サヨナラサヨナラクリスマス

 澄み切った冬空の頂へと至る、緩やかでいてぎこちなく危なっかしい回転運動の中に、立花夕雅は二つ年下の後輩と居た。古ぼけた観覧車が聳えるのは川の近くの小さな区営の遊園地であり、高みが近付いても景色は平凡なまま、せいぜい地面からはマンションの陰になって見えなかったあのばかでかいタワーが見えるようになったというだけ。けれどあんなものは何処からでも見える、はしゃいだ声を上げるようなものでもない。それよりも枯れ葉を巻き上げる風の吹くたびハコがゆらゆら危なっかしい揺れ方をする、隙間風がぴうぴう冷たい、そして自分よりも背の高い男が向かいではなく隣に座っていることに、夕雅は緊張していた。

「先輩」

 窓に掌をべったり付けて景色を眺めていた塚崎航真が、目を煌かせて振り向いた。「もうすぐてっぺんです」

 クリスマスなら何処も混んでいるに決まっている、恋人のいない男を排除するような意地の悪い優越感が押しくらまんじゅうしてんだ。そういう先入観は少なくともこんな住宅街の中に、一体全体どうして在るのか判らない小さな遊園地には通用しないらしい。滅多に乗ることのない路面電車―東京に住んで二年になる後輩は、「はじめてです」と言った―の電停から並木道を通り抜けて辿り着いた、遊園地の前に「児童」が付きそうな場所には、今日は他の何処にでも湧いて蔓延り鬱陶しいカップルなど一組も居なくて、代わりにもこもこに着込んで雪だるまみたいなシルエットになった幼子を連れた母親ばかり。もとより、平日の昼間であるから家族連れの姿が少ないのも無理からぬことと言えた。

「……大して高くねえじゃん」

 片頬を引き攣らせるようにして夕雅は笑った。少なくとも午前中に上ったタワーの特別展望台に比べればずっと生易しい。が、却って落下した時に味わう痛み、……打ち所が悪くない限り即死じゃねえよな、胴体と手足は繋がったまま捻くれて、あっちこっち骨折ったりすんだな、そんな風に生々しく想像することが出来て怖い。夕雅は自分が高所恐怖症だということを、まだ航真に話したことはない。さっきから胸のあたりがむかむかしているのは、昼に食べた天丼のせいばかりではない。顔色が蒼くない自信は、夕雅にはあまりなかった。

「でも、それなりには綺麗ですよ。高すぎるとリアリティないけど、これぐらいだと……。先輩、ジャングルジムとか雲梯の上とか昇ったことありません? 昔よく、そういう高いところに立って、すっごい偉くなったような気がしたんですけど、いま、似たような気持ちです」

 後輩は屈託なく微笑んで言うが、彼の言葉を聴く夕雅の額には、小学校三年生のときにジャングルジムの天辺から転がり落ちて大怪我をした傷跡がいまも残っている。夕雅が高所恐怖症になったのはそれ以来だ。

 一際強い風の塊がハコにぶつかった。冷たいプラスティックの椅子から尻を突き上げて、後輩が隣に居ることも忘れて悲鳴を上げかけた。ぴい、と隙間風が口笛を吹く。

「じゃあ、ええと、予定通り、キスします」

 航真は居住まいを正して、そう宣した。「……てっぺんまで、あと十秒くらいかな。一番高い所で、します」

 航真はにこりと微笑んで、夕雅が硬く頷くのを見届ける。唇を近づけ、椅子の上に置かれた夕雅の白い指に手を重ね、「冷た」とびっくりしたように顔を離す。ピークに達していた緊張が一瞬弛緩した隙を突いて、……目を閉じる余裕さえ夕雅に与えないまま、重なった。

 同じ唇だ。思っていたよりも柔らかく、ずっと温かい。航真の指は夕雅の栗色の髪を味わうように潜り、その拍子に耳を掠めて、夕雅をぴくりと震わせた。

 最高潮の景色には目もくれない。塚崎航真は慌てて眉間に皺を寄せて目を瞑った夕雅だけを見ていたはずだし、夕雅はそもそも外を見たくない。他のハコ全てから死角になる場所を通過する最高の数秒を二人して無駄にする。

 キスをするのは、初めてじゃない。立花夕雅は二十三年生きて居るのだ、当然の事ながら。

 しかしこれほど心躍らないキスも初めてだ、喉の奥の違和感を飲み込むのに苦労する。唇を重ねているだけ、触れているだけ。そのくせ、航真の身が孕んだ情熱が接近した額に鼻に胸に、もちろん触れ合っている場所にもじんじんと響くかに思われる。

 夕雅は身長百六十六センチ、だから男としては小柄なほうだ、体格も貧相。しかし割合に顔は整っている方である、らしいと信じたい。性格的にもそう問題があるとは思わないから、極端に偏った振る舞いをしなければ―そもそもそうしようと思いついたこともない―そういう経験をするのは自然だった。だから、……何となく、判るものなのだ、この子俺のこと好きなんじゃないかな。彼女たちの振る舞いが起こす秋波の振幅が胸に届き、夕雅と共鳴するのだ。

 これまで航真がそういう類のものを発していたという認識は、夕雅にはない。単に「男同士だもん」という理由で鈍感でいただけかもしれない。

 とにかく今の夕雅は重なった唇その他、接近した航真の身体のあちこちからそれが滲み出し、セーターとシャツを突き抜けて肌に届くのを感じない訳には行かなかった。無視をするにはそのヴォリュームが大きすぎて、共鳴とまでは行かないまでも、自分の肌がびりッと蠢くことは否定できない。異性相手ならば心の躍る瞬間でも、天麩羅にホワイトソースでもぶっかけたような吐気と違和感ばかりが募った。

「……本当に先輩とキスしちゃった」

 唇を離した航真の手は、まだ冷たいままの夕雅の指の上に在った。喉元で潰した笑い声は潰しきれずに彼の唇から微笑みとなって零れる。路面電車の中で噛んでいたミントの粒の匂いがした。それを夕雅も貰ったから、きっと俺からも同じ匂いがしてんだ、夕雅は曇った頭の中でぼんやりとそんなことを思った。知的に見えるのが眼鏡のせいばかりではない顔をした夕雅の後輩は、

「うわあ……、すっげえ」

 珍しく生々しい言葉を使う。無邪気な子供のように両手で顔を覆い、くつくつと湧き出る笑いを閉じ込めている。

「こんなのが」

 動揺を気取られぬためには、無理にでも視線を外に向けなければいけなかった。この高さから目にして精神を落ち着けられるのは、呆れるぐらい青褪めた空をおいて他になかった。呆れたような声を出して平静を装うことで守れる誇りがどれほど在るのか夕雅には判らなかったけれど。「こんなのが、お前の、夢かよ……。アホらし」

 航真は夕雅の問いには答えなかった。その代わりに、質問で質問に返す。「先輩は、男とキスするの初めてでしょ?」

「ンなん、決まってんだろ」

「じゃあ、俺は先輩にとって初めての『男』になっちゃったんですね」

 その言い方には語弊がある。正確に言うならば、「唯一の」男である。そうでなければならない。ホワイトチョコレートみたいな微笑を浮かべて、「夢みたいです」と航真は呟く。

 ピークから徐々に下り始めたハコに、この高さから、そして密室からの逃げ道が垣間見えたように思えて、夕雅は気を落ち着けるように一度、溜め息を吐き出した。

 悪夢みたいだ、声には出さず、そう思う。

 

 

 

 

 温和で無毒、少しだけ頑固、……というのが、夕雅の塚崎航真評だった。夕雅が厨房で働くレストランの、ウェイターとして雇い入れられたのが大学生の塚崎航真である。

 仕事の飲み込みが早く、清潔感のある外見と穏やかな物腰、そして丁寧な振る舞いで彼はすぐに店に馴染んだ。社員や他の先輩から飯をおごって貰うときも、ぎりぎりまで自分が払うと言って聴かない義理堅さと、「ありがとうございました」と長身を曲げてお辞儀をする姿は誰の目にも好もしいものとして映っていた。大学生の割にシフトの融通も効くと、店長が喜んでいたのを夕雅は何度も見たことがある。……けれど当初はそれほど親しかったわけでもなくて、顔を合わせたときに挨拶をしたりする程度。はじめてはっきりと彼のことを認識したのは、

「何してるんですか?」

 六畳ほどの休憩室に、テーブルが一つ、肘掛つきの椅子が四脚、航真がそのうちの一つに腰掛けて煙草を吸いながら広げていた新聞を、休憩時間でやって来た航真が珍しげに覗きこんだとき。いまから丁度一年前の冬だった。だから航真が店に入って一月半は経過していたことになる。

「何って、新聞読んでんの」

 夕雅は広げた紙を鷹揚に掌で差した。

「スポーツ新聞ですか?」

 塚崎航真は首を傾げる。最近の大学生はこんなもんも知らんのか、などと、大学に通ったことのない夕雅は苦笑を浮かべた。

「いーや……、これ、競馬新聞。見たことない? コンビニとかで売ってるんだけど」

 新聞を閉じて、一面を上にして渡してやると、航真はしげしげとそれを見詰めて、

「五百円もするんですか? これ一冊で?」

 素朴な感想を口にした。

 夕雅が競馬をするようになったのは専門学校を卒業したばかりの頃。この喫茶店で当時働いていた先輩が新聞の読み方からイロハを教えてくれたのだ。その先輩は航真が入る少し前に辞めてしまった。「儲かるんですか?」と怪訝そうな顔をして訊いた航真に、

「儲かるんだったら俺はこんなとこで働いてねえよな」

 先輩にいつか言われたことを、そのまま口に乗せるのは快かった。その現実的な言葉に、夕雅が却って興味を惹かれたのも事実なら、航真も「へえぇ」と少し感情を動かした。

「儲からないのに、やるんですか?」

「うん。面白いからな」

 馬が走るのって綺麗なんだぜ、あんなでかい身体した生き物がすっげえ速さで走るんだ、お前、一度も競馬見たことないの? 気付いたときには熱心に競馬について語っていた。当時より夕雅の生活は競馬が主軸に据えられていた。即ち土曜日曜の二日間。航真と実質初めての「会話」をしたその日は、競馬新聞を開いて熱心に読み込んでいたということから金曜日だったのだと記憶を逆算できるぐらいに、夕雅の日々は競馬と共にある。

 熱っぽく話す夕雅の向かいに座った後輩は、うん、うん、真面目な顔をして頷いていた。話聴くのが得意な奴だな、と思ったことを覚えている。ますます舌がヒートアップして危うく休憩時間をオーバーしてしまいそうになった。

「今度連れて行ってください」

 立ち上がった夕雅に、航真は生真面目な顔で言った。社交辞令とは思いがたいほど、熱を帯びた声で、「俺、競馬観に行ってみたいです」

 可愛い奴め、なんて思った記憶がある。うむ、そうかそうか、うむうむよかろう、大得意になって頷いて、年明け早々、夕雅は航真と休みを合わせて競馬場に赴いた。当時二十三歳になったばかりの夕雅は、成人したばかりの塚崎航真の浴びるであろう大人の洗礼を、成人式にも先んじて、せめて温かく柔らかなものにしてやろうと、新聞の読み方、予想の組み立て方、馬体の見方、馬券の買い方……、持ち得る知識を総動員して競馬初心者のためにレクチャーした。何事にしたって後進が出来るというのは嬉しいもので、夕雅はつい熱を帯びて航真の世話を焼いた、……腹減ってないか? ここの焼きそば美味いんだぜ、ここの今川焼き屋のおばちゃん、愛想よくて可愛いんだ……、航真は其れを鬱陶しがる素振りも見せず、素直に聴き入っていた。その甲斐も在ってかその日夕雅は航真にほとんど損をさせず、かといって―さほど競馬の上手くない夕雅が講師なのだ―得をさせたわけでもなく、ただ「競馬っていいですね、愉しいですね」という感想を言わせることに成功した。

 それから一年、月に一度か二度、多いときにはもう少し、二人で競馬場に遊びに行った。天気が悪い日は場外馬券売り場で済ませたこともあるが、いつも帰りにはちょっとしたものを食べたり、カラオケに行ったり、事によっては酒を呑んでどちらかの家に泊まったり、馬券の成果はどうあれ愉しく過ごすというのがこの先輩後輩にとって週末の習慣となっていた。

 もちろん、お互いに他に友人がいないと言うわけでもない。夕雅はこの半年の間一度恋人が出来て別れている、夏の二ヶ月半ほどのことではあったが、その期間にはさすがに毎週末を自分の恋人に費やさねばならなかった。けれど、その女と縁が切れた―夕雅が一緒に居る時にもこっそりと馬券を購入しているというのが主な理由だった―後に多少の後ろめたさを感じつつ「今週行くか?」と誘ったら、にっこりと微笑んで航真は「はい」と応じた。

 その週末、航真は初めての万馬券を当てた。嬉しそうに微笑む航真の顔を見て、夕雅も嬉しかったのを良く覚えている。その上夕雅の後輩は「先輩のお陰で当たりました」なんて可愛いことを言ったから、夕雅も大いに満足したものだ。もちろんその日の夜も一緒に飯を食べた。

 そんな次第で、ごく良好な関係の二人であった。

 今朝までは。

 ずっと、「おかしいな」と思ってはいたのだ。

 航真が妙な馬券を買っていることには感付いていた。夕雅が競馬を教えた航真だから、予想のコンセプトや馬券の買い方もよく似る。だから当たるときは大抵揃って当たるし、外れるときも一緒。前夜のうちに各々が新聞を買って予想を書き込んで、当日に交換し合うとまるで俺が書いたんじゃないのかと思うほど似通った印が振られるのが常だ。

 それなのに、レース後、後輩のポケットからは妙な馬券が出てくることがしばしばあった。

 それは、予想とは全く無関係、本命党の二人が逆立ちしたって買わないような大穴も大穴、そんな馬券が当たった後にはきっとろくなことねえぞと怯えるような。はじめのうちは「レース番号間違えちゃって」「中山買うつもりが間違って阪神の買っちゃったんです」などと言い訳をしていたが、精査すれば嘘はすぐに判る。とにかく航真が何らかの意図を持ってそのむちゃくちゃな馬券をいつもちびちびと買って、そして外し続けていたことは事実だ。

 昨日の夕方、一年の最後を締め括る大レースでも、どうやら航真はそれをやっていたらしい。

 いま思い返しても、……とにかく酷いレースだった。最後の直線のふざけた悲劇に、十万超に膨張した歓声は一瞬の静寂を挟んで怒号に変わった。「最強」の名をほしいままにして圧倒的な支持を集めた一番人気の馬は脆くも馬群に沈み、彼に追い縋った二番人気も三番人気も相次いで脱落した。主役の消えた舞台に上がったのは「伏兵」と呼ぶことさえおこがましい、場違いも場違いな田舎侍のような馬……、観客は目の前の戯曲の筋を追うことも満足に出来なくなった。唖然、呆然、……自失、もちろん夕雅もその中の一人だった。場内実況のアナウンサーさえ言葉を忘れていたかもしれない。戯曲を舞台ごとぶち壊してしまった勝ち馬の騎手は手綱を握った手をピクリとも動かせず、自分のしでかしたことの重大さを理解できないようにぽかんと口を開けてスタンドを見上げていたが、彼と同じ表情を、あの場に居合わせた誰もがしていた。

 ただ夕雅の隣、大混雑の競馬場でダウンの袖を接して肩を竦めて立っていた航真だけは違っていた。

「あー……」と薄く開けた口からぽつり声を漏らして、のろのろとした仕草でいつも通りジーンズの左尻ポケットから馬券を取り出す。夕雅は落胆しつつ右隣の後輩が馬券を取り出し、馬番数字が点滅し始めた着順掲示板に目を遣るのを見ていた。

 前日の段階で二人の予想は一致していた。二人して、一番人気の馬が強いと結論付けていた。もちろん実際に勝った馬も、二着の馬も、三着の馬でさえ完全ノーマーク。約一日経っていま、夕雅は勝った馬の名前を正確に思い出せないほどだ。

 外れ馬券をくしゃと握り潰して、航真はポケットからもう一枚馬券を取り出した。一番人気、二番人気と三番人気の馬番号も何処にもない馬券、こいつ、またこんなの買ってやがる。一〇〇円ぽっちって笑うかも知れないけど、もったいねえ……。

 夕雅が思考を完結させられたかどうかは、定かではない。薄く開いた唇を縫って十二月の黄昏の風が口の中まで入って、喉の奥をひりつかせたような感覚だけは覚えているのだ。

 航真の指は少しも震えていなかった。ただ一度、確かめるように着順掲示板と手元の馬券とを見比べて、冷たい溜め息を一つ。

「当たっちゃいました」

 それは眩い黄金色の光そのもの。

 薄緑色をした馬券の券面には競馬場名とレース番号、馬券の種別、レース名、そして購入した馬番号の組み合わせが記載されているが、夕雅がそれらを視認した瞬間、もう見えなくなった。嘆きの溜め息を木枯らしに混ぜて俯き加減に歩く人々の流れの中で夕雅は航真の隣、呆然と立ち尽くしたままで居た。傍目には今のレースで大金をすった悲しい若者に見えたかもしれない。

「……なんで、お前」

 そんなの買ってんだよ、という声は掠れた。

 着順掲示板の上に「確定」と赤文字が出た。レースの結果は大問題ではあるものの、走行中に妨害や反則行為は一切無かった。これを以っていまのレースには完全にピリオドが打たれた。

 ……ただいまのレースの、払戻金をお知らせします……、場内放送が流れ、払戻金が読み上げられていく。

「三連単、十二番・二番・四番、七二一万六一五〇円」

 光の塊と化した航真の手にある馬券の券面を、もう夕雅に確認する術はない。航真は「ああ……」と困ったように呟く。

「な、な、なっ……」

 七〇〇万!

