ヒアイズゼア

 脳の芯が痺れたような感覚に顔を顰めて、其れが眩しさによるものだと俺は気付く。カーテンの隙間から差し込む陽射は真っ直ぐに俺の瞼を射抜いていて、起き上がってもまだ、視界は幻の中のようにちかちかと瞬いた。

 どこかから、洗濯機が一生懸命に働く音が聴こえてくる。

 此処は何処だ、と呟いた自分の声を聴いて、俺は愕然とする。俺は何処とも知らない場所で、どうしてこんな風に、裸で目を醒ましたのか。……手狭な四畳半の中央に俺は居た。周囲を塞ぐ砂壁にも畳の色褪せ具合にも、俺は全く見覚えが無かった。見回す限り俺の服はどこにもなく、その代わりにやはり見たことのない柄の下着が一揃い、枕元に畳まれている。慌てて其れを身に着け、カーテンの外を確かめる、……背の低いブロック塀の向こう側、八月の太陽を浴びた路地を豆腐屋の自転車が走って行くのが見えた。

 背後で襖が開く、覗いた顔に見覚えがあって、俺は一瞬の安堵を味わう。……だが、それは本当に一瞬のことだった。

「有馬、起きた?」

 真ッ赤なタンクトップと派手な柄のトランクスから細い手足をにょきっと伸ばした見澤昴星の声は、俺の動顚に少しも気付くことなく和やかだった。

 長い茶髪を縛って案外に聡明そうな富士額を晒している。左右、また左と落ち着き無く首を動かす度、筆先のように茶髪がちょんちょんと揺れる。まだ櫛を入れていないようで襟足は派手に跳ね上がっていた。

「下着のサイズ大丈夫そうだね。あんたのさ、汗かいてたから洗っちゃったんだ。それよりさ、朝ご飯出来たから、食べよ。昨日から全然食べてないからお腹空いたでしょ」

 見澤が襖を開け放つ。恐る恐る覗き込んだおれに、空の座布団を指差した。

「あんたが起きるの待ってたんだよー」

 サンダルを挟んで隙間を作った玄関の扉からは蝉時雨と絡み合いながら、まだ少し涼しい風が吹き込んでくる。俺の背後の窓までをすり抜ける夏の風が、俺の鼻に芳しい朝餉の匂いを届けた。

 前夜の酒がまだ、脳の芯であぐらをかいているような気がした。

「ほら、早く座って」

 見澤に言われるまま、与えられた座布団に尻を落とし、喉元までせり上がった鼓動を持て余す。丸い卓袱台を挟んで俺の左前方には見澤の座っていた座布団が在る、そして右前方には、見知らぬ男が座っている。

 彼は短い黒髪で、細いレンズの眼鏡を掛け、ネクタイこそしていないもののもうワイシャツを着ている。神経質そうに整った顔立ちが、陽に焼けた肌によってマイルドに映る。俺たちより五歳か六歳は上、つまりは二十代の半ばほどに見える。

 俺は「ヅチくん」という、彼の奇妙な名前を知っていた。見澤の作ったピクルスに「妊婦でなければ食べられない」と悪口を言ったことも、そうめんが「イトミミズが浮いてるみたいに見える」から嫌いだということも知っていた。

 彼が見澤の恋人だということも、もちろん。

 此処が何処かということには、既に察しが付いている。……見澤とヅチくんの家だ。「福寿荘」というアパートの名前が混濁した記憶の中からぽくりと沸いた。そうだ、夕べ初めてこのアパートの敷地に入ろうとしたとき、門柱にかけられた木製の銘板を見て「のどかな名前」と思ったのだ。木造二階建て、築四十年、バストイレ別2Kだが家賃は安い。

 この家で見澤はヅチくんと同棲している。

 愛の巣に、俺は夕べ見澤に誘われるまま転がり込んだ。ヅチくんは仕事で遅くなるとかで、だから夕べ、俺は見澤と二人きりだった。

 冷静だったらこのアパートに近付きすらしなかったはずだ、……こういう朝が来てしまうことを、俺は本気で恐れていたから。

「『アルバ』って変わった名前だよね」

 ヅチくんは右手で鯵の開きを解体しつつ、左手で新聞の頁を捲る、視線は当然新聞に注がれているのだが、箸は器用に骨を剥がした。その上で、彼は案外に若く軽い声で俺に向けて言ったのだ。

「ヅチくん」なんて呼ばれている人に、名前でとやかく言われるとは思っていなかった。いや、それ以上にもっととやかく言われるべきことがあるだろう。思えば裸で目を醒ますような状況になる以前に、拳で文字通り叩き起こされたって不思議ではなかったはずだ。

「はじめまして」

 ヅチくんは新聞から目を上げて、にこりと微笑む。神経質そうに見えたのが錯覚だったのかと疑いたくなるほど人懐っこい笑顔だ。

「お味噌汁ーとご飯。冷める前に食べて。でもってヅチくんは食いながら新聞読まない」

「お前こそ、立て膝で食べない」

 目の前の、ぴかぴか光る美味そうな飯が俺を混乱させていた。自分がいまどういう状況に置かれているのか理解できない。

 俺は明らかに夕べ、見澤と寝てしまったのだ。

 それもただ「枕を並べて隣に寝た」のではなく、……つまり、多分に性的な寝方をしたのだ。

 恋人がいる相手と、寝たのだ。

 それなのに、見澤の恋人は俺を殴るどころか責める言葉の一つも吐かず、淡々と朝食を平らげ、立ち上がると歯を磨き、手早く身支度を整え、ネクタイを締める。座ったときには気付かなかったが、背は俺よりも高い。黒にごく薄いピンストライプの入った夏のスーツがよく似合っている。

「行くよ」

 ヅチくんが言うと、見澤は反応良く立ち上がる。鞄を持って来て、ヅチくんが靴を穿くあいだ抱えて待っている後姿は、Tシャツにトランクスというだらしのないものではあるが、若奥さん然とした背筋の伸び方をしている。

「ヅチくん、晩飯何か食いたいもんある?」

「カレー」

「なにカレー?」

「豚肉のカレー」

「了解、帰りそんな遅くなんないのね?」

「の予定」

 公称百六十センチの見澤と比べ、ヅチくんは随分背が高い。見澤が背伸びをするのに応じて、彼は少し背中を丸めた。

「いってらっしゃい、愛してるよ」

「ん」

 俺は反射的に逸らせばいいものを、二人のキスの一部始終を、茶碗と箸を持ったまま口を開けて目撃していた。

「……行く場所ないんだろ? 居たいだけ居ていいよ」

 見澤の髪をくしゅっと撫ぜたヅチくんが、見澤に向けていた優しい微笑みのまま俺にそう言葉を放った。

 俺は口の中のご飯粒を飲み込んで、……間抜けな顔でその言葉を受け取る。

「じゃあ、いってきます」

「いってらっしゃい。……ほら、有馬も『いってらっしゃい』はー?」

 茶碗と箸と、ヅチくんから放られた言葉を持て余したまま、俺は慌てて立ち上がり、

「……いってらっしゃい」

 やっとのことで言った。ヅチくんは手をひらひらさせて、既に真昼のような強さの太陽を一度睨み上げ、一本芯が通ったように背筋を伸ばして出て行った。

「座って食いなよ、疲れるでしょ」

 ヅチくんの食器を片付けながら見澤に言われるまで、俺は立ったままだった。一先ず座布団に尻を落としても、俺は状況が益々混迷を極めていることに途方に暮れている。ただ確かなのは目の前の朝食が一級品であるということだ。味噌汁は濃すぎず薄すぎず、鯵の開きはふっくら焼き上げられているし、玉子焼きは箸で切って口に入れるとじゅわっと旨みが滲み出してくる。

「どう? 俺の作ったご飯、美味いべ」

 食べ終えた見澤は卓袱台に肘をついて得意げに俺の顔を覗き込む。

「……これ、全部お前が作ったの?」

「うん。あんたが起きてくる一時間以上前に起きてさ、一から作ったんだよ。毎朝これぐらいのご飯作って、ヅチくんに食わせてんの」

 見澤が恋人のために毎日朝食を拵えているということは知っていたが、これほどのものを日々揃えるのは並大抵のことではない。

「俺ねー、誰かが俺の作ったご飯美味しそうに食べてくれんの見んの好きなんだー」

 ずっとコンビニ弁当若しくは牛丼でなければカップラーメンという食生活で居た俺の胃は酔い覚めの朝であることを忘れてしまったかのように易々と平らげて、場違いなほど心地良い満足感を齎す。見澤は食器を片付けると、卓袱台の中央に灰皿を置く。煙草は何処にやってしまっただろうと見回した俺の前に、「はい、煙草、と、ライター」見澤が並べて置いた。

 睡眠、食事、煙草、俺の生活に必要なものがおおよそ揃った。

「……俺、お前と、やっちゃったの?」

 見澤がぷ、と煙を吸い込んで、吐き出すまでの間、俺の鼓動は少し冷える。指先から灰が零れそうになって。

「やっちゃった」

 見澤は毒の無い顔でそう答える。

「でも大丈夫だよ? ちゃんとゴムつけた。そんくらいは俺も常識はあるつもりだよ?」

 そんなことを心配しているのではない、決して。

「ひょっとして、マズかった? いや、……あのさ、あのね、マズいんじゃねーのかなーいいのかなーとは一応思ってたんだけどさ」

 言葉を止めて、驚くほど真面目な顔付きをして俺の顔を覗き込んだ。俺がくっきりと浮かべているはずの表情を、何と読み、何と呼ぶだろう。後悔? 或いは嫌悪、それとも忌避? そのどれもを俺が内包していないはずもない。しかしそのどれと呼ぶことも、俺はしたくない気がした。

「俺は、したかった。して、楽しかった、嬉しかったよ。あんたのこと好きだから」

 見澤は言って、にっこり、音が立つような八月の笑顔を俺に見せた。

 

 

 

 

 見澤昴星は俺にとって唯一「友人」と呼べる存在だった。綺麗な童顔、愛想は良すぎるくらい良く、少々舌ッ足らずなところがあり、男を「可愛い」と形容するような趣味のない俺にそんな言葉を思い浮かばせるような容姿をしている男だ。

 難点があるとすれば、極端なくらいにマイペース。栗色の髪同様にふわふわしていて何を考えているのか読みづらいところか。

「ねえ、何か書くもん持ってない?」

 ゴールデンウィーク明けの火曜二限、文学史の講義だった。五月病の蔓延で空き始めた教室に遅れて入ってきて隣に座った、小柄で童顔、びっくりするぐらい顔が綺麗な男子学生は、ノートを開いて鞄の中を漁ってから、俺にそう請うたのだ。

 憮然とボールペンを差し出したら、嬉しそうに「ありがと」と、彼はにっこり微笑んだ。

 それから五分もしないうちに、「あ」隣からそんな声がした。

「……ごめ……っ、ごめん、っ、壊した……」

 俺の貸してやったノック式のボールペンが見るも無残に分解されていた、どうやらバネを何処かへ飛ばしてしまったらしい。

 いいよ、別に、あの、百円で買った奴だから、うん、だから。

「ついてきて」

 授業終了後、手を引っ張られるまま購買で新しいボールペンを渡され、お詫びにと缶コーヒーをおごられた上、「この埋め合わせは必ずするから!」とノートの切れ端にメールアドレスを書いて渡されたところで、「そういや名前まだ訊いてなかったね、何年生?」

「……二年の、北方有馬」

「あー、じゃあ俺と同じだね。有馬って変わった名前。同い年? 何処出身?」

 矢継ぎ早の問いに、一浪しているからもう二十だと告げると、慌てたように「ん、じゃあ敬語使ったほうがいい? ですか?」と訊く。別にいいよと答えたら、にっこり笑って、

「じゃあ、有馬」

「いきなり呼び捨てかよ」

 彼のペースに巻き込まれる形で、気付けば打ち解けていた。

 見澤の無邪気な笑顔に、見る者から毒気を抜く不思議な力があるように感じられたのはそのときが最初で、いまも、どれ程馬鹿なことを言っていようと、その笑顔が見られればまあいいかという気に俺はなってしまう。敵意の無さはその笑顔だけで明らかなのに、それではまだ足りないと一方的にアピールしてくるような、少々コミュニケーション過剰なところのある男だった。

 講義が重なれば隣に座り、一緒に昼飯を食い、俺のバイトが休みならば喫茶店で無駄話に花を咲かせたこと幾多度。この一つ年下の「友人」が同性愛者だと知ったのは、そんな風に同じ時間を平然と重ねてしばらく経ち、鬱陶しい雨が続く帰りのバスの中でのことだ。

「彼氏がさー、そうめん嫌いだって言うのね。イトミミズが浮いてるみたいだって」

「俺はそうめん割りと好きだけど」

「俺も好きー。あっためて食っても美味いよな。なんてーんだっけ、あれ」

「にゅうめん」

「そう、にゅうめん。冬はアレに卵落としてさ、夏はキンキンに冷やして。でも俺冥加食えないんだよなー」

「ああ……、うん、俺も好きじゃないな」

 その日の見澤はまた随分愛らしい服を着ていて、……いつもながらおしゃれだよな、なんて、そういったセンスが全くない俺は、雑誌の世界から飛び出してきたような見澤と「そうめん」「にゅうめん」の対比を少し可笑しく思っていながらも。

 ……何て言った?

 単なる言い間違いかそれとも俺の聞き間違いか?

「俺の『彼氏』」と言ったかコイツは、今。

 頭の九分九厘、震えるような思考で一杯だった。

 いつもふわふわして、実際服装も髪型も何だかふわついていて、とらえどころが無い。パッチリと大きな目を備えた童顔に、くるくる変わる表情を映し出している、総じて、まだ少年の甘さが抜け切っていない十九歳の見澤昴星には、そういえば女ッ気というものが全く無い。その愛らしい相貌と甘ったるい性格を持った彼に、そういう存在が見られないのは考えてみれば奇妙なことだ。

 悠長なようだが、俺は見澤と共に居る間、常に周囲から独特の視線を送られていることに全く気付いていなかった事情をある程度知り、しかし全く知らない連中からは、俺は「見澤の恋人」ということになっていたのだろう。

「超腹立つんだよー、ウチの彼氏がさあ」

 事実は補強されていく、「ピクルス作ったのね、俺が。したらさー、『こんな酸っぱいの妊婦じゃなきゃ食えない』とか言うんだよ? ピクルスって酸っぱいもんじゃんなー?」

 繰り返し繰り返し。「……お前ピクルスなんか作れるの?」

 しかし「そう」であることを差し引いたって、見澤は悪い人間ではなく、一緒に居て楽しいことも事実だった。「なあ有馬、法学休講だって。また競馬連れてってよ」気安く俺の肩に触れて腕を引っ張って。どうもその半径一メートル以内には掴み所の無い、緩やかな時間が流れているようで、油断すればすぐそのペースに巻き込まれてしまうのだ。しかし流れるプールにたゆとうように、巻き込まれるに任せて漂遊しているのは快さが伴った。

 俺は好かれているな、とは思っていた、其れはちっとも悪いものではない。俺の側にも見澤を嫌いになる要素は何一つなかった。

 ただ、其れが同性愛の対象としてだったら?

 もちろん、見澤が同性愛者だと知ってから、そんなことを考えなかった訳ではない。しかし、その半径一メートル以内に居る俺は、面と向かって見澤に問い質すことも出来ないで居るまま、漫然と時間は過ぎて。

「あんたはさ、俺がゲイでも俺のこと嫌わないんだねー」

 前期の試験が終わった後のファミレスで、メロンソーダを吸い飲む見澤は瑞々しい艶のある下唇にストローを付けたままで言った。童顔の大きな双眸はグラスの中のビビッドな炭酸グリーンを映し出しそうなぐらい、透き通っている。

 何とも答えられない俺に、「今までの奴らはみんな俺がゲイって知るとさ、すぐ嫌がって離れてさ、メールの返事も寄越さなくなったよ。だから俺、一年のときサークル入ってたけど辞めちゃったんだー」、微笑みにぴりり、炭酸系の苦味を混ぜて言う。見澤の周囲に女ッ気を含めた他の友人の気配が皆無なのはそういった事情によるものだったかと俺は知って、少し、嫌な気持ちになった。

 でも、同性愛者だときっぱり宣言されれば、尻込みするのが自然な反応だろう。反射的に、自分がどんな女にだって勃つ訳ではないことと自分自身の顔の形までも忘れて、自分がターゲットになる危険性を検討してしまうのだ。

「……ちゃんと、彼氏が居るんだろ?」

 訊いたら、こっくり、頷いた。

「『ヅチくん』」

 妙な名前を、見澤は嬉しそうに言う。

「だからアレだ、安心してよ。俺はあんたに手ー出したりしねーし。……んあ、でもアレだよ? あんたがもしタマッちゃって処理に困るようなことがあったらいつでも言ってくれたらしゃぶったりとかしてあげるからね? あんたならおっけー」

 ちゅうとメロンソーダを吸って、微笑んで唇を舐めた。俺は一先ず角張った苦笑を返すことぐらいしか出来なくて、しかし自分の中に厳然と存在する偏見に基づいて見澤から離れようと考えることは尚のこと出来なかった。

 その頃も今も、俺の携帯電話には見澤からのメールしか来ない。変換を面倒くさがって「あるば きょう だいがく いく?」平仮名とスペースで綴られた手紙は幼子から受け取るもののようにも見える。見澤が危険な存在であるとは、尚更思えなくなるのだ。あいつがくれた着メロが震わせる携帯電話には、つまりあいつが詰まっている。

 時に見澤は、

「やりたくなんない?」

 俺の腕に纏わり付いてそんなことを訊いた。「なんない」と答えると、「そっか」とあっさり引き下がるものの、「つまんねーの」と唇を尖らす。

 お前はやりたいの? 彼氏がいるのに?

 そんな風に訊くのは怖い。俺は同性愛者ではなく、そんな機会が訪れることは決してない。そう思っていた一方で、見澤が開いた扉の向こう側に何らかの興味を抱いてしまったこともまた事実である。

 見澤は男、俺も男。俺が見澤の肉体を欲することがあるかと問われれば、それは明確にノーだ。だからずっと「いい友達」のまま付き合っていくしかない。……こう振り返ってみると「しかない」なんて自分の首にナイフを突きつけるような考え方しか出来なくなっていた時点で既に、俺は危険水域に居たのかもしれない。

 見澤と一夜を共にして「ヅチくん」という名の彼の恋人の顔も見て、途方にくれて卓袱台の灰皿に二本目の煙草を潰す俺は、そのときからはっきりと繋がる「今」に居るのだ。重ねた時間の数だけ可能性を否定する機会はあったのに、怠惰にも俺は其れをしなかった。望んでいたのだろうと問われても首を振るつもりだが、

「俺としたかったんだろ? 本当は」

 見澤に、あの無邪気な微笑と共に訊かれたら、俺は頷いてしまうのかも知れない。

 見澤を抱いてしまった。

 後悔よりも先に立つのは虚脱感。見澤はもうただの「友達」ではない。しかし見澤は昨日までと少しも変わらない顔をして、俺をじっと見ている。幼さの残る、大きな瞳で。

 昨日の、午後六時を少し廻って、しかし尚明るく暑い夕方のことだ。

「大学辞める」

 いつものファミリーレストランの喫煙席に座ってすぐ、俺はわざわざ呼び出してしまったことを詫びてから切り出した。息を止めた見澤の咥えるストロー、その半ばで緑色のメロンソーダが震えている。

「じいさんが死んだんだ。俺に大学通わすためにずっとさ、少ない貯金やら年金やら切り崩して学費出してくれてたんだけど、この先俺一人じゃどうにも出来ないから」

 見澤がストローから唇を離す、すとん、とストローの中を落ち込んだメロンソーダは、一瞬緑の水面よりも深くまで沈み、またふわりと浮かんだ。ストローやグラスの内側に付着した細かな泡が、耳を寄せれば聴こえるほどの囁きでざわめいていた。

「辞めちゃうの?」

 見澤がぽかんと開けた口で訊いた。

 俺に両親が居ないことは、見澤にも話したことが在る。確か見澤が俺にカミングアウトした直後だ。

 両親は俺がまだ小学生の頃に二人とも自動車事故で死んだ。それ以来ずっと母方の祖父に育てられ、またその祖父も俺が大学に入ったばかりのころに倒れたことも。介護は病院に任せ切り、俺は何も知らぬような顔で大学に居たから、見澤が驚いた顔をしていたことを覚えている。

 ただ、

「俺もー、親父とお袋居ないんだよー」

 並んで歩く俺の手を取って、「お揃いっ」と、何でそんなことを嬉しがるのか判らないが、とにかく嬉しそうに言っていた。

「一応、親父のほうの伯父と伯母が金を出してくれるようなことは言っていたけどな。でも、俺は別にいいんだ、誰かに金の負担かけてまで行きたいとは思わないし、そもそもじーさんが行けって言ったから行ってたようなもんでさ、その人が死んだら別に、ね」

 薄情なようだが祖父が死んだことも悲しくはないのだった。多分、もうすぐ死ぬんだろうと思っていたから。

 仲が悪かった訳ではない、夏休みの週末にまだ小学生の俺をトラックの助手席に乗せて競馬場まで連れて行くのが、あの人は好きだった。そして俺もあの人に連れられて馬が走るのを観に行くのは好きだった。小学生の俺に鮪のカツを食わせたり、時にビールを飲ませたりして笑っていた。俺に買う馬を選ばせたりもしていたのだから、とんだ不良爺だ。しかし、俺は嫌いではなかった。

 だけど、彼もいつかは死ぬもんだということは、当たり前のように判っていた。

 彼が死んだら、俺はそのとき本当に一人になるのだということも。

「……辞めてどうすんの?」

 俺が煙草を咥えると、其れが許されたと思ったかのように、見澤も煙草を咥えた。

「どうすんのって……。働くよ。働かなきゃ食っていけないわけだし。もちろんすぐに就職決まるとは思ってないから、とりあえずは今のバイトは続けながらだけど」

 見澤は大きな目を二度瞬かせて、それからじっと俺を見詰めた。

「居なくなっちゃうの?」

 子供っぽい言いようが、ほんの少し可笑しく、しかし、悲しく聴こえた。

「すぐには居なくならないし、なれない。実家の方に帰った方が生活しやすいか、それともこっちの方が楽かはまだ判らないし」

「じゃあ……、もう、今までみたく、遊んだり出来ないの?」

「そりゃあ……、でも、卒業したらそんなの」

 ぷい、と見澤は顔を背けて窓外に眼をやった。煙がしみるのか、その眼を細めて、「卒業するのなんて、まだ先じゃん」と子供が不貞腐れたような言い方をした。

「俺、もっとあんたとずっと一緒に居られるって、そう思ってた」

 無理に言葉を紡ごうとする唇が尖る。怒ったような声は掻き消えて、「なんだよ」と呟いた声を最後に、見澤は俯いてしまった。

「……ごめんな」

「謝られたってしょうがないだろ、……どっか行っちゃうんだろ」

「そんな遠くには行かないかも知れない」

「いいよ、もう、何処へでも行きゃいい、知ったことじゃない」

 拙いな、と思う。

 俺も、見澤も。

 無理をして無愛想に、既に自分の手ではなく社会というか世界によって整理を付けられたものを、何の痛痒も感じないふりをして俺は見澤に見せた。此れは強がりでも多分に幼稚な部類に入る。一方で見澤は駄々を捏ね、泣きそうになっている、幼子のように。釣り込まれれば俺だって同じ気持ちになる。見澤は同性愛者俺は異性愛者そこに厳然たる線引きはされるだろうけれど、俺にとっては現状殆ど唯一こんな風に生々しい血の通った会話が出来る相手が見澤昴星なのだ。そして見澤にとっても友人と呼べるのは俺しか居ない。

