融解未遂

 

 午後二時十五分という今の一瞬を切り取れば、俺は犯罪の要件を一つ満たしていることになりはしないか……、そんな事を考えながら、ボックスシートの向かいの席に座る空都の横顔を眺めていた。旧式の車両の椅子はしばらく座っていると尻が矢鱈と熱くなって、空都は時折ジーンズの尻の下に掌を置いたり、しばらく腰を浮かせたり、落ち着きがない。それでもその視線はずっと緩やかに流れる冬枯れの景色へと向けられていた。俺は淡い犯罪者の自覚を持っていながら、早起きの代償としてこんな時間に訪れる眠気にあくびを噛み殺す。手前から後ろへと刻々移り変わっているはずの景色なのに、微かに意識が飛んで、慌てて目を擦って見た次の瞬間には、見覚えのあるもののように思えたりした。

 ぼんやりと広く平たく開けた景色に、ブロッコリーの頭のように防風林が茂み、程ほどに混雑した幹線道路、……送電線の網、中古車販売店、それから、倉庫代わりにされて朽ちていくバスの遺骸など。

 取り立てて興味を持って観察していなければ、関東平野北辺の車窓に、およそ変化もない。

 音の割れたスピーカーが次の駅の接近を報せ、必要以上の揺れを催しながら四両編成の列車が名も知らぬ駅に停泊する。そうだ、もう一年も経つのだと、ホームに着いた車両のドアを、自力で開けて入ってくる客たちをぼんやり眺めて俺は気付く。

 俺が空都をこうして誘拐するようになってから……。

「お腹空いたな」

 流れない景色には興味がないのか、空都は携帯電話を開きながら言った。「次の乗り換えのとき、何か食べさせてよ」

「ああ……、判った。蕎麦でいいか」

「何でもいい」

 列車が再び走り出す、と、空都は携帯を閉じ、外へと目を向ける。まだにきびの兆しもない白い頬を俺に見せ付けながら、曖昧に明るい曇りの空を少し見上げた。

 俺たちの街を出てからまだ三度目の会話はそうやって途切れた。一度目は朝の駅で、お互い眠そうな顔を指摘し合って、それから飲み物は何がいいか、パンでも食うか、そういう必要最低限の遣り取り。

 二度目は、この列車に乗り換える前に、「塾やめたよ」という素っ気無い声を皮切りに、

「受験は?」

「しない」

「いいのか?」

「いい。私立行くより、みんなと同じとこ行った方がいいし」

 というものだ。

「親は? それで納得したのかよ」

「さあね。でもいいんだ」

 始終不貞腐れたような空都の声はしかしさほど珍しいものでもない。数えてみるとこれで六回、俺は空都を誘拐したことになるのだが、いずれのときも空都は被害者に相応しくない憮然とした表情を崩したことがない。

 この、幾つもの分岐で常に危うくないほうを選んで、大きなループを描いて戻ってくるだけの虚しい日曜日を始めて終わらせるまで、一時的に身柄を俺に預け切るという行為を、空都が面白いと思うはずもないのだ。初乗り区間の切符を買って、延々電車に乗り続ける間、空都はこうしてほとんど黙って流れる車窓を眺めるだけだ。

 ただ空都は俺が誘うまでもなく、俺が出掛けようとするたびに影のようについてくるのだ。

 だらしなく田畑を広げていた窓外に、背の低いアパートがちらほら混ざり出した。踏切が音を引き摺りながら去って行く。がらがらだった車内にはいつの間にか立つ客も出だして、四人掛けのボックスも全て埋まっている。空都は尻が熱くなってももぞもぞと動くのを止めた。

 溜め息を吐くように、列車が終着点に到った。「蕎麦」と空都が口を開き、俺は「うん」と頷く。ホームに貧相な立ち食い蕎麦のスタンドがある。他の客が全て降りてから鷹揚に立ち上がった空都は、吊革を掌で揺らしながら、大股で車内を横切って行く。一年間で五センチ背が伸びても、仕草の所々に子供が覗いた。

「何にする」

 千円札を差し入れようとした俺を制して、「自分で払う」と財布から一万円札を取り出して紙幣口に挿入した。

「隆弘さんの分、払ってもいいけど」

 躊躇いなく天玉蕎麦のボタンを押した空都に首を振って、俺は憮然とたぬき蕎麦の食券を買った。

 並んで蕎麦を啜る俺たちは何と映るだろう。兄弟? それとも親子、……にはまだ見えないで欲しいと願う。「ネギ」と空都が箸で摘み上げるから、「ああ」とだけ応える。空都は俺の丼に次々と輪切りのネギを移して、それから安心したように汁を飛ばして啜り始める。

 兄弟でも親子でもない、言うなれば俺は全く無縁の……、だからそう、誘拐犯だ。空都の家の連絡先だって知っている、すぐ其処の公衆電話から、脅迫の電話を入れることだって可能だ。

 しかし犯人の名前はとっくに割れて居るのだ。「長峰さん」と空都の母親は俺を呼ぶ。空都の母親は、俺を悪意の塊の誘拐犯どころか、善意の若者として捉えているのだ。

 伸び放題の髪と髭、これで空都の手を引いて歩いていれば一先ず不審者の出来上がり。もちろん空都は俺に手を引かせたりはしないのだが。

 俺たちの街からは乗り継いで乗り継いで三時間の距離で、俺はぼんやりと、悪意の中に埋もれる。

 

 「声掛け事例」という訳の判らない複合語を俺は最近知った。子供に声を掛けただけで「不審者」となり身体的特徴を具に公にされてしまう気軽な世の中だ。空都に初めて声を掛けたとき、俺は不審者扱いされていても何ら不思議はなかったのだと思って背筋が寒くなったのをよく覚えている。あれはどこの駅だったろう。こんな風に曇った冬の日の、どこかの駅のホームのベンチで、空都は心細そうな顔で座り込んでいた。