 声を上げた夕雅に、人差し指を唇に当てて「し」と航真は窘める。「回りの人に聴かれたら、多分やばいです」

「や、やばい……、そりゃやばい」

「困りましたね」

 何でそんな馬券買ってんだよ、どうして。答えは航真が窓口でずっしり重い札束を受け取り、少し考え込んでから上着の胸ポケットに仕舞い込み、電車に乗り込んでからそっと耳元で囁かれた。「だって、今日はクリスマスイブでしょ」

 十二月二十四日、だから、十二、二、四。それだけの理由。金塊は一体何処に転がっているものだか判らない……。

 何か奢れよ、出来れば普段より贅沢なもんを。そんだけ当たったんだからいいだろ。

 そういう浅ましい科白を航真は夕雅に言わせなかった。

「何食べに行きましょう」

 何でも良かった、実際、何でも食えるような金を後輩は手に入れた。それでいて、……微笑んではいるけれど、喜びを爆発させるというまでは至らない。万馬券を獲ったときに夕雅がどれほど歓喜するか知っている航真は札束を懐に入れてもなお、どことなく困惑するような表情で、抱えるには過分な大金を持て余しているようでもある。

 どうしてもっと嬉しそうにしねえんだよ。目の前の一席が空いて、譲られて座った夕雅は吊革ではなく吊革を提げる手すりを握って身を支える航真に訊ねたが、

「はあ、……まあ、何ですかね」

 首を傾げて歯切れ悪く言う。「……当たっちゃったなあって、そういう感じです。交通事故みたいなもんで……、全然安くても先輩と一緒に予想したのが当たった方が嬉しい気がします」

 それが本心からの言葉だとすれば、何と謙虚で小憎らしいことか。夕雅は僅かな嫉妬が自分の胸中にあることを認めつつ、それでもとにかく彼が手にした七〇〇万のうちごく僅かな割合の幾らかを今夜自分のために使ってくれることに、何らためらいを抱かないでいてくれることを心の底から感謝すればいいだけだ。電車を乗り継いで新宿に至り、使い慣れないし到底使い切れない大金を抱えた航真の腰巾着という立場を甘んじて受け入れながら、焼肉、カラオケ、そして居酒屋というルートで遊んで回り、大いに呑んだ。途中から夕雅の記憶は酒の中に漬かって融けてしまった。一夜明けて鈍い頭痛と共に目を醒ましたのは航真の部屋のベッド、九時ちょっと前。

 二人の家は電車で三十分ほど離れているが、アウェイという感じはしない。夕雅は何度も航真が焼いた特製の「鶏胸肉の漬け焼き」を食べている。パサパサでまずいじゃんと敬遠していた鶏胸肉が、航真が作る特製ダレに漬け込むとびっくりするほど柔らかくなる。レシピ教えろと何度も言っているのに、航真はまだ教えてくれない。

「先輩、駅で寝ちゃうんですもん」

 毎朝の習慣だというコーヒーを入れながら寝癖頭の夕雅を振り返って航真は笑った。「そうだっけ……」と呟く息が酒臭い。夕雅はダウンとセーター、それから靴下こそ脱がされてはいたものの、ジーンズとTシャツは着たままで寝ていた。いつも夕雅が泊まるときと同様、床には航真が寝たらしい布団が敷かれていた。

「覚えてません? 夕べ、お金の使い道のアイディアたくさん出してたのに」

「あー……、んー……、な気もする……」

 航真が言うには、「いっそ募金しちまえ」とか「来年頭のレースで倍に増やそう」とか「やっぱり堅実に貯金か」とか、夕雅は入れ替わり立ち代わり色々なアイディアを出したのだと言う。ただ、そのどれも航真を納得させるには至らないまま、ジョッキを重ねるうちに記憶を前夜に置き忘れている。

「俺、決めましたよ。……先輩もコーヒー飲みます?」

 頭痛はするけれどあまり酷い二日酔いはしないほうだ。頷いて、ベッドから降りた。寝不足で腫れぼったい瞼を擦りつつ、飲んだらシャワー貸してと言った。快諾した航真は夕雅の前に、たっぷりのブラックコーヒーの注がれたマグカップを置いて、自分も座ってふうふうと吹いた。築十八年、変哲の無い六畳ワンルームが航真の部屋で、夕雅が無遠慮に煙草を吸うせいでこのところ少し壁紙の変色が目立ってきた。

「電子レンジ買っちゃえば?」

 夕雅は冷蔵庫洗濯機テレビ掃除機と一通りのものが揃う部屋にあって、食べる分だけ作るから要らないという理由で航真がまだ購入していない家電を思い出した。「そこの、冷蔵庫の上に置いてさ」

「それも、まあ、買っても良いですね。でもそれより先に……」

 白い朝だった。エアコンは点いているが、まだ運転開始からさほど時間が経っていないらしく部屋は底冷えしている。冬の朝陽は台所の窓から緩い角度で差し込み、弱々しい腕で部屋に光を塗り広げていた。二つのカップから芳しい香りと共に立ち上る湯気が煌いている。寒い、頭が痛い、そういう事情を勘案しなければ爽やかな朝だったと言っていい。

「先輩、今日どっか行く予定あります?」

 カップから顔を上げて航真が訊いた。「いーや」と首を振り、一口啜る。それからハンガーに掛けられたダウンのポケットから煙草を取り出す。座る頃には航真がテーブルの上に灰皿を置いていた。夕雅が火を点けるまで、彼は待っていた。

「じゃあ、俺とデートしてください」

 まだ、その時点では取り乱さなかった。すう、と煙草の先端を紅く光らせて、天井に向けて吐き出すときには呆れた笑いが一緒に浮かんだ。「あー?」

「今日はクリスマスです。あいにく俺にも先輩にも、今年は一緒に過ごす可愛い人が居ないわけです」

「そうだなあ……、まあ、去年も居なかった、ってか、クリスマスに居たためしがないんだけどさ」

 そもそも、「クリスマス」という行事を夕雅は特別なものとは位置づけていない。女の子はそうなのかもしれないけどさ。そんな考えの持ち主だから、よりによってクリスマスに彼女に振られた苦い経験がこの男には在る。

 だから夕雅にとっては「何処に行っても混んでて、しかも男が一人で居ちゃいけないみたいな空気醸してる」のが鬱陶しく思えるばかりである。

「だから、ね。せっかく一緒に居るんだし、いい時間に眼が醒めた訳でもありますし。今日一日、俺とデートしましょうよ」

 まだ、唇に浮かんでいたのは苦笑いである。女の不在を嘆くよりは、その悪趣味な冗談に付き合ってやる方がいいかも知れない、でも男同士で遊ぶのを「デート」って言うのかなあ? いや待て、クリスマスに敢えてそういうことをするのも皮肉が効いてていいか。夕雅は短い考えをいくつか玩んで、返答するのが少し遅れた。航真がそのまま言葉を発さなければ「じゃあ、競馬行くか、地方競馬」とでも口にしていた気がする。

「ごめんなさい」

 不意を打つタイミングで、不意を突く言葉が齎された。「あ?」と夕雅が視線を向けた先、航真はいつも通りの顔で居たと思う。眼鏡を掛けた顔は、恐らく夕雅が起きるよりも先に一度洗ったのだろう、さっぱりとしていた、髭も生えていない。もとより薄いほうである。

「俺は先輩が好きです。なので、先輩とデートがしたいんです。一日だけでいい、先輩と恋人同士みたいに過ごしてみたいんです」

 予め用意されていたのだろう、航真は一連の言葉をごくスムーズに発した。夕雅が言うとしたら其れは相当に難儀な科白の言い回しであり、まず、腹に力が入るまい。相手に聴き間違いじゃないと判断させるのだってきっと苦労する。

「……何て?」

 航真は微笑を絶やさない。考えてみると、この男はいつでも微笑んでいる。温和で無毒、少しだけ頑固。統合される塚崎航真の印象というのは、例えば糞みたいな馬券を敢えて買い続けるのを夕雅が咎めたときにものんびりと笑っている表情と共に在る。

「先輩、俺ね、ゲイなんです」

 寝癖頭の男が煙草を吸っていても清潔感の損なわれない白い光の朝の底、淡い陽射を浴びて黒髪を煌かせて、航真は口にする言葉の清潔さを疑わない表情でそう口にする。

 起きてから顔を洗ったのだろう、無精髭も目脂もなく、肌は潤っている。「先輩、化粧水とか使ってないんですか?」「使わねえよそんなの女じゃあるまいし」「えーでも肌潤っていい感じですよ。先輩綺麗な顔してるのに勿体無い」……うひゃあ。

「でもって、俺は先輩のことが好きなんです」

 煙草を指に挟んでいる時にそういうことを言うのは卑怯である、夕雅はそう糾弾する。目の前にコーヒーカップがあるだけだったなら、それが冷めるまでだって黙っていられただろう。夕雅は灰が落ちる前に手を動かし、灰皿に伸びた灰の塊を落とし、いま一度口元へフィルタを咥え一息吸って吐いて、乾いた唇がぴりっと痛んで吸い口を見れば血が付いている、……それだけの動きをしたなら、言葉を発さないわけには行かなくなってしまうではないか。

「……え?」

 という程度の言葉でも口に出すことで義務を果たす。

「びっくりしました?」

 航真は首を傾げて問い、コーヒーを啜り、ちらっと時計を見た。時計はテレビの脇にデジタルの、目覚まし時計を兼ねた物があって、九時一分。「引きました?」

「いや、あの、引いたっていうか、……え? 冗談だろ?」

 引き攣った微笑みを浮かべた夕雅を、航真は穏やかな笑顔のまま、背筋をぴんと伸ばして正座して見詰めている。

「ごめんなさい、残念ながら、本当のことです。俺はずっと先輩のことが好きでした」

 形のいい鼻の下、知的な装いの唇、から発される平均的な高さで安定感のある声、……バラードを歌うのが、とても上手な。

「で、……え? それで、あの……、金とどういう関係があるんだ? その……、お前が、ゲイだって、……いうことと」

 問題は多分、其処じゃない。こいついま俺に告白したんだ。男のこいつが、男の俺に、「好き」って言ったんだ。

 けれど夕雅は自分の中で結論を出すことはしなかった。そんな恐ろしいことが出来るわけが無い。だったらせめて、一分でも三十秒でも先延ばしにしたい。

「簡単なことです」

 航真はコーヒーをまた一口飲んで、立ち上がる。夕雅のダウンの隣、掛けられたコートの胸ポケットから、ずっしりと重たい一万円札の入った封筒から抜き取った束をテーブルの中央に乗せた。

「これを先輩にさしあげます」

「は?」

「百枚あります。大雑把に数えたので、多分もう少しありますけど」

「何言ってんの?」

「これで先輩の今日を俺に売ってください。今日一日、俺の恋人で居てください。だから今日先輩とお出かけするのは『デート』です。手ぇ繋いだり、ハグしたりキスしたり、ひょっとしたらそれ以上のことまで含めての今日と言う日一日を、俺が買います」

 自分が何を言っているのか判ってないんじゃないか。大金を手にして、どっかいかれちまったんじゃないのか。或いは、そう、昨日、夕雅ほどではなかったけれどこいつもかなりの量の酒を呑んでいたはず、まだ酒精が頭の暗闇の中でタップダンスを踊ってムーディーな空気を醸してるんじゃないのか。

 確認の必要もないことだが、立花夕雅にとって百万は大金である。口座の貯金と言えばささやかなもので、例えば身体を壊して二月も寝込めばそれだけで吹っ飛ぶ。生活の端々で切り詰めて切り出した金で以って競馬という唯一の趣味に興じ、其れで少しでも増えたなら、その月はちょっと心が豊かになる……、そういう日々を、二十三歳フリーターの立花夕雅は過ごしている。ついでに言えば、来年はアパートの更新が待ち構えていて、そろそろ財布の紐を硬くして備えておかなければならないぞという状況である。

 だもので。

 斯く在る今はかくて在る。百万の大金を前にして夕雅に正常な判断が出来たはずもない。目の前にぶら下げられた人参を我慢して立ち止まれる馬も居ないし、貧乏男もまた居ないのだ。シャワーを浴び、仕度を整え、「あー、あとこれしてください」と渡されたのは革の腕輪。「何だこれ」と訊けば、航真は嬉しそうに左手首を見せびらかす、全く同じ物が、其処には結ばれていて、「お揃いです。デートだし」と航真は無邪気に言う。夕雅は一年間親しく過ごしたこの後輩のことを、何一つ判っていなかったのだと気付かされた。

 午前中はあの糞高いタワーに昇り、浅草で天丼を食べ、さきほどこの小さな遊園地で観覧車に乗った。そして遂に、……危惧していたことではあったがとうとう、夕雅は航真とキスをする羽目となった。

 移動はいずれも公共交通機関であるし、ルートの設定は本当にお前はこういうことがしたかったのかと疑いたくなるようなもの。お前、彼女が居るときもこういうデートしてたの? そう訊けば、

「彼女なんて居たことありません。女なんて俺の人生には不必要なものですから」

 屈託なくそう答えて、「競馬も愉しいですけど、二日連続になっちゃいますし、ゆっくり先輩の顔を見てるには不向きですよね」と付け加えた。夕雅も自動車免許を持っていないので、公共交通機関で、しかもお得な一日乗車券を使って移動することには何の文句もない。ただ、こいつ案外女にもてないのかもしれんな、などと大きなお世話を思う。女なんて要らないと言ったばかりである。

 観覧車から降りて、盛んに唇を手の甲で擦っている夕雅を航真は咎めもしない。その代わり、「あっち行きましょう」とその手を掴んでも離さない。

 さっきからこんな具合だ、年末の忙しいときにまでわざわざ観光地来るんじゃねえよと毒づきたくなるような浅草の雑踏を、夕雅は航真に手を引かれて歩くことを強いられた。平静でいようとしたところで雷門で「フォー!」などとはしゃいだ声を上げて写真を撮っていた外国人観光客がバンザイの手をピタリと止めて視線を向けて来たときには、ヘルプ、誰か助けて! 誰でもいいからもう。そんな具合に叫びたい気持ちを抑えるのに大変な苦労が要った。

 それだけの思いを味わいつつも、まだ、我慢している。

 出掛ける時に航真が、夕雅に渡すための百余万円の束を懐にしまったのを見ている。

 我慢するしかない。自分の誇りと札束を天秤に掛けて、夕雅は何度も言葉を飲み込んだ。

「……ちょっと、たんま」

 手を引かれて歩く足を止めた。喫煙所が目に入った。夕雅の視線の先を把握して「いいですよ」と航真は快く言う。自分は煙草を吸わないくせに、時折吹く風に首を竦めながら傍に立つ。風下でもまるで気にもせず。片手で煙草を取り出して吸うのが難儀であることは判っているだろうにと夕雅が手を振り解くより先に、夕雅が取り出した一本を咥える間、ライターを持って待っている。

 この男が本当にゲイであることを、まだ家を出るときには疑っていた。街を歩いている間も、やっぱり何かの冗談なんじゃないのか、信じきったわけではない。

 しかし先程のキス、……苦しいくらいの情熱が篭もったあのキスを経た後には、もう信じないわけには行かない。塚崎航真が、ゲイだということを、そして、よりによって俺のことが好きだということも。

「あっち、動物いっぱいいるんですって」

 航真が空いた手で指差した先、確かに「ちびっこ動物園」という看板が立っている。ウサギとモルモットのイラスト付きである。

「動物、好きなの?」

 煙を吐き出す有害生物は問う。

「話したことありませんでしたっけ、俺、実家牧場ですよ。だから動物大好きです」

 ああ、そういえばそんなことを……、北海道の生まれだって言っていたっけ。確か初めて競馬場に連れて行ったとき、「俺んとこには居ませんでしたけど、近所に馬の牧場があって、小さい頃はよく乗せてもらいに行きましたよ」と。その「近所」が「車で十分」だと聴いて笑ったことも、夕雅は思い出した。

「……訊いていいか?」

 その看板の向こう側を眺める夕雅の首にはマフラーが巻かれている。「外きっと寒いですよ」と航真が勝手に巻いた代物だが、おかげで川沿いであってもそれほど寒さは感じなかった。「お前は、どうしてゲイなの?」

「どうして?」

 新鮮な問いだと言うように後輩は目を丸くする。

「だって……、自分が少数派だっての、判ってんだろ? いつからそういう……」

 航真はまた吹いた刃のような風に、白い首を竦める。後輩はマフラーをしていない。

「いつからでしたかね、忘れちゃいました。けど、気付いたときにはそうなってましたよ」

「男に、……その、告白とかすんの?」

「現に先輩にさっきしましたよね?」

 はぐらかすように笑って、「したこと、ありますよ。でもって振られました。高校のとき、卒業前にね、好きだった同級生に。気持ち悪がられちゃいましたけどね。だから実家戻っても友達ゼロですし、大学では隠してます」

