蛮祭


《知られざる日本の山村 御藻羅村》

 

 T県根原谷(ねはらだに)に端を発し、御藻羅村(おもらむら)を南北に穿ち、やがて一級河川の乙字川(おつじがわ)と合し日本海に注ぐその清流には「甲子川(きのえねがわ)」という正式名称が在りはしたが、御藻羅村の住民たちは誰もそんな上品な名前では呼ばない。

 この川は「子作り川」と称されるのが慣習である。それは夏になるとこの清流を一面若草色に染める、ミヤマミシャクジミマダラモモドキに由来する。

 ミヤマミシャクジミマダラモモドキは「藻もどき」の名の通り、見た目は猛々しく茂る藻であるが、正確には「ミヤマオオアオマダラタテハ」という稀少な蝶の蛹に根を伸ばす水生菌類の一種である。

 根原谷の深い雪が解け、それまでほとんど小さな流れに過ぎなかった子作り川の川幅が増長する頃になると、成体のまま木の洞などで越冬したミヤマオオアオタテハは水飛沫を上げる川面すれすれで交尾を行う。雄は力尽きてそのまま川の水流に落ち、岩々に引っ掛かる。雌は、流されず残ったその雄の遺骸に卵を産み付けると、幼虫は生まれながらにして激しい生存競争を行い、互いに捕食し、言うまでもなく自分の卵を支えた父体の遺骸も食して成長する。この頃、御藻羅村の水田に稲が植えられ、幼虫たちは次々に川面に突出した岩に蛹を結ぶ。夜に、少し離れたところから見れば、岩の表面が青白くきらきら光るのであるが、これは成虫の名にある「アオタテハ」の羽にも散らばる鮮やかな色と同じである。

 季節が夏になる頃、この蛹に変化が起きる。蛹の下端部から、徐々に緑色の藻が生じ始めるのだ。此れこそ、川に生息する水生菌類が蛹を足場に彼らの生息場所を広め始めた証拠である。幾つかの蛹はそのまま、藻に浸食される形で死滅する。死滅した蛹は旺盛な食欲の藻に取り込まれ、藻はその糸のような両手両足を益々勢いよく広げ、やがて川面を覆いつくさんばかりに成長する。

 それでも生き残ったいくらかの蛹の背中に、夏の早暁に次々と亀裂が入り、小さな蝶となりか弱い羽を広げ、根原谷から吹き降ろす風に煽られながら手探りで飛んで消えてゆく。後に残るのは生存のための戦いの舞台となった、緑色の川である。

 ミヤマミシャクジミマダラモモドキの死骸を取り込んだ菌糸は、食用出来る。近年は新成分の開発によりほとんど用いられなくなったが、「三リン酸二塩化クエン酸塩」として強壮剤などに配合されていた強壮成分と酷似した分子構造を持つ。二十年ほど前にそういった強壮剤を服用したことのある者なら、「男力ソリューション」「ミサイルマンA」「ミサイルマンEX」などのドリンク剤に配合されていた成分と言えば伝わるだろう。斯様に、ミヤマミシャクジミマダラモモドキには非常に強力な強精作用がある。ミヤマミシャクジミマダラモモドキの収穫期は六月の半ば頃であるため、この村の出身である人間には、四月・五月に生まれが異常に多い。

 以下、食品としてのミヤマミシャクジミマダラモモドキについて述べておく。

 ミヤマミシャクジミマダラモモドキは僅かに苦味と塩味と酸味があり、食感はとろろ昆布に近く、強い粘り気がある。多くの場合は乾燥させて調理されるが、新鮮なものは生食も可能だ。生食の場合はとろろ汁に生卵などと共に混ぜることが多いが、調味料などと炊き込みご飯にした「子作り飯」として食卓に並ぶほうが一般的である。また、玉子焼きの具として用いると、緑が一層鮮やかになり見た目も良い。

 言うまでもないことであろうが、ミヤマミマジャクジミマダラモモドキは栄養価が高い。藻類は一般的に栄養の質量が良好な物が多いが、ミヤマミシャクジミマダラモモドキは五十二の栄養素をスピルリナ以上に整ったバランスで備えていると言われる。本来的には成長期を迎えた子供はもちろん、出産を控えた妊婦や食事量の低下しがちな老人、果ては犬猫の類にも積極的に摂取させるべき優れた食品である。しかしながら、その特殊な繁茂の方法により世界的に見ても収穫量は非常に少ない。よって御藻羅村の名産品、いや、御藻羅村内で収穫されたものは村内の人間が全て消費するため、その存在すらほとんど知られていないというのが現状である。

 

 ミヤマミシャクジミマダラモモドキを除けば、御藻羅村は田舎の寒村で、住民はおよそ百世帯。主要産業はもちろん農業である。警察消防や図書館と言った施設はひとわたり揃っているが、特色と言えばまずその人口が安定して増加傾向にあるというところにある。言うまでもなく、ミヤマミシャクジミマダラモモドキの摂取によって毎年四月から五月にかけて次々と子供が生まれてくるからである。無論、無節操に子供を作っていてはあっという間に干上がってしまうに決まっていたが、適量に生まれ育っていく若い世代は都会へ働きに行き、やがて故郷を潤す存在となる。御藻羅村の若者たちは生まれが旺盛な性欲に拠るからか、好奇心や向上心もすこぶる逞しく、都会に出ても全く物怖じしないのだ。そして子供の量が多いということは、百世帯程度の村としては異常なことに、四件の産婦人科がある。助産婦にいたっては村の女の半分近くがその心得を持つほどだ。

 子供は、男が居なければ作れない、女が居なければ生み出せない、そういう考えがこの村には在り、男と女は惹かれあい、互いに尊重しあう風潮が根強く在った。

 御藻羅村にある唯一の文化財が、子作り川で最もミヤマミシャクジミマダラモモドキが繁茂する「モモガワラ(藻々川原から来ているとも、其処では女の腿を見ただけで男たちが集るため、腿川原から来ているとも言われているが明らかではない)」のすぐ側に建つ「父乳寺」が其れである。「ちちちちじ」と発するこの寺の名前は特筆すべきものであり、

  乳を吸い 乳飲み子父に 育ちつつ 乳見て父も 乳を吸いけり

 という、曼妖集(十二世紀成立か)にも収録されている針形法師が詠んだ有名な歌にちなんで開祖・枕古和尚が名付けたとされており(諸説ある)、「ちちのうた」と称されるこの唄を記した札や、「祈祷石(元々は女性器の形をしていたものが年月を経て男性器の形に変じたとされる)」などは一見の価値がある。この「父乳寺」の現在の住職が、性伝という坊主である。齢八十になるがミヤマミシャクジミマダラモモドキを食するお陰で未だに毎朝髪を剃らなくては坊主頭が青茂ってしまうほど、生命力に満ちた男である。寺の敷地内に、先述の木簡を初め、セックス関係の品々を集めた展示室を建立し、「精巣院」と名付け、観光客に向けて解放している。数々の怪しげな品々を見て、何も知らずに父乳寺を訪れた都会の人間は目を剥くのである。

 ただ、御藻羅村を訪れる観光客は多くない。御藻羅村へは最寄りの鰤端駅(急行停車駅)から鰤端交通の路線バスで一時間ほどかかる。鰤端は「もう一つの隠れキリシタンの里」とも呼ばれる名地であるため、観光産業に置いて御藻羅村が大きく後れを取るのは無理からぬことであった。それで居て御藻羅村に四件の宿泊施設が在るのは、今更説明の必要もないであろうが、村民たちが主に昼間に利用するからである。此処では大きく「村民たち」という括り方を行ったが、これは別段特定の関係に在る男女のみならず、御藻羅村西部に住む石原家の主人が、東部に住む四方田家の夫人と利用するなどの特殊関係での利用ももちろん含んでいる。なお、大急ぎで書き添えて置かなければならない事実として、御藻羅村の離婚率は全国平均に比べて著しく低い。大雑把な計算になるが、一組のカップルが結婚し、離婚する確率よりもずっと低いことは確かである。

 御藻羅村の村長は七野用七という七十七歳の男であり、村会議員は七名が名を連ねているが、何れも穴兄弟である。しかし実権を握っているのは先述の父乳寺住職の性伝和尚である。

 ミヤマミシャクジミマダラモモドキは父乳寺が一括管理している。見かけたら誰でも収穫していい物ではなく、川面からミヤマオオアオタテハの成虫が一斉に飛び立つのを待ってから、住職の性伝が清めの儀式を行い、その差配によって収穫が行われる。収穫されたミヤマミシャクジミマダラモモドキはその年の収穫高や各家庭の事情を勘案して配布されるのだ。

 御藻羅村において、ミヤマミシャクジミマダラモモドキを掌握することは、ほとんど村全体を掌握することに等しい。それだけの権限を性伝が握っているのは、ミヤマミシャクジミマダラモモドキの繁茂する川の近くに住みながら仏の道に殉じ生涯独身を貫く彼が同村に於いて最も正確な判断を下せる者として村民たちから絶大な信頼を勝ち得ているからだ。多くの者が全く正確でない判断を下した結果一先ず結婚をして何人も子を設けているのだから、彼が尊敬されるのも当然と言えよう。

 性伝和尚は教育熱心な男である。今日も青々とした坊主頭に袈裟姿で村内唯一の小学校である「御藻羅小学校」の校長教頭以下十名の教諭(子供の比率が多いと言っても、学年辺りは二十数名しか居ない)を前に衰えを知らぬ弁舌を振るっていた。

「今年こそは何とあっても、『収穫祭』を復活させて貰わねば困る」

 傘寿を迎えた故老とは思えぬ性伝の声に、教諭たちは竦み上がる。

「『祭』は神聖なる儀式であるぞ。長く途絶えては居るが、その結果はどうだ、ここ数年、ミヤマミシャクジミマダダモド」

 歳のせいで呂律が回らないのではない、ミヤマミミシャクジミマダラモモドキという名称をスラスラと言える村民はさほど多くない。気にした風もなく、和尚はしかつめらしく「ミヤマミシャクジミマダラモモドキの収穫量は減っておろう。山の神々が怒っておるからじゃ」とのたもうた。

「和尚先生の仰ることは、重々承知しては居るのですが」

 校長の平中は頬を紅潮させ禿頭に滲んだ汗をハンケチで拭った。彼のフルネームは平中善道という。名前から察しが付くかもしれないが、かつて性伝のもとで仏弟子として励んでいた男だ。当時の戒名は「蠕動」である。

「なにぶん、ええ、最近の子供たちはこう、……何と申しますか」

「羞恥心などと申すわけではあるまいな、蠕動!」

 校長室に轟く一喝に、平中が「ひぇっ」と小さく声を上げた。それでも平中はめげずに席を立ち、

「そ、それだけではございません、和尚先生。あの一件が起きてからまだ八年しか経っておりませんぞ」

 性伝に縋るようにして、懇願した。

「ふん!」

 性伝は鼻の穴を膨らまして、思い切り憤りの息を吐き出した。

「あのようなことは二度と起こしてはならぬ! だからこそ早期に祭を復活させる必要があるのがどうして判らんのじゃ!」

 古老の声に、平中はしょげ返ってしまった。

 性伝和尚の言う「祭」とは、正式には「藻捩祭」とも呼ばれるが、ミヤマミシャクジミマダラモモドキの収穫に際して行われるこの地方の伝統行事である。他の地方にも同様の祭礼は存在するが、御藻羅村のそれは他の村とは一線を劃しており、性伝和尚が三十八で父乳侍の住職となって以来、ある種のアレンジを加えられて長らく行われて来た。然るに八年前の事件以来は、開催を自粛されて久しい。

 校長がご覧の通りの在り様なので、八年途絶えていた「祭」がとうとう再開されることとなった。平中に限らず教師連が、聖人である性伝に口答えなどできるはずもない。種々に異色なる御藻羅村であるが、年寄り権力者の鶴の一声で大勢が決するのは他の何処とも変わらないのである。

 

 

 御藻羅村の南部、子作り川の畔に、植苗という家が在る。そこの主人は村会議員の植苗益荒男である。かつては「真螺」という戒名を拝して蠕動らと性伝和尚の下で修行に励んだ屈強な男であるが、この益荒男の家には長く男児がなかった。前妻の育子は女腹との謗りを受けたが、夫妻は毎年のようにミヤマミシャクジミマダラモモドキの力を借りて子作りに励んだ結果、四人目にとうとう男児を授かった。其れが植苗水鳥である。「水鳥」と書いて「ミドリ」と読む。男児でありながら彼がこのような名前を頂くに至ったのは、出産直後、その顔の愛らしさに彼が嘆息し、また男児が生まれなかったと、長女葵、次女茜、三女雪と色に纏わる名前を付けて来た流れそのままに、「翠」と命名し、苦々しい顔で親戚一同に其れを発表せんとしたまさにその寸前、病院の妻から涙声の電話で男であることを知らされ、慌てて「翠」の字を朱で大きく抹消し「水鳥」と書き換えたことに由来する。

 ともあれ、植苗家には待望の男児が誕生した。これで跡継ぎに困ることはないと(そういう古く忌まわしい考え方が、御藻羅村には未だ根強く在る)益荒男は大いに喜んだものである。

 然るに、子に纏わる物事とは多くの場合、上手く行かぬものだ。

 益荒男は水鳥のむつきが取れるや、早速女中に命じ、ミヤマミシャクジミマダラモモドキを離乳食に混ぜて食べさせるようにした。やっと生まれた貴重な男児である、名こそ女のようだが、是非ともこの父のように強く逞しい男として育って欲しいという親心からである。

 だが、水鳥はミヤマミシャクジミマダラモモドキの入った料理を食べると、翌日から高熱を出して寝込んだ。最初の時、それから二回目には、きっと偶然具合が悪くなる時期と重なったのだろうと思われた。そして益荒男と育子は水鳥に飲ませる乳や重湯に、ミヤマミシャクジミマダラモモドキを混入させさえした。

 水鳥は危篤状態に陥った。

 村内の病院では手が尽くせず、救急車を飛ばして鰤端の大病院にて懸命の治療が行われた結果、水鳥は一命を取り留めるに至った。しかし担当医師の診察の結果は、父母に安堵の暇を与えなかった。

「アレルギーですな。ええ、何といいましたかその、訳の判らない水草の」

「訳の判らない水草とは何だ、ミヤマミシャクジミダラマトモドキです」

「ええ、その、ミヤマミシャクジダルマモドキですな」

「違う、ミヤマミシャクジミマラダドマドキです」

「ミヤマミシャクジクビマキオロチですか」

 医師の診察に拠れば、植苗水鳥の身には先天的にミヤマミシャクジミマダラモモドキの強烈な栄養素を消化吸収するだけの能力が備わっておらず、摂取することはそのまま毒を喰らうも同じ、この子供が可愛いのであればそのような訳の判らぬ藻ではなく、真ッ当な食事を与えるべきだということだ。

 この件で、只でさえ植苗の家に於いて「女腹」と言われていた育子の立場は益々危ういものとなった。三人の娘たちとは似つかぬ美しい顔の息子であり、一人だけ体質が異なるという点も、彼女にとっては不都合な事実であった。

 育子は追われるように植苗の家を出た。益荒男は此れ以後も執念深く、唯一の息子を逞しい男として育てるべく、ミヤマミシャクジミマダラモモドキを摂食させようとしたが、結果は同じであった。

 かくして、植苗水鳥は御藻羅村において異端なる男児となった。ミヤマミシャクジミマダラモモドキの収穫は村の男たち総出の一大行事であったが、それさえも嫌がる彼を息子とする植苗は、自然、柔弱な水鳥に一層厳しく当たるようになった。結果として十一歳の水鳥は、卑屈で臆病で在りながら、父親や村の風習を激しく憎悪するようになり、学校ではいじめられた。

「女みたいな名前しやがって」

「このオカマ野郎」

 学校で教師の目の届くうちは、まだいい。恐ろしいのは帰り道で、べそをかきながらの帰宅は日常茶飯事、そしてそんな息子を見て、父は益々憤るのであった、水鳥の立つ瀬はどこにもない。

「今年から、『藻捩祭』を再開することとなりました。お祭は来月の半ば頃、藻の収穫の際に行われます。明日の放課後から男子は父乳寺で、女子は教室で、お祭の練習を行います。よろしいですね」

 その日の帰りの会で、野々村という女性担任は六年生二十四人に向けてそう宣した。子供たちからは貴重な遊び時間を奪われると不平の声が上がったが、「これは、村の大切な伝統行事です。全員必ず参加すること」と野々村は冷徹に宣した。性伝の言った「祭」に対して、女性である彼女は一定の冷静さを保っていることが出来るのだ。三十年前、当事者として、まだ恥じらいのある女子児童であった頃にはもちろん斯様に冷静な心持で「祭」を迎えることは出来なかったが、いまでは番茶の出涸らしのような彼女には平気なのだ。

 水鳥は、野々村先生の言った「祭」が一体どんなものかは判らなかったが、女子たちと隔離されることを怯えた。見た目が女のようで、また本質的には優しい少年である彼は、学校に居る間は男子よりも女子と一緒に居る方が多かった。いじめっ子が彼を悪く言えば、ほとんどの女子は黙って居ない。ただ、帰り道だけは孤独になり、それゆえにいじめられっ子は餌の匂いをぷんぷんさせて、肉食獣たちに捕食されるのである。

 しかしこのところ、水鳥だって少しずつ学習するようになった。ひ弱な体質は変わらないが、六年生になってから少しずつ体も成長しつつある。逃げ足が速くなったことだけは、いじめられて鍛えられた点だ。

「起立、礼、さようなら」

 を号砲に、水鳥はランドセルを片背負いして一目散に走り出す。素早く靴を履き替えて、全速力で駆け出せば、……三回に二回は捕まらずに済むのだ。

 だが、その日は「三回に一回」の方だった。靴を履き替えるのに手間取り、追っ手の迫るスピードは思いのほか早い。通学路唯一の信号でも彼らが追ってくる足を止める役に立たなかったことも水鳥にとっては不幸だった。このままでは追い付かれてしまう、怖気を奮って水鳥は家へ一直線に続く長い上り坂ではなく、なだらかな川縁を走った。

「逃がすな! 追えー!」

 恐ろしい獣の咆哮が耳に届く、生きた心地がしない。足は油断すれば空回りそうになり、頭の中はこれから味わう恐怖に千々に乱れる。気付いたときには水鳥は、根原谷の奥へと続く山道へと入り込んでいた。

 ランドセルに何かがドンとぶつかり、湿っぽい下土の上にバランスを崩して倒れた。すぐ側に転がったのは、背中目掛けて投げ付けられた、自分の物よりずっと綺麗な黒いランドセルである。

「捕まえたぞ!」

「手間かけさせやがって、生意気なオカマ野郎だ」

 恐ろしい声が興奮に息を弾ませて降って来る。凍りつきながら振り返ると、自分よりも身体の大きな同級生に、水鳥はすっかり囲まれていた。

 シャツの襟を掴まれて、無理矢理立たされる。

「こいつ、本当に男か? こんなひょろっひょろでさ、ちんちん付いてねえんじゃねえのか?」

「そうに決まってら。大体、和尚様の藻が食えないなんて罰当たりな奴、男のわけがねえや」

 サディスティックな笑い声に、水鳥は内心の恐怖をせめて表出させないようにと必死に歯を食い縛った。それでも彼らの無慈悲な手が半ズボンに伸びたときには、反射的に悲鳴が喉元から炸裂しかけた。

 爆音が、其れを掻き消した。

「な、なんだ? 何の音だ!」

 いじめっ子たちの驚いた腕が水鳥のシャツを離した。太腿までずり下げられた半ズボンの下に穿いたブリーフの尻を、水鳥は強かに打ち付ける。急速に近付いてきた爆音は林の中をあちこちでぶつかって、目の前に転がるように現れたのは、

「やめろ、テメェら!」

 バイクに乗った侍であった。

 巨大な単車に跨った男はノーヘルメットであり、伸び放題の金髪を頭のてっぺんで結っている、その両耳や唇にはいくつもピアスの穴が開いていて、さながら毒蛇のようである。何より目を引くのは、その左眼に宛がわれた黒い眼帯だ。

 身に纏っているのは質素というかボロ臭い鉄色の着物であり、麻紐のような細帯には、日本刀を手挟んでいる。

「ッたく……、相変わらずだなぁこのクッソ田舎はよぉ」

 男は悪質な声でそう独りごちた。

 どっどっどっ、と地鳴りのようなアイドル音が響く。いじめっ子たちは異様な出で立ちの男に呆然としていた。男は機上から、刀の柄に手をかけて、

「とっとと散りやがれ、このクソガキどもがァ!」

 大見得を切って怒鳴る。その迫力に圧倒された少年たちは、「わああ」と叫びながら逃げ走っていく。

「おい、お前」

 水鳥はがくがく震えながらその異常な男をただ無力に見上げるばかりだ。男は眉が細く薄く三白眼で、その白皙の顔には異様な迫力が在ると同時に、奇妙なまでの美しさがあるように、理性的な思考とは遠いところで水鳥は感じた。腕も身体も細いが、全身からは何とも形容し難い殺気めいたものが漂っていて、それは野犬か熊のようだ。

 そんなことを薄く考えているうちに、水鳥は自分の下着が濡れていることに気付いた。濡れているのではない、濡れていくのだ。その理由を遅まきながら自覚した瞬間、糸が切れた。両目からぼろぼろと涙が溢れ零れて、水鳥は声を出して泣き始めていた。

「お、おい……」

 金色の侍は困惑しきるが、慌てて単車のエンジンを切り、相棒の鞍から降りた。「だ、大丈夫かよ、その、怖がらすつもりがあったわけじゃなくってだな、その、お前がいじめられてんの見付けて、ほっとけなかったから……」

 水鳥は酷く聴き取りにくい声で「ありがとう」と発していた。小便臭い子供の傍らに跪く男は、単車から降りるとさほど長身でもなく、顔付きも案外に幼い、水鳥と十も違わないかもしれない。

 ただ繰り返し強調しておかなければならないのは、その男の、凶悪な顔の造りでいて、且つ慌てふためいても、ぞっとするほどの美しさがまるで失われないという点だ。丁度、小便を漏らして泣きじゃくっていても水鳥が相変わらず美しい子供であるのと同様に。

「ああ、もう、泣くな泣くな、ガキの泣くのは嫌いだ」

 侍は、自分の着物の濡れて汚れることを多少は気にしながら、水鳥を軽々と抱え上げる。「んーな格好じゃ家帰れねえだろうがよ。乾くまで面倒見てやらぁ……」

 男は顔の割に寛大な懐を持つようだった。彼は「しっかり掴まってろよ」と背負った水鳥に言い聞かせると、道なき急坂を激しいエンジン音と共に切り裂いた。

 

 それを「小屋」と呼ぶことは、水鳥には少々憚られるのだった。

 畳はなく、板切れを敷いただけの寒々しい室内は、天井を見上げれば枝を組んで乗せただけで空が透けて見える。柱もあちこち傾いており、細かく観察すれば矢鱈と後付に補強された痕跡がある。根原谷の冬は雪に閉ざされるから、せめて潰されないようにという努力の形跡だろうが、あまりにもぞんざいなやり方だ。

 いや、此処が根原谷かどうかは、実は水鳥には判っていない。バイクは随分と長いこと走った。実はこの金髪の男は物の怪の類で、自分を食ってしまうつもりなのではないかとさえ思い始めた頃、ようやく辿り着いたのがこの「小屋」なのである。村では半袖に半ズボンでも居られる季節になったが、ズボンの中が濡れている水鳥の細い両腕には鳥肌が立っている。