 前提として言っておかなければならない。

 それが見覚えのある顔だからこそ、俺は声を掛けたのだ。

「何、してんの? こんなとこで」

 今より五センチ低い空都は、頬を強張らせて俺を見上げた。寒さで鼻の頭が紅かった。

 空都は、俺が誰だかすぐには判らなかったらしい。口を結んで、睨むような目で俺を見上げていた。

「……上柚木さんとこの子だろ」

 俺の住むアパートは上から見るとアルファベットのLの形をしている。長辺には家族向けの2DKが一階と二階合わせて四部屋、そして短辺には独居者向けの1Kがこちらも四部屋並んでいる。俺の住むのは二階の一号室、上柚木家の部屋は此方も二階の一号室だが、住居表示は同じでも建物の名前が違う。しかし郵便物の誤配は日常茶飯事である。上柚木家に届けられた俺宛の封書を、恐らくそそっかしいところがあるのだろう、空都の母親に届けられて、随分としつこく謝られたことがあった。

「いつも子供がうるさくして申し訳ございません」

 女性は、謝り出すと止まらないタイプなのかもしれない。郵便物の謝罪が一頻り済んだと思ったら、今度はそんなことを言い出した。

「いえ、そんなに……」

 曖昧に答えながらも、時折甲高い怒鳴り声が聴こえてくることは事実だった。父親と折り合いが悪いのか何なのか、夜の九時頃から延々一時間以上も怒鳴り合いが続く事だって珍しくない。

「本当に、口ばっかり達者になって、ご迷惑をおかけしてしまって」

 その少年が「空都」という名前だということは、時折俺宛に届く塾や通信教育の案内書で判然としていた。もっとも、親しく付き合う訳もない。ただ、俺がバイトから帰ってくるのと同時刻に、不景気な顔をして自転車を繋ぐ少年と顔を合わせることは何度かあった。

 そんなとき、ちょいと頭を頷かせるような挨拶をして、それだけだった。

 しかし空都はすぐに俺の姿を思い出したようだ。口が淡く開き、慌てたようにすぐ閉じられた。

 空都はその日も、鞄一つ持っていなかった。今日とは違うジャンパーを着て、マフラーも巻かずに白い息を流して、冷えた両手の指先を太腿に挟んでいた。「何でこんなとこ居るんだよ」と訊いた俺に、三十秒くらいだっただろうか、空都は黙っていた。

「……どっか、行きたくなっただけです」

 つっけんどんな声で、わざと俺から視線を反らして答えた。理由が白い息と同様にふわつく、この場所は俺たちのアパートからは離れすぎていた。

「家、心配してんじゃないの?」

「してません」

 妙に反射神経良く返って来た答えに、俺は内心に薄っすらと苦笑が浮かぶのを感じた。夕べも随分喧嘩をしていたようだ。その歳の少年の接する社会は第一に「家族」である。矯めようとされればされるほど、反抗したい気になったのは俺も同じだった。自転車を飛ばして随分遠くまで走って、やがて草臥れ切って元来た道を辿って帰る。そんなことを、俺も幾度かはした。

「金あるのか? こんな遠くまで来て」

 ホームから少し視線をずらせば、近いところに雪を被った山がある。

 片道だけで千円を超える、いや、子供料金ならばその半額で済むが、その歳の少年にとっては易々と出せる額ではないだろう。

「……こんなとこで、何やってんですか」

 空都は質問に質問で返したが、俺はそれを許した。

「気分転換、……まあ、ちょっと遠出したくて」

「……じゃあ、俺も同じです」

 空都は唇を尖らせて答える。少しでも大人びた表情を装うことで、俺と対等に渡り合おうというのかもしれない。俺は笑わずに、空都の隣に座った。

 彼は小刻みに両足を動かしている。俺も、ベンチから湧き上がってくる冷たさに、一分と持たずに首を竦めて貧乏ゆすりを始めていた。どうしたものか……、声を掛けてしまったのだ、このまま放擲して帰る訳には行かないだろう。もし何かあったら、責任は俺に降り注ぐ。

 途方に暮れて上げた視線の先にあるものを見て、

「蕎麦食わない?」

 俺の口は反射的にそう喋っていた。一瞬、戸惑うような顔をした空都を見て、そのまま俺は空都のポケットに入った財布の中身まで見透かしたような気になる。

「おごってやるよ」

 空都が握り締めていた切符が、初乗り運賃だったことを俺は間もなく知った。財布の中に金はなく、行く当てもなく、ただ百円もしない切符を買って、虚しく寒いだけの彷徨。湯で戻しただけのようなフニャフニャの蕎麦と塩辛い汁は、しっかりと空都の冷えた身体を温め、悴んだ心を解した。

 俺はポケットの中に忍ばせていた切符を見せた。一瞬、空太は驚いたように目を瞠る。「もう金がない。帰ろうぜ、一緒に」

 俺たちの地元の駅を仮に「A」とする。「A」から特定の駅「B」へ至る際の行程は、全て旅客たる俺たちに委ねられている。但し、同一の線路を重複、或いは同一の点で交錯することなく辿るのならば。つまり俺たちの地元の駅から一つ隣の駅まで、まるで無関係なこんな場所まで「寄り道」をしたとしても、交通費は初乗りの百三十円で収まる。

 そういう規則を、空都は知らなかった。あの駅で俺と出会うという幸運な偶然が彼に訪れなければ、そのうち検札に引っ掛かって区間の三倍運賃をふんだくられていたはずだ。事実、空都を連れて乗った上りの車内で車掌は俺たちの見せた切符を見て少々訝るような顔をした。俺の「遠回りです」という言葉で、一応納得したように頷いていたけれど。

