苦糸

 穏やかに冬が通りの隅々まで行き渡る。冬麗の午後に北風も吹かず、裸になった百日紅は薄青い光の降りる庭に黙ったまま長い影をくねらせて居る。六甲は障子を開けて布団の中の身に温かさを受けながら、私が枕元に座ってもまだ目を醒まさない。路地を抜けたところを走る路面電車の、踏み切りの音が微かに聞こえてきた。

 白い眉間に皺が寄っている。

 伏せられた長い睫毛に冬の陽が薄ら長く影を成す。十五歳ながらまだ頬にはにきび一つなく、小さな口許はぴくぴくと時折僅かに痙攣する。タオルケットの角を握った指は細く、僅かに覗く手首も華奢で、まだ変声も迎えていない少年の身体は年よりずっと幼く見える。起こしたものかと案じていたところ、不意にその両眼が開いた。眩しい陽光から咄嗟に逃れるように布団に潜り、微かに膨らみは震えた。

「六甲」

 私の声に応じて、頑なに閉じられた布団は少しだけ緩み、恐る恐るといった趣で布団の隙間から顔を覗かせる、臆病そうな顔は私を認めると「先生」と、か細い声を出した。

「怖い夢でも見たか」

 手を伸ばして、さらりと細い髪に触れた。

「六甲?」

 十五の年にして私のそんな甘やかしに耐えうるほど、六甲は弱い子だった。そして、私のことが好きな子だった。六甲は未だ恐怖の尻尾に弄られているかのように私の掌をしばらく黙ったまま受け続け、それからようやく身を起こした。両手の中に溜め息を潰して、首を横に振る。

「……仕事は?」

「今日は土曜日だから、午後は休みだ」

「ああ……、そうか、今日は……、土曜日……」

 パジャマ姿の六甲は裸足に靴下を履いて、立ち上がる。トイレに行って戻ってくるまでの間、私は焙じ茶を入れ、それからこの部屋の空気が少し澱んで居ることに思い至り、庭と繋がる窓を開け放った。サンダルで庭に出て、煙草に火を点ける。「寒いよ……」と六甲が首を竦めて布団に膝まで潜り、私が置いてやった焙じ茶を吹く。六甲が携帯電話を取り出す私のほうを見て居る、少し、緊張しながら見て居る。私が震動三回で収まった携帯電話を取り出して、ちらり瞥見して、またジーンズのポケットに仕舞うまでの間、六甲はずっと黙っていた。

 私が何かを言う必要はない。平気で煙を噴き上げて、縁側に腰掛ける。灰皿に一度、伸びた灰を落とした。

「……どう、だったの?」

「……何が?」

「あの……」

 ふう、と後ろ頭に当たる視線を心地良く感じながら、私は煙を吐き出した。

「俺がお前を餓えさせたようなことが一度でもあったか?」

 振り返らずに言ったが、六甲が私の言葉に肩を少し縮ませたことは見なくても判る。私は煙草の火を消して立ち上がった、頬に当たる冷気も穏やかで心地良く、肺に満ちた煙を吐き出すための深呼吸をした。塀の上では三毛猫が上品に両手両足をたたみ、目を細めて日光浴をして居る、六甲が諦めたように茶を啜り始めた。私が手早く携帯電話を操作するのを、またじっと見詰めながら。

 室に上がり窓を閉めて、空になった茶碗を受け取って、

「夜になれば判ることだろ、お前は寝てろ」

 私は言った。六甲は素直に頷くが、目許は憂鬱を含んでいる。怖い夢を見るからだ、しかし見た目はどうあれ十五歳の男子がそんなことを口に出せる訳もない。

 怖ければもっと甘えたっていい。六甲は思春期に在りながら、未だ少女のような見目の甘ったるさを持って居る。抱えた愁いにも翳ることのない目許など、随分と稀有な美しさであると私は思っているが、未だその麗しさを備えぬ年幼い頃のこの子が怖くて眠れないと甘えてくるのを煩わしいと思ったことは一度もなかった。

「二度寝しても構わないぞ」

 私が言ってやったら、首を横に振って布団の中に収まり、此方向きに顔だけ出して、「本を、読みたいな」と言った。本を二冊と焙じ茶をもう一杯、枕元に置いたら六甲は静かに『変身』を読み始めた。

 下総六甲は十五歳だ。

 私は、……上園惣一郎は、四十歳だ。

 世界の外からそうは見えなくとも、そういう事実がこの路地の片隅の旧家、冬の日向には在って、其れを疑う者は誰一人としていない。下総六甲と私に血縁の関係はなく、下総家は踏み切りを渡った向こう側のマンションにあり、其処で父母、そして十四歳になる六甲の弟の漕太が暮らしている。六甲と漕太は年子だが、一目見て六甲が兄であることを当てられる者は少ないほどで、運動の達者な漕太はすくすくふんわりと成長したことも確かだが、それ以上に兄の六甲の病弱さに拠る所が大きい。生まれ持った病巣は小さな少年の身の内で五つの時に夥しい量の出血をし、生死を彷徨う三日を経てどうにか収めたものの、その身に消えることのない爪痕を残した。十年以上経った今でも無理もさせられぬ身体であって、だから六甲は高校には通わず、中学卒業以降はずっとこの家で療養を続けている。義務教育時代だって、体育の授業は全て見学、勉強は嫌いではなく成績は中の上というほうだが、出席日数を稼ぐのが精一杯という側面もあって、早い頃から私は高校進学を断念するよう六甲とその両親に提言していた。

 六甲の中には躊躇いも残っていたようだが、両親の強い説得もあって、結局今の形の日々がこの八ヶ月間、続いている。即ち六甲は基本として布団の上に在り、体調のいいときには私と共に近所に散歩に出かける程度、必ず日に一度は昼寝をして身を休め、夜も早い時間に床に就かせる。

 私は医者兼薬剤師であり、この部屋は診療所の一角である。入院患者を受け容れる設備はないが、住居空間には余裕があり、此れはたった一人、六甲だけが静養する為の場所である。六甲は五歳になる前からこの家に入り、日々に私の診察を受け、私の薬を飲み、私の作る飯を食う。生きるために生きている彼と、彼を取り巻く人々は六甲が四歳の時に出血を起こした際に私の薬で一命を取り留めたと信じていて、だから私の言に従って六甲をこの家で静養させるし、其の上に毎月少なくない金額を私に渡す。子を思う親の気持ちの美しさ、私は傍目から見てシンプルに「すごいな」と思いはすれど、共感できる物ではない。それでも、六甲が側に居て彼を護る日々に、私が疑いを持った瞬間は一度もない。

 一時間ほど調剤室に篭り、今夜の薬を作り終えて戻ってくると、太陽は既に塀の向こう側に隠れ、翳った部屋の真ん中に敷いた布団で、六甲が本に指を挟んだまま眠っていた。細い肩が出ている、すぐに布団を掛けてやって、私は少年の横顔をしばらく見下ろしていた。大して握力もないその手が掴むのは、多分六甲の「生」そのものであって、其れを繋げる私は少しでもしっかりと握りこめるように結び目を作ったり、補強したり、その柔らかな掌が擦れて傷付くことのないよう表面を適度に滑らかにしたり。

私の創り出す、生を繋ぐための糸だけを頼りに生きる少年を見る、私の胸に宿った悪意が鳴る。今は怖い夢とは無縁に、穏やかな眠息を立てて、……どんな夢を見て居るのだろう、そんなことを考えながら、傍らに肘を付いて横たわって、寝顔を観察する。ここ数年、少年の身体の時計は発条が緩んだように実際時間から遅れ始めた。だからこの少年の寝顔は十五歳にしてなんとも甘やかなものだ。弟の漕太とは余り顔も似ていない、両親とも、今ひとつ。何代も前の先祖の血が不意に現れたかもしれない、漕太もそれなりに愛嬌のある顔をして居るとは思うが、六甲の相貌の纏う甘さとは比べ物にならない。

 私はだから、飽かず六甲の寝顔を眺めていた。

 有り体に言えば、……食べてしまいたいくらいの可愛さなのだ。いとおしい、そんな瑞々しい気持ちは、十年前に初めて六甲を見たときからずっと私の胎の底に蟠っている。無論其れを私は発露させたりしないし、そんなに若い自分でもない。ただ時折、犬歯が疼く瞬間がある。泣かせぬために側に置いている子供を、泣かせてみたいなどと矛盾した欲を自覚する瞬間の、いくつかが。此れは例えば人間的な「性欲」と呼ぶことも可能だろうか。其の仮説には得心が行かない、寧ろもっと食欲に近いと思う。六甲の涙とは私の最も見たくない物であるはずで、だからこそ泣かせぬようにずっとその心身を護り続けるという約束を私は破らずに来た。然るに、その約束を、当に自分の足で蹂躙する瞬間には、或いは嘔吐にも似た解放感が在るのかもしれないと想像するのだ。何かを生み出すための欲では断じてない。

 ずっと見ていたい、そんな甘ったるくひ若い子供のような感傷は携帯電話が震えたのでもう止めて、私は六甲が指を噛ませる本に栞をし、空にした茶碗を持って起き上がった。

 

 五時前に六甲は起きて、きちんと着替えて居間の座布団に小さな尻を乗せると、本の続きを読み始めた。「腹減ったか」と私が聞くと、こくんと頷く。六甲は病気や体型とは関係なく―その細くいかにも弱々しい外見とは全く裏腹に―食欲は旺盛である。起きて来たのも、私の仕込む鰤大根の匂いに惹かれたに相違なかった。

「まだしばらくかかる、此れでも食べてろ」

 と、昼の味噌汁の出汁に使った煮干を味醂と醤油で炒ったものを小鉢に持って置いてやると、手で摘んでは一匹ずつ、小鉢を見もせずに食べながら、本を読み進めて行く。食欲のあることは、見た目にも元気な印象を与えるもので、私としても気分がいい。

 日露戦争を知っているこの旧家であって、台所も旧弊である。私は古びた鍋で飯を炊く。炊飯器を使ったことがない訳ではないが、やはり鍋で炊く飯の甘さには敵わない。携帯電話で何でも出来る便利な時代だが、不便が故の味のあることは私ぐらいの人生経験があれば判るはずだ。

 六甲が小鉢を持って私の隣に来た。

「もっと……、ない?」

 既に綺麗に空になっている。

「ない。あと三十分もすれば出来るから大人しく待ってろ」

 しゅんと六甲は小鉢を置いて、箸と茶碗を支度する。冷蔵庫―は真新しいものだ、今年の夏に購入した―から大根菜のふりかけや納豆、今朝の残りのほうれん草の胡麻よごしなどを取り出して卓の上に並べて、無言で私の背中に視線を送る。鰤大根など急いだって早く出来るものではないのだと、言ってやることもしないで私は弱火にして居た飯鍋の火を止めた。六甲は思い出したように器を持って勝手口からもうすっかり陽の暮れ落ちた外に出て、しばらくして白菜漬を持って戻ってきた。自分で包丁を取り出そうとするから、

「もう、いいから。大人しく座ってろ」

 手順違いだが仕方がない、恐らく、六甲の好物を出さなかった私が悪いのだ。既に一度洗って仕舞った後の俎板を取り出し、六甲から包丁を受け取って、適度な大きさに切った。湿っぽくて冷たい白菜からは、ほのかに甘酸っぱい香りがする。ツマミ食いをするなと言って器を渡す、六甲は基本的に私の言うことならば何でも素直に聞くので、言ってやれば器を卓に乗せて、もう背中を向けても手を伸ばすことはない。

 色よく煮詰まった大根がとろとろにほころんだ、鰤大根の完成は間近である。

 六甲が摂る、日に三度の食事は全て私の手による物だ。無論中学校に通っていた頃までは昼に給食という、味はどうあれ栄養バランスはまあまあ良いものに委ねざるをえなかったが、卒業後はずっと私の作った飯を、六甲は食べている。好き嫌いは無い訳ではなく、牡蠣と数の子と鮑が食べられない。冬場は損な食嗜好であるが、食べると体調を崩してしまうのだから仕方がない。またハンバーグや海老フライ、オムライスといった子供っぽい食べ物は好きではなくて、此れは私がずっと和食を食わせてきたからだろうと想像する。月に一度くらいは外食をすることもあるが、外の飯が家の飯より美味くないのだから、自然、六甲の好きな物というのは私の作る何処といって鮮やかなところのない種々の料理であり、例えば白菜漬が好きなのである。

テレビも余り観ないし、携帯電話を欲しいと言ったこともない、ただ黙々と本を読んでいて、其れで満足と言い切れる六甲の根幹には、自分のいつ尽きるとも判らぬ生への諦念が在り、逆に言えば生きているだけで幸せ、私の作る料理が美味しいだけで日々が楽しくなるのだろう。無論、私は六甲を死なせはしないと決めている。私がそう決めることが何より重要なのだ。

 完成した鰤大根、それから茶碗に盛った麦混じりの飯、に大根菜のふりかけを混ぜた納豆を乗せて食べる六甲の箸使いは器用だ。がっつくなと私が言うまでもなく、行儀よく食べていく。居候三杯目にはそっと出しの言葉の通り、三杯目には「お茶漬けの分だけ」と小さく言い添えた。茶漬けには多い量を私は盛って、白菜着を幾切れか、チューブの山葵を少し、それから海苔。「先生、いいよ、お湯注ぐだけで」と六甲に言われても構わずに、小口切りの青葱、そして焙じ茶をたっぷりと掛けて六甲の前に置いた。私は一杯半も食べれば十分で、途中からは六甲の食事する様をただ見て居るだけだ。

 茶漬けを、まるで高座の噺家のように上手に啜る六甲に、私は切り出した。

「三万八千五百八十円、だった」

 ふっ、と一瞬六甲が吹いた。宙に飛んだ飯の一粒を箸で摘んでその口に運んでやりながら、

「先週と合わせて約七万円だ。……言っている意味が判るか?」

 訊いた私に、困ったように六甲が頷く。

「俺から言ったってお前のところの親御さんは聞きやしない、だからお前が言うんだ」

 下総六甲の両親は、毎月私に金を渡す。其の金は診察費であり入院費であり、何より六甲の養育費であるが、私にとっては今のところ全く必要のない金であり、金庫の中に仕舞っていくばかりで使い道もさほどない。今年の夏に前の二ドアの物が壊れてしまったので冷蔵庫を買い、リサイクル業者に旧品を渡す際にたまたま持ち合わせがなく使わせてもらった以外は、ほとんど手つかずの状態で残っている。

 だからその金は要らない。六甲の養育は、私の医者としての趣味でやっているような物だ、親代わりのことをして居るかもしれないが本当の親はあんたたちなんだから、金なんて払ってもらわなくて結構―などということ、私としては直接的には言えない訳だ―

「あのね、……僕も、先生には感謝してて、生きてるだけで精一杯な身体を、こうやってご飯食べさせてもらったりとかして、支えてもらって、……其れをうちの両親が同じように感謝して、出せるものが何にもないからせめてお金をって思ってるのは、判るんだ」

「出せるものが何もないなら出してもらわなくってもいい。この間スーパーでお前のお袋さんを見たときのことを話したな? レジで働いてた」

「……うん」

「そういう形で捻出された金を、俺は何の役にも立てることは出来ない。いや、俺はもっと楽なやり方で稼ぐし、そっちの方がお前の親御さんに対して申し訳ない気持ちにならなくて済む」

 楽なやり方というのは、競馬のことだ。もう何年も前から私は競馬をやっていて、この間お前に新しく買ってやったパジャマも、低反発タイプの枕も、俺が表に出るとき履く靴は全部、競馬の稼ぎで買った物なのだと言ってやったら、アレルギー反応が出た。まだ社会に出たことのない、恐らく今後も出ることを想定していない六甲からすれば、「競馬=ギャンブル=悪」という明確な図式があって、其れがショックだったのだろう。私は小さな診療所の医者であり、薬剤師であり、確かに真ッ当に病に苦しむ近所の人々を癒してはいるが、そんな私を見て私を真面目な男と評するのは、長年側に居る六甲にしては安易に過ぎたし、そもそも真面目な人間だってギャンブルはやるだろう。退屈紛れに何となくやっては、呆気なく当たってしまうので退屈しのぎにもならないことも多々在るが、私は自分と六甲のそれなりに自由な生活に必要な金は小さな診療所の収入と競馬で十分確保できてしまうのである。

 其れを証明し、年明けの一月からはもう月々の金は要らないのだと六甲からも言わせるために、収支を報告して居るのだ。生臭い話になるが、今月の頭に下総家から受け取ったのは六万円だった。昨今の不況の折り、此れだけの金をどういう苦労を根拠に私へ渡すのか。渡される私は携帯電話で馬券を買って、後は悠然と普段通りの生活をして居るだけでほんの二週間足らず―正確には、先週の土日、そして本日土曜日の合計三日間―で稼いでしまえるのだから。