 「小屋」のすぐ側には清澄な小川が流れていた。「脱げ」と言われて、水鳥は少しばかり憚ったが、重ねて言われるのを待たずに恥ずかしさを堪えて半ズボンとパンツを一緒に下ろし、すぐさま片手で陰茎を隠した。男はそんなものには目もくれず、水鳥の汚れたズボンとパンツを受け取ると、自らも背中その他濡れた着物を脱いで下着一枚の姿になると、それらを湧き水でせっせと押し洗いし始めた。

「そこに、石の囲いがあんだろ」

 背を向けたまま、男は言う。男は身形こそ侍のようだったが、着物の下には派手な柄のトランクスを穿いていた。確かに水鳥のすぐ側には、水鳥の頭ほどの大きさの石が一箇所だけ途切れて円形に並べられている。「そこに、あっちから薪持ってきて、積んどけ。判るか?」

 半裸のまま表をうろつくのには抵抗があるが、正体不明の金髪の男に水鳥は従うほかなかった。一応は恩人であるし、刀を持っている。薪を一抱え持ってきて、「ここに……、置けば、いいですか?」と水鳥は気弱な声で訊いた。

「ああ、……そうだな、丁度良い量だ」

 一度だけ振り向いて、男はそう言った。水鳥は勇気を振り絞って、「あの」と声を張った。

「あ?」

「あ、あの。……あなたは、誰ですか」

 水鳥は真ッ当なことを訊いたつもりである。しかし金髪侍は水鳥に「人に名を訊ねるときは、まずテメェから名乗りな」とぶっきらぼうな一瞥をくれた。水鳥は思わず鼻白んだが、パンツとズボンを人質に取られている。

「……植苗水鳥、です」

「……植苗水鳥」

 一瞬、侍が目を瞠ったような気がしたが、彼はすぐにそっぽを向いて「村会議員の植苗んところの子供か」と確かめるように訊いた。

「……はい」

「親父には似ても似つかねえな」

 侍の言葉に憮然とする。父は、憎たらしいくらいに逞しい、それに引き換え水鳥の身体は見ての通り貧弱そのものである。

「……僕は、名前言いました。……その、お侍さん」

 言ってしまってから、水鳥は赤面した。「お兄さん」と言おうとしたのに、その風貌のせいで口が滑ってしまったのである。金髪侍は唇を歪めて「侍か」と可笑しそうに笑ってから、

「卑怯なようだが、俺には名乗るような名前がねえんだ」

 肩を竦めて言った。

「名前が、ない?」

「おう。俺はもう何年も前からこの山小屋に一人で住んでんだ。この山の向こうの雁俵の工場で、バイクとか車とかの整備の仕事をしてる」

 侍の外見とは裏腹な告白を男はした。

「向こうの連中は『ポイズン』とか『ドラッグ』とか、まあ適当な名前で呼びやがる。お前も、そうだな、呼びたきゃ何とでも呼べばいい。『お侍さん』でも全然構わねえぜ」

 ぽん、と男は気安く水鳥の髪を撫ぜた。

「お侍さん……、は、……日本人?」

「は?」

「その、……髪が、金色だから……」

「あー……、此れは染めてんの、染めてるっつーか色抜いてんだよ。眉毛もな。ってか判ンだろうがよ、そもそも日本語喋ってるし」

 水鳥の言葉に、一頻り彼は愉しげに笑った。それから溜め息混じりに、「眼のことも気になるか?」と訊いた。反射的に首を横に降ったが、彼は岩くれに置いた煙草に、オイルライターで火を点けて、煙を吐き出した。

「傷が残ってんだよ。見てくれが悪ィから、鬱陶しいけどハメてるだけだ」

 苦笑交じりに彼は言い、それから不意に暗い表情に変わる。

「……俺はもう何年も御藻羅には近寄らねえようにしてたんだけどな、厄介な噂を耳にして降りてみたら、あのクソガキどもの声が聴こえたからさ、ほっとくのも却って面倒臭ぇもんだから……」

 其処まで言って、留めた。

 水鳥のズボンとパンツ、それから自分の着物を順にパンパンと叩いて、家の裏手から何やら木組みの枠のようなものを持ってきた。どうやらそれは物干し竿のようなものらしい。「おう、手伝えよ」と言われて、水鳥は自分の下着を見よう見まねでその矩形の枠に広げて干した。

「したら、服が乾くまで風呂沸かすぞ。いつまでもそんな格好じゃ寒ィだろ?」

 トランクス一丁の侍は、極めて独善的にそう言い放つと、小屋の壁に凭れるようにして置かれたドラム缶を転がして来て、水鳥が薪を置いた石囲いの上に乗せた。それから小屋からバケツを二つ持ってきて、「いいか、俺が泉から汲んで途中まで持ってくる。お前は水をドラム缶に入れて、また俺にバケツを渡す。バケツリレーだ。判ったな?」

 侍はそう言い置くと、さっさと崖のように急な上り坂を駆け上がり、間もなく湧き水をバケツ一杯に注いで戻ってくる。「ほれ、零すんじゃねえぞ」と言われても、水鳥は両手で其れをよろめきながら、そして半ばほど零しながらようやくの事でドラム缶に注ぐ。「早くしろよ」の声に慌てて戻った時にはもう次の水が汲まれていて、……ドラム缶を一杯にして、侍がもう次のバケツに水を満たしている。水がドラム缶の七割ほどに満ちる頃には、水鳥はもうへとへとになっていた。

「ったく、だらしねえなあ」

 薪に火を付けた侍は、股間を隠すことも忘れて引っ繰り返った水鳥をせせら笑って、

「植苗の坊ちゃんよ、お前がどうしてあんな風にいじめられてるか、当ててやろうか」

 そんなことを言い出した。

「お前は、ミヤマミシャクジミマダラモモドキが食えねえんだろう」

 え、と引っ繰り返ったまま、水鳥は侍に顔を向けた。大人たちでさえ舌を噛みそうになるあの藻の名前を、侍はすらすらと喋った。

「俺も元々は御藻羅の人間だ。……あんなもん、人の食いもんじゃねえ」

 唇を歪めて、侍は言った。「俺もアレは食えない」

「……お侍さんが……、あの村の?」

「それ以上は訊かれたって答えねえからな」

 侍はそう宣して、物干し竿代わりの木枠を少し火に近付けた。

「でも……、どうして僕が……」

「お前があの村の子供じゃないからだ」

「え?」

「お前はあの血の澱んだ村の人間じゃねえ」

 乱暴な言い方を、恐らく侍は選んでしたのだろう。それでも大意を水鳥は受け取った。そして、しばらく呆然とする。

「ミヤマミシャクジミマダラモモドキは、あの村の人間しか食えない。逆に言やあ、真ッ当な人間には食えるもんじゃねえ」

 でも、お侍さんはさっき、自分もあの村の人間じゃないって言ったじゃないか……。

 だが「訊かれたって答えねえ」と言った以上、彼が教えてくれるとは思えなかった。黙りこくっているうちに湯が沸いた。彼はトランクスを脱ぎ捨てると、バケツに湯を汲み頭の天辺から湯を浴びた。それから水鳥にも同じようにし、ドラム缶に入るときには水鳥に手を貸した。水鳥の尻を膝に乗せて「狭ぇな」と侍は唇を尖らせて言ったが、決して不快そうではない。水鳥も、侍の怖いような優しいような振る舞いに、縮こまっていた身体を徐々に緩ませて、狭いなりに寛ぐことに決めた。

「水鳥っつったか、お前、歳は幾つだ」

「……十一歳、小学六年生。……お侍さんは?」

「二十」

 思わず、「嘘」と水鳥は声を上げた。成人しているようには到底見えない。水鳥は彼の外見年齢を初対面から徐々に下方向へ補正し、高校生ぐらいと結論付けていたばかりだったので。

「お前だって、小六には見えねえって言われるだろ」

 水鳥が仕方なく頷いて顔を上げれば、侍は、神妙な顔付きになっていた。

「今年、……『祭』をやるっていうのは本当か?」

「お祭、……うん。ずっとやらなかったのを、またやることになったって……。どんなことするのか、知らないけど……。和尚さんが決めたことだから、誰も逆らえないって」

 くそじじい、と侍が小さく毒づいたのを、水鳥は聴いた。

「お侍さんは、『祭』について何か知ってるの?」

 侍は答えなかった。ただ、何故だか彼は「こっち向け」と狭い空間で水鳥に方向転換を命じる。湯をちゃぷちゃぷ揺らしながら苦労して、水鳥は侍の右腿を跨ぐ形で向き直った。

「やっぱり、今年はお前なんだろうな」

 痛みを覚えたような顔で、侍は呟く。それから二度、三度と水鳥の髪を撫ぜる。

「僕……?」

「ああ、……お前が今年の『ニエ』に選ばれる」

 侍が痛そうな顔で口にした「ニエ」という聴き慣れぬ言葉に、水鳥は何故だか不穏な空気を感じた。

 水鳥の心臓は高鳴っていた。性伝和尚のことを「くそじじい」なんて言う人を、水鳥は村で見たことがなかった。性伝和尚は誰からも尊敬される立派な聖人なのだ。

 少なくとも、水鳥はそういう教育を受けた。

 しかし水鳥は性伝和尚が苦手だった。

 身体の大きさは水鳥ともさほど変わらないようなしょぼくれた老人なのに、目は爛々と光ってぎょろりと怖いし、何だか其処に居るだけで息苦しいような威圧感を覚える。明日の放課後、父乳寺での「練習」が憂鬱なのは、男子ばかりに囲まれる状況を疎むばかりではない、一体何をやらされるのか判らないが、首尾よく出来なくて性伝和尚に睨まれるようなことになってはたまらないと思うからでもある。性伝和尚だけではない、父乳寺の僧侶たちは皆一様に身体が大きくいかつい顔をしていて、何だか恐ろしいのだ。

 侍は「出るぞ」と水鳥を抱え上げて、ひょいとドラム缶から飛び出した。

 そもそもミヤマミシャクジミマダラモモドキの収穫が村の男たちにとっては祭のようなところがある水鳥も川縁の少し離れたところから豪壮なその祭を見たことは何度もあった。

 ただ、水鳥が見知っているのは八年前から現在に至るまで、ごく簡略化されたもので、性伝が経を読み上げる間に僧侶たちが酒と米を川に捧ぐ、言うなればプール開きにも似た様子の光景である。かつてその仏事に参加出来るのは六年生からだったそうだが、どういう事情か水鳥が物心付いて以後はずっと村人全員が参加するのが慣わしになっていた。

 簡素な儀式が終わると、性伝和尚の差配により、男たち褌か水着姿になって、藻の生え茂る川に這入って行き、「刈竿網」を用いて収穫を行うのである。何と言っても珍重なミヤマミシャクジミマダラモモドキである、収穫した藻は一旦父乳寺に預けられ、それから各過程に分配されるのが慣わしであったが、一株でも多く獲れれば取り分もそれだけ増えるのだから、現場は興奮の坩堝となる。

 ただ、水鳥はそういった男たちの作り出す粗野な空間が苦手である。その上、初夏とはいえ六月に水に入れば身体を壊すのは間違いなく、毎年水着姿にはなるものの、何となく遠巻きで鳥肌を立てて震えながらやり過ごしてばかりいた。迂闊に近寄ろうものなら、刈竿網に頭を叩かれそうで怖くもあった。

 なお刈竿網は「網」という名こそ付いているが、実際には杉の木を細長く削った棒状の道具であり、十三歳以上の男子には一人一本ずつが配られる。先端部から少し下ったところにくびれがあり、棒先を藻の茂みに突っ込むと、首尾よくそのくびれに藻が絡み付いて収穫叶うという道具である。普段は父乳寺本堂にしまわれ、折れても継ぎなおされて使い続けられるため、年季の入ったものは黒光りしている。

 水鳥の下着類はすっかり乾いた。再び着物を纏い、髪を結った侍はバイクの後ろに水鳥を乗せ、急坂を元の通り一気に駆け下りる。危うく水鳥はせっかく乾いた下着をまた派手に濡らしてしまうところであった、地味に汚しただけで済んだのは幸いである。

「今日、俺ンとこに来たってことは、誰にも言うんじゃねえぞ」

 根原谷の入口でバイクから水鳥が降りるなり、侍は真面目な声でそう言った。

「絶対に、秘密だ、男同士の約束だ、……いいな?」

 こくん、水鳥も真面目な顔をして頷いた。性伝和尚を「くそじじい」と言う人と一緒に居たなどと知れれば、自分も只ではいられないと賢い水鳥は想像するのだ。

 でも、きっと悪い人じゃないんだ……。

「じゃあ、またな。……多分、これから何度か会うことになると思うぜ」

 言い残してバイクを翻し山の風となった金髪の侍の、奇妙に思えるほど美しい相貌と、凶悪な輪郭ながら澄んだ双眸を思い出して、水鳥はそう心に決める。正体は全く判然としないが、危ない所を助けてくれたことだけは事実だったから。

 

 父乳寺はさほど規模の大きな寺ではない。精巣院は性伝をはじめ父乳寺に住む僧侶たちの住居も兼ねており大きいが、伽藍はささやかなものだ。本堂前の庭には樹齢三百年の「夜伽松」が艶かしくその幹をくねらせているのが目立つくらいで、村立小学校の六年生十二人の男子が並んでしゃがみ込むと、狭ささえ感じられるほどだ。

 少年たちの中に、心細げな顔の水鳥も混じっている。

 他の男子たちが「練習って何やんだろうな」「どうせ刈竿網の使い方とかじゃねえの」などとひそひそ声で言葉を交わしているのが聞こえてくるが、水鳥の耳にはあまり入ってこなかった。それ以上に少年の耳には、昨晩の父親の言葉がこびり付いて離れないのだ。

 家ではほとんど父親と話をすることはない。水鳥の方から避けている。乱暴で勝手で迷惑な父親だと憎んでいるから、出来る限り顔を合わせないようにしているのだ。それでも食事の時には、和室で掛け軸を背に座る父親から一番離れた隅の席とはいえ、一緒に卓を囲むことを強いられる。

「今年は『収穫祭』をやる」

 碧の父親は既に老境に達している。水鳥にとっては祖父と言ってもいいほどの年寄りである。

 なお、一番上の姉の葵が今年で二十八、二番目の姉の茜が二十六、そして歳の近い雪にしても、もう二十三で、水鳥は彼女たちと話をすることも余りない。

「いい機会だ。水鳥にとってもな」

 家長である益荒男の言葉を引き取るのは、いつも長女の葵の仕事である。本来その役目を担うはずの育子が家を出てから随分経つから、その応対は慣れたものだ。

「そうですわね、お父様」

 葵の声に、何やら妖しい光が篭もっているように、水鳥には感じられて思わず顔を上げた。「やはり御藻羅の男は、あの祭を経験してこそ大人と言えますわ」

「うむ、やはり祭はしなければならん。八年も途絶えている間に、若い連中は全くだらしのない奴らばかりになってしまった。私も今思えばあの祭に参加しておいて良かったと思っている」

「議会の賛成は取り付けられまして?」

「当然だ、全会一致だよ。和尚先生がやると仰るからには、絶対にやり果せねばならん。なあに、八年前のようなことにはなりはしない。会場の警備もあのときより倍増する」

 警備と聴いて、一体何が行われるのか、水鳥は不穏なものを感じて箸を留めた。じりじりと、父や姉たちの視線が自分の横顔に当てられているのを水鳥は感じて、居心地の悪さを感じる。

「何事も経験だ」

 益荒男は、悟ったようにそう言った。「あの祭から逃げて居ては、一生、お前は半端者のままだ。御藻羅の男となりたければ、せいぜい練習をして、そうだな、『ニエ』に選ばれるよう励むがいい。お前が『ニエ』に選ばれた暁には、私もお前の事を一人前の男として認めてやろう」

 「ニエ」と、父は言った。昼間、あの侍が口にしたのと同じ言葉だ。

 だが、水鳥は「ニエ」の意味を父に問うことは出来なかった。夕食の大半を残して逃げるように部屋に引き篭もり、一体祭で何が行われるのか、考えているうちに眠ってしまった。他の同級生たちが「ニエ」という言葉を知っているのか、もちろん学校では男子と口を聴かない水鳥には確かめようもなかった。ただ彼らの雑談の中からその単語が出てくることはないようだった。

 考えを巡らせているうちに、性伝が現れた。両手を合わせて礼をするのに習って、子供たちは一斉に立ち上がり、其れを真似する。

「これより、『藻捩祭』の準備に入る」

 地を這うような厳しい声で、性伝が宣した。

「これは神聖な儀式じゃ。この御藻羅の地に恵みを齎す山の、水の神々に感謝を篭めて捧げられる……。ミヤマミシャクジモマラダモドキ」

 性伝の言い間違いにも、子供たちは笑う気など起こらない。性伝の纏う神聖な空気を前に、一様に緊張していた。

 性伝の弟子の僧侶たちが、細く白い刈竿網を何本も抱えて持ってきた。

「神々への『舞子』となるお前たちには神木から削り出したこの刈竿網を授ける。此れらはわしが特別な祈祷を篭めて、お前たちのために用意したものじゃ」

 重々しく、性伝は述べる。子供たちの目は自然、僧侶たちの持つ刈竿網へと向けられた。真新しく白い刈竿網の形状は、彼らのよく知るそれとは異なる。刈竿網最大の特徴である「括れ」がないのである。

 性伝は子供たちの視線の意味を承知しているように、

「『舞子』の儀式が終われば、お前たちは一人前の男として認められる。ゆえに、其れまではお前たちはこの形の竿を用いてもらう。来年の収穫祭では、きちんと『括れ』を彫り入れたものを用意しよう。括れの刻まれた刈竿網こそ、大人の男としての証なのじゃ」

 性伝は厳しい顔でそう説明すると、不意に、「では、お前たちは此処で着ているものを脱げ」と言い放った。

 無言のざわめきが、子供たちの中に一瞬で広がった。

「どうした。『舞子』の身体は神々への捧げ者となるのだ、そのような穢れた衣服に身を包んでいては罰が当たるぞ」

 中年の僧侶が、大きな籠を抱えて現れた。がっしりとした巌のような体格の僧侶に、「早く脱がんか」と一喝されて、子供たちは思わず肩を竦める。

 やがて一人、また一人と、躊躇いながら子供たちは服を脱いでいく。水鳥も仕方なく、それに習った。靴を脱ぎ、裸足になると、寺の下土が冷んやりと不吉に冷たく感じられた。十二人の子供たちはパンツ一枚のみの姿になり、着ていた服を大きな籠に入れた。

 しかし、性伝の声が追い討ちを掛けた。

「何をしている、わしは着ているものを脱げと申したであろう。一枚残らず脱ぐのじゃ」

 凍りついたのは、水鳥一人ではない。

 

 同時刻、教室に集められた女子児童たちを前に、野々村は黒板に「お祭の意義」と板書していた。

「このお祭は神聖な行事であり、御藻羅村がこれからも平和で健やかな村であるようにと祈るために行います。皆さんにはこの行事で、『巫女』の役をしてもらいます」

 教壇に乗せていた巫女の衣装を、野々村は少女たちに広げて見せた。白を基調とし、所々に朱の入った衣装は美しく、少女たちは皆うっとりと見とれていた。少女たちの顔を見渡しながら、野々村は内心で八年前の事件を思い出さずには居られなかった。

 目の前の児童たちは誰一人「藻捩祭」を知らない。御藻羅村において「成人」と認められるのは十二歳、小学校六年生の男女であり、それに満たない子供たちは祭への参加を許されず、思えば野々村も五年生までは学校に日曜日登校を強いられ、他の児童たちと自習していた。

 彼女自身が祭を経験して以後は、内心でその因習とでも呼ぶべき祭に抵抗感を抱きこそすれ、村一番の権力者である性伝に逆らうことは出来ない。いや、そればかりか周囲に目をやれば、誰もそれを公言こそしないものの、毎年行われる「祭」に目を輝かせる女子は少なからず居たし、彼女自身だって時にはその中の一人であった。

 東京の大学に進学し、教職免許を取得して、彼女は村立小学校の教員となった。もう二十年以上前の話だ。一年生から五年生を受け持つときはまだいい。六年生の担任を受け持つのは、正直心苦しい仕事であった。他の教師たちもそれは同様であるようで、校長や教頭に表立って発言する者は居ないものの、野々村同様「藻捩祭」に疑問を抱く者は居た。

 それでもだらだら続いていた祭が、八年前、彼女が担任していたクラスが祭に参加したのを最後に途絶えていたのは、彼女にとっても他の教師たちにとっても何となく落ち着ける事態では在った。一方で村人たちの多くは祭の中止に不平を唱えたし、野々村自身、校長や村長といった村の権力者たちから監督能力のなさを激しく糾弾されたが。

 そんな野々村が事件の年以来六年生の担任を受け持つことになった今年に、「藻捩祭」が再開されるというのは何かの皮肉であろうか。

 彼女は密やかに溜め息を呑みこんだ。

「……では、まずお祭の流れについて説明します。……男子たちは『舞子』の姿で、大小二本の刈竿網を持って豊穣を願う舞を踊ります。此れは父乳寺の石段で行われますが、皆さんは舞子が踊っている間は、配られたお神酒を持って静かに待っていてください」

 野々村は黒板に父乳寺と川原の簡単な図を描き、石段を赤で囲った。「丁度、この辺りが皆さんの待機場所です。踊りが終わったら、舞子が一人ずつ階段を降りて来ます。皆さんも一人ずつ順番に、舞子の所へ行って、お神酒を、いいですか、小さいほうの刈竿網の方に掛けてあげてください」

「先生」

 と一人の女子が手を上げた。「小さいほうの刈竿網って何ですか?」

 野々村は「いい質問ですね」と一度少女にぎこちなく微笑んでから、「みなさん、刈竿網を見たことはありますね?」という問いに、少女たちが頷くのを確かめる。

「皆さんが見たことのある刈竿網は、大体皆さんの身長と同じくらいあるものですが、舞子はもう一本、そうですね、色々ありますが、小さいものでは五センチくらいの刈竿網を持って踊っています。皆さんがお神酒をかけるのはそちらの刈竿網です、これはとても大事なことですから、決して間違えないように」

 野々村は少女たちに言葉が浸透するのを待ってから、

「では、お神酒をかけたあと何をするか説明します。よく聞いてください」

 黒板を一旦全て消して、舞子の携える「小さい」方の刈竿網を白のチョークで模式的に描いた。

 

 一言でいえば、「おぞましい」ということになる。

 やはり性伝は、八年前と何も変わっていない……。

 侍は村を睥睨する小高い丘に生えた杉の木に登り、片目で双眼鏡を覗き込み、父乳寺で行われる「舞子」の練習を眺めて顔を顰めていた。性伝の姿はもう其処にはない。恐らく本堂か、精巣院に篭もっている。寺の庭では四人の僧侶が少年たちに厳しく舞を教え込んでいる。子供たちの中にはもちろん、植苗水鳥の姿も見えた。

 父乳寺には、性伝の下に八人の僧侶が居る。庭には半数が厳しく指導に当たっているが、残りの四人が見当たらない。彼らの姿を見つけるまでに、さほど時間は掛からなかった。村の中央に一人、川べりに一人、鰤端と繋がる道に一人、そして、……根原谷の入口に先程一人、見つけた。何れも手には護身用の棒を握っている。