「……大学、いつ、辞めんの?」

 煙草を挟んだ手はテーブルの上にそのまま、灰が今にも零れ落ちそうだが、見澤は俯いたまま訊いた。

「明日にでも学生課に相談しに行く」

「……もう、大学じゃ会えないの?」

「それは、……辞めたらもう、な」

 見澤が顔を上げた拍子に、煙草の灰が折れた。グラスの下で濡れた紙ナプキンで俺が拭う手をじっと見詰めて、

「俺はあんたが好きだ」

 その言葉は、思っていた以上に俺の胸に痛く響いた。

「お前には彼氏さんが居るだろ」

「でも、それでも、俺はあんたが好きだ」

 通りがかったウェイトレスと眼が合った。

「あんたがどっか行っちゃうなんて、嫌だ」

 その眼が潤んでいることには、もう気付いているし、其れを見れば俺だって同じように潤んでしまいそうになるから見ないようにしている。それでも光を集めてちらちら揺れているのは、どうしても目に入って来た。

「出よう」

 見澤がぐいと手の甲で顔を擦って立ち上がった。見上げた俺に有無を言わせぬ口調で、

「出よう。今から俺んち来いよ」

 俺の、まだ湿っぽい紙ナプキンを摘んでいる右手の手首を見澤はぐいと握った。

 普段の俺なら、「行かない」と言っていたはずだ。……此れは言い訳でも何でもない、確信を持って俺は思う。でもそのとき、情けないことに俺は、寂しかったのだ。

 喪服を片手に一昨日の最終の新幹線で戻って来た俺は、これからのことを極めて淡白に考えているつもりで居ても、窓の外に眼をやったまま十分以上もぼうっとしてしまったり。

 布団で横になったのに、瞼を閉じられなかったり。

 起き上がって窓の外に向かって煙を吐き出しながら、そういえば初めてヤニを吸うときに、自然と俺はあの人の吸っていた銘柄を選んでいたんだと思い出したり。

 母方の祖母には離婚歴が在って、既に俺の母を産んでから祖父と再婚しているから、俺とあの人は血が繋がっていない。それでも、とうとう一人になってしまったという事実は俺の心に重石となり、身体を布団に縫い付けた。それでもどうにか起き上がることが出来たのは、見澤に説明しなくてはと思ったから、……そして、寂しかったからだ。怒らせることにしかならないと判っていても、見澤の顔を見て、声を聴いて、何がしかのつながりを確かめたいと俺は浅ましく願っていた。

 だから、俺が夕べどんな風に見澤と「寝て」しまったのかを覚えていないのは俺にとっては幸運なことだったかもしれない。きっと弱音を吐いて、涙さえ零したかもしれない。恐らく見澤を困惑させもしただろう。

 確かなことは、俺にどんな事情があろうと、俺がヅチくんの恋人である見澤と寝てしまったということ、其れを踏まえた上で、ヅチくんは浮気をした見澤も、そして間男である俺のことも、全く責めなかったということだ。

 ヅチくんの穏やかな表情を見て、勝手な話だが俺は異様な感じを覚えた。……或いは、見澤は俺のみならず、いつもあんな具合に男を家に連れ込んで一緒に「寝て」居て、ヅチくんはもう其れに慣れきってしまっているのかもしれない。しかし俺の知る限りでは、見澤はおかしな男ではあるが、決して無節操な訳ではない。前々から冗談めかして「やりたいんならどーぞ」としなだれ掛かったりなどしていたが、俺以外の誰かにそんな真似をしているところは一度も見たことなかった。

「好きなだけ居ろ」とあの人は言った。「ヅチくん」という、本名を何と言うのか判らない見澤の呼び名からして既に不可解だ。温和な表情の内側に何とも俺には到底推し量れない何かが潜んでいるような感覚を、今朝あの顔を見て俺は持たずには居られなかった。

「ヅチくんはね、俺とセックスしたくて一緒に居るんじゃないんだよね」

 家事を終えた見澤に「遊び行こうぜ」と引っ張っられるまま、近所の駅から電車を乗り継いだ。俺たちが着いたのは酷暑の競馬場だ。見澤は顔に比例して小ぎれいな格好だが、俺は少しく落ち着かない。昨日着ていた一揃いは、見澤とヅチくんの服と一緒に肩身狭く干されているので、俺は見澤のTシャツとヅチくんのジーンズを借りているのだ。足の長さがこれほど違うのかと裾を折り返しながら溜め息が出た。

「……でも、彼氏なんじゃないのか?」

「彼氏だよ? 彼氏ってーかね、俺のお婿さん、だんなさま」

 正午過ぎ、じりじり照り付ける陽射しの下、いっそ陽炎さえ立ってもいいくらい。しかし小さな競馬場内は閑散とは言いがたく、中高年の男を中心として、新聞片手に馬券の検討をしている。若い客は俺たちぐらいのものだ。

「幼馴染なんだよね、ヅチくん」

 見澤は売店で氷メロンを買って来て、舌を真ッ緑にしながらストローでしゃくって美味そうに食べる。

「ん」

 一口盛って、「あんたも」

 氷温が俺を誘った。

 レースの馬券発売締め切り時刻が迫って券売機の周囲は混雑しているはずだし、冷房の入った室内スタンドもそこそこの人の入りだろうが、日向の屋外スタンドに陣取る酔狂は少ない。見澤は「あちー」と呟いて上半身裸になると、ごろんと横になる。「眩しい」と、手を伸ばして俺の麦藁帽子を欲すると、それを顔に乗せた。

「……俺よりも年上、だよな?」

 ん? と帽子を少し持ち上げて、見澤が暗がりから目を向ける。

「だよ。二十五だからずっと上。大人だよ」

 顔は年より若く見えたが、あの落ち着きは重ねた年輪によるものか。しかし二十五だろうが三十だろうが、自分の恋人が男を連れ込んだ翌朝に、その男と一緒に食卓を囲むなんてことが出来るものだろうか?

「普通だったら怒ったりするもんなんじゃないのか。俺、殴られる覚悟決めて襖開けたんだけど」

 あは、と見澤が帽子の中で笑い声を篭らせた。それから少しの間、ひくひくと細い腹を痙攣させる。俺は今少し、その身体、その膚に、自分が明確な欲を持って触れたことがあったということを信じられない気でいる。

「ヅチくんフツーじゃないから」

 見澤はおかしそうに笑う。その言葉はざらりと俺の外耳道を擦った。

「同性愛がおかしいって言った訳じゃない」

「ああ、ううん、違う、そうじゃなくってね」

 ひょいと起き上がった拍子で、麦藁帽子が顔から零れ落ちた。コロコロと階段状のスタンドを転げ落ちて行くのを、見澤が慌てて拾いに行く。付着した砂埃を丁寧に手のひらで払いながら「ごめん」と俺の熱くなった黒髪に乗せた。見澤の栗色の髪は、僅かな風も逃さず孕んでふわりと揺れていた。

「ヅチくんは俺が幸せだったらそれでいいんだって。俺も大体そう。ヅチくんが幸せだったらいいなって思ってるし、ヅチくんが幸せになるために、俺じゃない相手、それこそ例えば女の人とセックスしたりしても俺は平気だし。あんたにしたってそうだよ。あんたが俺とさ、酔っ払った勢いでも一緒に寝たことでさ、ちょっとの時間でも楽に過ごせたんなら俺も幸せ、んで俺が幸せならヅチくん幸せ、ヅチくん幸せなら俺も幸せ、でもって俺たちが幸せならあんたも幸せになってくれたら素敵だよなー」

 見澤は「ちょっとトイレ」とシャツを着直して、ひょいと居なくなる。

 スタンドに座ったままの俺は、少しばかりぼうっとした。見澤がひょいひょいと並べて見せた言葉の中味を、上手く飲み込むことが出来ない。

「ヅチくんからメール来てたー」

 後ろから、頬に冷たい紙コップを当てられて、思わず飛び上がった。手渡されたのはジンジャーエールで、ひょっとしたらこの男は俺とドリンクバーに行くたびに、毎度毎度いの一番にジンジャーエールを注いで来るのを見ていたのかもしれない。

「『気にしてるのかな』ってー、心配してたよ。あんたがさ、俺とやっちゃったこと。ヅチくんは『何も気にしなくていいのに』って。今朝さ、あのひと割りと素っ気無かったから、もっと何か言うべきだったのかって。マジメだから結構気にするんだよね、そういうとこ」

 見澤は携帯を俺に開いて見せる。発信者「ヅチくん」曰く、「俺はまったく問題ないから、あの子にもそう伝えて。本当に何も気にしないでいいからと。あと晩飯のカレーは豚肉がいいと言ったけどあの子が豚肉嫌いなら何でもいい」

「あんた豚肉嫌いじゃなかったよね?」

「うん……」

「じゃあいいね、ほっとこう」

 またシャツを脱いでごろんと横になる、「少し昼寝していい? 夕べ夜更かししたから流石にちょっと疲れたわ」

 無許可で俺の麦藁をまた取って顔に乗せる。諸々言いたいことがあった中で、「帽子、……汗臭くないか?」と、多分、最もどうでもいい部類のことを俺は訊いていた。

「平気、ってかあんたそんな汗臭くないよね」

 そして俺に在ったもっと重要な疑問符たちはそのまま俺の頭の中で蹲ってしまう。見澤の腹は規則正しく上下を始め、寝入ってしまっていることを俺に教えていた。なあ、と声を掛けることも憚られて―だって彼の睡眠時間が短かったのは間違いなく俺のせいなのだ―俺は黙ったままジンジャーエールに唇をつけた。

「……あんたさあ」

 見澤が帽子の中から声を出した。眠っては居なかったらしい。

「一緒に居ようよ、……俺らの、あの部屋でさ、一緒に暮らさない?」

 夏陽に照らされた見澤の白い腹部が眩しい。

「俺は、あんたのことが好きだ。ヅチくんもあんたのこと好きだよ」

 どうして、と俺が問う前に、「理屈じゃない」と見澤は少し強い声を出した。俺の問いに対して、最も妥当性に事欠いた答えを投げつけられて、俺はもう一口、ジンジャーエールに口をつけた。紙コップの六分目まで埋まった氷が、上唇をざらりとした肌触りで濡らす。

 競走開始のファンファーレが場内に流れる。これまでにも何度か、見澤を連れてこの競馬場にやってきたことがある。最後に来たのは先月の終わり、何もかもがあの時とは違う。

「あんたに居て欲しいから、ただそれだけ。俺はあんたのこと好き、でもって、あんたも俺のこと嫌いじゃないだろ? 一緒に居てお互い楽しいなら、いいじゃん」

 見澤は極めて独善的な物言いをした。俺が言葉を捜すのに手間取っている間に、

「俺らと家族になろうよ」

 言ってから、見澤は黙った。

 呆気に取られたままの俺の、言葉を捜す時間が長すぎたか、そっと帽子をどけて、隙間から俺を見る。暗がりからの視線とぶつかった。また自分の視界を塞いで、……薄い胸板を一つ大きく上下させた。

「家族が居ないって、辛いことだよ」

 麦藁の中で声が篭る、「俺も、両親いないから判るよ。だけど俺にはヅチくんが居てくれる。あんたにも、ずっとさ、離れててもじーちゃんが居て、其れが多分さ、あんまちゃんと考えないでも、自然と心の支えになってたんだろ。だけど亡くなって、……俺は判るよ、あんたずっと平気なふりしてたけど、ホントはすげえ悲しんでんだ。あんたは今、一人ぼっちでさ、……俺はヅチくんほど立派な人間じゃないけど、でもよく喋って騒がしいからさ、あんたが寂しい時間をさ、埋めてあげることくらいは出来ると思ってんだ」

 何を馬鹿なこと言ってんだ、と言ってしまってもいいはずだ。しかし見澤はおかしなことを言っているとは微塵も思っていないような生真面目な顔で、俺を見詰めている。

 ただ、見澤がまた一度大きく胸を上下させたときに、俺は先程見澤が「ヅチくん」について使った言葉を思い出す、そして彼の、あの何処までも悠然と在る姿を。

「あんたが嫌だって言うなら仕方ないよ? でも、あんたさえいいなら、俺たちん処に一緒に居よう? ヅチくんも同じ気持ちだよ」

 少し離れたところからの歓声で、レースが終わっていたことを知る。歓声はどよめきに変わり、長い沈黙を経て、二百万を越える大穴馬券が出たことを、電光掲示板が告げた。

「……まあ、そんなすぐ決めなくてもいいけどさ。後期始まるまで、まだ時間もあるしね」

 ほんの少し、照れたように見澤が笑って、昼寝を諦めたのか「はい」と俺に帽子を返した。うっすら汗ばんだ顔を手のひらで拭って、立ち上がる。

「とりあえずあんたがどうするか決めるまではさ、ウチに居てよ。ヅチくん、いっつも帰り遅いからさ、俺寂しいのね。あんたが居てくれれば、相手してもらえるでしょ?」

 其処まで言ってから、……慌てたように「いやあの、喋り相手ね、してくれるっしょ?」と言葉を付け足す。俺は何とも言えないまま、曖昧に頷くぐらいのことは出来るのだった。

 せっかく競馬場に来たのに一レースも買わないで帰るのは勿体無いと、見澤は馬券を一枚だけ買った。一番と十番の連複馬券、この二頭で一着二着が決まれば的中という馬券。

「あんたの誕生日、十月一日だから」

 そんなもので当たるわけがないと思っていたのに、当たった。ささやかな配当金ではあったけれど、馬券を換金した見澤はその足で俺の分のフランクフルトを買ってきた。

 

 

 

 

 住宅街の中の銭湯は閑散としていた。二十年も前ならば夕食後というこの時間帯には近所から人々が集い憩う場となっていただろうが、今では壁に描かれた白松の砂浜は静けさの中に在る。家の風呂だと足を伸ばせないから週に何度かこの銭湯に来るのだと言って、見澤は俺を連れてきた。

「俺が昔住んでたところってさ、温泉街だったんだよ」

 見澤は湯の中で細く長い足をふわふわと揺らしながら、問わず語りに話し始めた。これまで見澤は自分の家族の話をすることはなかったし、「両親いない」と教えられた以上は其処は不可侵な気がしたから、興味を惹かれても俺は黙っている。

「だからさー、風呂入んの大好き。あったけーし、気持ちいいよなー。俺んち、九州のさ、田舎のほうだったんだけど。……生まれは東京なんだけどさ、小五んときに親死んで、九州の親戚んとこで暮らすようになってね」

「じゃあ、ヅチくんもそっちの人なのか?」

「んーん、ヅチくんは東京。俺のね、こっちに居た頃の幼馴染。転校することになってさ、ヅチくんと別れるの寂しかったなあ。その頃にはもうヅチくんのお嫁さんだったからさ」

「……小五で?」

「うん、初めてやったのはね、もっと前。九歳で処女捨ててたから」

 他に人が殆ど居ないのが救いだ。見澤はとびきり飄然と笑って見せて、

「すごいでしょ、……つっても精子出たのは十歳になってからだったけど」

 いつものふありとした笑顔ではあるが、それだけに掴み所がなく、底も知れない。

 話の矛先を物騒なほうから逸らしたくて、

「ヅチくんは、……その、『ヅチくん』っていうのは、本名なのか?」

 ずっと気になっていたことを訊いた。見澤は俺の言葉に応じて、無難なほうへ一歩。

「本名じゃないよ、……どんな名前さ」

「だって、お前が『ヅチくん』言ってるから」

 今朝一度顔を合わせただけの人、見澤の彼氏、恋人、見澤曰く「お婿さん」の人。

「いいよ、あの人のことは『ヅチくん』って呼んであげて。そのほうがあの人も嬉しい」

 少し暑いと見澤は立ち上がり、尻を浴槽の縁に乗せた。

「ヅチ、くん……」

 ヅチくんと見澤昴星の少年期に何が在ったかは訊いてみたい気はした。あの五つ年上の人が、見澤が言う「理屈じゃない」理由において俺を平気で受容する根拠が何処にあるのかは、知っておいたっていい。そう思うのは、俺があの部屋に居着くことを、俺自身が肯定し始めているからだろうか。

 風呂上がり、見澤がフルーツ牛乳を二本買って来た。俺に何も訊かず。

「だってさ、あんた大学の自販機で時々いちごミルクとか買ってたじゃん?」

 では見澤がどんな飲み物が好きだったか、……メロンソーダ好きだよなこいつ、ドリンクバーでいつも注いでくるのを思い出した。

 すぐ傍に同性の―同性愛者の―裸が在る。俺が夕べ触れたらしい、裸だ。見澤は腰にタオル一枚だけの格好で、美味そうにフルーツ牛乳を飲み干す。

「ッあー……、マジうめー、やっぱ風呂上りはフルーツ牛乳だよな!」

 銭湯では裸で居るのが当然ではあるが、それでも何か、俺に見澤の無防備であることは悩ましく感じられてならない。何を意識しているのかと我ながら阿呆らしいが、しかし見澤の肢体は中性的だ。裸の見澤と風呂に入っている間中、時折眼で追ってしまっていたことも事実である。

 右足の付け根に傷跡が在ることにも気付いた。

 場所が場所だけに、益々じろじろと見るわけには行かないが、トランクスを穿いてしまえば隠れる場所に、五センチほど、くっきりと残っている。透き通って見える膚に於いて、其処だけが異質に濁りを帯びていた。

「夕べから思ってたんだけど、あんたさ、結構アレだな、ガッチリしてんのな」

 目を逸らして扇風機に当たっていた俺の背中に、空き瓶の底を当てた。

「ヅチくんひょろっとしてる方だからさ。力はすげー強いんだけどね」

 くす、と笑って、「俺、逞しいの好きだよ」と指先を俺の上腕に滑らせた。何処までも、何処までも、何処までも飄然と言って退ける。俺が表情を変えぬよう努力すればするほど、見澤は俺の頬がひきつるのを嬉しそうに微笑んで眺めていた。

 昼間、地上を蹂躙し続けた太陽が去っても熱帯夜、見澤はビーチサンダル、俺もヅチくんのサンダルを穿いて辿る帰り道で、ゆっくり歩いているのにまた汗が滲んで仕方がない。それでも暑苦しくなどないと言うように、見澤は俺の右手を引いて歩く。彼は細い身体にタンクトップとハーフパンツだけ身に付けて、俺は見澤に借りたスウェットと半袖のシャツ、穿いているのはヅチくんの下着。見澤の身体が華奢であることをウエストのゴムが教える。

「嬉しいなあ」

 ぼんやりとした眼の月が見下ろすから、影も輪郭を膨らまし、俺たちは二つに分かれたり一つになったりした。残熱の上を、見澤が引きずって歩くサンダルの音が長く続いて、俺は左手の中で煙草のパックを縦にしたり横にしたりしながら、ただ付いて行く。

 明日はどうなる? 明後日はどうする? 「いつまで居る?」という自問は首筋に嫌な肌触りを与えるが、しかし今に限っては、ただ俺は有難がって居るばかりでいいようにさえ思われる。委ねられた甘美な選択を安易に選べるような俺ではないけれど、それでも見澤は俺に「好きだよ」と言った。

 同性愛者ではないつもりの俺が、しかし、喜んでいるのは否定できない。一人、真ッ暗、孤独、地獄、思い込んで、膝を抱えていた両手を解いて、「こっち」と見澤が引っ張って、見上げれば弱々しいながらも光が其処にあることを、俺に気付かせる。

「ただいま、と」

 サンダルを脱いで、三和土に裸足を乗せた見澤を見て、口の中、一度、歯を食い縛って、

「……ただい、ま」

 言った俺に、わざわざ一度振り返って、「お帰りなさいませ」と見澤が手を差し伸べる。台所の床に広げたままの卓袱台の上に灰皿を置いた。座布団を三つ当たり前のように並べて冷蔵庫を覗き込んだ見澤が「ビールあるけど飲むー?」と訊く。

「いい。夕べみたいになったら困るし」

 そう? じゃあ俺だけ貰うねと、軽やかな音を立てて蓋を開けた缶に直接口を付けて、見澤が喉を鳴らした。

「あー、あのね、有馬、俺は困んないよ?」

「……俺が困るっていうか」

「それはアレ? 男とセックスしちゃったことを差してゆってるのかな」

 見澤はまた一口、発泡酒を煽る。ハーフパンツは脱いで、細い膝を立てて、幸せそうに溜め息を吐く頬はすぐに桜色になる。

「其れも、……まあ、ある。ヅチくんに申し訳ないことをしたって、やっぱり思うし」

「だからー其れは気にしなくていいのになー。……他にも?」

「……あんまみっともなくなるのは、嫌だな」

 見澤が発泡酒を飲むなら、俺は煙草を吸う。灰が舞い上がらないようにと、見澤は扇風機の顔を壁に向けた。こういう細々したことに、気が廻る男だ。

「俺は困んないけど」

「俺が困る、……人に迷惑掛けるのは嫌だ」

 くすくす、楽しげに見澤はまた細い首を逸らして、煙草を咥える。

「アレだよ? 一番迷惑じゃないのは、ほら、あんたが俺とセックスしてくれんのが一番だなー。そんな細かいこと気にしないでさ。あのね、俺は割りとアレだよ夕べ、楽しかったし、幸せだったんだよ? あんたが俺で射精してくれたのがすっげー嬉しかった」

 普段からふわついた微笑み、アルコールによってもう一割ほど柔らかく蕩かして見澤は言う。自分の言葉は少しも物騒ではない、此れが最も平穏なやり方なのだと信じて居るかのように。

「まあ、欲を言えばね、もっと背中痛くないトコでしたかったんだけど」

 整理すると、見澤とヅチくんの部屋は2K。俺たちが今居るのは四畳ほどのキッチンスペースで、俺の右後ろに玄関、正面に襖が二つあり、左の四畳半が今朝俺の眼を覚ました部屋、右の部屋は、見澤とヅチくんの部屋らしく、今朝六畳間が覗き見えた。右手にはトイレと風呂がある。