「でも……、競馬は、ほら、負けたら減っちゃうわけでしょ? 今日まで勝った分が、明日でなくなっちゃうかもしれないでしょ?」

「だから俺は昼間訊いたんだよ、お前がこの家に来て、貧乏に苦しんだことが一度でもあったかって」

「それは、……確かに、ないけど……」

「何にせよ、月末まで待てば俺の言ってることが正しいって判る。約束したんだから、ちゃんとお袋さんたちに言うんだぞ」

 六甲は唇を尖らせて、こっくりと頷く。午前中、裏に住む一人暮らしの婆さんから貰った温州蜜柑を、黙ったまま剥いて食べた。飯二杯に茶漬け一杯、鰤の切り身凡そ一人前に大根を三切れに味噌汁、それから納豆一パック、食前に煮干炒めを食べて尚、食後の甘味を省略しない。其れで居ながら六甲の身体は相変わらず痩せているし、身長もまるで伸びない。その身の小ささを自覚すれば、精神も幼くなるのだろうか。六甲からすれば見上げるような体躯になった漕太がこの間ふざけて六甲を両手でひょいと抱き上げたら、ショックだったのか泣いてしまった。泣いてしまうような自分に益々傷付いて、半日ぐらいは落ち込んでいた。

 幼い身には幼い心が宿って居た方がいいかもしれないとは、思う。その身の形に相応しい心が在るのだと、私は自分のことを棚に上げて思う。

 風呂上りに鏡を見て、少しだけ顎の下に影が出来たか、しかし明日は日曜だが、自分の顎を撫ぜながら、歯ブラシ立ての隣に寝そべる剃刀を見て居た処に、髪を拭う六甲が言った。

「剃らなくていいんじゃない?」

「……そうだな。早く服を着ろ」

「先生、髭そんな濃くないから大丈夫だよ。明日、誰かと会うわけでもないでしょう?」

 目の前の子供には無縁な物である。

「薄い分、中途半端に伸びてくるのが一番みすぼらしく見えるだろ。……背中がまだ濡れているぞ」

「そうかな。……先生若いし」

 髪を拭き終えて、新しい下着に足を通しながら六甲は言う。

「童顔で得したことなんて一度もないけどな」

「童顔っていうか……、ええっと……」

 六甲は私の生年を諳んじる。「四十歳で先生ぐらい若く見える人居ないんじゃない?」

「……お前は俺がもっと老けてたほうがいいのか? 親父っぽくって加齢臭するぐらいのほうが」

 六甲は彼の父親が二十七の時の子なので、私とは二歳しか違わない。髪の毛はまだ十分豊富にあるが、腹回りは大分弛んで居る。私は平均よりも少し痩せているくらいだ。

「お前が嫌だろうと思うから、気を使ってるんだ。おっさんよりも少しは若く見えた方がいいだろう、文句言うな」

「文句なんて言ってないよ、僕も先生が綺麗なおじさんでよかった」

 少しだけ生意気に言って、六甲は私の隣で歯を磨き始めた。現在の時刻はまだ九時を少し廻ったところ、昼間たっぷり昼寝をして居る、朝起きるのは中学時代と同じ七時だから、これからたっぷり九時間も睡眠を取るわけだ。それも皆、脆弱なる六甲の身体の為。

 パジャマを捲り上げさせて、肺を訊く、それから、血圧を測る、上が百に遥か遠く届かないのはいつもの事、心拍数も含めて、異常はない。

「布団に入って待ってろ」

 言い渡し、私は金庫から鍵を取り出し、調剤室のドアを開ける。調剤室には劇薬を始めとして、六甲に触れさせる訳には行かぬものばかりある、そもそも薬剤師免許のない人間が勝手に立ち入ることは法的も許されていない。六甲は私の言うことには素直に従うが、念には念を入れ、鍵も金庫に仕舞っているし、診療時間中も中から鍵を掛けている。その上、廊下を経て六甲が此方に近付けば私が何処に居ようと察知できるような工夫もしてある。

 起床後と就寝前には、薬を飲ませなければならない。私の家に六甲が来て以来、ずっと続く習慣であり、此れを怠ることは六甲の生命維持活動に関わる。

 其れは変哲のない白い錠剤である。此れを朝夕基本として二錠ずつ、六甲に飲ませる。六甲の病巣が出血するのを予防するとともに、仮に出血したとしても宿主に苦痛を与える前に其れを鎮めるための薬だ。六甲の病気は、一般の大病院に掛かれば恐らく再三の精密検査の挙句、臓器の慢性潰瘍などと混同され、的外れな薬を散々投与された挙句手遅れになった頃に開腹され、其の頃には臓器内に壊滅的な溢血を来たし、……簡単に言えば幼子の身体では到底保つまい。

 六甲の肉体に在る病巣は潰瘍や腫瘍の類ではない、但し、其処は常にじくじくと傷付き、出血する。放っておけば血は溢れ、軽度なら鼻出血程度で済むが、酷くなれば烈しい吐血や下血を起こすことになる。

 五歳の幼子が吐血したら、どんな気の強い両親だって動転することだろう。その子の命が救われるためならば、私のような者だって一応は医術の心得の在る身、縋りたくもなったのだろう。当時私はこの街に診療所を始めて十年が経過していたが、ほとんど何のやる気も無く、開店休業、閑古鳥を存分に鳴かせていたし、町内の人間に「藪」と言われても何とも思わなかったくらいで。

 運び込まれた六甲は寝台の上、最早涙さえ流すことは出来ず、朦朧の中で苦しげに湿っぽい呼吸を繰り返していた。

 私の中で鳴ったベル、いまだに時々耳元で鳴る。

 あの瞬間ほど誰かを救いたいと思ったことは後にも先にもない。

「後はこの子の体力次第です、……本人が苦痛を抱えてでも生きたいと思うか否か、それだけです」

 やるべきこと、出来ること、全てをやり終えた私は初めて、自分が無力なる者だということを、久方ぶりに思い知った。

 私の投与した薬が効果を発揮したからこそ、今も六甲はああして生きているわけだ。此れが私の側に六甲の居る理由である。私は確かに六甲と下総家の人々を救い出した。それと金銭授受は全く相関しないが。

 六甲は布団を膝まで掛けて待っていた。水差しと、懐紙の上に白い錠剤二つ、見て、密やかに溜め息を飲み込むのを私は見る。憂鬱そうな手付きで錠剤を摘み上げ、コップに注いだ水で、ぎゅっと目を閉じて飲み下すまでを見届けてから私は六甲に布団に入るよう促がした。

 この薬なくしては生きられないくせに、六甲は薬が嫌いなのだ。

 口の中が粉だらけになった。

 その粉が、一斉に喉元目掛けて殺到した。

 口中の水分を奪いながら、微細な足を動かして。

 そんな夢を六甲は見る。幼い頃に一度だけ、私の目を離している隙に錠剤をなかなか飲まないで口の中でふやかしてしまったのである。当時の私は、幼い六甲が飲みやすいようにと外包を甘く加工していたのだが、其れがまずかった。唾液に脆くも錠剤は崩れ、口中を錠剤内に閉じ込めた苦い細粒で満たし、随分と苦しく気持ち悪い思いをしたことが、一種のトラウマとなっているのだ。あの日以来色々と工夫もしたけれど、やはり薬を飲むことに前向きには居られないらしい。基本として私たちはそれなりに仲良く、傍目から見れば親子のような有り様で居るが、この薬に関してのみ、火種が在るとは言えるだろう。

「おやすみ。電気消すぞ」

 布団に収まった六甲が、うん、と頷く。電気を消して、私は隣に横たわって、右肘を付いて暗がりの顔を見ながら左手を六甲の心臓の上に乗せた。私はまだちっとも眠くない。ただ此れは習慣のようなもので、六甲が安心するまで―ほとんどの場合、眠りに落ちるまで―こうして側に居てやらなければならない。

 今もまだ綿のように軽い身体が、それこそ吹く風に簡単に舞ってしまいそうで、手を掴んでいなければ此方のほうが不安になってしまうような幼い六甲は、今よりも更に泣き虫で、今でこそこうして電気は全て消して、暗い部屋で寝付くことが出来るようになったけれど、数年前までは私の顔が見えないと不安で、夜には一人でトイレにも行けないような弱いところがあった。十五歳で添い寝の必要がある少年を強いと言ってやることは出来ないが、これは断続的に薬の悪夢に駆られる六甲の夜が辛いものでないようにと思って私が配慮して居るに過ぎない。

 私の両眼は障子越しに差し込んでくる、満月が彩る青い夜光で十分に六甲の幼いまま整った顔立ちを把握することが出来る。まだ六甲は目を開けていて、しかし其の目で焦点を結ぶことは出来ないらしく、ぼんやりと私の顔のあたりを見て居る。

「……目ぇ閉じて、さっさと寝ろ」

 夜に与える錠剤の中には、六甲の眠りを助ける薬を混ぜてある。其れが効くまでは、まだしばらくはこうして起きているのだ。

「先生は、見えるんだね」

 六甲は返事をせずに、「僕の顔」、微笑んだ。

「俺は目が良いからな」

「僕よりずっと本を読むのに」

「……長いこと生きてるとな、実際に其処に物が見えなくても、ある程度、読めるようになるんだ。お前が目を開けてるか閉じてるかぐらい、……な」

 其の瞼を閉じる、

「……そう、最初から閉じてろ」

 だがまた開く。

「すごいね、本当に見えてるんだね」

「……だから、……」

 六甲は小さく微笑んで身を横に向け、布団から細い腕を伸ばして私の頬に触れた。私もそう屈強な体格をして居るわけではないが、私に触れる六甲の指は痛いくらいに細かった。実際には、……時計に置いていかれている身体ではあるが、少しずつその身が健康的な輪郭を形作ろうとして居ると知っていても。

「冷えるぞ」

「うん、……今夜は寒い。先生はそんな格好で平気?」

「俺の心配なんていい。俺が丈夫なのは知ってるだろうが」

 うん、と六甲は頷いて、「でもね、先生が僕を心配するのと同じぐらい、僕だって先生のことは心配するよ」と、静かな声で応える。私は音もなくその目が伏せられて、しかし手が私の頬に触れ、労わるように撫ぜるのを、じっと身を硬くして見ていた。

 僕は先生のことが好きだから、と六甲は言う。

 時折この少年は、……私よりもずっとずっと弱いくせに、私が居なければ死んでしまうくせに、ぞっとするような鋭い切れ味を見せて、まるで手に負えなくなる時がある。

 好きだと言う、大好きだと言う。私の耳に吸い込まれて、心臓に垂れ、其処から全身に行き渡る熱を帯びた言葉だ。私もこの少年が好きなのだと思う。悪いとはっきり自覚出来る生き方をする自分が、しかしこの子のためならば全ての罪を購おうと思えるほどに、この脆弱すぎる少年が好きなのだと思う。だが、この子の口にする「好き」はもっと乱暴で、先鋭的なもので、同時に極めて純粋で、結果的には最も危険な類のものとなる。もっと、平凡でいい。もっと、緩いほうがいい。永遠に共に過ごして行く為には、極力リスクを排していった方が。

 だが私にしても、この子を掌に乗せて斯く在り、これから先も護り続けたいと思うのであれば、その感情と無縁では居られない。其れを飛び切り甘く鬱陶しい言葉で表現するならば「愛情」であって、寧ろ持って居た方がいいような類ですらあるのかも知れぬ。とは言え其れが生々しさを持つのは今少し先の話、今はこの何十年もかけて緩やかに古びていった家の片隅、不老不死の錯覚へ陥るに足る年よりずっと幼い少年と、年より若く見える私の二人が、壊れることのないように生き続けていけば良いだけのこと。

 私は六甲を愛しく思うが、六甲と私の間には余りにも大きな物が横たわっている。其れを飛び越して此方へ来いと私は言えないし、私はどう足掻いても六甲の側へ行くことは出来ないのだ。この感情は同性愛の其れではなく、どちらかと言えば親が子に抱く物に近い。六甲の中にも、何らの誤解もないとは言えない。ただ思春期を迎えてその中に生じたものを開け放つ対象が私以外に側に無かったというだけのことだろう。

「俺もお前が好きだよ」

 私は囁いた。だからお前を護っているのだ……。

 六甲の指が止まり、規則正しい寝息に私の乗せた左手が緩やかに押される。音を立てぬように立ち上がり、私はまず、明朝分の薬を仕込むために、再び調剤室に篭った。

 

 百日紅の根元に霜柱が立った。白い息を流す六甲が其れを見つけた。パジャマにサンダル履きで庭に下りようとするのを止め、靴下を履かせセーターを着せた上に私のコートを羽織らせ、玄関から靴を持って来てから許した。

「子供か、お前は」

 無邪気に靴を鳴らす少年はそう言ってやると少し気分を害したように、

「身を以って季節を感じること、喜びを見出すこと、僕がこの冬も生きていること」

 言葉を並べる。悪かったとは言わないが、私はもう少し六甲の好きなように霜柱を潰させた、曜日の感覚も希薄になるような日々を肯定する為に。今日は水曜日である。

 朝食は、いつも麦混じりの飯に納豆、香の物―この季節ならもちろん白菜漬―、味噌汁。それに日によって、出汁巻き玉子、鯵の開き、……夏の朝に時間が在るときなどは、私も料理が嫌いなほうではないので小鯵の南蛮漬けなどを揚げてみることもある。此れに前夜の残りが少し加わって卓に並ぶ。いつものように、六甲は旺盛な食欲で其れらをあっさりと平らげて行く。トーストにスクランブルエッグにハムというような朝食では、六甲はまるで満足しないのである。

 食後にはいつもの通り薬。

 その後は、私も診療所に入らなければならない。ごく小さな待合室とは言え、この季節は午前の部の診療時間が終わってもまだ一人二人残って居たりするし、この上薬も一人で揃えなければならない。人を雇えばいいのだが、他人を近付けるくらいなら一人で忙しい方がましだ。午前中の六甲がどういう風に過ごしているかは、余り知らない。ただ、書斎は自由に出入り出来るように鍵を掛けていないし、読書が何よりもの趣味である六甲なので、恐らくは本を読んで過ごしているのだろうと思う。くれぐれも風邪をひくような格好で居ないこと、具合が少しでも悪いと感じたら私を呼ぶこと、そして決して一人で外には出ないこと、……それらの約束はきちんと守られている。ちょくちょく確かめに行くまでもないことは、六甲が信頼に足る実績を残しているからだ。

 今月に入って丁度半分、過去二週間、競馬開催四日間での収支は、十万を超えた。下らない物だなと思う。競馬という物を知ったのは今から二十年以上も前だが、余りに下らなすぎて身が入らず、何年か続けては飽きて止める、そのうちまた手を出して、しばらくして飽きる、そんな繰り返しだ。して居る間には、無尽蔵に思えるほど増える金に気分は良いが、冷静になって考えてみるとこんな物はギャンブルではないとも思える。無論、私が例外中の例外であり、世間一般を狂乱させるだけの不確定要素を孕んでいることは判っているが、私にはその不確定要素が全て排除されて、漫然と百円ずつ賭けているだけで其れが何十倍にも膨れ上がって帰ってくることが判っているのだから、此れが下らなくなくて何だろう。計算をするまでもなく、診療所の報酬がなくても、競馬の戦果だけで私は六甲を抱えて生きていくことが出来そうだが、そんなつまらぬ生もなかろう。

 その日の昼休み、六甲は私の作った親子丼を食べ終えて、私から四日間の収支を聞かされて何とも形容し難い表情を浮かべた。三つ葉の代わりに浅葱、六甲は鶏肉と一緒に竹輪を入れてやると喜ぶ。

「そういう、ものなの?」

「そういう?」

「ん、あの、僕よく判らないんだけど、競馬っていうのは、みんなその、百円が一万円とか二万円とかになっちゃうものなの?」

「百円が二百円にもならんことだって在る」

「うん……、でも、あの」

「皆が皆儲けられるように出来ていたら、競馬で身を滅ぼす者などこの世にいないだろう」

「それは、うん、だから……、どうして」

「才能じゃないか」

 換気扇の下で食後の一服をしながら、私は半ば以上本気で言ったが、嘯くように見えたのかもしれない。

「俺は、お前にもあると思うけどな」

「ある……、何が?」

「博打の才能が」

 私の言葉に六甲は首を横に振る、あっても、僕は競馬やりたくない、そんな風に見えた。

「僕は、お金、なくてもいいな」

「金がなかったら餓えて死ぬばかりだ」

「うん、だから……、なんだろ。ご飯が食べられて、寝る処に困らないぐらいにだけあればいいと思うな」

「俺だってそう思っている。だからこそお前の両親から金を受け取りたくは無いんだ。俺は診療所の収入だけで十分お前を養っていけるんだから」

 午後の診療は二時から四時、午前と同じく混んだ。其の間六甲は昼寝をする。其れが六甲の仕事だ。その身の健やかさを保ち、これからも生き続けていくことこそが、六甲がまず何よりしなければいけない仕事なのだ。診察と、昼寝と、競馬、私としては同列に扱うことに躊躇いはない。六甲の希薄な生が背負う種々の、……例えば彼の両親や私の感情は、六甲の生の継続によってしか報われないのだから、まず全ての目的はその生を繋げることに集約される。私が六甲と共に居ること、六甲の両親が苦しみながら働きつつ、私に金を払うこと、六甲が眠ること、私が何となく競馬をやって金を稼ぐことは、結局一つの目的のために行なわれるという点では全く同じことだろう。

