦横に深く、顔色は彼の頭が埋まる枕カバーと同じ程に白い。人工呼吸器のマスクの内側、唇はかさかさに乾いていて、閉じた瞼の中で、眼球が眼窩に落ち窪んで居る。最早其れは死人の在りようで、僅かに掠れたような音とともに上下する胸だけが、唯一生存を証明していた。

 かすかに瞼が動いた。長く伸びて先の下がった白い眉毛の間に一際深い皺が走り、ゆっくりと瞼が開く、潤んだ目が光を揺らし、まっすぐに俺様のことを見上げた。マスクの内側で何らかの言葉を紡いだが、俺様の耳には届かない。喋るなと掌で制して、

「悦べ、お前は選ばれた」

 俺様は威張って言った。彼が疑うのはその眼でありその耳であり、ひょっとしたら未だ生きていることそのものかもしれない。

「お前は俺様を呼んだ。……と言っても、俺様は看護士じゃあない」

 こういう状況になった人間というのは、案外に冷静なもので、俺様の紫色の顔を見たところで別段騒ぎ立てるようなことはない。死への「耐性」と呼んで良いのか判らないが、いわゆる末期の患者は短からぬ時間、自分の残り時間の短さを意識して過ごすから、もう何が起きても慌てたり騒いだりすることは少ないのである。

「蜂蜜が懐かしいか」

 視力だけではない、聴力も、多少の衰えこそあろうが日常の生活に支障のあるレベルではないらしい。俺様の言葉を受け止めて、じっくりと自分の脳に浸透させ、理解に至る。俺様は別に怒りっぽくも気が短くもないので、老人の額に刻まれた皺の本数を数えることで気を紛らわせていた。眼の焦点がはっきりと合い、俺様の黒と緑の眼を見詰める。

「伝わったんならいい、そういうことだ。……まあ、悪いが蜂蜜はやれねえが」

 外すぞ、と手を伸ばす。老人は双眸を少し微笑ませたように見えた。俺様の錯覚でないことを祈る。

「蜂蜜、……とは、……昔、今はもうすっかり変わってしまったんだが」

 しわがれた声は、久方ぶりに誰かと会話らしい会話を出来る喜びに満ち溢れている。俺様は黙って頷いていた。

「若い人には衛月庵と言っても伝わらないかも、しれないが。……葵町の衛月庵という……、和菓子の美味い店が在って、蜂蜜を大変に上手く使った……」

「霞月」

「……そう、霞月。よく、ちよと一緒に、劇の帰りに、寄って帰ったものだ」

 「ちよ」というのがこの老人の妻であるということぐらい俺様には判る。老人はまたいつか、最愛の妻と二人で観劇をし、その帰りに衛月庵に寄って霞月を食すことを夢見ていたのだろう。きっと、妻の編んだ紅い暖かなマフラーを巻いて。

 しかし、残念ながら彼の身体はもう動かない。その夢が叶えられる可能性は、既にないようだった。

 俺様は、この命そのものが霞月の老人が案外にしっかりと気を持って、穏和且つ明確な言葉を紡ぐことに少なからずの驚きを抱いていた。

「霞月と、……衛月亭は抹茶も美味かった」

「抹茶か。俺様は苦いものは嫌いだ」

 そうかい、と孫を甘やかすように俺様に笑った。実際、孫にはそんな風に語るのだろうと想像するが、やはりこの病室にそんな気配の欠片だって無いのだった。

「悪いが、……俺様は、蜂蜜じゃない。ただ、お前の望む甘ったるい味を分け与えてやることくらいは出来る、……まあ、あんま贅沢言うな」

 俺様は手袋を外し、皺の口許へ指を二本重ねて寄せた。病に倒れ伏してもなお、知性の衰えぬ老人は一瞬当惑したようだったが、俺様の言葉を待つまでもなく、口を開く。

 明瞭な言葉を発するその口中にはまだ何本かの歯は残っている。乾いて粘っこい口の中へ、……俺様の中に在る甘味よ、この爪と指の肉の間を縫って。

 破裂しそうな悲しみや怒り、或いは泥沼のような絶望、あの月の裏より暗い寂しさを抱えて嘆く者に呼ばれて、俺様やビス子、そして他地域にも同様に居る同輩たちは其処に一滴の甘さを垂らしに行く。デグノボーと言われたことはまだ無いが、西へ、東へ、と言っても俺様とビス子の管轄は東京都二十三区内に限られては居るのだけれど。

 甘味への希求。

 耳の奥まで痺れるような、甘味への、潜在的な欲。

 多分人が「神」と呼ぶであろう久一が、俺様やビス子のような『砂糖菓子』を生み出し、日毎夜毎理不尽な痛みに苛まれる者たちの声を聞き分けられるようにと飴細工の角を生やすのは、彼らの声に応じ、彼らの口へこの身の甘味を分け与える為に他ならない。奥底へ垂れて胸を震わすような、ビス子ならばバターキャラメルの、俺様ならば、まあ認めたくはないが名は体を表すように葡萄の、甘味は、彼らを直接的に救うものではなくても、生きていくって辛いことばかりじゃない、明日ももう少し、頑張ってみようか、そんな風に思わせる力ぐらいにはなれるから。

 そしてこの甘味は時として、最後の癒しとなりうる。

「……ありがとう、ありがとう」

 老人の目は潤んでいた。その顔に、ほんの僅かな生気の紅が差している。だが老人は言うのだ。

「此れで……、もう、何も思い残すことはないと、……言いたいところだが、……遺して行く者のことを考えると、胸が張り裂けそうになる」

 老人は、目を伏せる。

「……フン」

 俺様は笑った。孤独な病室で、彼は死んでいくのだ。

「馬鹿言ってやがる」

 俺様はせせら笑った。

「テメェみてーなじじいはな、世間が忘れたってまだ生きてンだよ。そのうち『まだ死なねぇか』って言われるようになってもまだ生きてンだよ。そう簡単に死ねて溜まるか」

 言って、元の通り人工呼吸器のマスクを宛がう。痛いように微笑む老人の目の縁に、もう涙は潰れて皺の中に滲んでいた。

「じゃあな、俺様はもう行かなきゃならない。まあ、退屈だったらまた寄ってやる、……達者でな」

 窓を抜けて空へ出るまで振り返らなかった。

 目を伏せた彼が再び目覚めることはもう無いだろう。その体にあのように喋ったり微笑んだり泣いたりするだけの力が生ずることは無いはずだ。彼の置いて行く妻がどれほど悲しむかということは、俺様が想像する必要もないことだ。

 頬肉が苦い。ちえ、と舌を打った。

 ご覧の通り、これが俺様たちの「仕事」である。

 俺様は残念ながら、あまりアンテナの感度がいい方ではないので、呼ばれるのは老人や幼子であることが多い。彼らの抱えるマイナス感情は根が深くて、ちょっとやそっとでは排除出来ないものであることが多いから、この鈍感な角でもキャッチ出来るのだ。ビス子はあの通り立派な双角を持っていて、俺様よりももう少し浅い苦しみまでも上手に受け止める。だから、俺様が救えないような者たちのことも、救って廻る。あれはあれで、それなりに懸命に働いていて、我が弟ながら立派だと認めてやらないことも無いではない気もしないではない。