 俺が夕べ見澤を抱いて、今朝目を醒ましたのは左の四畳半だ。右の六畳間は夫婦の寝室だろう。

「どうして、あの、お前はさ」

 俺の言葉はそういう部分に至るとどうしてもぎこちなくなった。「俺と、セックスがしたい、の?」

「そりゃあ……、ねえ?」

 首を傾げる仕草を評するときに「嫣然」なんて言葉が思い浮かぶ。見澤の長い髪は銭湯から此処に来るまで観察している限りでは、バスタオルで擦って拭いたほかはドライヤーもかけていなかった。シャンプーもコンディショナーも、銭湯備え付けのもので、だから見澤の髪は俺と同じ匂いがするはずだ。しかし、彼の纏う妙な艶かしさと言ったら。元々麗しい見目をしていることは判っていたが、何だ、昨日、今日、違う、夕べからだ。

 匂い立つ、と言っていいのだろうか。その首筋から指先からありとあらゆるところから、艶々と音を立てて甘ったるく香るものがある。俺の鼻腔はその匂いを嗅ぎ取ることには、夕べから、敏感になってしまっている感が在る。

「男だもん、したいもんはしたいべさ。ただまー無理強いはしませんけどねー」

 恐らく、見澤は変わっていない、変わってしまったのは俺である。

 見澤は性欲を感じさせない顔で、したい、と言う。

 座布団に尻の半分を乗せて胡坐をかく俺は、奇妙な切迫感に襲われている。するべきなのだろうか、そんなことを考えてしまうのだ。見澤の言を全て信じるならば、俺が見澤と「する」ことで見澤は愉快な気持ちになれるのだし、見澤がハッピーならばヅチくんも同様にハッピーになる……。

 この一昼夜で明らかに俺は二人によって救われたのだ。あがなえるものが他に何も無いのだとしたら。

 同性愛者に強い嫌悪感があるわけではない。もし俺にそういうものが備わっていたなら、見澤が同性愛者と知った時点で彼から離れていただろう。

 飲み干したビールの缶の中を漱ぎ、空き缶入れにしているらしいゴミ箱脇のビニール袋の中に入れて、見澤は俺の背中に座る。座って、何をするわけでもない。俺は少し緊張して、なかなか二本目の煙草に火をつけられないで居た。

「俺はしたいなー。責任があるもん」

 振り返らないままで、どうにか煙草を咥えて訊き返した俺に、うん、見澤は少し幼げな、甘ったるい声で言う。

「あんたに、男とセックスさせちゃった責任。あんたの童貞を奪っちゃった責任」

 思わず振り返ったところ、膝に顎を乗せてにやにや笑う童顔がある。

「言ってたよ夕べ。ちょっと意外だったなー、あんた背ぇ高くてカッコいーし、割りとそういうの一杯してると思ってたからさ。だから責任、……まーそんなん無くても俺は元々、あんたと寝たいって思ってたけどさ」

「……どうして」

「言ったじゃん、俺あんたのことが好きだから。もちろん、ずっと大事な友達だと思っててさ。だけど、今はもっとすごい、好き」

 また、根拠の明確でないことを見澤は言った。どうしてと訊いたって答えてくれないことはもう判っている。無駄な努力と知りつつも思考を巡らすが答えは見つからず、対して見澤には俺の後頭部の中を精確に覗き込む術があるように思えてならない。頭上の蛍光灯は青白い光をぱらぱらと鳴らしながら、時折くしゃみをするように瞬く。そろそろ替えどきなんだよねと、見澤が見上げて呟いた。

「有馬」

 ぼうっと温かい指先が、俺の右の耳たぶを摘む。俺が一瞬首を竦めた以外はリアクションを堪えていることも、見澤は判っているはずだ。勢いを得たように、俺のシャツを捲り上げて、背中から脇腹にかけて掌を這い入り込ませてくる、俺はこの期に及んでなお、火を点けてしまった煙草を吸うのをやめないで居る。

 見澤の掌はゆっくりと上がって、俺の胸骨の上に立ち止まる。

 その唇から小さな笑みが溢れた。何を指摘したいのか判る。俺は大いに、大いに、緊張していた。

 見澤に夕べ俺が、俺の記憶の外で言ったように、俺は女と寝たことがない。そういう相手を、もちろんいつかは作るつもりで、しかしそれにはまだ機が熟していないのだと思い込んで過ごしているうちに、気付けば二十一の誕生日を一月と少し後に控えている俺だ。

「嫌がんないの?」

 一方で慣れきった様子の見澤は楽しげに笑って居る。心臓が咽頭を震わせるのをどうにか堪えて「お前は、割りとこういうの、ヅチくん以外の、人とするの?」搾り出したのに、言葉も無様に震えた。

 俺の脈拍を測るようにしばらく黙って考えてから、

「するっちゃーするけど、基本的にはしない」

「するのか」

「昔はね。ヅチくんは幼馴染だけど、俺が九州行っちゃってからは離れ離れだったから。こうやって暮らすようになったのは大学入ってしばらくしてからでさ、大学入ってからはまだしてないけど、高校ぐらいまでは割りとね、誰とでもしてたかな。探すと結構男でもオッケーって奴居てさ」

 だから大学入ってからはあんたが初めての男だよ、と悪戯っぽく言って、「ぎゅ」と俺の乳首を抓った。

 俺が、もういい加減短くなっている煙草を押し潰したら、見澤はどうするのだろうか。

 俺の中に現状見澤に向かうそういう気持ちはまるで起こっては来ない。

 しかし、探せば出てくるのかもしれない、案外に浅いところから。もとより俺が持ち合わせていない感情ならば、いまこの瞬間だって存在しないのだから。

 見澤の手はそういうものを探し当てることには、大層長けているように思えた。いや、とっくにその掌の上に載せているのかも、その味さえも知っているのかも。だって俺は既に見澤を一度抱いているのだ。

「嫌がんないと、俺、あんたにまたキスするよ。でもって、押し倒して無理やり襲っちゃうかもしんないね。そんくらい今、やりたいから。でももし嫌なら、まあそんときはさ、一人で、この右手で我慢するよ? もうガキじゃないしね。中坊の頃とかはさ、襲って相手の子泣かせちゃったりしたこともあるけど」

「いいよ」

 指先にちりりとした熱さを感じた。灰皿に押し付けたとき、煙草はもう殆どフィルタしか残っていなかった。

「いいの?」

「……いいんだと、思う」

 行く場所も戻る場所もない俺に、一先ず「とどまる」という選択肢を与えてくれた相手に感謝の気持ちを持たないわけにはいかない。

 見澤はぴったりと俺の背中に胸を当てた。平べったく、硬い。見澤は美しいが、紛うことなく俺と同じ男なのだ。しかし、見澤がヅチくんや俺に向けて発する言葉や俺がその言葉に心を震わすからくりに、わざわざ「同性」なんて冠を付けて無理矢理に鉄線で括るような真似は、しなくていい。

「怖くない?」

「……ん?」

「ゲイになんの、怖くない?」

 次の一本を欲する喉を、唾を一つ飲み込むことで堪えた。

「怖いのは……、その、そういうもんになることよりも、……ヅチくん」

 見澤の顎が、俺の肩に乗った。

「あんたもなかなかしつこいねえ……」

 だが俺はそんなに可笑しいことを言っている自覚も無い。

「いいんだよ、もう、楽しいもんは楽しいってね、割り切ってね、俺と遊んでーって言ってんの。あんたにさ、平身低頭して『抱いて』って言ってるんだと思やいいじゃん」

「……誰が平身低頭なんてしてるんだ」

「心の中ではそんな感じよ」

 変わった奴だな、と、初めて会ったときに思ったことを改めて思う。しかしその「変わった奴」が今俺の精神の安定を支えていることも事実であり、小汚い考え方だとしても、俺が対価を払うことによって今少しこの時間が延びるのならばとも思うのだ。

「キスしていい?」

 首に纏わりついて負ぶさって、見澤が訊く。

 口は、まだ少し、嫌かな、そんな風に思ったことを、見澤が気付いたはずもないのに、右の頬に唇が下りた。かすかにひんやりした感触の当たる瞬間に、首筋が少し強張ったのは否定できないが。

 例えば「それ美味い?」「うん」「んじゃー一口頂戴」紙パックにブッ刺したストローで回し飲みするのに抵抗は無かったし、今日の昼間だって競馬場で、カキ氷、フランクフルトソーセージ。……友達同士ならそんなこと一々気にするほうが可笑しいだろう?

「無精髭め、このちくちくめ」

 左の頬へ掌が廻り、俺の顎から頬にかけて、薄いながらも伸びて自己主張する細い突起を弄くる。

「もっかい、いい?」

 わざわざ訊かなくてもいいと口を開くのも面倒で、ただ俺は頷いた。見澤が妙に大事そうに、俺の頬へ再び口付ける。

 女とだってキスをしたことが無いわけだ。だから、辛いことを言ってしまうなら、俺のファーストキスの相手は見澤だ、そしてセカンド、サード。大事にすべきは俺の方かもしれないが、状況の異常さが齎す興奮によって、自分の身体の優先順位さえも覚束ないで居る。

 見澤が、大事そうに四度目のキスを、俺の顎を捉えて、唇にした。

「……ビール臭いな」

「あんたは煙草臭えよ」

 こんなものか、という気もするし、もう取り返しがつかない気もするし、ただ俺は鼓動とは切り離した感情が妙に落ち着いて緩やかに廻ることで、却って自分が極限状態まで緊張していることを知る。心臓は相変わらず急速鼓動を繰り返している一方で、頭の芯は冷えていて、その頭に熱を送るために益々心臓は昂ぶって胸苦しさを感じる。それで居て俺は水を飲みたいとか横になりたいとか、真ッ当な欲は何一つ浮かばず、一歩一歩後戻り出来ないことを確かめながらも、例えばそう、見澤の手によって壊されていくならいいなどと思うし、壊されたことを責めるつもりもない。俺は同性愛者ではなくて、その真似事をするのは全て見澤の手に拠るのだと、卑怯極まりないことを思って。

 それは嫌だ、卑怯なのは、嫌だ。真摯に向き合わないような自分では居たくない、と。

「俺は、さ。お前が俺のこと好きな理由判んないけど、でも、お前が俺のこと好きで居てくれるのは嬉しい」

 眩暈のままにそう言った。

 顔を上げたとき、見澤は卓袱台の上に座っていた。膝を行儀悪く組んで笑っている。

「そう? なら俺も嬉しいなー。迷惑がられてたらどうしようって、一応俺みたいなのでも心配はしてたんだよ」

 見澤は組んだ足を解いた。

「俺さ、もう、ほら、勃起してんだよ」

 トランクスの前の膨らみは、見澤が「したい」と言う冗談っぽい声色とはまるで違う、何処よりも正直な標識だった。俺の顔が一方通行出口のような顔をしていなければいいが。

「あんたはまだみたいだねー」

「……うん」

「俺が勃起さしてやってもいい? それとも、俺に触られんのは嫌?」

 見澤の掌が俺の髪に載る。俺の重たい髪を、何度も何度も撫ぜながら訊く。見澤の長い髪は俺よりもヴォリュームがあるように見える一方で、少しも重ッ苦しくないし、乾いているはずなのに未だ潤って艶っぽく映る。茶髪は直毛ではなく、緩やかなカーブを巻いてあちこちへ毛先を散らして、蛍光灯の青い光を撒いている。大学に行くときには整髪料を上手に使って、彼自身が鬱陶しくないように纏めているのだが、ばっさりと降ろしたままの今だってむさ苦しさとは無縁である。

 長い髪、甘やかな輪郭の童顔は、曖昧さを俺に思わせはするけれど。

 其れでも間違いなく男の顔をしている。男なら、そういうものが付いていたって可笑しくないし、もう、それでいい。

「お前がさ、もし、女だったりしたら」

 首を傾げた見澤に、構わず俺は続けた。「夕べみたいに、酔った勢いで一緒に寝たりしちゃったら、大変なことになってるだろうな」

「あー……、うーん、どうだろ。付き合ってんのがヅチくんだったら一緒じゃない? 何で? やっぱり男は嫌?」

 そうじゃないよ、と俺は俺を撫ぜる手に手を載せて止めた。さっきから前髪が鼻先を擽って、むずむずする。

「寧ろ、お前が男で居てくれたから助かったと思ってる。女だったら来らんないよ。カッコつけてさ、で、夕べのうちに畳と同化して剥がれなくなってただろうな」

 此れは九分九厘本当の気持ちだ。

「女だって一緒だよ、弱味見せられたら母性本能擽られるんじゃない?」

「ただ、其れに縋るには、多少なりともプライドを傷付けなきゃなんない」

「俺に此れが生えててよかったってこと?」

「生えてなかったら男じゃないだろ」

「まあ、そうだね。ヅチくんも昔っから俺の此れ好きって言ってくれてたしなー。ちっこいのにね」

 でもね、見澤は自分の下着をじいっと見下ろして、少し唇を尖らして言う、「ガキの頃は要らないって思ってたなー」

 その睫の奥に、ほんの少し暗い色が覗き見えた、気がした。訊くべきか訊かぬべきか、俺が迷った一瞬を経て、見澤はまた笑う。

「触ってみる?」

 曖昧に笑って、ひとまずは遠慮した。

 見澤は「じゃあ、おいで」と俺の手を握って立ち上がって引っ張る。導かれる先は左の四畳半ではなくて、夫婦の寝室、右の六畳間だった。丁度台所からは死角になるところに畳まれていた布団を広げて敷いて、その上に左足を載せて、「ようこそー、おいでませラヴリィプレイス」訳の判らないことを見澤が言った。ほんの少し頬が紅潮していることに、台所よりも明るいドーナツ型蛍光灯の光の下では気付いてしまう。アルコールのせいでないことを祈る俺は、耳まで真ッ赤で居ることを見澤に観られている。

「ひひ、……やべえ、嬉しいな」

 はにかんだように笑うと、童顔は益々幼げになる。「やっぱ、アレだなー、好きな人と出来ンのって、嬉しいわ」

 もう断り無く俺の首に纏わり付いて、「あー、マジ嬉しい、すっげー……、嬉しいよ」呟きながら、うっすら汗ばんでいる俺の首を、ぺろりと舐めた。

「座って。してあげる」

 何を、と問う野暮はしなかった。俺が敷布団の上に尻を落とすと、「最後にもう一度」と。まだ口を開く勇気が出ない俺をからかうように、一度、唇を舌が這った。「元気出せよ」

 何、と訊き返した処に、「此処」とスウェットの上から触られて、思わず身が強張った。

「昨日はこれ、しなかったからなー。うん、アレだ、やっぱりめっちゃニヤニヤする」

「……ニヤニヤ?」

「んー、やっぱ嬉しい」

 スウェットのウエストを引っ張って、中の下着から、見澤は俺を引っ張り出した。申し訳ないが当然のように、俺はまだ何の反応も出来ていない。其れよりも、―男であっても―人にじろじろ其処を見られているということが恥ずかしくて仕方が無い。

 触れられるだけで、何だか気が遠くなる。

「寝っ転がって」

 俺の腰や肘がぎしぎしと鳴るのを少し笑って、天井を見上げた。古いアパートの、天井の木目を眺めているのが一番楽だろうと思い決めたのに、シャツを捲られて心臓の辺り、ひやりとした唇が触れた瞬間に、つい顎を引いて見てしまう。

「すぐには勃たないだろうけどさ、……してやる。愛してあげる」

 俺の右の乳首に舌を這わせながら見澤が発泡酒の香りをさせて言う。紅い舌先は綺麗でも何でもないはずの俺の乳首の粒を辿る。唇を開けて包み込まれたと思えば、内側で舌がくるりくるり、小さな円を何度も描く。

 長い睫を伏せてそうする見澤を見下ろしながら、未だ夢の中に居るような俺は、しかしこれが夢だとして、今この瞬間だけは悪夢ではないと思うのだ。こうしている間、俺は、俺さえ気付かないほど茫洋とした痛みと自分との間に、見澤が立ち塞がって居てくれるような気になる。細い体の何処から生まれるのか、俺には判然としないがとにかく彼は力を帯びていて、「俺が護ってやるから」……そんな風に、微笑を浮かべて言ってくれているような気になる。

「有馬、好きだよ……、すげー、大好きだよ」

 声は俺の中へ、スムーズに浸透していく。

 こんな言葉を掛けてくれる存在がこの世に居ることを、俺は一度も想像したことがなかった。胸がぎうっときつく締め上げられ、喉の奥が痛くなって、鼻が塞がる。

 俺も、もう、お前が好きなんだと思う。

 言葉にすることは出来なかった。声に出して、自分の耳が聴いた瞬間、何もかもが壊れてしまいそうな気がして怖かったのだと思う。俺はほとんど何も言わず、導かれるままに見澤を抱いた。もう見澤を男か女かなどということは考えていなかった。ただ俺を幸福にし、だから俺が幸福にしなければならない対象でしかない。ほぐれてほつれて空回る思考の糸車、俺はひたすらにそんなことを考えていた。

「有馬……、あるば……ッ」

 俺の掌の中で、見澤の性器が爆ぜるように鼓動を刻む。

 後悔が無い訳ではない。禁忌を犯したという感覚が見澤の体重より余ッ程重く俺の両肩にはのしかかる。俺は見澤の身体を自分のものにしたいとは決して思っていないくせに、しかし今この瞬間には、俺と身を交わしたことで降る罰からその身を護れるならば俺は何だって出来ると、芯まで冷め切っているはずの理性を確かに持っていながら其処まで頭の沸いたことを思うのだ。

 

 

 

 

「もういいの?」

 暗闇の台所の床、スーツを脱ぎネクタイは外し、しかしワイシャツの裾はまだベルトの中に入れたままという格好で、ヅチくんがきちんと正座してカレーライスを食べていた。襖を開けたところに見上げて暢気にそう言われれば、どんな肝の据わった男だって驚くのは当然だろう。

「あー、おかえりー。遅かったね」

「ただいま。電車が事故で止まったんだ。……カレー美味いよ」

「そりゃそうだよ、俺が作ったんだもん」

 全裸のままの俺と見澤は、シャワーを浴びるつもりだった。髪の毛がしっとりするほどに汗をかいた、シャワーは互いにとって必要で、一緒に浴びようと言った見澤に俺はもう首を横に振る理由もなかった。要するに俺は股間のだらしないものを丸出しにした状態で、たった今抱いた相手の恋人と顔を合わせているのである。へルタースケルターは当然。しかしヅチくんは「次回は福神漬も買って来いよ」と言い、辛さに滲んだ汗を手の甲で拭う。

「あー、忘れてた。……何食ってんの?」

「新生姜の浅漬け」

「辛くない?」

「辛いよ。でも不味くは無い」

 唇を戦慄かせるほかは、とりあえず股間のものを手で隠すぐらいしか出来ることのない俺に、ヅチくんは小さく微笑んで、

「ただいま」

 と言う。

「お、……っおか、えりなさい」

 俺の言い方が可笑しかったからか、ヅチくんの口元で微笑が零れる。汗をかいたグラスの麦茶を飲んで、

「男の身体の中も悪くないだろ」

 そう問う。俺にどんな答えが用意できる? 目元に煌いた悪戯っぽい光を見るに、やはり二十五よりも少し下に見えた。どぎまぎしている俺を尻目に、見澤が二人分のタオルと下着を用意する。入ろ、と見澤に促されるままに引っ張られてユニットバスに入る俺の尻に、

「狭いだろうけど、ごゆっくり」

 ヅチくんの声が当たった。

「ああいう人なの」

 見澤はにっこり笑う。五分前まで俺が三回抱いた男は、抱く前と少しも変わらぬ顔をしているはず、しかし俺には何もかもが違って見えた。電球の光の下の相貌は、目元口元頬額何処をとっても眩いほどに美しく思えてならない。直視できるようなものではない。

「セックス、愉しかった?」

 正直に頷くと、もう許可も無く唇を当てられる。そんな風にされていいような俺ではない気がする。

「そっかー、よかった。俺もすげー愉しかったよ。あんたと俺って身体の相性いいのかもしんないね」

 しかし見澤は、互い汗ばんだ身体を気にすることも無く俺に抱き付いて、「すげー……、すげー嬉しい」と囁く。

「ずっと……、あんたが寂しくないようにさ、俺、あんたの傍に居るよ。一緒に居る。あんたのこと護ってあげる、俺に……、あんたを護らせて」

 意味も理由も不明瞭なままだ、しかし見澤の声が心底から発されたものであるということくらい、俺にも判る。

 そしてその申し出が俺にとって有難く、有体に言えば好都合であるということも。

 だからこっくりと、俺は頷いた。

 それから見澤は俺を座らせ、頭のてっぺんから洗い始めた。「かゆいとこない?」時折そんな風に訊きながら、俺の全身、それこそ「其処はいい」と言ったのに足の間までも、優しい力で洗い清めた。

 何だか、甘やかされている。

 だが、悪い気分はしない。見澤はどうしてか矢鱈と嬉しそうで、そんな顔を見ていると此れが本当に誰のことも苦しめたりしないのならば良いではないかという、とんでもなく傲慢で甘ったるい考えが去来する。俺という寄る辺無き存在も、居ることで何らかの連鎖を生むのだと見澤に言われているように錯覚出来るのだ。

「先に出てて」と言われて、

「俺も、お前の身体、……洗ってやろうか?」

 一応そう問いはしたのだけど、見澤は首を横に振った。言わなくても良いのに「だってお尻の穴ん中とか洗うしー」と俺の予想の範疇に在ったことを応える。いや、多分そうだろうなと思っていたし、其れを俺がしてやることは多分以上に感謝の意を表するに適したことだとも思ったのだ。

 結局一人だけ出て、

「ドライヤー、使う?」

 歯を磨き終わったところのヅチくんと、今度は一人で相対することになる。見澤の、腰周りが少しきついトランクス一枚の俺は「タオルだけで十分です」と恐縮する。

「そう。夏だから、風邪ひくことはないだろうけど」

 唇の端に微笑が在る。この長身の男が、俺のリアクションの一つひとつを楽しんで観察しているらしい想像は容易に付くのだが、其れが判ったところで俺にどんな反抗が出来る? 何処からどう見たって俺は。

「浮気じゃない」

 ヅチくんは歯を磨いた直後だというのに煙草を咥えて、火を点ける。細身の全身からは薄く疲労が滲んでいるが、其れでもどういう訳か生命力を感じさせる人だと思う。褐色の堅牢な樹皮に身を固めつつある若木のような、爽やかな。

「君が昴星とセックスをするのは、何処をどうとっても浮気じゃないし、俺にとっては寧ろ喜ばしいことだよ」

 すう、……はあ、ゆっくりと美味そうに煙を吐き上げる。ヅチくんの煙草は俺と同じ銘柄だった。そのことに気付いた俺に、ヅチくんも気付く。ポケットからソフトパックを取り出して、一本俺に薦める。固辞する度胸のない俺は、二歩、ヅチくんに近づいて受け取る。火もヅチくんが点けた。