 大抵はみんなそうでしょ、と航真は痛みを感じないような顔で言う。

「自分と違うもんは、認められない。それは判ってるし、告白なんかしたら相手に迷惑掛けちゃいます、現に、先輩だって困ったでしょ?」

 夕雅は、少し躊躇ってから頷いた。別段含みを篭めたわけでもなく、あっさり「うん」と言ってしまうのは、何だか可哀相に思えたから、それだけだ。

「だから、俺も告白なんかしないつもりでしたよ。ずっと先輩の傍に居られればそれで十分って思ってましたし、大好きな人に嫌な思いをさせるのは、俺だって辛いですから」

 少し伸びたから、そろそろ切りに行かなくちゃ。昨日の競馬場でそんなことを言っていた前髪をかき上げる。愛想のいい笑顔で居ることが多い男ではあるが、無表情だと眼鏡がスパイスとして加わる知的な風貌のせいでやや冷たくも見える。覗いた白い額には静かな温もりがあるように思えて、咥え煙草のまま夕雅は自分の額に触れてみる。ジャングルジムから落ちたときの傷跡が淡く指に触れる。

「でもね、賭けてたんで」

 航真はぽんぽんと胸ポケットを掌で軽く叩いた。「賭けてた?」手を下ろし、訝った夕雅に、頷く。

「変な馬券買ってたでしょ? 俺、先輩と競馬行くようになって、ああいうのを毎週何枚か買ってたんですよ、予想とは全然無関係なのを」

 ほんの少し得意げに唇の端を持ち上げる。「例えば昨日だったら日付でしたけど、その前は先輩の誕生日で買いましたし、そうそう、頭文字が『ユ』と『ウ』と『ガ』って馬が三頭並んでたからその三頭で買ったこともありますよ。……そのときは惜しかったんです、『ウユガ』になっちゃって、惜しかった」

 ちなみにその馬券は『ユウガ』で的中していれば五〇〇万円だったのだそうだ。『ウユガ』でも三〇〇万ほど。

「どうせ当たりっこない、でも、いつか当たったら。……そのときは、先輩に思いを伝えよう、嫌がられても仕方ない、そのときはせめて、先輩の迷惑にならないようにどっか遠くに行っちゃおう、それぐらいのお金も手に入るんだしって」

 夕雅は目を瞠る。いつも通りの笑顔で、「ええ、ずっと、決めてたんですよ。この一年間」航真は答えた。

 交通事故のようなもの、と航真は自分の的中馬券を評して言った。その単語の選択には、夕雅も諸手を挙げて賛成する。しかしこの男は車のまるで通らない、北海道の原野を突っ切る一本道をポケットに手を突っ込んで歩いていたようなものなのだ。其処へまんまとやってきた車がどかんとぶつかった。……多分、運転していたのは無免許の俺だろう。

 何が航真にそこまでのことを考えさせるのか、夕雅には全く理解できなかった。だって、二十三歳貧民フリーター百六十六センチ、やや高座高、どういった辺りに魅力がおありでしょうかね、本当に。前の彼女に「ゆうくんはカッコいいよね、イケメンだよね」と言われたって、冷静に「それはお前が俺のこと好きだからだろ」いま思えば奥歯がぼろぼろ落ちるような判断をしたものだ。何にせよこの先輩後輩、二人並んで品定めされれば後輩の航真が選ばれる公算が高い。

「先輩と一緒に過ごしたの、大体一年ちょっとですかね」

 考え込む夕雅をよそに、航真はのんびりとした声で言う。「あっという間だったなあ。愉しかったです、すごく」

 それは夕雅も同意する所だ。同性愛者だということを知らなかった昨日まで、どれほどこいつと愉しい時間を過ごしてきたことか。中学高校の友達と少しずつ疎遠になりつつある時期にあってこの後輩との関係は貴重なものだ。着信履歴の一番上には大体「塚崎航真」の名前があったし、「こ」と打ち込むだけで予測変換最上位に「航真」と出てくる。夕雅の指先に航真が宿って久しい。

「でも、それもあと少しですよ、先輩。ゲイの後輩が居たことなんて、先輩はすぐ忘れちゃいますよね」

 夕雅が顔を上げた。航真は相変わらずのどかな顔で、お母さんに手を引かれて歩く小さな女の子を眺めている。眼鏡の奥の二重瞼は優しい。

 夕雅の視線に気付いて、航真は頷く。「言ったでしょ? 気まずくなっちゃうって。先輩はゲイじゃない。俺の傍には居ないほうがいい、……違うな、俺が傍に居ないほうがいいんです。だって俺は先輩のこと好きですし、告白しちゃった以上、傍に居続けることは先輩の迷惑になっちゃいますからね」

 だからまあ、残りのお金で俺なりに愉しく過ごしますよ、航真はそう言って笑った。もちろん全てをそれに費やすつもりではないだろうけれど、多分、あの部屋からは引っ越すつもりなのだ。

「……バイトは。あの店は?」

「辞めます。辞めて、どっか別のところで働きますよ。でもって、大学も普通に通います。同性愛者の顔にノンケのお面をかぶって、普通の人っぽくしながら、ね」

 落胆や悲嘆とは無縁の緩い微笑みは夕雅が煙草を灰皿に捨ててもまだ続いていた。夕雅はどういう表情で居ればいいか判らなくなる。そう言えば、こいつの大学って何処だっけ? そんなことも知らないのだ、同性愛者だと知らなくたって当然のことだった。

「んなん、別に、……バイトは続けりゃいいじゃんか、いままで通りにしてろよ」

 航真は首を横に振った。

「カッコつけた言い方しちゃいましたけどね、先輩が、っていうだけじゃなくて、この俺が、我慢出来ないんですよ。大好きな人、一生手に入らない大好きな人の傍に居続けることを。絶対迷惑かけちゃうと思いますし。だから」

 音のない微笑みはまた吹いた北風にも掻き消されること無く、静かに真っ直ぐ、夕雅へと届く。「今日、先輩を貸してもらってるんです。素敵な、最後の思い出を作りたいから」

 行きましょう、と航真は夕雅の手を引いた。煙草を挟んでいた人差し指と中指は風に曝されて冷たくなっている。その手をポケットにしまう一方で、航真と繋いだ左手は相変わらず温かい。航真の指だって冷たいと思うのに、掌に薄っすら汗すらかきそうなほど、温かく思える。

「あ。あっち、ウサギ触れるみたいですよ」

「ちびっこ動物園」はいかにもちびっこのために存在するような、……トラもライオンも居ない、居るのはロバとかサルとかウシとか。そんな退屈な「動物園」の一角に腰高の柵で囲まれた区画があって、そこでは何羽ものウサギが放し飼いされている。見下ろせば、ふわふわの毛玉が落ち着き無く跳ね回っていて、囲いの中には親子連れが何組か。夕雅と航真が手を繋いでその柵越しに立つと一斉にウサギのように丸く剥いた目を向ける。子供を護るように傍に寄せる母親さえ居て気に食わないが、その判断は保護者として正解だろう。

「先輩はウサギ好きですか?」

 周囲からの硬質な視線にはそろそろ慣れなければならない。いちいち気持ちを削っていてはもたないぞ。そう思うのに、まだ硬い表情のまま「考えたこともねえよ」と夕雅は答える。

「ウサギは意外と美味しいんですよ」

 ウサギ食うのかよ……。

「中入って触りましょう。先輩ウサギ食べたことあります?」

 あるわけがない。

「鍋にするんです。ちょっと硬い鶏肉みたいな感じで」

 ちょっと前に流行った言葉で括るなら、航真は「草食系」の趣が濃い。店の連中はまさかあの塚崎航真が同性愛者であり告白するだけの度胸を持ち、且つウサギをむしゃむしゃ食べるような男だなどとは思わないだろう。夕雅だって思ったことがなかったぐらいだ。

 航真の顔はちっとも長くなんてないけれど、何となく馬を思わせる。それも勝手な解釈で、馬特有の神経質さや臆病さではなくて、長い睫毛を宿した黒目がちで聡明な瞳に夕雅はイメージする。

 草食動物。

 けれど、……そうだな、龍、空想上のいきもの、あれの顔は馬を模したものではなかったか。優しげな顔に見えつつも、その頤に恐ろしい牙を隠し持っている。夕雅は航真の身体の中に自分へ向かう欲が在ることは想像したことが無かったし、そもそも彼が性欲なるものを抱えていることさえ何だか信じられない。キャベツだかレタスだかの中にコウノトリが運んでくるんだよって、澄んだ眼で子供に嘘を教えていそうな。しかし現実の塚崎航真は夕雅と手を繋いだまま木の柵に囲まれたささやかな区画に放し飼いされた白黒茶色様々な毛色のウサギの前に微笑んで屈み込んで、「可愛いですねえ」などと言って撫でつつ、「これぐらいだともう育ちすぎで肉が硬くなっちゃってるんですよ」とすぐ傍の親子連れに聴かせてはならないようなことを口にしている。

「でも、馬は食べる気になりませんね」

 彼はちらりと夕雅を見て言う。夕雅は全面的に同意して頷いた。

「競馬やってても食べる人は居るみたいですけどね、供養って」

「気持ちの問題だろうな、俺は無理だ」

 航真は無垢な目で自分を見上げるウサギの耳を指の背で撫ぜつつ笑う。ウサギはこうして人に触れられることに慣れ切っている様子で、傍に居る親子連れを伺えば、まだ五歳ぐらいの男の子の小さな手には干草のようなものが握られている。鼻にブチのあるウサギが夢中になって食んでいるから餌だろう。入口脇に「ウサギのおやつ 一〇〇円」とこれまた手作り感のある札が提げられている。……金取んのかよ、夕雅が顔を顰めるより先に、ポケットから裸の百円玉を取り出して、「すいません」と飼育員に航真が声を掛ける。飼育員は夕雅より少しばかり年上の男で、もちろん彼は二人の繋いだ手にはとっくに気付いている。営業中の笑顔を浮かべる余裕がないのは二人のせいだ、夕雅は腹も立たず、申し訳ないような気になるばかりである。

「はい、半分こしましょう」

 受け取った草の束を分け渡された。航真は左手で、夕雅は右手で、……仕方無しに、目の前の真ん丸い眼のウサギに「ほれ」と差し出す。鼻をふがふがさせて一頻り嗅いだ後、勢い良く齧り付いた。その様子は可愛らしいと言ってしまっていいもので、僅かに心が和み、……まあ、こんな可愛いもん食えないよなあ、そんな風に思う。

「ウサギは、性欲強いんですよ」

 また余計な情報を航真は口にした。「知ってるよ」と答えつつ、でもって寂しがりやだってことも知ってる、と心の中で付け加えた。寂しがりやのヤリチンorビッチ。こうして考えてみるとその長い耳にどういう情報を収集するのか判ったものではない。

「先輩は、強いほうですか?」

 物騒な問いに、夕雅は反射的に周囲の親子連れを見回す。二組は居たはずなのに、もう姿が見えなくなってしまったのは、間違いなく二人を気味悪がったからだろう。

「それは、答えなきゃいけない質問なのかよ」

 夕雅はウサギから目を反らさずに訊いた。航真はウサギの鼻先で干草をちこちこ動かして、意地悪をしている。

「お任せします」

 はぐらかすように彼は言って、「……ああ、でも、答えなきゃダメって言ったら答えてくれます?」とんとん、と懐を指で叩く。

 さて、俺は強いのだろうか。夕雅は自問する。

 弱くは、ねえよな、多分、うん。けど、……強いかどうか、自信はない。根本的に夕雅にとってその行為は「愉しいもの」という悠然とした趣のあるものではなくて、もっと激烈に「気持ちいいもの」である。やるだけやって、その過程でパートナーも一緒に気持ちよくなれればいいけれど、残念ながら百発百中の割合とは到底言えない。そういう男ってどうなんだろうなあ。長続きしねえの、その辺に理由あったりすんのかなあ。

 次の彼女が見付かるのがいつになるかは判らない、というか、今日に限れば「同性愛者」の夕雅である。そういう思考が上手く巡らないのは、

「つーか、何でそんなこと訊くんだよ」

 キス以上の脅威がこの後に控えていることを、はっきりと予感するからだ。

「ふふ」

 普段は少しも気にならないのに、その密やかな微笑が今は癪に障る。全く、航真の胸ポケットに札束が入っていなければ、夕雅はいますぐ繋いだ手を解いて家に帰る、でもって、入念に歯を磨いて寝る。

「行きましょうか」

 ウサギが干草おやつを夕雅の手から食べ終えたのを見計らって、航真は言った。

「……何処へ」

「さあ、何処でしょう。先輩はもっと中学生みたいな健全なデートを愉しみたいですか?」

 何と答えるべきか計りかねて黙っていたのを、航真が肯定と受け取った。「ですよね」と満足げに微笑んで、彼は夕雅を立ち上がらせる。ずっと繋いだままの手、どのみち航真が立ち上がれば夕雅も立ち上がらなければならない。

「俺の願いをもっと、先輩に叶えてもらいます」

 足元ではまだ餌をねだるウサギたちがにょこにょこと動いている。性欲の強い、寂しがりやの、草食獣。夕雅を射程圏内に収めた肉食獣はその牙をほんの少しだけ覗かせる。

「キス以上のことを、先輩と、俺はもっとしたいので」

 これまでに何人かと「キス以上のこと」をしてきた経験のある夕雅であり、航真である。言外の意を汲むのは北風吹く中の鼻呼吸よりも容易い。しかしまだ判らないじゃないか、確定のランプを灯すには早すぎる。

 微かに怯えたような表情を浮かべた夕雅を見て、航真はまた小さく笑い声を立てた。「ほんとに先輩は可愛い」眼鏡の奥の眼が光る。

「ずっと外に居たから身体冷えちゃいましたよね? あったかいとこ行きましょう。でもって、美味しいコーヒーを飲みましょう。ね?」

 まだ牙を完全に覗かせはしない。しかし時間の問題だ。いまのところはあくまで紳士的に振る舞い、手を曳き、エスコートする。傍目に見たら、そして引っ張られているのが男でなかったら、ひょっとしたら理想の彼氏なんじゃないのか。さっきとは全く逆の考えが夕雅の中に浮かぶ。しかし夕雅には女の気持ちは判らない。

 並木道を辿り、電停で路面電車を待つ間、航真はずっと風上に居た。夕雅よりも薄着のくせに、「寒くないですか? だいじょぶ?」と十分の間に二度訊いた。確かなことはただ一つ、夕雅は今後当分この電停にもあの遊園地にも近付かないぞということ、浅草にも、あのタワーにだって。

 

 

 

 

 三時近い新宿の駅前は、それはもう、それはもう。両手に長い物干し竿でも持ってアルタ前を並木の緩い下り坂を靖国通りのスクランブルをブワーって駆け回ってやりたいような。そしてあちこちに設置した爆弾をいっせーのせ、BOMB! リア充大爆発!

 時として自らもそう括られる側に回るくせに、今はそうではない、しかも男と手を繋いで歩いているせいで一層不幸せな夕雅は内なる憎悪の破裂寸前、あらゆる幸せな笑顔が許し難い。クリスマスには自殺者が増えるんだと何処かで聴いた。単なる俗説かと思ってはいたけれど、これまでの人生で最も不幸なクリスマスを過ごす羽目になっている今となってはスーサイドがこの日に遺した悲しい魂の言葉さえ、耳を澄ませば聴こえるかもしれないと夕雅は思う。

 あの川沿いの遊園地から路面電車で移動して、また高いビルに昇った。……馬鹿と煙と、ついでに同性愛者は高い所が好きなのだろうか。それから見晴らしの無駄にいいレストランでコーヒーを飲んで、やって来たのがこの新宿。

 航真はずっとにこにこ微笑んで会話する。

「夜ご飯までには解放します」

 新宿に着く直前のバスの車内で、航真は夕雅の耳元に囁いた。「先輩は明日もお仕事で大変ですからね。俺にはもう関係ないけど」

 本当に辞める気なのか、と問えば、「ええ。気まずいの嫌ですもん。先輩との今日一日の甘い甘い甘い思い出を胸にしまって、俺は遠くへ行きます」と、ちょっとおどけた仕草とともに答えた。

 で、バス停を降りてから、航真は夕雅の手を引いて、一直線に歌舞伎町方面へと向かっている。旧コマ劇で曲がれば本来ならば街全体に漂うはずのいかがわしさが、今日に限っては清純で不誠実で性欲の権化みたいなカップルの勢いに負けている。おいどうした歌舞伎町、もっと頑張れ歌舞伎町。

「空いてると思います?」

 顔を引き攣らせつつ付いていく夕雅を振り返って航真はそう訊いた。何が、とは訊かない。「夜になったら混みそうだけど、一応今日平日だから空いてると思うんですけどね」判っているから、敢えて訊いたりするものか。

 とはいえ、本当は確認をしておきたい、密室に追い込まれてからでは遅いだろう、「どこまですんの……?」

 死ぬようなことは、まさかされまいと思うけれど判らない。百万をポイと放って明日から居なくなると宣言している男のすることだ、男らしくて潔いように見える半面、酷いくらいに無責任なことをするよと予告しているも同然ではないか、そんなことに夕雅は今更のように気付いた。

 周囲の景色は猥雑さもひと段落着いたといった趣で、寧ろクリスマスの夕方に何だか人気も少なく静まり返っているのが不慣れだ。町全体が裏通りのように背中を向けているように思えるのは並ぶ建物のどれも「入口」をはっきりアピールしていないどころか工夫を凝らして目隠しをしているからで、……ラブホテル、とうとう来てしまった。

「なあ、……なあ、航真」

 目星をつけたホテルが在るのか、真っ直ぐに足は向かっている。「こういうとこはさ、あの、男同士じゃ入れてくれないって、聞いたことあるぞ、なあ」往生際の悪さは重々判っている、しかし、夕雅は声を上げた。

「そうですねえ、男同士だと、ちょっと特殊なことして、特殊な汚し方をして、特殊な掃除が必要になったりすることもあるからって」

 特殊。

「でもここら辺のホテルはだいたい何処も大丈夫です。それに俺は先輩に対してそういう特殊な方法を用いようとは思っていませんので、安心してください、……此処です」

 何だ特殊な方法って。俺は無事に家に帰れるんだろうな、百万円で命そのものを切り売ったつもりはないぞ!