 そんなことを思いながらふわついていたら、ビス子が通りがかる。「スパッツがずれている、尻が半分見えている」と俺様が指摘してやっても、平気な顔で「おつかれちゃん」と笑う。

「二件廻ってきた」

「……そうか、ご苦労。帰って寝れ」

「んー、眠ィんだけどね、けどもう一件だけ」

「行くならスパッツを上げて行けこのド淫乱」

 おにいたんのえっち、と笑って、ビス子は西の方へひらりと身を翻して降りてゆく。足元の街は眠りに就いているはずなのに、所々チラチラ瞬いて、涙を隠している。こんな時間に幼子が起きていることは考え辛く、だから俺様は結局今夜、あの老人一人に甘味を送って仕事はお終いのようだ。

 帰ろう、あ、でも帰ったら久一がまた絡んでくるのか、それはちょっと、いやすごく、嫌だなあ、そんな風に思ったところ。

 角の先に掠めた。

「お……」

 気のせいかと思ったが、ごく……、弱く、頼りなく、俺様を呼ぶ声がする。ビス子が飛んで行った方向とは逆から、衰弱しきった腕を伸ばすように。

 ちょっとそちらへ飛びかけて止まったのは、ひょっとしたらビス子が今の仕事を終えたらもう一件行くのではないかという、他人任せの思いが一瞬過ったから。しかしあの弟は呼ばれたと思えばまた行くのだろうし、そうなればますます眠る時間を削ることになるだろう。人ならぬ身体でも睡眠不足はお肌に良くない。

 北東方面へ、俺様はゆっくりと降り始めた。孤独な老人か、……それとも、親に虐待された幼子だろうか。子供の方がありがたいかもしれないと俺様は勝手に選り好みをする。一夜に二度も、今際の際に居合わせるのは正直俺様の精神状況の安定に関わる。ビス子のように楽には考えられないのだ。

 徐々に近付き、次第に明らかになるのは、俺様が向かっているのが独身者向けのワンルームマンションであるということ。おや、と思う。最近、老人がワンルームマンションに住まうことも少なくは無いが、少なくとも幼子が居るはずもない。訝りながら降りていって、呼ぶ声のした部屋の窓を覗き込むが、青色のカーテンで遮られ、中を伺うことは出来ない。ヴェランダの物干し竿には何も掛かっていなかった。カーテンの裾から、青白い蛍光灯の光が僅かに漏れているが、その他には物音ひとつしない。

 なんというか、生者の気配がしなかった。

 ひょっとしてさっきの呼び声は、断末魔の叫びだったのだろうか。だとしたら俺様が入って行く意味はない。この向こうに転がっているのはフレッシュな死体だけだろう。別に怖いとは思わない、……別に、思わないのだが、入っていくのは無駄足ではないかという思いが去来する。

 しかし身を翻すのは確かめてからでも遅くはないと、俺様はするりと部屋の中へ這入り込んだ。

 いきなり口が開けっ放しのゴミ袋の中に足を踏み込んだ。ぐしゃりと紙くず使用済みティッシュぼろ雑巾穴の開いた靴下他が足に絡み付く不快感に、思わず「うお!」と声を上げて飛び上がって、フローリングの床にべたんと尻餅を着いた。拍子で袋の一番上に載っていた、びりびりに破かれた便箋の欠片が幾つか、床に零れ落ちる。

「……痛ぇ……、汚ねェ部屋だな!」

 腹立ち紛れに毒づいて、俺様は俺様を呼んだ者を探して見回した。

 それは俺様が尻餅をついた、すぐ隣で仰向けになっていた。

 若い男。

 若い男だ。

 驚いた。

 もちろん、そういう種類の人間が存在することは知っている。だが、それは知識としてのみ、これほど間近で「若い人間」を見たことは、これまでになかった俺様である。久一は「人間」ではない。

 二十代の前半ぐらいだろうか、顔立ちは若い。しかし、その両眼の下にくっきりと浮かんだ青黒い隈のせいで、もう少し上にも見える。彼は眼を開けていて、しかし俺様の方などまるで見ていない。眼は彼の排泄器官と化していた、声も上げず身を震わせることもなく、男はその両眼から、ぼろぼろ、ぼろぼろ、涙を流している。

 しばし、圧倒されていたかもしれない。

「お、……お、あ、そうだ、……悦べ、お前は選ばれた」

 俺様がいつもの科白を言っても、男は反応しない。ゴミに足を突っ込んだ驚きと、相手が若い男であった驚きと、その若い男が何とも病的な泣き方をしているのを見て、俺様はあちこちぎこちない自覚が在りながら、しかし這入り込んでしまった手前、職務放棄はしてなるものか、背骨に芯を一本通してしゃがみこんで、「おい」その顔を覗き込んで、「お前、俺様を呼んだんだろ」

 幼く純真な子供は俺様を見て、十中八九は「おばけ」と言う。あながち間違っているとも言えないので「おばけだ、文句あるか」と言って、後はもう慣れたもので優しいおばけは泣き虫の子供に飴をやる。「テメェみてーなガキがぴーぴー泣いてると煩くて大変迷惑だ、とっとと泣き止めこの泣き虫が」俺様の指を舐めるとぴったりと泣き止むのが通例であって、烏の変わり身を見るのが俺様は嫌いではない。老人はさっきのように、何処か超越した思考でほとんど無限抱擁のような状態になることがほとんどだ。

 若い男の場合、どうであろうか。ビス子に訊いたことがある。

「いろいろだねえ」

 あまり役に立たない。「腰抜かしちゃう人も居るし、現実逃避する人も居るし。だけど一から事情を説明してあげたら大体オッケーかな。後はアレだ、パンツ下ろしてあげるともう確実におっ」本当にあいつは役に立たない。

「あー……、呼んだんだろ、……何とか言え、おいコラ」

 大人の男がこんな風に泣いているのを見るのは初めてである。男はうろんと音を立てて濡れた両眼を俺様に向ける。驚くだろうか、声を上げるだろうか。葡萄色いや紫色の膚をした俺様である。

 男は、俺様へと目を向ける。

 それから、呆然と俺様の顔を、身体を、眺めて口を開けた。正常なリアクションが取れないところを見ると、相当に参っているらしい。

「……あ、ああ、ええと、そうだ、俺様はテメェのことを笑いに来たんだ」

 咳払いをして立ち上がって、「大の男がガキみてーにべそべそ泣いてンじゃねえや」

 自分の悪い言葉をこの尖った耳に収めて、少し、ペースを掴み直す。男は泣き顔を隠すこともなく、何処か白っぽくも見える両眼を、再び天井に向ける、……死んだ鯖がこんな眼の臭いを発しているなと俺は思った。