 四時半に調剤を含めた全ての作業を終えて、六甲の元へ行き、平和な寝顔を見る。長い睫毛の、柔らかな頬の、白い肌の、六甲が眠っている。ただ眠っているだけと知っていながら、私は手をその形のいい鼻の前にかざし、呼気を確かめた。

 美人薄命とは嫌な言葉だ。六甲のような子供が「美人」という言葉の範疇に入るかは定かでないが、嫌な言葉だと思う。一方で、六甲の美しいことは私に与えられた試練でも在ったろう。美しいがゆえに儚く散ると言うのなら、その生を永く永く繋げて見せると私は挑むのだ。

 私は救えたのだ。

 過去が耳元で囁く、其れは私の声だった。

 私は救えたのだ、その何よりもの証拠として、ほら、私はこうして、救って見せた。身勝手をと、また別の声が囁く、「お前は呪わしいいきものだ、一体どれほどの血を啜って今もそうして居るのだ」と、……裁きの響きを、私の外耳にぶつける。

 そして今再び、私自身の声が言う、それでも私は、救うのだ、護りたいのだ、「其れは単なる利己だ」、知っている、呪わしい在り様しか出来なくてもいい、私は斯く在り、六甲を救う、六甲を護る。

 私の視線の先、六甲は生きている。其れが「辛うじて」なのか、最早私がまるで老けぬことに等しく日常に埋没した異変なのかは判然としない。ただ私は自分でも滑稽に思えるほど臆病に、六甲の寝息をまた確かめずには居られなくなる。

 事実上、息子以上に年の離れた相手を、私は愛しく思う。目の前に横たわる半透明な生が、どうにか明確な輪郭と触感を保ったもののまま、この先も私の傍に仮令三十数キロしかなかったとしても重量を伴って在ってくれることを、何よりも望む。僧侶のような禁欲さで私は、伏して祈る。その感情は、六甲の抱くものとの双方向性には乏しくとも、「側にいたい」という言葉の意味を考えればそう大差のないものかも知れない。私の感情は六甲と同じ言葉で表現できてしまうのだ、俺はお前が好きだから。

「ん」

 六甲が薄く意識を握った。側に座る私の呼吸を探すように、布団から手が伸びる。すぐに膝に辿り付いて「……せんせい」、目が開く。

「眠れたか」

 ん、と頷いて、欠伸を一つ、ゆっくりと起き上がって、目を擦る。そういった一連の、生在る者の動作の一つひとつを私は見詰めていた。

「よく寝た。……今日は火曜……、だよね?」

「水曜だ」

「薬、……は?」

「もう片付けた」

 今日も忙しかったんじゃないの? あの程度、どうってことはない。そんな会話をしながら、六甲の眼が徐々に明瞭な視界を得て、ぱっちりと開かれる。不意に笑って、

「先生の夢を見たよ」

 と言った。

「……怖い夢でなかったなら何の夢でも良い」

「うん、怖い夢じゃなかった。ちゃんと僕の側に先生がいて、……なんだろ、あんまり覚えてないんだけど、でも、怖い夢じゃなかった」

 六甲は嬉しそうに微笑んだまま、言う。無垢な表情に少し、胸が痛む……。

「側に、……居たからだろう、俺が、こうして」

「そうだね、先生が側に居てくれれば、怖い夢でも怖くなるのかもしれないね」

「俺は、夢の中でお前のことを護ったのか」

「うん、……最初は、ちょっとだけ怖い夢だった気がする、だけど、先生が側に居るのに気付いたら、怖くなくなったような気がする」

 溜め息を吐きたくなった、煙草を吸いたくなった、「いつまでも寝小便を垂れるようじゃ困るからな」と言い残して立ち上がり、庭に出て煙草を吸った、「寒い」と六甲が布団に再び潜り込む。私は背中を向けたまま、本当はお前の怖い物は俺そのものかも知れないぞと、苦々しく思う。護るために側に居る、救うために。しかし六甲が夢の中で怖れるものは、私そのものなのかも知れないと、……或いは六甲が本能的にその事に気付いているのかもしれないと、私は想像し、立ち尽くす。薬は六甲の肉体の一部を私の望む健やかな形にすることは出来ても、精神まで―例えば夢の中まで―左右することは出来ないのだ。

 しかし、こんな風に緊張するのはほとんど日常茶飯事、私が六甲を側に置いて生きたいと思う以上、無縁では居られぬ不安である、其れは常に共存の愉楽と背中合わせ、息を潜めて日常の片隅から時折不意に顔を出す。だが不安が透けて見えて、其処に在ることを意識しながらどうすれば楽観的に居られるか、私には判らない。出来る事といえば、怠る事無く六甲に薬を投与し、また調剤室の鍵を金庫に仕舞い、四桁の暗号の中に隠しておくこと、ただそれだけだ。

 今日は冷えたので夕飯は水炊き、仕上げの雑炊まで六甲は綺麗に平らげた。

 

 蛍光灯を、そろそろ取り替えなければならない。ぱりぱりと、静かだが耳障りな音を伴って繰り返される明滅が、足元の影を震わせる。夜、いつものように六甲を寝かしつけた私は金庫の中から調剤室の鍵を取り出し、薬を作り始める、現在時刻は午前零時を少し回った所、六甲の眠りが十分に深まった時間帯である。

 六甲自身の体力の無さ、そして薬の副作用によって沼のような眠りにはまり込んだ六甲はそう簡単には目を覚まさない。無論、用便に起きるときもあるが、此方へやってくることはまず無いし、そういう事態になればすぐ判るような工夫はしてある。私が薬を作っている所を見られる危険は、万に一つもない。

 六畳ほどの調剤室の薬棚には各種の医療用医薬品が並んでいる。どれといって珍しいものがある訳ではないし、流行のジェネリック医薬品に関してはスペースの都合上、置いていない。だから特に拘りのある患者は、処方箋だけ渡して他の薬局を紹介する。もちろん各種医薬品は正規のメーカーから購入している物で、内科・小児科医として十分な品揃えである。厄介な場合は通りの向こうの大学病院に頼めばいいのだし。

 六甲に飲ませる薬はもちろん、そこらで手に入るような類のものではない。あの日初めて六甲の顔を見たときに、私が急遽作った物だ。

 いや……、私自身はその薬の構想を、自分でも情けなくなるくらい長い時間、ずっと頭の中に転がし続けていた。この薬を使う機会など絶対に訪れるはずは無いと諦めきっていたのに。

 しかし「下総六甲」は私の前に瀕死の状態でやって来た。私は脳裡に在った設計図そのままに、薬を作ればいいだけの事だった。

 呪わしいこと。

 罪深きこと。

 しかし、六甲は呪いを宿して生きている、そして私の犯す罪によってしか、生きることは出来ない。後悔などするものか。六甲と私の長い長い生を、繋げるためならば何を恐れよう。

 壁に並ぶ抽斗の、一番右奥、一番上から私は透明なプラスティックの函を取り出す。もう大分古ぼけていて、そろそろ新しい物を買ってやらなければならないかと思っているが、なかなか時間も見付からない。踏切向こうの商店街にはペットショップがないのだ。

 プラスティックの函の、底から数センチには湿った茶色の土と数枚の枯葉、それから野菜の切れ端などがぐちゃぐちゃと積もっている。土の層が果てると、その上にはミルク色した霧が掛かっていて、透明な函の外からも中を伺うことは出来ない。ただ、恐らくは何かとても厄介な、……私にそんなものがどの程度在るか判らないまま一般的な感覚に基づいての言い方を試みるならば、「グロテスクな」ものが入っているような予感を抱く者が居るかもしれない。実際其処からは、ある種の瘴気が漂っていたっておかしくはない。私は自分の、枯れ枝のようで、しかし真っ黒い光がおぞましいまでの生命力を訴える指の先を差し入れる。霧状の其れは、しかし乾いていて、私の指を吸い込むように絡み付いてくる。

青白い蛍光灯が私の影を、壁の棚へ歪に切り取る。私はちらりと左の目で其れを見た。ゆっくりと口を開き、霧の中から取り出した指に纏わせた幾百もの微細な命を、白く細い糸の嚢に収め、固めていく。幾重にも、幾重にも。六甲の口中で綻びを生じ、あの子の怖がるようなことのないように。

 机に開いた懐紙の上に、六甲を護る薬が四錠乗る。この薬に名前をつけようと思ったこともないし、其れこそそんな途方もない話も無かろうと思う。ただ私は二錠ずつ、大切に懐紙に包んで抽斗にしまう。プラスティックの函の蓋を閉じ、身を包む疲れと痛みに、嘆息する。壁の無愛想な時計は零時半を指していた。

 調剤室を出て、金庫の中に鍵をしまうときに、六甲が襖を開けるのに気付く。眠そうに目を擦りながら、裸足のまま廊下に出るから、私は自分のスリッパを六甲の足先に蹴って並べる。

「……寝る前にお茶飲んじゃったからかな」

 独り言を呟きながら、六甲は寒い廊下に首を竦めながら歩いて、用を足して戻ってくる。

「……先生、まだ起きてたの?」

「調べものをしていただけだ、もう寝る」

「……そっか」

 ふわふわと覚束ない足取りに、私は溜まらず身を支えた。私のそうするのを、嬉しがるように六甲は甘えて寄りかかる。ちゃんと立てと言ったら、しっかりと抱きついたまま自分の両足を立て直す。真っ直ぐに寝床へ入らないで、台所へ向かう、「おしっこしたらまた水飲みたくなっちゃった」と言う、一人で大丈夫、と私の手をそっと押し止めた。

「あまり飲みすぎて寝小便しても知らんぞ」

「もう、しないよ。そんな子供じゃあるまいし……」

 そう言う六甲の頬はほんの少し紅い。少年の些細な秘密までを、その人生の大半を誰より一番傍で過ごした私は知っているのだ。

「おやすみ、先生」

 風邪気味なのかもしれない、いつもよりぼうっと温かな手を六甲が差し出す。私が一応の握手をしてやると、満足したように頷いて、もう添い寝してくれとは頼まなかった。襖の隙間からしばらく様子を伺っていたが、間もなく寝息が規則正しい物となったのを見て、私は自室に入った。「寝る」と、言いはしたが嘘だ。ここ何十年も、私が一睡もしたことがないと教えることは、六甲の心臓に良くない気がして居る、そして恐らくは正解だ。

 二階の奥の書斎に充満した、永い、……永い、……無聊、慰める為に私は本を読み、その手を止めては煙草を吸い、時折足音を潜めて六甲の寝顔を見に行く。いつだって大人しく寝ていて、またそのときどきの表情に大差の顕れるはずもないのだが、やはり一夜に少なくとも二度は見に来る。

 六甲の寝顔を垣間見ている時の私は、時折自分の、今人間であることを忘れて、……呪われて在るこの肉体、しかし生きている六甲を確かめて、少しく其れを誇りに思ったりもするのだ。

 私の在り様を決めるのは私自身の欲なのだと思う。

 つまり、……六甲を失いたくない、此れからも側に置きつづけたいという、欲。それゆえに私は、罪を纏って痛苦もなく、例えば六甲と彼の両親や家族を引き裂きたいと思っている。有り体に言えば、六甲を私の腕の中に閉じ込め両眼を掌で包んで、此処以外の何もかもが変わったとしても六甲が気付けないように、幽閉したいのだ。

 六甲の父母は年を取る、既に六甲より大きな漕太は、これからどんどん大人になってゆく。

 然るに、六甲は私の薬を飲んで生き続ける限り、ずっとあの幼い姿のままである。六甲の時計が動き始めることが、彼の死に迫ることと同義ならば、彼が今のままで居ることに、……せめてもう少し大人になって、一人前の冷静さと芯の強さを体得するまでは、六甲に世界の変化を気付かないで居て欲しいものだと思う。だが、其処まで甘くはない。六甲はもう既に、私がこの十五年間少しも老けていないことを訝りつつあるし、自らの身の小さすぎることにも苦しみを覚え始めている。漕太の身長が更に伸び、両親が老いて行く中で、六甲と私だけが逸れているという事実に。

 そして存在する理由に。

 あの子は言う、「先生のことが好き」と。ああ、私だってお前が大好きだ、……他の誰でもない、「下総六甲」という、お前が、好きなのだ。

 お前を苦しめたくはない、しかし、お前を苦しめないでは生きていけない。

 要するに、私の姿や六甲の病気ではなくて、そもそもこの事態そのものが「罰」なのだと思う。あまりに、不当に、重く性質の悪い、罰なのだと思う。

 私は貴様のところに六甲を渡したりはしない。濁った声を上げて私は叫ぶ。

 そして、私ももう二度と貴様のところに行きはしない。私は此方で六甲を護り続ける、もう二度と、二度と、傷付けさせたりはしない。

 私の声にならぬ叫びは、節と節の軋むような音を立てて、永遠に続く眠れぬ夜を埋めた。

 

 金曜日の夜半から初雪が降り、庭は薄化粧、明けて土曜の朝には晴れ渡ったが、前夜からの冷え込みにそろそろ流感の患者が増え始める。六甲には寒さが本格化する前に予防接種を私自らして在るし、彼に飲ませている薬もまた免疫として働く側面を持つから、その心配は余りしなくてもいい。ただ例年の通り、恐らく何処かで軽い風邪をひくはずだし、それを上手に遣り過ごすことを考えていればいい。

 午前中は珍しく居間が賑やかで、六甲ともう一人の笑い声は、調剤室に入っても聴こえてきた。弟の漕太が来て居るのだ。

 あの弟は自分よりずっと小さい兄が日々軟禁状態で在るため、時折兄から買い物を言いつけられて居る。欲しいと言えば私だって何でも買ってやる用意も金銭的な余裕もあるのだが、其処は兄弟ゆえの気の置けなさであろう。

 驚くほど似ていない漕太は勝手知ったる他人の家で、戸棚を開けては平気で二人分の茶を淹れたりする。其れ自体には何の問題も無いのだが、他人の家で一応は客の自覚もあるらしく、飲んだものを洗って片付ける処まではしない。

「受験勉強はしなくていいのか」

 診療所を終えた私が携帯電話を操作しながら訊くと、

「おかげさまで。推薦決まりそうなんです」

 屈託なく答える。

「だからこれからはもっとちょくちょく兄ちゃんのおつかいに行けるよ」

 六甲に微笑を送る。私は煙を換気扇に向けて吐き出した。携帯には、ひとつ前のレースの結果が届いていて、三千二百円、下らない。

 この時間まで居るということは、当然私の作る昼食を当てにして居るはずで、しかし一方で六甲と漕太の両親が私に気を使わないはずはない、とは言え私としては三人分を拵えるほかないのだが、今日を生き、明日も生きていることすらごく細い糸を渡るような危うさを持つ六甲のために作る昼食と、別に放っておいたって簡単に死ぬようには見えない漕太のために作る其れとでは気持ちからして違う。強いて背筋を伸ばして、私が三人分の饂飩を茹で始めたところで、「あ、俺はいいですよ、外で食べてきますから」

「今更遅い、もう麺を入れた」

「あ、そうなんですか、すいません」

 ぺこりと頭を下げて座り、また六甲との会話を再開する。

 漕太は食後もゆっくりと過ごし、普段六甲が昼寝をする二時を少し廻ってから帰っていった。私の敷いた布団に、パジャマに着替えて入った六甲は、ほんの僅かに私を案じるような顔をしたが、しばらく雪の積もった庭を横に眺めてから、目を伏せた。私は静かに障子を閉め、部屋を出る。六甲の眠っているうちに、買い物を済ませてこようと思う。

 師走も半ばを過ぎると、月の終盤の二大イベントに向けて街は落ち着きを無くす。クリスマスと正月は、中五日の異母兄弟であり、互いに全く趣が違うくせに同じ商店街で器用に同居しており、二つの家の親戚一同集まって土曜午後の商店街に人通りは多い。六甲は毎年クリスマスプレゼントを強請るようなことはしないし、生きるのに精一杯だからかそもそも物欲自体余りない。私自身はクリスマスとは何と馬鹿らしい物だろうと毎年しみじみ思うような男だから、共に興味の焦点は正月に在る。しかし一応は新年を迎えるには相応しいものを用意しなければならない、というのは今から既に億劫だ。六甲は数の子が食べられない、栗金団や伊達巻、なますや黒豆といった一連のものは、わざわざ好んで食べるような物でもなく、それならば近所の鮨屋の出前でも取ったほうがいい。去年のようにカレーを拵えようか、或いは普段通りの食事を続けようか、そんなことを考えながら、電気屋で調剤室の蛍光灯を買い、そろそろ少なくなった茶葉を乾物屋で買い、それから六甲の気に入りの芋羊羹を和菓子屋で買う。道すがらでは色々な考え事をしつつも携帯を弄り、次のレースの馬券を買って行く。