 正面口なのか勝手口なのか判然としない、ともかく数段の階を下って無愛想な自動ドアを開けたところには大理石床のささやかなロビーがある。何かのアロマでも焚いているのか甘い匂いがする、と思ってみれば片隅に飴色の光を放つスタンドの上部から蒸気が上がっていた、洒落た加湿器ですこと。言うまでもないが夕雅だってラブホテルぐらい使ったことがある。貧乏人であるからその回数は数えるほどではあるけれど。要するに、まだ少しぎこちないし、不慣れだ。リア充どもは爆発するといい。夕雅は改めて思う。

「あ、空いてました。一番高い部屋だけどいいですよね」

 嬉しそうに航真は言い、夕雅の返事を待たずにぐいと空室ランプの灯るボタンを押す。「高い」と言っても今の航真にとっては端金もいいところ。フロントで一万円をひょいと払って、釣りはジーンズに裸金で突っ込む。乗り込んだエレベーターの最上階を押す。本当にこの後輩は、高い所が好きだ。

 二人乗ればやっとというエレベーターのハコが静かに上昇していく。当然二人の距離は近い。恋人同士には好都合な空間だろうが、夕雅はいよいよ逃げ道を閉ざされたような、……オオカミを前にしたウサギのごとき心持。

「……なあ」

 苦しくなるような沈黙を夕雅が先に破った。「何、すんの……?」

 ずっと繋いだままの手、強くもなく、弱くもない、全て終わるまでは決して離さないと言うように確固たる力で握られている。

 航真は「4」になり、「5」になる階数表示を眺めながら、

「セックスをします」

 と静かな声で答える。

「セックス、を」

「怖いですか?」

 夕雅が答えるよりも先にハコは最上階に停まった。怖ぇよ、決まってんだろ、男と、アレだろ、セックスってことは、アレだろ! 怖ぇに決まってんだろ!

 控え目な照明の廊下の扉は当然の事ながら全てぴっちり閉められている、音も漏れない。しかしもっと微細で、恐らく粘液質で、けれどもちろん目に見えない何か淫靡なものが僅かな隙間から滲み出しているように思える。航真は鍵と部屋の扉に書かれた番号を見比べながらしばらく進んで、「此処ですね」とドアを開けた。見た目は一応清潔感のある、広い部屋、中央にダブルベッドがありその正面にテレビと洗面台が並んでいて、ベッドサイドには合皮のソファ。奥のステンドグラスを模した壁の向こうが浴室だ。

「サービスタイム五時までだから、あと丁度二時間です」

 リミットを口にしつつ、ようやく手を解いた航真は焦る様子も無く鞄をソファに置き、コートをハンガーに通す。それから立ち尽くす夕雅に「先輩」と声を掛け、コートを受け取り、同じように吊るした。

「俺が先輩と過ごす、人生で最後の二時間です」

 滑稽な響きに思えた。そんなもんお前が決めることであって、……お前があんな馬券を当てやがったから、黙ってりゃいいのに告白なんかしやがったから。

 世界で一番早く過ぎてしまえばいい時間だ。

「陽が傾いてずいぶん寒くなりましたよね、身体冷えちゃったでしょう、お風呂入れますから煙草でも吸いながら待っててください」

 ぽとん、とソファに尻を落とした夕雅を置いて、スリッパを履いた航真はさっさと浴室に入る。蛇口から勢い良く吐き出される湯の温度を確かめて栓をして、「ミストサウナもありますけど、先輩入ります?」夕雅の答えも待たずにスイッチを入れた様子がある。うきうきとしている。夏休み、旅支度を整える子供のように。どうやら上手くスイッチが入らないらしく、「あれー? ……点かないなあ」などと独語する声が聴こえてくる。

 夕雅はのろのろと煙草に火を点ける。

 すぐ傍に航真のコートがかけられているのは判っている。

 その胸ポケットの中に百万円が入っているのも判っている。

 煙を唇から漏らしながら腰を上げかけて、やめた。航真がすぐに戻ってきそうに思えた。目が合った瞬間の気まずさに耐え切れる自信はない。ではこの後の行為に伴う苦痛は耐え切れるとでも? 部屋にはまだ、浴槽の底を激しく叩く水音ばかりが響いている。煙の匂いを縫うようにして、カルキの匂いが部屋を漂うのを感じる。

 判らない、……判らない。判らないことだらけだ。大体のことは判っているつもりだった「友達」だったのに、最早まるで別人。他人。一年やそこらで人のことを知った気になるなという教訓か? けれど航真が隠していた感情の量は余りにも大き過ぎるように思える。言いたいことは山ほどあり、何を言ってもまだ足りないような気にさせられそうで、言うという行為さえ徒労になるような予感がある。

 何でだよ。

 とどのつまり、その言葉が結局夕雅の言いたいことなのかも知れない。何で俺のことなんか好きになっちゃったんだよ。何でずっと友達のまんまじゃ居られねえんだよ。何でこんなことしなきゃなんねえんだ。……何で? 何で? 何で? 何もかもが判らない幼子みたいに。

 その答えを見出すことが出来ないまま金だけ奪って逃げることは、夕雅には出来ない。それは感情の問題でしかなくて、自分の身体が、そもそも感情を司る心の入った肉体、これから始まる行為に耐え切れるかどうかも判らないくせに。

 そして答えを持っている塚崎航真はあと二時間で居なくなる。

 答えを隠して、何処かへ。

「ちゃんと点きました」

 航真が一仕事終えたような顔で戻ってくるまで、結局夕雅はソファから尻を浮かせることはなかった。煙草は短くなっていて、灰皿に押し付けて潰す。航真は夕雅の隣に腰を下ろして、

「戻ってきたら居なかったりしてって思ってましたけど」

 試すように笑う。

「逃げた方が良いのか? 逃げて良いのか?」

「いいですよって言ったら逃げちゃうから、あと一時間五十五分ぐらいはダメです。その後は、何処へなりとも。というか、俺が先輩から逃げちゃうんですよね」

 くすくすと航真は悪戯っぽく笑って、「これから先輩は、俺に抱かれるわけです。いまのうちにもう一本煙草をどうぞ、お風呂のお湯が溜まったら、もう吸わせてあげられませんよ」

「ああ……」

 夕雅は素直に従って火をつけた。航真が膝に肘を付いて、横顔を眺めているのが判る。夕雅は頬の辺りにちくちくを感じながら、黙っている。

「安心してください、と言っても、無理でしょうけど、信じて貰いたいのは……」航真は夕雅の頬に向けて言う。

「先輩を傷つけるのは嫌だってことです。俺は先輩とセックスをして、俺、っていうより先輩が、気持ちよくなるのが願いです。その願いを先輩に叶えて欲しいから、先輩の今日を買いました。もちろん、デート、すごい愉しかったです」

 夕雅は黙って頷く。

「余談ですけど、俺、あんまりお金に執着したことなかったんですけど、……こういう愉しい一日を過ごせるなら、ある程度のお金ってあってもいいのかなって思いましたよ。勉強になりました。ツリーの上に登るのあんな高いと思ってませんでした」

 もう一度、頷く。あの恐ろしいほどの高さを思い出して、椅子に座っているのに股間がひゅっと寒くなった。

「で、話元に戻します。これから先輩には、俺の言うことを聴いてもらいます。というのは、そうしないと先輩のことを傷つけてしまうかも知れないから」

 たまらず、夕雅が声を発した。「なあ」

「はい?」

「それっていうのは、あの、要するにさ……」

 航真は夕雅の視界から外れて、それでも微笑んでいることをはっきり伝える声で答える。「男同士ですからねえ。先輩か俺か、どっちかが女だったら楽なんですけど、生憎。……ああでも先輩が女の子だったとしても俺は先輩のことが好きになってたと思いますよ。それは本当に。俺が先輩のこと好きなのは先輩が男だからじゃなくて、先輩が先輩だからです、その点は誤解しないで下さいね」

 夕雅の煙草はまた短くなっていた。浴室から響く水音の質はもう変わっていたし、半開きの扉からは湯気がもくもくと溢れている。夕雅が気付いたように、航真も気付く。夕雅が未練がましく煙草をもう一口吸って、灰皿に潰すまでを待って、

「俺は先輩と出会えてよかった」

 溜め息を吐き出すように航真は言って、立ち上がる。もう猶予が残されていないことを、夕雅は嫌でも悟る。「ノンケの先輩にとっては気持ち悪いかも知れません。けど、俺は精一杯頑張ります。俺だけのためじゃなくて、先輩のために、頑張りたいです」

 そう言う顔は、やはり夕雅の見知った後輩のものだ、笑顔も、眼鏡の向こうの双眸の煌きまでも含めて、謙虚で礼儀正しく従順な男の。

「あの、さあ」

「はい?」

 立ち上がるとき、膝が鳴った。「……さっきからずっと思ってたんだけど、『ノンケ』って何?」

 一瞬ぽかんと口を開けて、目を丸くした。そういう顔をすると、やはり年下なのだと思う、背はずっと高いくせに。

「ああ……、同性愛者じゃない人、ノーマルな人って意味です。すいません、先輩知ってるかなって思って使ってました」

 夕雅は舌を打った。もっとも、口の中が乾いてあまり上手には打てなかったけれど。

「知るわけねえだろ、そんなの……」

 俺の知らないことを知っている後輩、あの遊園地みてえな、妙な場所を知っている後輩。こんなことにならなければ、もっと色々なことを教わる機会だってあったのかも知れない。考えたって仕方のないことを、夕雅は考えた。

「風呂、入んの?」

「はい。まず温まった方がいいです」

 きっと、そうなのだろう。何となく夕雅は想像する。温まった方が身体は柔らかくなるものだから。

 促されるより先にセーターを捲り上げたところで、

「……お前も一緒に入んの?」

 手を止めて訊く。

「入ってもいいんですか?」

「いや……、別に……」

 一緒に風呂に入るぐらいなら、別に何も意識するべきことなんてねえだろう、とは思う。実際一緒に銭湯に入ったことがある、この後輩の裸を見たことがある。競馬場の帰り、にわか雨に虐められて、たまたま見つけたスーパー銭湯に入ったのだ。そう、化粧水がどうとかいう話も、そのときされたのだと思う。「……入りたいんなら、入れば」

 けれどあのときは無警戒だった。航真が同性愛者だということを知らなかったから、欠片も意識しなかった。背中を向けてセーターをソファに放り、ジーンズのベルトを解きながら、航真が静かに服を脱いでいく音を聴きつつ、……実際問題どういうことするんだ、どこまでするんだ、そういうことを、夕雅は考えている。「痛がらせない」と言ったけれど、航真にそういう経験があるのかどうかは夕雅には判らない。この後輩が同性愛者だということを想像したことが無かった以上、航真が誰かを「抱いて」いる映像はどこを捻ったって出てくるはずもないのだ。

「あ、先輩、腕輪取らないと。それ本革ですから」

 言いながら、航真も外す。今日一日夕雅と航真を「恋人」として繋いできた証を、航真が洗面台の上に置く。「結構高かったんですよ、二つ買ったから尚更」と笑う航真を無視して、夕雅も同じ場所へ放った。

 最後の一枚をソファに放って、「タオルは」と訊けば、トランクス一枚の航真は「ありますよー、ちゃんと」と洗面台の下に収納されたクリーム色のタオルとバスタオルを引っ張り出して見せる。

「お前、此処来んの初めてじゃねえな」

 首を傾げて、「どうしてそう思うんです?」と訊き返す。

「慣れてるみたいだからさ」

 航真は素直に認めた。

「このホテル使うのは三度目かな……」

「それは、……つまり、男と来たってことか」

「そうですけど、先輩が知る必要のあることではないと思います」

 それは確かにそうだ。

「一つだけ言えるのは、俺は初めてじゃない、……自分の身でこれから先輩にするようなことを味わったことだってあるってことです。だから的確に最大限の努力を払って先輩を心地良くしてあげることが出来るってことです。ご納得いただけました?」

 果たしてどちらがいいのか、夕雅に判断できることではない。後で尻の穴が痛くなったらどうすればいい?

 そうか、百万あれば痔の薬ぐらいすぐ買えるか。

 あまり考えたくも無いことを考えた。夕雅は手で前を隠し、大理石を模したと思われる冷たい床をぺたぺた裸足を鳴らして横切った。航真は少し慌てたようにトランクスを脱ぎ、「スリッパ履けばいいのに。寒いでしょう」と言いつつ、ついてくる。

 バスルームは広い。右手に二人でゆったり浸かれる浴槽、左手にはミストサウナ。当然のように、ガラス戸は真っ白に曇っている。

「先輩の背中、流してもいいですか?」

「……うん」

 背中だけな、と言葉を付け加えると、「はい」と素直に返事をした後輩はてきぱきとボディスポンジに石鹸を泡立て、背中に滑らかな温度の湯を掛ける。そういう湯で浴槽を満たしたのは、少し長い時間を其処で過ごすことを想定しているのか、或いは航真が温めの湯が好きだということを覚えていたのか。

 どちらも、だろうか。

 背中を擦る手の力は程よい。黙ったまま航真に委ねて、既にまた煙草を吸いたくなっているのを夕雅は堪える。背中を洗い終えた航真は「下向いて、目ぇ瞑ってて下さい」と声を掛け、手桶に湯を掬った。言われたとおりに俯いて彼が髪を洗うのに任せる。洗われている間、即ち目を閉じている間、身体の奥底に振り積む一万円札を数える。

 百万円、手にして俺は何に使うだろう? 痔の薬の次に、何を買うだろう?

 航真からスポンジを受け取って、身体の前面を洗いつつ、夕雅は検討する。やっぱり競馬かな。実家に帰る予定もないし、しっかり防寒して正月早々競馬場に繰り出すというのも悪くない。美味い屋台飯をたくさん食って、普段よりちょっと大きく賭けて、増やすことが出来たなら「こいつぁ春から縁起がいいや」と言って笑おう。

 けれどそれは、一人。

 競馬場に一人で行くなんて、本当に、本当に久しぶりのことだ。

「じゃ、俺も身体洗うので、先輩は先に温まっててください」

 泡を全て流された身体で浴槽に収まり、膝を抱える。夕雅の背中を優しく丁寧に洗った者と同じ手とは思えない乱暴さで航真が身体を洗っているのを視界の端にぼんやりと収める。やっぱり、どうしたって、男の身体だ。俺はいま男と二人でこんな風にしている。異常な状況だ。そしてあと一時間半余りで、塚崎航真は夕雅の世界から消えて無くなってしまう。

 つい昨日までの日常は全く形を変えるのだ。

「やっぱり、怖いですか?」

 髪を泡だらけにした航真に訊かれた。ずっと黙りこくって考え事をしていたから、そう誤解したらしい。夕雅は少し考えてから、「……そうかもしれない」と答える。嘘ではない。

「心配しないでって言っても無理だと思いますけどね、大丈夫です。ああ、そうそう、俺、変な病気持ってませんからね、その点も大丈夫です。だから俺が居なくなってから先輩が不安がることはありません」

 紳士的なつもりか、航真の言葉に夕雅は小さく頷く。

「そう、安心したよ」

「ですから、そうですね、……難しいのは百も承知ですけど、でも、出来る限り、愉しんでください。俺は先輩のことちゃんと気持ちよくしてあげます。それだけ、一生懸命にやります。セックスって、気持ち良くなきゃ本当じゃない」

 夕雅にはそればかりは同意出来る気がした。

 洗髪を再開する航真の表情には依然として翳と呼ぶべきものは覗えない。性欲もさえもないように見えた。髪を洗う背中には意外なほどしなやかな筋肉が備わっていて、無駄な肉は一切付いていない。ああ、そうか、馬に乗るって言っていたっけ。乗馬はああ見えて、実際には非常にハードなスポーツだと聴いたことがある。体重は夕雅よりも重いはずなのに全体的な印象として細く見えるのは、体脂肪率がずいぶん低いからに違いない。

 そして、間違いなく男の身体だ。

 濃厚な陰を生白い背中に負って、再び黙りこくった自分の表情を、きっと航真は見間違いをしているだろうと夕雅は想像する。

 男と肌を重ねるということに対しての抵抗だってもちろんある。

 けれど、その相手が航真であったことは不幸中の幸いであると言っていいだろう。

 では、何故こんなにも暗い気持ちになるのか。

 決まってんだろう、そんなのは……。

「お前さあ」

 泡を流すシャワーの音で、声は掻き消されるかもしれない。判って居ながら、夕雅は膝を抱えたまま訊く。「どうして、俺に告白なんかしたんだよ?」

「はい? ……すいません、いま何か言いました?」

 顔を上げた航真に「いいや」と答える。独り言だ、しかも愚痴だ、言ったってしょうがない、聴いてもらったところで意味もない。

 お前が馬鹿なことさえ言わなきゃ。

 結局のところ全てはそこに帰着するように思えた。黙っててくれさえすればよかったんだ。けれど事実は違う。途方もない大金に背中を押されたから航真が告白したことはもう判っている、そもそも何故航真が大金を手にしたかと言えば、馬券が当たったからだ、そして何故航真が馬券を買ったかと言えば。

 言うまでも無く、夕雅が航真を競馬に誘ったからだ。

 それ以前に、出会ってしまったことそのものが間違いの始まりか。

「あー……、さっぱりした」

 髪の毛をざかざかとごく雑にタオルで拭った航真は、浴槽の中で小さくなる夕雅の背中に「少し開けてください」と頼む。尻を前にずらして作ってやったスペースに、彼はすんなりと収まった。

「ぎゅってしていいですか」

 夕雅が夕雅のまま航真の傍に居るだけで、航真は出会ってからずっと苦しんでいたのかもしれない。無言のまま頷いた夕雅の膝を抱く腕に腕が重なる。「膝、解けます?」と遠慮がちに問われて、夕雅は黙ったまま腕を解き、少しだけ足を伸ばした。ありがとうございます、航真は丁寧に礼を言って夕雅の腹に手を回した。以前は見られたって何とも思わなかった場所が、四十度の透明なスクリーンの中で隠す術を失い、航真の視線に晒される。バブルバスの入浴剤が蛇口の縁に置かれていたことを夕雅は思い出した、あ、入れりゃよかった。そしたら泡で見えないのに。だけどお嬢様みたいにもこもこの白い泡で一杯の風呂に野郎が二人で浸かってんのって、正直どうよ……?