 警備が厳しくなることを、侍はもちろん了解していた。

 性伝が何も考えず私欲に駆られて「藻捩祭」を再開するとは思えない……、侍は自分の想像が的中したことを確信しながら、双眼鏡を外した。

 性伝は、やはり俺を恨んでいやがる。「祭」を行えば俺が山から下りてくると思っていやがる。

 今度こそ、俺を亡き者にするために。

「上等だぜ、くそじじい。こっちだって其れを待ってたんだ、テメェを……、斬るときを、ずっとな」

 唇を歪めて、侍は独語する。彼の腰にはあの刀が携えられている。

 その刀で性伝の首を刎ね落とすことこそ、侍の願いだ。

 そして逆もまた真なり、性伝も侍をおびき出す餌と罠を配して待つ。

 静かに息を吐き、再び双眼鏡を覗き、父乳寺に目をやる。一時間ほどの練習は終わったようだ。服を着た子供たちが、三々五々散ってゆく。細かな表情までは把握できかねるが、皆、しょんぼりと背中を丸めている。

 その中で、一際目立つのは山門から全速力で駆け逃げていく植苗水鳥の小さな身体だ。他の少年たちが息を吹き返したように其れを負い始める。

 舌を打って、侍は木から飛び降り、相棒の下へ走った。

 

 追われ、全速力で逃げながら、水鳥の頭の中は色々な考えが巡っていた。

 「舞子」の舞とは。

 水鳥たちは裸にされた。そして一人に一本ずつ手渡された刈竿網を持ち、舞を踊らされた。舞そのものは、盆踊りを少し難しくした程度のもので、それほど難しいものではないように思われる。本番は、あれを山門前の階段でやるということを差し引いても、単純で覚えやすい踊りであった。

 しかし、性伝は言った。

「当日も今日と同じように、その姿で舞い踊るのじゃ」

 つまりは、公の場において一糸纏わぬ全裸で、ということだ。

 さすがに性伝がその言葉を発した瞬間には、男子たちからは驚きと怯えの入り混じったような声が漏れたが、性伝がぎろりと睨むとそれはすぐに止んだ。

 性伝の傍らに立っていた巨漢の僧侶が、優しげな、しかし厳かな声で、次のような事を言った。

「本来、この村に伝わる『藻捩祭』は諸君のような少年たちの中から『ニエ』を選び出し、山に捧げるものであった。『ニエ』とは生贄のことだ、かつては村の豊穣を祈願するため、その命が捧げられていたのだ。其れを性伝和尚様が改め、このような形に変えたのだ」

「さよう」

 性伝が、巨漢僧侶から言葉を引き取った。「お主らのような未来ある若者たちの命を捧げるというのは、いかにも残虐極まりない。山の風物が其れを喜ぶとは思えぬ。その代わり、魂、即ち衣に覆われぬ最も純潔なものを、風物に晒すことこそ、最良の形である」

 裸で人前に出るなんて、嫌だ。

 全員が全員、そういう気持ちで居たはずだ。しかし性伝和尚には誰も逆らえない。性伝の決めたことは、絶対なのだ。

 息を切らせて走る背後には、やり場のない焦燥をせめて水鳥を虐げることで発散しようという同級生たちの魔の手が迫っていた。水鳥の足は自然、昨日と同じように根原谷の入口へと向かっていた。来て、どうか、どうか来てください、そう、必死で願いを篭めながら。

 木立を縫って、耳に爆音が届いたとき、心底からの安堵で水鳥は転倒した。顔を上げると、すぐ目の前に金髪の侍のバイクが停まっていた。

「また来やがった!」

 侍は片目でじろりと少年たちを睨みつけて、「散れ!」と怒鳴る。その言葉に気圧されて、水鳥を取り囲んでいた輪は徐々に広がり、やがて散り散りに逃げ出していく。水鳥が「ありがとう」と言うより先に、彼は「今日はしょんべん漏らすなよ」と毒っぽく笑う。

「お侍さん、僕……っ」

「『祭』の話だろ。乗れ」

 察し良く言った侍の跨るバイクの後ろに、彼の手を借りて跨り、しっかりと掴まる。昨日同様、急峻な崖道を凄まじい速さで駆け上って、水鳥は侍の小屋へ辿り着いた。狭い小屋の中に水鳥を通すと、彼はどっかりと床に胡坐をかき、煙草に火をつけて苦々しげに、

「くそじじいだろう、性伝は」

 と吐き出した。

「あいつはな、ああいう祭をずうっと何年も続けてやってたんだ、あの、クソ忌々しい祭をな」

「……本当に、裸で踊らなきゃいけないの? みんなの……、女の子も見てる前で」

 侍が煙草に唇を当て、先端を紅く光らせてから、静かに煙を吐き出す。言葉を待つ間、水鳥は自分の身が乾燥したミヤマミシャクジミマダラモモドキのように縮み上がるような気がした。自分の恥ずかしいところを村中の人に見られるなんて、想像するだけで恥ずかしさで消えて無くなってしまいそうだ。

「村の連中全員が見てる前でだ」

「そんな……」

「それだけじゃねえ、……舞の間は、まだいい、裸を見られるだけだからな。問題はその後の、『ヤブサメ』と『ミソギ』だ。まあ、儀式だな」

「儀式……」

 侍はしばらく考え込むように黙り込んだ。身体のどこかが痛むように、眉間に皺を寄せ、片方だけの目をじっと閉じている。

「……お侍さんは、その儀式を知ってるの?」

 黙ったまま、侍は首肯した。「俺は、八年前、最後の祭に舞子として参加したんだ。……そして、祭をぶち壊しにした。俺はあの年、『ミソギ』に捧げられた『ニエ』だった」

 また「ニエ」だ。侍、父、そして性伝の口から度々発される言葉は、最早「生贄」よりも恐ろしいものであるように水鳥には思えていた。

「ねえ、その……、『ニエ』って、なんなの?」

 古ぼけた灰皿に煙草を揉み消して、侍は一度、きつく奥歯を噛み締めてから、「あのクソ坊主への、捧げもんだ」と答えた。

「和尚様への捧げもの……? 舞子は山への捧げものなんじゃないの?」

「本来はな。……元々は生贄を捧げてたって言うのは聞いたか?」

 水鳥は頷いた。

「性伝が父乳寺の住職になる五十年前までは、本当にそういう祭だったんだ。食糧も何も持たせないで丸裸にひん剥いた十二歳の子供を、この根原谷の奥まで連れて行ってな、木に括りつけて一晩過ごさせる」

「そんな……!」

「寒かろうが雨が降ろうが、翌朝までそのままだ。幸い、この村の連中はあのクソ不味い藻のお陰で身体だけは丈夫だからな、一晩くらい放っておいてもどうってことはなかった。ただ、そういう儀式を秘密裏にしてたことが他の村に知られてな、性伝は子供を裸にして舞を踊らせることを思いついたんだ」

 水鳥は思わず、一晩この谷の木に括られて過ごすのと、裸で人前で舞を踊るのと、どちらが楽かを天秤に掛けた。……間もなく、どちらも嫌だという当然の結論が出る。

「村の連中は、性伝を優しい男だって誉めそやしたんだそうだ。けどな、あいつの狙いはそんなところにはありゃしねえ、そもそも、あの野郎は聖人君主みてぇに扱われて偉そうにしてるけどな、何てこたぁねえ、あの面の皮一枚剥いでやりゃ、ただの変態の色ボケじじいだよ」

 辛辣な言葉を次々に侍は並べた。「どうしてお前らが裸にならなきゃいけないんだと思うよ」

「それは……、和尚様は、山に捧げるための、魂を……」

「八年前にも同じ事を言ってたな、あの野郎は。……そんなの、出鱈目だ、あいつはお前らの裸が見たいからそうするのさ」

 ぽかん、と水鳥は口を開けた。

「お前は、あの寺の講堂でやる剣道の練習に行ったことはあるか?」

 水鳥はこくんと頷いた。毎年、川も凍りつくような冬の朝に一週間、男子が講堂で行う剣道の修練。水鳥は嫌で嫌で仕方がなかったが、父親に強いられて何度も行かされた。

「あそこで、お前らはどんな格好だった?」

「どんなって……、それは」

「裸だったろ」

 こく、と水鳥は頷く。恥ずかしくて仕方がなかったが、隠すことは許されなかった。あれは何度やっても慣れられるものではない。

「あれも、性伝の野郎がお前らの裸を見るためだ。ついでに言やあ、あの講堂にはあっちこっちに隠しカメラが付いてる。いろんな角度からお前らが裸で居るところを盗撮してやがんだ」

「ちょっと……、ちょっと待って、どうして和尚様が僕らの裸なんか」

「決まってんだろ」

 唇を思い切り歪めて、侍は水鳥を睨んで言った。片目だけの三白眼には、憎悪が漲り、形容し難い迫力が在った。「あの野郎が、変態だからだよ」

「……へんたい?」

「ああ。……あいつは村では『生涯独身を貫く聖人』なんて言われてるけどな、ただの変態だ。女だろうが男だろうがお構い無しに食い漁る、性欲の塊だ。……あいつが一番好きな物が何か教えてやる、あいつはな、お前らみてぇな、男のガキが好きなんだよ」

 性欲、と侍に言われても、言葉の字面だけは何となく思い浮かぶものの、水鳥には具体的に其れがどういうものかは想像出来なかった。

「性伝の祭は、八年前までずっと続いてた。誰も其れを止められなかった。……なんでか判るか? 『舞子』だった男たち、『巫女』だった女たち、……あいつらが止めさせなかったんだ。テメェらの味わった屈辱をさ、自分たちを最後に止めてなるもんか、次の世代、その次の世代……、同じ苦しみを味わわせたくて仕方ねえのさ。この村の、最低な、悪趣味な、負債をな、下の世代にずーっと引き継がせてんのさ」

 唇を歪めて侍は言う。

「俺は、性伝の野郎を斬らなきゃならねえ」

 彼は立ち上がり、腰から刀を抜いた。

 現れたのは、白い刃、一瞬飛び退きかけたが、水鳥はよく見ればその刀身が金属ではないことに気付く。薄っすらとだが、木目がある。木刀だ。

「水鳥。『ニエ』が何か教えてやるよ」

 左眼に昏い焔を揺らしながら、侍は言う。

「『ニエ』は、性伝に食われるために選び出される子供だ。舞の後、『ニエ』は精巣院の奥にある閨に閉じ込められる。其処で性伝によって、犯される。そのために、『ニエ』にはその年の十二歳の男子の中から、最も美しい奴が選ばれる……」

「お、犯されるって……」

 ふ、と侍は笑って、「そうか、判んねえか」と刀を鞘に収めた。

「……心配すんな。俺はもう、あのクソ坊主に『ニエ』なんて捧げさせたりはしねえ。あいつを斬って、あいつがでっち上げた、あの狂った祭を二度と開かせたりはしねえ……」

 再び、彼は顔を顰めて自分の右眼に手を当てた。

「俺はな、水鳥。『ニエ』になんのが嫌で、……死ぬほど嫌で、だから、死にそうになりながらあいつから逃げてきた。……右眼はその時に、奴にやられた。でもな、俺は自分の右眼よりもずっと大事なもんを護ったつもりで居る……」

 侍は、ゆっくりと眼帯を外して顔を水鳥に向けた。水鳥の身体が一目見た瞬間にビクンと震えたのを見て、侍は薄く微笑む。「怖いか?」

 眼窩には、最早何もないのだ。闇が穴を開け、奥に向けて浅黒い皮膚の代用物のようなものが徐々に細まりながら続いているように見えた。

「出来るならすぐにでも、性伝の野郎を斬って、祭そのものを潰してやりてぇけどな。……奴はいつも自分の身の回りを、あのクソでけぇ坊主たちに護らせてやがる。チャンスは奴が『ニエ』と二人きりになる、『ミソギ』の瞬間しかねえんだ」

 彼はすぐに眼帯を装着した。震えたまま、何も言えない水鳥の傍らに座り、ごしごしとその頭を撫ぜる。その掌は、とても優しいもののように水鳥には思える。

「こんな身体になるよりも、余ッ程怖い目にお前は遭うかもしれねえ」

 震える水鳥に、侍は静かに語りかける。「だけど、俺が奴を斬る。お前を護ってやれる。お前だけじゃねえ、この村には性伝に犯された人間が、……当の本人は其れに気付いてなくても、一杯居るんだ」

「でも……、でも……」

 水鳥はやっと喋ることが出来た。口の中がからからに乾いていた。

「そんな、酷い目に遭った人の話なんて、聴いたことないよ……」

「忘れさせられるからさ」

 侍は、水鳥の髪を撫ぜながら答える。「奴は、『ニエ』の記憶を奪う。自分が散々に犯した子供から、その記憶を奪って、何事もなかったかのように親元に戻す……」

「そん、そんなの、どうやって……」

「簡単な話さ。……ミヤマミシャクジミマダラモモドキを燻した煙を、子供に吸わせりゃいいんだ」

 侍はまたあの藻の名前を、平気でスラスラと喋った。「あれは、新鮮な状態のものを燻すと一気に燃え広がって、妙な匂いの煙を立てるんだ。その煙には幻覚作用があって、普通の人間はその煙を嗅がされると記憶が飛んじまう」

「普通の人間って……」

「性伝以外の人間。奴は何年もミヤマミシャクジミマダラモモドキの煙を吸って、幻覚に耐える。……閨をその煙で一杯にして、その間に奴は『ニエ』を食うんだ。あの野郎だって、自分のしてることがばれたらただじゃいられないことぐらい判ってやがるからな」

 ミヤマミシャクジミマダラモモドキを燃やす人間など、御藻羅村には一人も居ない。あれは聖なる食物であり、そんな風に浪費するのはそれこそ罰当たりだと考えるからだ。

 ゆえに、この秘密は何十年もの間、秘されて来た。

「……お侍さんはどうやって、それを知ったの……?」

 水鳥の問いに、答えなかった。もう、撫ぜる手は止まっていた。

 侍は真面目な顔で、「お前、あの村をどう思う?」問うた。

「……どう、って?」

「あの村に生まれたことを幸せだと思うか?」

 水鳥は、はっきりと首を横に振った。「……どこか違う所だったら、どんなに良かっただろうって思うよ。ミヤマミシャクジ、み、ミマダラモモドキに、振り回されて、辛い思いなんてしなかったのに、って」

 そうか、と侍は頷く。そしてもう一度、水鳥の髪を撫ぜた。

「俺も同じ事を、ずっと思ってた。……でも、しょうがねえんだ、生まれた場所は選べねえ、自分のお袋と親父を選べねえのと同じようにな。運命なんだって思ってた。……けどな、違うんだ」

「え……?」

 顔を上げた水鳥に、侍は優しく強い微笑を向ける。ピアスの穴があちこちに空いて、片目の凶悪な造形ではあるが、それでもその笑みがとても優しいものだということは、水鳥には判った。

「俺は俺の手で、自由を掴んだ。……お前にはまだその力はねえのかもしれねえけど、……俺がお前に自由を与えてやる」

 目の前が暗闇包まれて、ぎゅうと圧迫されたときに初めて、水鳥は自分が侍に抱き締められていることに気付いて、「わう」僅かに両手をばたつかせた。

「お前は、昔の俺と同じだ。八年前の俺とな。……だから、放っとけねえ」

 腕の力を、侍が緩めた。侍はやはり、優しい微笑みを浮かべていた。

「俺が性伝を斬ろうとしているのと同じで、性伝と手下の坊主たちも秘密を知ってる俺を探してやがるはずだ。俺が村に現れたことは、もう坊主たちには知られてるだろう、この小屋も安全じゃねえ。……俺は祭の日まで身を隠す」

 水鳥を離して侍は立ち上がり、小屋の戸を開け、「……風の匂いが変わったな、奴らが近くに居るのか」舌を打った。

「水鳥。お前は奴らに会ったら、俺に『攫われた』って言っておけ。怖い目に遭ったってな。……心配すんな、儀式は俺が潰してやる、……絶対にやらせねえ。俺がこの左眼に誓って約束してやる」

 行け、と侍が顎をしゃくった。

 水鳥はきっぱりと頷いて、山道に駆け出た。背後をバイクのけたたましい音が、いくつもこだまをぶつけながら遠退いて行くのが聴こえた。

 

 僧侶たちに「保護」された水鳥はそのまま父乳寺に連行され、性伝から激しい詰問を受けた。それら全てに、侍に言われたとおり「判りません、急に現れたあの人に攫われただけです」と水鳥は必死に嘘をついたが、聖人である性伝を欺くことはとてつもない罰当たりのように思えて、時折腹の底がしくしくと痛むようだった。

 それでも水鳥はあの侍の空っぽの右眼を思い出して、必死に耐えたのだ。

 侍の言ったことを全面的に信じたわけではない。ひょっとしたらあの人の言ったことこそ出鱈目で、やっぱり和尚様の言うことの方が正しいのではないのか。

 それでも水鳥を支えたのは、彼が一度ならず二度までも、自分を窮地から救い出してくれたことへの心底からの感謝の念であった。あの凶悪な風貌の侍が仮令鬼妖の類であったとしても、水鳥にとってはいじめっ子たちの方が余ッ程恐ろしい。そして、彼の言うとおり本当に自分が「ニエ」に選び出されたとして、その後に行われる「儀式」での、計り知りようもないが恐ろしい状況に陥ることさえ想像すれば、寧ろ進んで侍の側に立ちたいとさえ思うのである。

「警備をより強化せねばなりますまい」

 水鳥への尋問がようやく落ち着こうかというとき、配下の僧侶たちの中でリーダー格らしい「印敬」という名の、一際屈強な男が言った。性伝は今朝剃髪したはずなのに、もうすっかり青く茂った頭を一撫でして、「当然じゃ」と重々しくのたもうた。

「あやつは聖なる仏事を妨げんとする悪鬼の如きもの。徹底的に排除し、二度と御藻羅の地を踏ませてはならん」

「駐在だけでなく、消防団などにも警備させましょう」

「それはもとより、明日より山狩りを始めよ。その子供は根原谷で二度、奴に拉致されている。根原谷の何処かに塒があるのやもしれぬ」

 父乳寺の侍の踏んだ通りであった。僧侶たちは早速警備の手配をし、水鳥は三人の僧侶たちに囲まれて家へと「護送」された。

「明日より『藻捩祭』の日まで、私たちが君の送り迎えをする」

 印敬の弟である「印能」という名の、これまた巌のような体付きの坊主が植苗の家の門前でそう宣した。「二度も奴に誘拐されそうになるとは、不憫なことであったな。だが明日からは安心するがよい」

 水鳥にとっては、これで祭の日まではあの侍に会えなくなってしまったということと、少なくともいじめっ子たちに追い回されることはなくなりそうだという二点だけが重要だった。

 部屋の隅でようやくランドセルを下ろして座り込むと、身体がぐったりと疲れている。あの異常な「祭の練習」もそうだ、侍から聴かされた話もそうだ。

 此れまで何の疑いもなく、水鳥は御藻羅村で生きてきた。この村に生まれ育った男児としてはあまりにも柔弱で、村の者たちが挙って食べたがる珍藻も受け付けない身体で居る。追われるように逃げた母と、厳しい父や姉たちに囲まれて、斯く在らねばならない自分に疑問を覚え、他者を恨みもし、しかしこの世界が変わることなど、考えたこともなかった。

 あの侍は、性伝和尚を自らの意志で裏切り、身体の一部を喪って、それとは引き換えに「大事なもの」を護ったのだと言っていた。

 侍はあの山奥の小さな小屋で、一人で生きている。御藻羅村の規律や風習とは無縁の場所で。

 僕も、此処ではない何処かでならば、こんなに苦しまなくてもいいのかもしれない。柔弱者と馬鹿にされいじめられて生きてきた挙句、「藻捩祭」の「ニエ」に選び出されて恐ろしい目に遭うのだとすれば、……僕とは、一体何なのだろう……。

 考え込んでいるうちに、少し眠ってしまったようだ。

 トン、と窓を叩くような音がした。木の雨戸は朝から閉めたままである。……何だろう、と起き出して、窓と雨戸を開けて外を見れば、雨戸に長々と、矢が刺さっていた。矢の尾部には手紙が括りつけられている。

 慌てて水鳥は手を伸ばして矢を抜き、灯りを点してその手紙を広げた。

《必ず助けに行く。お前の身を性伝に捧げさせたりはしない》

 あの侍からの手紙に違いなかった。耳を済ませても単車の音は聴こえてこなかったが、僧侶たちに見付かる危険を犯してこの矢文を射ってくれたに違いなかった。

「……うん」

 再びぴったりと雨戸を閉めて、水鳥は頷く。やはりどうあっても、あの侍の言う事を信じようと心に決めた。

 翌日から、僧侶たちに付き添われて学校に通うことになった。息苦しく感じる一方、いじめっ子たちに追われずに済むことだけは正直ありがたかった。元々男子と学校で口を聞くことは稀で、いつもの通り女子たちと一緒に過ごしていたが、「男子たちはどんな練習をしてるの?」と訊かれて、水鳥に答えることは出来なかった。

「……みんなは?」

「あたしたちは、何だかわかんないけど、お神酒であんたたちを清める練習」

「お神酒で……?」

「そう。あんたたちの刈竿網をお神酒で清めるんだって」

「……ふうん……」

 女子たちは、きっと裸にさせられたりはしないのだろう。そう考えれば、どうして自分は男の身体に生まれて来てしまったのだろうと水鳥は呪わしく思われた。

 学校が終われば、連日、父乳寺の庭にて「舞」の練習をさせられた。

 その際、水鳥はそっと周囲に視線を配っていた。

 注意深く観察すると、侍の言っていた通りである。……灯篭、鐘楼の陰などに、幾つもの「目」が光っていた。水鳥たちが刈竿網を携えて舞う間中、それはずっと水鳥たちの裸体を凝視している。

「頭を動かすでない!」

 一喝されて、水鳥は慌てて目を反らす。

 撮られていることに気付かない振りをしていなければならない。出来るだけ舞に意識を集中させようとしても、……こんなものを撮って、一体どうするつもりなんだろう……、水鳥の考えはいくらでも巡った。

 意識し始めてみれば、幾らでも「おかしい」と思えることは増えた。

 体育の授業の際、四年生以上の児童は男女の更衣室に分かれて着替えを行う。水鳥は其処でも、小型のカメラが仕掛けられていることに気付いた。男子トイレや保健室にも同様の物が存在しており、およそ男子児童が裸身を晒す可能性のある全ての場所が監視されているような状態なのだ。

 それらのカメラに収録された映像が何処に集められているかということは、もう水鳥には想像が付いていた。全て父乳寺に、性伝の手元にあるはずだ。考えてみれば小学校に性伝や僧侶たちがやって来ることなど珍しくもない。校長たちは寧ろ有難がって彼らを迎え入れる。彼らがやって来たついでにそういった悪事を働いていても、気付きはしないだろう。……いや、のみならず、教師たちは父乳寺に協力的でさえあるのかもしれない。校長の平中は、元々は父乳寺の僧侶だった男である。

 水鳥のそういう想像は確信に変わった。

 祭を二日後に控えたその日の放課後、男子が一人ずつ保健室に呼び出された。野々村先生曰く「お祭に参加する皆さんが舞子として立派に仕事を果たせるかどうかを確かめるための面接を行います」とのことで、苗字が「植苗」であり出席番号では一番の水鳥は、すぐに保健室に呼び出された。

 設えられた長机の向こうに座っているのは、印敬・印能の僧侶兄弟である。

「其処に座りなさい。これからいくつか質問をさせてもらう、正直に答えるように」

 水鳥がさりげなく確認した限りでは、二台の隠しカメラが折り畳み椅子に座した水鳥を狙っている。

「まず、君に『射精』の経験があるかどうかを知りたい」

 印敬が手元のメモを見ながらそう訊いた。

「……しゃせい、って……、何ですか?」

「ふむ……」

 紅い鉛筆を、印敬は手元のメモに走らせた。水鳥の問いには答えず、「では、次に服を脱ぎなさい。脱いだ服は其処の籠に入れるように」と有無を言わせぬ口調で言い放つ。

 カメラが設置されているのを見た瞬間、恐らくそう言われるのだろうということは想像出来ていた。

 どうして、自分たちの裸をそうまで執拗に撮ろうとするのだろう。

 二年ほど前、この村で盗撮騒ぎが在ったことを水鳥は思い出した。よその街からふらりとやって来た若者が、街の児童館の女子トイレにカメラを仕掛け、少女たちの排泄を盗撮した。悪事はすぐに明るみに出て、若者は逮捕された。その事件を耳にして、男が女の子の恥ずかしい所を覗き見たいと思うのは自然なことなのかもしれないと、まだそういう知識をほとんど持っていない水鳥でさえ思った。そして体育の授業で着替えるときには、女子の更衣室を覗く方法を画策している同級生が居ることも、水鳥は知っている。自分は決してそれに参加しようとは思わないが、そういう欲が在る事は判る。自分と違うものは何であれ見たいと思うのが情であろう。

 しかし、性伝和尚は男である、水鳥だって男である。同じ物が付いているのに。

 シャツを脱ぎ、ズボンに手を掛けたところで、

「なぜ、服を脱がなければならないのですか」

 水鳥は顔を上げて訊いた。

「なぜ、とは」

「……そこに、あるの、……カメラですよね。どうして撮ってるんですか。……僕は、そんなのに撮られながら裸になるのは嫌です」

 印敬の顔色が変わった。

 しかし、彼は落ち着き払って立ち上がると、水鳥が指差した背後の棚から、「確かに、此れはカメラだ」と、余裕の面持ちで箱に隠された小型のカメラを取り出してみせる。

「考えてもみたまえ。君たちは『藻捩祭』で、山の風物に捧げられる身なのだ。君たちの裸が真に穢れなきものかどうかを、我々は慎重に調べなければならない。ただ、大っぴらに君たちの裸を撮っていると言ったらどうなる?」

 水鳥は答えに窮した。「恥ずかしがるに決まっているだろう」という印敬の言葉に、ひとまず頷くしかなかった。

「君たちに余計な警戒心を与えぬために、このような形で撮らせて貰って居るのだ」

「……その、撮ったものは、どうなるんですか」

「案ずるな。我々が一度目を通した後に消去している、あくまで」

 此処で印敬は声を張り上げた。「『祭』を問題なく完遂するために必要だからして居る」

 本当に? ……もっと、怖いことに使うためじゃないの?