 年末と言えば来週の日曜日は年内最後の大レースがある。年に二十以上あるGTレースの最後を締め括るグランプリ「有馬記念」。

 今日の分を入れて、概算で十六万円。どう間違えたってもう、賭けは私の勝ちである。六甲を両親から切り離すという目的に向けて、一週ごとに近付いている実感があって、罪深さと心地良さ、渾然一体となって私の舌にほろ苦く広がる。

 夕飯は何にしようか。陽射は緩い角度から穏やかに注ぐが、一歩日影に入ると途端に頬が強張るような寒さが刺さる。湯豆腐、では六甲が物足りないと思うだろうし、既に今週だけで二度鍋物をやっているので、流石に芸が無いと思われるかもしれない。ならば、そうだ、肉豆腐にしようと決める。身体は温まるし、肉が入ればボリュームも出る、……しかしそれでは寂しいか葱を入れて白滝を入れて、それでは寿喜焼だ、三度目の鍋だ、やはり肉豆腐にして、寿喜焼は来週の半ば頃にでもしようか。

 考え事をしながら歩いていたものだから、既に肉屋を通り過ぎてしまった。ただ、どうせ豆腐も買わなければいけない、スーパーの前に差し掛かって耳に届いた威勢のいい声に、今日が特売日であったことを思い出す。

 店内の混雑を予想して、少し鬱陶しい気持ちになる。通りですら時折身を横にしなければ肩がぶつかるような有り様であるのだからと溜め息を吐きながら店内に入ると、やはりかなりの人の入りで、人と籠、時折カート、腰のあたりを子供がすり抜ける、遠くから迷子の喚き声が漏れ聴こえてくる、子を叱る親の声も……。どうにか牛の切り落としと木綿豆腐だけ手に入れて、レジに並ぶ頃にはほんの僅かな行程でも少し疲れている。私のように時間とは無縁に過ごすものにとっては、何と厄介な時期だろう。何処へ行っても人々は慌しく、何処となく殺気立って居て、その上レジでは随分と待たされる。

 何と無しに、行列の先を見た。紺の三角巾にピンクのエプロンというのが、このスーパーで働く女性従業員の制服である。私の目が引かれたのは、私の並ぶ列でレジを打っているのが六甲の母親だったからだった。

 六甲の膚や大きな目からはあまり想像も付かぬ、草臥れた横顔である。レジの向こうの壁には「私たちと一緒に働きませんか」とスタッフ募集のポスターが貼ってあり、其れに拠ればこの時間帯の時給は八百五十円ということだ。

 私の二人前で、レジの流れが止まった。何かを買い忘れたらしい若い主婦は、会計途中の籠をそのままに、行列も顧みず人波に抗って乾物売り場の方へ慌しく歩いて行く。私のすぐ前の、此れも余り年の行っていない主婦が当然の顔をして一歩前に出るが、六甲の母親は困惑顔で目の前の客と切干大根を手に戻ってくる客とを見比べる。

 こういった無数のストレスを常に背負って、しかし彼女は私に金を渡す為に働いている。

 会計が私の番に来て、「こんにちは」と声をかけたところで、初めて彼女は私に気付いた。一瞬だけ微笑を浮かべて、お辞儀をする。今は挨拶をする余裕さえ彼女には無いのだ。彼女のパートで稼ぐ月数万がそのまま私の元へ流れてくることを思った当にその瞬間に、私のポケットの中で携帯電話が震える。「では」と頭を下げて、店の出口で振り返ったら、彼女はまた草臥れきった顔で次の客のレジを叩いている。顔色は、すぐれない。携帯電話には五千円ほどの払い戻しを伝えるメールが届いていた。

 六甲の母親のああいった姿を見るのはもちろん此れが初めてではない。見るたびに私は、どうにかしなければと思う。そして間違った結論であることは百も承知で、しかし彼女から六甲を完全に奪い取る必要性を見据えるのだ。経済の一面に限ったって、六甲の生きることが六甲以外の誰かに苦労を掛けることと同義であるのは明白だ。

 少し気鬱になって家に戻った私に追い討ちを掛けるように、……漕太はまた居た。どうやら帰ったのではなくて、六甲に頼まれて買い物に出ていたようで、枕元には小説雑誌が転がっていた。

 布団の中の六甲の隣で、コートを布団に丸まっている。六甲はすやすやと、まるで私が隣に寝ているかのような静かな寝息を立てており、顔は僅かに漕太の方を向いている。自分の顔が憮然として居ることに、もちろん気付いてはいるがそんな自分も情けない。こういうときは煙草を吸うに限る、私は窓を開けて、日もすっかり暮れ落ちて暗い庭で煙草を吸った。背後で漕太が大きなくしゃみをして目を醒ました音が聴こえた。そのやかましい音で六甲も目を醒ました気配がある。

「……さむ……」

 もう一度、漕太がくしゃみ。

「風邪か、ならば帰って大人しく寝たほうがいい。何なら注射を打ってやろうか」

 私が庭から言ったら、漕太は何か言いかけて口を噤む。六甲は布団から顔だけ此方に向けて「お帰り」と言った。

 コートを着て、帰りますと立ち上がった漕太を玄関で呼び止めて、「此れで菓子でも買え」と五千円札を渡した。

「え?」

「小遣いだ。……お袋さんには言うんじゃないぞ。いいな」

 しばらく私の手から渡された一葉ののっぺりした顔を見下ろしていたが、やがてありがとうございます、深く頭を下げて、帰って行った。こんなことが一体どれほどの意味を持つのか、判らないままでやってみた。そんな私を見て六甲は、しばらく黙っていたが、「晩ご飯なあに?」と努めてか、暢気な声で訊いた。肉豆腐だと言ってやると、嬉しそうに微笑む。別に何を作ったって喜ぶくせに。

 

 暮れも押し迫り、有馬記念まであと三日と迫った木曜日の午後に、矢鱈と強い南風が吹き荒れた。ちなみに今日はクリスマスイブであり、家々の樅の木は満艦飾だが纏った飾りが飛ばされたり、そもそも樅の木の鉢ごと倒れたりしているものも多いだろう。つい数日前に初雪が積もったばかり、日陰に堆く追い遣られた雪が排気ガスで縁を黒く汚して尚残っているというのに、昼過ぎから吹き始めた風は暖気を運んできたのかぐんぐんと気温が上がり、私は家の中で長袖のTシャツに薄手のセーターだけで過ごし、六甲も昼寝の時間、風の音と暑さで眠れないらしく、何度も布団から起き出していた。昼間にはまた漕太がやってきていて、ガタガタと鳴る家に「吹き飛ばされちゃうんじゃないか」などと失礼なことを言った。

あの弟は最近よく我が家にやってくるようになった、この間の土曜日から数えて三度目だ。近くの公立高校へ、推薦での進学がほぼ間違いないということが判って、受験勉強にも身が入らないのだろう。私は油断をするなと極力優しく自制を求めるのだが、どれほど伝わっているのかは覚束ない。

 誤解を招くかもしれない。私は漕太のことを嫌ってはいない、寧ろ、六甲のことを気にかけ、思いやる姿は好もしくすら映る。ただ、六甲のことを独占しなければならない身としては、六甲の両親同様、漕太のことも、六甲から遠ざけておいた方が無難であると判断しているだけである。

 私はどうしたってそう遠くない未来、彼らから六甲を奪い去ることになる。そのときの、六甲の負うダメージを最小限に食い止めるためには、六甲と彼らの距離を緩やかなスピードで少しずつ広げていくのが得策である。私がずっと側に居るのが当たり前と思うのと同様に、家族と離れ離れが当たり前と、六甲が誤解の中に埋没していってくれるのが一番有難い。

「泥棒が居るらしいんですよ」

 午後三時過ぎ、六甲が寝たのを見計らってそっと部屋を出てきた漕太は、水分補給のついでに六甲の寝顔を見に来た私と廊下で鉢合わせるなり、そんなことを言った。

「泥棒?」

「うん。……兄ちゃんが夕べ見たって言うんです、庭にね、人影。先生のこと起こしに行こうと思ったんだけど、見間違いかも知れないし、しばらくしたら居なくなったからそのまま寝ちゃったらしいんですけど、でもやっぱり気になるって言ってました」

 漕太は六甲の眠る襖の向こうをちらと見遣り、「兄ちゃんには、先生に言うなって言われました。本当に見間違いだったりしたら先生が余計な心配しなきゃいけなくなるからって」。お前のことを心配するのが仮令的外れなものだったとしてどうして「余計な」ものになるのか私には判らなかった。

「そうか。よく伝えてくれた」

 また、漕太はちらりと後ろめたそうに六甲を見る。私が六甲をどれほど心配し、そのためなら何だってすることを、漕太は一応理解して居るらしい。

「……心配するな、六甲には言わないでおいてやるから」

お願いします、とぺこり頭を下げると、さっさと帰っていった。私は水を一杯飲んで、六甲の寝顔を確かめてから、庭に現れたと言う不審者が実在しようがしまいが、今夜は庭に「網」を張っておこうと決める。何者も現れなければそれで良し、……もし六甲の精神的負担になるような者が現れれば、ただではおくまい。残り一時間ほどの診療時間、もちろん私は仕事の手を抜いたりはしないが、頭の半分ほど、庭に張る「網」の位置取りを色々と考えることに費やしていた。相変わらず流感の患者が多く、六甲の母親のように忙しさに疲れた者は危ないのだと、そんなことも考えた。

「網」。

 薬もまたそうである。六甲のいつまでも幼いまま在り続けることも、私の若いことも。

……呪われて在れこの身体。

しかし、何度でも言う、私は六甲を護る為にこの身体をして居ることを、同時に、それ以上に誇りと感じているのだ。

 診察を終え、全ての薬を渡し終えて戻ると、六甲はもう起きていた。風の音が煩くて、やはりあまりよく眠れなかったらしい。

「漕太はもう帰っちゃった?」

「ああ。……寝足りなければ昼寝してていいぞ、起きる頃には飯が出来てる」

 百日紅が風に枝を撓らせる。風は波のように、時折硝子戸を大きな音を立てて叩いた。

「……風が煩いなら、二階の俺の部屋で寝るか?」

「ううん、……大丈夫、起きるよ。ご飯出来るの待ってる」

 今夜こそ寿喜焼である。先週末に肉豆腐を作って以来の予定通りで、間に四日淡白なものが続いたから、濃厚な物を食すには頃合いである。

 六甲は着替えの間、白い裸を私に晒す。食べても食べてもまだ足らぬと腹が減り、しかし今以上に太ることは有得ないその姿態は、私の胸を少し締め付けた。じっと見ていた私に、「先生?」まだシャツに袖を通しただけの六甲が振り返って訊く。

「……何か、僕に隠してない?」

 隠し事なら山のようにある。しかし、差し当たっては漕太から委ねられたものが、まだ私の喉の辺りに在った。

「此れだけ一緒に暮らしていて、今更お前に何を隠せるんだ」

 私はそう言って、軋む窓を開けた。六甲の髪がさらりと風に煽られた。

「……すごい風」

 羽毛布団を跳ね飛ばしそうな風が吹き込むから、私は吸おうとしていた煙草を諦めた。少しの間開け放って部屋の空気を入れ替えている間も、六甲はまるで寒がらない。陽が翳ってもまだ気温は高いままで、控え目に見積もっても十五度以上はあるように思われた。時にこうして妙に生暖かな冬の日の訪れることを、私は永の経験上知ってはいるが、慣れるものではない。これで明日当たりまた急に冷え込んだりすれば、丁度休診日の日曜日あたりに重なる形で風邪の患者が増えたりするのだ。と言って、別に今度の日曜日だって何処かへ出かけるつもりも無い、いつものように携帯電話で、今週なら有馬記念の馬券を買って、六甲との賭けに終止符を打つだけのことだ。二人で暮らすには広過ぎる家で元々行き届かないのも判っているので、大掃除もしない。

 六甲はトイレに行って、それからちらりと勝手口から白菜漬の樽が倒れていないかを確かめてから戻ってきた。卓の前に座って読みかけの本を開き、時折台所に立つ私の方を気にする。こんな極端な風の吹く数年後、数十年後も、同じような光景が在ればいいと私は、白菜春菊、白滝に会津葱に麩などを用意しながら思う。使い込んで真ッ黒の寿喜焼鍋も当分買い換える予定はなかった。その鍋を載せるコイル式の電熱器も、壊れなければもう何年だって使うつもりだ。お前の周りは何一つ変わっていないよと、六甲に教える為に。

 実際、人の老いて死ぬことを除けば、世の中にそうドラスティックな変化は多くないのだ。例えば三十年前も今も「未来の街」と言われれば空中を縫う透明チューブの中を弾丸のような列車が走り、車にはタイヤが無く排気ガスの心配もない、超高層集合住宅が居並び、緑に溢れる公園があって、……そんなことを想像すると同時に、未だ実現の片鱗も見ない。私の見て居る限り、前の五十年は確かに劇的な変化を見せはしたけれど、この二十年で最も大きな変化は何だろう、携帯電話ぐらいのものか。そう考えれば六甲が私の不老に気付かぬことも、決してありえぬことではないと思う私の考えにも希望が持てる気がする。

 無論、何処かで確実に破綻する物ではあるが。

 変わらないのは寿喜焼きが旨いこと。そして六甲の生きていて私の側に居てくれることも不変であってほしいものだ。

 六甲は美味い美味いと、どんどん鍋の中身を平らげて行く。飯を寿喜焼きで三杯食べ、その上当然のように、しかしさすがに遠慮がちに白菜漬で茶漬けも食べた。私も成人男子として相応の食欲を持って居るからそれなりに食べはしたが、二合半炊いた飯が綺麗になくなったのだ、肉も三百グラムでは不安でもう五十買い足したのが正解だった。

 夕飯を食べ終える頃にはさすがにあの烈風も収まっていて、外は静かだ。食後の一服をしてから、六甲を風呂に入れ、私は六甲の身体を毎夜の事ながら自分でも驚くほどの繊細な力で洗い、六甲は少し弱すぎる力で私の背中を流す。俺のことはいいから先に温まっていろと言っても、いつも六甲は私の背中を洗いたがる。「先生のことが好きだもん」、六甲は底知れぬ言葉を平気で口にし、其れを根拠に私の背中を洗うのだ。

私たちの生活には、一体どれほどの習慣があるだろう。私は六甲と共に過ごした十年間で、たくさんの決め事を二人でして来た。私が六甲の側に居ることを第一に、寝る時間起きる時間、食事の時間も全て、判で押したように決まっている。共に人間の心を持つがゆえに時には揺らぐことだって在るけれど、私は其れだって避けたいと思っていた。

しかし、六甲は私を好きだと言う、好きだから、其れをそのまま形にしたがる。

「同性愛者なのか、お前は。そういう風に育てたつもりはないんだけどな」

 浴槽の中で私が訊いてやったら、少し気分を害したように身を離す。

「同性も異性も無いじゃないか。僕の側には先生しか居ない。それに、大概の人は先生の傍にずっと居たら、……男も女も関係なくね、先生のこと好きになると思うんだ」

 六甲の世界は広がらない、私が広げないから、永遠に側には私しか居ない。

「僕は先生が好きなんだ、先生とずっと一緒に居られたら良いって思う」

 そんなことを言う命の、愛しく無いはずが無いだろう。

 少し暑いと、浴槽の縁に座って私のことを見下ろす。仄かに上気した頬は、私の胸をちくりと刺す。鋭さを内包しながらも優しい両眼は、自らの胎内に牙を突き立てる病気すらも認めているようだ。その病気が在るからこそ私が側に居て、その私を好きだと言うのだから、病気で居ることだって平気だと。

「先生」

 再び浴槽の中に肩まで沈んだ六甲は私に抱きつく。か細い腕の、首に絡みつく感覚には、胸が痛む。

「……ああ」

「先生は同性愛者じゃないの? ずっと結婚しないよね?」

「そういうものを望んだことは、少なくともこの十年の間は一度も無いし、それを苦しいとも寂しいとも思わないな。……俺はお前が居れば良い」

 そういうのを、と六甲が私の首筋に言う、同性愛的じゃ無いとどうして言えるんでしょう、嬉しそうに微笑みながら。

 こういうのを。愛し合いと呼ばなくて何と呼ぶのだろう、私は判らない。判らないが、こうして膚を重ねることで六甲が幸せならば良いとは思う。この半透明な生、満たせるならば何処までも満たしてやりたいとは思う―其れは私の欲とは全く無縁に―が、そういったことに関して、私は全く持って淡白なのかもしれない。六甲のような情熱を抱いたことが、……此れまでの人生で一体何度在っただろう。しかしその実私の根底には、永遠に熾火、ぶつぶつと音を立てて燃え続ける恋心が在るのかもしれない、ティーンエイジャーのように。