「ぶどうの……、おばけ」

「ぶッ……!」

 言われ慣れては居ても、やはり失礼に過ぎると感じられる言葉を吐いて、男が起き上がる、ヨレヨレのTシャツの袖で濡れた顔と耳までを拭い、赤い眼をして俺の足元を見る、憮然とした俺様の足元を指差して、「……土足で上がらないで」

 若い相手は勝手が違う。ビス子はいつもこういうのを相手にしているんだろう、しかし俺様はこの半ズボンと内側に穿いたパンツを脱いで「ほらあ」と見せた処で何の癒しにもなりはしないだろう。いや、俺様と同じく男の形をして生まれたビス子だが、あいつの場合はなぜか其れが効果覿面であるシーンがしばしば在るらしい。

 俺様より可愛いからに決まっているが。

「靴は……、あの、ああ、……ああ」

 また、ペースを喪った。靴を脱いで、「……これソックスと繋がってるから脱ぐのめんどいんだけど?」

 相手は何も言わない。俺様は内心でちぇと舌を打って、ずるずる脱いだ。どうしよう何処に置こう、とりあえず、窓辺に底を上に向けて置いた。「これで、いいか」

「……どうして……」

 洟声で男は言った。そんな簡単な問いにも、咄嗟に用意できなくて。ビス子のように愛らしさを持っていれば全く違おうが。デニム地のショートチョッキを着直す間に、どうにか冷静さを取り戻そうと努める。

「お前が呼んだんだ、この、俺様のことを」

「俺が……」

「いやだから、お前が……、呼んだんだろ、そう、だから、悩んでンだろ? 悩んでたからそんなさ、ガキみてーに泣いてた、……そうだな」

 何か、ほとんど自分の此処に居る事さえ揺らぎそうになって、俺様は改めてざっと部屋の中を見回して、この男の味わっている痛苦の正体を探る。すぐに気付くのは、この部屋の持ち主がかなり疲れきっているのだということだ。一応生活をするに不自由の無いものが揃っているが、それぞれに手入れが行き届いていなくて、台所へ視線を送れば洗い物が山のように溜まっているということはないのだが、恐らく数時間前に使ったらしい雪平鍋が水を溜めて放置されている。洗濯物は室内、ベッドの脇に掛けられているが、もうすっかり乾ききっているのに仕舞われていない。そのベッドに掛けられた布団はしばらく洗っていない様子だ。部屋の隅には埃が溜まっている。一人暮らしということ以上に、この男の精神生活を支える存在も周囲には無さそうだと俺様は思う。

 ただそんなとっちらかった部屋の中で異質なのは、まるで幼子の居る家に漂うような、クレパス、そして画用紙の匂いである。戸棚を見れば、何枚も無造作に重ねられた、クレパスで描かれた絵がある。其れは小人の絵だったり、恐竜の絵だったり、猫や犬の絵だったりした。絵に関しての審美眼は持ち合わせては居ないが、それらが総じて優しいタッチで描かれた、柔らかな絵であるということばかりは判る。

 これぐらいの情報が揃い、人ならぬ身の俺様に掛かれば、この男の苦しみには着実に近付ける。そもそも若い男でありながら俺様のアンテナに引っ掛かったということは、それだけこの男が先鋭的な苦しみの中に在るということで、ヒントは幾らでもある。

「うん……、なるほどな。母親が再婚したのか、そりゃあ大変だ。……アア?」

 思わず俺様は声を上げた。

 目の前の男はただ、憔悴しきった様子で卓袱台に肘を付いて、呆然としたように俺様に眼に向けている。俺様は少しく混乱したまま、単角の先に指を当てて、男の内側に何が入っているかを探るために、……潜り込む。

 男の精神に侵入した途端、びりり、舌が強張るような苦味に顔を思わず顰めた。

「ンだ、これ……」

 粘膜の薄まった胃壁に直接降りかかり痛めつける胃酸の味だ。

 老人の苦味の原因は胃酸よりは諦めきった脳の疲れであることがほとんどだ。子供の場合は反射的に爆発する絶望が苦味に繋がる。

 それにしても、……普通に考えて、だ。「普通」なんて俺様の得意ではない言葉だが(だって俺様たちの存在そのものが「普通」なんかじゃないから)母親が再婚、確かに子供の眼から見れば、特に男の子供からすれば母親の再婚というものに対しては、複雑な受け容れ方をせざるを得ないのは無理からぬところだろうが。

 しかし二十歳を過ぎた男がそんなことでこうまで胃を痛めるだろうか、こうまで深い傷を負うだろうか。疑問に思いながら、一度、顔を上げる。男の職業がドラッグストアの接客販売員らしいことは、洗濯物の中にチェーンストアの白衣が掛けられていることからも判る。だが、……なるほど、正社員ではない。派遣だろうか、或いはパート社員かもしれない。

 「そういうのばっかだよ」ってビス子が言っていたっけ。最近の若い連中の何割かが非正規雇用、安い給料でこき使われて、保障も無い。「格差社会の哀れな落とし子たちだね」と判ったような顔で言う、いや実際、弟は判っているのだ。つまりこの男の痛みには社会的な側面もあるということだ。

 俺様は微かに興奮を覚える。

 此れまで一度も、救いたいと思っても呼ばれることすらなかった相手ということだ。……ずぶり、泥っぽい沼の中に手を突っ込んで、藻のように指に絡み付いてきた数々の悲しみは、なるほどこれまで俺が相手をして来た者たちが抱えることのなかったようなものばかりで、仕事のストレス人間関係、……後から入って来た子のほうがずっと時給がいい、だってあの子は薬剤師、接客能力ならば俺の方がずっと上なのに、など、などなど。

 「社会」なるものの中に組み込まれて生きるがゆえに感じる痛みを、人間はもともと人の間に生まれてものである以上、不器用にでも遣り過ごす術を持っているはずだ。然るに、その術を持たぬ者、或いはその術を持ちながら、使いこなす労力を惜しむ者、そして処理能力を超えるヴォリュームを抱え込んでしまう者……。一番目はビス子のアンテナには引っ掛かるから救えるが、二番目は単なる自分勝手なので、誰のアンテナを感応させることもなく、最悪の場合、「社会」を逆恨みして暴虐の刃を振り回す、俺様が一番愁うる対象だ。「そんなん、しょーがなーい」とビス子は言う、俺様もそうは思うのだが、殺される者が出てしまう、傷付くものが出てしまう、そして、其れはまた新たな傷のきっかけになる。ならば、……努力さえしない者に対して気を配るのは不本意ながら、それでも救える限りは救いたいと思う。

 だがこの男の場合、一番目も二番目もあてはまらないようだ。既に食道を爛れさす胃酸の存在を見れば、……そして、この男の見た物の幾つかを拾い上げれば、決して不真面目な男ではない。寧ろ物事に対しては誠実に応じるようで、つまりは、三番目。