「初めてか?」

 四人掛けのボックスの斜向かいに、空都は座っていた。「こうやって、遠回りするのは」

 窓の外を憂鬱そうな目で見詰めたまま、こくりと浅く頷く。

「そうか。俺は時々してるんだ」

 時間を持て余している一方で、金はない。しかし家で蹲っているのはたまらない。俺にとってこの歪に描かれたループの鉄路は、百三十円で叶う贅沢だった。

 いや。

 それだけではない。

 幼稚な話と切って棄てられるつもりで言い添えるならば、列車に揺られた先の俺は何者でもない。俺が何処に住む誰かということも知られて居ない。例えば出先で何らかの罪を犯しても、それが俺の仕業だと知れるまでには少しの時間を要するはずだ。その間に俺は何処まで逃げられるだろう……。

 そんな事を、何処とも知れぬ場所を走る列車に揺られながら俺は思ったりする。空都に話したって一笑に伏されるような妄想である。

 そう、初めて空都と列車に揺られていたときには、俺は「このままこの子供を誘拐したら」と考えていた。空都の帰りが少々遅くなったとして、上柚木家の両親は拙い子供の抗い、前夜の口論の延長戦程度にしか捉えないだろう。それでも夕飯までに帰らなければ、さすがに心配になって携帯電話を鳴らすかもしれない。しかしその携帯電話は雑木林の中で虚しく震動を続けている。傍らには冬枯れの下草に半ば埋もれた、冷たい空都が横たわっている……。

 だがその日俺は、きちんと空都を連れてアパートに戻った。そしてあの通り、空都の母親に矢鱈と恐縮されたのだ。斯様に妄想は妄想のままで終わる限り罪も罰も作り出さないどころか、人から感謝の言葉まで授かるのだという事実が、その日の夜遅くまでほろ苦く俺の舌には纏わり付いていた記憶がある。本当に何処かへ攫ってしまうのも良かったかな、そんなことを考えて、少しの後悔も浮かんだ。

 ただ断っておかなければならないのは、俺は別に何も不満など抱えていないのだと言うことだ。もやもやとした疲労感と倦怠感が在ることは認めるが、それは即犯罪への道筋を明確にするようなものではない。犯罪への仄かな憧れは、子供がヒーローに憧れるような無垢で無邪気な感情だろう。

 連れ帰ってから一月くらい経った日曜日だっただろうか。

「また、出かけるの?」

 アパートの階段を降りたところに、空都が待ち構えていたのは。

「おお……、うん」

 前夜も喧嘩の声は俺の部屋にまで届いていた。

「ふうん……」

 そう言ったきり口を噤んで、空都は俺の後を付いてきた。駅で初乗りの切符を買い、俺の行く先行く先を一緒に辿り、俺が喫煙所で煙草を吸うときには煙たげな顔をしながらポケットに手を突っ込んで側に立ち、……立ち食い蕎麦を食うときだけ、「俺も食べたい」と無愛想な声で強請るのだった。

 薄暗い心の中に隠したものに、鏡の欠片を使ってちらちら光を当てられている……、そんな気になっても仕方がなかったろう。

 土曜の夜に聴こえてくる上柚木家の口論は、そのまま俺の日曜日の予定を定めた。そして三度目からは、もう到底誘拐など出来ないのだと判ってしまう。だって空都が誰と一緒に居るのかを、空都の両親は先刻承知なのだ。

「いつも申し訳ございません」

「ご迷惑になっていませんか」

 謝罪の言葉は俺から密やかな楽しみを完全に奪ってしまった。俺は社会的立場は無いなりに、面倒見良く信頼に足る「長峰さん」と名付けられ、空都を連れている限り自由に妄想の羽を伸ばすことも許されなくなってしまったのだ。

 それでも僅かな抗いとして、俺は薄い妄想を愉しむことで自分を慰める。俺は上柚木空都を誘拐している。例えば次に乗る電車が俺たちの街からぐんと離れるものだったなら、それだけで犯罪の要件を満たすことが出来る……。

 罪を犯すことさえ許されない「誘拐犯」は今日もこうして日曜日を空費する。広々とした非日常の景色に身を置いて、俺たちの街より二度も三度も冷たい空気に身を置いて、反抗期の子供のお守りに精を出す。日常を携行しての遠出にはほとんど意味などないように思われた。俺はもう誘拐を現実化することに情熱を失っていた。

 俺たちの街に帰るにはまだ時間が余っている。脇に逸れるように、それでも逸脱しないように、次の列車に乗り換えた。始発駅では少し混雑していたが、程なくして俺たちは一つのボックスを二人占めして、一つ前の列車と同じように言葉も交さないまま、空都は窓外の景色を眺め、俺はぼんやりと空都の顔を眺めていた。

 少年と両親との口論の理由を訊いたことが在った。

「受験だよ」

 空都は面倒臭そうに答えた、俺の方を見もせずに。

「……俺は、地元の公立に行くって最初から決めてたからなあ」

 訊かれてもいないのに俺は呟いていた。「お前は、勉強得意なのか?」

「全然」

「じゃあ、別に受験なんかしなくたっていいだろうがよ」

 少し馬鹿にしたような微笑を空都は口元に浮かべて、だからこそ両親は受験をさせたいのだと言った。いまならまだ、優秀な人間になるための路線に乗るチャンスは十分にある。微温湯の、大して実績もない公立中学に進むのは、人間として成長する機会を失うことになるのだと。

 そんな親の受け売りを喋って、しばらく黙りこくった後、「俺は、どっちでもいい」とぶっきらぼうに空都は締め括った。

 他人の家庭に口を差し挟む権利は、公立中学から全く誉められたものではない私立の男子校へ進学し、一浪してまで行くほどの価値もないような私大に滑り込んで、結果定職に就けずふらついているような俺には特にないようだったから俺は一度もその件について意見したことはない。もっとも、公立中学に通った者全てが俺のようになるわけではないだろう。空都の前にはこれから幾らだって分岐が現れ、そこで誤らなければ挽回は幾らでも可能だ。