「……俺だって、お前のことは好きだよ」

 目の前の少年は、微笑む。無理しなくていいよと、少し悲しげに言っているように。私はこの恋心を拠り所に十年間六甲を護り育てて来たくせに、他方自らの勝手を知っているから、其れを形にすることは出来ない。それもまた、決まり事だ。六甲が「僕だけ好きでもいい」、諦めたように言って私の首にまた纏わり付いたとき、私には用意できる言葉が何一つないのだった。

 簡単な診察を終える。心音肺音、血圧、体温、全て異常無し。水差しと薬を持って来たら、六甲は珍しく素直に薬を放り込んで、それからごくんと嚥下した。布団にするりと収まってから、「トイレまだ行ってないや」と再び立ち上がり、パジャマに裸足で行こうとするから、綿入れを肩に掛けてやる。

 布団に寝かせた六甲の隣に横たわり、その寝息が規則正しいものになるまで待ってから、私はそっと部屋を出た。玄関からサンダル履きで庭に回り、今のところ動く物の気配は無いことを確かめてから、「網」を張った。微細な其れは人間の目で捉えることは出来ず、離れたところで調剤作業をする私の耳にだけ、引っ掛かった者があれば警報音が届く。此れは私が夜の調剤作業の際に、六甲が誤って入ってくることのないように廊下に張るものと全く同じだ。時刻は夜十時半、まだ通りの向こうの路面電車はもちろん走っているが、風もようやく収まって静かな夜だ。空に昼間残っていた雲は綺麗に吹き清められ、星が幾つか、掛かっている。明日の朝は冷えるだろう。

 いつものように金庫から鍵を出し、廊下に「網」を張って調剤室に入った。憂鬱になるのも習慣で、六甲の為でなければ誰がこんな醜い真似をするかと思う。

 そう、此れはもう、完全に六甲のためだ。他の誰かの為ではない。しかし一方で、自分の為ではあるのだと思う。私が六甲の苦しむ様を見て傷付くのが嫌だから。そう考えると、六甲は私のエゴで生かされているという言い方も出来る。だが現状の孕む残酷性を、今また蒸し返して考える必要は無いのだ。私はとうにその罪を背負い生きていくことを許容している。六甲が死ぬよりはずっといい。

 いつもの通り、調剤は一時間程で終わった。懐紙の上には、六甲に飲ませる錠剤が二錠ずつ並ぶ。

 と。

 耳に、がさりと音が鳴る。庭の網に何かが引っ掛かった。

 時たま、野良猫がやってくる。隣家で餌を貰う三毛だ。野良といっても所謂近所猫というやつで、私も時に余った魚の骨などを分けてやることもある。あれだろうか、と思うが、其れにしては反応が大きい。件の闖入者に違いない。小さいが一応は診療所ではあるし、その上狙われたって仕方ないくらいの金を私は持って居る。と言っても競馬の払い戻しは口座に振り込まれるから、この家の中にそう多額の現金が在る訳でもなかったが。

 暮れは物騒だ、私は調剤室の鍵をかけ、金庫に仕舞い、物音を立てぬように玄関から庭へ廻る。私の張った網は無残に破られ、すぐその傍ら、暗がりの庭に突き出た石に躓いて転んで、膝を抱える黒い影が落ちていた。

「其処で何をして居る」

 懐中電灯など無くても、その影の形ははっきりと私に見て取れた。膝を抱える其れは、私の声にビクンと身を強張らせて、……恐る恐る、顔を上げる、「……漕太、どういうつもりだ」。

 漕太はぎこちなく頬を強張らせた。誤魔化し笑いを浮かべたつもりなのかもしれない。ご丁寧に黒のジャージ上下、そのジャージの膝のところが土で汚れている。そう言えば昔六甲もあの石で躓いて膝を擦りむいたことがあったことを思い出した。

「いや、あの」

 漕太は表情を強張らせたまま、立ち上がって、

「ええとあの、こんばんは」

 ぺこりと場違いなお辞儀をする。

「その、兄ちゃんがあの、泥棒が居るって言ってたもんだから、……あの、先生の手ぇ煩わすのも何だし、俺が追い払えばいいかなって」

「そうか。それは兄思いで殊勝なことだな」

 言葉とは裏腹の私の表情に、漕太も気付いている。私はポケットから煙草を取り出して、吸って、吐いた。「お前が心配するようなことじゃない。六甲には私がついている、余計な真似をするんじゃない」、静かな声で言ったつもりだったが、漕太はまたビクンと肩を震わせる。こうなると、私の根底に流れる六甲への独占欲と、普段は器用に逸らしているつもりの漕太への幼稚な嫉妬心とが相俟って、サディスティックな心持になってくる。体は大きいがまだ中学三年生の漕太である、何と大人気ないことしているのだと、冷静になれば恥じ入りたくなるに決まっているのだが。

「漕太、此処へ来るのは今夜が初めてじゃないな」

 え? と漕太が訊き返す。

「夜に、こうして俺の家の庭に忍び込むのは此れが初めてじゃないな? 大方、時折こうして夜に忍び込んで六甲の様子を伺いに来ていたんだろう。其れを六甲が見咎めて『泥棒』だと勘違いした、……違うか?」

「そ、それは……、違います、俺は本当に……」

「どうだかな」

 私は煙草を携帯灰皿に潰し、唇の隙間から紫煙を燻らせてじろりと漕太を見る。六甲と似ていないから、こういう態度が取れるのだと自覚している。大人気ない、大いに大人気ない、何年生きたって心にはこういう稚拙な部分というのはこびり付いて消えることは無いのだろう。だから私の視線は完全に漕太にだけ注がれていたし、神経の大半も、漕太に向いていた。

 耳元で微かに鳴った、網の破れる音に気付くのが僅かに遅れた。

「先生?」

 身を翻しかけた私のセーターを、漕太がぐいと掴む。

「……離せ」

 漕太はニヤリと笑っていた。

「……漕太!」

「泥棒なんて居なかった」

 漕太が、静かな声で言う。

「昼間、兄ちゃんに頼まれたんですよ、……俺に、夜に此処へ来るように、あなたをおびき出す為に」

「……六甲が……?」

「あなたが、兄ちゃんに何か隠してる、とても重要な何かをずっと隠してるって」

 漕太の声に、初めてはっきりとした怒りのような、熱いものが篭ったのを私の膚は感知した。

「……兄ちゃんは不安がってる。信頼してるあなたに隠し事されることを、怖がってる。俺は兄ちゃんの心が少しでも揺らぐのは困るんですよ……、親父のためにも、お袋のためにもね」

 その、六甲とは質の異なる、しかし同様のものを六甲も秘めた命の煌きを秘めた漕太の眼が、私を射抜いた。

「俺が生まれてきたことで親がしんどい思いしてたり、兄ちゃんが自分の病気に引け目感じたりするのは辛いんですよ! だからね、俺は兄ちゃんのためだったら何でもする、兄ちゃんが辛い思いすんのは耐えられないから」

 無邪気な子供に過ぎぬと思っていた―勝手に思い込んでいた―漕太の内側にあるものが、その指先から迸って私の首を絞めたような気がした。

 五つで発病した兄と一つ違いの漕太は、ずっと兄の療養費と自分の養育費でふらつきながらも懸命に家計を支える両親を間近に見て育ってきた。六甲が病を持って生まれて来たことではなく、「俺が生まれてきたこと」を傷と定義するのは余りに詮無いことではあるが、年幼い頃に漕太自身が思い決め、十五の今まで変えずに来たのならば、それは六甲に巣食う病巣同様に深くその爪を心に突き立てているに違いないのだ。

 しかし。

 それでも、

「離せ!」

肌の焼けるような焦燥に駆られて、私は力任せにその腕を振り解き、玄関でサンダルを脱ぎ捨てて廊下を駆けた。視線の先、調剤室に向かって折れる廊下に張った私の「網」が、丁度小さな一人分、破れているのを見る。だが、……鍵は? 鍵は、金庫の中に仕舞った、だから。

 調剤室の扉は開いていた。

六甲の小さな背中が、ぽつんと調剤室の暗がりに在って、プラスティックの函をじっと見下ろして居る。

「六甲」

 私の呼び掛けに答えることなく、六甲は振り返って、

「此れ、なあに?」

 平和な声で訊く。まだ中を見られては居ないのか、しかし……、緑色の蓋は、既に外されて六甲の足元に転がっていた。

「……どうやって……、どうやって鍵を開けた」

「勝手に入って、ごめんなさい」

 六甲は握っていた小さな拳を開く、その中には古びた真鍮の鍵が在った。

「金庫の鍵を……、どうやって開けた」

「先生、言ってたよね、僕には博打の才能が在るって」

 答えになっていないようで、しかし明確に其れは、答えになっていた。六甲にダイヤル式の金庫の鍵を破る技術が備わっていることの妥当性は、その臓器にあの病巣が生まれつき在ることと同じく、妥当すぎることなのだ。私は後悔に駆られながら、しかし恐らくはもう庭には居ない漕太の首を締めてやりたいような気になる。

完全に謀られたのだ。

全て、六甲の謀だ。漕太を囮に、私を庭におびき出す。私が家を出た短い空白を縫って、鍵を金庫から取り出し、私がやって来る前に調剤室へ忍び込む。

「僕の身体がずうっと小さいままなのも、先生の身体がずうっと若いままなのも、……僕が不審がらないと思った?」

 六甲は静かな声で言う。暗がりでその顔色は真っ白だ。「……お前、薬を、飲んでいないのか。飲まなかったのか! さっき……」

「あの薬を飲むと眠くなるってこと、判ったから。悪いなって思ったけど、飲む振りして歯と頬っぺたの間に隠して、トイレで捨てた」

「……何てことを……」

「心配だったよ、……どうしよう薬が、いつかみたいに解けて、……口の中が此れで一杯になったらって」

 六甲は、函を持ち上げて私に掲げる、「……いっぱい居るね」、白い霧の中を覗きこんで、六甲は呟く。「此れが全部僕のお腹の中に居るんだ、……食べても食べても太らない訳だね」。

「六甲」

 気付いていたのか、お前は、私が。「おかしいなって、ずっと思ってたよ。……ううん、思わない方がおかしいよね。でも、ずっと黙ってた。僕は今が幸せだし、先生のことが大好きだから。ずっと側に居られたらいいなって、ただそれだけで他に何も要らない。だけど、漕太やお母さんやお父さんはどうだろう」

 不老の身体を持って居ること、この呪わしい力に拠ってお前を護って居ること、……「先生が普通の人間じゃないってこと、一緒に居る僕が、段々普通の人間じゃなくなってきてること、……遅かれ早かれ気付いてしまってただろうね。でも先生はいつまでも隠し続けて、……多分引き千切るようなやり方で僕を何処かへ攫っていくつもりだったんだ」

 六甲の言葉を終いまで聴いて、私は諦めた。

 六甲の手にした函の中には、私が生み出した幾千もの微細な、蜘蛛の子が蠢いている。白く霧のように函を満たしているのは、彼らの寝床として私が編んだ糸だ。

 私は人ではない。

「……いつから……」

「ずうっと、ずうっと昔から」

 六甲は小さく微笑んだ。

「こんなに若くて綺麗な三十歳四十歳なんて居ないと思うし、そもそも先生が寝てるとこ、僕は見たことが無い。はっきりとは言えないけど、ずっと……、何か隠してるんだろうな、でも僕がそのことを知りたがったりしたら、先生はきっと困るんだろうなって、そう思った」

「……そう、か……」

「だから、……僕だって悩んだんだよ? 迷ったんだ。だけど、やっぱり隠してて欲しくない、僕は先生のことが大好きだから」

 六甲は函を床に置く。元のとおりに蓋を閉め、抽斗の中に仕舞った。私は掌を顔に当てる。私の掌は焼けるように熱かった。「そうか」奥歯の辺りがむず痒く、其れは頬に伝播し笑いの形を取った。「そうか」目の前の、賢い子供。私がずっとずっと守り育てて来たのだ、いいや、それ以前にこの子は。

 あの人なのだ。

 賢くないはずが無い、

 私は自分の愚かさが可笑しくて仕方無い気がした。秘匿するために足掻いていたことは、六甲のか細い体の中に流れる血、私が護りたかった当に其れによって暴かれたのだ。

「ならば……、もう判っているだろう、俺が……」

「人間ではないこと、……多分、……蜘蛛の、お化けだってこと」

「そうさ。……俺は……」

 喉をのけぞらせた。この何十年趣を変えずに居たこの家の景色が、今を境に変わるのだと私は知る。残されるのは此れより永劫続く孤独だ。

「俺は……、蜘蛛だ。お前に……、正しくはお前の何代も何代も遡った先祖に、命を救われた蜘蛛だ! お前の側に居ていいような者ではない……」

 破滅だ。

 六甲に知られてしまった。私の呪い、六甲の呪い。その命を繋げる為に私がして来た、罪。其れさえお前に知られなければ、誰も苦しまなくて良かったのに、お前もこれからずっと、死とは縁遠く生きていくことが出来たのに。

だが、私は、全てを諦めた。

ぶつぶつと身体の中で筋繊維が軋む。私の身体は仮初の「人間」の器から零れ、輪郭は歪み、この廊下には大きすぎる本来の形へ姿を変えて行く。思考は血の紅に染まり、私の視界は人の捉えきれぬ範囲にまで広がる。微かな痛みを伴って、しかし私は笑っていた。此れはある種の解放かもしれない、ずっと押し隠していた自らの帯びた罪深さを、血を吐くようにばら撒いてしまうことには、露悪的な快感が伴うらしい。私は八本の肢を折り曲げ、頭部を六甲に向けて擡げた。真赤な硝子玉のような眼を剥いて、私は六甲を見た。口吻から薄い糸と煙を漏らしながら、私はまだ、笑っていた。

 六甲は私の八つの眼、どれを見たらいいのか判らない様子で、呆然と立ち尽くしている。

「……私は……、お前の側に居ていいような……、者ではない……。……私はこんなにも……、醜い……、汚い、いきものだ、私はお前をずっと騙して……、お前という獲物を逃さぬ為にずっと、嘘をつき続けて、……六甲、お前を、人ならぬものに堕とすために罠を張りつづけた……、血塗られた蜘蛛が私だよ!」

 私の八つの眼球にそういう機能が備わっていたならば、多分泣いているのだと思う。六甲を失わなければならない、もう、護ってやることは出来ない、……私の薬無くしては、六甲は三日ともたぬだろうから。

 この呪わしい姿を見られて尚、傍に居られるような甘い未来の存在など、私は一度だって信じたことは無かった。

「先生は」

 その言葉に、私は震えた。

 まだ私をそう呼んでくれるのか、……この、醜怪なるいきものを。

「……どうして僕を助けてくれたの? さっき、僕の先祖が先生を救ったって言ったよね? 其れだけが理由?」

「……お前の身には、あの者の受けた罰がそのまま宿っているのだ……、釈迦が、お前の死したお前の先祖の身に与えた罰が、そのまま」

「……釈迦? お釈迦様のこと?」

「……お前の先祖は、二重の罪を犯した。一つには……、現世で罪無き者たちを手にかけたこと、その罪は地獄に堕ちることで……、償われた……、だが今ひとつの罪が、お前の身体には宿っている……、釈迦の逆鱗に触れた、醜き振る舞い……、改心の機会を、自らの欲深さによって、他の者の道もろとも手放してしまったこと」

 あのとき―やめるのだ―私に言葉を話すことが出来たならば、そう叫んでいたのだ―やめるのだ、私はお前を救う、……だから、何も怖れなくていい、どうか、信じて此処まで―。

 だが、釈迦は私の糸を切った

 糸の先、幾多の罪人は再び地獄へと堕ちて行った、……私の救いたかった犍陀多もろとも。

「……犍陀多、が、僕?」

「……そうだ。その証拠に……、お前の身体の内には釈迦が残した罰の爪痕が残っている。お前が……、犍陀多が、浄土の視野で釈迦を裏切った戒めとしての……、病巣が」

 私は、極楽を歩く蜘蛛だった。

そして「あの夜」、林の中で闊歩しているところを犍陀多に鉢合わせ、しかし彼の唯一の徳を当にこの身で受けた、蜘蛛のなれの果てだった。―釈迦よ―言葉の無い私に出来たことはどれほど在っただろう―この救いの糸が貴様の気紛れに拠るものだったなら―。私は釈迦の踵を噛んだ。怒りを買った私もまた、地獄の底へと落とされた。