 夕雅の大して広くもなければ風格もない背中に、航真の硬い胸がぴったりと重なる。足長いなこいつ。手首も俺より太い。女のやらかい身体を足の間にこうして入れて抱き締めて、時折おっぱいなんかを触ったりする―今なら後頭部に膝を入れてやりたくなるような―甘ったるいバスタイムラグタイム概ねラヴタイムを過ごしたことのある身体としては不慣れな時間、「嫌じゃなかったら寄りかかっていいですよ」と言われても、ずるっと滑りそうな尻がぎこちない。けれどじりじり、体重を掛けてみる。大して強くも見えない身体の幹には安定感があって、結局の所夕雅は生乾きの髪を航真の頬に当てるに至る。

「先輩はどう思いますか? 百万っていう金額について」

 シートベルトのように夕雅の臍の上、左手と重なっていた航真の右手は緊張で強張った夕雅の腹を一度、二度と撫ぜてから、躊躇いを感じさせない動きでそのまま太腿と太腿の間に下りた。くつろぎきれていないことは九十度きっかりの両膝で明らかだったかも知れない。

「どう……、って?」

 湯の温度はだいたい四十度、だからきっとその場所も、いまはその温度、そして航真の指も同じだ。だから指の緩やかな圧迫感だけをまず夕雅は感じる。無神経な女がするよりもずっとずっと優しく、航真は掌の中に夕雅を収めていた。

「高いと思いますか? それとも、安いと思いますか?」

 夕雅は笑おうとした

「そりゃあ……、そんなもん、お前」

 上手く行かないことを前提にしてでも笑って、航真が持ち込んだ非日常を自分の知る日常で塞ごうとした。

「無駄遣いもいいとこだろ」

 頬は強張ったままぴくりと動いただけだ。

 航真の指は感触を確かめるようにゆっくりと夕雅の其れを揉んでいる。

「俺、いけないぐらい節約しちゃったなあって気がしてるんです」

 節約? 訊いた夕雅に、航真が頷いた気配がある。

 航真の指先には興味以上の欲が在った。それで居て、夕雅が持って生まれてきて、とりたてて大事にも邪険にも扱わないで来た場所を優しく撫ぜ、掌で揉みしだく。

 ちょっと小さい、かなあ。けど俺、背ぇ高くねえしなあ。とはいえ一先ず行為に及ぶにあたって不都合が生じたことは今のところない。

「だって、今日は俺にとって一生モノの価値がある一日ですから」

 航真は断り無く夕雅の肩に唇を当てて、笑う。「肩、冷えてますよ」これ以上沈むとずるって行くんだよ馬鹿。

「じゃあ、もっと値切ればよかったんじゃんかよ。……俺は、お前が百万っつったから百万なんだし、ぶっちゃけ」

 だらしなく湯の中をたゆとう嚢を掌に包まれたときだけ、言葉は無意識の中で止まった。「そんな価値のある身体じゃねえし、そんだけ金あったらもっと……、それこそ俺なんかよりもずっといい男、買えんじゃねえか」

 航真が小さく溜め息を吐く音が、夕雅の耳に近いところで響く。

「判って貰えませんかねえ」

 ずっと腹に当てられていた左手が、肌を昇ってくる。運動系の部活に籍を置いたことのない夕雅の薄い胸板に乗って、冷静さを保つ口調とは裏腹にどくどく鳴って当人の誇りをスポイルする心臓を確かめるように胸骨の上で少し留まり、それから左の胸に乗る。人差し指が、乳首を押さえていた。

「俺にとって先輩と過ごす今日は、どんな大金を出したって買えないものなんです。だから百万じゃ安すぎる」

 ……お前が払うのは、百万の金だけじゃないだろう。

 航真の人差し指が乳首を優しく引っ掻くたびに広がる、むず痒いような感触に少し胸を捩らせながら夕雅は思う。

 ……同時にお前はもっと大きいものを喪うんじゃねえか。

 お前は「サヨナラ」を言うんだ、この俺に。

 俺もまた、同じものを喪う辛さを味わう。

 夕雅の手にする百万円はぽっかり空いた虚無を補填するためのものだ。しかし「百万じゃ安すぎる」という航真の言葉の通り、埋められるだけの金額ではない。

「なんで、胸、触んの?」

 幾らであっても安すぎる、足りると言うことはありえない。

「気持ちよくないですか? これ」

 何だか妙だ、としか答えようがない。触られているのは乳首なのに、腰の当たりにぞわぞわ走る。

「……くすぐったい」

 と答えはしたけれど、その表現は正確ではなかった。

「遺伝子上、男の身体は女性の身体を器にして、その上に肉を盛り付けたような塩梅です。だから赤ちゃんにあげるわけじゃなくてもこういうものが付いている。でも、あるだけ無駄なものでしょうか?」

 知らねえよ、そんなの。

「可愛いですよ、先輩の此処。色も綺麗だし」

 知るかよ!

 何処にせよ可愛いという言葉は男には相応しくないと信じている。「ゆうくんはカッコいいよねー」といつかの彼女にされた評価が忘却の彼方から不意に顔を出したが、あんなもの贔屓の引き倒しもいいところである、真に受けてはいけない。

 要するに塚崎航真はかつての夕雅の彼女と同じか、或いはそれ以上に―だって「カッコいい」だって少々無理が在るのに「可愛い」なんて言うのだ―夕雅のことが好きなのだ。

 くすぐったいばっかり、そう嘯きながら、夕雅の心臓は拍動の勢いをまるで収めない。どころか、一層血流を盛んに巡らせ始める。当然のように熱を帯びた血潮は航真の刺激する下半身へと向かう。徐々に、身体が、誤魔化しの効かない、ごく厄介なものへと変わって行く。

 夕雅の男の反応に、航真は溜め息を吐き出して、「ああ、すっごい、可愛いな、先輩は……」噛み締めるように言う。

「んなん……、しょうがねえだろ、男なんだから、……弄られりゃ勃つの、当たり前だろうがよ……」

 憎まれ口を叩きつつ、反応している自分の身体から目を反らす。腰が震える、ズルッと行きそうになる。夕雅のペニスは湯の中でただ手で優しく撫ぜられているだけなのに、はっきりと航真の指に湯温よりも高い熱を教えているだろう。男相手の愛撫に慣れているからだろう、航真の指先は決して激しい動きはしないくせに、緩やかに、確実に、夕雅を快感で包み込む。

「出ましょうか」

 不意に、言った。「あんまり入ってても上せちゃいますし」

「え……?」

「それとも、お湯の中で出しちゃいますか? 俺はそれでもいいですけど」

 悪戯っぽく笑う声は夕雅に興奮を感じさせない。呆気なく両手の拘束が解かれたとき、本当に尻が滑ってしまいそうになった。「立てます?」

 慌てて、片手で前を抑えた。

「こ、こんなままで上がるのかよ」

「恥ずかしいですか?」

 航真は夕雅の顔に浮かぶ表情の一つひとつを慈しむような目をして見詰めている。

「恥ずかしいっていうか、その」

 長いこと湯に浸かっていたから顔が熱いのだ。他に理由なんてない。振り返ったところにある航真の顔もほんのり上気してはいるものの、普段と大きな差を見つけるのは難しい、せいぜい眼鏡を外したぐらい。……そして、顔を見たのは失敗だったと思う。自分に快感を与えていたのが男だということを改めてはっきり認識してしまったし、それが自分の後輩であり友達である男だということも再確認してしまった。

 同時に、もうすぐ居なくなってしまう男なのだということも。

「続きはベッドで。部屋もエアコンで温かいですし、大丈夫ですよね?」

 屈託なく訊く男に、夕雅は奥歯をぐっと噛み、口から出掛けた言葉を飲み込み、頷く。頷いてから、何を言おうとしたのか、忘れる。

「意外と嫌がらないで居てくれますね」

 後ろから髪を拭かれる間、そんなことを言った航真に舌を打つ。しかし、やはり大きな音を上手に立てることは出来なかった。

 人の髪を拭いてやったことはあっても拭かれたことはないから不慣れだ。けれど航真は上手であるように思う。洗う時にしてもそうだった。伸ばしッ放しで少し傷んだ夕雅の髪を、心地良く美しくしてみせた。「ここから先、しんどいな、無理だなって思ったら言ってくださいね?」

「……言われなくても判ってる」

 下半身の熱はバスローブを肩に掛け、航真が髪を乾かす段に至っても一向に収まらなかった。性器の快楽は自分の右手が一番良く知っていると思っていた。女に咥えてもらっても、中にお邪魔しても、十分気持ちよくなれる。けれど結局のところ俺の身体だ、俺自身が一番詳しいに決まっていると高を括っていたきらいがある夕雅にとっては、航真の愛撫の心地良さは未体験の領域にあった。

「テレビ、点けます?」

 ベッドに横たえられた途端、思い出したように航真は言った。

「あ? テレビ?」

「俺はどっちでも構わないですけど、先輩はそっちの方が楽じゃないですかね」

 こういった施設のテレビがどういった番組を放映しているかぐらい知っている。けれど、夕雅は首を横に振った。

「そうですか? なら、このまんまでもいいですけど」

「大体、点けてたって見る余裕あんのかよ」

 緊張は未だ消えない。

「それに、こういうとこのなんて、面白いのやってるわけねえじゃんか」

 しかし笑顔を浮かべるのは先程までより少し楽になった。

 優しく組み敷かれてすぐ目の前に在る顔の整い具合を観察しようと思い立ったのは、もうあと少しで居なくなってしまう「友達」の顔を、まだ「友達」で居るうちにきちんと見て、覚えておきたいと思ったからだ。

 夕雅には仮令この男がこれから、自分に痛い思いをさせるのだとしても、全て終わった後この男を嫌いになれるような気がしない。

 睫毛が長いことを夕雅に教える。昨日の夜更かしと今朝の早起きのせいで白皙の眼元には僅かに隈がある。それでも肌は綺麗だ。昼間ずっと噛んでいたミントタブレットの香りが顔を近づけると強く漂う、同じ匂いは夕雅の唇からも揺れて、二つ、重なる。

 唇でするのは、まだ二度目の。

 遺伝子に編みこまれた違和感を表現した場所は眉間だけで、それもごくごく浅い谷が刻まれたに過ぎない。口開けて、と求めた舌に素直に従うときに、「ん」と微かな、返答にも似た声が出た。冷んやりとして辛い舌は夕雅の上下の門歯の鍵を易々と開け、滑らかな口の中を、それでも航真らしく奥床しく動き回る。

 男同士かどうかは置いておいて、そのキスは気持ちがいい。

 そう思えるようになった自分を、こんな風に肯定する、……当然じゃん、キスしてんだから、気持ちいいに決まってる。

 こういうキスを航真は此れまで肌を重ねた男として来たのだろうし、今後もきっと、誰かとする。いずれにしても航真が言った通り、夕雅が知る必要はないことだ。金という、お世辞にも清潔ではないものと引き換えに航真が手にするこの舌と他の舌と、一体どんな違いがあるのか、そんなことを考える必要は微塵もない。

 片目を開けて、間近にある目を覗き込む。黒目、茶色いな。そんなことを、知る。短からぬ時間を一緒に過ごして来て、初めて気付く。その目はずっと夕雅を見ている。至近距離で遣り取りしあう視線で感じる居心地悪さよりも、くっきりとした二重瞼の美しいことだけ観察している。男の顔をそう評価することが正しいとは思わないなりに、「綺麗だな」とは思う。しかしこれも贔屓目かも知れない。

 他の男でなくってよかった、改めて夕雅は思う。口臭も気にならないし、やり方もスマートであるように思える。

 案外に平気な気がした一瞬があった。少なくともこうして、抱擁と口付けを拒む気はもうなくなっていた。結局の所、俺はこいつのこと、嫌いじゃないんだなあ、そんなことを夕雅は考える。だって、やっぱり、「友達」だ、大事にしてやりたい相手だ。こうするのが「夢」だったと言うのなら、其れを叶えてやることにためらいを覚えるほうが間違っているかもしれない。

 この身体に冒険をさせる者としては油断が過ぎたかもしれない。そう思うまでに、あと十秒。

「ん……」

 航真が驚いたように目を丸くする。夕雅が絡め返した舌を、窘めるように航真が上顎を擽り、ずっと夕雅の胸に当てていた指を乳首へとずらし、そっと擽る。快感を覚えてというよりは条件反射的に一度震えた腰で、航真は調子に乗った。バスローブの帯が解かれ、掌がぴくぴくと強張る腹を経て、息を乱してのたうつ茎に載せられた。水仕事が多くて荒れがちな夕雅のそれに比べればずっと柔らかく潤った掌は男性器の構造を熟知しているように、包み込んで下から上へとスライドさせる。その間も口の中を犯し続ける航真の舌は心臓と繋がり、夕雅の下肢へと勢い良く血液を送り込み続けている。

 夕雅の唇の端から、唾液が一筋零れた。

 気持ちいい。

 正直に認めてしまった方が楽かもしれない、……射精したい。

「ん、ぅ……ン……!」

 出すつもりもない音が呼吸に乗って鼻から抜ける。「感じているよ」っていう演技で声を出してくれた女の子よりもずっと自然に自分の身体が奏でた音が、恥ずかしくって破裂しそうだ。けれど、気持ちいいものは気持ちいい。

 この快楽を覚えてはいけないと警鐘が鳴っているのを覚えても―だってお前は二度とこの快感を味わうことは出来ないんだぞ、判ってんのか、忘れられなくなる分だけ、辛さはどんどん膨らんでって、……持て余すことになる、他の誰でも、どんなエロい女でも、代わりには使えないんだぞ―身体と心が喧嘩する。女と肌を重ねているときにはきっちり噛み合っていたはずの歯車が、脱線したままガタガタ音を立てて、そのくせ壊れるまでは至らない。

「ぷ、はっ……」

 水面から顔を上げたように酸素を飲み込む、その唇を咎めて、また航真は一頻り唇を重ねる。夕雅の舌へ、甘く、重点的な攻撃。応戦しようと舌を伸ばしても、下半身を支配されている、航真の掌に掴まれ、リズミカルに扱かれれば反撃の意欲は呆気なく喪失してしまう。

「挑発してくれたから」

 ほんの少し意地悪なラインを唇に描き出して笑う航真の顔を、口を開けたまま夕雅は見上げる。「喜んで調子に乗ります。……先輩は気が強いですね、俺、男なのに」

「……関係ねえや」

 まだ、強がる余裕がある。「男だろうが女だろうが、……知るかよ。お前は俺の後輩で……、友達だったんだ」

 にっこり、航真は笑う。いつもと変わらぬ無邪気で、人の良さそうな微笑み。陰を見出すことは出来ない。

「先輩の此処、ガチガチ。でもって、濡れてます」

 視線を緩めて囁く声は良質だが口にしている言葉は悪質極まりないもので、涙のように滲んだ蜜状の雫に指先を当てて、張り詰めた果皮へ人差し指で塗り広げつつ、「びくびくしてる。もう出しちゃいたいですよね?」再び夕雅の顔に視線を戻して問う、夕雅が一瞬でも答えを躊躇えば、粒状に勃凸した乳首を舌先で弾く。

「お前っ……、性格悪ィぞ……、ヤなことしねえっつってたんじゃねえのかよ!」

 情けなくなるような涙声で噛み付けば、

「あ、恥ずかしかったですか?」

 首を傾げて訊き返す。

「決まってんだろうが!」

 くるりと舌で乳輪をなぞってから、舌先で粒を転がす。夕雅は最早呼吸の度に息を溶かして混ぜ込んでいる、限界を迎えつつあることぐらい、航真はとうに見抜いているに決まっていた。