 一年以上に渡る空都と両親の戦いは夕べの口論で一つの終止符が打たれた訳だ。それはきっと寿ぐべきことだ。空都はストレスから一応解放されるのだし、俺もまた妄想を膨らませる機会を取り戻せるのだから。空都ではない、何処の誰とも知らない子供を、何処の誰とも知れない男が攫い、暴行の末殺害し、そのまま何処までも逃げ果せるという、果てない妄想を。

「俺、少し寝るぞ」

 そう断った俺に顔を向けないまま、空都は「うん」とだけ答えた。

 

 前夜の激しい口論が終わったのは、日付が変わる頃だったろうか。俺はその頃、底冷えのする部屋で膝に毛布を掛けて酒を呑んでいた。つまみは柿の種だけ、散らかった貧しい部屋で独り酒、空都の両親はひょっとしたら、空都の怠惰の結論として俺を引き合いに出したりしているかもしれない。もしそうだったとして、文句も何も言えないが。

 喋らせたままでいたテレビの声が不意に明瞭になった気がした。ほとんど俺は転寝をしていたように記憶している。箱からの空虚な笑いが急に大きく聴こえたぐらいだから、昨晩の口論は相当にエスカレートしていたのだろうと想像する。

 ああ、終わったのか。自動的に俺の明日の予定は定められ、そろそろ切り上げようかと敷きっぱなしの布団に潜り込んで眠りに堕ちた。想定していた通り、今朝の十時に身支度を整えて玄関を空けたら、いつものように憂鬱そうな顔で空都が立っていた。「行くか」の一言もなく俺が歩くのに付き従って付いて来て、虚しい誘拐犯の妄想を始める……。

 一口に「誘拐」と言っても、俺が脳内で転がしているのは身代金目当ての行為ではない。もちろん金は欲しいが、それより俺が価値を感じるのは、この俺が悪事を働いたという事実だ。

 子供を、惨殺する。やり方は、……惨殺というくらいだから、絞殺ではつまらないだろう。五体をバラバラにしても手緩いか。関節ごとに寸刻みにして、人体が幾つのパーツで構成されているのかを調べるのもいい。殺すのが男児ならばその陰茎を、縦に裂くか輪切りにするかの選択を求められる。女児ならば死姦するのもいい。いっそ男児女児一人ずつ一緒に殺して、先に女児を殺して男児に犯させるのも一興である。

 その一瞬の愉しみの後に何をするかということは全く考えていない。殺した幼子自身のようにただ逃げることしか思い浮かばない。突き詰めて考える必要がある、しかし、妄想に改善の余地があるというのは愉しい。

 空都をどう殺すか。

 まだ子供であると言っても、背は低いほうではない。手足は細いが、それなりに力があるようにも思える。全力で抗われたらどうするかと考えるよりも、先にどこか致命的でないところを一刺ししてしまうのが手っ取り早いと思われる。背中から脇腹、というのが一番簡単だろう。自由を奪ってからなら、何だって出来る。

 何故、そういうことを考えるのか。

 惚けたことを訊くものだ。誰の中にも悪魔はいる。其れを意識して、檻の外から喚いているのを俺は見て居るのだ。

 ままならぬものなど何一つない。少なくともこの俺の頭の中では。

 それでも子供、つまりは弱者を妄想の対象にする時点で情けなさは禁じえない。こんな人間が現実世界で強さなど手に出来るはずもない。だから俺は何者でもなく、もちろん子供を惨殺するだけの度胸も無いのだった。

 

 いつの間にか列車が停まっている。薄く開けた目を擦って窓外を見ると、すっかり暮れ落ちていて、既に常夜灯で照らし出された砂利のホームを、寒そうに首を竦めた数人の客が急ぎ足に改札を抜けていくのが見えた。

 本当ならば一時間も前に通り過ぎたはずの駅で、上り列車に乗り換えなければいけなかったのだ。見事なまでに眠り呆けて乗り過ごしてしまったらしい。厄介なことになった、乗り越し料金を取られるかもしれない。

 窓框に肘を付いた空都が、じっと俺の顔を眺めていた。

「終点だって」

 無表情のまま、彼はそう言う。「起こしたんだけど、揺すっても起きなかったから」

「起きなかったからって、お前……」

 慌てて携帯電話を取り出して見れば、もう四時半を回っている。帰りの列車がすぐに出てくれるとして、……アパートに帰り着くのは八時を回ってしまうか。

「家に電話しろ」

「どうして?」

「どうしてって……、帰り遅くなるからに決まってるだろ」

 面倒臭げに、携帯電話を取り出して耳に当てる。十秒、二十秒経って、「出ないね」と携帯電話を折り畳んだ。「出かけてるんだろうと思うよ」

 空都はひょいと立ち上がって、吊革に掴まって大きくあくびをした。

「折り返しは一時間後だってさ。……降りない?」

 何千円もの乗り越し料金を俺に払えと言うのか。しかし乗務員室の扉を開けた車掌の「降りてくださーい」という声に促される形で、結局俺たちは暖房の効き過ぎた車内からきぃんと冷えたホームに追い出された。

 ポケットに手を突っ込んで、空都は大股でホームを横切ってゆく。片面だけのホームにささやかな駅舎が添えられているばかりで、待合室にはストーブが焚かれていて折り返し電車の改札を待つ客たちがまばらに座っている。何処だ、此処は。

「切符」

 改札口で、空都が振り返った。

 仕方がない、ポケットから切符を取り出して駅員に差し出すと、しばらく怪訝そうな顔をして俺たちの顔を見比べたが、やがて機械を操作して、「二人で、四千二百円」……浅ましくみっともなくっても、事情を一から説明してどうにかしてもらえないかと思うような額である。