 私は人として、再び生を受けた。遡ること四百年も前のことだ。犍陀多が死んでから凡そ百年が経過していた。

「私には……、前世で蜘蛛として生きていた記憶が残っていた。そして、浄土で……、再び犍陀多と見えた記憶をも、この身の中に宿していたのだ。あの男を……、犍陀多を、救えなかった。気紛れにしろ、私の……、命を、繋げた犍陀多を、救ってやれなかった……、釈迦の気紛れから護ってやることが、出来なかった。私は無力で愚かな蜘蛛だった」

 六甲は白い頬を、少し強張らせる、構わず私は続けた。

「罰を負うたこの身体は……、どうせ呪われしもの、しかし私がこうして転生したように、犍陀多もいつか同じ人間としてこの世に生を享ける日が来るかも知れない。私はその日のことを……、どれほど待っただろう。願いは……、呪いは、私の姿を再びこの蜘蛛の姿へと変えた。今から三百年以上も昔のことだ、私の姿は、あの日、犍陀多に救われたこの蜘蛛の姿へと変じていた。転生を超え人の生を経た私は願いに歪み、……お前の知る通りだ、私の身体は時間を止めた」

 さあ……、怖れるがいい。私は震えるような心持で胸の裡呟いた。もう、私は何も怖れないと、嘘をつく。怖い、怖い、怖い、……六甲が何処かへ行ってしまう、もう、護ることは出来ない、二度と届かない場所へ、……この不死の身体、届かぬ場所へ。

 私が確かに六甲へ伝えたいのは、最早犍陀多とお前を重ね写してはいないと言うことだけだった。其処に色濃い面影の顕れていることは疑いようも無い事実だが、私が今失いたくないのは犍陀多の生まれ変わりではなく、下総六甲というか細い少年ただ一人なのだ。この十年間、お前はどれほど私の孤独を癒してくれただろう。私の裡には、確かに犍陀多が居た。釈迦の踵に噛み付いたことよりも尚重い罪は、犍陀多を救えぬことだったから。しかし六甲と出会ってから私の罪は、私の呪われた体を肯定するものとなった。

 その声が、その笑顔が、私の全ての理由だった。

 「先生、大好き」と、お前が初めて言った時のことを未だに私は覚えている。余りに大きな幸福に、私は呆然とした。こんなに嬉しいことが在るだろうか、これほど甘美な罰が在っていいものだろうかと、戸惑いすら覚えた。私が側に居ると安心すると、甘えて腕の中に入って来たお前のことを、心から愛しく思ったのだ。

 六甲が、他の誰より、犍陀多よりも、私は愛しかった。

 ただ、今更私の言葉がどれほど六甲の耳に届くだろう。六甲は醜い私の姿を、薄い色の眼をして見詰めているばかりだった。目の前の現象が―人だった私が廊下を塞ぐほど巨大な蜘蛛に変身し、人の言葉で語り掛けている様が―まだ信じられないでいるのかも知れぬ。

 不意に、

「……なるほど」

 六甲は言った。静かに、いつもの、生甘い声で。それから少し俯いて、またすぐ顔を上げる。その顔には、和やかな微笑が浮かんでいた。

「それでも死ぬより怖いことは無い」

 パジャマの袖から、華奢な腕が伸びる、私の細い牙の覗く口に、触れた。

「僕は……、死にたくない。死ぬのは嫌だな。だって先生の側に居られなくなる」

「……先生などでは、ない……、私は」

 露悪的な欲に駆られて私は言った。「蜘蛛だ、蜘蛛の、化け物だ。私はお前を、ずっと、ずっと、騙しつづけていたのだ」

「だけど、あなたは僕の先生だ」

 平気な顔で六甲は言う、白い頬を綻ばせて、「あなたは上園惣一郎でも蜘蛛のお化けでもなくてあなたは僕の先生だ、そして僕は、犍陀多じゃなくて、下総六甲」

 六甲は私の口吻から手を離して、その手を唇に当てる。

「死ぬのと……、先生が一緒に居てくれなくなるのとが、同じことなら僕は……、どっちも同じくらい嫌だな。隠し事してたのは良くないけど、……でも、其れは僕も同じだから」

 六甲が、唇から手を離す。

 六甲の小さな掌と、六甲の舌との間に、……ほとんど透明と言っていいような、細い、糸が、しかしくっきりと繋がっている。

「……六甲……、六甲ッ」

「隠してた」

 六甲は舌で糸を手繰り寄せて、唇を舐めてから、ぺこりと頭を下げた。「ごめんなさい」

 私は蜘蛛の八肢が、隠しようも無く震えていることに気付く、がたがた、がたがた、震える私の肢は、旧家の廊下を微かに軋ませる。

「僕も人間じゃなくなっちゃったみたいだよ」

 顔を上げて、……また口を空ける、指をつぷりと咥えて、……口から指先に、湿っぽく粘っこい、糸を、繋げて見せる。

 言葉を失した私の、右前肢に、六甲は両手で掴まった。微細な黒い毛の生えた、醜悪な私の肢に口付けをして、其処に糸を這わせる。指に絡めて、私の右前肢に幾重もの細い糸を絡めていく。其れは生温かく、私の毛に絡んで、しかし切れない。

「どこにも行っちゃやだ」

 私の肢に額を当てて、六甲は言う。……泣いている、その事に気付いた瞬間に、私は転生の輪から出外れて、自分がただ六甲が好きなだけの、人間であることを理解する、其れはほとんど電撃的に、余りに唐突に。

「行っちゃやだ、行っちゃやだよ、先生、どこにも行っちゃやだ、大好きだよ、大好きだから、ずっと一緒じゃなきゃ嫌だよ!」

 掠れた声で其処まで言ったところで、ぱたり、六甲は私の足元に倒れた。私は反射のように、蜘蛛の姿から人へと戻って、六甲を抱いていた。唇から薄い血が零れ出している。

 その膚は冷んやりとしていて、奥の鼓動は弱々しい。この子供が薬を飲んでいなかったことをすぐに思い出して、すぐに六甲の紅い口許に錠剤を差し入れて、水を流しこんだ。

私は自分の、六甲を抱く人間の腕が、滑稽なほど震えていることを自覚している。余りにも……、余りにも……、心細いのだ。まるで幼子のように、心細いのだ。薬を飲ませれば、間もなく六甲の胃の中で傍目には錠剤の外層にしか見えない私の糸が解れ、中から解き放たれた幾千もの餓えた蜘蛛の子たちが溢れる六甲の血を啜り尽くし、食欲のままに出血の源となる病巣に吸着し、やがてその血が止まれば餓えて死に排泄されるという一連の過程を熟知して居るにも関わらず、六甲の冷たい身体が、私は恐ろしかった。

 私は泣いているのだ。

 子供のように、幼子のように。六甲の身体を抱き締めて、包み込んで、泣いているのだ。抱き上げた身体は綿のように軽くて、布団の中に収めてもまだなかなか熱を取り戻さない。冷静になれば、……放っておけばいい、すぐによくなると判っているのに、どうしても其れが出来ない。私は布団の中で六甲の身体を、自分のものとは思えぬほど臆病な力で抱き締めて、震えていた。

私の中で犍陀多が嘯く。「俺を救えなかったお前がどうしてその子供を救えよう」……黙れ、黙れ、黙れ、私は暗闇で呻きながら、六甲をただ抱き締める。

 忌わしき呪いを帯びて私は生きるのだ。

 永い……、永い……、暗闇は、まだ庭とこの室とを覆って、私を苛むようだった。

 「逝かないでくれ」私は喚く。「私を一人にしないでくれ」其れは犍陀多に? 確かにこの永の孤独を塗りつぶしてくれるのは、あの人のはずだった。そのために私は自らが人の道を外れ醜い蜘蛛の姿に変じても尚、生き続けたいと思ったのではなかったか。しかし私は多分、もう犍陀多を忘れていた。四百年前の記憶の中の犍陀多の姿、其れは浄土から見下ろした亡者と化した彼の姿だったのか、あの夜闇の中に紛れた私を見咎めて、踏まずに済ました泥棒の姿だったのか、まるで判然としない。ただ犍陀多は今、六甲の顔をしていた。小さな、小さな、小さな、煙のように危うい命の少年の顔をしていた。

 道を外れた私に罰を与えるように、全てが六甲を殺そうとしているように思える。夜半過ぎて急激に冷え込んできた、その寒さも、……あるいはこの暗闇も。暗いところが怖いと思ったのは初めてだった。私の眼を持ってしても姿の見えない、何か邪なるものが、息を潜めて六甲の首をすらりと切り取って持っていってしまうような不安に駆られて。

 夜中、六甲の身体は冷え切ったままだった。私の膚の熱を分け与えたくて抱きしめて、しかし壊してしまうのが怖くて。空が薄ら明るくなってくる頃、ようやく六甲の、硝子のようだった頬に、かすかな熱が帯びた。その瞼が泣いた後の赤味を湛えていたことにも、私は気付かなかった。

 美味い飯を食わせてやる。

 欲しいものは何でも買ってやる。

 夜もずっとお前の傍に居よう、お前が望むならずっと隣に居よう。

 ……だから……。

 願いは、六甲を抱いて蹲る浅ましい私の姿を切り取って、重なる影と実体との間に宿る。

 六甲は眼を覚ました。まだ薄暗さの残る、朝六時を少し回ったところだった。ぼんやりとした眼で私を見とめると、力の無い両腕で私に抱きつく。私はその力にそのまま呼ばれて、六甲の隣に横たわった。「先生」と、かさかさした声で言う。「泣いちゃダメだよ」と。一体どれほどの涙が私の中に潜んでいたのだろう、四百年生きてなお私は私の身体にすら判らぬ処があるのだと知る。六甲は今にも死にそうなくせに、私の背中を慰めるように何度も何度も撫ぜた。

「……いつから……、いつから……」

「ん?」

「いつから、糸を……」

 六甲は私の胸に顔を埋めて、二度深呼吸をした。

「おととしの夏から。……覚えてる? 風邪ひいて、咳が止まらなくなったことがあったでしょう?」

 覚えている。六甲の異変の一つ一つを私は覚えている。六甲の、遅れ始めていた時計が完全に止まったのもちょうどその頃だった。

「あの時にね、苦しくって、咳一杯してるときに、手のひらに、糸がくっついて。痰じゃなくて、もっとずっと細くて、……慌てて飲み込もうとしたんだけど、後から後から出てきて……。でも、先生に言ったらどれだけ心配するか判らないから、トイレで全部吐いた。それからだよ、……時々咳き込んだりすると、つうって出てきてね。でも、最近は出し方が判るようになってきて、だからもう困ってない」

「困って……。困ってなくても何故俺に言わなかった!」

「だから、言ったら心配するだろうって……」

「俺はお前を心配するために生きているんだろう!」

 何を訳の判らないことを怒鳴っているのだと、頭の後ろ半分は思うのだが、私の理性はまだ働かないようだった。

「先生だって……、黙ってたじゃない。遅かれ早かればれちゃうことなのに」

 そう言われれば、もう何とも言えない。六甲は私のセーターの背中を掴んで「おあいこ」と笑った。

「……怨め、六甲……、俺をッ……、この醜い……、蜘蛛の化け物を……、頼むから……、怨んでくれ……!」

「無理だね」

 六甲は私の腹を吐息と言葉で温めながら、笑う。

「だって……、今日死ぬか明日死ぬかって、ずっと怯えてたんだよ? 先生の薬がある限り、どんな形だったとしても僕は生きて行けるなら、僕は幸せだよ?」

「しかし……、お前はもう……」

「人間じゃない……。人間で居ることで怯えなきゃいけないなら、僕は其処から救い出してくれた先生が、お釈迦様みたいに見えるよ」

 顔を上げて、六甲は微笑む。暖かさに、少し赤らんだ鼻と頬に、私は生気を見る。六甲は嬉しそうに布団から起き上がって、

「せんせ」

 濡れた頬さえまだ自分では拭けない私の顔を両手で包み込む。「ずっと……、ずっと一緒に居てね。僕も、ずっと一緒に居るよ?」

 六甲は笑う。嬉しそうに、笑う。私の頬を舐めて塩っぱいと笑って、頬と紅い舌との間に、糸を繋げて笑う。私は自分が六甲の無邪気な糸に絡み付かれて、浄化していくのを感じる。六甲は私の首筋に唇を当てて、其処をほんの弱い力で噛んで「大好き」、……其処から流れ出るはずの夥しい量の私の血液には、私が永い時間、ずっと抱え続けた苦痛が混ざり、黒ずんでいる。六甲はその痛みすら、きっと飲み干して、笑ってしまう。

「先生は?」

 再び頬を包み込んで六甲は私の顔を覗き込む。

 私に何が言えたろう、ただ、

「……俺も……」

 情けないほど震えた涙声で、「俺も、お前が、好きだよ」と答える以外に、一体何が。

 満足げに微笑んで、私に口付けた六甲のために私が―ただ、一人の弱い男として、しかし六甲の傍に居なければ生きている意味もない男として―出来ることは、いつまでもその掌に甘えていることではなくて、まずは六甲の命を昨日から今日に繋げるための、薬を飲ませることだった。

 普段より幾らかあっさりと、薬を飲み下した六甲は胃の辺りに手を当てて、

「此れは、あの、蜘蛛たちは、先生の『子供』なの?」

「……厳密に言えば違うが、そういうことになる」

「あれ? あの、……ええと、先生は」

 ちら、と私のズボンの前に目をやって、「男、だよね?」

「……お前は何度俺の裸を見て来た」

「いや、あの、だから……」

「……だから厳密に言えば違うと言ったろう。ただ俺の要素が含まれていることには間違いない、俺の血液から生み出した命だ」

 六甲は自分の胃の辺りを何度か撫ぜた。その掌は、とても優しいように見えた。

「大事にするよ」

 漠然とした言葉だが、其れは多くのことを範疇に含んでいる。私はやっとのことで頷いて、ようやく乾いた目を瞬かせ、六甲のことを見詰めた。こうして見ると、やはりか弱く、それだけに美しさを纏った一人の少年だ。しかし十年間私は、この少年が自分で思っていた以上に、無様なほど、愛しかったのだと分かる、瞭然と、理解する。両手は私のものでありながら、まるで操られるように六甲を抱きすくめていた。六甲も其れにあまり強くは無い力を、しかし集めた両腕で抱き返す。「大好き」呟く、「大好き」囁く、「大好き」……私の心の奥で、諸々の柵は全て排除され、六甲が私にとって限りなく愛しく、大切なものだという単純な結論が明確な存在感を持って、すとんと落ち着いた。

「ずっと、……側に居させてね」

 六甲は私に口付けをした。何度も何度も、口付けをした。永の生でこれほど温かく柔らかな唇に触れたことは、一度も無かったような気がする。

「ああ……、何処にも遣りはしないよ、俺は……、お前を、護り続ける」

「僕も、先生のこと護り続ける」

 にこ、と六甲は微笑んで言った。

「僕が生きて、先生の側に居ることが、先生を救うことになるなら、ずっとずうっと僕は、先生のことを護り続けるよ」

 六甲はもう永遠に変声することのない滑らかな喉に出せる、精一杯低い声で言った。

 一晩中私が抱えて過ごした悲しみが満ちた部屋の空気を入れ替えるために、六甲を布団に入れて、障子と窓を開け放った。生温かい暴風と冷たい夜を経て庭に間もなく降り注ぐのは聖の光で、私が其れを浴びても痛みを感じないのが許しの証と断じていいように思う。

 ただ、飛び切りに寒い。霜柱が張っている。背後で六甲が布団から這い出す音を聴いて、白い息を流しながら私は「出てこなくていい」と言った。

「うん、寒そうだからそっちまでは行かない」

 庭の下土には、夕べ私と漕太のもみ合った靴跡が生々しく残っていて、霜柱は其れをぎざぎざに縁取っていた。漕太はどうしただろう。すりむいて痛む膝を抱えながら自分の仕事は終わったと真っ直ぐ家に帰ったのだろうか。

 衣擦れの音を聴きながら、私は振り向かず、漕太が足を躓かせた石を見詰めている。

「六甲」

 私の漏らす白い息が、咳払いで弾んだ。「風邪をひくぞ」

 六甲が密やかに笑いながら、

「大丈夫だよ、僕はもう、先生が思ってるよりもずっと、強い」

 言う。

「だって、先生がくれたんだよ」

 六甲に背を向けたまま、私は途方に暮れている。早く窓を閉めなければ。この冷気から六甲を護ってやるのが私の生きる理由だ。

 そして六甲を叱ることだって私はしなければいけないはずで。

「先生、こっち向いて」

 私の首は鋼のように強張っていた。

「開けっ放しだと寒いし、……布団の中よりも先生の方が温かいよ?」

 声の響きは謙虚で素直で年の割りには甘えん坊の子供の声なのに、底辺に少しばかり意地悪く、挑発するような響きが篭っているのを、私は聞き分ける。

 小さなくしゃみの声を聴いたら、もう、そうするほか私に何が出来ただろうか。サンダルを放り脱いで部屋に上がって窓を閉め、障子も後ろ手に閉めて、六甲と向き合う以外、私に何が。