「……片倉一弥、二十四歳、接客販売員で、……えーと、高卒か、で、就職出来なかった、でもって、……童貞、と」

 ちら、と片倉一弥の横顔を伺う。疲れきってはいるが、そう悪い顔ではない。ただ、愛想というものがなくて、もちろん其れも疲労に伴うものでは在ろうし仕事でレジに立っているときはにこにこ笑っているのだろうが、今はその片鱗も覗けない、プライヴェートでいつもこうなら、女の寄り付くことも無いだろう。

 片倉一弥は卓袱台に肘を載せたまま、動きもしない。

「おい」

 反応もない、心ここに在らず、本当にこの男の心は、ここ以外の何処かに浮遊しているのかもしれない。些細なことでも疲弊しきった心身に積み重ねられれば、やがては潰れてしまう。この男の場合、種々の社会的なストレスで弱った処に、「母親の再婚」という事件が乗り、起き上がるのも億劫なほど、ぺちゃんこになってしまったようだ。

「……ってかさ、お前、俺様を見て驚かないのか? 俺様はお前が言ったように『ぶどうのおばけ』なんだぞ」

 紅い髪、紫の肌、額にそなえた角に尻から長く垂れる尻尾、そして何より色の逆転した眼、へそに嵌めたリングピアス……のように見えるけれど実はフエガム、順に見ていって、

「……もう、別に、何にも驚きゃしないさ」くす、くすくす、すすす、笑い出す。「何にも驚くようなことがあるもんか」すすす、笑い方は精神を病んだ者のそれ、大層シビアな状況を前に、俺様は正直、ちょっと面倒だと思った、……いや、嘘だ、正直、少し、怖いと思った。

「お前は」

 努めて胸を張って、トン、心臓を叩く。

「甘いもんが欲しいと願ったんだろう、違うか?」

 笑いは途中から掻き消えて、また元のとおり薄暗い表情だけを此方に向けて、彼は少しの間、俺様のことを見上げていた。心の中に潜り込んで漁り回して相手を知ることくらい、お茶の子である。改めて俺様を「ぶどうのおばけ」と思ったか、片倉一弥は数秒言葉を発さなかったが、やがて「ああ」と答える。

「……そう、だな、そうだったかも知れない」

「覚えてねえのかよ」

「……願ったって、誰が叶えてくれるんだ。そんなおとぎ話みたいなこと、あるもんか……。……でも、そうだな、言われてみれば思ってたかもしれない、もう随分長いこと……、食べてなかったから」

 この部屋で最後に食べられたのは味噌味のインスタントラーメンで、一応自分でネギの切れ端を乗せたらしいが、満たされるのは腹ばかり、それでもこの男はそれを食べなければいけないのだ。

 よく言われることだが、「疲れたときには甘いものが欲しくなる」此れは肉体が根源的に求めると同時に、甘味に舌が触れた瞬間の精神的弛緩を本能的に求めて居る状態だが、もっと単純に、しょっぱいもんばっかり食ったら飽きるのである。そして、これは経験則で言うのであまりあてにはならないのだが、俺様の感覚としては、やっぱり悲しみの底に居る人間というのは、甘味と縁が遠かったりするのだ。そもそも涙だって塩辛い。

「いつ以来食ってないんだ?」

 俺様が足を突っ込んだ方以外にももうひとつ、不燃ゴミの袋は口を閉じられていて、なるほど今日は日付変わって金曜日、この地域の不燃ゴミの収集日だと思い出す。半透明の袋の中には、オレンジ色の味噌ラーメンの袋が幾つも入っている。

「……いつ以来だろう」

 片倉一弥は俯いて、ぼんやりした目を膝の間の自分の手に落す。

「……思い出せないな、もう……、半年以上は食べてないかもしれない。二月に……、そうだ、二月にチョコレートを食べた。……でも、それが最後かもしれない」

「二月ってことは、ヴァレンタイン・デーか」

「……だったかな、どうだろう」

「お前にもチョコレートを寄越す女が居るんだな」

「……どうせ本気じゃない、安物だよ」

「いや、それは俺様にも判ってるんだけどな。……二月ってことは、もうかれこれ七ヶ月か。……その間はずーっとこういう?」

 と、俺様が半透明のゴミ袋を差す、紫の指の先には、やはり味噌ラーメン。

「金がないからな。……昔は……、時々は、母親の処で食わせてもらったりしたけど……」

 かち、と金属に指が当たった気がする。俺様は最初其れが何なのか判らなかった。痛え、と思って指を引いて俺様が見るのは、この男の心の中に埋もれていたナイフで傷付いた俺様の指が、青色の血を滴らせている様だった。

「……なるほど」

 この男の苦しみの焦点は「家族」だと確信する。手掛かりに、手探りに―今度は指を傷つけないように―この男の記憶を漁って、ナイフよりも更に痛い記憶の数々に行き当たる。其れはこの男の心の中、幾重にも覆われ鍵を掛けられ塗り潰されて、本人すら普段は見ぬように過ごす場所に、隠されて在った。

 その函を開けると、苦しいから、悲しいから。

 俺様も、開ける気にはならなかった。ああ、はっきりと言おう、開けるのが怖かった。この男が何年も何年も抱えてそこの中、隠し続けて来たものが、一体どれほど苦いのか……、想像して、足が竦んだのだ。

 ずっと抱えていたものが、この男の内側と外側から、同時に圧力を掛けたのだということだけ、俺様には判るのだった。

 母親の「再婚」である。

「……あー……、そういう、あれか……」

 ばりばり、俺様は頭を掻いた。

 片倉一弥の両親が離婚したのは、彼が中学一年生のときだ。ずっと前から、父が母に対して言葉の暴力を振るっていることは知っていた。普段は真面目なサラリーマンに見えて、休日には家族揃って近所に買い物に出かけ、裕福とは言えないまでもそこそこかつかつの生活を営んでいる「幸せな片倉家」の皮を一枚剥したところにある社会から隔絶された時間では、いつも母は泣き、父は何かに駆られるように荒れ狂っていた。母は二人の息子を護るためにと、一弥たちを連れて家から逃げ出したのである。

 片倉一弥が母と年の離れた弟の三人が暮らしたのは小さなアパートの一室―それこそ、この部屋とさほど広さも代わらないような―、当然のことながら家計は苦しく、高校に入るなり一弥はアルバイトで家計を支えるようになった。母の実家から少々の送金はあったが、経済状況は逼迫しきっている。一年生の夏休みが終わる頃には既に、自分は大学になんて行けないんだといくつもあったはずの選択肢を全て諦め、ただその日その日のアルバイトに没頭することで、欲を全て抑殺していた。