 思わず眩暈を催す俺を横目に、空都が財布から一万円札を取り出して、釣銭を受け取る。

 唖然とする俺に、

「いつも、蕎麦おごってもらってるから」

 平然と言い放って「電車出るまで散歩しようよ」勝手に駅の外を歩いていく。

 郊外の鉄道駅が街外れに設置されるのは珍しいことではない。この終着駅もご多分に漏れずで、駅舎の外にはコンビニもない。白い息を流しながら空都の後ろについてなだらかな上り坂を辿ると、すぐに線路は途絶え、左手は山林、右手には渓流が冷たく流れ、荒々しい輪郭の岩を洗っている。車とも擦れ違わないし、もちろん人も居ない。一日空を覆っていた雲は青黒く、数十メートルおきの常夜灯が無ければ何処をどう歩いているのかも危うい。

 空都は黙々と、振り返りもせず歩いて行く。

 上り坂の勾配は、運動不足の身体にかなりの負担となる。うねうねと曲がる山道を登りながら、徐々に俺は狐に化かされているような空寒く妙な心持になってきた。目の前を歩く空都の背中は細長い見慣れたものなのだが、俺が眠っている間に何か別の物に入れ替わってしまったのかという考えが過ぎる。馬鹿らしいと一蹴するには山の冷気がおぞましく感じられた。

「おい、そろそろ戻るぞ」

 俺は自分の思考と疲労感に倦んだ。「空都」

「うるさいな」

 俺の耳に届いたのは、いつもの意志力と張りに欠如した声ではなかった。

「黙って付いて来いよ」

 倣岸な言い様に鼻白む隙も無かった。

 向けられたのは空都の語気と同じくらい鋭い、銀色のカッターナイフの刃だった。何処にそんなものを仕舞っていたのか、太い切先を俺の顔に突きつけて、刃と同じ色の顔で俺を見上げて睨みつける。「いいか、黙って付いて来い」

 空都の指に僅かな力が篭もるだけで、ちきり、カッターの刃先が俺の鼻に近付く。

「逃げたって無駄だからな」

 凍ったように表情の感じられない声で空都は言う。

「誰もあんたの言うことなんか信じない」

 ……そうだろう、と俺は冷静さを掻き集めてそう結論付けた。

 大人と子供だ、逃げれば追いつかれることはないだろう。しかし俺と空都が親子でも兄弟でもないことが知れたとき、不審がられるのは俺のほうだ。俺が被害を訴えた所で、じゃあどうして俺たちはこんな田舎の駅までやって来て居るのだ。後から空都が「あの人が急に襲ってきた」とでも言えば其方が事実になってしまうことは想像に難くない。

「……そっち行け」

 空都は道路の山側、急斜面の雑木林を顎でしゃくった。俺は抵抗しないと、両手を上げることで訴えながら従う。日陰の其処此処に残雪が凍っていて、スニーカーの底から冷たさがこみ上げて来る。

「どうしたよ、……急に」

 努めて冷静な声で俺は空都に問うた。空都はそれには答えず、

「夕べ、親を、殺した」

 と静かに呟いた。

 訊き返しても、空都はもう答えなかった。「もっと上だよ、進め」変声期に間遠い声を精一杯に低くしてそう命じるばかりだ。

 俺はゆっくりと空都の言葉の一つひとつ反芻していた。カッターナイフを持っているとはいえ、相手は子供だ、……所詮は子供だ、そう自分に言い聞かせることで冷静さを、自分の指に息を吐きかけるように理性を保っていた。

 親を、殺した。

 一つひとつを俺は精査する。

 財布から躊躇い無く空都の出した一万円札。一枚ではない、二枚だ。蕎麦を買うときと、切符の精算をするとき。何処からそんな金が出てきたのかということを考えていくと、およそ納得の行く説明はしがたい。だって先月は駅に着くなり「お金がない」と空都は言った。蕎麦代だってこれまで一度だって自分で払っては来なかった。

 空都の先程の電話。俺の目には、少年の携帯電話のディスプレイを見るとも無く覗き見ていた。電話帳で「家」を選択して表示された市外局番とそれに続く三桁は、間違いなく俺たちの住む街のものだっただろう。十秒鳴らしても二十秒鳴らしても出なかった。空都は其れを、予め知っていたのではないか。

 昨夜の口論。……普段以上の白熱、怒鳴り散らすような声も聴こえた、何か、大きな音がしていたような気もする。皿が割れるような音さえもしなかったか。酔っ払っていたから、記憶は曖昧だけれど。

 空都の言葉が事実である可能性を示唆する物件が、俺の手の中には幾つもあるのだった。

「いいよ、停まれ」

 俺は手を下ろして振り返った。頭一つ以上低い空都は白い顔でカッターナイフを向けたまま、恐らく同じように真っ白の俺の顔を睨みつけていた。

「財布」

「……財布?」

「財布。出せよ」

 俺は二つの想像を同時にしていた。一つは、空都の両親の死体があの部屋の……、つまり、俺の住む1Kなんかよりも余ッ程広い居間か台所かに折り重なるようにして転がっている様子だ。もうすっかり乾いた血液が黒い血だまりが二つの骸の下に広がっている。殺害に使用したのは何だろう、……そのカッターナイフではあるまい、恐らく台所に在った包丁か、いや、案外鈍器だったのかもしれないが。

 もう一つは、俺の死体がこの山中に転がっていたとして、見付かるのは恐らく相当先であろうということだ。随分と朽ち果てるまで誰にも見付けてもらえないかもしれない。バイトは二日も続けて休めば有無を言わさずクビになるだろうし、そうなれば俺に連絡を取ろうとする人間だって居なくなる。運がよければゴールデンウィーク前ぐらいには、実家の両親から幾度か連絡があって、やがて捜索願が出されるかもしれないが、それにしたってずっとずっと、後のことだ。