 抱き締めるという行為に耐え得るほど、頑丈な身体ではないように思う。

 だから跪いて、両腕と、掌でそっと、まだまどろみから明け切らぬ朝の色を集めて青白くすら見える裸を包み込むのが関の山だ。

「先生、温かい」

 六甲の膚もほんのりと温かいように思えた。生命の力の存在感を私の腕に、胸に、はっきりと伝えて安心しろと言う。

「ええと、先生のことが、好きです」

 六甲はか細い両腕で私の頭を抱いて、言う。

 髪に、口付けが一つ。

「僕は、先生がそうであるかないかに関わらず、先生だけが好きです。先生だけ好きで居られればそれでいい。こう言うことでもし僕が『同性愛者』ってことになるなら、僕は喜んで、『同性愛者』だし、先生がそう呼ばないならそれでもいいし、……他の誰のことよりも、僕は先生が、好きです」

 私の意識が彷徨い始める。今六甲が生きて居ることがまず現実としては虫が良すぎるように思えて、その上で六甲が何を言おうと、未だ夢の中に居るのではないかという気さえする。しかし私の耳は六甲が私の髪に何度も何度も口付けをする音を聴くし、六甲の両腕がしっかりと私の頭を抱き締める力も感じることが出来る。

「……服を、着ろ」

「やだ」

 六甲はきっぱりと言う。

「六甲」

「僕の時間は先生のくれた蜘蛛の子でもう止まってるんだよね?」

「……ああ」

「つまり、僕は死ぬまでずーっとこのまま、……死ぬのだっていつになるか判らないから、ずうっと、ずうーっと、このまんまだね」

「……ああ、そうだ」

 六甲はすっきりとした声で、

「いいときに止まったね」

 と言う。思わず六甲の背から手を離してしまった私を許して、六甲は私の頬に両手を当てて、

「本当は先生みたいにカッコよくなってから止まりたかった気もするけど」

 私の額に、頬に、唇に、鼻に、小さく音を立てて口付けを繰り返していく。

 見た目がこんなにも幼く無垢だから忘れがちにもなる、だから重ねて私は意識する、この子供は、十五歳の少年なのだ。

「先生は、僕がそういう欲を持ってること、知ってたよね?」

 唇は、再び私の唇に降りた。ただ、下りたのは唇だけではなかった。ほんの僅かな隙間を縫って、滑らかで温かい舌が這い入る。

 六甲が顔を引いたとき、細い蜘蛛の糸で私と六甲が繋がり、其処を唾液の雫が伝って、私の唇を濡らす。

「知ってて……、でも、先生は多分僕の『先生』だからって、ずっと知らないふりをしてた……、違う?」

 私の頬に当てられた掌から、じわり、私へと熱が移る。障子越しの庭の光は柔らかく降り注ぎ、室内の気温は懸念するほど寒くも無い。

「……先生?」

 言葉を見失った私の腕の中から六甲は抜け出す。純粋で、何処をとっても穢れない、小さな少年の裸が在る。数えるのも馬鹿らしいほどの回数、私は六甲を風呂に入れて来たし、六甲が望むのなら例えば六甲が成人したって一緒に入ってやるつもりで居たのは、私が六甲のことを一人の男でも人間でもなく、ひたすらに自分の子供のように思っていたからかも知れない。

 一方で、六甲の考えていることくらい、私には察せるのである。心を読む力など無くとも、其れぐらいは容易だ。甘える子供の顔で私に寄り添う少年に、この類の知識が無いとは思っていない、其処まで暢気な私ではない。私の書斎にある書物を片っ端から読み、また漕太に頼んで新しい本を買って来させている。中学時代にはそういった知識を六甲に吹き込む悪友だって居ただろう、その知識を備えてこそ、健全な十五歳の少年であろうとは思っていて。

 その矛先が私に向かうことだって、私は意識しなかったわけではない。

「……僕は、ずっとずっと、先生のことが好きで好きで、大好きで大好きで大好きで仕方なかったよ」

 痩せた、小さな、少年の身体は、その肉の器には収まりきらぬほどの思いを抱えている。私が手を貸してやらなければ零れてしまうような、重たく濃厚な物思いに、掌を貸すことだけが私のするべきことではなかったか。

 其れが出来なくて、……そんなことも出来なくて。

 私がそういうことを考えたのは、自分の胡坐の中に六甲の小さな身体を収めてからだ。膝に乗せたって心細くなるほど小さな身体は、例えば浴槽の中で私の足の間に座らせても互いに窮屈さを感じない。いつも「此処は自分で洗う」と言う場所だって、幼子の其処と大差ない。

 胸を押されるように、溜め息と共に私は、この少年の成長と性徴のどちらをも、歓迎しなければならないと肚を決める。

「お前は、外を知らないからだ。自分の目の前に俺が居るから、……俺しか居ないから、そう思うだけだ」

「先生だけじゃないよ、漕太も居る」

「漕太は兄弟だろう、俺だってお前の親のようなものだ」

「違うよ、先生は僕の『先生』。それに中学校の時には周りにたくさん友達も居たよね。同級生だけじゃない、先輩も後輩もいっぱい。もちろん、好きになった人だって居たよ? でも、全部ひっくるめて、やっぱり僕は先生が好き」

「いつまでも変わらないと思っているなら……、止めた方がいい。お前の時間は途方に暮れるほど永い」

「いつまでも変わらないって思ってるよ。先生を見てたらそうとしか思えない」

 挑発するような目で、六甲は私を見つめて。

 こんな目をするようになったのかと、胸がちりり、痛くなる。六甲が敢えて見せる棘は、苦しいぐらいに美しい。

「……先生、……ね、触って」

 未だ、天使のような。

 私が触れることでその純潔が壊れてしまうのは明らかだ。

「先生」

 私の首にキスをして、また、糸を伸ばす。

 この異形の傍に在り、蜘蛛をその身に宿してもなお、素知らぬ顔で天使を気取るつもりはないのだと言うように、六甲の膚が、私の手を、指を、誘った。此れまで何度だって触れてきたはずの六甲の頬が、こんなにも瑞々しく生気の色を帯びているのを見るのは初めてのように思う。林檎の紅を僅かに滲ませ、甘く……、甘く、馨る。

 犍陀多ではない。

 下総六甲。

 少年の唇に、私は自ら唇を重ねた。そっと舌を出せば、呼ぶように六甲は口を開けて、私の舌を誘う。微かに甘いようにすら感じられる口中、こめかみが痺れ、私の思考は軸から外れて、からから、からから、からから、転がる車輪が糸を解いてゆく。

 思い赴くまま―そうだ、私の思いの赴くまま―の口付けを終えて、ようやく顔を離したとき、六甲は潤んだ目で、それでも微笑む。どちらのものかは判然としないが、口元を唾液で濡らして、にっこりと。

 そっと横たえたとき、六甲の身体に於いてほとんど唯一と言っていいほど稀有な性的な部分が、はっきりと自己主張しているのにどうしても目が行く。其れが私にとっては、ただ六甲の心と繋がる肉体の一部分であるという一点においてのみ、嫌悪の対象には成り得ないのだ。

 六甲を、私が好きであるということを理由に同性愛者と呼ぶのなら、私もまた、六甲が愛しくて仕方が無いという理由でそう呼ばれることになる。だが、甘んじて受け入れなければならないし、其れが少しも苦しくないだけの理由もまた、私は持っているのだ。

「……っん……」

 私の手の中で、六甲が一度、弾む。其の肩の冷えてしまうことは依然として私の気懸かりでは在ったけれど、ならば尚更、私はしなければならない。

「先生……」

 六甲が、私の左手を求める。渡したら、しっかりと両手で握って、離さない。

「……嬉しい」

 熱く湿っぽい息が、私の指の股を擽る。

 お前が嬉しいのなら其れでいいと、私は何も言わず、六甲が息を震わせながら私の左手の中に声を封じることに気付かないふりをしながら、能う限り優しく六甲の陰茎を愛撫した。前夜までは想像さえしたことのなかった事を、私は六甲に導かれたこの手で一つひとつ現実にしながら、同じやり方で未来だって創り出してしまうのかもしれないと思い始めている。

 右の人差し指が濡れたことに気付き、ずっと六甲の顔に当てていた視線を向ければ、六甲の生白い性器―と呼ぶことさえ憚られるような印象の場所―の先端が濡れている。そっと手を離して観察すれば、苦しいほど熱を集めた先端を護るように包み込む皮の隙間から、透明な蜜状の液が滲んでいる。

 六甲は私の視線を恥じるように私の左手で顔を隠す。

「……お前がしろと言ったんだろう、俺を変態扱いするんじゃない」

「ん、でもっ……」

 はずかしい、と私の掌の中で言う。

 今までだって、何度だって、私は思ってきたはずのことを今またこうして思ったときに、何故こんなにも両肺が熱くなるのだろう、心臓の置き場所に困るのだろう。

「せんっ、……せんせぇっ……!」

 六甲が咄嗟に離しかけた私の手は、六甲の手を離さなかった。六甲の鼓動は私の口の中で踊る。

「うあぁ……っん、んぅ……っ、せんせっ……」

 細い腰をひく付かせて、少女のように甘酸っぱい声を堪らずに漏らしてしまいながら、……それでもよく耐えたほうだろう。幼い身体に確かに宿った凛々しさを、雄々しさを、私は褒めてやりたく思った。

「ひ、んっ……!」

 六甲が刻む韻律に遅れて齎される液体は、其れが雄の性の証であることを私に意識させぬほど、すんなりと喉の奥へと落ちて行く。

 永の時間をただ待つこと、そして極めて近い十年と少しの間は護ることだけで過ごしてきた私だから、斯様な行為を誰かとしたことは一度もないし、望んだことも無かった。犍陀多をそういう対象として捉えたことさえなかったのだから無理からぬこと。不変の身に永劫訪れるはずもない時に違いなかったのに。

「……先生……」

 六甲は毒気の抜けた、泣きそうな顔で私を見上げる。私の唇と六甲の性器が朧の糸でまだ繋がったままだった。六甲の性器は泣き腫らしたように、仄かに紅く染まり、寂しげに震えている。

 ……その有様さえ、いとおしいと、私は。

「お前は」

 口の糸を指で手繰って、切った。六甲に比べて丈夫な私の糸は、緩やかに伸び、私が息を吹き掛ければ宙に浮かび、しばらく泳いだ末に煙のように消滅する。

「いつごろから、俺のことをそういう対象に見るようになったんだ。小学五年で寝小便を垂れていたようなお前の此処が、どうしたらそんなことを思えるんだ。中学になってもまだ夜中のトイレが怖くて私を呼ぶようなお前の此処が」

「せっ、先生……!」

「毒にも薬にもならんような場所だ、……こうやってただ大人しく垂れ下がっていれば、誰も困らん。例えばお前を裸のまま通りに放り出したって猥褻物陳列罪には当たらないだろうな」

 其処まで言って、六甲が本当に泣き出しそうになったから、私は言葉を切る。そして物を言う代わりに―何を言えるとも思っていない―六甲を抱き起こして、腕の中の収めた。熾の熱を其の身の中に未だ秘めて、私のセーターを握る。私を意地悪と詰ることもしないで、ただ髪を撫ぜる私の掌に、好ましい答えを見出してくれる。

「どんなにお前が望んだところで、俺はお前のことを乱暴には扱えないし、扱える日が来るのかどうかもまだ判らない」

 私の言葉の意味を計りかねるように、六甲は黙りこくる。

「……俺はお前が生きているだけで満足だし、十分すぎるくらい幸福だし、恐らく今以上何かを望むことは許されないという、……思いは、思い込みかもしれなくとも、容易に去るとも思えない」

 一夜を越した六甲の膚からは、嗅ぎ慣れた優しい匂いがする。六甲は私の煙草と薬の混じったような匂いを厭わずに、私に抱き着くとき、胸に顔を埋めるのが常だった。

「……そういったことを全部擲つだけの度胸が俺に、何時か宿ることが在ったなら、お前が壊れてしまうような扱いをするときが来てしまうかも知れない。ただ、仮にもしそうい時が来たとしても、其れはお前を壊したいと思ってするのではないということを、今のうちに……、恐らく今を置いてはしばらく言える機会が無いように思うから、今のうちにお前に、伝えておく」

 少しの間、六甲はじっと動かなかった。

 それでも其の沈黙が逡巡ではなかった証に、しっかりと力を篭めて、私の胸に頷いて、

「僕は、簡単には壊れない」

 と、きっぱりと言った。六甲の言葉を、あらゆる角度から信じなければならない立場に居るくせに、多分私は其の時が訪れてもなお冀うのかもしれない、どうか、私を嫌いにならないでくれと。

「……僕は欲張りなのかも、しれないね。先生よりもずっとずっと……」

 六甲が、私のジーンズの前に触れる。私にはもうその手を止める術は無かった。

「先生に、もっと欲張りになって欲しいって、……望んでる。先生が僕のことをぎゅって抱き締めてくれてる今だって、これだけでも溢れそうなくらい幸せなのに、僕は先生にもっと触りたいって、……やっぱり、欲張りだからだね」

 そして私には、六甲の欲を止める理由が既に無いのだ。

 六甲はシーツに肘を付き、片手で不器用に私のベルトを外し、ボタンを外し、窓を開き、下着の中で浅ましく息衝く欲の矛先に、おそるおそる触れる。

「……気付いてた、ん、だよね?」

 六甲はおずおずと私を見上げて、訊く。「僕が、……えっと、先生の、お風呂で、あの、ずっと、……見てたことも」

「……さあな。俺はお前の肩を冷やさないようにすることで頭が一杯だったから」

 むっと、唇を尖らせて、「……僕だけ変態みたい」と。しかし答えはもう出ている。脆弱なばかりの六甲の性器を射精まで連れて行って、私が熱を持て余している理由を六甲は咎めない、ばかりか、くっきりと喜悦は目元に顕れている。

 下着の中から六甲が私の性器を取り出す。六甲の美しい相貌の傍に在るものとして、最も相応しくないフォルムをしていると私は思った。

 六甲はぽかんと口を開けたまま見ている。私は此処まで理性を失してもなお、六甲の華奢な肩が冷えてしまうことを恐れている。別にもう、服を着せてやってもいいのではないかとも思っている。

 しかし、小さいばかりで意味もないように見える臀部を見降ろしているのは、何となく、悪い気はしない。

「……せんせ、……する、よ?」

 無理をしなくてもいい、欲とは無関係にそういうことを口にする機能が私には身に付いているらしい。其れはほとんど本能だ、だから堪えるのには随分苦労する。結局六甲は私の答えを待つことなく、小さな口に其れを、頬張っていた。

 息が、少し、でも、確かに、止まった。

 そういうことをしたいのだろう、判っていても、そういうことをされる準備が私の中で整っていなかったのかもしれない。

 そういうことをされたいのだと、私自身が認めていても。

 窓外の囀りさえ私の耳は捉えられなくなって、夢中になって私に愛撫を施す六甲の頭部を見ながら私は、ともすれば六甲のことを今にでも壊してしまうような恐ろしい衝動をやり過ごすために、……出来ることが何も無い、身を硬くして六甲のことだけ、考えている。

 性欲は生の存在ってこそ。ならば、私も六甲も今生きている、馬鹿正直なほどに生命を燃やして、油を注ぎ合って、この先消えることが決して無いようにと。

 六甲は時折息継ぎをするために口を外す。息を整えて、また水に潜るように私の性器を咥え込む。六甲が苦しげに眉間に皺を寄せるのを見て、何故自分はこんな身体の形をしているのだと思わずには居られない瞬間の裏で、下卑た笑いを浮かべることを私は否定できない。俺はこれほどまでに美しい子供の口に自分の性欲を叩き付けるのだ、其れは一種の危険なサディズム、ついさっき「壊してしまうのを恐れる」などとほざいたのが本当に自分かさえ判らなくなる、もういい、いっそこのまま壊してしまえと。

 次の瞬間には、六甲を「もういい」と止めてやりたくなる。

 しかし六甲は望んでこうしているのだと思い至れば、「俺が壊すことこそこの子の望みじゃないか」などと。

 そんな表裏一体、思考が廻るのは、私にそれだけの余裕があったからかもしれない。徐々にその転換機が定かでなくなってくる。

 欲に駆られるまま動く六甲の舌は、茎を頼りないながらも握って動かす手は、その息遣いも微かに漏れる声も、全て私にとっては心地よいものなのだ。斯く在る今において私が何を望まれているか、ようやく私は気付く。

 ただ六甲に、伝えてやることだけだ。

「六甲」

 絹糸のような触り心地の髪に、手を置いた。判っているのかどうかは覚束ないが、判っていると言うように六甲は愛撫のスピードを上げた。その喉を突くほど深々と口中に納め、舌を、短いなりに絡めて扱き上げる。初めての行為がこうまで巧みで在る理由は、この子供が私にこうすることを、随分前から想像して過ごしてきたからに違いない。

 だから、私に出来るのは、答えてやることだけだった。

 それだけだった。

「……せん、せ……」

 私を見上げる六甲の唇が、白い液体で濡れている。それまでずっと其の目を、潤ませているだけだった涙が、六甲が微笑んだ拍子に目尻からぽろり、零れた。

 

 緩やかな陽射が塀の淵から斜めに差し込んで、私たちを切り取る頃、ようやく服を着た六甲はほとんど膨らみも無い腹に触れて、「お腹空いた」と無邪気に言った。私に抱かれ私を抱いた少年は昨夜死にかけた上にその身に初めての―そして多分、強すぎる―負担を帯びながらも、いっそ普段よりも暢気な顔で居る。

 私は六甲の側を離れるのが何だか寂しい気がしたが、それでもその身に健全な食欲の宿ることは祝福しなければならない。まだ米を研いでも居なかった。診療所の開業時間を考えれば、もうのんびりもしていられない。

 朝食を終えると六甲は、食後の焙じ茶を飲みながら不意にカレンダーを見た。本日は十二月二十五日木曜日である。元より寿喜焼きという風物とは無縁の夕食で明かしたイヴの夜を経て、六甲が私の全てを認めるという想像すらしていなかった事態を迎えてみて、何らかの力学が働いたと解釈する方が妥当だろうか?