「好きな人に意地悪したくなっちゃうのは、男のサガですよね」

 航真は夕雅の心音に耳を当てて、「ああ、すっごい、先輩が生きてる」嬉しそうに笑って焦らした。

「ねえ、先輩?」

 その角度から、航真は訊く。「俺、口上手いですよ」

「アア……?」

「先輩が此れまでどういう女性とお付き合いされてたかは、悔しいから訊きませんけど、きっとその中の誰よりも俺、上手いです」

 航真は身を起こし、もう一度胸に、それから腹と脇腹に唇を当て、切なげに涙を浮かべて震える場所に顔を近付ける。

「んぅ……っ!」

 夕雅が持て余す、炙られたように腫れて熱い陽魂の先端が生ぬるい口の中に収められた。

「あ……あっ……航真ッ……!」

 航真はまるで夕雅の弱点を全て知っているかのように的確に急所を衝く。夕雅の口中を犯した舌は張り詰めた弦を器用に弾き、夕雅の身体を甘美な音色を奏でる楽器に変えた。いつからか握っていた掛け布団のカバーに思いっきり皺を作って喘ぐだけの、甘ったるくシンプルな生き物。生まれたばかりの赤子のように全てを学んでいく、航真の舌の与える快楽を、当人の意図とは無関係に、貪欲に覚えこんでいく。

「う、あっ、バカ、もうっ、……もぉっ、航真ッ……!」

 航真の口に劣情をそのまま叩きつけるとき、一瞬顔を出した悲しみは強すぎる快感によって厚く塗り潰された。身体の中に在るもの全てが吸い上げられるような、虚無を呼び込む射精。身体を何度弾ませても説明不足なぐらいに、強い快感。

 意識さえ呑み込まれたように思えた。気付けば口は外されていて、自分の下腹部に、未だ余韻に嬲られるように震える性器が航真の唾液に塗れて横たわっていた。

「ね? 気持ちよかったでしょ?」

 唇をぺろりと舐めて航真が微笑む。あっさり発されたその言葉が、

「お、お前っ、呑ンっ……」

 ということを、夕雅に教える。

「美味しかったですよ、先輩が男相手に初めて零した精液。……ひょっとして、俺ですっごい感じちゃってたりしてます? まだびくびくしてるし」

 夕雅は真っ赤になって、慌てて首を振った。

「ち、違うっ、夕べ、抜いてなかったから……!」

「無邪気」と評してやるのに不都合はないように思われたその顔は、実はとても扱いづらい代物であるということを夕雅は知った。草食系の無毒無害に装われた顔の一枚裏には、見た目がそんなに優しいものだから余計に小憎らしく、強気な素顔が在る。……龍、改めて夕雅は思う。

「あ、もうこんな時間」

 時計を見て、びっくりしたように航真は言う。釣られてベッドサイドの時計を見れば、残り時間はもうすぐ一時間を切る。「もう」と言うほどだろうか? 訝った夕雅に、「俺、先に出ますからね。愉しい時間は早く経っちゃいますねえ」と少し寂しそうに航真は笑って夕雅に同意を求める。頷いてしまいそうになって、堪えて、でも別にもう、頷いたっていいじゃねえかよ、思って頷いたとき、航真の視線は既に夕雅を捉えては居なかった。彼はベッドから降りて鞄の中から何やらボトルと小箱を取り出す。「何やら」なんて、夕雅には其れが何だか判っている。片方は何度も使ったことがあるし、もう片方は使う必要に駆られたことがないもの。

「四つん這いになってください」

 平然と、航真は言う。

「お尻、開けるんで」

 やっぱり来たか、とうとう来たか。夕雅は射精で緩んでいた不安と緊張がまたしっかり手を繋ぎ直すのを覚える。

「判ってると思いますけど、俺の、を、挿れるので、ある程度やらかくしておかないといけないんです」

 言葉が夕雅の視線を誘った。まだ帯を締めたままのバスローブの向こう側に在るものを想像して、ちょっと怖くなる。

 けれど滑稽なのは、もう裸を隠そうという気にはならないということだ。射精という不可逆的なことをした後だからか、この男と別れる直前だからか。

「……四つん這いって、要するに、あの四つん這い?」

「他にどういう四つん這いがあるのかは判りませんが、多分それです。膝ついて、足は大きめに開いて、あとちょっと腰を高くするような感じにしていただけるとありがたいですし先輩の負担もちょっとは軽くなると思います。……恥ずかしいですか?」

 別に、何ともねえや、もう。でも、「……本当に、痛くしない?」

 航真は苦笑する。「俺は、嘘つくの嫌いなんで正直に言いますと」親指と人差し指で「ちょっと」と形作る。

 ちょっとなら、我慢してやる。

 百万円のためじゃない、……そんなんじゃない。航真がどう解釈しようがそれは航真の勝手と決め付けて、夕雅は両手で既にあちこち皺の寄っている掛け布団カバーを握って、うつぶせる。言われたとおりに足を開いて尻を向けて、ああ何て酷い格好、「ああ、可愛い格好」うるせえや。

「じっとしててくださいね、急に動くと危ないですから」

 うるせえっての。精一杯胸の中の言葉で粋がりながら、顔は布団に伏せて、ああ恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!

「ひッ!」

 いきなり核心に触れられた。まだ乾いた指が確かめるように夕雅の身体の中央、或いは内と外との境目に当てられた。

「……綺麗ですねえ、先輩の此処。まだ一度も使ってないから、すっごい綺麗」

 そんなところを褒められて嬉しい人間が航真の傍には居たことがあるのだろうか。風呂を浴びたとはいえ、汚れていたって文句の言えない場所だ。きゅぽ、ローションのボトルの蓋が開けられた音がする、それが引っ繰り返される音がする、とぷん、掌の温度に馴染ませている音がする。夕雅は暗闇の中で息を殺して其れを全て聴いていた。にちゃにちゃ。

「じゃあ、指入れていきます」

 んう、と布団に声を篭もらせて頷いた夕雅の、彼自身直に触ることなどまずないプライベートな場所に、再び当てられたのはぬるりとした航真の指、丁寧に粘液を塗り広げている様子だ。乾いているのが当然の場所をぬめぬめと濡らされるのは、まあ、控え目に言っても鳥肌が立つ。

「……力抜いててくださいね?」

「んぅ」

 ちぷ、ちぷ、窪みとなっている入口部分を航真の滑らかな指先が幾度か往復する。うひい、と上げ掛けた声を、布団カバーに噛み付くことで堪えた。もちろん其れが予兆に過ぎないことぐらい夕雅は諒解している。ただ覚悟を決めて今か今かと待ち受けていたところに、呆気なく其れは始まった。

「くぁ……!」

 指先は遠慮がちに、だけれど確かに、夕雅の中へ這入って来た。閉じられているのが当然の場所だ、閉じるための力が働く場所だ、逆ベクトルの侵入者は仮令指一本であっても違和感、すげえ。単純計算でそれが三本か四本か或いはもっとかの太さの物が這入って腰と同じスピードで動くのだ。

 航真はじりじりと指を押し進めていく。夕雅の反応を慎重に見抜こうとしているのかもしれない。ただぽつり、「……正直、驚いていますよ」と呟く。

「ああ……?」

「先輩が、俺の取引に応じてくれたこと。途中で放棄されるだろうって思ってましたし、此処に来るまでに嫌がられたらその段階でお金は渡そうって思ってました。あの馬券と同じで、要は駄目元で言ったんですけど」

 指がほんの一ミリ動くだけで、内臓、……多分、まずは大腸から引っこ抜かれそうに思えて慄く。指先がちんと冷たくなって、声も出てこない。

「先輩が優しい人だっていうのは、ずっと前から知ってたつもりなんですけどね、想定以上だったっていうか。だから、いま、夢の中に居るみたいなんです」

 お前だからだろうな。他の男だったらこんな簡単に許したりしねえし、百万詰まれたってこんなこと嫌だって突ッ撥ねてただろうさ。

 簡単な話だ。夕雅は航真と出会ってから一年余り、一度だってこの男を嫌いになったことがない。競馬場に一緒に行くようになってから、常に履歴の一番上に居た。そういう男だから、この身体を金で買うという薄汚い取引を口にしたとしても許せた。手を繋ぐことも、キスをすることも。

 ずっと夕雅の中にあって、名前を付けられずに居た感情が、航真と切り離されたくないと傷むから。

 簡単な話。夕雅は今やっと理解する。まだ言葉を覚えたばかりの落とし子にも判るように、その感情に名前を教えてやる、「愛しい」と。

 同性愛者じゃないくせにそう思うのか? 笑う余裕もないはずの夕雅はしかし口元に皮肉っぽい笑みを浮かべた。航真に何か訊かれた気がするが、恐らく適当に頷いてしまって、それを航真が肯定のしるしと理解したのだろう、いつの間にか指が増やされていて括約筋が痺れる。けれど、「いつの間にか」と錯覚するぐらいには最初の一本には慣れていたらしい。

 性のベクトルがどうであろうと、俺は航真が好きなのだ。

 夕雅はやっと名前を与えられた感情を慈しむように語り掛ける。俺は航真が好きなのだ。喪いたくないのだ、寂しいのだ。ずっと一緒に居られると思っていたのに、このまま、俺にとってだけ心地良い距離感でずっと。

 応えることは不可能だろうか。航真の望む形の俺の身体を俺が手にすることは不可能だろうか。難しいかな、どうだろ、ねえ? 名前を帯びた感情は不安げに夕雅を見詰め返す。わかんない。そうだよねえ、わかんないよねえ。……子供なんて嫌いだ。けれど根気強く夕雅は言葉を探す。そして、ちょっと意地悪を思いついた。だけどお前が頑張らないと航真は何処かへ行っちゃうんだよ? 子供が泣く類の意地悪だ。

「ん……ッ、ぐぅ……」

 指の束が動くたび、背骨の中に指を突っ込まれているような、軋みを伴う衝撃が走る。けれど不快感は思っていたほどではない。眉間にはずっと深い皺が寄ったままだが。

「先輩、大丈夫ですか? いま、四本挿れてますけど……」

 はぁ? と思わず訊き返す。

「……ッつの、間に、んな、入ってんだよ……」

「無理しないで下さいって言いましたよね、痛かったら止められますよって」

 少し怒った声で航真が咎める。夕雅は其処で初めて、自分が両眼からぼろぼろ涙を零していることに気付いた。二十三歳の男が痛くて泣いているのだ。けど、「泣ける」なんて言うじゃん、映画見た後、可能形で。こんなのってねえよな、不条理だよな、好きだって気付いたのに、その相手はもう居なくなっちまうんだ、泣けないはずがないじゃん。

「……んで」

 穴が空いていないのが不思議なくらい強く握り締めていた布団カバーに顔を擦り付けて、振り返る。「……何本這入りゃ、お前のが這入れんだ? まさかお前の手首ごと俺ん中挿れなくてもいいんだろ……?」

 夕雅は笑った。航真は困ったように、「まあ、もう、これぐらいで」と答えた。

「じゃあ……、挿れりゃいいんじゃねえの?」

 ゆっくりと、本当にゆっくりと、身体から異物感が去って行く。

「うー……、はぁあ……」

 ごろん、身体を横倒しにした。航真は指に填めていたコンドームを外してゴミ箱に捨てる。今の今まで自分に這入っているのが生の指だと信じて疑わなかった夕雅は、少し驚くがリアクションらしきものは目を丸くすることぐらい。「大丈夫ですか?」とすぐに横たわる夕雅の傍に膝を付き、髪を撫ぜた。夕雅は腹のヒクヒクするような呼吸で笑い、「やー……、きっついね……」痛みを冗談に変える。「身体がこう、カニカマみてえに裂けるかと思った」

 笑って言いはするものの、現実問題身体が味わったのはそれぐらいの危機感だったのだ。けれど笑い話に変えられるなら、変えてしまったほうがいいに決まっている。航真は夕雅の髪に掌を当てて、

「先輩はよく我慢してくれましたよ」

 子供にするように撫ぜた。そんな扱いは少々気に食わないが、

「……だったらさ、ご褒美くれよ」

「はい?」

 よいしょ、と声に出して上体を起こす。それだけで眩暈を催した。指の抜かれた場所は一帯がじんわり熱くて痺れていて、……大丈夫だよな? 何も変なの漏れてねえよな? 大丈夫……。

「……お前が俺のこと好きになったの、どうしてだ」

「はい?」

 今日だけでも何度も見せたそういう顔が「草食系」に括られる原因だろう。

「いいだろ、聴かせろよ。それ、ご褒美だ」

 航真は困ったように「はあ……」少し戸惑って、それから首を一度横に振った。

「笑顔です」

 きっと、残り少ない誇りをかなぐり捨てたのだろう。

「笑顔?」

 鸚鵡返しに訊いた夕雅に、航真は真面目な顔で頷く。

「先輩の笑顔が、可愛かった。きっかけはそれだけです」

 笑顔。

「そんだけ?」

 拍子抜け、という訳ではないが、何かもっと他にあるんじゃないのかという気はする。

 けれど航真は糞真面目に言うのだ。

「人を好きになるのに理由なんて一つでも在れば十分でしょう。それは小さな入口に過ぎないけど、そこから幾らだって広がっていきます。その扉を開くための些細なきっかけが先輩の笑顔だった、……こんな答えで納得してもらえますかね」

 呑気な顔をして気障な言い回しを選んだものだ。

「上等なんじゃねえの?」

 夕雅は「笑顔」を顔に形作って言う。じゃあ俺はどうしてこいつが好きなんだろうと夕雅は考えを巡らせる。もうあまり鋭くは廻らない思考回路のコードをせっせと繋いで、「可愛いからだよ」と言うと、胸の奥で同意の声が響く。ああ、そうか、そうだそうだ、航真は可愛いんだった。と言って、別に性的な話では全くなくて、休憩室で休んでる時に何も言わなくても俺の分の水まで注いで来たり、競馬を教えてやったばっかりの頃、何処で買ったのかスマートフォンのカバーを騎手の勝負服のものに買えたり、そういう些細な所。こいつ可愛いなって、最初から俺は思っていたじゃないか。

 そしてそれだけで十分じゃないか。

「……で」

「はい」

「……これから、お前はその可愛い笑顔の俺を抱くわけだ」

「そうです、幸せなことに」

 さっきみたいに四つん這いになってください、と航真は請う。背中を向けかけて、夕雅はやめる。「このまんまじゃダメなのか?」

「……このまんま、と言うと」

「このまんま、正常位で。……男同士でも出来るだろ? 多分」

 ぽかん、と航真が少し口を開けた。夕雅は構わず、「俺はどっちでもいいけど、お前は顔見ながらの方がいいんじゃねえの? 判んねえけど」

「はあ……」

 その口の形が、珍しくちょっと間抜けに見えた。しばらくはその表情のままで居た航真は、「バックからの方が先輩、楽ですよ」と、憚るようにそっと言う。

「お前は前からやりたいんだろ」

 今日初めて、夕雅は航真を見抜いた。「俺の顔見ながらやりたいんだろ」重ねて訊けば、こっくり、素直に頷く。

 夕雅だって好きな相手を抱くときには、動物がぶっつけるみたいに腰を振るよりは、相手の反応を観察しながらの方がいいと思っている。事実、これまでそうやってきた。肌がぴったり重なるのが、とてもいいのだと思う。

「じゃあ、そうすりゃいいじゃねえかよ。今更ちょっとくらい痛かったってそんな変わんねえだろ、それにお前は、俺の括約筋がおかしくなるようにはしねえだろ?」

 航真はしばらくぼうっとして、それからくつくつと笑い出した。「最初はねえ……」

「あん?」

「最初は、可愛くてもっと大人しい人だと思ったんですよ、先輩のこと。実際、そういう顔をしているし。けど実際に近くに寄ってみると、言葉遣い乱暴だし煙草は吸うし、お酒は飲むし、競馬もするし」

「……大人なんだから煙草も酒も競馬も問題ねえだろ」

 ぶっつり、夕雅は言う。

「ええ。そういう風に裏切ってくれるのがすごく面白かった。今だってそうです。今日は朝からずっと、先輩が怯える顔を見て遊ぼうと思ってたのに、そんなに強気になっちゃうんだもんな、処女のくせに。やっぱり俺はまだまだ先輩のことを知らない」

 一年ちょっとそこらで、そんな何もかも判ってたまるか。

 俺がお前のことをまだ全然知らないのと、同じだ、そんなもん。

「で、……どうすんだよ」

「せっかくなので、お言葉に甘えることにしますよ。でもその代わり」

 ん、と夕雅は頷く。

「痛かったら言うよ」

「はい、約束です」

 にっこり笑った航真と、小指を結ぶ。解くとき、もう既にちょっと痛い気がする。後輩の指がこんなに長いなんてことを、夕雅は初めて知った。さっきまで自分の中に入っていた指。

 航真はプラスティックボトルの蓋を開けて、それをまた手に取り、夕雅の足の間に塗る。蛙のように足を広げその中を覗きこまれる、希少価値の高い体験をまた布団を握ることでやり過ごす。体温であるはずの尻の中が冷たくぬるつく、……あとで腹壊しそうだな。航真は納得したように手を止め、「じゃあ、しましょうか」とバスローブの帯を解く。