「……昴星に聞いたよ。大変だね」

 細い眼は、輪郭ほど厳しい印象は無い。寧ろ、奥に潜んで揺れる光の温度は、随分と柔らかなものであるような気がする。見澤昴星という男の「お婿さん」ならば其れが当然に思えるし、そうあって欲しいという俺の願望も含まれているだろう。

「昴星も、親を早くに亡くしてて……、小さい頃には随分苦労もしてきた子だから、君を放って置けなかったんだろうな。あいつは元々君のことが好きだったみたいだし」

「……俺の……、ことが?」

「うん。五月だったかな、君と初めて学校で話したときに、それはもう嬉しそうに『すっげえいいやつと友達になった』って自慢げに話してくれた。同時に不安がっても居たね、『でも俺がゲイだって知ったらやっぱり居なくなっちゃうのかな』って」

 「俺の彼氏がさあ」……、見澤があの日バスの中で不意に言い出したことを思い出す。

「大学に入ってから、せっかく出来た友達もすぐ失くしていたからね。隠して付き合うってことがあの子には出来ない、せっかく友達になったから、自分の全部を知った上で友達で居てもらいたいと思うんだ。……あれで極端に口の堅いところも在るんだけど」

 恐る恐るだったのだろうか、俺は見澤の口から齎された言葉を手に乗せて持て余しているばかりで、彼の顔色がどんなだったか覚えていない。ジャブのように自分の正体を明かしながら、俺があいつの同性愛者であることを認めた上で変わらず付き合うようになるあの日まで、あいつは。

「泣いてたよ、あの子は。嬉しくて嬉しくて仕方ないって泣いてた。ああ、俺以外に昴星を泣かせる奴が居たのかって、……俺も嬉しくて少し泣きそうになったな」

 ヅチくん、平然と言う、そして当たり前のように俺の髪に手を置いた。思わず俺は、首を竦める。

「昴星が護りたいと言う以上、俺も君のことを護りたいな。それがあの子の幸福に繋がっていることが確信できる以上、俺はそうしなければならないと思って生きているから」

 じっ、と俺を見る。俺は視線の置き所に困り、一先ず煙草を消すのだという言い訳を右手にさせた。

「でも、あの、……ええと、俺は……」

「もう少し素直に、簡潔に言うとすればこうなるかな、……俺たちの傍に居てくれないか、……そうだな、家族みたいに」

 ヅチくんは俺から手を離す、「何もしなくて良い、ある程度アルバイトをしていてくれればいい、あとは面倒でない範囲で大学に通えば良い。時にはサボることだって必要だろう。他には何も要らない、ただ何よりも、昴星の傍に居てくれれば其れでいい」

 恐らく「なぜ」という問いは不要なのだろう。見澤と同じで、ちゃんと答えてはくれないだろうと想像できた。

 やっぱり俺はこの男性の「ヅチくん」という呼称に納得が行っていない。何と言う字を書くのか知らないし、そもそも其れが本名なのかさえも判らない、ただ見澤が「ヅチくん」「ヅチくん」と連呼するし、そういえばあいつは携帯電話にも「ヅチくん」で登録していた。変換できないような途方も無い漢字なのかもしれない、益々以って正体不明だ。

「あの」

「ん?」

「……あなたは、その、どうして『ヅチくん』、なんですか?」

 間抜けな訊き様である事は自覚している。ヅチくんは一瞬きょとんと目を丸くする、それから可笑しそうにくすくす笑いながら、

「ああ……、それはだって、俺は『ヅチくん』だから」

 と答えた。

 其れを「どうして」と訊いたつもり、其れは伝わって居るはずなのに、彼は煙を吐き上げながら平然とはぐらかす。俺が二の句を継ぐのに手間取っているうちに、見澤がユニットバスから出てきた。

「ヅチくんえらーい、ちゃんとお皿洗った」

「偉いも何も、いつもしてる」

「そうでもないじゃん、時々ほったらかして寝ちゃうじゃんか」

 ヅチくんが曖昧な苦笑いを煙に霞ませて、「余計なことを言うんじゃない」と言った。俺のすぐ傍で、裸のままの見澤がドライヤーを掛け始める。

 空気ならぬ存在の俺はぼうっと立ち尽くして居た。もちろん、一度ならず二度までもその胎内に入ってしまったのだから、反射として見澤をいとおしく思うのは当然だし、伴う罪を認許してくれるヅチくんに平伏したくなるような有難さだって抱いている。

 俺は此処に居たいと思う。

 居てはいけない場所だと判っていても、居ていいのなら居たい。此処は俺の故郷から一番遠い場所に在るような気がした。

「あの……」

 ドライヤーを掛け終わって、美しく艶を帯びた栗色の髪を掻き揚げる見澤と。

 自分もシャワーを浴びるために、タオルと下着を用意していたヅチくんと。

「俺には、行くところが、……ありませんし、行きたいところも別に、ないです。今、どうしたらいいのかとか、どうするべきか、……そういうのが、何にもないんです、判らないんです」

 敬語の矛先はヅチくんだが、見澤が少しぽかんと口を開けて俺を見ていた。

 不意に、

「居りゃいいじゃん」

 見澤が言った。「……なあ?」

 ヅチくんに同意を求めるように視線を向ける。

「ああ、……居たいだけ居りゃいいじゃん」

 冗談めかして見澤の言い回しを真似たが、声は至って真面目なものだだった。

「さっきも言ったとおり、俺は君が居てくれた方が有難い」

「うん、俺、あんたに居て欲しいな。此処はあんたが居ていい場所だからさ」

 見澤が背伸びをして、俺の唇にキスをする。間近に、にっこり、微笑まれて、俺は自分を構成する要素の色が少し変わるのを感じる。配列はそのままで、しかし、表出して人に見せる角度がほんの少しだけ、光の角度によって青が黒くも白くも見えるように。

「有馬、どこに寝かせよっか」

「とりあえずは此方でいいだろ。……明日にでも二人で有馬のアパートから布団を持ってくればいい」

 そしてヅチくんは言う、「夜更かししても構わないけど静かに頼むよ、俺は明日も仕事なんだから」

「夜更かししないよー、もう寝る。よな? だって三回もやりゃあ俺だって疲れるもん」

 そうか、とヅチくんは小さく苦笑して、「良かったな、此れで当分俺としなくて済むんじゃない?」

「んなことねーよ、土曜の夜はヅチくんとだってすんだからな」

 あの二十五歳の人は「大人」であって、見澤の扱いに手馴れている様子だ。俺はまだ下着一枚のまま、ちらりとヅチくんに視線を送られ、「おやすみ」と言われたのに、「おやすみなさい」強張った返答するのがやっと。隣の、

「なあ、おやすみのキスして有馬」

 つい今しがた自重しろと言われたくせにそんなつもりの毛頭なさそうな男の唇を、何の文句もなく受け入れるばかり。

「居てくれる?」

 さっき二人で乱したシーツを、二人で綺麗に引き伸ばす手元だけを見て見澤が訊く。

「……まあ、暫くは、な」

 俺の答えに、その口元、ほんの、ほんの小さな影の差す微笑を浮かべて、

「何処にも行けなくさせちゃうぞー、そんなこと言ってると」

 見澤は言った。

 

 

 

 

 夕立の余韻が微かに残る風がカーテンを揺らし、肌を撫ぜた。「寝冷えしたらどうすんだ」と腹に掛けられたタオルケットを剥がさないまま、俺は布団の上に横たわっていた。

 九歳のときに両親が死んで、俺は孤独に慣れた。正確には、慣れるように育ってきた。誰かに教えられたのではなくて、ただ自分が必要と思って身に着けたもので、それは社会という冷ややかな空間をやがて生きなければならないのならば、俺が当然身に付けて居なければならない盾、鎧のようなものだと自発的に思っていたか、或いはあの人が暗に俺がそうなるように育ててくれたのか。

「別に帰ってきたくなったら帰って来ればいいし、面倒だったら来なくていいよ」

 あの人が倒れたばかりで、まだ喋れた頃、つまり去年の今頃、電話口でそう言われた。それが此方へ来てから最初の電話だった。

「俺、倒れちゃった」

 と普段より掠れた声で彼は切りだした、「腹捌いて開けて見たら、癌だって言うんだな。まあお前には俺の血は流れてねえし、お前のお袋の家の方にもそういう血はないはずだから心配しなくていい」

 何処か愉快そうに彼は言っていたのを覚えている。その口調からは、掻ッ捌かれた腹を医師と一緒になって見下ろしているような血みどろの能天気さが漂っていて、俺はつい、つられて笑いそうになった。実際そういうことが出来そうな人だった。

「そう」

「そう。だからまあ、今は病院だ、入院してんだけどな、こっちのことはどうにかするから、お前はお前の方を頑張ってろ」

 簡潔な電話は「電話代が勿体無いから」という理由で三分も掛からずに切られて。其れが結局彼と交わした最後の言葉となった。後ろめたさを除いては、ほとんど何の感慨もなかったのは、やがてくるその時のために、俺が備えて来たからだろうか。「どう足掻いたって俺はお前より先に死ぬんだからな、てめえのケツぐらいてめえで拭けるようになんなきゃいけねえぞ」という彼の言葉に俺はとても従順で、「一人」という状況を受け容れていた。

 広くて暗くて古い家の片隅に、一人で眠ることに慣れ切っていたはずなのに、三人で並んで目を覚ます朝が幾つか繰り返されていくうちに、すっかり寝つきがよくなった。ヅチくんと見澤はよりによって俺を真ん中にした「川」の字で寝たがる。「有馬が真ん中に居てくれれば、昴星に夜這いかけられなくて済むからね」と冗談か本気か判りかねるようなことをヅチくんは言っていたが、俺がつい一昨日解約したアパートから布団を持ち込んで敷いたのもやはり中央で、見澤は俺と彼の布団の隙間に横たわって「広くなった」と喜ぶ。残念ながら見澤はあまり寝相が良い方ではなくて、俺の腰を膝蹴りしたり顔に裏拳を食らわせたりなどして、時折俺の安眠は妨げられた。しかし「安眠」と呼んでもいいくらいに深くて長い眠りがこの身に訪れているのもまた事実である。

 この事態を説明する言葉が、俺の中には存在しない。そして存在しないことを二人が肯定する。

「理屈じゃないんだ」

 ヅチくんは、見澤と同じ言葉を用いた。「言葉で説明できるものじゃない。ただ、有馬はいまの、これからの俺たちには必要なんだ」

 理屈じゃないという前提がある以上、「何故」という問いは滑稽だ。据わりは悪いけれど落ち着きのある生活に、俺も慣れなければならない。常識に照らして考えたなら、俺が見澤に、ヅチくんに、してしまった行為は自分自身を呪わしいものに堕すようなもので、誰彼構わず軽蔑の言葉を投げ掛けられても何ら不思議はない、……間男のくせに完成した二人の側にのうのうと暮らして居るのだ。

 それなのに優しい笑顔で受け入れた二人の側に居る俺に、出来ることがあるとすれば、それを生真面目にこなして行くべきなのだ。

 そう自分に口やかましく言い聞かせる必要も、実は無かった。俺は恐らくこの部屋に慣れている。空間の、布団の匂い気にならなくなって久しいし、「ただいま」という言葉は驚くほど自然に俺の口から零れる。

 「おやすみ」を一日の最後の言葉にして、こうして目を閉じた後には、いつも一日に在ったことを思い出すのが一人寝の頃からの習慣だった。嬉しいことが在れば掌に載せるようにしてそれをいとおしんでいるうちに緩やかに眠りへと落ちて行くし、ろくでもないことばかりが起きていたとしても、一つひとつを冷静に考えていれば「大したことない」と結論付けるところまで、大概辿りつくことが出来る。例外があったとしたら、葬式から帰った先日の夜ぐらいのものだ。

 最近俺は瞼の裏で、二人のことばかり描いているような気がする。当然のことだ、二人が俺の生活に密着して居るのだから。

 真っ当な社会人であるヅチくんは月曜から金曜まで早朝から深夜まで働いている。「早く帰れる」と言う日だって帰ってくるのは九時近くだし、「遅くなる」と言って出て行くと十一時を回っている。それでも彼は少しも疲れた素振りなど見せず、ただ土曜の朝だけはほんの少し、寝坊をする。

 日中家に残される見澤は、午前中一杯家事に精を出す。「大学始まっちゃうと細かいとこの掃除あんま出来なくなるからねー」と、今日は台所のシンクをぴかぴかに磨いていた。家事に精を出しているときの見澤の表情は、大学で見ていたものよりももう一段活き活きと煌いていて、その美しさに一層磨きがかかるように思われる。

 そういうときに俺がどうしているかと言えば、黙って煙草を吸って眺めている訳にも行かない、……それでは本当に無為徒食、この部屋で生活するようになってから、俺はまだ一銭の金も二人に渡していない。「いいよ、そんなの」と口々に言われて、差し出した精一杯の生活費を引っ込めざるを得なかった以上、俺が出せるものは労働力だけだ。だから見澤が掃除に勤しんでいる間、俺は洗濯をする。洗った服の上手な干し方は見澤に教わった。いつも皺だらけで、それでも構わず着ていたTシャツはこのところ、少しばかり自慢気に見える。

 俺はアパートを解約した、住民票も移した。大学は、退学するつもりで居たのに、「奨学金使ってでも卒業した方がいい。少しなら、俺も出してあげられると思う」というヅチくんのすすめによって、後期からも何事も無かったような顔で通い続けることになった。

 もう言い訳が出来ないくらい、俺は二人と同居している。

 最優先されるべきは二人の関係だろう。居候がこの甘美な立場に胡坐をかいていていいはずがないから、二人が愛し合うのに邪魔にならないようにと、気を遣う。最初の土曜日の夜にはそんな気配もなく、三人で銭湯から戻ってビールを少し呑んだあと、そのまま枕を並べて寝た。後からヅチくんに申し訳ないような気になって、先週の土曜の夜には、煙草が切れたことを口実に二時間ほど出掛けた。本屋に寄ったり、近所のコンビニで煙草を買うついでに立ち読みなどをして戻ってきたら、玄関の前で心配そうに見澤が立っていて、「何処まで行ってたんだよ」と珍しく不機嫌な顔を俺に見せた。

 邪魔になるかと思ったんだ、と白状したら見澤はむうと唇を尖らせて、「そんな気遣いの方が邪魔だ。此処はあんたん家なんだから、気なんか遣うな」と怒ったように言った。

 ヅチくんは台所で煙草を吸いながらノートパソコンのキーを叩いていた。

「月曜までに纏めなきゃいけない書類があってね。昴星には悪いけど今夜はしてあげられないし、別に毎週してるわけじゃない。昴星だっていい子だから、それぐらい判ってる」

 微笑んで、俺をそう窘める。なんだか割り切れないような気持ちになりながらも、二人に向かって「すいません」と俺は謝った。

 見澤が土曜の夜にヅチくんとしない代わりに、月曜から金曜まで、ほとんど毎日のように俺は見澤を抱いている。

 最初の数日は、見澤に「したくない?」と甘えられて俺が応じるばかりだった。見澤がそれで嬉しいなら、そして二人の言葉を全面的に信じるとすれば「ヅチくんもそれで嬉しい」なら、俺が見澤の要求に応えない理由はなかった。ヅチくんがどんなに微笑んでくれても俺の罪深さは容易には拭えないけれど、俺が二人のために出来ることと言えば、ただ一つ此れしかない。

 しかしこのところは少しずつ趣が変わっていることを、俺は自覚している。

 見澤を抱きたいと思うようになっている。いままでは当たり前のように受け流せていた見澤の指や掌に、いちいち心が反応してしまう。元々美しかったその顔が、いまや眩くすら思えている。例えば「なー有馬、昼ご飯食べたらどっか出掛けない?」と、家事を終えた見澤が何の気なしに洗濯物を干し終えて煙草を吸う俺の肩に手を置く。其れだけで、見澤の手の触れた部分の細胞が騒ぎ出すのだ。

 俺の顔色が変わるのを、見澤はきちんと見抜く。変わらない微笑を浮かべたままで、「でも行く前にシャワー浴びなきゃなー、めちゃめちゃ汗かいたし。有馬も一緒に浴びるだろ?」そう問われれば当然のように頷くし、一緒にシャワーを浴びれば、何とも思わなかったはずの男の裸に激しく欲情する俺が居る。

 見澤は嬉しそうに俺に抱き付いて、「有馬、俺のこと好き?」と意地の悪い問いを向ける。

 いつも、胸は捩れる。

 理屈無しに俺にそう言う見澤とは反対に、俺には好きと言えない理由があった。だって見澤はどう足掻いたって俺のものではないのだから。欲しがってはいけない、ただ微かに漂う甘い匂いだけ嗅いで心を満たしていればいい。

「……お前は、どうなんだよ」

 掠れた声で俺が問えば、俺の足元から見上げる見澤は「ひひ」と笑って、真っ直ぐに俺を見上げて、

「大好き」

 と答える。その目を見れば、重ねて「でも、俺はお前の恋人じゃない」と言うことは出来なくなる。きっと論われるくらいに非常識で淫らな見澤だ、しかしそんな見澤だからこそ、俺は見澤を抱くことが出来る、この場に居ることが出来る、……見澤に恋をする。

 見澤と一つに繋がったときに充足し、解けるたびに寂しく思うような心を自分が持っていたという事実に、無力感に苛まれることがある。しかし此れを幸福以外の何と呼べばいいのか、俺には判らないのだ。

 いつも瞼を閉じた俺は、見澤を抱いた記憶をついつい身体に蘇らせかけて、慌てて其処を早送りで飛ばす。商店街の景色と、見澤と交わした他愛もない会話を思い出して心を落ち着かせ、晩飯のことなど思い返しているうちにすっかり満ち足りた気持ちで、いつ寝たかも思い出せないほどだ。

 ただ、今夜に限って俺は仰向けに寝そべったまま、落ちつかない気持ちで時折瞼を開け、青黒い天井を眺める時間を重ねていた。「今夜に限って」と言うならば、いつも俺の方を向いて寝付き、時に唸りながら寝返りを打ち俺を打撃する見澤が、背中を向けたままぴったりと動かないのも初めてのことだった。俺は今日という日を思い出し、眠りの曲線に身を委ねようとするのだけど、一角に差し掛かるたびに目を開け、そのたび見澤がこちらに向けたいつもよりも硬そうな背中に視線を送る。何度か声を掛けようかとは思ったけれど、明日も早いヅチくんを思うとそれも出来かねた。

 俺は幾度目かの、「今日」の再生を始める。

 じりじりと照りつける太陽の下を、見澤と俺は並んで歩いていた。昼飯の焼きうどんを平らげた食後の散歩のついで、食料品の買い出しだった。

「今日は鶏じゃが作ってあげる」

「……鶏じゃが?」

「うん、鶏じゃが! 美味いんだよー」

 見澤はそのとき、いつもの通り機嫌が良かったし、俺も「鶏じゃが」を楽しみにしていた。だって、見澤の作る飯は何でも美味い。ご飯がよく進む、……このところ顔色が良くなったと二人に口を揃えて言われたが、それも当然だろう。カロリー摂取のために食う飯と、栄養を摂るための飯との間には大きな隔たりがある。

 見澤が毎日朝昼晩、欠かすことなく拵える飯は、味こそ上等だが決して華やかなものではなく、女子供の喜ぶようなものを見澤は作らない。彼の飯を食う者が女子供ではないのだからそれも当然か。しかし彼自身は、「たまにはさー、有馬のためにさ、グラタンとか作ってあげたいんだよね。あとハンバーグシチューとかさ」そのようなこともまた言う。この糞暑い日にそんなものを無理に作って貰わなくても良いと思うし、そもそもこの部屋にあるレンジにはオーブンが付いていない。自然、見澤が作るのは例えば鶏じゃが、昨日は小鯵の南蛮漬け、一昨日はなすと厚揚げの煮物、その前は、今年初めて魚屋で見つけた秋刀魚を手ずからすり身にしてつみれを作った。肉、魚、肉、魚……、決して偏らぬよう交互に、そして必ず椀物と野菜が添えられる。卓袱台に所狭しと並ぶ味の花の片隅で此方を伺うように顔を覗かせる漬け物にしたって、見澤が漬けたものだ。

 幸福な食卓である。見澤はヅチくんの「お嫁さん」という仕事を、驚異的な完璧さでやりこなしている。自分の作った食事を誰かが美味しそうに食べているのを見るのが幸せという言葉の通り、見澤は俺たちが食事するのを、他のどんなときよりも嬉しそうに眺めている。そんな彼の顔を見るのは俺だって好きだし、ヅチくんはもっと好きなはずだと思う。

「今日に限って」という言葉をまた用いるならば、……今日に限って、俺たちはその顔を見ることが出来なかった。

 原因は夕立と、俺にある。

 八百屋と肉屋で食材を買い入れて帰る道の途中、俄かに空が曇り始めた。急激に空気の密度が濃くなり、急ぐ俺たちの足でも追いつけないスピードで空に稲光が閃き、雷鳴が轟いた。計ったようにあと家まで三分というところで大粒の雨が降り出した。見澤は自分が濡れることより、俺が風邪をひくことを恐れるようなことを言ったし、それ以上に俺はせっかく干した洗濯物が濡れることを恐れた。

 結論から言えば、俺たちは大いに濡れた。それでも洗濯物は一命を取り留めたと言っていい。

「すげー、びちょびちょ……」

 見澤は栗色の髪の先からちょろちょろと滴を垂らして、恨めしげに縁側から空を見上げる。「いきなり降って来んだもんなー」

「夕立ってそういうもんだろ。……止めば、夜には少し涼しくなる」

 洗濯物を吊るした部屋の中は色とりどりの花が咲いたように見える。しかし、何となく気の滅入る光景でもある。

「有馬がせっかく干してくれたのになー……」

 見澤は無念そうに、湿った俺のTシャツを撫ぜる。元々まだ生乾きだったのか、それとも改めて濡れたのかは判然としない。

「いいよ、……こうやって吊るしておけば遅かれ早かれ乾くだろ」

「でもさ、部屋干しするとちょっと匂い付いちゃうんだよ。俺、洗剤はいっつも安いやつ買って来るからさ、部屋干し用のとかだったら大丈夫なんだけど……」

 溜め息混じりに零して、「そうだ、……風呂入んなきゃ、有馬風邪ひく!」見澤が思い出したように大きな声で言った。

「いいよ、そんなに濡れたわけじゃないし。っていうかお前の方がびしょ濡れだろうが」

「ダメ。俺は馬鹿だから風邪ひかないけど、有馬はおりこうさんだから風邪ひいちゃう!」

 どういう理屈だ、そもそも夏風邪は馬鹿がひくものだ。大体お前はどうしてそんな風に俺を壊れ物のように扱うのだ、どう見たって俺の方が丈夫だしそもそもお前は俺より年下だろう、……俺の言いたい諸々を押し流し、「ほら、早く早く」一人で脱げるTシャツにジーンズに無理矢理手を掛けるものだから、俺としても素直にシャワーを浴びないわけには行かなくなる。そして俺よりずっと細く小さな見澤を見れば、「お前も浴びろよ」と言うのであって、結論から言えば俺にとって好都合な状況となった。