 二十八日の日曜日には、閉じ鉤括弧が記されている。鉤括弧が始まるのは今月六日の土曜日であり、要するに六甲との「賭け」の最終日を表すのが二十八日であることを意味する。

「明後日が有馬記念だよね?」

 六甲は今年の競馬最終日に開催されるメインレースの名を口にして、何気ない風に言葉を繋げた。「先週までで幾ら勝ってるの?」

 十六万だと言ってやったら、少しぼうっと口を開ける、その口から、焙じ茶の温かな湯気が溜め息として漏れた。十二月六日の時点で、元手は百円。其処から着々と増えて、現在はその額がそっくりそのまま私の口座に入っている。つまり千六百枚の馬券を外してようやく引き分けまで持ち込める数字であって。

「安心したか」

 私は少しく余裕を取り戻し、軽口を叩いた。「年明けにはちゃんと言いに行くんだぞ」

 うん、と憂鬱そうな様子もなく六甲は頷く。

 だが、その表情のまま、

「その十六万円、僕に頂戴。僕、有馬記念で全額賭ける」

 ふわふわさらりと、とんでもないことを口走った。私は呆然と六甲の和やかな眼を、ただ見て居る。

「先生、言ったよね。僕にも博打の才能が在るはずだって。犍陀多の生まれ変わりだからか、それとは別物か分からないけど、実際僕は限られた時間で先生の金庫を開けたし『子供たち』の入った虫かごもすぐ見つけちゃった」

 六甲はとびきり飄然と、微笑んで言う。

「先生には百パーセントの博打の才能、……才能とは違うか、眼力っていうのかな、そういうのが備わってる。だから先生は僕にその十六万円を賭けて」

「……何、を、言ってる」

「僕、十六万円……、ええと一枚百円だから千六百枚、を全部、何て言うんだっけ、先生がしてるみたいな、一点買い? して、それがもし当たったら先生の勝ち、外れちゃったら、先生の負け」

 どれぐらい、私は焙じ茶の碗を呆けて持っていただろう。十六万という金額を―私にとって端金に過ぎなくとも―軽々しく口にしたことにも驚いたしその突拍子もない発想にも愕然とする。

「それと、あとね、出来れば僕、競馬場、行ってみたいな。お馬が走るところ、この眼で見てみたい。テレビで見てるだけであれだけ綺麗なんだから、本物はもっと、きっと溜め息出ちゃうくらい綺麗だよね」

 生まれてこの方、学校を除けば近所の商店街や公園ぐらいしか出かけたことの無い少年が、そんなことを言う。

 もちろん私は認めなかった。認められるはずが無かった。六甲に博打の才能があると軽口を叩いたのはもちろん私だが、其れは軽口の範疇に収まるものでしかないし、そもそも十五歳の少年が馬券を買うことなど認められてもいない。賭けにしたってアンフェアだ。だが六甲は執拗に強請る、「百パーセント勝つ賭けじゃ面白くないし、フェアじゃない」、そう言い返されては、確かに私はどの馬が勝つか予め判ってしまうのだから言葉も無い。

「いい? 先生は僕に賭けるの。大丈夫だよ、僕は先生の側にずっと居たいんだから、わざと外すようなことはしないし、わざと外れるように買うのだって難しいでしょう? だから」

 六甲は一歩も譲らない。

 

 だがせめて競馬場に行くのだけは止めたのだ。有馬記念の行なわれる競馬場までは、どんなにスムーズに言ったって電車の乗り継ぎが一回、片道でも一時間近く掛かるし、インフルエンザが流行り、また寒さもぶり返し、一年でも最も競馬場の混雑する日、悪条件が重なり過ぎている。しかし六甲は聞き分けなかった。せめて温かな屋内スタンドの指定席を今から確保出来ないか検討したが、其れすらも全て不可。

「だってお馬が走ってるところ、出来るだけ近くで見たいんだ」

 二十八日日曜日の朝は、飛び切り冷え込んで庭の古バケツには氷が張った。私に出来る最後のことは、六甲に何枚も重ね着をさせ、またマフラーをしてコートを着せ手袋を填めさせ、

「暑いよ……」

 其れぐらいの我儘を行使する権利は私にだってあったろう。

 闇を透かし見る私の眼でも、空中に浮遊するであろうウィルス群を見分けることは出来ない。日曜日午前の電車はそれなりに混んでいて、六甲のことを護れる自信が少し、ぐらつく。六甲にはもちろんマスクをさせているが、さっきから斜向かいの席の五十代ほどの男が咳をしたりくしゃみをしたり、その上その年代の人間にありがちなことに、飛沫を手で覆うということをしないもので、つまみ出してやろうかと何度も尻を浮かせかける私とは裏腹に、六甲は目を輝かせて窓外の景色に見入っている。

「すごいね……、外って、広いね」

「うん、今日はよく晴れたし、すっげえ綺麗だな」

 私から、六甲を挟んで反対側には漕太が居る。付いて来いと頼んだ覚えもないのだ、ただ出掛けに六甲を訪ねてきて、先日の非礼を私に詫び、私たちが競馬場に行くと知るや「一緒に行きます」、六甲はもちろん其れを諒解してしまうから。誰が交通費を出していると思っているのだろうか。もちろん漕太は頭の悪い子供ではないから、その辺りの配慮もあるに違いないのだが、妙に開き直って恬として恥じない。気を張って居ざるを得ない私の代わりにあれこれと六甲の話相手になっていることに関しては、寧ろ感謝するべきなのかもしれないが。

 競馬場最寄の駅では、既に雑踏した車内から新聞を小脇に抱えた老若男女が大挙して降りる。私と漕太は六甲を間に挟む形で護りながら、雑踏の中をすり抜ける。やはり来るのではなかった、最寄の場外馬券場という手も在ったろう、……六甲に脚下されるのは分かっているけれど、せめて口にして置けなかったかと私は後悔した。

「すっげ……」

 漕太が呆れたように呟く。丁度昼飯時、これからメインの有馬記念に向けて、ますます混雑には拍車がかかるだろう。大きな黒い人影の中に在っては六甲の身体など簡単に潰されそうで、私は恐怖心すら覚えるのだが、六甲はあっちこっちときょろきょろ見回して、マスクの中でずっと口が開いている。

 三人分の入場券を買って、……それから迷った末に新聞を買って、券売機とオッズ表示のテレビが並ぶ辺りで、私たちはようやく一息つくことが出来た。漕太に金を渡し、茶を買って来させる。六甲は私と手を繋いだまま、まだぼうっとあちこち見回している。

「体調はどうだ」

「ん? うん、悪くない」

「腹は」

「少し空いたかな」

「疲れたら言えよ、座る場所は在るのだからな」

「うん、まだ大丈夫」

「トイレは」

「……そんな子供じゃないよ」

 私にとってはやはり、六甲はいつまでも子供だ。私に抱かれ私を抱くような「男」であっても、其れは忽せには出来ない。

 僅かな人の間隙に、新聞を広げる。メインレースなのでもちろん有馬記念が一面である。馬柱、記者推奨の三連単馬券などを極めていい加減―私にはそう見えた―に眺め渡して、うん、と頷いた。「もう……、人が多くて多くて」、漕太がやっと、温かいお茶を三本買って戻って来たときにはもう、

「もういいよ」

 と六甲は私に新聞を返す。

「……もう、か」

「うん」

「もっとこう……、中の記事を読んだりしなくていいのか、見方が解らないなら教えてやる、前走までの成績とか、距離適性とか、コースの相性とか……」

「先生だっていつもそんなの見ないで決めてるでしょ」

 にこ、と六甲は笑う。いつもの愛らしい微笑ではあるが、どこか不敵なものに見えた。人差し指をぴんと立てて、

「僕は買う馬もう決めたよ」

「……どれだ」

「言わないー。言ったら先生は其れが来るかどうか判っちゃうもの。だから先生もヒント言っちゃダメ。……ええと、馬券はどうやって買うの?」

 俺は此れが来ると思うな、絶対此れだ、漕太が指を差したのは二番人気の馬だった。私は表情を強張らせたまま、マークシートを持って戻って来た。

「ねえ先生、俺も賭けていいでしょ? 絶対に俺のが当たると思う」

 漕太は調子に乗って強請る。私が六甲にマークの仕方を教えているのに聞き耳を立てて、自分でマークシートを拾って持ってくる。

 六甲は「先生、おんぶ」。疲れたのかと仕方なく私は背に載せてやったら、私の両眼を掌で塞ぐ。

「……何だ」

「先生が僕の買う馬券判んないように」

「……危ないだろう」

「大丈夫ですよ」

 漕太が私のセーターの胸の辺りを引っ張る。

「こっちっすよー」

 券売機に誘導されて、私は、……「お金は何処でしょう」……左の尻のポケットに入ってる」「えーと、このマークシートとお金渡せばいいのかな? ……いちにぃさん……、十六万、と、あと百円っと」暗闇の周辺で、背後と両隣の客が二重の理由で言葉を失っている気配がある。十六万飛んで百円分の馬券を購入した私、ということにはなるのだが、私は買った馬券を私は見ていないし、十六万円を現状、どぶに捨てたようなもの。背中から降りた六甲は大事そうにズボンのポケットの中に馬券を仕舞う。結局六甲がどんな馬券を買ったのか、……其れが的中する馬券なのかどうかも、私には判らないままだ。

 私は六甲の馬券が当たることを祈っているのだと思う。だが十六万という金額ゆえに祈るのでは、断じてない。私という化け物に、この永い永い生を託し、六甲は賭けるのだ。そして私もまた六甲に賭けるのである。この私を救い出したか細い腕に、これからの時間全てを。

 どうか、と思う。

 どうだろうか、と。

 此れで見事に的中したら、六甲はやはり犍陀多の生まれ変わりであることに、改めて確信を得てしまうかもしれないではないか。あの男は生前に窃盗と博打で汚財を築いた……。

 いや、それはもうさほど大きな問題ではないかもしれない。六甲は六甲だ、下総六甲、私のただ一人、愛する相手。

 漕太の馬券だけは瞥見できた。其れが外れ馬券であることだけは確かだ。六甲は馬券に祈りを篭めている漕太と彼を見下ろす私とを見比べて察したらしく、自分よりもずっと背の高い弟の頭を、背伸びして「漕太はいい子、可愛い子」と撫でた。

 馬券の購入が済み、二時半を廻り三時を廻り……、有馬記念の出走時刻が近付くに連れ、スタンドは何処もかしこも満員電車の如き混雑を呈する。いや、其れは混雑より「混沌」と称するべきものか。十万にまで膨れ上がった観客のほとんどは有馬記念に投資して居るわけで、その顔付きは過度の期待と緊張にこわばりきっているものが多い。掲示板の見える処までようやくのことで辿り着いたが、前後左右全て人、人、人。漕太は肉眼での観戦を早々に諦めて、携帯のテレビを起動させるが電波の入りも悪いようだ。私は兎に角六甲の体調が心配である。

「見えるか?」

「うん、前の人の背中が」

 十五歳には見えないが、かと言って十歳に見えるわけでもなくて、先程背に負ぶってやったときにも周囲からはきっとおかしな眼で見られたに違いない。

 だが六甲は言う、

「肩車して」

 正気を疑う声を、私は上げたかもしれない。

「だって、折角観に来たのにこれじゃあ見えないよ」

 そう言われては、周囲に気兼ねしながらも私は屈み込み、六甲を担ぎ上げるしかない。

 両肩に、あまりにも軽い六甲の体重が掛かる。

「どうだ」

 私の頭に手を載せ、六甲が嬉しそうにうんと言う。

「久しぶり、先生の肩車」

 そう言えばまだ六甲が小学生だった頃、今よりももっともっと小さかった六甲のことを時々こうして肩に載せてやったものだった。あの頃と比べればやはり多少は成長していて、私の方から腰にかけて掛かる重さはずっと増しているのだった。そんな些細なことに私の中で、安堵にも似た温かい気が満ちてくる。

「先生?」

 出走各馬が馬場に入場し、芝の上をめいめいが自由に駆けはじめる。伸びやかに走る者、恐怖と緊張を振り払うように猛然と走り出す者、……一着入線する馬は、悠然と大きなストライドで、しかし風を鋭く切る。あの馬の馬券を、六甲が買っているのかどうか、……祈るような思いが、胸の中、去来する。

 歓声の間隙を縫って、六甲は私にだけ聴こえる声で言う。

「僕、先生のこと大好きだ。先生のこと、愛してる」

「……そうか」

「自分なりに、判ってるつもりだよ? こんな風に……、くっついてるだけで、どきどきして仕方ないくらい」

「聴こえている」

「じゃあ……、判ってくれる?」

 私はほんの少し、迷ったふりをしないわけには行かなかった。演技に時間を費やさないでは、あまりに呆気なく答えてしまいそうな自分が居て、それは随分と恥ずかしくて。

「……ああ、俺も……、お前が好きだ、……愛して居る」

 六甲に聴こえるように、私は言った。六甲のほの温かな両の掌は、風に冷えた私の頬を包んで温める。

「ポケットの中の、馬券が当たったらね」

 小さいながらも幼子ではない六甲を肩に載せた私には、否応無しに視線が集まる。特に後方からの視線が痛い。六甲は私の右耳にそっと言葉を差し込んだ。

「僕は先生にプロポーズをしてもらいます」

「……なに?」

「だって、責任とってくれるんでしょ? それに僕のお腹には先生の子供が居るんだよ?」

 漕太は飛び飛びの電波を頼りに小さな画面に目を凝らしている。私たちの会話には気付いていないのだと思ったら、ほんの一瞬、……ちらりと私に視線を向けて、何事か呟いて笑った。

「もうきずものだよ、僕の身体は。……だから、もっとしっかり、ちゃんと深い傷をつけてもらわなきゃ……」

 馬たちが出走ゲート後方でスタンバイを始めた。観客の興奮が巻き起こす波に、鼻の頭がひりひりする。怒号と歓声、入り混じる音を掻き分けて私は、六甲が自分の指を咥える音を聴く。

「離さないよ……、離れないよ」

 六甲の指はゆっくりと私の唇に舞い降りる。唇の緩い門を潜り、私の舌の上には僅かに潮の味を帯びて柔らかな六甲の人差し指が届いた。上唇の右端に、僅かに引っ掛かるのは六甲が指先に絡めて運んで来た糸だ。

 発想時刻まではもうほとんど間もない。大きな問題も無いままに各馬は輪乗りから粛々とゲートに収まって行く。十万超の濃密な手拍子が地面を揺らす。馬場を吹き渡る冬の風が私と六甲とを結ぶごく細く、しかししなやかな強さを持つ糸を揺らす。糸は、煽られ、撓み、伸びた。しかし切れることは無い。そのまま何処までも伸びていきそうに、青く抜けた空に薄い光を帯びて靡く。指に巻きつけて手繰り寄せた六甲は、私の唇を再び撫ぜて、ふつりと、糸をようやく切った。

「繋がっていようね、……ずっと、ずっと」

 ……それでも私は、六甲の馬券が的中することを祈っているのだ。私の六甲を可愛く、愛しく、思うことには最早一分の躊躇いもなく本当のことだ。こんなことでも無ければ私がきっと言えないであろうことを、この小さな少年ははっきりと見抜いているのだ。

 出走合図のアカハタが振られ、ファンファーレが鳴り響く。

 焦りを帯びた観客の手拍子が、音色をどんどんと追い抜いていった。六甲も平気で私の頭から両手を離して手拍子を打ち鳴らすものだから、私としては冷や汗ものだ、傍らで漕太が「すっげー! 何だこれすっげー!」、はしゃいでいる。

 有馬記念の出走である。

 


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