 家族への滅私奉公、其れが一弥のして来たことである。当然、彼の母親は一弥に感謝していたはずだ。もちろん彼が、自分の元夫を嫌っていることをよく知っていたはずだ。

「なのに、……何でだ?」

 隣に胡坐をかいて、俺様は訊いた。側に寄ると、心の炙られて焦げたような苦い臭いが鼻を突く。

「……ああ?」

「何で、お前のおふくろは、自分やお前を散々酷い目に遭わせてきた男とまたやり直そうなんて思ったんだろうな?」

 夕立の黒雲が覆う顔を、彼は掌で幾度か拭う。何度掌で撫ぜたところで、一弥の顔が晴れることは無かった。

「……騙されてるんだろ」

 ぶっきらぼうに、「忘れたんだろ」 彼は言う。

 つまり、こういうことらしい。

 ……一弥の父親は、自らのして来た行為を深く反省し、同じ過ちは二度と犯さない、だからもう一度やり直そうと、一弥の母親に言ったのだ。五年を超える歳月で人間の傷というのはどれほど癒えるものなのだろうか、俺様には全く理解出来ないが、母親は夫の求めに応じる気になった。年の離れた一弥の弟もまた、「父親」という存在を恋しく思う気持ちが在ったらしい。また、彼には一弥と比べ、父に暴力を振るわれた記憶が薄い。一弥は泣き虫弱虫の弟を父の暴力から護り、また幼子の寂しさを自ら描く絵で慰めてはいたけれど、目の前から消えた「父親」の存在を求めるカラクリは何となくだが理解できた。

 かくして、物事は一弥の外側で、歪んだ鞘に収まろうとしている。

「……俺は……、忘れない。あの男が……、どれだけ俺を苦しめ、苛んで来たか。そして……、俺は母さんたちを許さない」

 一弥は静かに、しかし内側にはっきりとした狂気を感じさせる声で言った。彼の周囲に、彼の痛みに進んで同化しようとする者は居なくなってしまったのだ。

 ―あのナイフが、この身体を突き破って表出し、風切りの旋律を残して舞い踊る―

 二人が和解の道を択んだことで、誰より傷んで来た一弥は石の中よりなお冷たい孤独感の中に居る。彼が抗えば抗うほど「家族」たちは彼を嫌う、……そう、それでは一体俺は何のために大学を諦めて……、何のために……、刃のような言葉を浴びせられてもなお……。

 それは、お前たちの為だった。

 俺の自我を犠牲にして、……それは全て、お前たちの……。

 一弥がどんなに嘆き呪ったところで、事態の変わることは無いだろう。一弥も恐らくはそれを判っている、だからこそ、喉を引き裂くような呪詛の叫びを上げる力も失って、ただ仰向けに倒れ、泣いていたのだろう。

 この男の内側には、明確な害意が在る。今なお、塞がるどころか新しい傷を生み出し、じくじくと膿んで激痛で四肢を裂く、……原因が父親であり、母親たちを含んだ「家族」たちだと言うならば、其処に在るナイフ、いつ本当に具象化して、誰かを傷つけないとも限らない。

「……片倉一弥」

 喉が少し掠れた。俺様は咳払いをひとつして、「片倉一弥」言い直す。

「俺様は、お前を癒しに来た。まあ、……そういう生き物、いや生き物じゃねーか、何だろ、……ええと、とにかくそういうモノだ。どういう風に解釈してもらっても構わん」

「……ぶどうのおばけなんだろ」

「あー、だから、その、そういう風に解釈してもらっても構わん。確かに俺様はぶどうのおばけだ、あっちこっち葡萄の味がする、そういうふうに出来ている。だから、ほれ」

 どうも、この疲弊しきった男を相手にしていると、何だかペースが乱れる。要するに不慣れな相手に違いなく、老人や幼子の無垢さがまるでないものだから、一つひとつの言葉や態度、俺様のほうが解釈に苦しんでいる。大人というのはそういう生き物なのだろうか。

「お前の欲しいとゆってた甘味をだ、俺様はお前にやることが出来る訳だ。俺様がお前のような男の前に姿を表すなんてことはなあ、まずないんだぞ」

 アンテナの感度が悪いから。

「……だからせいぜいあれだ、大人しく、でもって崇め奉って俺様の指を舐めるが良いぞ」

 彼は、ぼうっとした顔で俺様が鼻先に差し出した指を見詰める。赤らんだ目が寄る。

「……、指を?」

「指を」

「……舐めろと?」

「そうだ、舐めろ。甘いものが欲しいんだろ」

 俺様の言葉に、憑き物の落ちたような顔になる。なんとも居心地の悪い空気が一弥の首筋から苦い臭いに乗って溢れてくるような気になる。そうだ、ビス子と俺様は違う。少女のようなビス子の指ならば、……これぐらいの男ならば、舐めてみたいと思うことに何の不思議もないが、俺様のような葡萄色の膚をした男―「男」と威張って言えるような外見年齢ではないが―に「指舐めろ」と言われたって、真ッ当な神経をした男がそうそう舐めようと思うはずが。老人や幼子ならばイザ知らず。

「……うお」

 俺様の、葡萄の味のする指は、苦い苦い苦い男の口の中に収まっていた。舌の柔らかさに老若男女そう大きな差があると俺様は思っていない。柔かく、濡れていて、……絡んでくる。

 俺様が少し、融ける。同じように、刃の先が丸くなればいいと、其れはほとんど、俺様も、祈るように。

「甘かった」

 口許を手の甲で拭って、彼は言った。首筋のくすぐったいような気がして、髪を下ろしてくればよかったと、三度俺様は思った。

 また、一弥は俯く。

 俺様たちが齎す甘味は、言ってみれば頓服薬のようなものであって、一先ず可及的速やかにその暗闇の中から引き上げてやらぬことには壊れてしまうそして誰かを壊してしまうという者たちに、一時にしろ安寧を与えるのが役目である。後は感冒と同じ、人間自身の回復力に期待することとなる。最も、先ほどの老人のように、それが最後の癒しというか気休めにしか繋がらないこともある訳だが、それでも穏やかな気持ちを与えることぐらいは出来たつもりでいる。

 苦い指をデニムのパンツで拭いながら「……本当なら、お前みたいな奴には俺様の弟が来るはずなんだ。兄である俺様の眼から見ても……、それなりに見られた顔の弟だと思っている。まあ、今度お前がしんどいようなことになったときには、恐らく弟の方が来るだろうと思う、……その方がこういうのは自然だ」

 言わずもがなのことを言ったが、一弥は「ああ」とだけ言って、俯いたまま、もう動かない。ただ其の膚から発される焦げたような臭いの、少しばかり軽減されたのを俺様は感じたので、

「じゃあ、な。達者でな。……頑張んなよ」

 言って背を向けたところに、

「もう行くのか?」

 薄い声が触れる。

「もう、って……、そりゃあ、俺様の仕事は以上だからな。……まあ、お前がどうしても苦しくてしょうがねーときには、また来るかも知れないけどな、そんな日が来ないことをせいぜい祈ってろよ」