 見澤とそういうやり方で「遊ぶ」ことが増えたと言っても、俺は見澤のようにあっけらかんと行為を開始出来るわけではない。寧ろ見澤に欲情していても、俺の底にはちゃんと罪悪感が残っていて、そういうときに限ってやたらと存在感を増す。お互い裸になるのが自然な浴室で見澤が誘ってくれるとすれば、それは俺にとって最も有難いことなのだ。

 見澤はそんな俺の欲を指摘しない。俺の身体が十分温まったことを見計い、自分が温まるより先に背伸びをして俺に抱き付いて、

「有馬、あったかーい」

 と笑う。「お前……、身体冷たいぞ、ちゃんと温まれよ」と腰を引き気味に俺が言っても、

「有馬にくっついてりゃ温かいし、心配なら有馬が温めてくれりゃいいじゃん? もっとさ、ぎゅーっとしてさ、掌で。その方が俺温かくなれるし、あんたももっと温かくなれて、きっと風邪なんかひかねーよ?」

 俺に直接的な言葉を使わせず、上手に誘うその声の効力を、きっと見澤は判っている。ごくスムーズに俺は見澤とキスをした、狭くて危なっかしい浴槽から布団の上に移動して見澤と肌を重ねている間、俺は見澤をこの掌で愛撫し俺自身で翻弄しているように見えて、寧ろ見澤を追い立てれば追い立てるほど、却って見澤にころころと操られているような甘美な錯覚に陥った。日々、見澤の飯を食って生活している以上、俺を形成する要素の何割かは既に見澤が作り出したものになっていたっておかしくない。見澤をいとおしく思う感情さえも作られたものだとは思わないけれど。

 夕立は長く続いた。ただ、いつ止んだのか思い出せない。……今日に限って寝つきが悪い理由の一つに、滅多にしない昼寝をしてしまったことは挙げられるかも知れない。本当なら夕立が止む頃に二回目のシャワーを浴びて、物干し竿を拭いて洗濯物を干して、幸せな夕餉を囲んでいたはずの時間、俺も見澤もすっかり眠りこけていた。

「あーあ……」

 見澤の声で目を覚ました俺が見たのは、夕立の余韻など何処かへ去った青い夜空だ。見澤を抱いて寝たはずの俺の頭は枕ではなく見澤の少し固い腿の上に在った。

「今何時だ……?」

 既にとっぷりと暮れ、ぼやけた空に月が実る。見澤の何とも形容しがたい笑みに嫌な予感がして枕元の携帯電話を開いたら、午後八時半。 惰眠という言葉が一番しっくりくる。だって、布団の脇にはくるり結ばれた使用済みのスキンが散らばったまま。せめてゴミ箱に捨てろと理性が俺を刺す。

「……腹、減ったなー」

「……うん」

 見澤の掌は俺の頬を繰り返し撫ぜて、呆然と呟いた。「俺はダメだなー……。鶏じゃが作ってあげるって言ってたのに……」

 戸惑うくらいに真面目な響きが其処には在った。

「……明日また作ってくれればいいよ、それに、俺が疲れさせたのが悪いんだ」

 俺の言葉の途中に、見澤の携帯電話にメールの着信があった。見澤はビクンと震えて、それから恐る恐る開く、「ヅチくん……、もうすぐ着くって、……あー、どうしよ……」

 そうだ、見澤の作る「鶏じゃが」は俺の晩飯である以前として、ヅチくんの腹にこそ入るべきものだ。俺は自分の愚かさに気付いて、「ごめん」と慌てて謝った。

「なんで? なんで有馬が謝んの?」

「だって……、その、俺が、したからだろ、寝ちゃったのは」

「違うよ、有馬がしたのは、俺が誘ったから。悪いのは俺」

 見澤は少し無理のある微笑を浮かべて俺の髪を撫ぜると、勢いを付けて立ち上がり灯りを点けた。「シャワー浴びて、ファミレス行こ」

 駅前のファミリーレストランは夕食時の終盤で混んでいた。家族連れや会社帰りのサラリーマンや学生風が、シーザーサラダのように「ファミレス」というドレッシングの中で同じ色をしてばらばらに座っている。見澤も俺も、そしてヅチくんも煙草を吸うので、喫煙席に陣取ったら、まず見澤が立ち上がってメロンソーダとジンジャーエールをなみなみ注いで戻って来た。

「晩御飯作れなかったの、あんたのせいじゃないからね」

 俺の隣に座るなり、見澤はそう言う。向かいの席はヅチくんのために空けてあるのだが、冷静に考えたらこの並びはおかしい。

「……でも、少なくともお前のせいじゃない」

「『作る』って約束を反故にしちゃったんだから、俺のせいだ」

 そういえば、見澤は妙に頑なだった。いつでもふわふわとしているはずの見澤は柔らかな頬を強張らせて、手の中のメロンソーダを見詰めて言ったのだ。「俺は、ちゃんとしなきゃいけないんだ、もっと。ちゃんとするって、ヅチくんと約束したんだもん、……あんたのためにもね。だから、ちゃんと出来なかったのは俺の責任」

 間もなく、スーツ姿のヅチくんが店内に入ってきた。吸い寄せられるように見澤を見付けて、静かに微笑む。丸一日働いて帰ってきたヅチくんの顔は、少し草臥れているようにも見えるが、俺の向かい、見澤の隣に腰を下ろして煙草に火を点ける表情は、割りといい。

 俺たちは、申し合わせたわけでもないのに揃って麺類を注文した。昨日は魚で、明日に今日の鶏じゃががスライドするなら、今夜は無縁なものを食べるべきだと思ったし、グラタンやドリアを食べたいとも思わなかった。

 ハンバーグシチューなどもってのほかだ。

「ごめんなさい」

 と謝った見澤に、

「いいよ」

 煙を、ヅチくん同様喫煙者の見澤にかからないように煙を上へ吐き上げてから、髪を撫ぜた。見澤は普段通りの微笑を取り戻して頷いた。そこからはいつも通り、和やかで心の通う会話のやりとり。

 ただ、見澤は不意に、会話の間隙を縫うように窓外へ眼をやって、溜め息を吐く。其れをヅチくんが気にするように、会話の糸口を珍しく彼が手繰っている。見澤は慌てて合わせるように笑うのだが、どこかぎこちない。

 そのぎこちなさは結局、この時間になっても未だ解消されることなく見澤の背中を強張らせている。

「昴星」

 見澤が起きていると気付いたのは、ヅチくんの声がしたからだ。同時に俺は、自分がいつの間にか眠りに落ちていたことに気付く。

 網戸だけの窓に、二つの影が並んでいる。青い夜空の、乏しい光を集めてくっきりと輪郭が浮かび上がり、その片方が震えていることに気付いて、俺ははっきりと眼が覚めた。 遅れて俺の耳に聴こえるのは、押し殺した泣き声だ。

「……見澤?」

 声を掛けたら、ビクンと肩を強張らせて恐る恐る振り返る。

 こちらからその表情を窺うことは出来ない。

「……ごめん、なー……、起こしちゃったね、有馬」

 泣いているのだと気付くのに時間は要らなかった。ヅチくんの表情も、俺には判らない。ただその全身に、逃しようのない力が埋まっているのが判ったのは、彼の輪郭が見澤ほどではないにしろ微かに震えているからだ。

「どう……、どう、した?」

 起き上がってから、少し、躊躇った。見澤とヅチくん、身を寄せ合う二人の影を見て、俺がおいそれと其処に寄って良いものかどうか、判らなかった。

「大丈夫、大丈夫だから……」

 焦ったように言う声が、俺を見澤に引き寄せた。

 傍らに座って初めて見える見澤の顔、涙で濡れて、それでも頬をぴくぴくさせて、どうにか表情を普段の明るい笑顔に保とうとしている。そしてヅチくんは堪えるように眉間に皺を寄せて、月よりも白い顔をしていた。その右手は、間断なく見澤の髪を撫ぜている。

 夜の部屋に棲み付く光を集めて、見澤の頬をまた涙が伝った。彼自身が其れに気付いたのだろう、表情筋を保たんとして張り詰めていた糸が切れて顔を覆って、低く声を殺して泣き始めた。

 何があったのか、判らない。ヅチくんがその身を抱き寄せて、苦しげに顔を顰めたまま、それでも最大限に優しい掌で見澤の髪を背中を撫ぜ続けている。俺は二人のすぐ傍で、自分が何の役にも立たず座っているだけだということを苦しく受け止める以外に出来ない。

「……ごめん、ごめんね……」

 ヅチくんの胸の中から、見澤がくぐもった声を出した。

「ちょっと怖くなっちゃっただけだからさ、……情けないよね俺、もう、さ、もうすぐ二十歳なのにさ……、こんなさ、ガキみたいに……、なー……」

 少しだけ聴き取りづらい言葉を、ヅチくんが補う。「怖い夢を見たんだ。……ときどきね、こんな風に、ゆっくり寝ていられなくなる。有馬が隣に居てくれるようになってからは収まっていたから、安心していたんだけど……」

「だって」

 見澤がまた、歪んだ声を出す。「……作れなかったんだ、俺、有馬に……、ごはん、作ってあげらんなかった……」

 見澤の見た「怖い夢」の中身までは辿り着けない。意を決してその背中に掌を当てた。夕立から逃れて来たみたいにびっしょりと冷たい。

 あの昼寝から醒めてからずっと様子がおかしかった。

 ヅチくんの「お嫁さん」で居ることが、見澤にとってそれほど重要なことなのだと思い知らされた俺にはもちろん「気にするな」などとは言えない。

 俺は黙って見澤の背中を撫ぜていた。其処が激しく震えるたび、俺の心臓までその震動は響いて痛んだ。

「……お前が悪いんじゃないだろ、あれは、俺が……」

「違う!」

 びっくりするような声で見澤は叫んだ。「俺が悪いんだ! 俺が、ちゃんとしないから……!」声はまた弱々しい嗚咽に掻き消されてしまう。

「それが、この子の責任だから」

 ヅチくんは静かな低い声で言った。

「責任……?」

 見澤が首を振る。ヅチくんは其れを撫ぜて抑えながら、「そう。俺が毎朝仕事に行って働いてくるのと同じ、この子が果たすべき……、責任」と言葉を繋ぐ。「それは、俺だけじゃなくて、君のためでもある」

「でも俺は、……此処に居るだけですよ? それなのに、どうして」

「理屈じゃない」

 ヅチくんは、またその言葉を使った。反感に似た感情が、微かに俺の中に生じた。もうすぐ二十歳になろうという男が怖い夢を見て泣くなんて尋常な事態ではない。……見澤の冷たい背中に、俺だって凍えそうだ。そういう心をいつしか俺は持っていた。そして見たこともないほど青白いヅチくんの顔も見れば、やはり痛みを感じる。一緒に居るのに同じ痛みを共有できない俺は、やっぱりどう足掻いたって二人の外側に置かれているような気になる。俺には判らない言葉を用いて二人が遣り取りする言葉を聴きたいと俺は思って居るのかもしれない。

 多分、それは秘密だ。

 ヅチくんと見澤は俺に隠していることがある。そう考えたとき、俺はヅチくんに嫉妬している自分に初めて気付いた。

 嫉妬したってどうしようもない相手だとは判っている。何を隠されているかは永遠に判らないままかもしれない。しかし、判らないままの方がいいのだろう、少なくともこんな俺のことを孤独から救い、「好き」と言ってくれる人たちなのだから。 

「こういう夜が訪れる回数は、昴星が君と出会ってから随分減った。このまま君がずっと側に居てくれたら、ひょっとしたらいつか消えて無くなるかも知れない。俺は心の底からそういう日が来る事を願っている」

 俺は、自分の見澤を撫ぜる手がいつの間にか止まっていることに気付いた。暗闇の中で壁に目を向ければ、ヅチくんと見澤と俺は三人一塊のシルエットになって、それぞれの不安に揺れている。

 どうして、と訊いたって「理屈じゃない」としか答えてくれない二人だ。しかしヅチくんは初めて自分のメリットを口にした。これまでずっと「有馬が一人にならないように」と言っていたけれど、当然二人にだってメリットが在った訳だ。ヅチくんが自分の恋人を他人に抱かせてまで、そして見澤が恋人以外の誰かに身を委ねてでも、叶えたいほどの願いがあるのだ。

 更に言うならば、当然二人は俺が見澤に恋愛感情を抱くことを想定していたはずだ。言うなれば、俺は其れを犠牲にすることを強いられて居る。二人の願いのために。

 それは、何だ? 

「俺も」

 俺は問わなかった。きっと答えは貰えないだろうし、いまは見澤の涙を止めることこそ優先するべきだ。「俺が居て、……見澤が泣かないで済むなら、……同じ事を願います」

 ……いいや、そんな奇麗事ではない。結局のところ俺は、見澤の側に居たいのだ。自分の物には永遠にならなくても、見澤昴星という存在が手の届く所に在るこの日々を手放すことはもう出来ない。

「あるば……」

 見澤がヅチくんの胸から顔を上げる。真っ赤な目はまだ濡れたままだ。

「……着替えよう。汗びっしょりだ、このまま寝たら風邪ひいちまうぞ」

 俺が言ったら、鼻を啜ってこくんと頷き、「ごめんなさい」と小さな声で謝った。

 ヅチくんが、見澤の冷たい身体を俺に委ね、押入れを開け、見澤の新しい下着一式とタオルを放る。赤子のように身体を弛緩させた見澤を、俺たちは手分けして拭き、すっきりと乾いた下着を纏わせた。見澤はやっと自分で立ち上がり、元居た布団の端っこにちょこんと横たわる。

「お前が真ん中の方がいいんじゃないのか」

 見澤は首を横に振る。「ここで、俺、汗いっぱいかいちゃった、だから此処がいい」

 ヅチくんは何の疑問も抱いていないように俺を挟んで反対側に横たわる。戸惑いながら二人に挟まれた場所に寝た俺の手を、見澤が冷んやりとした両手で握り、額に当てた。

「こうしてていい? ……暑苦しい? 眠れなくなる?」

 寝返りも打てない。

「……どうぞ」

「ありがと……、大好き」

 打つまで起きては居られなかった。見澤が目を閉じたことだけは見たように記憶しているが、定かではない。或いは、見澤が泣いたこともヅチくんが言ったことも俺の夢の中の出来事だったのかと思うくらいにすとんと眠りに落ちていて、次に目を醒ましたときには見澤の頬にあったぎこちなさは洗い流されたように消え、ヅチくんの出て行くドアの向こうには夏の陽射が乱暴に降り注いでいた。

「びっくりした?」

 皿を洗う背中が言った。いつものようにこの時間はまだズボンを穿いていない見澤の後姿を眺めつつ、トランクスが夕べ寝る前に見たものと違うことを確かめる。やはり、夢ではなかった。

「夕べ」

「……ああ、うん……」

 フライパンの汚れを落とすのに専念するためにか、見澤はしばらく黙った。俺は食後の煙草を、見澤の仕事が終わってから一緒に吸おうと思って、灰皿を卓袱台の中央にスタンバイさせたまま、まだ指の間で煙草を転がしていた。食ってすぐ横になると牛になる、祖父がそう言っていたのを覚えているから横にはならないが、腹は随分と膨れている。

 エプロンで手を拭いて、そのエプロンは洗濯籠の中へ。もちろん、もう洗濯機は動いていて、その中では三人分の男性衣類がくんずほぐれつ。今日こそは夕立が来る前に俺が畳むのだ。

「大体は、ヅチくんがゆってた通りだけどさ」

 見澤は座布団の上に腰を降ろして、切り出した。煙草を取り出したから、俺も合わせて口をつける。

「俺、怖い夢見ちゃうんだ、……そんなしょっちゅうじゃない、時々。あんたが一緒に寝てくれるようになってからずっと見なかったから、もう平気になったかなーって思ってたんだけど、見ちゃったね」

「……うん」

「昔からさずっと。……あれだ、あの、ヅチくんと離れ離れになってからね。小学校のときに東京から九州に転校してから。ガキの頃にはおねしょしたりしてたよ」

 夕べ泣いていた見澤は、今は茶目っ気たっぷりに笑っている。「ちなみに俺の居た方の言葉でおねしょは『ねしびん』と言います」

 しかし長くはない時間でもしばらく一緒に居れば、その表情の内側に詰まっているのが好ましくないものだということぐらいは判る。

「……どんな夢?」

 見澤は煙を唇の端から漏らしながら、あっさりと答える。「人を殺す夢」

「え……?」

 彼の微笑みはいつでも軽やかで、しなやかで、強い。その眼は、幼い輪郭の癖に、何故かぞっとするほど深くて、全てを見通すような光を湛えていた。

「怖くってさー、超血だらけなの。それがね、すっげー怖くて……。ガキみたいだなって思うんだけどさ。……あんた夢って何色?」

 マイペースに紡がれる言葉についていけなくて、口を開けたまま「夢の、色?」と訊いた俺は、……訊きはしたけれどあくまで言葉の重心は前半部分にあって。

「ヅチくんはモノクロなんだって。何が起こっても全部白と黒でしか見えないって言ってた。あんたもそう?」

 訊かれて、そういえば俺はあまり夢を見ないほうだと思い出す。いや、見ているのかもしれないが、覚えていないことがほとんどだ。

 ただ強いて言うならば、

「セピア色……、かな」

 曖昧な記憶の中で、何時とも呼べない時間を歩いているような気がする。

「そう、いろんな人に聞いたんだけど、大体みんなさ、あんまり色っぽくないってか、彩度の低い夢なんだよね。でも俺の夢はさ、いつでもフルカラー総天然色でさ。だから飛び散る血も赤い」

 今日も、空は青く、雲は白い、見澤の髪は栗色だ。

 見澤は何でもないことのように笑って言う。実際にそんなスプラッタなシーンを直に目にしたことがない―祖父が「倒れた」ときには相当量の吐血をしたそうだが、それも見たら恐らくパニックに陥っただろうと思う―俺は、朝の暑さが少し遠退いたような気になる。

「……どうして、そんな怖い夢をしょっちゅう見なきゃいけないんだ、お前は」

 俺の問いを、見澤は綺麗にはぐらかせた。

「日ごろの行いかなあ」

 細い指の間で短くなった煙草は、彼に立ち上がる契機を与える。促された訳でもないが、これ以上訊いても言ってはくれないだろうという漠然とした予感があった。はぐらかされるということは、即ち言いたくないと思っているに違いないのだ。

 だから、俺も煙草を灰皿に押し潰す。見澤が灰皿を水に浸けて、「さて」と俺を振り返る。

「今日はどうしよう、どっか行こうか、それとも何処にも行かないでだらだらしようか? もうやることもねーし、洗濯終わったら図書館でも行くかー」

 丁度そのタイミングで洗濯機が仕事を終えて、誇らしげにぴいぴいと鳴く。

 洗いあがった洗濯物にハンガーを入れて庭の物干し竿に掛ける、俺の隣の横顔は、もういつもの見澤の其れだ。夕べの一件といい、この男は自称する以上は厳然と「ヅチくんのお嫁さん」で居たいのかもしれない。痛々しいくらいの真摯さだ。

 玄関先で靴を履こうとすると、頭に麦藁を乗せられた。

「……暑苦しいからいいよ」

「ダメ。あんた背ぇ高くて俺より太陽に近いんだから、夏の間は毎日ちゃんとかぶれ」

 腰に手を当てて俺を見上げた見澤に命じられて、仕方なく素直に従った。その顔がもう、しっかりと普段の見澤に戻っているのを確かめられたからいい。

 ただ、あの発作のような悪夢が再び見澤の身に降り掛かり、その美しい顔を涙で曇らせる事を俺ははっきりと恐れていた。それは夢そのものと同じように、抽象的な恐怖だ。

 俺の手を引いて歩く見澤は、俺が歩幅を合わせようとするとむきになって大股でずんずんと歩く。そのせいで、太陽に近いところに居る俺よりも汗をかき、息を弾ませた。

「最近嫌がんなくなったね」

 運河と工業地域が近い街だ、大型トラックが行き交う三車線道路の向こうが図書館、横断歩道の赤信号で止まったときに、見澤が不意にそんなことを言った。

「ちょっと前まではさ、『あんまひっつくな』ってよく言ってたじゃん?」

「……もう諦めた。言ったって止めないだろ」

 呆れるほどの青空を、陽射を、顔に受けて俺を眩しげに見上げて、笑う。

「いい傾向だね。でも、嫌だったら止めるよ?」

 見澤は、背が低く、美しい顔をしているが、同時に愛嬌もある。総じて「可愛い」と言ってしまっていいのだろうし、そう言ってやることに俺はさほどの問題も感じないようになっている。

 それでも、何処からどう見たって男だ。そんな相手と手を繋いで歩いている時点で、俺は好奇の視線の対象となる。

 しかし其れを疎んじることは、手を繋ぐ相手の肛門の中に陰茎で出入りしてしまった以上、俺には出来ない。その上、見澤と手を繋ぐと恥ずかしいばかりではない感情が生まれてくるような俺に、いつの間にかなっている。

 質問に質問で返すのはアンフェアである。しかし訊き返した。

「……お前は何で繋ぎたがるんだ?」

 見澤はニヤニヤ笑って、首を傾げる、「手ぇ繋ぐの好きだからさ、俺、有馬のこと好きだし」

 謎めく答えであっても、俺に其れを重ねて問う権利は無かった。「それにほら、あんたは手ぇ解いたらどっか行っちゃうかも知れないじゃん? 心配だから繋いでんの。それにあんたが転ばないようにね」

 そう言った矢先に段差に右の爪先をひっかける。

「……お前がな」

 救い上げるためにも、手を繋いで居てよかった。見澤はばつの悪そうな顔になるが、却って意地になったように俺の手を引いてまた歩き始める。少し、右足を引き摺っている。

「……捻ったか?」

「んん。だいじょぶ」

 汗ばんだ右手は、見澤の汗ばんだ左手の中に在る。俺の左手はポケットの中、ライターの輪郭を指先でなぞっている。

「……別に行くところなんかないし、何処にも行きようがないだろ」

 溜め息混じりに俺が言えば、

「でも、心配は心配じゃん?」

 見上げて笑う顔が振り向く。

 信号が青に変わった。

「今日の夜はちゃんと美味い飯作ってあげるからな」

 手をぎゅっと握ったまま、見澤は言う。誓うような響きが、蝉の鳴く声よりも濃厚に俺の鼓膜をいつまでも震わせていた。

 昼過ぎまで図書館で過ごし、俺の腹が鳴るより先に「そろそろ腹減ったから帰ろっか」と見澤が言った。帰って、解凍したご飯で玉子と葱の炒飯を、見澤は上手に拵えて俺に食わせる。俺が「美味いよ」と言ったら、嬉しそうに「当たり前だー、俺が愛情篭めて作ったんだもん」と笑った。