 侍の言葉からそういう恐ろしい想像を導き出すことは十分可能だ。

 しかし、水鳥は黙って頷いた。

「このことは決して他の子供たちに他言しないように。この調査や『祭』が円滑に進まなくなっては困るのでな。……そもそも、この程度の事を恥ずかしいなどと思うほうが恥ずかしい事だ。男児たるもの、もっと広く大きな心を持つように」

 印敬はそう宣する。巨漢の坊主を前にして、水鳥にそれ以上の抗いは出来なかった。これ以上反抗すれば、「あの侍に余計な事を吹き込まれた」などと言われて、侍との関係が露顕してしまうかもしれない。

 水鳥は恥ずかしさを堪えながら、ズボンに手を掛けた。

 

 

《知られざる日本の山村 御藻羅村 二》

 

 八年前より途絶えているが、御藻羅村にて行われる「藻捩祭」について書いておかねばならない。

 これはミヤマミシャクジミマダラモモドキと同じく、御藻羅村について語る上では欠かせない。此れはミヤマミシャクジミマダラモモドキ、即ち村民に恵みを齎す山の風物に感謝して行われる仏事である。似た形態の祭として、F県間麻村の「子ども奉納相撲」やI県見耳村「したばき祭」、そしてH県霧無武村と雌芽村にて行われる「河童祭」などが見られるが、共通するのは小児の肉体を自然に捧げる、一種の人柱祭の側面を持つという点だ。

 言うまでもないことだが時代の流れと共に形を変え、現在では小児に何らかの身体運動をさせ、風物を鎮めるという目的を果たすものとなっている。例えば二村で行われている「河童祭」では共に村の「河童淵」と呼ばれる渓流にて、河童に扮した子供らが胡瓜を食べ、水遊びをする。河童に扮すると言っても現在では張りぼての甲羅を背負い頭に紙皿を乗せて、緑色の水着を身に纏うという程度であるが、数年前までは緑色の褌、更に遡って戦前には全裸であったと言う。

 斯様に日本各地の風物は子供の裸を見たがるものであることは、此処で改めて指摘するべきことではないため割愛する。この辺りの考察については父久日水太郎先生の『子供はだか祭考 〜なぜ男児の乳首を隠さないのか〜』(亡文書房)に明るい。

 話を御藻羅村「藻捩祭」に戻す。この祭において特徴的なのは、何よりも「舞子」である男児が全裸で舞を踊る点である。舞は阿波踊りとピロリ族の「酒踊り」を合わせたようなものであると想像して頂ければ、恐らくそれと遠からぬものである。ピロリ族が槍を持って踊るのに対し、御藻羅村の舞子たちは「刈竿網」を手に踊る。刈竿網は男根の象徴とされており、「刈」の字は「掛り」が転じたものと言われている通り、大人の男と同じほどの長さの先端には男性器の亀頭部分を模した括れがある。十三歳以上の男子の「刈竿網」は例外なく括れのある刈竿網を持つが、初めて祭に臨む十二歳の男児に与えられるのはこの「括れ」が削られていないタイプのものである。祭を経た後、彼らの刈竿網は父乳寺住職らの手によって括れが彫りいれられ、一人前の男として認められるのである。

 すなわち、「藻捩祭」は山水風物へ捧げる祭であると共に、男児の通過儀礼的側面をも持っているのである。

 以下、祭の流れについて簡単に記す。

 まず、子作り川に面した父乳寺の山門前石段において、まず「舞子」による先述のような踊りが奉納される。舞子は右手に刈竿網を手にして踊るが、ここで先述『子供はだか祭考』を引用すると、

「舞子は二本の刈竿網を手に舞うが、此処に於いて重要なのは、一本はその右手に、もう一本は舞子自身の身体に備えているという点である。即ち舞子はその清純性を暗喩する括れのない刈竿網を持つのみならず、その身を以って『操を護り通した』ことを証明する」

 という意義が篭められている。

 舞子がその身の清純性を証明した後には、「やぶさめ」が行われる。

 同音で「流鏑馬」があるが、「藻捩祭」においては「矢撫早女」と書かれる。矢は男児の刈竿網をそう表したと伝わっている。

 「矢撫早女」の概要はこうだ。「巫女」と呼ばれる十二歳の少女たちの手によって舞子自身の「刈竿網」をまず神酒によって清められる。この神酒は前年に採取され保管されたミヤマミシャクジミマダラモモドキの抽出液であり、その強壮作用を凝縮した液は性器に塗布すると強い催淫作用をあらわす。その場で舞子たちは巫女の手によって精通し、御藻羅村において一人前の男であることを認められるのである。

 此れは御藻羅村においては絶対的な掟であり、この祭に参加しなかった男児はその生涯において刈竿網に括れを彫られることなく、半人前として扱われることとなるのを書き加えておく。

 「矢撫早女」の後、舞子の中で「ニエ」と呼ばれる男児が住職の性伝和尚によって父乳寺にて「禊」の儀式を受ける。禊は、精通を迎えた男児の代表の身を清めることで、その年に(儀礼上の)成人を迎えた彼らの多幸を祈願するものであるとされるが、具体的に何が行われているかという点については伝えられていない。

 尚、禊を受けた「ニエ」は他の少年たちに先駆けて仏弟子となるとされており、この場に於いて住職より戒名を賜るとのことである。

 なお、「伝統行事」とされる「藻捩祭」であるが、その「伝統」を示す文献は現存しない。父乳寺の住職たちに口伝されて現在の形態になったとされている。かつては「ニエ」を根原谷奥の杉の木に一晩裸のまま括って放置するということさえされていたことを顧みれば、現在の形態は「奇祭」の謗りは避けられないが、時代と共に徐々に穏健な形態に収まりつつあると言うべきかも知れない。

 なお、「藻捩祭」がなぜ中絶していたかについては、資料がないため此処では言及しない。一説には「ニエ」に選ばれた舞子が儀式を拒否して逃亡する際、性伝を始めとする僧侶たちに暴行を加えたためとも言われているが、定かではない。

 

 

 六月第三週の日曜日、「藻捩祭」の当日の御藻羅村は快晴であった。父乳寺山門前石段は村中の中学生以上の老若男女が余す所なく集まり、久方ぶりの祭の開催を今や遅しと待ち構えている。彼らの背後でミヤマミシャクジミマダラモモドキは既に大きく増長し、川一面をその緑色で覆いつくしており、時折ひらひらと、羽化したばかりのミヤマオオアオマダラタテハの若い成虫が舞っている。村会議員植苗益荒男は特設テントにて村長の隣、頼りない一人息子の晴れ舞台をそれでも楽しみにしているのだった。

 村長は無人の石段を眺めて、

「今年の『ニエ』は植苗さんとこの子じゃないのか」

 そう口にした。

 このところ、そういう噂が村の中で囁かれており、もちろん益荒男の耳にも届いていた。

「『ニエ』は、一番見た目の良い子がなるしきたりだから」

「いやいや……。うちの倅など、あんなひょろひょろして全く男らしくありませんわ。『ニエ』には相応しくありません」

 口ではそう言いながらも、益荒男は大いに気分がいいのである。「ニエ」に選ばれるのは大変に栄誉な事であり、「ニエ」の父となれば益荒男の株も上がる。これまで苦労を掛けられ続けてきた息子がようやく親孝行をしてくれるのだから、彼の相好が崩れっ放しであるのも当然であると言えた。

 一方、当の息子は山門の中、既に生まれたままの姿で他の少年たちと共に、緊張に身を強張らせていた。男子十二人、体格に差はあるが、先日の調査によって全員が未精通であることは既に確かめられている。

「なあ、本当に、裸で踊らなきゃいけないのか?」

 誰かが泣きそうな顔で訊く声がする。

「しょうがないだろ、村の決まりだって言うんだから……」

「訊いたら、うちの親父も十二歳の時にはしたんだって」

「しなかった奴は、一生男扱いされないらしい。……ほら、鰤端と繋がるトンネルの側に、おんぼろの家があっただろ、汚らしいばばあが住んでたっていう……」

「ああ、知ってる。でもそのばばあは何年も前に死んだんだろ」

「あそこんちは、息子が『ニエ』に選ばれたのに和尚様たちに乱暴して逃げたって話だ。そのせいでそのばばあはあんな村はずれに住まわされてさ、その息子が置いてった、新品の刈竿網を眺めて、一生息子を恨みながら死んで行ったんだって、うちのおじさんが言ってた」

 水鳥が驚いて顔を向ければ、その同級生は印敬の甥である。その「息子」というのは、明らかにあの侍のことではないか。

 村はずれに「風峰」という家があって、其処で女性が孤独死したという話は知っていたが、水鳥はその「風峰」という女性を知っている。

 汚いおばあさんなんかじゃなかった。寧ろ、もっとずっと若い人だったはずだ。

 かつていじめられっ子に「肝試し」と称して目隠しをされ、鰤端と繋がる暗いトンネルの只中に放置された際、彼女は水鳥の啜り泣きを聴き付けて、目隠しを解いてくれた。みすぼらしい着物を身に纏って、いかにも貧しそうでは在ったが、彼女は優しく手を引いて水鳥を村の入口まで連れて行ってくれたのだ。その手が温かかったこと、そして、その女性が貧相な格好をしていても、とても綺麗だったことを、水鳥はよく覚えている。

「じゃあ……、諦めるしかねえってことか」

 絶望的な溜め息を、誰かが吐いた。戸の向こうから、印敬の声が響く。

「それでは、開門する」

 重たい音を立てて、山門が開かれた。

 

 侍は焦れていた。単車で根原谷の小屋まで戻って来たはいいが、見晴らし居のいい杉の木から見下ろしてみれば、村中あちこちに警備の目が光っている。屈強な僧侶たちや消防団の男たちはみな手に刈竿網を携え、侍に目を光らせているようだった。

 想定していた以上に、警備は手強いように思われた。

「クソが……」

 侍の手にしている剣の切れ味は鋭い、滑らせれば深手を負わせる。しかし同時に酷く脆い。刈竿網と打ち合うのは無謀だ。その上、多勢相手となれば。

 大人数相手に渡り合える武器があれば……。

 そう歯軋りをしているうちに、村から地響きのような声が届いた。山門の扉が開いたのだ。

 

 巫女の装束に身を包み、緊張した面持ちで石段の下で待ち構えていた六年生の女子たちは皆、悲鳴とも歓声とも付かない叫び声を飲み込むのに必死であった。同じクラスの見慣れた男子たちが、緊張しきった顔で横一列に並び、裸足で石段を降りてくる。彼らが裸であることに、大いなる衝撃を受けたのだ。

 それでも、野々村先生に「決して声を出してはいけない」と厳命されていたから、彼女たちは必死で声を飲み込む。しかし視線はどうしても同級生の裸に釘付けとなった。

 十二人の男子に、十二本の男性器。

 十人十色とはよく言ったもので、一人ひとりに少しずつ違うものを備えている。運動系のクラブ活動をしている者は早くも日に焼けた肌の中、半ズボンの日焼け跡がくっきりと付いた其処が白く眩しい。発育のよく、身長の高い者は、根元に性毛が生え始めている。太さも長さも様々である一方、形状は皆似通っている。体格のいい二人に挟まれる形で立つ植苗水鳥の身体の小ささは一際目立ち、その陰茎もまた小さい。

 女子たちの中には弟の在る者も居り、彼女は男児の陰部を目にするのは初めてではないが、同い年の少年のその部分を見て全く違った感慨を受けている。

 真新しい刈竿網を右手に、少年たちは覚えこまされた舞を踊る。

 神酒の入った徳利を手にした女子たちの脳裡には、「小さいほうの刈竿網」という野々村先生の言葉が思い出されていた。少年たちが舞うたびにその下半身で揺れるそれは、野々村先生が女子たちの練習の際に用意していた小型の刈竿網の模型にそっくりだったのだ。

 

 水鳥は此れまで感じたことのない羞恥心に全身が焼けるような思いを味わいながら、それでも必死に舞を踊った。普段当たり前のように会話をしてくれるありがたい存在である女子たちの視線が、全て自分の恥ずかしい場所に集まっているようにさえ思われてくらくらしたが、不思議と脳の芯は冷えていた。

 侍と出会って以降、水鳥は父親を、この村を、そして村の権化であるところの性伝を、其れまで以上に強く憎むようになっていた。

 こんな場所に生まれなければ、僕は。

 水鳥はちらりと川を覆う藻に目を向ける。

 ……あんなものさえなければ、僕は。

 お侍さんは必ず来てくれる、絶対に僕を、この村から救い出してくれる……。

 舞が終わった。観衆からは拍手が起こるが、少年たちは水鳥を含め誰一人として嬉しそうな顔はしていない。ただ俯いて、左手で股間を隠したい欲を右手に掴んだ刈竿網を握る手に力を篭めることで逃していた。

 練習では、この後一人ずつ前に出て、「矢撫早女」を受けることになっている。「矢撫早女」の間も声を出すことは禁じられており、両手を後ろに廻し、刈竿網を握っていなければいけないと厳しく言われていた。

 まず、端から男子が歩み出た。彼は石段を五段ほど降り、中央に立つと恥ずかしさを堪えて両手を後ろに組む。彼の元へと、同級生の巫女が紅い顔で石段を上がって歩み寄り、その陰部に徳利を傾けた。

「くぅ……っ」

 少年の口から、堪えるような声が漏れた。

 水鳥たちの目からは、少年が後ろに組んだ手に持つ刈竿網がいまにも放り出されそうに揺れるのが見えるばかりだ。ただ、女子は真っ赤な顔をして神酒を振りかけた場所で盛んに手を動かしている様子だけは伺える。少年は「ぐう」とか「んう」とか声を漏らし、膝を振るわせ落ち着きなく腰を揺らめかせていたが、やがて激しくその身を強張らせて、肩で息をする。遅れて、観衆から歓声と拍手が上がった。歩み寄った印能が彼の身に手早く着物を纏わせると、彼は巫女に導かれ、ふらつく足で石段を降りて退場する。

 水鳥の目には何が起きたのか判らない。ただ少年の立っていた石段の前には少年に振り掛けられた神酒と、先程まではなかった何かの液体が散らばっていることだけが見て取れた。

 それよりも水鳥が声を上げそうになったのは、同級生の着せられた着物が、大きさも違うし継ぎ接ぎもありはしないけれど、あの侍が身に纏っていたものと全く同じであるということだ。

 「ニエ」の時に着ていたものを、あの侍は恨みを篭めて未だ身に纏って居るのだ。

 次々に少年たちが「矢撫早女」を終えて、水鳥に番が回ってきた。

 ……お侍さん……。

 内心で、彼の顔を思い浮かべる。あの、怖いけれど確かに優しい顔、抱き締めてくれたときの腕の力。

 恥ずかしい、けれど、……こんなのは潰れるんだ、お侍さんが潰してくれるんだ……、必ず。

 そして僕はこの村から自由になる。

 普段、よく喋る女子が、恥ずかしそうに水鳥の前に歩み出ると同時に、遠くから激しいエンジンの音が聴こえた。

「お侍さん……!」

 思わず声を上げかけたが、慌てて口を噤む。遠くで、何やら騒がしく人々の言い争う音がした。先程から少年に着物を纏わせていた僧侶が慌しい足で何処かへ駆けて行く。

 来てくれた……!

 しかしエンジン音は寺前を避けるように、一瞬近付いたと思ったら、すぐに遠退いて行く。「逃げたぞ!」「北だ! 逃がすな!」石段の陰で印能が、無線で他の坊主たちと連絡を取り合っている気配がある。

「早く始めよ」

 石段の最上段で「矢撫早女」を見下ろしていた性伝が、そう命じる。

「何をしている」

 水鳥の背後からの圧力に、女子が屈した。手にしていた徳利の中身を、水鳥の股間にぶちまけた。

「……ッ」

 それは思わず声を上げたくなるほど冷たい、そして、同時に随分と粘っこい。透明だが、僅かに緑がかって居るようにも見えるその粘液を浴びた場所は太陽の光を集めてキラキラ光るのが、余計に人々の視線を呼び寄せてしまうようで、酷く恥ずかしい。目を閉じると一層視線が物理的な存在感を伴って感じられるようだ。水鳥は必死に後ろ手で刈竿網を握って、石段前に集まった群衆の姿を能う限り目に焦点を合わせず、見下ろしていた。

 と。

「な……、なに……?」

 ただでさえ羞恥心に縮こまっていた場所は、冷たい神酒を浴びせられてほとんど竦み上がっていたはずなのに、不意にじりじりと刺すような熱さを催し始めた。それだけでも戸惑うに足る事態であったが、ほぼ同時に女子の右手が水鳥のその部分に触れたとあっては、呆気なく恐慌状態に陥る。

「や……!」

 思わず声を上げ、刈竿網を放り出しかけたが、女子の手がきゅっと水鳥の陰嚢を掴んで力を篭める。それだけで水鳥は抗いを止めざるを得なかった。

 誰かにそんな場所を触れられるのは初めてだ。……それが、公衆の面前で、よりによって、同級生の女子に。

 水鳥はそっと巫女の顔を盗み見た。

 彼女の頬もまた紅く染まっている。しかし、同時に水鳥が直感するのは、彼女は恥じらいを覚える一方で、男子の其処にはっきりとした興味をも抱いているということだ。水鳥が、男子が、彼女たちの隠しているものに密やかな興味を抱いているのと、きっと同じように。

 まもなく、水鳥の小さな陰茎に変化が訪れた。粘液を纏った指に柔らかい陰茎を摘まれ、繰り返し前後に滑らされているうちに、其処がぼうっと熱く感じられてくる。やがてその熱感はむず痒さに変わって行く。

 縮こまり凝っていた水鳥の陰茎は、女子の手と神酒の温度に煮溶かされるように緩んだのに続いて、芯が通ったように強張りを帯び始めた。いつも細い身体の添え物のように垂れ下がっているだけだった水鳥の陰茎は、女子の指に擦り上げられながらくっきりと角度を変え、やがて完全にその背面を晒していた。

 上を向いた其処を、女子の手で擦り上げられる度に水鳥の膝は震え、崩れそうになる。

 下腹部で、尿意にも似た欲求がとぐろを巻き始めた。其れを堪えるたびに括約筋を締めると、その度に水鳥の陰茎は少女の指の中でぴくぴくと強張る。初めて感じる言いようのない、感覚。それが心地良いのかそれとも気持ち悪いのかも判らない。ただ耳から徐々に気化した理性が蒸散していくようで、全身は焼かれたように熱く、朦朧とする。群衆の視線を浴びながら、思考は回転の緩まった独楽のように軸が定まらなくなり、水鳥の唇からは悪夢に魘されるような声が絶え間なく漏れていた。

 ―群衆は、息を呑んで少年の射精を待ち望んでいる。十二人の男子たちの顔を並べて見れば、植苗水鳥が今年の「ニエ」に選び出されることは既に確定的だ。かつてはどの男児が「ニエ」となるかを賭けて遊ぶことさえ彼らはしていた。ただ、事件のあった八年前と今年に限っては、胴元が賭けを行わないことを予め宣していた。催行したところで元返しになるのは明らかだったから。

 あの事件を知る者たちの脳裡には、屈辱に涙を堪え声を殺しつつ、少女の手によって遂に射精させられた少年が、印能の手で裸体に着物を巻かれている間、憎悪に満ちた目を性伝に向けていたのをよく覚えている。

 水鳥は自分の身を包んでいる感覚を何と呼ぶのかまだ知らない。ただ、いまの自分が絶対に人に見られてはいけない姿を晒していることだけは判っている。悲鳴は喉元までこみ上げていた。「やめて」と叫んで、例えば手にした刈竿網で少女を打ち倒し、この場から逃げ果せることが出来たならどんなに楽だろう。しかし水鳥が微かに身じろぎをするたび、彼女の手は弾けそうに硬くなった水鳥の刈竿網の根元に、竦み上がって下がる陰嚢に手を掛け、水鳥から反撃の意欲を剥奪していた。

 やがて時が満ちる。

「あ……あっ、あ……!」

 水鳥は自分の尿道が焼けるように熱くなるのを覚え、首を打ち振るった。身体の中の何処かからこみ上げる其れは何処に力を篭めても逃しようがなく、線虫の形をして水鳥の性器の先端と肛門の周辺でぞわぞわと蠢くのだ。

 無限に続くかと思われた其れは、不意に終わった。

「う、あぁあっ……」

 水鳥が堪らず声を上げ、括約筋をきつく引き絞ると同時に、性器の先端から少量の濁った液体が石段に飛び散った。女子の手が反射的に離されても水鳥の其処は彼自身の意志とは関係なく幾度も脈動し、途方もない解放感と共に、見たこともない液体を先端から撒き散らしていた。

「あ……、あ……」

 何も見えなくなる、何も聴こえなくなる。ただ微かに覚えて要るのは、群衆から喝采が上がっていたことばかり。

 倒れかけた彼を、印能が駆け寄り手早く着物を纏わせた。水鳥は自分の身体に起きた現象を理解する余裕もないまま、巫女の手に導かれ、階段脇のテントの中に腰を下ろすと、自分の身を抱き締めてぞくりと震えた。其処には、先に「矢撫早女」を済ませた同級生たちは皆熱に浮かされたような紅い顔をしてバラバラに座り黙りこくっている。舞子であった彼らの隣には、その舞子を担当した巫女が同様に俯いて座っているのだ。