「おお……」

 反射的に目が行ってしまったことを、「あんまり見ないで下さい、恥ずかしい」夕雅は咎められたくなくて、むっと口を尖らせた。やっぱりあれだ背が高いからこいつの方が、一生懸命言い訳を並べるまでもなく、体型以上に歴然とした差が其処に在る。あ、やっぱ無理かも。今更のように引き攣った笑顔で言う顔がどれほど格好悪いか想像できるから、せめて人間の形であってくれてよかったと思うことにする。

 夕雅の視線の先で航真はゴムを装着し、そっと視線を夕雅に向ける。また、ほんの少し照れ臭そうに笑った。夕雅が「処女」であることには間違いないが、航真の動きの一つひとつは同性愛という行為に慣れていながら純粋さが隠し切れていなくて、ひょっとして童貞なんじゃないのかこいつ、そんなことを夕雅に思わせる。

 ローションでぬるつく手をバスローブの裾で拭う、そのついでに、結局脱ぎ捨ててしまう。夕雅はさっきからずっと裸で居る。冗談めかして浮かべていた笑顔も拭われたように消えて、航真を見上げる夕雅の唇は不必要に強張り、そして尖った。「これでお終いですよ」と、安心させるように航真が囁く。違う、怖いんじゃない、そうじゃなくって。

「うわ熱……」

 航真の熱は薄いゴムの膜など容易く通して夕雅の身体に当たった瞬間に火傷を負わせる。航真は右手を彼自身に宛がい、十分に緩められたはずの肉の扉をゆっくりと押して行く。「力抜いて」と短く言われて、とにかくその通りにしようとすれば、身体が持て余す力を何処に逃そうか。もう布団では頼りないから、航真の首にしがみ付くのが一番手っ取り早い。ゆっくりと腹の底から息を吐き出し、

「あ……ぐ……」

 航真が能う限りの慎重さで隘路に最徐行進入しようとしているのが判る。縋りついた航真の首に耳を当てて心臓の音を聴けば、同じかそれ以上に緊張していることまで判る。こんぐらいならまだ平気、言おうとしても声にならない。ただ甘えるように額をこすりつけるのが関の山。まどろっこしくなるほどの時間をかけても、まだ速いとさえ思われる行きつ戻りつを経て、背骨の連なりをおいて他にはないと思っていた身体の「芯」が内側にもう一本生じたような錯覚に陥る。航真を締め付けていた腕が解け、夕雅は背中を反らした。

「だから、言ったのに……」

 困ったように、航真は笑う。声は声になる前に上顎で潰れ息となって抜けた。

「……こ、……れ……て、ない……?」

「ん?」

「……壊れ、て、ない……? 俺、……の身体、大丈夫……?」

 煮え滾る赤鉄を容れたってこんなには熱くないだろうと思うのだ。そこにあるのは快楽とか苦痛とかそんなハイレベルなものではなくて、ただ原始的な痺ればかり。理性がそのまま漏れ出すことのないようにと航真が栓をして居る。

「大丈夫ですよ、壊れてないです」

 航真が安心させるように微笑み、髪を撫ぜる、一度、二度、そして頬に唇を当てた。「夢みたいです」耳元でくすぐったく囁く。「先輩の中に這入っちゃった。俺は今死んでも後悔無いぐらい幸せです」

 其処がぷちりと切れて航真が死ぬのを想像してしまった、

「し、死ぬなら、死ぬなら抜いてから死ね」

「もちろん、いま死ぬなんて勿体無いですよね」

 慌てた夕雅の顔が面白かったのか、くく、と航真は喉で笑う。肌が白い、ということはその首の皮膚は余計に白くて、傷付きやすそうに見える。噛んで跡を付けてみようか、そんなことを思いつけるぐらいには、少しずつ、この状況に慣れ始めている。出来る限り愉しんでください、航真はそう言っていた。だからこの姿勢で正しいような気がする。

 だけど、……愉しんじゃったら、後がやばいじゃんかよ。お前が居なくなった後、俺はどうすればいい?

 航真は夕雅と繋がって、じっとしていた。夕雅がほとんど意識しないで動かす括約筋が煽っても、まだ動かない。

「……なあ、……航真?」

 夕雅の腕はまだ航真の首に絡みついている。訊いて目を見ればびっくりするぐらい近くにあって、額が重なる。「はい、何でしょう」相変わらずミントの匂いがする口だ。

「お前、いま、気持ちィの? これで。繋がってて」

 はい、と航真は素直に認める。「すっごく気持ちいいですよ。って、逐一説明した方がいいですかね?」

 いや、それはいいや。

「先輩もいつかまた彼女さんが出来たら、たまにはこっちの穴に入れてみればいいです」

 それはもっといいや。

「先輩は、痛いですか?」

 首を、横に振る。

「……痛いってーのはそんな、ねえかな、……思ってたよりは平気かも。でも、お前が腰振ったらどうなるか判んねえや」

「すいませんね、俺ばっかり気持ちよくなっちゃって」

「……セックスってそういうもんなんだろ」

 苦笑いが浮かぶ。

「女の気持ち判ったわ」

 航真は夕雅の顔をじっと見て、躊躇うように一度口を開け閉てしてから、「……気持ちよく、しましょうか」

「んなん、……出来んの?」

 訝った夕雅に、同じ痛みを少しでも請け負おうとするかのように、ほんの少しだけ航真が微笑む。

「出来るっていうか、当たり前のことするだけですけど……、したほうがいいなら」

 どちらも痩せた二つの腹の間に挟まれて寝ていた夕雅の陰茎を、そっと航真の長く細い指がなぞる。触れられることにもう抵抗はない。「ひょっとしたら、……うまいこと、繋がるかもしれませんし」

 妙な言い回し、

「つながる?」

 訊いても、「俺と、気持ちいいのが」航真の答えに夕雅は釈然としない気になる。身体はもう、こんな風に不器用に繋がっているじゃないか。

「……試してみましょうか」

 少し、航真が身を起こす。胎内で僅かに角度が変わるだけで、感覚の麻痺していた場所から寺の鐘の鳴るような衝動が全身に向けて走った。けれど、歯を食い縛って声を殺す。男の子だもん泣くもんか。

「先輩、キスするの好きですか? ……俺以外と、って意味ですけど」

 夕雅はこっくりと頷いた。

「……わりと、好きな方かな」

「なら、しますよ」

 お前とすんのだって、多分もう好きだよ。

 反射的に目を閉じて、重なった唇、そのまま這入って来る舌。はて、何で目を閉じちゃったんだろう、片目を開ける、爽やかで涼しげで、どこか寂しげな男の瞳が其処に在る。舌を伸ばした、……もっと、もっと。航真が「無理をしないで」と諌めるように絡め返してきたときに、夕雅の中の赤子の感情が笑い声を立てるのがはっきり聴こえた。航真の右手が夕雅の痛みに怯えて身を縮ませ冷えた芯 に触れる。さっきのバスタブの中よりももっと優しく繊細な動きだと判る。何故って、航真の指はそういう指だということを知ってしまったからだ。俺を傷つけることなく、心底から慈しみ、いとおしみ、悦びだけをどうかと願い続けて動く指。

 そういうことを、もう、学んでしまった。

 上顎を舌先が掠めたとき、一度うっかり強く括約筋を引き締めてしまって、……寺の鐘が鳴るような、長く引き摺って響き渡る痛みが其処に走る、そのせいで思わず声を上げた。それはちっとも可愛いものではなかったと思う、濁点交じりの、要するに「ギャア」という怪獣の鳴き声にも近いような。けれど慌てて手を止めて「先輩」と短く訊く航真を見れば、後輩、大丈夫だ、何も問題ないぞ、と……、実際そうスムーズには言えなくても、「無事」と答えるぐらいは、どうにか。

 もう一回、キス。

 でもその前に、

「繋がりそう……」

 笑って、夕雅は言った。航真の言っていた意味が身体で理解できたのだ

 指先へ伝えた反応を、航真は優しく掴む。夕雅の砲身を緩やかにスライドさせながら夕雅の唇を舐め、舌を挿し入れる。唇と唇、舌と舌、蝋燭に火が灯るように触れた所が順々に熱くなる。奇跡か魔法か呪術か、判らないし考える必要もないだろう。身体に射ち込まれた航真の杭は異物であるはずなのに、其処に通う血の巡る音は自分の心臓の音かもしれないと思う。てことは、つまり、あ、繋がったんだ。

「先輩……?」

 舌と舌との間に短く糸を引いた唾液は航真が言葉を発したことで途切れた。「気持ちいい、ですか?」

 うん、という言葉さえ出てこない。文字にすれば二文字、鼻を鳴らすだけでもいいぐらい簡単な。夕雅は航真の帯びる炎熱を自分の命そのもののようにいとおしく感じる。僅かな震えまでもがいまはリアルで困惑を招く、……暗くてじめじめして狭苦しくて薄汚いトンネルの中のどこかを叩くと、気持ちいいのだ、……学習する身体を持て余している。

 繋がって心地良くとも、この後ぷつんと切れるのだ。

「……変わったの、判りますよ」

 航真は言葉の境目ごとにキスを忘れない。夕雅の頬を髪を額を長い指の掌で包んで、唇で愛撫を降らせる。「先輩が、俺のこと受け入れてくれたって、判りました、さっき」

 マジで? 目で訊けば、航真はほんの少しだけ微笑む。けれどあの無邪気な笑みはもう消えた。迫り来る刻限を追い求めたことが既に間違いだと理解し切って、絶望とさえ呼んでやってもいい悲しみを纏った、硬く冷たい氷みたいな笑顔。

 もしくは、泣くのを我慢している子供の顔。

「……大好きですよ、先輩」

 髪の中に指を潜らせ、唇をまた深々と重ねる、舌で舌を絡め取り、夕雅から言葉を奪う。愛していますよ。どうせならそこまで言えよ。そしたら俺も言ってやるんだ、お前のことを、どうやら俺はずっと、愛してた。

「先輩の笑った顔も怒った顔も気短かなところも優しいところも無理して意地悪するところも食いしん坊なところもお酒好きなところも傍に寄ったときに煙草の匂いするところも綺麗な声も仕草の一つも残らず全部大好きです」

 おんなじだ。

 航真の腰がゆっくりと動き出す。はじめ、臆病なほどの慎重さをまだ捨てきれずに、やがて、ずっと先を行く思いに追いつこうとするように、速く、激しく。

 首を支えられていた。だから何処も傷めなかったのだと思う。夕雅は航真の刻むリズムに合わせて、……ああ、もっと可愛い声出せたらいいんだろうなあ、こいつ、きっと喜ぶんだろうなあ。

 ごめんな、こんな声で。

 そんなことを考えているうちに、引き摺られるように高みへと連れて行かれる、上へ、上へ、意識は彼方へ、伸び切ったゴムみたいに延々と切れることなく。

 

 

 

 

 コロコロと電話が鳴っている。

 夕雅は何でもないような夢を見ていた。夢の中はいつだってセピア色、夕雅は行くべき場所を見つけながら右往左往して止せばいいのにデパートの中なんて入って迷子になってどっちへ行っても何処へも行けない、そんな淡く下らない悪夢のどん詰まりから揺り起こされる。「うう……」いつもは寝るとき枕の右、窓辺に置くのだ、アラームを切るついでにカーテンを開けてその眩しさで重い瞼を抉じ開ける。

 しかし電話は右に寝返りを打って左手を動かしても指さえかすらない。左で鳴っているのだと気付いたのは、此処が自分の部屋ではないということを悟るのと同時で、ほとんど跳ね上がるような勢いで身を起こし、その拍子に全身の、主に下半身の、特に足の付け根が「あ」に四つ五つ濁点を付けたような声を出させるような違和感がある。望まれぬ一瞬の覚醒の後に、それでも夕雅は声を上げて、「航真」その名を呼んで、絶望する。

 電話が鳴っている。

「塚崎航真」の名前と電話番号が表示されている。

「おはようございます」

 夕雅は部屋の時計を見る。サイドボードに埋め込まれたLEDは緑の数字で「16:42」と表示している。

 散々しわくちゃにしてやったはずの布団はついさっきまで航真の身体をきちんと包み込み、生まれたままの姿でいる彼の身体を温めていた。

「お前……」

「先輩に一つお願いがあって。……でもその前に、本当にありがとうございました。先輩寝ちゃったから、お礼言い損ねちゃって。すごく幸せでした、本当に、本当に心から感謝してます」

 航真の声は、からりと乾いているように聴こえた。

 平然としているように思われた。

 部屋には夕雅の耳を当てる携帯電話から漏れ聴こえる声といま一種類、浴室から低く水音が響いていた。「サウナはスイッチ切っちゃいましたけど……、結局入らなかったですね。でもお風呂はもうすぐ一杯になると思います。お尻とか、一応拭いておきましたけど、もし気になるようなら入ってください。あと、薬も塗っておきましたよ。出血とかはしてませんでしたけどね」

 夕雅は恐る恐る自分のその場所に指を当てる。ぬるりとした軟膏の手触りに、思わず「ヒッ」と声を漏らす。が、懸念していたような痛みに悲鳴を上げることはなかった。「薬は開けたばっかりで勿体無いので、先輩の鞄の中に入れておきました。もう使う機会もないと思いますが、一応持っておいて下さい」

 航真は屋外にいるらしい。時折風が受話口で鳴り、無関係な誰かの話し声も届く。人ごみの中を歩いているのだろう。この近くの、要するに、新宿の。

「鞄の内ポケットに、百万円とあと少し、入れておきました。いま、確認してもらっていいですか?」

 膝を軋ませてベッドから降りる。昨日の競馬新聞がまだ入ったまま、夕雅の局所に塗られた薬も箱に入れられて収まっている。内ポケットのチャックを開けると、其処にはずっしりと重たい札束が茶封筒に入った札束がある。百枚。数えたわけではなくても、それで十分過ぎる気がする。

「ちゃんとありますか?」

 これで、お終い。

 ぽつんと捨て子が残された。

「……うん」

 夕雅はソファに裸の尻をストンと落として、さすがにそういう類の衝撃はラディカルな痛みとなって顔を顰めさせることを知る。手鏡でもあれば軟膏の塗られた其処に異常がないかどうか確かめられるけれど、まあ航真が手当てをしてくれたのならば間違いはないだろう。出血もしていないと言っていた。うん、あんなでかいもん入っても、案外平気なもんなんだなあ。

 しかし、そんなことはどうでもいい。

 身体は航真のくれた痛みの伴う快楽をまだ覚えていた。一つに重なっていた鼓動の余韻が腹の底でまだ疼いている。目を閉じて腹に手を当てれば、どくん、……って、あれ? そんな強く震えた瞬間が在っただろうか? そう考えて夕雅は思い至る。航真が射精したときだ。

「俺、お前と……、セックスしちゃったんだな」

 周囲を行き交う人に憚るように少し航真が声を落とす。「しちゃいましたねえ」

 考えてみれば航真は俺でなくても抱けるのだ、と夕雅は思う。彼がどういう相手と肌を重ねるのか、夕雅が「知る必要もない」ことではあったけれど、彼はその相手の肌の味で記憶を上書きするのかもしれない。夕雅に「好き」と言った記憶は更新され、古びたファイルは仕事を終えて闇に眠る。

 どうしてそんなことを考えるのかと問われれば、受話器に顔を当ててソファに裸のまま座る自分がもう二度と男とセックスなんてしないということが判っているからだった。

 たった一人の物好きを除いて、何処の誰が俺のことなんて抱くものか。そして他の誰に抱かれたいと思うものか。緩慢な動作でまた鞄の中の百万円を見る。何て呪わしいクリスマスプレゼント、糞が。お前が代わりに持って行ったもんは百万じゃ到底足りない。

 ゆっくり立ち上がり、洗面台でコップに水を注いで一口飲む。革の腕輪が片方だけ、其処に置き去りにされているのが侘しく見えた。

「お前、……いま、何処居んだよ……」

 はぐらかすような笑いが耳元でくすぐったく響いた。

「さあ、何処でしょう」

 航真が肩を竦める、……のを、見た気がした。

「秘密です。俺は行きます」

「行くって、何処へ」

「それも、もちろん秘密です。サンタさんは子供が起きる前に居なくならなきゃいけない。だから、そう、俺は夢の国に行きます」

 おどけて言うのが一層腹立たしく思えたが、案外夕雅がそう思うことまで勘定に入れた「贈り物」なのかもしれない。塚崎航真という、離れることが予め約束された一瞬の恋人を憎むことで、立花夕雅が正規のベクトルを取り戻せるように。

 その手は食わない。

「動くんじゃねえぞ……、そこを、動くんじゃねえ!」

 怒鳴ってやったら、航真は驚いたように黙りこくった。彼の息遣いの向こうに雑踏が鳴る。カラオケか居酒屋の呼び込み、人々の話し声、断続的に流れる諸々の音は航真の周囲に留まり、或いは巡っている。航真は立ち止まっているように思われた。何故? 信号、横断歩道。

 再び、航真が喋り始めた。「……先輩にはご迷惑を掛けて申し訳ないんですけど、一つお願いが在ります」

「おい、人の話聴け」

 風呂の蛇口を締めるなり栓を抜き、片手でスマートフォンを当てながらトランクスを探す。航真は構わず話し続ける。

「確認して頂いたとおり、封筒の中には百万よりももうちょっと多く入っています。その余る分で俺の部屋のものを処分しておいて頂きたいんです。先輩の欲しいものがあったら持って行ってください、鍵はポストの中に入れてあります。部屋の解約とか事務的な手続きは俺のほうで済ませておきますので」

 航真の言葉が息遣いと共に一定のリズムで揺れるようになった。信号が変わって、歩き始めたのだ。彼は落ち着いた歩調で足を運んでいる。横断歩道は長いようだ。ウサギみたいに耳が長かったら、もうちょっとはっきり聴き取ることが出来たのに。夕雅は焦れる。航真の周辺、人ごみの音が一際濃くなった、女の子の笑う声が主だが、「えーまだ来ないのー」電話に向けて喋っているような不機嫌な声も聴こえる。クラクションの音、一人者の集まりだろうか男たちのやけくそじみた声も届いた。

「勝手なことばっか抜かしやがって……」

 携帯をスピーカーにしてズボンのベルトを締め、シャツとセーターを纏めて被る。「ふざけんなよ、馬鹿航真、てめえ何処居るか判ったぞ!」

 ブラフではない。長い横断歩道を渡ってしばらく歩き続けて、ひときわ濃密な人ごみ、待ち合わせ場所、……。

「今からお前のところへ行く」

 コートに袖を通す、財布持ってる、金はある、煙草、ライター、よし、あれ、携帯何処だ、いま使ってんだ。

 腕輪を掴んでポケットに突っ込んで。

「あっちこっち痛いでしょう」

 航真は言う。「あんまり急に動かないほうがいいですよ」

「うるせえ」

「……もうあまり時間がないので、切りますね」

「切るな! 切るな! おいこら!」

 声を張り上げる合間には耳を澄まして、……航真が人ごみから移動を判る。駅に向かっているのか、……「時間がない」……電車に乗るのか?