 言葉が通じる相手というのは却って厄介かもしれない。ガキなら宥め透かして寝かせてしまえばこっちのものなのだが。

「あー、あと、あれだ。俺様を見たことは誰にも言うなよな、……んーまあ言った処でテメェが変人扱いされるだけだろうけどさ」

 判ったか? 問うたら、俯いたまま小さく頷いた。存在することが誰かにバレたって俺たちは別に消滅したりはしないけれど、中途半端な悩みで電波を飛ばすような輩が増えては困る、俺様の弟が過労死してしまう。

「……んじゃな」

 最後まで、一弥は顔を上げなかった。

 二件しか廻っていないくせに、何だかぐったり疲れて、もう呼ぶ声もないことなので真っ直ぐ塒に帰ることにした。一度だけ振り返ったら、一弥の部屋の明かりは消えていて、どうやら眠ったらしかった。そうそう、しめっぽくてもあったかい布団で寝るのが一番、美味い飯を食うのが二番。考えるのは三番目か四番目でいい、その眼から青黒い隈が消えりゃあ、お前にも適当に癒してくれる相手が見付かるだろうさ。

 塒に入ると、……またもやみっともない姿でビス子が既に眠っていた。トータル何件廻ったか知らないが、さすがに寝顔には疲労の色が浮かんでいる。そうなれば寝姿に責任を取れとまでは言えない。しかし、横たわる彼の下半身のスパッツを引き摺り下ろして、何ぞ、面妖な行為に及ぼうとしている久一が居る。

「しー」

 うるさい貴様に言われずとも判っとるわ!

「……貴様は人の弟に何を晒しているのだ」

「一回しただけなのに、すぐ寝ちゃったからさ、まあ、起こさなければいいでしょ」

「いいはずあるかこのシデ虫!」

「シデ虫は酷いなあ。まあいいや、……おかえり、ぶどう」

「ぶッ……、どうと、呼ぶなと言っているだろう馬鹿者」

「細かいこと気にしない。……ところで靴をどうしたの?」

 靴? 俺様は自分の裸足を見て、あのワンルームマンションに脱いだまま忘れてきてしまったことに気付く。「明日にでもちゃんと取りに行きなさいよ? ぶどうの生足は綺麗だからいいけど」と、憮然とした俺様に久一は言って髪を撫ぜる、払い除けるのももう億劫だ。疲れているのだ。

 彼は屈んで俺様に目を合わせた。真っ直ぐ俺様の双眸を覗き込むのは銀色の視線で、その奥には赤黒く疲れた血の色が透けて見える。あらゆる憎悪あらゆる悲嘆、……そしてあらゆる疲弊が詰まったもの、それが固まって人間の形を成している、これが久一である。

 単角を避けるように顔を傾けて、久一が俺様の唇を、吸う。

 俺様の咽喉の奥から、俺様が受け取った毒を煙の形に変えて吸い込んで行く。俺様の中に、痛みの形で納まっていた煙を、彼は飲み込んで、……唇を外すと、天井に向かってゆっくりと吐き出す。黒い煙となって、天井の向こうへ消えていった。俺様は胸が透き通ったような気になって、あの老人の寂しさも、片倉一弥の憎しみを、俺様は確かにこの身体の甘味で慰めることが出来たのだと思って、少し、嬉しくなる。これは俺様が「ぶどうのおばけ」で在る以上感じる喜びなのだ。

 久一は疲れたような顔になる、そうして再び屈むと、俺様の唇にまたキスをする。まだ吸い切れていない部分が在ったのかも知れないと久一にさせるがまままにしていたが、すぐに舌が這い入ってきて、俺様の中を歩き回るに至っては単なる悪戯だと気付く。

「んむう!」

 腕を突っ張っても、体格差は大人と子供、まるで歯が立たなくて、結局俺様は一分近く、口の中を犯され続けていた。

「……馬鹿者」

 顔が離れて、多分俺様はぐったりしただけだ、疲れがぐっと腰に来ただけだ、ぺたんと座って、胡坐をかいて「何処をっ」見ている!

「しー。ビス子起こしたくないだろ」

「……ビス子を起こしたくないが貴様にそんなことされたくもないわ!」

 奴の悪戯の対象となるのはビス子のような愛らしいかどうかは主体の決するところに拠ろうがそこらの若者をたぶらかすには十分な見た目をした娘だけではなく、俺様のような、泣いていた子供が俺様を見て更にもう一泣きするような膚の色をした相手にだってまるで平気に触手を伸ばす。軽々と、久一は俺様を抱き起こし、俺様はその腕に抗って一暴れして、

「う、うーん、んー」

 ビス子がうるさげに寝返りを打つ。二人して顔を見合わせて「しー!」と指を唇に当てた。

「……声出したらダメだよ?」

「貴様がこんなことをしなければ……!」

「『こんなこと』って、どんなこと?」

 久一はくすくす笑って、俺様の太腿に指を這わせる。思わず、息を呑んだ。

「絶対領域も可愛い、けど、生足も可愛いよね。ぶどう、お前は、俺がいっつも言ってる通り、お前が思ってるよりもずっと可愛いんだから……」

 ビス子はこういうとき、絶対に抗わない。嬉しそうに久一の腕に身を委ねて、思う存分、……仮に俺が見ていようと平気で声を散らす。

 しかし、俺様にはどうしてもそんな素直な振る舞いは出来ない。

 神であり、創造主であり、俺様を生み出した久一が俺様を抱くのは自由である。それは、単なる性行為ではない。人間たちを癒し、其れ相応の痛みを我が身に飲み込んで帰って来た俺様たちに与えられる祝福のようなものだ。久一は俺様たちが抱えて帰って来た苦味も痛みも全て飲み込んで、俺たちに再び甘味を供給するのだ。

「んぁ……っ、嫌だ……! 馬鹿っ……」

 しかし、この行為は、単純に、すごく、すごくすごく、死んじゃいそうになるくらい恥ずかしい。

「お前は、馬鹿だねえ……」

 俺様のデニムパンツの前に指の背を当てて、久一は憎たらしく言う。

「『素直じゃないところが可愛い』って言ってるのに、そういうことを言うのは敢えて? それとも俺へのサービス? 若しくは俺に辱められたいからなのかな」

 俺様のチョッキは既に両肘に引っ掛かっているだけだ。久一は身を屈めて俺様の、「葡萄」の肌に実る、そういう色をした乳首の先を舌で弾く。

「ひ……!」

 髪をぎゅうと押さえることぐらいしか、俺様の抗いの手段は残っていなかった。

「……相変わらず、此処、弱いね。ビス子はもっとガマンできるよ?」

 角の感度は悪いくせにね、……そういう風に俺様を作ったのはお前だろうが!