 そして見澤はその日、前夜寝不足のはずなのに昼寝をするとは言わなかった。コーヒーを二杯飲んで頻尿になってまで眠りから逃れようとする理由に、寄り添うように俺もコーヒーを飲む。見澤の入れる甘いミルクコーヒーは、苦い煙草によく合うようだった。

 その日の夜、俺は前の夜と同様、一日を振り返ることもなく眠りに落ちた。途方もなく眠かったのだ。

 

 

 

 

 長かった夏休みがようやく終わり、俺と見澤はヅチくんを送り出した後、一緒に大学に行くようになった。それでも夏休みの間、日長一日一緒に過ごしていたときと比べれば、一人の時間が不意に俺の隣に腰掛ける。授業が別々になったときなど「じゃあ、終わったら学食の前でね」と言ってから、一時間半後に混雑する学食の隅っこで見澤の姿を見付けたときに、改めて嬉しいような気持ちになり、見澤と俺がそれぞれ鞄から取り出す弁当が外見も中身も全く同じであることには、恥ずかしくなる。俺はもう随分長いことインスタントラーメンを食べていないが、今更あの日々を懐かしいとも思わない。快い拘束力が見澤にはあって、俺はただそれをありがたく享受しているのだった。

 しかし、疑問が霧消した訳では決してない。寧ろ、あの悪夢の一夜以降、霧は頭の隅にいつでも蟠り、ふとしたきっかけで膨れ上がる。

 揃いの弁当―決して派手なものではない、見澤得意の玉子焼きに鶏の照り焼き、いんげんの胡麻和え、ひじきとちくわの煮物、それから海苔ご飯―を食べる見澤はじっと俺の反応を伺う。

「……うん、美味いよ」

 言ってやると、ひひ、と嬉しそうに笑ってからやっと箸を付ける。その顔を俺は観察する。睫毛が長い、鼻筋は通っているし、実は髪を切って黒く染めれば、相当に真面目な印象にだって変わり得る素質を秘めた、華やかな顔立ちだ。

「嬉しいなー」

「……何が」

「ヅチくんは弁当持ってってくれないからさー、昼休みいつ取れるか判んなくて、悪くしちゃうかもしれないからって。だからこんな風に誰かに弁当持たせてあげんの夢だったんだー」

 それはとても主婦然とした、明るい夢だ。

 笑う顔には一点の曇りもない。

 ……ここ数日、見澤に殺人の経験があるのではないかという、突拍子もないことまで俺は考えていた。罪無き顔をした見澤にそんな過去があるとは思えない、すぐに馬鹿馬鹿しいと否定したが、それでも「人を殺す夢」を何度も見て、ヴィヴィッドな色で描き出され恐ろしい思いをする明確な原因があるに違いないとは思う。二人は其れを知り、俺は知らないという状況もまた、俺を苛立たせ、余計に詮索したいような気にさせる。

 九月ももう終盤に差し掛かろうと言うのに、今年の残暑はとりわけ厳しいようだ。俺は麦藁帽子をぎこちなく頭に乗せて見澤と二人で食堂を出た。もちろん、周囲から好奇の視線を向けられていることは自覚している。

「晩御飯、何食べたい?」

 俺に纏わりつく見澤は何の気にもならないようだ。「肉にしようかなって思うんだけど」

 見澤がこう言ったとき、「何でも良いよ」とは言わないようにしている。俺の「何でも良いよ」は「お前が楽なもので」ぐらいの意味までカバーしているつもりなのだが、ヅチくんがこっそり教えてくれた所によると「『何でも良い』は面倒臭がっているように受け取られる。それこそ『何でも良い』なら何か一つ言ってあげれば喜ぶよ」ということなので、

「……鶏のから揚げ」

 万人が等しく好み俺もまた愛しく思うものをリクエストした。見澤はにっこり笑って「了解、任せて」と胸を張った。男という生き物は不思議なもので、今夜の晩飯が鶏のから揚げであると判ると、色々な物事に対して前向きな気持ちになれるのである。

 昼休み後の三限は、見澤がマスメディア論、俺が第二外国語のロシア語。見澤と別れてから、教室に向かうエレベーターの中でノートを取り出し、時間割を確かめる。講義名の下に欠席回数を記録してあるのだ。ロシア語は前期一度も休んでいない。……休もうか、と、積極的に俺は思い始めていた。

 二人が俺にまだ話して居ないことが、一体どれほどあるのかは判らない。「人を殺した夢」を見るような見澤の過去を、ヅチくんも当然知って居るはずである。訊いたって答えてもらえないのならば、……行儀の悪い真似であることは判っているが、自ら答えを探したって良いのではないか。俺の頭の中に在るのは、寝室である六畳間の押入れである。

 三人分の衣類は箪笥とクロゼットに収められている。もとより俺の服など物の数だが、クリーニングから帰って来た礼服はヅチくんのスーツと同衾している。普段の衣類一式は下着や靴下に至るまでそれらの場所に収まりきっているから、押入れは一度も開けられたことがない。

 俺は前のアパートを引き払うときに生活必需品とされるものの大半を処分した。それでも、捨て難いものたちは申し訳ないと思いつつもあの部屋にある。見澤に言われるまま、四畳半の押入れの上段を「此処が有馬の場所ね」と宛がわれて其処にしまった。六畳間の押入れは開かずの扉で、四畳半の下段に暖房器具やアイロンが眠り、本棚にはヅチくんと見澤の蔵書がきっちりしまわれている。そう考えれば、六畳間の押入れの中には二人の「過去」が眠っている可能性が高い。

 いや、もちろんガラクタばかり転がり出てきて、埃塗れになって呆然とする可能性だってある。そもそも同居していてもプライベートを詮索するような真似はするべきではない。二人の携帯電話だって俺は触れたことがないくらいで、大義名分を付けて人の携帯を覗こうとする人間を俺は軽蔑している。自分を其処まで堕すことにはもちろん抵抗が在った。

 けれど、俺は昇ってきたエレベーターでそのまま一階まで降り、チャイムの鳴るキャンパスの中を横断して、駅に向かうバスに乗った。三限が終わった後の四限は見澤と一緒の文学史で、それまでに戻れば恐らく見澤には気付かれない。背徳の痛みは却って俺を煽り、家に着く頃にはもう、走るようなスピードになっていた。ポケットから、二人からプレゼントされた合鍵を取り出してドアを開ける。見澤の声がしない部屋は蒸し暑く、俺が歓迎されていないことは明らかだった。濃密な男の匂いがした。

 押入れの引き戸を開く。

 まず鼻に届いたのは、積まれたダンボールの匂いで、「冬もの(昴星)」とか「くつ(ヅチくん)」とか、子供っぽい見澤の字で大書されている。俺は呆気なく「そうだよな」と呟いた。引き出しの中に入っているものは夏物ばかりで、ヅチくんの穿く靴が仕事に行くときの革靴だけの訳もない。見当たらない生活の欠片が此処にしまってあることは、よくよく考えれば妥当すぎる。ただ一つ、ヅチくんはこんなところでも「ヅチくん」なのだということを知っただけでも価値があるかもしれない。それから小型の衣装ケースが在った。

「……何だこれ……」

 半透明のプラスチックの向こうに、どういう訳かメイド服やエプロンなどのコスプレ衣装、女性物の下着、それから「……ブリーフ?」などが仕舞われていた。見なかったことにした。これは夫婦の秘密である。

 しかし俺の手は止まらなかった。薄っすらと埃を被ったダンボールを一つずつ外に出す。

 アパートの賃貸契約書や保険の書類が纏められた封筒が出てきた。一瞬、ヅチくんの本名を知るチャンスだと興味を惹かれたが、憚られてやめた。しかし其れを見ないとなると、最早この押入れの中に見るべきものはない。

 自分には不向きなことなのかも知れないと、俺は薄々感付き始めた。大人しく見澤の作ってくれる鶏のから揚げを美味しく食べていれば俺は幸せ、……そう、幸せなのだ。自ら進んで生活に亀裂を走らせるような真似をどうしてしようと思ったのか……。

 ヅチくんと見澤に、もっと近付きたいと思ったのだ。二人の間にある距離と、俺と二人の間にある距離の差が、もう少し縮まったらいいなどと、俺は不遜な事を考えたのだ。所詮は他人に過ぎないのに、望みすぎた。けれど、……いいだろう、少しくらいは。二人が俺で幸せになれるのならば……。

 何を見付ける気だったのだ。何が見付かると思っていたのだ。ヅチくんのへそくりを見つけたとして、それを俺がどうすると言うのだ。見澤だってきっと怒りはしないだろう。

 しばらくぼんやりと口を開ける押入れの中を覗きこんでいたが、めぼしい物は見付からない。半分は安堵の溜め息を吐いて、汗だくになりながら俺は原状回復に努めた。

 重い見澤の冬物を担ぎ上げ、続いてヅチくんの靴のダンボールを持ち上げたときだった。

 重い物の直後に軽い物を担ぎ上げると、その軽さに身体が一瞬驚いて、勢いがつき過ぎてしまうことがたまにある。呆気なくバランスを崩し、ダンボールを取り落とした拍子に箱の蓋が開いて、中から、恐らく年に一回も履かれないであろう小ぎれいな登山靴が、湿気取りと一緒に転がり出す。慌てて其れを揃えて箱の中に戻そうとした俺は、箱の底に古ぼけた風呂敷包みが収められていることに気付いた。変哲のない、青色の風呂敷である。

 持ち上げてみると、薄い其れの中身は何か布のような質感である。ほんの少しの逡巡を断りのように挟んで、中から出てきたものを開いて、俺はしばらく、硬直する。

 Tシャツと半ズボン、子供服だった。夏空色の青いTシャツと、黒い半ズボン、……一見してそう判断した俺は其れが誤りであることにすぐ気付いた。ズボンの大部分は黒いが、よく見るとウエストの辺りには元のデニムブルーが僅かに残っている。

 血だ、ということに、俺は思い至る。乾燥しきって黒変し、固くなっているが、それが血であることは間違いなかった。

「人を殺す夢」という見澤の言葉が俺の中に蘇る。

 どれくらい、俺はその子供服を床に広げて硬直していただろうか。ポケットの中で携帯電話が震えた。俺は顔に流れていた汗をシャツの袖で拭い、見澤からの着信であることを確認する。

「……もしもし?」

「なー、俺いま食堂の前だけど、あんたどこー?」

「あ……、ごめん。ちょっと身体しんどくなっちゃって」

 嘘は、目の前の現実と同じくらいに苦い味がする。「家で、寝てる」

「具合悪いの? どうしたの?」

「……判らない、けど、寝てたら少し楽になってきた。……夏バテかな」

「お腹は? 気持ち悪くない? 熱は?」

 矢継ぎ早の質問は全て真剣な声で齎される。「大丈夫」と答えながら、この言葉も嘘だな、と俺は困惑する。

「わかった、じゃあ、家で寝てて。すぐ帰るから」

「い、いいよ……、一人でも大丈夫だから」

「ダメ。大人しく寝てろ」

 電話が切られる前から、見澤が走り出す不規則な足音が受話器の向こうから届いていた。大慌てで俺は血に汚れた子供服とヅチくんの雪靴を元の通りに仕舞い、押入れを漁った痕跡の残っていない事を確かめる。窓を開けて扇風機も使って埃の臭いを外に逃しつつ布団を敷き、横たわった。考えが纏るよりも先に汗だくの見澤が帰って来た。

「大丈夫?」

 息が整うより先に、見澤は俺の枕元に膝を付く。「ポカリ買って来たよ。……めまいする? 目ぇチカチカしたりしない?」

 その言葉は、俺の胃を傷めるくらいに真面目だ。額に手を当てられる、冷んやりとして心地良く、柔らかい掌だ。指先だけほんの少しかさついているのは、普段の水仕事のせいだろう。

「……お前、サボったの?」

「だって、あんたが具合悪いのほっといて講義なんて受けられるわけないだろ。……晩飯はおかゆにする」

 俺は首を振って、身を起こした。「もう大丈夫だ。食欲もちゃんとある」

「でも……」

「軽い夏バテだと思う。しっかりしたもの食べて栄養付ければすぐよくなるよ、……心配掛けて悪かった」

 見澤はじっと俺の顔を覗き込んだが、やがて納得したように頷いた。

「わかった、美味しいの作ってあげる。……けど、晩御飯まではちゃんと寝てること。いいな?」

 嘘が布団に俺を磔にした。「鶏肉買って来る、あと粉もなかったと思うから、それも一緒に」と言い残して汗が引く前に出掛けて行った見澤に取り残された俺は、ぴったりと閉じられた押入れに目を向ける。

 血に塗れたあのズボン、見澤を襲う悪夢……。

 見澤がこうして俺を一人残して出掛けて行ったということは、見澤はあの子供服がああして押入れの中に眠っていることを知らないのかもしれない。だとすれば、あれはヅチくんが隠し持っているものだということになる。

 俺は呆然の中で色々なことを考えた。本当に眩暈を覚えてしまいそうになる。勝手極まりないことに、二人の隠しているものを見たいと思った俺は、いまや見たくなかったとさえ思っている。何も知らないままだったなら、子供のように何も考えず、ただ二人の優しさを享受することだって出来ただろうに、疑問はそれ自身の纏う疑問によって、益々膨れ上がるようだ。

 何故、俺が必要なのだ?

 何故、俺に優しくしてくれるのだ?

 俺とは二人にとって、一体何なのだ。

 見澤が起こしてくれるまで、ごく浅い眠りの中に落ちた。俺は生まれて初めて、色の付いた夢を見た。

 それでも夕飯のから揚げは、食べた。

 

 

 

 

 電車に揺られている。一眠りして目を覚ましてもまだ、電車は走っている。ふと目を覚ましては何処かの駅、うとうとしたと思ったら海沿いを走っていて、大半が埋まっていた席が気付けばがらんと空いている。

 未だ夏の青を映し出す海が離れたら、ようやく列車は終点に辿り着く。

 一時間余り揺られて降りた駅は、あのアパートのある場所と同じ県の中に在りながら、趣は大きく異なっていた。高い乗り越し料金を払って改札を出た俺の頬は、故郷の街に吹くものと同じ匂いの風を感じる。改札の脇には土産物屋のワゴンが並んでいて、今夜のおかずによさそうな鯵の開きが独特の臭気を放っていた。

 時刻は十一時四十分、最上とはいえないが、まずまず頃合の時刻に辿り着いたと思ってささやかなターミナルのバス停で時刻表を見たら、次のバスまで三十分近くある。見上げた青空はやはり途方もなく青く澄んで、その一番高みから余力を残すということを知らぬように太陽が睨んでいた。溜め息を吐いて、メールを送る、「すみません、少し遅れそうです」

 やってきたバスの車内はクーラーが効きすぎていて、流汗淋漓の身はみるみる冷えた。慌てて見澤が鞄に入れてくれたタオルで顔を拭う。自発的にタオルを鞄に入れるということを、俺は出来ない。今後出来るようになる素養もない。頭には麦藁帽子が不格好に乗っている。

 大丈夫だよ、気をつけて来て。

 メールを受け取って一息つく。車窓には再び呆れるほどに青い海が広がった。もっとも海沿いの道の海の家は殆ど軒を閉じているし、砂浜のよしずも取り払われている。寂寞とした秋の気配も確かにあちらこちら、漂ってはいる。濃厚な青い海だった。

 小銭がなくて、後払いのバスで少し手間取って降りると、海沿いの二車線道路に人気はない。昼下がりのまどろみの中に在るような時間帯、右手には防波堤左手には疎らな人家、行き交う車も無く、俺の足はなんだか鈍りがちになるけれど叱咤して路を辿ったら、汗が滲む。潮風はべたつくが、心地よくも感じられる。

 まどろみのような海辺の静けさの中でまるで其処だけ息衝き、生存しているように騒々しい工場が現れた。そのごく小さな建造物を工場と呼んでいいのかは判らないが、ヅチくんから送られてきた地図によると、やはり此処が目的地であるようだ。

「関係者以外立入禁止」と書かれた空っぽの守衛スタンドを見ているうちに、本当に此処にヅチくんが居るのだろうかという気になってきた。少し思案して、ポケットから取り出した携帯電話を鳴らすと、三度目のベルで繋がった。

「あの、遅くなってごめんなさい。いま着きました」

 ―工場の前? すぐ行くから其処で待ってて。

 電話の向こうでは、大きな機械が唸っている。俺の鼻は背にした海からの潮の香りとは明らかに異質な、工場の中から漏れてくる何ともいえない魚の匂いを感じていた。看板から察するに、此処は海産物の缶詰工場なのだろう。鯖の味噌煮缶とか、秋刀魚の蒲焼とか、恐らくはそういう類の。一人で暮らしているときにはたまに世話になった。缶詰と白い飯が在れば十分に晩飯になったのだ。見澤にそんなことを言ったらきっと「信じらんないッ」と言われるに決まっている。

 古ぼけた工場を、改めて見上げる。この中にヅチくんが居るということが、何だか今もまだ、信じられない。

 毎朝早くに、きっちりとしたスーツに身を固めて、彼は出勤する。「ピンストライプの濃い奴だけは辞めてね」と見澤が以前言ったことがあるそうで、今朝彼が着て行った夏物のスーツはストライプだが眼を凝らしてやっと判る地味なものだ「だってさ、ストライプのくっきりしてるやつってさ、なんかこう、ホストっぽくってチャラチャラしてる風に見えるでしょ」……その後姿と、彼の纏う知的な雰囲気を、俺は勝手に統合し咀嚼し再構成し、ヅチくんという人はきっと六本木か丸の内か判らないけれど都心部の化け物みたいに巨大な身体を持つビルの中にオフィスを構えた会社で働いているものだと、勝手に想像していた。

 しかし、ヅチくんから送られてきたメールに書かれていた場所は、アパートの最寄り駅から都心とは反対に向かう下り電車で一時間半揺られて着いた先、ローカルバスに乗り継いで二十分近く走った先の、この工場なのだ。

 「ヅチくん」と「工場」、まったくそぐわない。陽炎立つ工場の狭い駐車場を眺めながら、俺は呆然とそんなことを思っていた。

「お待たせ」

 俺の視界に、ヅチくんが入った。ワイシャツのボタンは二つ目まで開け、ネクタイは外している。手に、とてもオシャレとは言いがたい濃緑色のジャンパーを持っている。ただ表情を含めて、俺の知っているヅチくんだ、とても流麗な仕草で見澤を抱き締めるヅチくんだった。

「暑かっただろう、……こんな遠くまでありがとう」

 ヅチくんの日焼けの理由に、俺はようやく納得が行った。

俺は慌てて財布の中から一万円札を一枚取り出して、「これ」と差し出す。

「本当に助かった。こっちに着いてから気付いたからどうしようもなくってさ。誰かに借りようと思ったんだけど、それもしづらくて」

 細く長い指、大きな掌、麦藁を脱いだ俺の、汗ばんだ髪をぐしゃぐしゃと撫ぜた。時刻は一時少し前、俺もヅチくんも腹の中が寂しい。

 本日火曜日二限は見澤曰く「俺とあんたの出逢った記念日」でいつもの机に席を並べて座って授業を受けていたのだが、……授業開始から十五分も経過すれば肘を付いたまま居眠りに落ちるのがいつものパターン、そして見澤が深い眠りに落ちて間もなく、そのタイミングを見計らったように俺の携帯電話が揺れた。

 ―昴星は起きてる?

 差出人はヅチくんだった。

 ―寝てます。

 ぐー、と控えめな寝息を見澤が立てる。このところ怖い夢は見ていない。

 ―昴星に気付かれないように授業抜けることって出来るかな。

 ―はい?