 ―無垢なる少女たちの演ずる「巫女」は「舞子」たる男児たちを一人の男に変じさせる任を帯びている。彼女らは当日まで、自分が何をするかを教えられることなく、小型の刈竿網の模型を用いて練習を積んでくる。それゆえ、少女たちの手戯は短期間で極めて上達する。自分の担当する舞子を射精させることで、彼女たちも大人となるのだ。

 祭の習慣ゆえ、村立小学校では高学年になっても保健の授業で性教育を行わない。「舞」から「矢撫早女」という一連の流れの中で、実地に学んでゆくのである。祭が途絶えていたここ数年に関しては、父乳寺の協力により同時期に講堂にて性教育の授業が行われていたが、その際男子の授業に講師として性伝が参加していたことは言うまでもない。

 

 荒馬を駆って追っ手を撒いた侍は、時折聴こえて来る歓声に自分の身が穢れて行くのを覚えた。十二歳だった自分の叫びは古ぼけた着物の内側に、今もこびり付いて離れないようだった。

 「ニエ」には年男の少年の中から、最も美しい者が選ばれる。

 十二歳だった侍自身は、自分の顔は誰かに感慨を催させるようなものではないと思っていたが、周囲は次第に「選ばれるのはお前だろう」と言って憚らぬようになった。他の子供らにとって其れは羨ましいことでさえあったかもしれない。しかし、ミヤマミシャクジミマダラモモドキを受け付けず、村に居辛さを感じていた彼にとっては全く名誉なことではない。そもそも全裸で舞を踊ることからして、思春期のとば口にある少年には受け入れ難い屈辱であるように思われた。「村の掟だから仕方がない」「皆そうやって大人になった」と同級生たちは言い合い、必死に耐え忍ぼうとした彼らを出迎えるのが「矢撫早女」であり、「禊」である。

 「ニエ」に選ばれ、父乳寺金堂に隠された閨に性伝と二人閉じ篭められたとき、侍はこの村の呪われた歴史、……いや、性伝の作り出したおぞましい風習を思い知った。十二歳だった侍が他の子供らと同じようにミヤマミシャクジミマダラモモドキの煙への耐性を持ち合わせていなかったなら、彼は今でもあの村に居ただろう。

 右眼を穿たれ、脳漿の漏れ出すような激痛を堪えながら侍は必死で駆けた。家で彼の姿を見た母親は悲鳴を堪え、「逃げなさい」と言ってくれた。そのことだけが、彼にとっては救いだった。

 道なき道を駆け、時折血反吐を吐き散らしたくなるような激しい眩暈を堪えながら彼は山に身を隠し、八年。母は二年前に死んだ。死に目に逢うことは出来なかった。父のない彼を一人で懸命に育て、彼が逃げた後には村中から糾弾を受け辺鄙な隧道脇のあばら家に転居させられた母は、久方ぶりに人目を忍んで息子が訪れた時、既に冷たい骸となっていた。

 侍はそのとき、空っぽの右眼に誓ったのだ。

 二度と、誰にも、このような思いはさせてなるものか。

 性伝を討つのだ。お袋の敵を討つのだ……。

 侍が隧道脇の小屋を訪れるのは母の骸と直面したあの日以来のことであった。戸には南京錠で塞がれ、窓には板が打ち付けられている。彼は怯むことなく裏に回り、簡素な壁板を蹴り割り、小屋の中に這い入りこんだ。光の刺さぬ空間は埃っぽく黴臭く、彼の右眼の奥同様、じめじめと肉の匂いがした。

 光を左眼に集め、彼は母が土間に隠していた刈竿網を手に取る。彼が舞子として踊り、「矢撫早女」のときにも、「禊」のときにも手元に置いていた棒は触れるとざらりと埃っぽい。それでも母は其れが腐食しないように保管していた。母は村の外から来た女で、元々この村の風習には否定的なところがあったが、それでも息子があの日置いて行った刈竿網だけは手元に残していた。死ぬ前、最後に会ったとき、

「捨てちまえよ、そんなもん」

 と言った彼に、すっかり痩せこけた母は苦笑して首を振った。確か、彼女がこの貧相な小屋に転居させられたのは、息子の刈竿網を持っていたことで、逃亡の手助けをしたことが露顕したからだった。

「捨てられるもんですか、あんたが置いて行ってくれた、たった一つのものなんだから」

 この貧相な小屋にまで、彼女は其れを運んできた。いつかこういう日が来ることを、ひょっとしたら予見していたのかもしれない。

 小屋を出た侍は光の下で、あの日の自分の血が付いた刈竿網を見て、思わず声を上げそうになった。

 なかったはずの「括れ」が、彼の手にした刈竿網には刻み込まれている。

 村の方から勇壮な太鼓の音が聞こえてきた。「藻捩祭」が佳境を迎えつつある、ミヤマミシャクジミマダラモモドキの収穫が間もなく始まるのだ。

「待ってろよ……!」

 相棒に跨る、前方では、彼を見つけた僧侶と消防団の男が怒鳴っている。

 フルスロットル……、侍は刈竿網を左手に握り、悪鬼の声を上げて彼らを薙ぎ払う。

 

 陽が傾き始めた。「藻捩祭」はミヤマミシャクジミマダラモモドキの収穫を以って終了するが、それと同時進行して「禊」は開始される。石段にて今年の「ニエ」の披露が行われ、少年が性伝に身を清められている間に収穫が始まり、おおむね、夜まで行われるのが通例である。「ニエ」はそのまま一晩を性伝と共に過ごし、戒名を授かり、それ以外の少年たちは他の者と共に収穫に参加する。収穫した藻の分配が行われて祭の幕は閉じられるが、当然、その日は夜が矢鱈と長くなるのが御藻羅村の慣習である。なお「矢撫早女」で組んだ舞子と巫女の多くはこの夜に人知れず睦み合うと言うが、もちろん例外もあり、「ニエ」を射精した少女は相手がないため家に戻るし、相手が居たのに舞子が掴まらない巫女ももちろん存在する。

「これなるが、本年の『ニエ』である」

 父乳寺にて性伝に次ぐ地位にある印敬・印能兄弟が、一人だけ着物を脱がされ再び人前に立たされた水鳥をそう紹介する。特設テントの中から父親が感極まったような顔で見て居るのが、水鳥には見えた。村長や他の村会議員らに肩を叩かれ「ありがとうございます」などと礼を言っている様子だ。

 これから僕がどんな目に遭うのかも知らないで。

 水鳥は心の底から父親を憎く思った。

 ……お侍さん……。

 「矢撫早女」を終えてテントの中に他の舞子や巫女たちと一緒に待たされている間、水鳥の耳には荒馬の駆ける音は聴こえてこなかった。

 捕まってしまったのだろうか……、お坊さんたちに……。

「それでは、此れより『藻刈の儀』を始める」

 印敬の言葉に、村の男たちがそれぞれ持ち寄った己の刈竿網を手に意気揚々と川面へと進んでいく。「ニエ」の水鳥は印敬と印能に両脇を挟まれ、踵を返して石段を上がって行く性伝の後を、刈竿網を手に付いてゆく。

 ……和尚様一人なら、僕一人でも何とか出来るんじゃないか……。

 二人きりになったときに、……お侍さんのように。

 山門の扉が閉じられ、日陰に入ると途端に裸足では冷たくなる。無言のまま三人の坊主は水鳥を囲んだまま普段は一般公開されていない金堂へ入ったところで、「此処より先は、仏の道。お主がそのままの身で通ることは能わん」と性伝が低く宣すると、一瞬で視界が覆われた。「あ、あのっ……!」思わず声を上げる。印敬か印能か、どちらか判らないが、布で目隠しをされたらしい。

「恐れることはない、お主は『禊』を経て、我らと同じ父乳寺の僧侶となるのだ」

 印敬の声がした。水鳥は左手を、どうやら性伝の差し出した手に掴まれた。「奴はじきにやって来るはずじゃ、ぬかるでないぞ」

「かしこまりました、我らにお任せください」

「性伝様もどうか、お気をつけて」

 印敬と印能の気配が、遠ざかっていく。

 ひんやりとした床板が、時折軋む。「ここから階段じゃ」と性伝の言ったとおり、下り階段をしばらく降りると外界の音は全くしなくなり、きぃんと耳の痛くなるような静寂が訪れた。右に折れたり左に折れたり、暗闇の回廊を随分長く歩かされて、足先が板ではなく畳の上に乗った。

 性伝の気配が背後に回り、目隠しが外される。一瞬、意外なほどの眩しさに面食らう。

 徐々に慣れてきた水鳥の視界に入った部屋は縦に長い十畳ほど。奥には金色の仏像がある。少年の姿をした立像であり、股間には屹立した性器が生えている。少年像の足元には香炉と、青黒く乾いたミヤマミシャクジミマダラモモドキが供えられており、一組の紅い布団が用意されていた。

 それ以上に水鳥に異常に思えたのは、その仏像に従うように部屋の両側に並んだモニターであり、併設されたコンピュータの類である。

「此処に来て良いのは、わしと『ニエ』に選ばれた者だけじゃ」

 性伝は言い、壁のスイッチを押す。黒く眠っていたモニターが一斉に息衝き、煌々と輝き始めた。其処に映っているのは、

 無数の少年の性器である。

 あるものは震え、あるものは弾み、またあるものは放尿している。

 水鳥はすぐに其れが、自分の性器であることに気付いた。全ての右足の付け根に、水鳥と同じ小さなほくろが付いている。

 学校のトイレや、更衣室、それにこの寺の庭、講堂……、それだけではない。恐らくは、自宅でのものも含まれている。知らない間に水鳥の裸体はこの場所に集積され、性伝の目に晒されていたのだ。

「こ……、こんなのっ、どうして!」

 悲鳴を上げた水鳥に、性伝は皺深い奥の双眸を爛と光らせた。

「どうせお主に残されるのはかりそめの記憶よ。せっかくだから教えてやろう。見よ」

 性伝の指差したモニターが、村立小学校の教室を映したものに切り替わる。丁度黒板の上部の、針時計のある位置だ。

「お主らのことを、わしはこうして常に見守っておるのじゃ」

 その映像は今年のものではない、……教室の後部に貼られた絵を見て、一昨年のものであることに水鳥は気付く。教室の最前列に座った自分の着ているシャツの色に記憶が蘇り、「いやだ……、やめて……!」水鳥は膝を付き、震え出した。

 教室を睥睨するカメラによって捉えられた映像は、水鳥が落ち着きなく盛んに膝を震わせている様子を拡大して映し出していた。水鳥は机の下に両手を入れて、必死に自分の股間を押えている。

 やがて、四本の椅子の足を伝って水が零れ出す。水鳥は股間を押えたまま動けず、少しカメラが引くと教室は軽度のパニックに陥り、水鳥を中心に周囲の机が波紋のように遠退いていた。……あの日の屈辱を水鳥が忘れられたことはなかった。休み時間にいじめっ子たちに捕まって、トイレに行くことが出来なかった。授業終了まで我慢するつもりで居たのに、幼い膀胱はそれに耐えられなかった。

 画面は保健室に切り替わる。啜り泣きながらぐっしょりと濡れた下着を脱ぎ、体操服に着替える一部始終が、主に下半身を狙う形で撮られている。

「この数年というもの、……いつ祭を再開するか、わしはそればかり考えておった。そして、お主が十二になるこの年を心待ちにしておったのじゃ。……植苗水鳥、……いや、風峰水鳥よ」

 屈辱に顔を覆っていた水鳥が、その名にビクンと震え、そっと面を上げる。性伝が間近に歩み寄って、白髭の口元を淡く微笑ませている。

「やはり知らぬか。……どうせ忘れることにはなるが、教えてやろう。お主は植苗益荒男の種ではない。風峰到という余所者の種が詞乃という女の胎に宿って生まれた子よ」

 かざみね、という音に、水鳥は聴き覚えがあった。

 ……あの、おばさん。

「お主を生み育てた植苗育子が生んだのは女の子じゃ。……育子は、どうしても男児が欲しかった。それゆえに、生まれた赤子を詞乃の子と入れ替えた。詞乃には既に男の子供が居ったし、この村では女腹は疎んじられることは女たちには周知のこと、詞乃は同輩の育子に頼まれて断れなかったのじゃろう」

 画面がまた切り替わる。少し古い映像に変わったようだ。

 病院の、新生児室の画面である。生み出された二人の赤子に、一人の看護婦が近付く。彼女は時折ふらつきながら、それでも必死に身を支えながら、厳重に護られたケースから嬰児を取り出すと、辺りを憚りながら隣のケースの嬰児と入れ替える。

「いまのが、詞乃じゃ。あの女は元々村の産院で働いておったからな。人目を憚り育子の産み落とした女児と己の産み落としたお主を入れ替えることなど造作もない。……もっとも、わしに隠すことは出来ぬ、産婦人科は生まれたばかりの赤子の裸身を目にすることの出来る唯一の場所じゃからな」

 ミヤマミシャクジミマダラモモドキを受け付けない身体は、自分が植苗益荒男と植苗育子の間に生まれた子ではなかったから。

 水鳥は目を見開いたまま、己の中に理解が浸透していくのを感じていた。

 あの温かい手が自分を導いたことを覚えている、泣きじゃくる水鳥を何度も撫ぜてくれた、「大丈夫」と励まして、最後に言ってくれた。「辛いことがあったら、逃げたっていいんだよ。あんたを『弱い』っていじめる子が居ても、おばさんはあんたが強い子だってことを、判っているんだからね」……。

「……僕、と、……入れ替わった、女の子っていうのは……、いま、どこにいるんです、僕の、本当のお父さんは」

「生後すぐに死んだ。到もお主が生まれる前に病で死んだ」

 性伝が、再び壁のスイッチを押す。画面は元の通り、あらゆる角度から水鳥の性器を収めた異常な映像に戻った。

「詞乃は美しい女じゃったが、少々生意気なところもあった。それでも、わしのためにお主のような美しい男児を産み落としたのじゃから感心よ。先に言うたように、わしはお前が十二になるのを心待ちにしておった……、さあ、楽しませて貰おう」

 許せない。

 水鳥の中で憎悪が破裂した。「ああぁあああ!」絶叫しながら手にした刈竿網を振り下ろす。

「わしに抗おうと言うのか、愚か者め!」

 思いも拠らぬ俊敏な動きで、性伝が懐に飛び込んだ。あっという間もなく水鳥の手から刈竿網は打ち落とされ、軽々と敷いた布団の上に投げ落とされる。信じられない思いで見上げた水鳥の前で、性伝は少年立像の前に供えられたミヤマミシャクジミマダラモモドキに火をつけた。途端に青白い煙が濛々と上がり始める。

 性伝は袈裟を解く。隠されていたのは老人とは思えぬほど張り詰めた筋肉である。そしてその股間では恐ろしいほど肥大した陰茎が血管を浮き立たせ脈打っていた。

 ただ、その性器は先端に向けて不格好に折れているように見える。水鳥はそれが十二歳の頃の侍の一撃によるものに違いないと確信した。

「わしは仏藻を常食しておる……、この肉体、老い朽ちることなどないわ!」

 飛び掛られ、一瞬で組み敷かれた。「ううむ……、やはり瑞々しい肌をしておる……。詞乃の血はやはり見事じゃな」

 生温かい息に、体中が凍りつく。袈裟の上からは想像も付かぬ肉体をした性伝は、水鳥がどんなに身を捩っても性伝の身体はびくともしない。

 お侍さん……!

 水鳥の両目から溢れ出た涙を、性伝が上手そうに黒ずんだ舌で舐め取る、その余りの気色の悪さに水鳥は悲鳴を上げて失禁した。性伝は少しも怯まず、愉しげに笑いながら

「くく、だらしのないことよ。お主は兄とは比べ物にならぬ……、容易いのう……」

「あ……、に……?」

 訊き返しても、性伝は答えない。急激に全身から力が抜け始めた。ミヤマミシャクジミマダラモモドキの煙が、水鳥から思考能力を奪い始めたのだ。指先さえ自由に動かなくなった水鳥の身体に、性伝があの「神酒」をかけた。冷たさに、一瞬意識が蘇る。ただ遅れて粘液を浴びた全身が異様な熱を帯び始め、竦み上がっていた水鳥の陰茎はじわじわと勃起し始めていた。

 其処へ、性伝が顔を近付ける。

 

 彼の名は、風峰証馬といった。

 風峰詞乃の胎から生まれた最初の子である。

 だが、彼には今ひとつの名がある。その名を彼の前で口にする者は誰一人としていない。その名を知るのは、性伝ただ一人である。

 印敬・印能兄弟は不死身の如き強靭な肉体を持っていた。幾度打ち倒しても立ち上がり、証馬の前に立ちはだかる。巌のような身体がミヤマミシャクジミマダラモモドキの作用によることは明らかである。

 或いは、痛覚という物が失われているのかもしれない。全身を刈竿網でどれ程打ち据えても、けろりとした顔で立ち上がる。

 対して、証馬は既に肩で呼吸している。此処へ来るまで幾人もの坊主たちを退けてきた。「仏敵である!」の号令に応じて怒号を上げて襲い掛かってきた村人たちの相手も、証馬は不本意ながらしないわけには行かなかった。あちこちに傷を負い、疲労も限界に近い。

「テメェら……」

 それでも、性伝を討たなければならない。この命に替えてでも。

「いい加減にッ……、くたばれやぁあ!」

 飛び掛ってきた印能・印敬を渾身の力で振り払った鈍い音がして、二体の僧侶の怪物が金堂の床に叩きつけられる。……今に再び立ち上がるかもしれない。証馬は大急ぎで金堂に横たわった相棒に跨ると、全速力で暗黒の回廊をひた走る。曲がりくねり、幾つも枝分かれし、時に距離感を喪わせるような細工が壁に施されている。

 しかし、証馬にはあの日性伝に導かれて辿った自分の足の記憶がくっきりと残っていた。

 間もなく、あの忌まわしい藻の匂いが証馬の身体の周囲を漂い始めた。匂いが息苦しいほど濃密になる頃、かつて自分が性伝の腕から右眼を犠牲にして蹴破った襖が見えて来た。

 証馬は速度を少しも緩めず、襖に突入する。

 

 全身が腫れ上がっているかのようだ。

 水鳥はミヤマミシャクジミマダラモモドキの毒に当てられて、口元から涎を垂らしながら「たすけて……、たすけて……、たすけて」とうわごとを繰り返している。その全身は性伝の唾液と「神酒」でずぶ濡れである。

 彼岸を漂うようだった彼の意識を僅かに此方へ引き戻したのは、襖を破壊する音でもなく、急ブレーキの音でもなければ、けたたましい単車のエンジン音でもない。

「水鳥ッ……!」

 その魂に共鳴する、「声」だ。

「……おのれ……、印敬と印能が敗れるとは……!」

 ずっと身体に圧し掛かっていた性伝の身体が退いた。水鳥は痺れていた身体が僅かに自由を取り戻すのを感じる。侍が突き破った襖のせいで、煙が外へ逃げ出しつつあるのだ。

 全身に傷を負った隻眼の侍が、鬼の形相でバイクから降り、性伝に相対する。

「テメェだけは……、絶対許さねえ。お袋の、俺の……、そして水鳥のッ、誇りにかけてテメェを斬る!」

「ふふん……、威勢だけは良いな、だがお前にこの父が斬れるか?」

 父。

 身体の自由が利いたなら飛び起きていた。水鳥は信じられない思いで侍を見る。

「テメェを父親だと思ったことは、一度だってねえよ」

「じゃが、お前の身体はわし同様、仏藻の毒が効かぬ。それこそがこのわしと同じ血を引く者の証! ……詞乃がお前を産み落としてから十二年、お前はわしの思った通り美しく育った……」

 聖者にあるまじき下卑た笑みを浮かべた性伝の顔は、まさしくけだものの其れだ。

「親父を殺したのもテメェだろう……!」

 愉快そうに肩を揺すって性伝が笑う。

「その通りじゃ。印敬と印能に殺させたのよ」

 侍が、鞘から刀を抜き出す。

「そのようなもので、このわしが斬れると思うか」

 ゆらり、性伝が構え、侍に宿すもう一つの名を口にした、「亞鳴よ」

 侍の中で解れ掛けていた理性が完全に切れた。

 朦朧とした水鳥の双眸は、侍の振り下ろす刀の閃、素手で受け止める性伝の身のこなし、いずれもがぬらぬらと尾を引いて映った。ミヤマミシャクジミマダラモモドキの毒は、未だ水鳥の精神を浸食している。性伝の口から齎された事実は、水鳥の中に残っていた。

 自分の身体の在り処は、此処ではない何処かに。

「愚か者め」

 徐々に、侍が押し返される。「詞乃も到もお主も、このわしに楯突く者は皆仏罰が下る定めぞ。地獄の門の前で仲良く悔いるが良いわ!」

 鈍い音と共に、侍の身体が弾き飛ばされた。「テメェ……!」

「片眼を喪っても足りぬようじゃな……、どうれ、死出の旅に出る前に、お主から全ての光を奪い取ってくれよう、そして残された両耳で、お主は弟の堕ち行く声を聴くが良いわ!」

 弟。

「……クソ、がぁ……!」

 刀を取り落とした侍が、性伝に組み敷かれる。「くふふ、亞鳴よ、お主は誠に愚かな子供じゃの……、大人しうこの父に抱かれておれば、お主は何一つ失わずに済んだものを」

 とらえどころのない藻の中に埋もれたような水鳥は、必死に手を伸ばした。皮膚の内側で肉が溶解してしまったように、骨の一つひとつを支えることさえ難しい。ただ少年は激しい怒りと呪いの中に居た。この村に生まれることさえなければ何一つなかったはずの不幸を全て背負ってきた「定め」の中を、水鳥は焼け付く身体を持て余して、それでもまだ、忘れることを選ばない。

「ふざけるな……、俺の生は……、水鳥の生はッ、テメェなんぞに踏み躙られる為のもんじゃねえ!」

 水鳥の両手が、毒藻の濃密な煙を絶え間なく吐き出す香炉の耳を掴んだ。その熱さと痛みが、水鳥の崩れかけた背骨に芯を通す。よろめきながら息を止めて、頭上に掲げた香炉を真ッ直ぐに、侍に圧し掛かる性伝の腰部目掛けて叩き降ろした。

 香炉の中で燻っていたミヤマミシャクジマダラモモドキの熱片が隆々とした性伝の肌を焼き焦がす嫌な匂いは、毒藻の匂いを水鳥の鼻腔から遠ざける。「お、お、お……」性伝が、わなわなと震えながら首を軋ませ、水鳥へと振り返る。

「お、お、おのれ、何と、なんと罰当たりな……、お主までもがこの、わしに……、歯向かおうと言うのか」

 その股間で、男根は未だ恐ろしいほどの大きさで脈打っている。水鳥は辛うじて自分の身を支えながら、手にした香炉を取り落とさない。

「水鳥ッ……、逃げろ!」

 侍が声を上げる。水鳥は一歩も引かず、息を止める。

 恐怖心はなかった、……少しもなかった。水鳥が、そして侍が、……母が……、此れまで味わってきた屈辱に比べれば、恐怖など物の量ではないように思われた。水鳥の視界は既に性伝の肉体の輪郭をはっきり捉えられるほどに回復していた。