「でも、すっごく可愛い」

 また、久一は俺様の乳首を吸った。

 男の身体は其処で反応するものだと、俺様は随分長いことまでそう信じていた。しかしあるときビス子の前で久一に其処を愛撫されて、散々に鳴かされた後で「お兄ちゃん、おっぱい気持ちいいんだねえ……」と感心したような顔で言われて、自分だけなのだと知った。

 今では、屈辱以外の何物でもない。男のくせに「おっぱい気持ちいい」なんて、

「言って、ぶどう」

 耳元で、久一が囁く。普段はだらだらと喋るくせに、その気になればこんな静かな低い声だって出せる。俺様の、尾骶骨まで直下する。其処に何かが蟠る。

「……い、やだっ……、そんなの、言うもんか……!」

 きゅい、と久一が、……俺様の乳首を抓った。痛い、……だけならば「んぁあ……っ」そんな声を出さないに決まっているだろう。

 久一の指は執拗に俺様の、粒のように突起した其処を摘んで捏ね回す。いっそ倒れ伏してしまえたら楽だが、久一のもう一方の腕はしっかりと俺様を拘束している。長身と短身、こういう行為に都合が良いように俺様の形を定めたとは思えないが、俺様の身体は悔しいくらい久一の腕の中で安定している。逃げられない。

「もぉ……っ、もぉ、やだぁっ……、おっぱい……、すんの、やらぁあ……!」

 いつも、こうだ。……情けない気持ちで一杯になりながら、俺様はガキみたいに泣いて言う。「じゃあ、言えるね?」がくがくと頷いて、

「おっぱい……っ、おっぱい、気持ちぃっ……、気持ちいいよぉ……!」

 声を絞り出した。

 何て憎たらしい奴だろう、この「神」なる身の男は。

 しかし、俺様はもう逃げを打つ気力もない。自分の口にした、何とも無様な言葉に心がぐずぐずになってしまった。

 いや、……それだけでは、無いのかもしれない。

「いい子、ぶどうは、すごく可愛い子」

 久一は俺様にキスをする。いつまでも舌を伸ばさないで、触れるだけのキスをする。それだけで俺様の心臓を、どうにかしてしまうことが久一には出来るのだ。

 俺様が目尻から涙を零して舌を出せば、待ってましたと言わんばかりに、絡め取る。

 耳の下の腺がばちばちと音を立てて爆ぜるようだ。身体が熱くて熱くて熱くて、壊れそうになる。しかし、俺様の中に在った他者の悲しみは全て、唇が離れたときに久一の中に移動している。そして彼はそれを、美味そうに飲み込むのだ。

 腕が解かれると、俺様はずるずるぺたん。

「窮屈そうだね」

 うるさい、と。言葉にすることも出来ない。俺様のぎりぎりに切られたデニムパンツは、元々が少し小さめサイズなものだから、俺様の男の形をした性器が変容すれば、それは久一の眼に具に明らかになってしまう。久一は俺様を胡坐の中に座らせて後ろから抱き締めながら、「此処に溜まってるのも、出して、楽になろうね……」幼子を扱う優しい父親のような声で言う。

 デニムパンツの中の下着から取り出した俺様の、残念ながらさほど大きくもないし未発達な見た目をした性器に触れて良いのは、久一だけということになっている。

 砂糖菓子である俺様やビス子は、人間たちの深い処まで立ち入り、彼らを癒さなければならない。俺様の行く先は、今日のような例外中の例外を除けば総て子供か老人であるが、若者の元にも訪れなければならないビス子の場合、その仕事には、言葉や指先の甘さ以上を要する場合もある。

 即ち、対象と肌を重ねること。

 しかし、射精をしてはいけない。対象を幸せにするのは良し。だが俺様たちは、絶対に射精をしてはいけない。

 俺様もビス子も、射精が気持ち良いということは知っている。それゆえに、人間たちと肌を重ねることを喜びと感じてしまえば、その行為に依存してしまう。

 だから、俺様にしろ、ビス子にしろ、その快楽に触れることが出来るのはただ、久一の手によってだけだ。禁を破れば俺様たちの身体は消滅する。厳密に言えば生命体ではない俺様たちだが、死んでしまうのだ。

 俺様たちは、この東京の空に生を享けて二十七年、ただ久一によってのみ、愛されて来た。久一は性格は悪いし底意地も悪い、いいのは見た目ばかりの男だけれど、それでも、俺様たちの身体に唯一無二の幸福を与える存在である。

 それだけに、……判るだろう、ビス子は、……そして俺様は、どんなに口汚く罵っていたとしても、結局はこいつのことが好きなのだ。

「大好きだよ、ぶどう」

 一転、甘く優しく、蕩かすような声で久一が言う。その声が俺様の身体を濃厚な甘い汁の中に浸すのだ。今宵も大勢を癒して回ったビス子に比べて僅か二人だけ、それでも俺様の中には多少の疲労が在って、久一にそう言って貰えるだけで、全てが癒える。

 形の良い指が、俺様の、既に先端を濡らして震える性器に触れる。左手は飽かず俺様の胸に当てられていた。指先は焦らすように俺様の乳輪の周りで円を描き、時折気紛れのように粒を掠めた。

「久一……ッ、もう……っ、ガマン、無理っ……」

「……みたいだね、判ってる。お前の此処、すごく熱くなってるもんな?」

 尖った耳に、音を立てて彼はキスをした。

「……いいよ、ぶどう、……可愛い可愛い、俺のぶどう」

 唄うように、俺様のグロテスクな色の肌に言葉を染みこませて、「とびっきり可愛くっていやらしい、お前の声、俺にいっぱい聴かせてよ」

 それは、支配者の手によって齎される、恐ろしいほどの快感だ。

「んぅ……っ、ふァあああっ」

 ビス子が起きてしまう、声を上げてはいけない、判っているのに、俺様は久一の望んだまま声を散らしていた。

 ……もちろん、声だけではない。

「あ……っ、あ……、はぁ……っン……!」

 俺様は、胸に、腹に、白い液体を放っていた。其れは音もなくとろとろと垂れて行く。人間で言うところの「精液」だが、俺様やビス子の其処から溢れ零れるものの中に一匹だって生命体は居ない。そうではなくて、シロップだ。俺様の鼻にははっきりと、甘ったるい匂いが届いていた。

「……気持ちよかった?」

 久一の言葉に、呆然の中、俺様は極端に素直だった。フローリングの上、彼のシャツを背に敷いて横たえられ、肌を舐められている間に、……目を向けた先、ビス子がによによと笑っている顔が目に入った。もちろん、久一も気付いているのだろう。

「……お前も参加するかい?」

「えー……、どうしよっかなー」

 既に身を起こしながら言うな馬鹿者!