 ―財布忘れた。ポケットの中に定期入れしか入ってなくてさ、このままだと昼飯が食べられない。

 見澤の鼾が途中で止まった、見ると、肘がかくんと折れて、むなむなと何やら呟きながら、突っ伏して寝直しの体勢に入る。

 ―昴星に知られたらからかわれるから、内緒で出てきてくれると嬉しい。

 講義は退屈なもので、俺の座る場所から見える範囲でも黒や茶色や金色の頭がぽこぽこと、まるで芭蕉が詠んだ松島か象潟のごとき風景が広がっている。ぼそぼそと喋りながら時折板書する教授もそんなことは承知の上らしく、うるさく彼らを起こして廻ったりすることはない。

 ―わかりました。やってみます。

 エスケープは容易かった。先日のように急に姿を消して心配を掛けるのは憚られたから、ルーズリーフの端に「急用が出来た、出掛ける。後でメールする。」とだけメモを走らせて教室を抜け出す。講義中で静まり返ったキャンパスの中を駆け抜ける最中にヅチくんから行き先の指定が送られてきて、電車に飛び乗って、……今に至る。

「上手く気付かれずに抜けて来られた?」

 俺が頷くと、ヅチくんは時計をちらりと見る、工場の方からチャイムが鳴った。昼休みの終鈴に違いなかった。

「昼飯食いに行こうか」

「え?」

「腹減っただろ。こんな田舎だけど、それでも食べるところぐらいはあるから」

 ヅチくんは門扉脇に止められた、錆び掛けた自転車のスタンドを外した。錆び付いたチェーンが鳴る。

「後ろ」

 跨ったヅチくんの、そう重くない体重だけで、ぎぃと軋む。指差されて尻を乗せた荷台も大層な座り心地で後輪が捉える僅かな段差も逃さず俺の尾骨をノックする。

「昼休み、大丈夫なんですか?」

「うん、俺一応工場長だから」

 海沿いのなだらかな上り坂を立ち漕ぎで走るヅチくんの背筋にはうっすら汗が滲んでいる。俺より少し細く見える背中から、早まった呼吸の音が聴こえてくる。其れは道が下り坂に変わってもなお暫く収まることはなかったが、それでも俺より華奢な身体で居ながら、しっかりとした足の力でペダルを漕ぎ下ろしている。

 今しばらく自転車は走る、その間俺は目の前の細い背中を見ながら、……この古びた自転車のチェーンの鳴る音を聴きながら、俺の耳は彼方の海の鳴く音を聴く。こんな風に座り心地の良くない自転車の荷台に乗るなど、もう十年ぶりぐらいになるだろうか。

 ヅチくんの自転車は潮風で色褪せたような定食屋の前に止まった。ヅチくんは二人分の昼定食をオーダーし、

「午後の授業、サボらせてごめんね」

 と頭を下げた。

「いえ、大丈夫です」

「昴星と重なってる授業だから、出席は足りてるだろうと思ったんだ」

 それは事実だ。基本的に見澤は勤勉に大学に通う。俺も見澤と知り合ってからは彼を見習って出来るだけ休み無く通うようになった。それにいまは、俺の生活を支えるヅチくんに不義理を働く訳には行かないから。

 刺身定食が運ばれてきた。さすがに海が近いからか、俺たちの住む街でこれを食べたら三倍近く取られそうな豪華な昼食だった。古ぼけた青い羽の扇風機が温風を掻き混ぜる店内で、俺たちは猛然と昼食を食い、再び表に出た。

「……仕事は、良いんですか?」

「うん、一応工場長だから、ある程度の融通はきかせられる」

「工場長」という役職がなんとなくそぐわない、スマートな眼鏡の人だ。ヅチくんは自転車に跨らず、俺の隣を転がしつつ、「元は東京のオフィスに居たんだけど、去年海外に出向させられそうになった。……昴星を探して探して、やっと会えたと思った矢先だったよ」

 ヅチくんは、静かな微笑を浮かべたまま俺を見て、自転車を止める。なだらかな曲線で長く繋がる堤防に立てかけられた木の梯子を使って、ひょいとその上に登ると胡坐をかいて煙草に火をつけた。

「此処からの景色はなかなかだよ」

 俺も、ヅチくんの手を借りて、どうにか登る。広々と、太平洋が懐を広げていた。遥かで空と繋がって、気まぐれのような雲が浮かぶ。波はあくまで穏やかで、眩いほどの濃い青の光が降り注いでいる。

 俺も、ヅチくんの隣で煙草に火をつけた。

 ヅチくんの手元には、彼の長財布があった。其処から一万円札を取り出して、俺に差し出した。

「嘘をついた。君を呼び出す口実が欲しくてね」

「判ってます。あいつが毎朝ヅチくんの鞄をチェックしてるのに、今日に限って財布が入ってないことに気付かないはずがないですから。それに」

「俺が呼び出すってことが想定内だった」

 頷いた。ヅチくんは穏やかな表情を少しも変えることは無かった。俺も、自分に無表情を強いていた。

 俺から言うべきか、一瞬逡巡したところで、

「押入れの中を見たんだな?」

 ヅチくんが先手を打った。

「この間、早退したときか」

「……はい」

「有馬も嘘がつけないんだな。正直なのは良いことだ」

 ヅチくんは俺の髪を撫ぜるような声で言った。「あの日から、ずっと表情が硬い。それに、俺と二人きりになる時間を探しているように見えた」

「……見澤の前では、訊けませんから」

「そうだね、確かに。あの服があそこに仕舞ってある事を、多分昴星は知らないから」

 ヅチくんはゆったりとしたリズムで煙草を吸っていた。俺の方が後に吸い始めたのに、ヅチくんが開けた携帯灰皿には俺の吸殻が先に収まった。

「どうせいつまでも隠してはおけないことは判ってた。いつかは言わなきゃいけないってことも。ただ其れが億劫で延び延びになっていただけのことだ」

 堤防の足元にはささやかな砂浜が広がっている。風の足跡がくっきりと残っているが、夏場はさぞかし混雑しそうだと俺は思いかけて、すぐに考えを修正した。ゴミ一つ落ちていない。周囲に海の家もない。

 平穏な景色だった。

「昴星がどうして怖い夢を見るか、理由を訊いた?」

 俺は頷く。「……人を、殺したからと言っていました」

「そうか。……言わなきゃいいのにな、そんなこと。言わなきゃ君が悩むことも無かったし、俺が説明する必要も無かった、……本当に悪い癖だな、隠しておけないのは」

 やっと煙草を消して、ヅチくんは甘苦い笑みを浮かべる。

 彼の声は波の音のように、低いところで響いた。

「……大体は、本当のことだよ。大体は、ね」

 音は、いつまでも残響を揺らす。ヅチくんはじっと俺の顔を見詰めて、

「ひょっとして、俺の靴と一緒に在ったから、俺が何処かで子供を殺したと思ってた?」

 と訊く。俺は、頷くことも首を振ることも出来なかった。

 ヅチくんは汗一つかいていない顔から表情を消して、陽に焼けた顔を海に向ける。俺は縛られたように、何一つ言えないで居た。

「あの服は、昴星自身のものだ」

 ヅチくんは、傷んでいるように見えた。

「十歳のときの昴星があの日、あのとき、身に着けていたもの。……小さかったんだ、小さくて、とても可愛かった」

 俺は、あのズボンに付着した血痕を思い出していた。血痕は、向かって左半分に大きく広がっていなかったか。俺は見澤のその場所に、美しい肌の中で異様な傷跡が在った事を思い出す。

 十歳の見澤がどんな顔をしていたのかという想像は、俺には容易く出来た。十九歳のいまだって「美少年」と言って差し支えない相貌をしているのだから。

「返り血だと思った?」

「……いえ、死んだ……、殺された誰かの血だと思いました。あれは、見澤の血だったんですか」

「うん。……昴星の足が少し不自由だって、気付いてた?」

 俺は頷いた。少しの段差で転ぶ、歩くペースが早くなるとすぐ息が上がり、庇うような歩き方になる。

「傷が深くてね。少しずれていたら歩けなくなっていたそうだよ」

 ヅチくんは其処で言葉を切って、またゆっくりとした動作で煙草に火を点けた。いつもヅチくんを側に感じるときには、幽かな煙草の匂いが一緒だ。眼鏡の奥の目は水平線を眺め、吐き出した煙は潮風に混ざって消える。ヅチくんの言う「あの日」は、いまヅチくんの目の前にあるのかもしれない。

「昴星は、母親を刺した」

 ヅチくんが目を伏せた。

「昴星が八つのときに、父親が病気で死んでね。経済的にもしんどい状況にあったんだ。もともと苛烈な人ではあったみたいだけど、日常的に昴星に暴力を振るうようになった。あの頃昴星はいつ見ても何処かしらに生傷を作っていて、でも学校では隠して、遊んでて転んだとか、嘘をついていた。……俺は昴星と同じ団地に住んでて、昴星がまだ幼稚園の頃から知ってて一緒に遊んでいたから、自然と知るようになったんだけど」

 目を開いたヅチくんは灰皿に煙草を潰すとすぐに次の一本に火をつけた。目の下に、少し青黒い陰が浮かんだように見える。

「俺はずっと、昴星が可愛くってね。小さい頃から知ってるし、ずっと俺を『お兄ちゃん』って呼んで、後ろを付いて歩くような子だったから。でもって、……薄汚い話だけどね、俺自身、丁度高校の受験前でストレスが溜まってたってこともある。俺が中三で十五歳、昴星が九歳のとき、俺はあの子に悪戯をした」

「悪戯……」

「みんなには内緒だよって、団地の裏に連れて行って。そのとき俺は昴星の裸を見た。……あっちこっちに痣があった。どうしたのって訊いたら、あの子は『何にもない』って。それでもね、根気強く訊いたら、教えてくれた。……母親にされたんだって」

 ヅチくんは自嘲するように笑う。

「おかしいと思われるかもしれないけど俺は……、自分が昴星を虐げようとしたくせに、昴星の母親が許せないって思った。……昴星、しくしく泣いて、誰にも言わないでって。何でもするから、言うこと聞くから、だから内緒にしてって俺に頼んだんだよ」

 だから、俺は色々した、とヅチくんは暗い笑みを浮かべながら言う。その口調は、普段の硬く理知的なものではなくなっていた。「あの日」の彼は、そんな風に喋る少年だったのだろうか。

「昴星は、約束を守った。痛がったけど、最初に少し泣いた以外はずっと我慢してたよ。……あの子に、ほんの少しだけ小遣いをあげて、帰らせた。俺は誰にも言わない、昴星も誰にも言わない、互いにね、ナイフを突き付け合うようにして、でも俺が一方的に得なだけの取引をしたんだ。でも、そうしたらね、……次の日も、その次の日も、あの子は俺の側に寄ってきて、甘えるようになった。『嫌じゃないの?』って聞いたら、首振って、『お母さんにされるよりずっと平気』って」

「お母さんに……、って……」

「どういうことだろうね」

 ヅチくんは、そんな風にはぐらかした。

「会って、あの子に悪戯をするたびに小遣いをあげて、……そう、お菓子を買ってあげたりね。俺にとっては幸せな時間だった、……服を脱がせるまではね。昴星の裸には、見るたびに新しい痣が出来ていくんだ。それはほとんど身を抉られるような思いで俺は其れを見てた。……目に涙を浮かべて、『誰にも言わないで』って俺に請う昴星の顔を見てたら、……この子のためにしてやれることはないか、護ってやれないかって思ってね。でも何も出来ないまま、半年くらい経ったんじゃなかったかな、秋が冬になって春になって、俺は目的の高校に受かって、……でもその間ずっと昴星への虐待は続いていた、……昴星の母親の、……そして、俺のね」

 ヅチくんの横顔は中学生が宿ったように青褪めていた。自らの手で昴星を汚しつつも、「護りたい」と願うような身勝手が、それでも十五歳の少年にはきっと居心地のいいものだったのだろうと俺は想像する。……想像する所までは出来ても、容認することは出来なかったけれど。

「五月だった。昴星は、俺のあげたほんのちょびっとずつの小遣いを貯めて、ゲームを買ったんだよ。一人で買いに行くの心細いって言うから、俺も一緒に玩具屋さんに付いて行った。昴星はすごく嬉しそうでね。考えてみれば俺は半年で随分な額を昴星に渡していたことになる。大事にするって、本当に嬉しそうにあの子は言った。……やってることは汚らわしいにしても、あのときの俺たちにはもう、互いに通い合う感情があったから、昴星が笑うのを見ると俺も嬉しかったよ。

 その日、いつもみたいに団地の裏の、……いつからか昴星が『秘密基地』って呼ぶようになった場所でセックスをし終わったあとに、昴星はこう言った。『いつか、お兄ちゃんのお嫁さんになりたい』って。男はお嫁さんにはなれないんだよって言ってやったら、『でもなりたいから、絶対なる。でもって、子供産んで、お母さんになる。そしてその子供には、俺は絶対痛い思いなんかさせないんだ』って……。指切りをして、その日は別れた。

 ……その日の夜のことだよ、事件があったのは」

 ヅチくんは顔を顰める。見澤が未だに魘される悪夢の光景は、ヅチくんの双眸にも焼きついて離れないようだった。

「夜に、近所のコンビニへ買い物に出掛けた帰りだった。道から昴星の部屋を見上げたら、電気が消えていてね。まだ八時とかだったと思う。何だか気になって、……部屋の前まで行った。呼び鈴鳴らしても誰も出なくて、でもドアに耳を当てたらすぐ近くで昴星の声がするんだ、……すすり泣きながらね、『ごめんなさい、ごめんなさい』って。全身の毛が逆立つような気持ちになった。あのとき、ドアの鍵が閉まっていたら俺は永遠に昴星を喪うことになっていたかもしれない」

 飛び込んだヅチくんが見たのは、真っ暗な玄関で蹲る見澤の姿だったと言う。

「あのときの、昴星の姿を、俺は忘れない」

 外廊下から差し込む灯りで、少年が赤黒い水溜りの上にへたり込んでいるのだということはすぐ判った。

 少年の半ズボンの裾には、庖丁の柄が突き立てられていた。

 ヅチくんは、目の前に立つ黒い影と相対した。「昴星の母親の顔を見るのは初めてじゃなかったと思う。昴星もそうだけど、華奢でね、それほど背も高くない人だと思ったんだけど、そのときは凄く大きくて、……真っ黒に見えた。……興奮して、何か訳の判らないことを盛んに口走っていた」

 見澤が濡れた眼で、ヅチくんを見上げた。

「お兄ちゃん」

 と、救いを求める声を耳にした瞬間に、

「俺の、血液が沸騰した。昴星を傷付ける人が、憎くて、憎くて、仕方がなく思えた」

 ヅチくんは短くなった煙草を消したが、もう次の一本に火を点けることはなかった。俺も黙ったまま、ずっと聴いている。

「……後になって判ったことなんだけどね、昴星、その日俺が買ってあげたゲームを母親に取り上げられて、……いつもは乱暴されても膝抱えて泣いてるばっかりだったのに、初めて反抗したんだって。そうしたら母親が逆上して、庖丁を取り出して、……逃げ着いた先の玄関で、足を刺された。其処に俺が来たんだ。鍵が掛かってなかったのは昴星が逃げようとしたから。……あのとき、今しかないんだって、思ったよ。昴星を護らなきゃって、無我夢中だった」

 団地の狭い玄関で、揉み合いになった。高校生としては腕力のある方だったヅチくんでも、猛り狂った見澤の母親の攻撃にはたじろいだ。顔を引っ掻かれ、馬乗りになられて、首を絞められた。脂汗を浮かべて、ヅチくんの意識が遠退きかけた瞬間だっただろうか。

 その力が、ふっと軽くなった。

「昴星がね、後ろから、母親の、……この辺り」

 と、ヅチくんは自分の左腰の後ろに掌を当てる。「……を、刺したんだ。自分の足に刺さってた包丁を引き抜いてね。昴星の母親は、信じられないように昴星を振り返って、昴星はガクガク震えながら、庖丁を握ったままの格好で固まってた」

 見澤が怖い夢を見る理由を、俺はやっと理解した。

 その手で自分の母親を刺したのだ。……それが後々まで尾を引いて、いま十九歳の見澤を苦しめていたとして、何の不思議が在るだろう。

「いや」

 そんな俺の物思いを見透かしたように、ヅチくんが首を振った。

「そのときは、まだ昴星の母親は生きていた。中途半端なところにめり込んだ庖丁の柄を見て、俺は色んな事を考えたんだ。……目の前で身を丸めて倒れこんだ昴星の母親、昴星の太腿から流れる血、耳に届く、昴星の声……」

 ヅチくんは、見澤の母親に刺さった庖丁を握ると、そのままもっと奥深くへと刃を進めた。血溜まりの上で彼女は呪詛の言葉を繰り返しながらしばらく細い呼吸をしていたが、やがて「ひっ」と声を上擦らせて、ぴくりとも動かなくなった。ヅチくんは彼女の首筋に指を当てて、鼓動がなくなっていることを確かめる。

 お兄ちゃん、と再びへたり込んだ見澤が呼んだ。

「昴星の母親を殺したのは、昴星じゃない、俺だよ」

 ヅチくんの言葉を聴く俺の口の中はからからに乾いていた。汗が額に滲むほど暑いはずなのに、膚の一枚下は凍りついたような心持だ。

「でも」

 声は、自分でもはっきり判るほど震えていた。

「でも、それは、……見澤を護るためにやったんでしょう、見澤は殺されてたかも知れない、だから……」

「うん、……正当防衛って言えたかも知れないし、実際、裁判ではそういう結論が出た」

 青い横顔が、黒い息を吐き、透明な言葉を紡ぐ。

「でも、殺意はあったよ」

 はっきりと。

「……もしあの母親があのとき死ななかったとして、昴星が再び危険な目に遭わないなんて俺には信じられなかった。昴星の母親の此処」

 とヅチくんは自分のこめかみの辺りを指差して、

「が少しおかしくなっていたことは確かだった。仮に牢屋に入れられたとして、そう長い時間経たずに戻って来てしまうかもしれない、そうしたら、また昴星は怖い思いをする、……俺にはそれが耐えられないような気がした」

 救急車を呼ぼう、と言ったヅチくんを、泣きながら昴星は止めた。「お兄ちゃんが捕まっちゃうよ」と。

「もちろん、其れは覚悟の上だった。昴星の出血は酷かったし、早く処置しないとって思ったんだ。もうそのときは昴星、立ち上がれなくなってたからね、出血も多くて、顔も青褪めて、寒そうに震えてた。それに、……馬鹿みたいな話かもしれないけど、大好きな子を護って捕まるならそれも仕方ないかっていう気でいたんだ。……俺は救急車とパトカーがやって来るまで、ずっと昴星を膝に乗せて抱き締めてた。この子の足がこれからも繋がったままでありますようにって祈って、祈って……」

 結論から言えば、ヅチくんも見澤も捕まらなかった。幼子が最初から最後まで「俺が殺したんだ」と言い張っていたことも影響したのかもしれないとヅチくんは言った。「丁度それぐらいの時期から、親の虐待っていうのが社会的問題になりはじめていたからね。結局昴星も俺も正当防衛でお咎め無し。だけど俺はもう昴星に会うことは出来なくなった。全部片付いたときには、俺ももう、あの団地には居られなくなっていたし、昴星は九州の遠い親戚に引き取られて行った」

 高校生の横顔をしていたヅチくんは急激に二十五歳の青年に戻ったように、静かな声で言葉を紡ぐ。

「昴星と、もう会うことはないって思ってた。事件の証拠品だった昴星の服を無理言って警察から譲って貰って、……絶対に忘れないって誓って生きてきた。……でも去年の四月、つまり昴星がいまの大学に入って、上京してきた頃、昴星は俺を探し出したんだ。俺は家族と一緒に東北に住んで、向こうの大学を出たんだけど、昴星は東北の高校や大学をしらみつぶしに探して行って、……とうとう俺を見付け出したんだよ。驚くくらい大人になって、でも、昔と変わらず可愛くて綺麗なままで、『ヅチくん』って俺を呼んだんだ」

「……『ヅチくん』」

「前に訊かれたね、どうして俺が『ヅチくん』なのかって。……有馬は武甕槌命っていう軍神を知ってる?」

「……名前だけは」

「日本神話に出てくる神の一人だ。絶対的な力で以て絶望の縁から救い出した、……そんな大袈裟なことを昴星は言ったよ。だからずっと俺のことを、胸の中で『ヅチくん』って呼んでたんだって。そんなご大層なもんじゃないけど、昴星がそう呼びたいなら好きにしていい。だから俺はその日から『ヅチくん』になった。……ちなみに本名は武智加津巳といいます、はじめまして」

 薄い笑みを浮かべて、ヅチくんはやっと三本目の煙草を咥える。火の点け方も最初の一口の吹かし方も、短い期間で俺が見慣れたものだった。

「……驚いた?」

 俺は、素直に頷いた。目の前の人が、そして見澤が、まるで知らない誰かのように思える。

 恐ろしいなどとは思わない、けれど、……。

「此処まで話せば、……俺の見てきた限り、君は頭がいいから、どうして昴星が君を求めるか判るだろう」

 もう一度、俺は頷いた。ただ、そのとき僅かに首は軋んだ。

「見澤は」

 喉が、渇いた。

「……俺の、……母親になりたいんですね?」

 ヅチくんは、静かに頷いた。

「早くに父親を病気で、母親をああいう形で喪って、引き取られた先でもあまり可愛がってはもらえなかったらしい。だからあの子には、『家族』というものに憧れる気持ちがある、……普通の人が思うのよりも、ずっとずっと強く。俺と再会した時にはもちろん、もう男同士じゃ結婚できないってことも、自分が子供を産めないってことも判ってただろうけど、……でもね、『ヅチくんとの間に子供が居たら、俺はその子のことを死ぬほど可愛がって育てる、命に替えても幸せにする』って、ずっと言ってた。それを言われるのが、俺は辛くってね。昴星の願いはどんなことでも叶えてやりたいけど、……日本は同性愛者に対しての視線はまだまだ厳しいから、養子縁組なんて出来ないし」

 其処に現れたのが俺だ。ケースは違えど、両親を喪い、血の繋がっていない祖父に引き取られて過ごした、北方有馬という男。「お揃いっ」と嬉しそうに言った見澤の声が蘇った。

 俺の祖父は死に、俺は一人ぼっちになった。

 もう、誰の俺でもない。

「俺は昴星の願いを叶えたかった。だから唆したんだ。昴星が大学で一番仲良くなった君に、同じように両親が居ないと知ったとき、……その子を自分の子供にすればいいじゃないかって。……もちろん、人の生を他人が左右するんだ、それに『子供』は独善的な欲に基づいて求められるべきものじゃない。だから、……もちろん俺を含めて、全身全霊を以って幸せにしなくてはいけない、護ってあげなくてはいけない……」

「だから……、あなたは、……見澤を俺に、抱かせたんですか、……『母親』なのに……?」

「それぐらいの痛みと引き換えにしなければ手に入れられないものだと思ったからね。それにあの子にとって『母親』とはそういうことをする存在だったから」

 冷え切った血が全身を駆け巡る。脳を通過するたび熱くなった。

「あんたあいつの恋人だろう!」

 いけないと、思う暇もなく、声は零れていた。

「旦那なんだろう! それなのに……」

 そう長くは、続かなかったけれど。

「恋人が他の誰かとセックスする事を平気な俺はおかしい?」

「あんたもおかしいし、見澤もおかしいよ!」

 立ち上がって怒鳴り散らす俺を見上げて、ヅチくんは平穏な表情を保っていた。もう既に、笑顔を取り戻している。

「昴星はどう足掻いても『母親』にはなれない。あの子が望んでいるのは、あの日の自分を救い出すことだ、……そもそもあの子とあの子の母親にしたって真ッ当な親子関係とは言い難かったんだ、自分が受けた屈辱や悲しみを、より幸せなものを体現することで克服する……、それがあの子の願いであり、……同じ事を、俺も願っている」

 立ち尽くす俺から視線を逸らして、彼はソフトパックの中の最後の一本を抜き取った。

 少し躊躇ってから、

「俺はどんなことだってしなきゃいけないんだよ」

 意を決したように、彼は火を点けた。

「あの子を護るために、どんなに穢れようと構わない気で居る。責めは全て俺が負う。君の人生を俺たちが左右してしまったことは、本当に申し訳ないと思っている。……ごめんね、悪いのは、全部俺だ」

 溜め息は煙と共に、青の中に消えた。

「……昴星のことは気にしないで良い、……これからも俺があの子を護る。いままでと、少しも変わりはない」

 ヅチくんの言葉は、煙草がまだ半ば以上残っているそのとき、終わった。彼の顔からは再び表情が消え、繰り返される波の音を数えているように見える。

 俺は黙ったまま堤防から降りた。

 目の前が青い。なだらかな下り坂を歩いて降りながら、全身が萎縮しているような心持だった。足は自動的に動き、バス停の前まで辿り着いた、……何処へ行こうと言うのか、判らないまま次のバスの時間を調べて、煙草に火を点けるまでは冷静で居た。

 一息吸い込んだところで眩暈を覚えて、案山子のようなバス停の重石に尻を乗せて蹲った。苦い苦い煙が鼻から抜けて、酷く噎せた。残暑の太陽に追撃されたか、腕がひりひりと熱い一方で、麦藁の鍔に隠れる首筋に触れると驚くほど冷たくなっていて、軽い貧血に陥っているらしいと気付く。喉元には吐き気と言葉が石のように詰まって痛い。

 見澤昴星の過去とか、武智加津巳の立場とか、そんなことはどうでもいい。俺の心がかたくなる理由を、俺はたった一つの単語で説明出来た。

 俺の中に詰まっているのは怒りでも悲しみでもなく、ましてや屈辱でもない。

 