 いや、もっと直近の心配をした方がいいのかもしれない。細い刃のカッターナイフを、例えば腹部に突き立てられたとしよう。運悪く臓器を著しく損傷するような羽目になったとしよう。しかし死ぬまでには長い時間を要するように思われる。激痛に顔を歪めながら、恐らく俺はそれでも浅ましく来た道を辿って生き延びようとするだろう。それが叶うかどうかは判らないが。

「こんなことして、どうする」

 ポケットから財布を引っ張り出して、足元の枯れ葉の上に放った。

「言っとくけど、碌に入ってないぞ。クレジットカードも持ってない。キャッシュカードの中もほとんど空だ。……給料日前だからな。嘘だと思うなら実際に覗いてみるといい、暗証番号は『2974』だ」

 疑うように、じっと空都は俺の目を睨んでいたが、やがてカッターナイフを下ろして左手で其れを拾い上げようと視線を下ろした。

 俺の右足の爪先は、カッターナイフを持つ空都の右手首を薙ぎ払っていた。短い苦痛の声を上げた空都の手から、物騒な刃の光が飛んで、二メートルほど離れた所で枯葉に埋もれる。俺は立ち上がろうとした空都の襟首を掴んで、そのまま斜面に押し付けていた。激しい抵抗が在ったのは一瞬で、割れた枯れ葉に左頬を押し当てたまま空都はぴたりと動かなくなった。

「おい……、親殺したってのは本当か」

 その身体は綿のように手応えがない。体重を掛けたら何処かの関節が鳴った。なるほど、本気でこの少年を殺そうと思ったとしても、刃物を用意する必要はないのだと俺は学ぶ。

「答えろよ」

「……あんたには、関係ないだろ」

 空都は細く、それでもまだ芯のある声で呟いた。

「大有りだよ」

「どうして?」

 空都はまだ滑らかな線で描かれる喉から、ヒヒッと苦しげな笑い声を立てる。「ウチの親とあんたと、何か関係があるわけ?」

「そうじゃねえよ……」

 サラサラの黒髪を掴んで、ぐいと引き上げた。

「お前が親を殺したんなら、俺に理由が出来るっていうだけのことだ」

 空都の顔が痛みに歪んでいることは、後ろ斜め四十度から見ても明らかだった。俺は力を揺るないままで、「お前がもしお前の親を殺したんだったら、俺がお前を殺すだけの理由がある」とその耳に差し込んだ。

「何でだよ。馬鹿みたい、訳が判らない」

「お前、さっき、誰も俺の言うこと信じないって言ってたな」

「言ったよ。あんたが……、俺に、脅されたなんて、言ったって、みんな俺の言うことのほうを、信じる」

「でも、お前が喋れなかったら関係ねえよな、そんなの」

 初めて空都が言葉に詰まった。「あの部屋に、本当にお前の親父とお袋が死んで転がってんなら、……それを此処で、俺はお前に告白された。善意の一般市民だからな、俺は、……自首を勧めるんだ。だけどお前は首を縦に振らなかった、それどころかカッターで俺を殺そうとした、揉み合いになった結果、俺は誤って、……そう、過失で、たまたま、お前を殺してしまった。すいません、申し訳ありません、……知ってるか? 『過剰防衛』って言うんだ。けどな、殺人に比べりゃたいした罪にはならない。情状酌量されるからな」

 檻の中の悪魔に餌をやるような気で、俺は喋っていた。空都は黙りこくって、髪を引き背中を圧する俺の思考を、必死に探っているようだ。

 俺も俺で、空都の内心を読もうと胸を背中に当てて、その弾んだ鼓動を数えている。本当に殺したのか。お前は、本当に殺したのか、お前は。

 一万円札にしろ、塾の件にしろ、昨晩の口論にしろ、電話にしろ、空都が殺人を犯したという事実を導き出すには寸足らずである。……しかしそう考えると疑問が浮上する。どうして空都は俺を襲った、カッターを突きつけた、財布を要求した。

 いや、仮に殺人を犯していたとしたって、空都のしたことは支離滅裂だ。俺が空都に殺されたとして、二つの殺人が空都の中で繋がるとは到底思えない。意図も理由も重なる所がない。

 空都が俺を読み取れないのと同じように、俺も空都を読み取れない。

 はっきりしているのは、空都が仮に殺人を犯していたとしても、俺がこの少年を殺すメリットはないということだ。この口で紡いだ通り、「過剰防衛」の末に殺したという名目は立つだろう、しかしそれすらも俺には何のメリットにはならない。俺がしたいのは、例えば空都を殺すのなら、そうだな、さっき俺を睨んだ、ぎらつく眼球を刳り出すところから始めたい、どうせなら左眼は何か匙のようなものを用いるとして、右眼は鉄釘か何かで潰して掻き混ぜるくらいのことをしてみたい。陰茎を縦に裂くか輪切りにするかという選択もある、あとは死姦だ。

 ざっくりと言ってしまえば、それぐらいのことをする自分という妄想を旅の間の俺はずっとしていた。

 その機会を与えられたと思った途端に逃してしまうことだって、俺は判っていたのだ。男性器を割くとか輪切りとか、馬鹿かそんなの、出来る訳ないじゃないかそんな空恐ろしいこと……。

 それでも、考えるのは愉しい。実現が不可能であればこそ、無責任に妄想は翼を広げ羽ばたきこの心を脳を自由に飛び回るのだ。

 ただその愉楽は、多分十二歳ぐらいの少年がするようなものだろう。

「嘘だな?」

 掴んでいた髪を離して、確信を持って訊いた。

「親を殺したって言うのは、嘘だな?」

 痛みに顔を顰めたまま、しばらく空都は身動き一つ取らないでいた。俺が体重を緩めても彼はまだ動かず、俺がその背中を完全に解放してからやっと、ほんの僅かに、悔しげに、頷いた。俺は枯れ葉の中からカッターナイフを拾い上げて、斜面へ不法投棄した。