 ビス子だって、男の形の身体をしている。この行為は大好きなのだ。俺様が見ている前でだって平気で久一に甘えて、そのまま裸になって、俺様を閉口させる。「おにいたんも一緒にしようよ」「うるさい、馬鹿っ、ひっぱるな!」そういう遣り取りを、いつもしている。

「久一、何でさっき続きしてくんなかったの?」

 ビス子は俺様の隣に裸になって座ると、創造主のほっぺたをむにぃと摘む。

「狸寝入りしてたから、邪魔をしないようにと」

「狸寝入りしてんだから、起こしなよ、馬鹿」

 ねえ? と俺様の顔を覗き込んで、俺様が眼を逸らしたら、「ひひひ」と笑って唇を奪う。もう、俺様に口を閉じたままで居るための努力も根性も無くって、敢え無く俺様は弟のキャラメルの味の舌に絡み付かれている。

「ん……、お兄ちゃん、甘酸っぱくって美味しいや」

 頬を少し赤らめて、ビス子が笑う。

 俺様の「弟」として作られた彼は、確かに顔付きも俺様より少し幼いし、性格も少々子供っぽいところがある。しばしば俺様を困惑させるようなことを平気で口にするし、久一との行為に対しても極端に積極的で、まさか人間たちと頻繁に行為をして、そのたび生命の危機に直面しているのではないのかと不安になる。

 それでも、この弟は、とても愛らしい。馬鹿だが、それでも、俺様は好きだ。この弟が俺様のことを、……有限の刻を生きる同胞として、心から愛してくれて居るのだということが判るからだ。

 ビス子はキスが好きだ。それは俺様とビス子が出来る、唯一の肉体的な遣り取りだから。ビス子は久一の愛撫で幾度も幾度も高みに上り詰めながら、それでも本当に欲しいものは何一つ手に入っていないと言う。

 「だって俺が欲しいのはお兄ちゃんだもん」と屈託なく笑って。

 しかし、其れは互いの命の終わりを意味する。一つになれた瞬間に、俺様たちはお互いを失わなければならなくなる。そういう風に俺様たちの身体を作った久一を恨みたく思う半面、俺様にこの美しい弟を作ってくれたことには、……そして恥ずかしいのは事実だが、それでも快楽を与えてくれることには、感謝しなければならないと思っている。

 ビス子は俺様の胸に散ったシロップを全て舐め取ると、俺様に身を重ねて「久一」と尻を向けて強請る。

「俺、お兄ちゃんと一緒にしてほしいな」

 久一は、闖入してきたビス子を咎めることなく「はいはい、お兄ちゃんと一緒ね」と寛大な対応をする。重なった俺様とビス子の腹の下に左右から手を入れて、

「んぁっ……」

「あはっ……、お兄ちゃん……、だーい好き」

 久一は器用に俺様とビス子のペニスを両の掌に収めて、同じリズムで扱き始めた。ビス子は嬉しそうにまた俺様にキスをするし、俺様の腕は自然とビス子の身体を抱き締めていた。割合、硬い身体の俺様に対して、ビス子の身体はどことなく曲線的で、太っているわけでは決して無いが、触れると微かに柔らかさを感じる。だからこそ、その相貌の愛らしさも相俟って、少女のように見えてしまうのだ。

 その美しい顔を、俺様の間近で、快楽に歪ませる。……しかし、彼に快楽を与えているのは久一の掌だ。意図的にだろう、時折久一は二つのペニスの先端を擦り合わせた。其処で濡れた音が立つ。

「あぁ……ンっ、お、にぃちゃっ……、もぉ……っ、もぉ……!」

 その声、何処までも、何処までも甘いその声。

 俺様は自分からビス子の頭を抱き寄せて、キスをしていた。どうせビス子の方が甘い舌をしている。「甘酸っぱい」と言ってはくれたが、俺様の舌は、俺様がビス子の舌を蕩けるほど甘いと感じる以上、この弟にはとても酸っぱく感じられるはずだ。それでも、

「んンっ……んん!」

 ビス子の舌が、びりっと震える。遅れて俺様の腹の上に、火傷しそうなくらいに熱いビス子の「精液」が零された。

 久一の手によって、ビス子の纏う匂いによって、甘い舌によって、俺様も射精する。

 久一の手が離れ、……俺様たちは舌を絡め合ったまま、甘ったるい余韻の中に沈んでいた。「全く、お前たちは」久一が溜め息混じりに言う。

「勝手に自分たちだけでいっちゃうんだもんな」

 久一が、前に教えてくれたことがある。

 俺様たちの生み出される前にもたくさんの砂糖菓子がこの街の空を飛びまわっていたこと。そして、その誰もが、呆気なく生を終わらせてしまっていたのだということ。その先は、久一に言われるまでも無く、俺様には判っていた。何れも快楽への誘惑に負けて、久一以外の者―多くは同胞と―結ばれることで、消滅してしまったのだろう。

 俺様とビス子は、彼らと比べれば既に桁違いに長い時間をこうして過ごしている。即ち、二十七年間。

「……ごめんね、久一」

 俺様に代わって、ビス子が謝った。「……もしあれなら、俺、したげるよ?」

「いいよ、その気持ちだけありがたく受け取っておく。お前たちの愛し合う姿を見たら、お腹一杯だよ」

 ころんとビス子が俺様の身体から降りる。俺様の胸には、二人分のシロップが交じり合っていた。久一は顔を寄せて其れを一口舐めて「これで十分」と微笑むと、俺様とビス子の髪を二度ずつ撫ぜ、俺様たちの身体を拭うと、立ち上がった。

「さあ、じゃあ、俺の気の変わらないうちに少しでもお休み。またいつ呼ばれるか判らないんだからね」

「……性欲をそうやって制御出来るのならば、最初からすれば良いのだ」

 俺様の憎まれ口にニヤリと笑って、「気ィ変わっちゃおっか」と言う。「寝るぞ」と俺様は服を着て布団に潜り込む。ビス子もこっくりと頷いて、スパッツを上げた。

「おやすみ、俺の大好きな子供たち」

 久一はひらひらと手を振って、天井からすり抜けて消えた。奴がいつも何処へ行くのか、俺様は知らないし興味もない。

「お疲れさま」

 こっちの台詞だとは言わずに、俺様はただ掌をその眼に重ねた。彼は俺様の手を取って、ちょうど中央部分をくるんと舐める。

「……今日な、若い男が俺様を呼んだぞ」

「へえ……、めずらしい」

「ああ。……色々と戸惑いはしたが、俺様はちゃんと仕事をやってのけた」

「そっか。止めたんだね」

 何を、と言わなくても、ビス子の言葉をきちんと解釈し、俺様は頷く。えらいぞ、とビス子は手を伸ばして、俺様の頬を何度も撫ぜた。生意気なとは言わないで、させるがままにしておいた。

「俺はねえ……」

 ビス子は少し、思い出すように目を伏せたが、諦めたように目を開く。

「……いろいろ、まあ、忘れちゃったけど、今日も頑張った」

 あの孤独な老人のこと、そして片倉一弥のこと、手にした毒が、久一と、ビス子と、交わした遣り取りで、もう消えていく。

 互い、おやすみと言った記憶は無い。ただ、束の間の、それでもとても深く安らかな眠りに、俺様たちは沈んで行った。

 


お戻りください。