 

 

 

 小さな影は途方に暮れたように卓袱台の脇に在った。卓袱台の上、開いたままの携帯電話の黒いディスプレイが夕暮れの光を集めて鈍く光る。

 俺はポケットの中から、もう何度も何度も鳴らされ続けた携帯電話の着信を全て無視して、此方からその電話を、鳴らした。

 途端、激しく卓袱台の上で揺れて、鳴る。

「んお」

 飛び起きた彼は、反射的に電話に出て、目の前に俺が立っているのを見て、瞬時に何が起きたのか理解できないらしく「もしもし」俺と眼を合わせたまま、受話器に向かって呼びかける。

 携帯電話を畳んで、

「ただいま」

 と俺は言った。

 彼はぱくぱくと―まだ携帯電話を頬に当てたまま―口を動かして、それからやっと正常な意識を取り戻したように、「おかえり」と唇を尖らせて、言う。

「どこ行ってたんだよ、どんだけ電話したと思ってんだよ、心配かけんなよなー」

「何で心配するんだ?」

 硬い声で言った、見澤が俺の顔に気付く。

 俺自身、浮かべている表情を自覚していないのに、彼の両目は気付く。

「……ヅチくんとこ?」

 そうだ、とも、違う、とも、俺が言わなくても、彼は正確に読み取る。

 暫く言葉も無く、口を開けたまま薄暗がりで俺の顔を見上げて、……。

 見澤は、溜め息を吐いて、顔を覆った。

「……ばれちゃったんだ」

 隠し通すつもりだったのかと、訊いてみたい気がした、そんなことが可能と思った瞬間が在ったのかどうか。武智加津巳は見澤を評して「隠せない子」と言っていた。想像するに、隠すことを潔しとは思えないのだろう。だからどんなに卑怯なことであったとしても、どんなに醜い自分であったとしても、隠し続けることなど見澤にはどだい無理な話だったに違いない。

「見澤」

 呼びはしたけれど、俺に何か格別な言葉が在る訳でもなかった。寧ろ言葉は、見澤の口から齎されてしかるべきものだったと俺は思う。馬鹿なほど正直ならば、いっそもっと馬鹿で居ればいい、狡猾さも捨てて、開き直って。

「……どうして?」

 見澤は顔を覆ったまま、「どうして? どうして、……帰ってきたの? こんなとこに、俺のとこに……」

 訊いた。

「どこに行くにしたって、この部屋に置いてある荷物をそのまんまには出来ないだろう」

 俺は玄関で、まだサンダルを履いたまま、いい加減汗っぽくべたついているシャツを持て余して、……まだ麦藁帽子だって脱いでいない。

「……何処まで訊いたの?」

 やっと、俺に答えられる問いが投げられた、「全部だ」と俺は簡潔に。

「じゃあ、……俺の母親のことも、あんたのことを、……子供にしようと……、してたってことも、全部……?」

「それ以上も含めて、全部だ」

 ああ、と彼は両手を落とす、青白い顔が、静かに崩れていく。

「……有馬が居なくなっちゃうよ……」

 眉間に縦皺が寄って、今にも泣きそうに震える。

 その唇から齎される言葉は所謂「我が侭」ではなかった、そういう感覚を、俺は持って聴いていた。

「俺は……、俺は、おかあさんに、なりたかった……、其れだけなんだよ、本当に、ただそれだけなんだ……、ごめんなさい」

 黙ってて、ごめんなさい、だましてて、ごめんなさい、見澤は頭を垂れて俺に謝る。迷惑を掛けて、ごめんなさい。ごめんなさい、……むちゃくちゃなことにつき合わせて、ごめんなさい。

 そうだ、見澤はずっと黙っていた。ノンケだった俺を同性愛者にして、その肉体に応じる形に教育した。

 俺の肉を血を、適合する形へと変えて。

 怖い夢を見て泣く、弱い子供に過ぎないのに。

「……どう、する?」

 見澤は、小さく、弱々しく、笑った。

「どうするって?」

「あんたがさ……。此処から、出てく? 俺のことなんて嫌いになっちゃっただろ? 嘘つきで、勝手でさ、あんたを自分の物にしようとした、あんたの弱味につけこんでさ」

 煙草を吸いたい。

 そんな気になる瞬間が生きていると幾つも在って、例えば今が本当にそうだ。卓袱台に乗った灰皿には、吸殻が何本も折り重なってしょぼくれている。見澤が俺と連絡を取りたくて取れなくて、焦れる気持ちの中で吸い捨てられた殻たちだ。

 そして彼もまた今は煙草を欲しているに違いなかった。恐らくは俺よりも余ッ程。しかし立ち尽くす俺が答えを言うまで、或いは孤独の中に沈み込むまで、その口寂しさを耐えていなければいけないことは明白だ。もう傾いて何処かへ消えた太陽から開放されたように、路地を走る空気が網戸を縫って部屋に這い入り込む、……風が吹くたび、その栗色の髪が揺れる、心地よい風が吹くたび。

「そうだな……」

 麦藁帽子を脱いだ。汗で汚れた頭が少し痒かった。薄暗がりで改めて見る顔は、白くぼんやりと浮かび上がっている。

 立っているのが疲れた。俺の尻を誘うように、そして待つように、卓袱台には彼が尻を乗せるものの他にも二つ、座布団が並べられていた。薄べったくて、二つ折りしてやっといい高さになるような古ぼけた煎餅座布団は、もうずっと前から其処に在ったようにさえ見える。

「怖い夢は見なくなったのか」

「え?」

「怖い夢。お前がガキみたいに泣いてた夢のことだよ」

 見澤は、戸惑ったように視線を揺らす。

「最近、は、……この間見てから、ずっと見てない、よ」

 そうではない、……俺の、言葉を彼は待っている。その細い首を差し出して全て俺に委ねている。

「足はまだ痛むのか」

「そんなことまで……」

「足は」

 こっくり、頷いた。

「時々、……自分が思ってるより上がらないとき、ある、でも、そんな辛くは、ない……」

 冗談を本気で言って笑う顔ではない、ただ打ちひしがれて、それでも縋りつけるのならばつきたいと願う。

 孤独で傲慢な子供の顔をして、見澤は居る。

「誰でもよかったのか?」

 声を、そっと出したつもりだった。小さな声で訊いたつもりだった。しかし、見澤の肩ははっきりと判るほどに震えたし、俺から逃げるように、自分の膝元に視線を落とす。その視線さえ、落ち着きを失う。

「俺じゃなくても、よかったのか? 誰か傍にめぼしい相手が居たら手を出して、飯を食わして、懐柔して、……自分の子供にしようと思ったのか。……俺が最初じゃなかったのかもしれないな、俺と同じようにされて、嫌気が差して逃げてった男、……男ばっかりじゃなかったのかもしれないけど、『被害者』は俺のほかにも」

「あんたしかいないよ」

 遮って見澤は声を上げた。

「こんなの、あんたが最初で最後だ……、あんたしかいないよ」

「じゃあ、何で俺だった? たまたま両親が早くに死んでて、その上じーさんも死んだばっかりで、……都合がよかった?」

 暫くは、頷くことも首を振ることも見澤はしなかった。明確に頷かれれば一層業腹だ、しかし首を振られればそれを嘘だと指弾する用意が、多分俺には出来ていた。

 見澤が、躊躇いながら、やがて力を喪ったように頷いた。

「……あんたなら、俺と、……似てるから、ひょっとしたら判ってくれるかもって、……一緒に居てくれるかもって、そう、思った」

「そうか」

「でも……、それだけじゃない……、俺、……俺は本気であんたのこと、幸せにしたいって思った! 親じゃなくっても、友達だったとしても、あんたのこと好きだったから!」

「俺がそんなこと、頼んでも居ないのに? ……だから我が侭だって言うんだよ」

 サンダルを脱いで、上がった。長く歩いたせいで、指の股が少し、ひりひりする。

「大体、じゃああの人はお前の何だ」

 足がくたくただ、空っぽの座布団の上に尻を落とした。

「……ヅチくんは、……俺の、旦那さんだよ」

「俺は何だった」

「……俺の、子供……」

「やってることは一緒じゃないのかよ」

 青褪めて俺を見上げる見澤は震えて、しかし観念したように、逃げることもそれ以上言い訳することもしなかった。

 ただ彼がぽつりと言ったのは、

「嬉しかったよ」

 と。

「俺は、嬉しかった。ほんのちょっとの間だったけど、めちゃめちゃ幸せだった。あんたのこと、本当に、自分の子供だって思って、大事にして、……あんたが笑ってるの見て、幸せだった。……あの日死んでたっておかしくない、オマケみたいな人生だったけど、……でも、ほんのちょっとだけ長く生きてて、俺、良かったって思っ」

 俺にその美しい顔を殴ることはどうしても出来なかった。

 何処にも毒気がない、其れが却って腹立たしかった。俺はじいんと痛んだ指をそのまま卓袱台に当てて、八つ当たりしてごめんと撫ぜながら、「ヅチくんに謝れ」と唸った。

「今すぐ、ヅチくんの所行って謝って来い。……何が『オマケ』だ、……ふざけんなよ」

「有馬……」

「無責任にも程があんだろうが、……『オマケの人生』だと? その『オマケ』のために、どんだけ迷惑掛けてんだお前は!」

 石礫のような言葉が、一斉に俺の喉から迸った。解放を待ち構えていた嘔吐のように、

「お前が作ったんだろうが! この無茶な世界を! お前が巻き込んだんだろうが! ……お前が泣いてんの放って置けない人間が居るんだよ! お前がそうさせたんだよ! 判るか馬鹿野郎!」

 吐き出しながら、涙が溢れそうになって、……其処まで言ったところで止めざるを得なくなった。

 俺は見澤が好きだ。

 離れたところで見澤が泣いているかもしれない、……想像するだけで震えるくらいに、見澤が好きだ。

 俺の物にならなくてもいい、ただ、俺の存在を側に感じることで見澤が少しでも救われるのなら、俺はその大損な仕事だって平気にこなせる。いや、損なものか。見澤が俺に向ける笑顔、太陽のように温かく優しい言葉、……ぎこちなくとも、馬鹿正直な愛情、……其れを手にすることが、喜びでなかったら何だ。

 見澤という細い糸が俺を吊るしている。全ての関係から切り離されて、重力に任せて落ちてゆくばかりだった俺を、見澤がぎこちなく括った。

 俺の唇からも糸は伸びる、……落ちたくない……、腹の冷えるような落下感に怯えた自分に気付いたとき、見澤がヅチくんと一緒に垂らす糸がどれほど苦かろうと俺は切ろうとは思えない、だから、糸を伸ばす、二人に、縋るように括り付ける。

「行けよ」

「え……?」

「言っただろう、……ヅチくんに謝って来い」

 見澤の反応は鈍かった。ぼうっと俺の顔を眺めて、視線をふらふらと揺らしている。濡れて煌く双眸から、ほとんど同時に涙が流れた。

「行ったら……、帰ってきたら、有馬、……居なくなってたら」

 泣かせたくないと思っている相手を泣かせてしまったことを、素直に後悔してしまう自分が恨めしい。

 納得しようが無くても、納得するほか術の無い俺は、俺自身の目から見ても馬鹿みたいだ。笑って貰って構わない、俺は俺を「息子」と言い放つ狂った男に、いまもこうして恋をしている。

 恋をする男はいつだって笑える。

「居なくなるって、何処に居なくなるって言うんだよ、居なくなれるって言うんだよ!」

 俺の居場所は此処しかない、其れがあたかも残念なことのような顔を俺はしながら、実際には座布団から尻を浮かせもしないで居る。

「ヅチくんを悲しませるんじゃない、……あの人がお前の旦那なら、俺にとっては父親に当たる人だろう、……早く支度しろ!」

 見澤はぐいと涙を拭く。鼻を啜って頷いて、大急ぎで身支度を整えて、玄関で靴を履いたところで振り返る。

 俺も、汗臭い身体をシャワーで洗い清めることは諦めていた。

「俺」

 百六十センチの立ち姿、栗色の長い髪に幼さの塗された涙明けの顔、華奢な肩に細い腕、腰、足。過去を負うには頼りなく、未来を目指すにしては儚い、一人では決して居られないし、居させるわけにはいかないと見る者に思わせる。

「俺っ……、ちゃんと、……いいおかーさんになる。……あんたが居てくれるの、これからも、傍に居てくれるの、嬉しい。……ずっと、ずっとずっと一緒に居てくれるよね? 俺、頑張るから、頑張ってあんたのこと、ちゃんと護る。俺、ちんちんついてるし、ヅチくんとだけじゃなくて、あんたとセックスしちゃうようなダメな奴だけど、ちゃんと……、ちゃんとおかーさん、するから。あんたの、おかーさんにちゃんと、なれるように、するから。もっといろんなこと、ちゃんと、出来るようになるから」

 俺の顔を真ッ直ぐに見て、見澤は誓い、俺は失恋する。しかしいまや俺は何もかもを受け容れていた。見澤の笑顔がただ欲しい。

 新しい恋が始まる。

「でもって……、出来るだけずっと、綺麗なおかーさんで居るから」

「……そんなのは、別にいい」

「よくない。俺の側に居ることがあんたにとって、最大級幸せでなきゃいけない。だから俺は、これからもあんたとキスをする、セックスをする、愛し合う」

「母親」が「子供」とセックスするのかよ、とは言わなかった。ヅチくんが言った通り、見澤と見澤の母親が親子とは呼べない関係でありながら社会がそう呼ばざるを得なかったように、俺と見澤だってオリジナルの関係で居れば良い。

「……好きにしろ」

 言い捨てて、俺は立ち上がる。足の指の股が痛くて、靴下を引っ張り出して履いて靴を履いたら、

「有馬、麦藁」

 卓袱台の脇に置いてけぼりにされていた帽子を、見澤が膝で這って手を伸ばし掴み、俺の頭に乗せて微笑む。帰ってくる頃にはもう夜だ。けれど文句は言わない。

「……飯の仕度は」

 一抹の不安を覚えて訊いた俺に、見澤は首を傾げて、

「有馬はスパゲッティ、嫌い?」

 そう訊き返した。冷蔵庫の上にホールトマトの缶が乗っているのが見えた。

 

 

 

 

「生まれた赤ん坊に『誕生日プレゼント』ってあげんのかな。俺まわりに結婚してる知り合いとか居ないし、詳しくないからわかんないんだけど、何か一般的じゃない気がする。多分生まれたての赤ん坊にプレゼントとか贈んないよね。あげても意味わかんないだろうし。それよりも寧ろさ、生まれてきた赤ん坊が両親に対してのプレゼントっていうか、『生まれてきて有難う』みたいな祝福の意味が重たくって、何かをあげるってことは特にしないんじゃないのかなーと、俺は思ったのな。んでもなー、俺は無い頭捻って一生懸命考えたんだ。生まれてきたばっかりの赤ん坊にとって、『最高のプレゼント』ってなんだろうってなー」

「思うにそれは、『家族』なんじゃないかって。この世に生を受けた子供に、最初に齎される贈り物は、何よりもまず、母であり、父」

「つまり俺たちだ」

 見澤とヅチくんはそんなことを、真面目な顔をして言った。

 信じきった目をして言うのだから一層性質が悪い。ただ俺は、黙って「ありがとう」という言葉を、やっとのことで言った。躊躇いがあったとすれば其れはただ、気恥ずかしかったから、それだけだ。十月一日、俺の二十一歳の誕生日である。見澤は早退してハンバーグシチューを作り、ヅチくんはいつもよりずっと早い時間にケーキを買って帰って来た。要するに二人して極めて恥ずかしい状況を作り出してくれたのである。ケーキに蝋燭が一本も差されなかった理由は「だって俺たちが家族になってから最初の誕生日だもん」ということだそうで、その上で二人は右のようなことを言った。伸び放題のボサボサ髪、顎に無精髭の嬰児など何て呪わしいものだろう。けれど二人は約束を違える心算はないようだった。

 食後は三人で銭湯に行き、帰って来てもう一度銭湯に行きたくなるぐらいに汗をかいた。いや汗を、かいている、現在進行形で。

 つまり俺は、見澤とヅチくん同様、「恋人」のような場所に居る。その身体の形で居るほかない見澤が俺を愛したいと思ったときにこの行為が含まれるのは致し方ないことだし、薄汚いことを言うのなら俺にとっても幸せだし、その結論は見澤の願いに包含されたものだ。

 見澤が抱いた無謀な願いを、俺とヅチくんは二人掛かりで叶えてゆく。欠けた円同士を寄せ合って出来上がる真円だ。俺たち三人がこれから生きていく場所を以って「家」と言い、此処で暮らす人間の単位を、「家族」と呼ぶのだ。

「ん……、っはぁ……、あ……、あー……」

 ヅチくんとほどけた見澤が、布団の上にごろんと仰向けに転がった。汗の伝う頬に貼り付いた髪の一房は当人の責任ではないにしても卑怯である。

「……はしたない子」

 ヅチくんが息を整えながら、哂う。シーツの上には見澤が吐き出したものが散らばっている。

「まあ、お前が洗うんだからいいけど」

「わざとやっただろー、絶対……」

 薄い胸板を上下させながら、見澤は恨めしげにシーツとヅチくんを見比べる。ヅチくんは見澤をいじめるのが好きだ、本当に、傍で見ていて心配になるくらい好きだ。俺はこのところヅチくんから色々な余計な知識を植え付けられている。「昴星は男のくせに乳首が弱いんだよ」などと、などと。だからついつい俺も真似をする、……男の胸板は平たくて硬いばかりで面白みはない、などと女を抱いたこともないくせに勝手に思い込んでいたが、それが無知蒙昧な思い上がりだったととくと知った。

 俺が、ヅチくんが其処に指を這わせると、見澤はほとんど楽器になる。だからついつい其処ばかり虐めてしまうと、「ヅチくんのせいで有馬が変態になっちゃったよぉ」と見澤は泣き、俺を益々煽るのだ。

「いつまでも轢かれた蛙みたいに寝ッ転がってるんじゃない」

 ヅチくんが笑顔で、無慈悲なことを言い放つ。

「有馬もお前を幸せにしたくてうずうずしてる」

 抗いの言葉を口にしかけたが、トランクスしか身に着けていない以上根拠薄弱この上ない。見澤の俺を見上げる目が濡れて居るのは、困惑しているからではないということがここ数日判るようになって来た。

「有馬……」

 見澤が布団の上に起き上がり、ヅチくんから受け取った薄い個包を千切り開ける。俺の下着から取り出したものに、其れを上手に被せる。

「大好き」

 脈打つ其れではなく、俺そのものに言うのだと、見澤は俺の唇に幾つもキスをした。

「大好き、有馬、大好き、大好き、愛してる、愛してるよ、有馬」

 俺を仰向けに寝かせ、数え切れないほどのキスと抱えきれないほどの言葉を俺の中に流し込みながら、しどけなく広げた足の間へと俺を導く。俺の両手は既に見澤の背中に回されていた。

 俺より背の高いヅチくんに抱かれている見澤を見るときにはさほど感じないのに、自分の身で抱くたびに、軽く細い身体であることを思い知る。「有馬のこと護る」と言う人のことを、寧ろ俺が護らなくてはならないという定めも、あの日の以前と以後で何ら変わりがない。

 見澤が細い首を反らして、息の混じった声を震わせる。そのまま俺の鼓膜で反響し、二つの心音は重なる。

「俺ぇ……っ、大好き……、大好き! 有馬のこと、大好きっ……」

 俺にも言う機会を与えてくれたっていいのに、見澤は何度も唇を塞いでくれる。言わなくたって伝わっていると信じるくらい、いまの俺には容易に出来る。抱き締める腕の力で伝わっていると、抱き着く腕の力が教えてくれる。判っている、……判っている、俺はお前に愛されている、俺はお前を愛している、それで十分、見澤のくれるもので俺は、お腹一杯。

「あ……ン……ンぅ……!」

 しかし此れでは弟を抱っこしているようなものだな、……射精直後の覚醒に思ったのはそんなことで、見澤が腰を痛めないように―ただでさえこのところ酷使気味だ―支えながらそっと横たえ、解いた。見澤の潤んだ目に間近に見上げられて、囚われて、たまらずもう一度長々とキスをした。

「好き」

 唇を離した瞬間に見澤がそう言ったから、

「俺も、好きだよ」

 やっと答える。至近距離では眩すぎる笑顔に両眼を射抜かれた気がした。

 傍らではヅチくんが煙草を吸っていた、いつの間に台所から灰皿を持って来たのかも気付けないくらい、俺は見澤に夢中になっていた。ヅチくんの傍らにはなみなみと麦茶を注がれて汗をかいたグラスが三つ並んでいる。

「あー! 煙草は台所だけって言ったじゃん!」

 見澤が飛び起きて怒る。「性臭の緩和だ」ヅチくんはまるで堪えず、気持ち良さそうに一服を愉しんでいる。

「お前たちのセックスは一回一回が本気過ぎる。これから一生抱き合って生きて行くのに、毎度そんな調子じゃ身体をおかしくするよ」

「……じゃあ、ヅチくんは割りと抜きながらやってるってこと?」

 ヅチくんは表情を変えなかったが、心なしかその唇から漏れる煙の量が増した気がする。煙草を灰皿に押し潰して、「俺は仕事してるんだぞ」とやけに傲慢なことを言い訳がましく彼は口にした。

「いいもんねーだ、ヅチくんが相手してくんなくたって、有馬にいっぱい遊んでもらうもん」

 それは有難いね、とヅチくんは麦茶を美味そうに飲み干す。見澤も手を伸ばし、俺に手渡した。火照っていた身体が心地良く冷える。見澤があの通り甲高い声を上げるので、言うまでもなく窓はぴったりと閉めていて、室内はヅチくんの言う通り男の匂いとヅチくんの煙草の匂いが充満していた。

「ひどいよなー、ヅチくんは本当にひどい」

 言いながら、見澤はそれでも幸せそうだ。自分の恋人がそういうリアクションをすることをはっきり把握して毒を吐くヅチくんもまた嬉しそうである。二人が笑顔で居るのを、俺は一番側で眺めていられる、俺だけに許された場所に俺は居る。

「したら、シャワー浴びよっか。続きはその後でね」

「ちょっと待て、続きって……!」

 思わず声を上げた俺に、グラスを盆に載せたヅチくんが溜め息混じりに「ほら、ね」と呟いた。

 立ち上がった見澤が三人分のタオルを仕度する。ヅチくんが買ってきたタオルを見澤が洗い俺が干して畳む、快く円滑な循環、家族としての活動、揃いの柔軟剤の匂いも含めて柔らかなもの。

 同じ一つの屋根の下、小さな部屋の中で交わされるのは、必要以上を省略しないやりとり。

 此処の名を、俺は知っている。

 他の何処にも無い、俺が「家族」と共に在り、呼吸する場所。


back