「後悔させてやるぞ……、この、小童が!」

 我を失い飛び掛る性伝の懐に膝を折り屈み込む。そのまま、熱い熱い香炉を一切の躊躇いなく、性伝の胸部にまで反りかえった巨大な男根の先端に、すっぽりと被せた。

「あなたを、許さない」

 両眼を見開いた性伝の懐から転がり出る。再び立ち込める肉の焦げる匂いに強烈な吐き気を催しながらも、どうにか立ち上がった。

 性伝の口が絶叫の形を成す。だが、彼が叫びを上げることは叶わなかった。

 侍の木刀が、性伝の背中を刺し貫いていた。

 ぼこぼこと泡の立つような音を口から立てた性伝の身が、一歩、二歩、引き摺るような音を立てて黄金の少年像の前へと歩み寄る。

 やがて膝を折り、それの足に縋りついたまま、動かなくなった。

 水鳥の腰が抜けた。掌が熱い、いや、それ以上に全身が熱い。

「水鳥」

 金髪の侍が顔を顰めているのは、自分の傷が痛むからというより、水鳥の掌の火傷を案じてのものだ。

 侍は―証馬は―謝るよりも先に水鳥を抱きすくめた。

「……お兄ちゃん、なの……? お侍さんは……、僕の」

 抱き締めたまま、侍はこくんと頷いた。彼は微かに背中を震わせて、泣いているようだった。

「お兄ちゃん……、お侍さんが、僕のお兄ちゃん……」

 与えられた事実を並べて、損か得かを考えることは水鳥には出来なかった。喪ったものと引き換えに手に入れたとも思わない。ただ髪を優しく優しく撫ぜてくれる人がこの世に一人でも居てくれた以上、自分は幸せに違いないと水鳥は信じるのだ。

「……行くぞ」

 侍は水鳥を抱き締め、懐に隠していた着物を纏わせ立ち上がる。「絶対に離れんなよ、手ぇ痛えかもしんねぇけど、しっかり掴まってろ」

「うん」

 暗闇の回廊を照らして、単車が走り出す。

 残された小部屋の少年の足元で、性伝の身体の内側から、どくりと音が鳴った。

 どくり。

 坊主頭を青く濁らせていた髪が、鼓動のたびに伸び始める。

 どくり。

 其れは血管の中を押し広げて急激に―どくり―ミヤマミシャクジミマダラモモドキが旺盛なる食欲―どくり―そのままに宿主の生命活動の衰弱を期に―どくり―領域を広げ始めている証拠である。

「わぁしは……、わぁしはぁ、死なんん……」

 ぽっかりと開いた口からだらしなく溢れ出ているのは、ねばねばと糸を引く藻の束である。性伝が立ち上がった拍子に、陰茎の先端に覆い被さっていた香炉が甲高い音を立てて床に跳ねた。赤黒く焼け爛れた亀頭がじくじくと音を建て、その尿道から勢い良く緑色の菌糸が噴き上がり、触手状に性伝の肉体の全身を覆ってゆく。

「ぼほほ」

 性伝は笑った。

「みぃよぁ……、はぃ……はぁ」

 見よ、わしは、仏藻と一つになり、永久を生きるのじゃ。

 言葉は最早言葉にはならない。しかし其れにどんな意味が在ろうか。

 

 父乳寺前の川原はパニックに陥っていた。

 正体不明の金髪侍が刈竿網を振り回して山門に突入して以後、収穫の一切を取り仕切るべき僧侶が一人も居なくなってしまった。宝の山を前にして群衆が平静で居られるはずもなく、やがて一人が川面に刈竿網を突き入れたのをきっかけに、押すな押すなの大騒乱が始まった。この夜にはミヤマミシャクジミマダラモモドキをその身で試さんとしている男たちは只でさえ気が立っており、所々で刈竿網を用いて殴りあいの喧嘩さえ始まっている。そして和尚が居ないのならと手にした藻を持ち逃げせんとする者が散見するに到っては、村長並びに村会議員も捨て置くことは出来ず、かといって彼らに争乱を収めるだけの力もなく、寧ろ火に油を注ぐような結果となった。

 争乱そのものを強姦するようなやり方を侍は選んだ。山門より弓を引き、人々の只中に、エンジンオイルを浸した布を鏃に巻きつけた火矢を放ったのである。無論、湿った藻はすぐには燃え広がらないが、幾本も降り注ぐ火の雨に人々は蜘蛛の子を散らすが如く水から這い上がった。

「これで仕上げだ」

「え……?」

 がっくんがっくんと弾むバイクで石段を駆け下りながら侍は言った。「ミヤマミシャクジミマダラモモドキは全滅する。でもって、煙を吸った連中は俺のことを忘れる、いや、上手くすれば今日の祭の記憶だって喪うかも知れねえな」

 水鳥はようやく毒気の抜け切ったような身体で、相変わらず侍の背中にしっかりと抱き着いていた。村の人々は紅蓮の焔に染まった子作り川を見詰め、呆然と立ち尽くしている。そんな川縁で舞子と巫女を一つところに集め、混乱から庇っているのが水鳥の担任の野々村であった。

「テメェらの信じてたクソ坊主は死んだ」

 所詮は忘られる物語、知りながら証馬は群衆の後頭部に向けて叫ぶ。

「今に、全てが明らかになる。性伝が寺にどんな秘密を隠し持っていたか、……そもそもこんな『祭』さえ、生臭坊主の狂った夢でしかなかったことを、お前らは知ることになる、……せいぜい後悔しやがれ、テメェらの誰もが、……テメェら全員が、この村の因習を紡いできた、……テメェら全員が」

 お袋を殺したんだ、親父を殺したんだ、……。

 証馬の声に耳を貸す者は居なかった。ある者は頭を抱え、ある者は嘆き悲しみ、蹲り路傍の石を拳で叩く者さえ居る。

「和尚様が死ぬものか!」

 誰かが叫んだ、……背中で水鳥が身を強張らせる、声の主は、植苗益荒男であった。焔を背に、両眼を真ッ赤に充血させ、頬を紅潮させ、怒りの余りぶるぶると震えながら、彼は証馬を、そして水鳥を凝視していた。

「貴様という奴は! 『ニエ』に選ばれ『禊』の場に赴きながら何という罰当たりを! 一体、貴様は……、一体どれほどこの父の顔に泥を塗れば気が済むのだ!」

「やかましいや」

 ぺっ、と証馬が益荒男の足元に向けて唾を吐き捨てる。「誰が『父』だ。大方テメェも知ってたんだろうがよ、水鳥がテメェの種じゃねえってことくらい」

 ぐぬ、と図星を射抜かれた益荒男がたじろぐ。

「テメェにゃ似ても似つかねぇもんなぁ、……この俺の弟は」

 微かに震えながら、水鳥は証馬の背中から、それでも身を乗り出して叫んだ。

「もうたくさんだ!」

 甲高い声は、少年の姉たちの其れとは似ても似つかぬ。「まがいものだらけだ……、この村は、偽物を集めて出来ている!」

「だそうだ」

 証馬の手が、水鳥の熱い頬をそっと撫ぜた。

 水鳥の大きな両眼は、焔を映じてぐらぐらと煮えている。ずっと抱えてきた憎悪が涙となって溢れ出す。

「み……、水鳥……、この、……この父に、抗うて……」

 益荒男の両眼からも、涙が溢れた。「……おお……」がっくりと、年に似合わず頑強な膝を折り、彼は川原の石の上に蹲って、震えながら声を隠さずに泣き出した

 くずおれた益荒男の傍らで、村長の七野が声を張り上げる。「捕えろ! 何をしとる! 和尚様が殺されたのだぞ! 人殺しを捕えんか!」

 舌を打って、「掴まってろ」手早く証馬は水鳥に命じた。炎燃え広がる川原には徐々にミヤマミシャクジミマダラモモドキの毒霧が立ち込め始めている。もう間もなく、人々の意識を浸食し、記憶を掻き消してゆくだろう。

 荒馬の馬銜を解き放つ。再び石段を駆け上がり父乳寺東門から抜け、トンネルで鰤端に抜けてしまうのが一番手っ取り早い。盛大にアクセルを吹かし、馬の嘶きを響かせた証馬の耳に「お兄ちゃんッ……」水鳥の尋常ならざる声が響いた。

 おお……おおお、おおおー……、人々の肌という肌から声が上がっているようだ。

「和尚様だ……! 生きておられた!」

 ふざけるな、証馬は全身の毛の逆立つ感覚に陥りながら叫ぶ。水鳥がぶるぶると震えながら背中にしがみ付いている、……その力感だけが、証馬の意識を繋ぐ。

「阿呆かテメェら……、あれが性伝に見えんのか!」

 ずるり、ずるり、身を引き摺りながら山門に現れたのは、既に人の形ではない。緑色をした巨大な軟体生物の如き其れは、目を凝らせば表面にずるずると繊維が蠢き、粘液を滴らせる、ミヤマミシャクジミマダラモモドキの塊である。山門をぎりぎり通り抜けられるほどの巨体からは、糸状の触手が無数に伸び、塊の中央部には暗く窪んだ眼窩があり、その奥は僅かに胡乱な光を帯びる。醜怪な体躯の中で唯一性伝の名残と思しきものは、重たげな身を引き摺る短い足部から伸びた、折れた男根である。

「……おやめください、性伝様、和尚様……!」

 巨体の中に飲み込まれながら喘ぐ者がある。「どうか、どうかお助けを、ご慈悲を……おお」印敬と印能が、顔の半ばまで藻の中に溺れている。……あっという間に吸い込まれて見えなくなって、断末魔の破片すら残らない。代わり、恐らく印敬と印能のものであろう、男根が二本、新たに股間に加わった。

 其れは最早、ミヤマミシャクジミマダラモモドキの怪物である。毒藻に魅入られ人間ではないものに自ら堕した化物である。しかしながら村の人々は畏れるように眩いように、赤々と焔に照らされた性伝の姿に見とれている。

「どうしよう……、お兄ちゃん、どうしよう」

 水鳥は危険な予感に震えていた。あの藻の塊は何の躊躇いもなく自らの懐刀である印敬と印能を喰らった。川一面に棲息領域を拡張するミヤマミシャクジミマダラモモドキがそうであるように、相手が村人であろうが無差別に捕食するに違いない。

「自業自得だ、……と言いてぇ処だが」

 証馬が顔を向けた先には、野々村と子供たちが居た。彼らは大人たちとは違う、怯えたように身を集めている、野々村は川面の焔と性伝の両方を恐れているようだった。

「先生」

 呼びかけられた野々村は、金髪隻眼の侍を見て「あっ」と声を上げる。「……風峰くん……?」髪の色は違うし、顔にも耳にもピアスの穴が空いている。しかし彼女はかつての教え子の面影をはっきりと侍の顔に重ねて映すことが出来た。

「風峰くんなの……?」

「ガキども連れて、とっとと逃げろ。……早く!」

 風峰証馬の怒鳴り声に、野々村はビクンと身を強張らせ、それから頷いた。「全員、はぐれないように、手を繋いで付いていらっしゃい。学校まで避難します!」

 それでいい、と証馬は呟き、再び藻の怪物へ目を向けた。重たげな身体を引き摺りながら、ずるずると這うように急な石段を降りてくる。

「喰われたくなきゃ、テメェらもとっとと逃げんだよ!」

 身動きすら取らない周囲の大人たちに向けて怒鳴り散らした証馬に、キッと目を向けたのは村立小学校校長の平中善道である。「馬鹿な」口元に、嘲るような笑みさえ浮かべて、

「性伝和尚様がわしらを喰うだと? 何と不遜な」

 そうだそうだと声が上がる、「この仏敵!」石礫が飛んでくる。証馬は刀の柄で其れを打ち落として水鳥を庇いながら、「じゃあっ……、勝手に死ねよ!」

 平中に躊躇いはなかった。肥満体を揺すって石段を駆け上がると、藻の塊の前に跪いた。「性伝和尚様、何という神々しいお姿、仏藻と一つにな」言葉は途絶えた。性伝は無言のまま平中を巨体で踏み付けて、またずるずると石段を降りてくる。後にはごく小さな血だまりが出来た以外には何も残っていない。代わりに性伝の身体に四本目の男根が表出した。

 群衆が火達磨のような混乱の中に陥った。

「お兄ちゃん、もう……、矢は、残ってないの? 川みたいに、火をつけちゃえば」

「ない」

 証馬は顔を顰めて首を振る。「さっき射ったやつで全部だ」

「そんな……」

 性伝の背中から千手のように藻の触手が虚空に向かって伸び始めた。うねうねとそれはしばらく宙を泳ぎ回り、証馬と水鳥目掛けて殺到する。荒馬で跳ね上がり証馬が其れをやり過ごすと、触手は周囲の人間たちに矛先を向ける。

 その触手に足首を取られ、転倒した男に水鳥が悲鳴を上げた。

「おとうさん!」

 益荒男は両眼を見開き、自らの右足に絡みつく藻に目を見開く。性伝は巨漢の益荒男を綿埃のように易々と手繰り寄せ、彼がどれほど力を篭めて川原の石で自らの脚を絡め取った藻を殴ろうとも、ぶつ切りにしたところが再び絡み合い繋がり、何の効もない。

「クソがぁ……!」

 躊躇いを振り切るように侍が荒馬の車輪で触手を踏み付けるが、枝分かれした細い藻が、今度はその車輪目掛けて殺到し始めた。恐らく触手には性伝の痛覚が通っていないと思われる。

「何をしている!」

 怒号は益荒男のものだった。「水鳥よ、……早く逃げるのだ!」

「おとうさん!」

 益荒男は水鳥がその大きな両眼から涙を零すたびに厳しく叱りつけてきた。「男のくせにめそめそとだらしのない」という彼の叱声は、きっと水鳥の耳の奥で垢の塊のように耳障りな音を立てる。

 息子を叱るときと同じ顔で、益荒男は水鳥と侍を見据えていた。

「お前は生きなければならぬ、この事を語り継がねばならぬ、過ちが繰り返されることのなきよう、……そのために、今は逃げるのだ!」

 よろめきながら立ち上がった益荒男は己の身体と性伝とを結ぶ藻に楔を打つ単車の車輪から、回り込むようにして自ら性伝の身体の中に飛び込む。車輪に絡んでいた藻が解けた。

「名も知らぬ侍よ!」

 半ばまで埋もれながら、益荒男が最後の言葉を紡ぐ。「どうか、……どうか、水鳥を、私の息子を……、よろしく頼み」

 音は糸に絡め取られて消えた。水鳥の絶叫は人々の悲鳴に掻き消された。

「……クソが……」

 証馬はまた新たな男根を生やした目の前の怪物と相対し、必死に思考を巡らせる。逃げるしかないのか。しかしいま自分たちが逃げたら、性伝はこの村の連中を喰らい尽くすかもしれない……。

 鼻を啜った水鳥が、「……お兄ちゃん……」震えた声で、「あいつを、……倒さなきゃ」搾り出す。

「倒す……、でも、どうやって」

 手元に在るのは、刃毀れの著しい木刀が一振りだけだ。触手が伸びて、再び二人に襲い掛かる。前輪を持ち上げて其れをやり過ごし、紅蓮に燃え盛る川原にまで後退した。水鳥が必死でしがみ付きながら、耳元で必死に囁く。

「……ンなこと、出来るかよ……」

「やらなきゃ……、やらなきゃ、みんな、あいつに食べられちゃうよ」

 クソが、……証馬は呟く。

 俺の弟は、ひょっとしたら俺よりもずっと無謀かもしれない。

「……わーったよ、……離れんなよ! 絶対、絶対離れんじゃねえぞ!」

 怒鳴り声を上げて、全身を使って単車の後輪を浮かせ、右手を全力で手前に引き絞る。「おおおお!」全身にかかる重力から解放される一瞬、証馬は左手でタンクの蓋を開け、同時に右手でブレーキを思い切り握り締めながら、後輪を接地させた。

 暴れ馬からの跳躍。

 水鳥を背負った証馬の身体は後方に投げ出される。あと二歩下がれば燃え盛る地獄の川である。それでも証馬は両足を踏ん張って、水鳥の髪の毛一条、燃やさせはしない。

 解き放たれた暴れ馬は真ッ直ぐに、性伝から生えた男根の辺りに激突する。ぽっかりと開いたかぐろい口吻から、おぞましい叫び声が上がった。その一部分はタンクから溢れ零れたガソリンで、どす黒く濡れている。

「性伝、地獄がテメェを待ってるぜ……、懺悔の言葉も要らねぇよ」

 藻の怪物は急所への激痛に身動きを止め、叫び続けている。川原の小石がびりびりと震えた。

「くたばれ」

 懐から取り出したオイルライターを擦る。あらんかぎりの憎しみを篭めて、証馬は性伝の足元へと、其れを投げ付けた。

 藻の塊は一瞬で焔に包まれる。

 証馬は痛む全身を叱咤して、必死に走った。しがみ付く水鳥も、単車以上に危なっかしい証馬の背中に振り落とされないように必死である。二人が根原谷の入口までようやく辿り着いて振り返ったとき、父乳寺の辺りは業火に包まれ、白煙と共にミヤマミシャクジミマダラモモドキの煙が辺り一面に立ち込めているのが見えた。

 

 火の勢いが収まってから村に戻った二人は、村民たちのうち性伝に喰われた者を除けばあらまし無事であり、また立ち込めた毒霧によって誰一人として騒動の記憶を喪失していることを確かめた。例外は、いち早く安全な風上の小学校へと避難していた野々村先生と六年生の児童たちだけだった。彼らは校庭から、川原に響く悲鳴に身を震わせ、激しく燃え盛る炎に心を凍らせていたらしい。

「私たちは……、これからどうしたらいいの? 校長先生も亡くなってしまって、……でも誰もそれを覚えていないなんて」

 野々村先生はかつての教え子に、縋るように訊いた。証馬は煙草を咥えて、懐からライターを取り出そうとして、「ああそうか……」と舌を打った。どのみち、小学校の校舎は禁煙である。

「この村は、ゼロから出直しだ」

 「藻捩祭」の舞子と巫女たちに向けて、証馬はそう宣した。「テメェらはテメェらが居る村がどんだけ狂ってたか判っただろう。……テメェらの親連中が、大人たちが、また馬鹿な真似し始めたらそんときはテメェらが止めんだ」

 子供たちが青褪めた顔で、しかしはっきりと頷いた。それに少し遅れて、決意を篭めて野々村先生も同じように頷く。証馬はそれを見届けてから、ゆっくりと溜め息を吐いた。

「火ィねぇか、先生」

「……ありません、学校にそんなものは」

 苦笑して、「そうかい」と証馬は背を向けた。

 彼の背中には、水鳥がいる。

「植苗くんは……、無事なの?」

「あー。寝てるだけだよ、余ッ程草臥れたんだろ。……そのうえ目の前で親父が喰われたんだ、アタマの中で何本か糸が切れたって仕方ねえのに、……大したガキだ」

「植苗くんのお父様が……!」

「奴は、最後の最後でこいつの父親になったんだ」

 証馬は水鳥を担ぎなおした。まだ軽々と背負えるが、やがては俺より強くなるかもしれないと証馬は思う。

「校長も死んだ、村長も、多分怪我をしてるはずだ、村会議員の連中もな。……マジでゼロから、いや、マイナスからっつってもいいくらいかも知ンねぇけどさ、でも、一つッつ作ってけよ、……そいつらと一緒にさ。あの胸糞悪ィ祭を知ってる、最後のガキどもなんだからさ。何なら先生、あんたが校長になって、ついでに村長にでもなりゃいいよ。これからこの村を作る、……立て直すんじゃねぇ、新しく作ンのは、子供たちなんだからな」

 証馬は「じゃーな」と言い置いて、まだ目覚めぬ水鳥を背負ったまま歩き始めた。

「待って」

 背中に、野々村の慌てた声が掛かる。「あなたは……、どうするの?」

「こいつを連れて、家に帰る。……親父が死んだんだ、姉貴たち居るのかもしれねーけど、何にせよ一人にはしておけねーだろうがよ」

 心配すんな、と振り返って、証馬は笑う。「別に攫って喰ったりはしねーよ、こいつが戻りたいッつったら、学校に返すさ。まあ、あっちこっち怪我してるからそれが治るまでは休ませるし」

 ここで一度、証馬はまだ舞子の衣装でいる少年たちを見回した。証馬と視線を合わせるのを恐れるように俯く少年が何人も居た。

「感謝しとけよ、水鳥に」

 そう言い残して、金髪の侍は水鳥を負ぶったまま校庭から歩き去った。

 

 水鳥が目を醒ましたのは陽もとっぷり暮れ落ちた夜遅くで、ずっと見ていた夢が中絶したのは彼自身の腹がぐうと鳴ったからである。目を擦り、口元の涎を拭おうとして、自分がどういう格好で居るのかに少年は気付く。薄っぺらい布団の上に、水鳥は毛布一枚被っただけの裸で居るのだった。

「ん」

 すぐ側で、証馬が声を出す。「……起きたか」彼が懐から、新しく買ったらしい安っぽいライターを擦って蝋燭に火を点して、水鳥は自分が居るのが証馬の小屋であることをようやく理解する。

「うう……」

 頭がずきんと痛んだ。眉間に皺を寄せて目を閉じると、悪夢のような一日が蘇って、悲鳴を上げそうになった。其れを押し止めることが出来たのは、証馬が優しい掌で髪を撫ぜてくれたからだった。

 ぼんやりとした小さな焔は、隙間だらけの小屋の中に風が這入りこむたび危うく揺れる。重なった二人の影は何倍にも膨れて、しばらく身動きを止める。

 証馬に訊きたいことが山ほどある。

 しかし、全て後回しにして水鳥はいましばらく証馬の懐に居たかった。証馬の身体からは冷ンやりと水の匂いが漂っている。自分の身体からも同じ匂いがしていると気付くのにさほど時間は掛からなかった。毒藻の粘液や汗でどろどろに汚れていたはずだが、眠っているうちに証馬が綺麗に拭き清めてくれたに違いなかった。

「俺はずっと、お前を見てた、……何年も前から、お前が俺の弟だって、知ってたんだ」

 証馬は低い声でそう切り出した。

「お袋は、死産だったって言ってた。……十二年前、生まれたお前を他の子供と取り替えたときは、少なくともそう言ってた」

「……その女の子は……、死んじゃったって……」

「ああ……。お袋が取り替えたときに死んだんじゃねぇ、ただ家に来ることなく死んだ。……そもそも俺が、お袋がそういうことをしたって知ったのは、八年前に俺があの祭をブチ壊した後、何年かしてからお袋に会いに戻ったときだ。お袋も病気でな、もう先が長くなかった。そんとき聴かされたよ。俺には弟が居る、その弟は、今でも村で生きてる、……植苗水鳥こそが、俺の弟だってな」

 性伝から聴いたかもしれないが、と前置きをして、証馬は言葉を継ぐ。「親父はあいつらに殺された。……いま言った『親父』が、お前の本当の父親の風峰到だ。実の子のお前を抱くことも叶わず死んだ、……血の繋がってない俺を自分の子として育てた、風峰到」

「……僕の、本当のおとうさん……」

 証馬が頷く。水鳥は彼が自分の髪を撫ぜる手付きが自分の実母である風峰詞乃を真似たものだということに、ようやく気付いた。……心の安らぐのも無理からぬことだろう。

「お袋に俺を産ませたのは、性伝だ。……お袋は綺麗だったからな。その腹から男が産まれりゃ、そのガキが十二になるのを待って、『ニエ』として性伝に捧げさせる……。親父は其れに気付いて、俺が十二になる前にこの村から逃げ出そうとしてた。けどな、印敬や印能、他の坊主たちに見張られて身動きが取れなかったんだ。そうこうしてるうちに、寺に呼び出されて、……其処でやられたんだ。親父の死体はこの谷の奥で見付かったよ、渓流で足を滑らせた事故死で片付けられたけどな、……性伝たちがやりやがったって、俺にもお袋にもすぐ判った」