 考えを巡らせながら、部屋を飛び出す。エレベーターのハコの中で、

「さよなら、先輩」

 微かに掠れた声で航真が言ったのを最後に、 とうとう電波が途切れた。電車に乗って、何処へ行く? 考えろ。口に拳を当てて、細い息を繰り返しながら、……考えろ考えろ、何処へ行く?

 既にすっかり暮れ落ちたホテル街にはこの後の宿泊チェックインを待ち侘びているのか、二時間ほど前とは全く違った甘ったるさで喉が焼けるような空気が蔓延り、通りに澱のように溜まっている。建物は白や灰色や茶色や黒の膚を艶かしくライトアップして見せ付けていた。何処だ。駅に向けて走り始めてほんの数歩で夕雅は航真の言っていたことの意味を知る。あ、痛い、これあんま走っちゃダメなやつだ。けれどいまは走らなきゃダメなときだ。だって、泣きそうだし、……俺じゃなくて、俺の中の、大事な大事な感情が。生まれたばっかの可愛い気持ちが。

「時間がない」……?

 夕雅は再び走り出した。電車じゃない、確信はないけれど、多分違う、はずだ。だって何処へ行くにしたって、新宿から一分でもミスったらやばいような電車なんて出てない。住んでいる部屋を放擲して行く場所、電車よりも時間の制約がある乗り物、あいつの実家、何処だったっけ……?

 先程航真が立ち止まったと思われる横断歩道で息を整えつつ、スマートフォンで検索する。そう、スマートフォンならね、お前が何処に行こうとしているかこうやって調べることが出来る。西口の、リムジンバス乗り場、から出発するバスが十七時丁度にあるってことも。

 信号、フライング気味にスタートを切る。周囲にカップルの濃度が次第に高まっているように思える。イルミネーション、歌、赤と緑、クリスマスの街を、あらぬところの痛みを堪えながら乱れ髪、ハイエナみたいに、人ごみのサバンナを駆け抜けて、息を弾ませる、……何をやってんだ俺は、繰り返す自問自答、この先に何があるのかも判らない、そもそも追いつけるのかどうかさえ。嘲笑うように航真との電話が途切れたアルタ前で信号がまた足止めを食らわせる。それさえ面白いと言うように、恋人たちは手を繋いで笑い交わす。まだ会社の終わらない時間帯だから、大人びて見えるけれどみんな俺より年下、航真と同年代の大学生だろう。片っ端から爆発するがいい!

 嗚咽を堪え、呪わしさをふんだんに身に纏って、携帯電話を見る、十六時五十六分。四分で辿り着けるか? 焦燥が破裂しそうになる。胸の中、迷子になった子供みたいに感情が泣き出しそうな顔で居る。大丈夫だよ、大丈夫、そう無責任に声を掛けはするけれど、……もう一度、航真に会えるか?

 信号が、間もなく青に変わる。

 スクランブルの。

 最短距離を。

 見据えた先に、困ったように夕雅を見ている。夕雅の顔と、スマートフォンの画面とを見比べて、力なく首を横に振る。

 奇跡が起こったってもう、十七時丁度のバスには乗れない男が突ッ立っている。

 彼が横断歩道の三分の一にやっと辿り着く頃、航真はとうに半分を通過していた。みっともなくて、痛々しくて、目立つだろう。俺も爆発しそうだと夕雅は胸に抱えたダイナマイト、新宿全体を焦土に化す迷惑な破壊力を持った其れを、「こンの……!」

 全身全力全霊を以って航真にぶつける。

「ふざけんなよ! テメェ、マジで、ふざけんなよ!」

 悪態をその耳元でがなりたてる。自分より頭一つ大きい相手にそうするためには、しっかりとくっ付いてその首に腕を回す以外にやり方はないのだ。「百万で足りると思ってんのかボケ、馬鹿野郎!」

「すみません」

 航真は疲れたように謝る。しかし間近に見るその頬は緩んでいる。

「考え違いをしていました。俺はとても浅はかでした。先輩を気持ちよくしてはいけなかったんです。それなのに、つい、してしまった。先輩が、可愛かったから。気持ちよくしてあげたくて仕方がなくなってしまった」

 今日は自分たちが主役だと信じて疑わない恋人たちは全て背景に変わった。何かの記念日にと定めた今日という日に全く不似合いなくせに舞台の中心を堂々と占める二人を、眉を潜めて遠巻きに通り過ぎる。

「先輩に一杯痛い思いをさせた方がよかったんだ、そうすれば先輩は、二度とこんな思いをしたくないって思ったに違いなかった。俺のことを嫌いになってくれていたはずだ……」

 航真は徐々に笑顔になりながら、言い訳を並べる。「先輩が、俺を追いかけてくることだってなかった」

 怒鳴り散らしたいだけ怒鳴り散らす声を一番近くで聴くためにか、航真は背中を丸める。「嫌って貰った方がずっとよかったのに」

「何でテメェのそんな期待に応えなきゃなんねんだ! この俺が!」

 胸倉を掴むと言うより、その胸に縋りつくようにしながら揺さぶって声を上げる夕雅を困ったような笑顔を浮かべて航真は見ていた。

「その方が、きっと先輩にとっては幸せだろうと思ったから」

「アホか! ンなもん、何でテメェが判ンだよ! アホか!」

 痛がるがいい、苦しがるがいい、嬉しい、思いながら両腕でしがみ付く。おずおずと背中に回された手は、ためらいがちに夕雅のことを抱き締める。「……後悔しても、知りませんよ?」

 強く、強く、抱き締める。

「後悔させねえようにすんのがお前の仕事だろうが、一生分」

 ライオンみたいに、夕雅は唸る。「お前はずっと俺のことが好きだったんだろう。だったら、ずっと好きで居ろよ、責任取れよ」

 心を身体を、こんな風にしてしまった責任を。

 それは金などで補償出来るものではない、決して。

 右手を尻で散々振り回された鞄の中に突っ込む。茶封筒を探り当てた指先で乱暴に引っ張り出し、帯封された一束と、あと何枚……、十何枚か。

「ありがとうよ」

 夕雅は精一杯顔を顰めて、憎たらしい笑みを浮かべる。けれどこの男はそんな顔でさえ、「大好きです」と言ってしまう。二度と誰とも出会えなくたっていい、この男が来年の今日も同じように傍に居てくれるなら、他に何が要るって言うの? 病めるときも貧しいときも、他に何を欲しがるって?

 こんなもの。

 点滅し始めた青信号に足早に二人の傍を歩いて抜ける人の群れがぱたりと止まる。

 ホワイトクリスマス。

 航真が微笑む。ああ、うん、お前、綺麗な顔だ、上等だ。

 信号が赤に変わった。クラクションが鳴り響く。しかしパニックに陥った群衆の上げる怒号が其れを掻き消した。恋人だった男女たちは我先に舞い散る一万円札にほら見ろ簡単に解けてやがる、……視界いっぱい航真の顔の夕雅には見えないし、どうせ他者には興味はないのだ。

「俺たちは、馬鹿ですね、先輩」

「うるせえ、バーカ」

 五時の鐘が鳴り出す。

 すぐ傍の交番に詰める警官がけたたましい笛を鳴らしながらやって来る。

 昇天ラッパの音には、残念ながらちょっと似ていない。けれど天使みたいに唇を重ね合う二人の幸せを損ねることにはならなかった。

 お前を何処にもやるものか。

 生まれたての愛情が涙の跡を隠しもせずに、嬉しそうに笑っている声を夕雅は聴いた。

 

 

 

 

 馬鹿なことをしたお陰様で、クリスマスの夜のクライマックスを交番で過ごした夕雅と航真である。けれども二人して素直に平身低頭の謝罪をしたこともあって、職場や実家に連絡を入れられることもせず済んだことは不幸中の幸いである。いや、二人にとっては交番で調書を取られたことこそが多幸中のごく僅かな不幸で在ったと言うべきだった。

 クリスマスと正月という中五日の異母兄弟を見上げる十二月二十六日の朝、夕雅は航真のアパートで目を醒ました。恋人の腕の中、同じ匂いの布団に包まれ揺すり起こされるという、それだけで爆発してアパート全体を惨事に巻き込むような起き方をしたという以上、

「先輩、今日昼からですよね?」

「おお……、おお!」

「あ、急に動くと」

「痛え!」

 夕雅の身体には前夜の余韻がまだたっぷりと残って居るのだった。

「ほら……」

 航真は呆れたように笑う、誰のせいでこんなに痛いんだ、睨んでやっても、シナモンロールみたいな状況の甘さに視線の鋭さは削がれてしまう。「さっき店に電話しておきました。空いてるから今日お休みでも大丈夫だそうですよ」

 その言葉を聴いて、全身から力を抜いた。

「……先に言えよ、ったく」

 昨日は爽やかで清潔な白い朝だった。目を擦って台所脇の窓を見れば、やっぱり白い。時計を見れば午前十一時。夕べ寝たのが何時だか記憶にないが、割合に早い時間に帰って来た。交番から解放されてから家電量販店で電子レンジを買って、えっちらおっちら抱えて。駅前のスーパーで百グラム二十九円の鶏の胸肉―決してチキンのグリルなどではなく―を買って、ビールと―決してシャンパンなどではなく―一緒に。鶏胸肉はもちろん、航真の得意な漬け焼きにして。レシピ教えろよの遣り取りをまたして、「だって、俺が作ったの、今までよりももっとしょっちゅう食べに来ればいい話でしょ」と言われて、とうとう納得してしまった。「まあ、そんな大したことしてるわけじゃないですけどね」と航真は少しだけ得意げに笑って付け加えた。

「コーヒー淹れたら飲みますよね?」

「おう、……あー頭痛ぇ腰痛ぇ足だるい」

 これ今日仕事だったらかなわんぞ。そんなことをぶちぶち言いながら、航真の手を借りて起き上がる。

「なあ、服貸して。ジャージでいいから」

 今日も含めれば三日続けて同じ服で居ることになってしまう。航真の部屋に泊まった翌朝、こうして服を借りるのは夕雅にとっては当たり前のことで、柔軟剤の匂いが違ってもそれはもうそういうものとして慣れ切っている。

「ジャージじゃ寒いですよ、貸しますからちゃんと着て下さい」

 人間の五感の中でとりわけ敏感に他者と自分とを隔てるのは嗅覚だろう。航真が夕雅の煙草の匂いを嫌がらないのと同様に、夕雅も航真の服を着るのが嫌だと思ったことは一度もないし、そもそも布団にもぐりこむのだって日常茶飯事。同じ布団で眠りに落ちたのはこれが初めてだったけれど。

 もうこうなる運命だったのだ。

「……そういやさ、昨日、訊きそびれちゃったんだけど」

 トランクスとTシャツだけ身に着けてヤカンを乗せたコンロに火に点ける後姿に訊く。「お前、昨日やっぱりさ、北海道行こうと思ってたんだろ?」

 細長い身体が箪笥の中から恋人の分と自分の分、服を二揃い取り出すのを、夕雅は見ている。きっとその箪笥の中は綺麗に整頓されて居るのだ。夕雅は目の前に置かれたトランクスに足を通し、Tシャツを被った。

「そうですよ、実家です」

 航真は少し照れたように答える。「他に行くとこないですよね、好きな人にフラれちゃった訳ですし、年末年始でもあるわけですし。オレンジのバスで羽田出て」

 セーターを着る航真に、夕雅は続けて訊く。

「バスとか飛行機とかのチケットは?」

「昼間のうちに携帯で買ってました」

「……キャンセル料、俺、出したほうがいい?」

 ジーンズのボタンを閉めて、ふっと航真は笑った。

「百万ばら撒いちゃうような人はお金持ってないでしょ」

 まあ、そうだけど。

「気にしないで下さい。実家からチケット代貰ってますし」

 コーヒー豆を挽くごりごりという音がしばらく朝の底に芳しく行き届く。手際よくフィルタに載せた頃、しゅんしゅんと湯が沸いた。

「先輩は実家帰らないんですか?」

「うん。神奈川だしさ、わざわざ正月帰るの馬鹿らしいし、……それに、フラフラしてっからさ、親戚集まると説教されんだよな」

 だからこそ、毎年正月は仕事をするか競馬場に行くか。……その競馬場だって、今住んでいる部屋から行くよりは実家から行った方がずっと近かったりする。

「今年はどうすっかなあ……、お前こっち帰って来るの何日?」

 航真が壁に掛かったカレンダーを見遣る。几帳面な字で予定が書き込まれていた。

「四日ですね」

「いつ出るの?」

「まあ、飛行機のチケット次第ですけど数日中には。先輩のシフトは?」

「二十九から六連休。コミケでも行こうかなって思ってた」

 実家に帰るわけではないフリーターのくせに休み過ぎだと店長に小言を言われた。しかしこういう日に唐突に休めるぐらいには普段の仕事振りで信頼を勝ち得ているつもりの夕雅は、持ち前の根気でもってゆっくりとコーヒーを注ぐ航真の横顔を眺めている。眩しいから、目を細めて眺めている。

「じゃあ、しばらく会えないですね」

 一生会えないかも知れないと思ったことから比べれば、ほんの一週間程度会えないぐらいなんだよと思う一方で、それを寂しいと思っちゃったっていいような処に居るんだと夕雅は悟る。少しばかり照れ臭くて格好悪いことであるように思うが、身体の隅々まで晒した後で何を今更という感もあり。

「……先輩、一緒に来ます?」

 はい、とマグカップと灰皿を並べて置いた

「ん?」

「北海道、俺と一緒に。何もないとこですけど、うち広いし」

 照れた様子もなく航真はカップに口を付ける。

 意味を精査するのに時間を掛けるのは、いかな気の長い航真相手であってもいけないことだ。コーヒーはまだ熱いし、煙草に火は点けていない。だから答えを先延ばしするための理由は、今朝も夕雅には用意されていない。航真は黙ったままじっと正座して待っている。

「飛行機、乗んだよな。俺高いとこ、あんま好きじゃない」

「知ってます。でもすぐ着きますよ。それに飛行機って『高い』って感じじゃないですし」

「北海道って、寒い?」

「寒いです。でも隣の牧場行けば馬居ますよ」

「乗せてもらえんの?」

「恐らくは」

「ばんえい競馬って遠い?」

「車出せば三時間ぐらいで着きます」

「食べ物美味い?」

「ウサギ食べます?」

「それはいいや」

 うん、コーヒーを吹いて、湯気を散らして、「行く」と照れ隠しに一口飲む。再び航真に視線を戻したら、にっこりと微笑んでいる。旅路の意味するところは確認し合うまでもない、全て諒解した上で、夕雅が頷いたのだということまで、きっと彼は判っている。

「先輩、寝癖ひどいですね。髪やらかいのに」

 寝癖の酷くなるような寝方をしたからだ。お前だって襟足はねてんじゃんかよ。コーヒーを啜ってちろりと見れば、「ホテルみたいに広くないですけど」とユニットバスに視線を送る。知ってる。夕べ、二人で入ったら狭くて大変だったんだから。

「うん」

 煙草に火を点けた。白い朝に漂う煙を、頬杖を付いて寝癖頭の男が笑顔で眺めている。スペシャルな日常が始まる日は、別段何かの記念日でなくたって構わない気で居るけれど、世界中のどの恋人たちとも同じように、その日が俺たちのためにあると信じたって構わないだろうと夕雅は思う。

 リア充爆発しろ。そんなことを思ったら本当に爆発してしまうかも知れないから、もう思わない。代わりに思うとしたら「サヨナラ」だ。

 サヨナラ、サヨナラを言うために在った今年のクリスマス。

 まだまだ冷めないマグカップのコーヒーを、そっと夕雅は唇で吹いた。


back