「金が欲しかったわけじゃないよな、多分……」

 ぐったりと疲れ切って、杉の木に背中を預け、ズルズルとしゃがみ込む。「大体、お前知ってるだろうからな、俺が金なんて碌に持ってないことぐらいは」

 空都はまだ横たわったまま「殺してやりたいのは本当だ」と、案外に威勢のいい声を上げる。頬にじっとりと、恐らくは冷たい汗が伝っていた。

「あんな奴ら、死ねばいいんだ」

 昨夜、空都が両親とどんな話をしたのかは知らない。知らないけれど、恐らく俺も空都ぐらいの頃かもう少し後にか、そういう話ばかりしていた時期が在ったことをよく覚えている。空都と同じ事を、俺も、何度思ったか知れない。目の前にいるこいつらは俺の人生を歪める最悪の障壁だと信じて疑わなかった。

「じゃあ、どうして殺さなかった?」

 ようやく身を起こし、顔の泥を掌で拭いながら、「意味がないからだ」と空都は顔を歪めて吐き棄てる。「あいつら殺したって、……捕まるんじゃ意味がない、……そう思ったからだよ」

「人を殺すのに、お前はわざわざ意味なんて探すんだな」

「当たり前じゃないか、そんなの……」

 既に林の中は真ッ暗闇だ。風は黙りこくり、空都の息遣いだけが届いていた俺の耳に、遠くのほうで何か重たい物が規則正しい音を立てて動いてゆく。それがあの駅からの折り返しの列車だということに気付いた。

「……次は九時過ぎ。新幹線使ったってもう今日中には帰れないよ」

 空都は草臥れたように溜め息と共に吐き出した。「俺は別にいいんだけど」

「……何?」

「残念だけど、生きてるからね、両親。だから、帰りたくない」

 自嘲する様に笑って、空都は掌で顔を覆う。くつくつと、笑みがその首から足先まで詰まっているように、全身を震わせて少年は静かに笑っていた。

「帰りたくなかったんだ。でも、帰らないと大騒ぎになるだろ? だったら、どこかで、帰れなくなったってことにすればいいんだ。あんたが一緒なら、親は何とも言わないだろうさ。さっきの電車の中であんたが居眠りしたとき、ずっと俺は祈ってた、終点まで起きるなって」

 じっと見詰める俺の視線の先、指の隙間から黒い瞳を覗かせて空都は言った。

「ずっとね、……ずっと、俺、考えてたんだよ。あんたと電車乗ってる間中ずっと、……親、うざいな、殺したいな。いっそ、殺したことにしちゃおうかって。あんたを脅して、金出さして、そのまんまどっか遠くに逃げること、考えてた。愉しかったよ。でも、実際にやってみたら難しかった。……俺に油断もあったんだろうけど、あんた、強かった」

 空都はまた一頻り、泣くような声を立てて笑った。木立の中を這い回る笑い声は俺の腹の底に収まって、聞き覚えのある声と同化する。檻の中の、頭の悪い悪魔が空都を真似て笑って居るのだ、まるで赤子のように。

「財布の金は、あれ、何だ」

「親の財布から盗んだ」

 こともなげに言ってから、空都は溜め息混じりに白状する。「貯金だよ、今年のお年玉。使い道が無くってずっと引き出しに入れっぱなしだった。馬鹿馬鹿しくなったから、馬鹿馬鹿しいことに使おうと思った」

 掌を退かした空都は、今度こそ本当に苦い笑みを浮かべた。

「ああ、馬鹿馬鹿しいな」

 つられて、俺も同じように苦い笑みを浮かべた。

「本当に馬鹿馬鹿しい……」

 空都は俺を殺せない、俺も空都を殺せない。俺たちは誰も殺せないまま、檻の中に閉じ込めた悪魔を鉄格子の外側から眺めるばかりだ。「どうしたら、誰かを殺せると思う?」

 俺は空都に訊いていた。空都はしばらく考えて、「何にも無くなったら殺せるんじゃない?」と首を傾げながら答える。

「何も無くなったら?」

「うん。何ていうんだろう、枠が」

「枠?」

「俺は、家とか学校とか、そういう枠があって、やりたいこと出来ないし、あんたもそうだろ? そういうのが全部無くなったら、何だって出来るようになるんだから、誰かを殺すことだって出来るようになるかもしれない」

 では、その枠はどうやって外せばいいのか。これは訊かなかった。檻を開ける鍵を持っていないのは、空都も俺も一緒だった。

 身体中に付いた土や枯れ葉を叩き落としながら、「ごめんなさい」と空都は驚くほど素直に謝る。一頻り我が侭を言い切って、飽きたのだろう。

「さっきのだけでも、本当は捕まるぐらいのことだよね」

「ああ、いや」

 刃物を突きつけて恐喝、未遂。

「痛いところないか。ちょっと、本気でやりすぎた」

「本当だよ。死ぬかと思った」

 傷害……、殺人未遂? 「でも、大丈夫」

 断片で切り取らなければ、罪にもならない。空都は俺を見上げて、ふ、と笑った。笑うと綺麗に、両の頬に笑窪が出来る事を俺は初めて知った。

「どうする? 帰れないけど」

 ポケットから取り出した携帯電話には「圏外」の文字。想像出来なかったわけでもないのに、俺は「あ」と思わず声を上げた。車内からの電話も、圏外だったのではないか……。

「しょうがない、駅に戻って電車待つぞ。少し戻ればどっかに泊まるとこぐらいあるだろ」

「温泉入りたい」

「贅沢言うな」

「俺、金持ってるよ。せっかく遠くまで来たんだ、温泉入ろうよ」

 殺人者は此処に二人居る、という演技さえ凡人には難しい。俺と空都は斜面を転びそうになりながら降りるとき、互いに手を貸し合った。アスファルトの道に降りたときには、身体が冷え切っていることに気付く。夢から醒めたような心持になる。