 証馬は己の父を喪った時の怒りを思い起こしたように、瞳に焔を宿らせる。「こいつはな」傍らに寝かせた鞘から、今にも折れそうな木刀を抜き出す。「親父の形見なんだよ。親父の死体が見付かった沢からずっと下流で見付かったもんだ。親父が殺せなかった性伝を、俺が代わりに殺す、その日からずっと俺はそればっかり考えて生きてきた。……村から逃げ出すことは、お袋と俺だけじゃ、もう出来そうになかった。だからな、代わりに……、どうせ『ニエ』に選ばれんなら、そのときに俺はあいつを殺してやるって決めたのさ。けど、……まあ、知っての通り俺は仕損じた。右眼を喪って、逃げんのが精一杯だったよ」

 自嘲気味に証馬は笑った。彼は眼帯をしていなかった。ぽっかりと開いた暗闇を、もう水鳥は怖いとは思わなかった。本当に恐ろしいものは見た目などでは決してない、……それよりも寧ろ、性伝があの老いた身体の中に宿していたような悪意だ。どこまでもおぞましく、心のみならず命の形さえも変えてしまうような狂気だ。

「俺はこの場所に身を隠した。……これは初めて会ったときに言ったかな、しばらくは谷に引き篭もってそこら辺の木の実や魚を取ったり、ときたまトンネルの脇の小屋に移住させられたお袋のところに行ったりして食い繋いでた。でも、貧しかったからさ、働かなきゃなんねえから、山の向こうの雁俵の工場で下働きをしながら、少しずつお袋に金を送って生活してた。……段々衰弱していくお袋を見てんのはしんどかったな、……病院にも掛からせてやれねえんだ。……でも、性伝に復讐することだけ考えて、俺は生き延びた。……性伝が祭を再開させるとしたら、それはお前を『ニエ』として捧げさせるためのものになる、……そんなことは、許せなかった」

 証馬は「ごめんな」と、微かに震えた声で詫びた。水鳥が見上げると、眉間に皺を寄せた兄は、堪えきれぬように小さな弟を抱き締める。「俺はお前がいじめられて、しんどい思いしてんのを知ってた。けど、……性伝を斬るためには、『禊』で奴を孤立させなきゃならない、……だから、……祭を開かせなきゃならなかった、お前が十二になるまで待つしかなかったんだ、……お前を……、囮に使うために。許してくれとは言わない、……ただ、……側に居させて欲しい、お前を、これからも、護らせて欲しい……。これまでお前に辛い思いさせてた分の、ほんの少しでも、償わせて欲しい……」

 水鳥は抱かれたまま、手を伸ばした。

 同じ動きが出来るかどうかは判らない、同じ効き目があるかは益々覚束ない。けれど、侍の背中を、水鳥は撫ぜた。

「お兄ちゃんは、僕を、護ってくれたよ」

 証馬が見下ろす目は潤んでいる。水鳥は能う限り、彼に向けて優しく微笑む。「それに、……僕はずっと一人だって思ってた、これまでも、これからも、ずっと一人なんだって……。でも、お兄ちゃんが居たんだよ? だから僕は……、もう、一人じゃない」

 金髪の侍は暗がりの中でもはっきりと判る美しい水鳥の相貌に見蕩れた。

 決して曇らせたくないという思いが、証馬の中に生まれる。

「約束して。……護ってくれなくてもいいから、お兄ちゃん、僕の側にずっと居て。僕が一人だっただけじゃなくて、お兄ちゃんだって一人だったんだもの。だから……、ね? これからは、ずっと一緒に居よう? 僕がお兄ちゃんのことを護ってもらわなくってもいいくらい強くなっても、ずっと、ずっと、一緒に居て?」

 この期に及んで、証馬に頷かない理由はなかった。片方だけの眼から、彼はぼろぼろと涙を零しながら永久に弟の側に在り続ける事を誓ったのである。罪も罰も業火と共に消え失せて、残るのはただ一つ、真に純粋なる感情のみであった。証馬が泣き止むまで、水鳥はずっと彼の金色の髪を撫ぜ続けていた。ずっとそうさせていて、……証馬ははたと気付く。

「お前、……掌、大丈夫かよ」

 慌ててその手を止めさせ、恐る恐る覗き込む。暗がりでも其処が痛々しく火傷をしているのは見て取れた。「……馬鹿、痛かっただろうが……」

 水鳥は恥ずかしそうに微笑んで、それから眉間に皺を寄せてこっくりと頷いた。熱された香炉を両手で掴んだために、指先は数箇所水ぶくれになっているし、掌の赤味も引いていないのである。あのときは、まだミヤマミシャクジミマダラモモドキの毒霧のせいで痛覚も曖昧だったが、いま改めて感じてみれば笑っている余裕もないくらいにひりひりと痛む。

「ああもう……、何でそう無茶をしやがるかな、お前は」

 おろおろと狼狽する兄に、弟はにっこり微笑んで、「お兄ちゃんの弟だもん」と答えた。確かにそんな風に微笑む少年は、あの厳しい益荒男さえ認めざるを得ないほど、男らしいと言ってよかったかもしれない。

「もう……、手ぇ治るまでは、モノ触んじゃねえ。必要なことは俺が、全部してやるから」

「え、ええ……、いいよう、ちょっとヒリヒリするだけだし……」

「ダメだ、断じて許さん。お前は火傷が治るまで安静にしてるんだ、判ったな」

 水鳥は少々呆れた。この兄は、どうやら頑固である、そして相当に過保護である。ただ、肉親の愛情というものをほとんど受けぬまま育った水鳥には、証馬の「兄」としての振る舞いが何だか嬉しくて、くすぐったいような気にさえなってしまう。

 それから水鳥は自分の両手を大事に後ろに回して、

「お兄ちゃん、僕、トイレ行きたい」

 少し、恥ずかしく思いながら言った。

「ああ……、しょんべんか、それとも」

「おしっこ」

 足は無事である。それなのに証馬はすぐさま水鳥を抱き上げる。兄の胸は広く、その腕はさほど太くもないが恐らく身体の幹がしっかりしているのだろう、初めて会ったときからずっと水鳥の身体を抜群の安定感を以って支えるのである。証馬は裸の水鳥を抱いたまま、子作り川の源流まで連れて行ったところで下ろした。

「……トイレ、ここ?」

「しょうがねえだろ、そんな気の利いたもんは作れなかったんだから」

 見れば、傍らにべこべこに凹んであちこちさび付いたクッキーの缶詰がある。恐らく、中には塵紙が入っていて、大きいほうをしたときはそれで拭くのだろうと水鳥は想像した。しかし、さほど嫌だとは思わなかった。屋外で裸で用を足したとしても、此処まで監視カメラの眼が届くはずもないし、そもそも性伝はもう死んだ。

 水鳥は生まれて初めて感じるほど解放的な放尿を愉しんだ。両手を後ろに回したまま、小さな流れに向けて細い陰茎を突き出して放尿していると、隣で証馬も帯を解き、放尿を始めた。自分の物とはまるで形が違う―もちろん、性伝の恐ろしい其れとも違う―陰茎に、水鳥は自分の放尿を終えてもしばし見とれていた。もちろん、少年が其処に見とれたのは性欲ではなくて、「どうしたらあんな形になるんだろう」「おちんちんの毛は金色じゃないんだ」といった、他愛もない興味によるものである。

「……あんま見んな」

 唇を尖らせて、証馬が咎める。「あ……、ごめんなさい……」水鳥は慌てて目を逸らした。証馬はそれから帯を結び直すよりも先に、水鳥の包皮の先に残った滴を、その陰茎を振ることで払った。当然の事ながらその手は、巫女の手よりもずっと優しい。

「……お兄ちゃんも、『矢撫早女』で、……その、あの白い、のを、出したの?」

 ああ、とぶっきらぼうに証馬は答え、再び水鳥を抱き上げた。

「……嫌だった?」

「んなん、当たり前だろ。好きでもねえ女に射精させられるような……、あんなのが嬉しい奴が……、いや」

 はあ、と証馬は溜め息混じりに、「居たよ。自分を射精させた巫女と結婚した舞子だって何人も居るくらいだ……」

「そう、なの?」

「……気持ちよかっただろ?」

 どうだろう、と水鳥は思い返す。ただ恥ずかしいばかりで、自分の尿道にこみ上げてくるものに、どうか出ないでと願ってさえいたように思う。やっぱりあれは屈辱的な仕打ちだったと思えてならない、……ただ率直にいえば、あまり正確に思い出せないのだ。だから水鳥は正直に、「あんまり、覚えてない」と答えた。短い時間とはいえ藻の霧を吸ってしまったから、その辺りの記憶が曖昧なのだ。

 ただ、此れまで当たり前のように話をしてきた同級生の女子と、火傷が治って学校に戻った後に一体どのようなコミュニケーションを取ればいいのか、自分が全く判らなくなっていることに水鳥は気付いた。だって、おちんちんを見られた、それだけじゃない、あんな風に触られた……、向こうだって意識するだろう、しかしそれ以上に、こっちが破裂しそうなくらいに意識してしまうのだ。

 恐らく、この村のかつての「舞子」と「巫女」たちはそのあたりの感情を、祭の狂躁の覚めやらぬ夜に「初夜」を迎えることで力ずくで乗り切ってしまうのだろう。然るに、最後の「舞子」ならびに「巫女」は今宵それぞれの家で別々に夜を過ごす。同じ不安を抱いているのは、水鳥だけではないだろう。

 小屋まで水鳥を抱いて戻った証馬は真ッ赤になって、ずいぶんと手間取りながら水鳥に子供の作り方を教えた。証馬の世代よりも前の子供らは、皆「実地」で其れを学ぶのであったが、水鳥に教えてやれるのは証馬しか居ないのだった。

「……判ったか」

「うん……」

 水鳥も、もちろん途中から真っ赤になって聴いていた。証馬は見ないようにしていてくれたが、水鳥が火傷をした手を時折前に回したり、膝を抱えたりしなければいけなかった事情については、彼も承知しているらしかった。

「あれを……、『性欲』って呼ぶんだね」

「そういうことだ」

 性教育を始めてから四本目の煙草に火を点けて、草臥れたように煙を吹き上げながら証馬は頷く。

 水鳥は自分の中に在ったものを理解して、それでもなお、釈然としない気持ちがなかなか去らない。屋根の上の月は高いところにあったが、証馬に横たえられても眠れる気がしないのは、長く意識を失っていたせいもあっただろうがそれ以上に、受け取った情報と自分とが合致しないような気がするからだ。

 事情は判った。どうやって子供が出来るかということも、判った。

 しかし、決定的な点が欠如しているように、水鳥には思われるのだ。

 「矢撫早女」にて「舞子」が自分を射精させた「巫女」と結ばれるケースが多いというのは事実だろう。しかし、水鳥はやはりあれを屈辱だと捉えたし、同級生の彼女のことを恋愛対象として捉えるような自分を想像出来なかった。或いは、それは毒藻の煙のせいで一時とはいえ記憶が混濁しているからかもしれないし、その直後に恐ろしい目に遭ったからかも知れない。

 証馬は水鳥のすぐ隣に、布団も被らずに、板張りの床の上、肘を付いて横たわっている。目を閉じて、静かに規則正しい寝息を立てている。左眼の睫毛が長い、それは、とても美しいものであるように思えた。耳や唇を穿つピアスは毒蛇のように凶悪な印象であるが、生まれ持った美しさに自ら抗う有り様のようにも思われる。そんな証馬の生の在り様は、かけがえのないもののように感じられる。

 そうだ、と水鳥は気付く。

「僕が好きなのは、お兄ちゃんだ」

 ずるん、と証馬が自分の頭を支えていた肘を崩した。側頭部を強かに打ちつけて、しばし苦悶する。

「僕は、お兄ちゃんに射精させてもらえたらよかった……」

 むくりと布団の上に起きて座り直して、水鳥は自分の胸の裡に浮かんだ言葉をそのまま発した。左眼を見開いた証馬は「お前なあ……」と呆れきったように水鳥の柔らかな両の頬をむにいと引っ張ったが、

「らって」

 水鳥はめげずに言う。「おにいひゃんは」証馬は顔を顰めたまま、水鳥の頬を抓る手を離した。

「僕のこと、護ってくれた。僕はお兄ちゃんが一番好き。好きな人に射精させてもらうのが幸せなんでしょう? だったら僕は、他の誰よりも、お兄ちゃんに射精させてもらえるのが一番幸せだよ」

「……お前、自分の言ってること判ってんのか?」

 水鳥は、確信を持って頷く。

 他に考えようがない。

 兄が頑固なら、弟も頑固なのだ。

 証馬は、水鳥の両手を思い出さざるを得ない。射精の快感を知った男児は、同時に自慰の悦びに目覚める。然るにその手で水鳥が快感を得ることは不可能なのだ。「必要なことは俺が全部してやる」と宣してしまった以上、証馬に選択肢は一つもない。

 クソが、と呟きかけて、飲み込む。……これは幸福なことではないのか。性伝が渇望して、結局手に入れることの叶わなかった水鳥の美しい身体に快楽を与えてやる、……悦びを与えてやるという、ことは。

 そして鏡のように同じ事実が映し出される。性伝から護り切ったこの身、……父母を失い、永く孤独に在った身を捧げるべき相手は、この水鳥だったのではないのか。

 一瞬、それでは性伝と一緒じゃねぇか……、証馬の中に浮かびかけた疑いは、水鳥の言葉で跡形もなく消えた。

「他の誰かじゃなくて、お兄ちゃんから欲しいんだ……」

 それは快楽ではない、きっと、……愛情と呼んだっていいはずのものだ。其処まで考えが至れば、証馬の身体は骨を軋ませながら動く。ゆっくりと水鳥を布団の上に横たえて、その瑞々しい唇に唇を重ねた。目ぇ閉じろ、と言う暇もなく、水鳥は驚いたようにきゅっと両眼を閉じる。だが眉間の皺はすぐに浅く緩んで、少年は痛むはずの両手を証馬の背中に回す。手、というよりは腕全体を使って、証馬にしがみ付いた。

「……キス……」

「ん……」

 水鳥が、甘い甘い甘い笑みを浮かべた。「キスは、お兄ちゃんが最初だよ。良かった」

 性伝に顔中嘗め回されたことは、毒藻の霧が忘れさせてくれたようだ。水鳥の笑みは、その声は、証馬の胸に深々と突き刺さった後に、内側で破裂する、棘をばら撒く、火傷を負わせ身体の何処よりも痛みを齎す。

「お前、可愛いな」

 片眼で捉えた情報を口に出すことで耳へ与え、確認するためだけの小さな循環作業に過ぎない。口に出してからその言葉の間抜けさに気付いたところでもう遅い、水鳥は一瞬びっくりしたように目を丸くして、それからはにかんだように、「お兄ちゃんは、すごく、格好いい。初めて会ったときから、ずっと、格好いいなって、お兄ちゃんみたいになりたいなって、僕は思ってた」

「なれるさ……、なりたくなくっても、なれる。お前は俺と同じ血を引いてンだからな……」

 いや、きっと俺よりもずっと美しいに決まっていると、証馬は確信する。証馬自身、自分の顔立ちは決して「美しい」の範疇に足るものではないように思っていた。目付きは凶悪、そもそもその眼は三白眼、然るに性伝が俺を欲しやがったのは、「自分の子を抱く」などという呪わしい行為に執着したからではないのか。平等に見るよう努力したって、十二歳の証馬と十二歳の水鳥を比べれば、誰だって水鳥を「美しい」と評するに決まっていた。

 しかし水鳥は羨むような黒目勝ちの双眸を潤ませて証馬を見上げていた。

 なら、いいさ。お互いを世界で一番美しいと崇めてりゃいいんだ……。ずいぶんと自分にばかり得な構造であるように、証馬は少し思った。次の口付けに躊躇いはなく、舌で唇を舐めたら猫のようにびくっと水鳥が震える。ただ、一日で異常な体験を山ほどした少年はすぐにそれを真似出来る。精一杯に舌を伸ばして、兄がするように舌先を絡め返してくる。

 拙い。

 だが、甘い。歯列の裏へ舌を伸ばしてやったら、「はう」と声を上げた。唇を離すと、口の端から唾液を零した水鳥がほんの少し恨めしげに、

「……お兄ちゃんは、こういうこと、誰かとしたことあるんだ……?」

 と確信したように言った。

「そりゃー……、大人だからな」

「僕は、誰ともしたことないのに」

「そりゃー、子供だからな」

 じっ、と見上げる水鳥に、証馬はくすぐったいような笑みが浮かんだ。「まあ、お前以外とはしねーよ」

「……本当に?」

「すんの、……もう、五年ぶりとかそんくらいだし」

「そのときの相手は、女の人?」

「そりゃー、まあ……」

 柔らかな髪をくしゅくしゅと撫ぜて、「もう、昔の話だ。お前以外とはしねーし、だからお前も俺以外とはするなよ?」と言いながら、自ら胸を締め付ける。したくなったら俺以外の誰とでもするが良い、寧ろその方が幸せなぐらいだ、きっと。

「しないよ、僕はお兄ちゃんとしかこういうことはしない」

「俺はお前の兄貴だぞ? 恋人じゃない」

「することで名前が決まるんなら、お兄ちゃんは僕のお兄ちゃんであると同時に、兄弟だよ」

 何を言っても頑として譲らないだろう。だから証馬は「そうかい」と笑って、あとはキスで誤魔化すことにした。恋人である以前に兄弟だろと、思いながら指先でまだ華奢な肩から脇腹へ辿る。指先に感じる細い肋骨の感触を確かめるように再び這い上がると、水鳥が敏感に身を震わせた。「んー……?」唇を重ねたまま、女のように細い腰、ほとんど膨らみもない腹と撫ぜて、つるりとした触り心地のその部分に至ると、じんわりと湿っぽく温かい。

「キスしてるだけでこんなんなってんのかよ……、お前、エロいな」

 能う限り優しい声で、しかし悪辣な言葉をかけてやると、水鳥は眉間に皺を寄せて「だって」と唇を尖らせる。

「だって?」

「……きっと、僕が悪いんじゃないよ、あいつに、……藻の汁、かけられて……、きっとそれがまだ、抜けてないんだ」

 証馬は笑わなかった。彼自身が経験している。あの液体の「毒性」は拭っても洗い流しても容易に消えるものではない。浴びれば一両日はしつこく毒は続き、何かきっかけを与えればすぐに反応してしまうのである。

 性教育らしきことをしてやっている間も水鳥は勃起していたようだし、その上こうして「恋人」と肌を重ねていれば、斯様な反応をしてしまうのも無理からぬことと言えた。

「お兄ちゃん、……僕、お兄ちゃんに、してほしいな。あんな風なのじゃなくて、お兄ちゃんがしてくれたら嬉しい」

 水鳥の身から「矢撫早女」の屈辱を拭い去る仕事は証馬にしか出来ないのである。

 証馬は水鳥を座らせ、彼の足の間に跪いた。まだ生白い性器は真ッ直ぐに上を向いても何処となく愛らしく思えて、同時に僅かにその先端から漂う匂いに、思わず興奮を催す。

 証馬は自分が少年愛者で在る事は全面的に否定したい。一方で、水鳥を愛する者であることは肯定する。

「んん……っ」

 愛しい水鳥のものだから、口に含むのに躊躇いは無かった。やはりほんの少し小便の味がする。それよりも水鳥の膝がきゅっと震えたことの方が重要だ。まだ快感を味わうことさえ覚束ないはずの水鳥は、それでも証馬の口の舌の愛撫を自分の身に覚えこませることで悪夢を濯ぐことを選ぶようだった。

「お……、にぃ、ちゃ……?」

「ん……?」

「……っと、その、……ぅン……、お、ちんちん……っ、さっき、ぼく、おしっこした……」

「んー……、しょんべんの味したな」

「きたないよ……、おちんちん、そんな、お口でするの、変だよ……」

 柔らかく丸い珠を指の背で撫ぜて、証馬は笑った。「お前のじゃなかったらしねえよ」

 ……水鳥が少年だから愛するのではないのだということだけを、自分がはっきり自覚していればいい。証馬はそう思った。もちろんこれまでに同性の性器を口に含んだことなど一度もないし、斯様な日が来る事を想像したこともない。けれど、これからは何度だって同じようにするのだろうということは、最早想像というレベルを超えている。

「ふあぁ……!」

 水鳥は愛らしかった。証馬の舌先で何度も性器を震わせ、金髪に声を降らせる。恐らく無意識にだろう、布団に乗せた尻をむずむずと動かして、より気持ちよい場所を自ら探し始めているようだ。証馬は出来ればこのまま俺がどこまでも良くしてやりたいと思い始めている。ただ、それが可能なことかどうかをも同じく探している。証馬自身、こんなことをするのが初めてである以上、自信などというものは全くないので。

 それでも、不意にその時は訪れた。

「ひ、うっ……」

 上顎に、水鳥の性器から放たれた精液が快い強さで当たる、一度、二度、三度、震えと共に齎される、……まだほんの二度目の、水鳥の射精だ。ミヤマミシャクジミマダラモモドキのためか、それは同日二回目の精液としては相当に濃く、量も多いことは、少年の射精に興味のなかった証馬にも判る。

 それだけに味も匂いも濃い。

「……どうだったよ」

 と訊いてから、証馬は自分が水鳥の精液を平気で飲み込んでいたことに気付く。水鳥は薄い胸板を上下させながら、「……うん」と、何に納得したのか証馬には判らないが、こっくりと頷いて、

「やっぱり、お兄ちゃんがいいな、僕は……、お兄ちゃんが、好きだから」

 案外にしっかりとした声で言った。

 可憐な生き物に見える。似ていない兄弟でよかったのかもしれない。自分の中に流れる性伝の血は呪わしいものではあるが、……水鳥が俺よりずっとずっと愛らしいという事実は寿ぐべきことである。

「あー……、じゃあ、そしたら……」

 せかせかと煙草に火をつける。そろそろ証馬の弟は、兄がどういう時に煙草を欲するかということについて詳しくなり始めてもいい。「寝るか。……な、お前も疲れてんだし、寝ようぜ」

「えー」

 水鳥が、不平の声を上げた。そういう類の声が水鳥の唇から発されるのを、証馬は初めて聴いた。

「もう、おしまい?」

「……おしまいだ。ガキの起きてていいような時間じゃねえ」

 この小屋にも、一応時計がある。その時計というのは証馬の持つ携帯電話である。この男、御藻羅村に降りるときにはみすぼらしい着物姿であるが、山の向こうの雁俵へ仕事に出る際にはきちんと洋服を纏うし、携帯電話ぐらい当然持っている。暗がり、手探りで其れを開いて、「ほら、もう二時過ぎてんだぞ」と水鳥を咎めるが、当の水鳥は夕刻から長らくの気絶と射精によってすっかり目が醒めてしまったらしい。そして水鳥の横で時折揺らめくような転寝の波に現れていた証馬もさほど眠気は覚えていないし、……何より、彼もまた水鳥以上の性欲を持て余して居るのだ。

「……『セックス』って、男の子同士じゃ出来ないの?」

 先程の性教育にて覚えたばかりの言葉を、水鳥は使った。

「……出来ねえ」

 きっぱりと証馬は答える。「男の身体ン中にいくら精液流し込んだって、其処に卵がなけりゃガキなんて出来やしねえんだよ」

「僕の、……身体の中?」

 訊き返されて、……しまった、と証馬は表情を強張らせる。「僕の身体の中って、……いまお兄ちゃんがしてくれたみたいに、お口の中ってこと? それとも……」

 何も言えず、しかし煙草の最後の一本を吸い終えてしまった証馬は黙りこくった。「僕の身体使ってお兄ちゃんが気持ちよくなれる場所があるんだね? お口じゃなくって、……僕、お兄ちゃんが気持ちよくなってくれるんなら、それ、したい」言い募る水鳥に、険のある表情に証馬はべっとりと困惑を纏わせていた。ああもう、何を言ってんだこのガキは、アホか、……アホか! 自分が何言ってんだか判ってねえからそういう。