 悪い夢だったのかどうか、俺たちには判然としない。薄目を開けて覚醒したのに、寝返りを打って頭から布団を引ッ被って、もう一度夢を取り戻したいような、そんな甘美な朝の事を俺は考えていたかもしれない。

「あんたも、人を殺そうと思ったこと、あるの?」

 並んでポケットに手を突っ込んで歩く空都が不意にそんなことを訊いてきた。

「言っただろう、お前を殺そうと思ってたって。でもつまらんからやめた」

「つまらない? どうして?」

「殺すだけじゃ物足りない。どうせならもっと色々したい。お前の死体をバラバラに切り刻んだり、そうだな、例えば」

 俺は例の、縦に裂くか輪切りにするかの話をした。「うえ」と空都は顔を顰めて「何それ、気持ち悪い」と唾を吐く。

「あとは、死姦とかな」

「シカン?」

「死体を犯すことだ。死んだら男も女もない」

「死んだら硬くなるよ。きっと全然気持ちよくない」

「そうかも知れないな。だったらケツの穴とキンタマの間を裂いて穴開けて其処に突ッ込むか」

 女の裸見たことは? そう訊いたら、何度か、とぼかして答えた。その様子では女性器の形状もまだ知らないのだろう。

「超悪趣味だね」

 こういう想像は悪趣味であればあるほどいいのだと俺が教えてやったら、

「そういうものか」

 と何だか納得したように呟いた。

「じゃあ、俺はあんたを殺したら、体中の穴、……口だろ、それから鼻、耳、あとは、尻の穴、に鉛筆が何本入るか試してみることにするよ。死後硬直が始まる前にね。いや、あんたをどうにかして動けなくして、それからあんたが何本目で死ぬか試すのも面白いかもしれないよな」

「『どうにかして』じゃ駄目だ。もっと具体的に考えろ。俺は抵抗する、さっきみたいにな。仕損じたら今度はお前がチンコをソーセージみたいに輪切りにされるんだぞ?」

「ああ、そうか。判った、上手い方法を考えておくことにする」

 ゆっくりゆっくり、俺たちはそんなことを喋りながら歩いて、ようやく駅に帰り着いた。他の人間が居る所では口に出せない。凄まじい勢いで十円玉が落ちてゆく公衆電話、事情と謝罪の言葉を並べて喋った俺はいつものように却って恐縮されて、一晩空都を預かることを社会に認証される。

 身体は冷え切っているのに、俺たちはストーブの焚かれた待合室には入らなかった。スタンドの灰皿で煙草を吸うときに、「いるか?」と訊いたら、挑むような目で俺の指から奪い取り、一息吸って吐き出した。咳き込むことも無ければ噎せることもなかった。ただ、「まずい」と顔を顰めて俺に煙草を返す。

「また吸いたくなったら吸わせてやる」

「当分はいいや」

 山が唸る。その度に首を竦めたくなるような風が駅前のささやかなバス乗り場まで吹き降ろしてきて、俺たちは首を竦めた。空都はちゃっかりと俺を風除けにしている。もう一本に火を点けながら、寒いなら中に入ってろと言ったのに、空都は首を振った。

「これで風邪ひいて死んだらあんたのせいだね」

「馬鹿なガキが勝手に風邪ひいたのを俺のせいにされても困るな」

 しかし、風は頬を切るように冷たい。家を出るときにはそれほど寒くなかったし、基本的には電車の車内にしか居るつもりは無かったのだ。俺は一応マフラーをしていたが、空都の剥き出しの、さっき俺が折ろうと考えた細い首はいかにも寒そうに見えた。

「何か飲み物買って来る。缶コーヒー飲めるか」

 九百八十円のマフラーを解いて、その肩にかけたらもう振り返らない。二本を買って戻ったら、空都はその身には長いマフラーを、少し嫌そうに巻いて、缶をマフラーで包むように持った。

「なあ」

 湯気で、少し人に戻る。一度二度の呼吸で、白く流れるのは自分の吐息だけになる。

「怖かったか?」

 空都はしゅる、と一口コーヒーを飲んで、黙っている。

「俺は、割と怖かったぞ、お前が。あれだな、……自分の中に在るもんより、人の中に在るもんのほうが怖いんだな」

 俺が其処まで言うと、空都はぽつりと「怖かった」と呟く。

 多分、其れは俺を満足させる言葉だった。空都も、ほんの小さく微笑む。僅かな微笑でもその頬にはやっぱり、笑窪が出来るのだ。

「旅館にさ」

「旅館って決めたわけじゃないぞ、予約なきゃ泊まれないかもしれないし、小汚いビジネスホテルを覚悟しておいた方がいい」

「まあ……、どっちでもいいよ。泊まるとこに、洗濯機ってあるかな」

「多分な。ビジネスホテルだったらまあ、確実にある」

 そう、とだけ空都は言った。

「小便でもちびったか」

 空都は頷かなかった。俺はコーヒーの最後の一口を飲み干して、「悪かったな」とだけ謝る。答えはなく、空都は固まっている。保護者の意識がいまの俺には在って、殺人者と相合傘をしている事実に一抹の疑問すら抱かない。何十分も、俺たちは凍えながら喫煙所に居た。改札の時間が近付いて来る、素寒貧とした駅前に、それでも赤バスがやって来て、車内からは数人の乗客が降りてきた。俺たちを見て、彼らが何と思うのだろうかと俺は想像した。

「怪しまれてるね」

 久しぶりに口を開いた空都が、クク、と喉の奥で笑いを潰した。

「……誘拐犯って思われるかな」

 俺が訊いたら、

「どうして誘拐犯がこんなところでのんびり煙草なんか吸ってんだよ」

 空都はそう言って、また俺に笑窪を見せた。


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