「……お尻の穴?」

 水鳥の言葉に反応してその顔を見てしまった。「お尻の穴、……正解だね?」

「……ばっ……、馬鹿言え、お前な、ケツの穴なんて、……そんなの」

「……性伝に、その……、其処を」

 ビクンと身を強張らせて「お前、まさかやられたのか!」声を上げて訊いてしまった時点で証馬の負けだ、あっさりと水鳥は首を横に振る。「あんなの入ったら壊れちゃうよね。……でも、舐められた、……ような気がするんだ、すっごく気持ち悪くて、吐くかと思った」

 足を揃えて座り直した水鳥は、真ッ直ぐに証馬の目を見る。証馬が目を逸らすことを、その視線は許さない。透き通った血の強さが奥に覗ける美しい双眸だった。

「お兄ちゃん、隠さないで。……僕の身体を……、お尻を使ってお兄ちゃんが気持ちよくなる方法があるんでしょう?」

 やはりこの弟は兄に似て頑固だった、そして意志が強いのだった。

 準備に必要な物がない、そう言い切ってしまえればいいのだが、愛しい弟に嘘を付くことは大いに難儀に思えた。恋人など居ない証馬だが、そういう交渉を雁俵の幾人かとしたことがあって、財布の中には避妊具がきちんと収まっている。

 幼く純真無垢で居て、男しか持てない光を宿した瞳から逃れることは証馬には出来なかった。首を軋ませながら、彼は頷いた。頷いてから「でも、でもな、お前、すっげー痛いぞ、……死ぬほど痛いぞ? 判って言ってんのかよ」慌てて言葉を並べた。

「お兄ちゃんが前に『犯される』って言ったのと、同じ?」

「ああそうだ。お前、自分のケツの穴を」

 証馬の言葉を遮って、「お兄ちゃんは、あいつにされたの?」と水鳥が訊く。

「アホか! されてねえ! されそうになったから逃げて来たんだ!」

「そう、……よかった。あんな、おばけみたいなの這入ったら死んじゃうよね……」

 思い出すような水鳥の言葉につられて、証馬も性伝の怒張を思い浮かべてしまって、二人揃ってぞくりと身を震わせた。「おばけ」というか、あれはもうほとんど其れ自体が鬼のようであった。水鳥の想像の通り、証馬はあれを顔の前に突きつけられて、……反抗を諦めたふりをして従順に両手を添えて、最後の力を振り絞って思い切り捻ったのだ。性伝の性器が真ん中付近で折れていたのは証馬の仕業である。

「お兄ちゃんのは、あんなに気持ち悪くないでしょ?」

 先程川縁での小便の際に、証馬は性器を水鳥に見られている。自分で言うのも妙だが、さほど小さくはあるまいと自覚している、まあ概ね常識の範疇に収まる程度であろう。

「俺の……、お前、俺のちんこ、お前のケツの中に入れろってのかよ」

 気圧されつつ訊けば、水鳥はごく当然のことのようにこっくりと頷く。

「だって、お兄ちゃんにも気持ちよくなって欲しいし……」

「い、いや、俺は、……それこそさっきしてやったみてーに口でとか、いや、それもダメだ、だからその、右手がありゃ何だって出来る。だいたいだな、さっきお前にしてやったのだって、そうだ、お前が右手怪我してるから」

「治ったら、もうしてくれなくなっちゃうの?」

「それはっ……」

 治っても、恐らく何度だってしてやる、してやりたい……。そして繰り返される行為の延長線上に在るものが何かということについて、もう水鳥は諒解してしまっている。

「……僕、お兄ちゃんがしてくれることなら何でも嬉しいって思うよ。僕のたった一人の、半分だけだけど、血の繋がったお兄ちゃんだもん」

 もう証馬に水鳥を諌める言葉は用意できなかった。蝋燭を消した室内は山の夜の月光を集めて意外なほど明るく、二人の目が暗闇に慣れたことも相俟って、証馬には水鳥の其処がまだ熱を持て余している様子が見て取れたし、水鳥も証馬の着物の前が膨らんでいるのは覗かれていることだろう。後戻りはもう出来ない。月の光を集めてしどけなく足を広げた裸身を隠しもしない水鳥から、視線を剥がすことはもう出来ない。

 財布から避妊具を取り出す、水鳥を横たえ足の間に唾液を纏わせる、そして穢れない窪みに指先を押し当てるところまで、証馬は黙りこくったまました。「力抜けよ」とようやく声を出したとき、証馬は自分の声が微かに震えていることを少しも恥ずかしいとは思わなかった。肛門を撫ぜられただけで、未だ毒を身に宿したままの水鳥が甘い息を吐き出したのを聴いていたから。

「は……、う……」

 その場所は案外に証馬の指先を拒まなかった。証馬が慎重を期してゆっくりと指を差し入れたからという以上に、水鳥が其れを受け容れることを望んだからかも知れない。入口の環状筋を越えた奥は案外に広い。証馬は水鳥の陰嚢を慰めるように舐めてやりながら、ゆっくりと指を動かした。水鳥は二本目の指までも、素直に飲み込む。

「大丈夫か……? 痛くねえか……?」

「うん……、平気。痛くない……、けど」

「けど?」

 緩やかに往復させていた指を止めて、水鳥の答えを待った。水鳥は少し恥ずかしそうに、自分の足の間に在る証馬の顔を見て、「……気持ちよくって……、おちんちんの内側が、お兄ちゃんの指、動くたびに、……むずむずする……」

 反射的にその陰茎を再び口に含もうとした証馬を、水鳥は慌てて止めた。「待って、……一緒がいい。お兄ちゃんの指も嬉しいけど、……お兄ちゃんのおちんちんが這入って、……一緒に気持ちよくなってくれたの判ったら、もっと嬉しいから……」

 きっとその言葉は健気と思ってやっていいはずだ、……仮に誤っているとしても、いまは。

 証馬は水鳥から指を抜き、自分の男根に膜を被せた。暗がりで水鳥の孔が開き、ひくついているのを片目で見ているだけでもう堪えきれない。「うつ伏せになれ」と掠れた声で言った証馬に、水鳥は素直にそうした。肘を付いて、証馬に尻を向ける。その尻は白く小さく、……その場所でさえも誰の目にも触れさせたくないと思う。

「ん、ん……」

 押し当てた熱に、水鳥が腰を震わせた。「痛かったら言えよ? いつでもやめられるんだからな……」その言葉を嘘にしないためだけに一つ深呼吸をしてから、証馬はゆっくりと腰を押し進める。

「ふあ……!」

 やはり入口の環状筋が拒むような動きをした。それでもすぐさま腰を引けなかったのは、証馬の側に「やめたくない」という渇望が在ったからか。

 だが証馬のペニスの先が其処に拒まれた時間はさほど長くなかっただろう。次の瞬間には引きずり込まれるように、水鳥と一つに繋がっていた。体温以上に感じられる湿っぽい空間は女の其処よりも力強く証馬の性器に絡んでくるようだ。頭の中の歯車が空転するような感覚に陥りながら、「大丈夫か」という言葉は自然と証馬の唇から零れる。

 尻だけを高く上げた格好で、水鳥は甘い声で、「大好き」と答える。答えになっていなかったが、証馬は大いに満足する。

「ああ……、俺もお前が、大好きだよ……」

 ずっと一緒に居るから、これから先、お前が拒まないで居てくれるなら、ずっと、ずっと一緒に居るから。

 思いを篭めた言葉に、水鳥がこくんと頷く。これぐらい真面目な恋人同士なら、どんな障害があれ幸せになれるはずだと証馬は確信するし、もしなれなかったら俺が無理矢理にでもしてやるんだと決意する。

 其処まで至ってようやく証馬は、腰を動かし始めた。興奮しきって、思考も思うように働かなくとも、優しさだけを身に纏って、ゆっくりと。

「お兄ちゃん……っ、お尻……っ、お尻、すごい……っ」

 水鳥の声には少しの痛みも含まれることはないようだった。証馬が手を伸ばして臍へと反り返った幼茎に触れれば、其処からはじわじわと蜜が溢れ出していた。証馬がゆっくりと一往復するたび、其処はぴくぴくと震えまた新しい蜜を漏らす。触れた指先に糸を引くのは、見ずとも判った。毒の力がまだ働いて居るのだとしても、……俺で悦んでいる、俺が悦ばせている……、証馬の身体に同じだけの悦びが蓄積する。緩やかな注送だけで、彼は弟の身から超級の快楽を得ていた。

「……いくぞ、……水鳥……」

 自分でも呆気なく思えるほどその時はすぐ側まで近付いていた。

「ん、んっ、おにいちゃ、……っ、はやくっ、はやく……!」

 水鳥の甘い甘い声に、腺液に塗れた指で包んだ幼物を、ただ撫ぜるだけではなくて追い込むように扱かざるを得なくなった。

「あぅ、ンっ、んぁっ……はぁあ、あ、あ、あっ……!」

 滑らかな線で描かれる喉を水鳥が反らしてか細い声と共に証馬のへビートを伝える。それは直截的に証馬の性器を締め上げた。短く息を漏らし、証馬も水鳥の胎内へ、より雄々しい鼓動を伝える。

 ゆっくりとその身から性器を抜き取ったとき、証馬は自分の吐き出したものの量に呆れる。まだ尻を高く上げたままの水鳥の精液は、布団の上に散っていた。こちらも同様で、まだ毒を抜き切るには至っていないようだ。それでも、これ以上重ねるのは却って毒だろう、身体を洗ってやる必要もあると思った。

 抱き上げてやると、水鳥はしっかりと抱きつき返す。そして証馬の首筋にいとおしげに口付けを繰り返した。「好き」言葉を「お兄ちゃん」その度に「大好き」差し挟みながら。

 湯を沸かす暇はないし、体力もない。「冷てえけど我慢しろよな」と言い聞かせ、下肢を洗ってやる間、水鳥もさすがに体力の限界を迎えたらしく、いかにも瞼が重たいという顔をしていた。冷たさに縮み上がった性器を見て、やっぱりまだ子供だと証馬は改めて思う。子供だからこそ、愛してやらなければならない、そして護ってやらなければならない。愛しい愛しい水鳥の体と心、それが丸ごと、証馬にとっては約束の存在であった。

 次の約束は、……お前に風邪をひかさない。布団へ運んでいる間にすっかり眠りに落ちてしまった水鳥の身体は細く白く、そういう類の病魔がいかにも好みそうである。水鳥が濡らしたシーツを剥がし、着物を纏わせ、布団でしっかり包み込んでから抱き締めて証馬は眠りに就いた。

 幸いにして翌朝水鳥が風邪をひくことは避けられた。代わりにひいたのは、布団を被らずに眠った証馬である。そんな証馬に翌朝も口付けを水鳥が求めたから、……翌々日同じように鼻水を垂らした責任は、証馬にはないと考えてよかった。

 

 火傷と風邪の治癒までには当初の予定以上の時間を要した。挟まれた五日間の平日、証馬は水鳥の朝飯と昼の弁当を拵えてから洋服を着て、鰤端で買ってきた単車―火炎に包まれて昇天した「相棒」の二代目―を駆って、雁俵の工場へ働きに行く。夕方まだ陽の高い時間に帰って来て、風呂を沸かし、夕食を作り、夜は水鳥がせがむままに抱いてくれる、そんな怠惰で和やかな一週間だった。

 兄は「行きたくなかったら行かなくてもいい」とまで言ってくれたし、水鳥自身、あれほどのことがあった後だ、正直気が進まなかったのは事実だが、ここで逃げたらお兄ちゃんのような強い男にはなれないと思って、祭から一週間後の月曜日、久方ぶりに植苗の家に戻り、喪に服している以上にとてもよそよそしい姉たちに挨拶をして、鞄を背負って登校した。

 緊張しながら教室のドアを開けて、水鳥は驚いた。先週までのいじめは何だったのだろうと思うほど、同級生の男子たちが水鳥に向ける目はとても優しいのだ。

「怪我したんだろ? 大丈夫か?」

「休んでた間の分のプリントとノートの写し、これ、やるよ」

 男子たちは水鳥が自分たちよりもずっと嫌な思いをして、身を呈して御藻羅村を護ったことを野々村先生から懇々と語られたのだ。彼女はいじめを放置していたことを心から悔いていた。その日の二時間目、体育を見学した際、水鳥は彼女と二人きりになる機会があって、先生に深々と頭を下げられ謝罪の言葉を頂いて、却って恐縮しきりであった。

 野々村先生は次の年度から校長先生になるらしい。平中の死亡により空席となったそのポストに、ベテランとはいえ一介の教諭が座るのが異例のことであるということぐらい、水鳥にも判る。だが本来校長の座に就くべき教頭の強い依願によって彼女は仕方なく承服した。校長になって以降も、可能な限り学年担任として教壇に立つ事を条件に。

 水鳥と証馬が村を救った英雄であることを知って居るのは、村立小学校の人間だけだ。村の人々の多くは未だ性伝の死を嘆き悲しんでいる。

 少しずつ変わって行く、と野々村先生は言った。「あなたたちが大人になる頃には、きっと御藻羅は住みよい村になるでしょう。誰も悲しむ人の居ない村に、みんなでするのです」野々村先生の言葉に、水鳥も頷いた。

 久しぶりの給食を食べ、水鳥は同級生たちと、……六年生の一学期にしてほとんど始めての経験だが、放課後まで一緒に遊んだ。早く帰らないとお兄ちゃんが心配するかなという気がしたが、校庭から根原谷の小屋のほうを見れば、仕事から帰ってきたらしい証馬は見晴らし杉の枝に掴まって望遠鏡で水鳥を見ているのが判った。身振りで「遊んで帰るよ」と言ってみたら、納得したように杉から下りて行った。

 水鳥は同級生たちが縄跳びや大学落としなど、男女交えての遊戯を選んで行うことに気付いた。ついこの間までは、男は男、女は女、共に遊ぶことなどなかったのに。

 注意深く観察してみると、「舞子」だった男子と「巫女」だった女子たちは、互いが側にいることがまるで自然のように振る舞っている。あの呪われた祭に唯一益が在ったとすれば、男女間の溝を埋めるという点を置いて他になかったのだろう。だが水鳥は考える、……それにしたって、きっともっと良いやり方はある。誰かのどす黒い欲が介在する以上、其れは正解にはなりえない。

 四時の下校時刻までたっぷりと遊んで、数年ぶりにゆっくりと帰る道で、水鳥は一人の女子児童と一緒になった。彼女の家は村の南東にあって、水鳥の家は村の南端、方角的には一緒であるが、こうして並んで帰るのはほとんど初めてのことだ。

 水鳥はもちろん、彼女が自分を担当した「巫女」だったことを覚えている。いま思い返せば、他の子じゃなくてよかったな、という気持ちが水鳥の中にはあるのだ。家がさほど離れていなかったこともあって、学校で一番話をしていたのは彼女だった。それでも、「おちんちん見られちゃったんだよね……」と思うと、やっぱり何を言ったらいいのか判らなくて困惑する。きっと他の男子女子と同じように愉しく喋ることが出来るようになるまでに、一週間ほどを要するのだろう。

「ねえ、市田としずくちゃん、結婚するんだって」

 まだ焔の余韻の残る川べりまで至ったとき、水鳥は彼女の口からそんな発言をされて「ええ?」と思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

「結婚、結婚って……、あの結婚?」

「うん。……ほら、……あのお祭で、市田のことしたのが、しずくちゃんだったでしょ? だから……」

 市田は水鳥をいじめていた少年たちの中でもリーダー格の、身体の大きな男子であり、しずくはまだ四年生ぐらいに見える小さな女子である。市田は柔道が得意で、しずくは裁縫が趣味、何ともつりあわない二人のように見えるが、そんな二人でさえ引き合わせてしまう魔力が、『矢撫早女』にはあるのだろうか。水鳥は空恐ろしいような気になった。

 同時に思うのは、「藻捩祭」についての発言を、学校に居る間誰もしなかったなということだ。恥ずかしくて早く忘れてしまいたいと誰もが思うものだと納得していたのだが、彼女はそれを口にした。

「あたしは、水鳥で良かったなー」

 後ろで一つに結んだ髪を、歩くたび揺らしながら彼女は言って振り返った。「あたし、水鳥のこと、これまでも何度か見たことあったし」

「……え?」

「忘れちゃったの? ……昔、水鳥がうちに遊びに来たとき、一緒にお風呂入ったじゃない」

「そ、そうだっけ……」

「まだ四つのときだったかな。あとほら、おととし、あんたが教室でおもらししたとき、保健室連れてったのあたしだよ?」

 真っ赤になりながら、……確かにそうだったと水鳥は思い出す。あの盗撮映像を見たときにはそれどころではなくて思い出せなかったが、確かにみっともない姿を彼女には見られている。なるほどそう考えれば、他の女子に触られるよりもまだ多少は救いがあったと言えるかもしれない。

 彼女は数歩歩いては止まり、また数歩歩いては止まった。水鳥の歩調は自然、緩まっている。

「ねえ」

「……ん?」

「あんたは、……誰かと結婚するの?」

 水鳥はすぐに兄の顔を思い浮かべた。……兄弟で結婚なんて出来るわけがないということはもちろん判っているが、そういうことの相手として水鳥が挙げられるのは風峰証馬ただ一人だった。

 だから、水鳥はこくんと頷いた。「誰?」と訊かれたが、水鳥は口を割らなかった。彼女は同級生の女子たちの顔を脳裡に描いているかもしれないが、答えは別のところにある。

 分かれ道に辿り着いた。

「そっか」

 彼女はにっこりと微笑んで、「じゃあね」と手を振る。

「うん、また明日ね」

 水鳥も手を振った。遠くにエンジンの音が聴こえ始めていた。兄が谷の入口まで迎えに来てくれたのだろう。……結婚するとして、僕はお兄ちゃんの「お嫁さん」ってことになるのかな、……お兄ちゃんみたいに美味しいご飯、僕に作れるかな……、そんなことを考えながら、水鳥は駆け出していた。

 

 

《知られざる日本の山村 御藻羅村》 文庫版あとがき

 

 ご存知の通り、本著にて取り上げた御藻羅村は昨年改称し「根原谷村」となり、再来年には鰤端・雁俵両市の合併によって生まれる新市(住民投票にて根原谷の位置する「苅高山」に因んで「苅高市」となることが決定した)に属する事となる。結果として本著は「御藻羅」という村名称への挽歌となってしまった。

「藻捩祭」も中断を経て、一度限りの再開を見たというがそれぎりである。父乳寺住職性伝の怪死が決定的であった。性伝の遺体は祭の終了後に群衆の中から発見されたと言うが、どういう訳か目撃者はなく、そればかりか幾人もの行方不明者も存在するという事態に際し、T県警察本部の捜査が行われたが事情は全く明らかになっていない。ただ父乳寺の境内から発見された地下室には大量の児童ポルノの類が押収され、そのいずれもが村内随所に設置された隠しカメラで撮影されたものであるという点、また性伝がそれらの映像を非合法の団体に販売し、多額の利益を得ていたという点などが明らかとなった。性伝が被疑者死亡のまま児童虐待や児童ポルノ禁止法違反などの疑いで書類送検されたことは、全国的にも大きなニュースとなった。御藻羅村の「藻捩祭」なる文化は性伝の完全な創作であり、彼は永年に渡り自らの欲求のために少年たちを犠牲にしていたのである。そもそも性伝や彼の周囲の僧侶たちも、正式に仏道に帰依した者たちではなく、父乳寺の開祖・枕古和尚から脈々と受け継がれていた「人柱」の色の濃い祭を、言うなれば勝手に改竄して村人たちに押し付けたものであると考えられる。

 この事件の影響で、穏健な形で今も残る「子供はだか祭」は次々に中止されつつある。折りしも、児童の裸体に関してもその保護が謳われるようになって久しい。

 この件に関しては先日、本著内において引用した父久日水太郎先生と久方ぶりの再開を果たし、活発な議論を行った。父久日先生と筆者が再会したのは、F県間麻村の「子ども奉納相撲」の会場脇のテントであった。父久日先生も筆者も村外の者でありながら取材のためにカメラで盛んに祭の様子を撮影していたため、盗撮者と誤解されたのであった。

 以下は、その夜に旅籠で父久日先生が語ったところを、先生の許可を取り掲載するものである。

「概ね、どこもあんな様子ですよ。本質を見誤る人間が多すぎる。男児の裸は晒されるべきものという考えじたいがこの国の伝統的な文化なのです。それをね、後から入って来た者が、さながらそういう文化を恥ずべきもののように思って排除する」

「しかしね、もちろんこれは性伝のような者を擁護するわけじゃないけども、いまより二十年前、三十年前までは、子供の裸なんてものは、夏に一日街を歩いていればどこにでも見かけられたものですよ。中にはもちろんそれに不埒な真似をしようと考えた輩だっていただろうけれどもね、そういう連中は一人ひとり罰して行けばいいわけです」

「何より嘆かわしいのは、大人たちの退化でしょうな。固有の文化というものを吟味することなく、思考停止して文化を衰退させているに過ぎない。子供の裸なんてものには、元来人間的な価値などありはしないんです。そうでしょう、だってそれは、神仏風物に捧げられるべきものなんですから」

「それなのに、隠そうなどとするから価値が生まれてしまう、価値が在れば営利が生まれてしまう、いまね、『児童ポルノ』なんて名前を付けて回っている連中こそが、さっきの『奉納相撲』にしてもそうだけど、そういうものをいやらしいもの、わいせつなもの、それゆえに、価値が在って『見たい』と思うものにしてしまう。違いますか?」

「いや、もちろん衆道の文化というのが日本にはあってですね、其れを下敷きに考えれば少年の裸だってわいせつであるかもしれない。かといってね、じゃあ、其れは大人の裸と同列に扱うということでしょう、大人の裸を観たいと思ったらね、幾らでも、それこそ金を出さなくても手に入るわけですし、ここに大きな矛盾があると私は考えるわけだけど」

「隠して隠して隠してきた結果がね、いま歪んだ形で現れてるんだと私は思いますよ。まんまと子供の裸に金銭的な価値を与えて、水着の子供の映像を高い値段で売ったりとかね。親も企業もそれで儲かるもんだから、いま社会全体でやってることは盛大な自己矛盾ですよ。自分たちで『子供を食い物にしてはいけない』なんてことを言っておきながら、当に『子供を食い物にして』儲けるなんていう形になってんだから」

「繰り返しになるが、日本には文化というものがあるんですよ。それをね、無視して、環境浄化のつもりがあるんだかどうなんだか私は知らないが、画一的な態度で臨もうなんてするから間違うんです」

 先生の発言をこうして引用するからには、私もこの説に大いに賛同する者であると言い添えておかなければならない。先生の発言を危険と捉えるむきもあるかもしれない。とはいえ、反論の余地のないものであると私は考える。性伝なる偽僧侶の愚行は断じて糾弾されるべきものだが、其れと「はだか祭」の文化とを直截的に結びつける以前の問題として、現在の子供の裸身の扱われ方がそもそも何故生じたものであるかを、我々は考えなければならない時期に来ているのではないだろうか。

 最後に、本著の文庫化に伴って多大なるご尽力を頂いた、漫論出版の旅度要輔氏、蚊文書房の聊坂宗吉氏に心より感謝する。文庫版での加筆修正に伴い資料提供など惜しみない協力を賜った父久日水太郎先生には感謝してもしきれない。


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