優しい歌。

 それが仮令夢であっても、ヴィンセントに会えないなら、俺は目を開ける。枕元の時計を見ると、まだ二時半で、もうあと五時間。それでも、あのまま五時間、恋人に会えなかったらきっと辛い朝になる。だから、そっと隣で眠る恋人を伺う俺の目は必死だった。

 そして、目は合った。

「どうしたの?」

 まるで、ずっと起きていたみたいに、目は適確に俺を捉えた。思っても見なかった視線の交絡に、俺は言葉を見失い、阿呆みたいに一つ、口をぱくりと動かした。言葉になったのは、「喋ろう」、訳の判らない要求。恋人は真摯に受け止めてしまう。仰向けだった体、肘を突いて、此方を向いて、

「いいよ、おしゃべりしよう。どんな話をしようか」

 全てが大好きだ、恋人の全てが。それは、俺が好きだからという理由で、幾らだって高められる一つひとつはバラバラの要素が、ただ俺が好きだからという理由で、最終的には他の全てを凌駕して、愛しているのにもっと愛したい、恋人同士なのにもっともっと恋したい、そんな無限の欲を生み出し、俺を幸せにしていく。

 声だって、すごく、優しい。低くも無く、高くも無く、太くも無く、細くも無く、誰の声とも違う。俺の耳には最高にすんなり入る波長振幅。あくまで俺にとっての理想、世界は違う、しかし、俺にとっては理想。

 そんなヴィンセント、話をするだけで、幸福を俺にどんどん、差し込んでくるのだ。もう短からぬ時を共に過ごしたのに、未だに、話を出来るだけで大感動、そして潤む目、赤くなる顔。震える心。

「アクセサリを揃えるのは簡単なんだ。そして、アクセサリを揃えれば、格好良くもなるんだ」

 俺はなんだか眠る気をなくして、ベッドの上に座った。ヴィンセントも同じように、座った。寒くならないように風邪をひかないように、肩に足に布団をかけて、容易ではない話に耳を傾けるほどに俺は、覚醒していく。

「求められているのが平面だから。平面、平易と言ってもいい。素直さは悪く言ってしまえば愚かさであり、端的に言えば馬鹿。例えばね、僕はアクセサリを揃えて君を絶世の美男子にしてあげられる。外に出したら一目見て君のことを好きなる人が出るくらいに」

 時折、考えるための時間が挿まれる、だがそれは長くて数秒だ、殆ど呼吸の隙間だ。頭の回転の速さを裏付ける、無駄の無い喋り方は、しかし易しい言葉を選び、俺のような頭の悪い人間の喉をするりと下っていく。ぴりりと舌に乗る苦さが、かえって魅力だった。膝を抱えて俺は、静かに言葉を繋いでいく恋人の顔を見るそれだけで、たくさんの幸せに囲まれたこの日々を思える。明日も仕事があるのに、俺のどうしようもないワガママに付き合って、話をしてくれる。

「与えられたアクセサリで満足出来る構造はどうだろうね。恐らく似たような物は溢れ返っている。格好良いものがどういうものか、教科書通りに組んでいけば、骨格がどうあれある程度のものは出来てしまう訳だからね」

 歌を唄わせたって、上手だ。そんなことないよと笑うけれど、一緒に風呂に入ったときに、時折一緒に歌を唄って、俺はすぐに唄うのを止めて、ヴィンセントの唄うのを、聞いてしまう。同じ歌でこんなに違うものか。俺たちの好きな、優しい、優しい、優しい歌を、本当に深いところからの優しさで以って唄い、それが例えば、隣近所、前の道を通る誰かに聞かれても構わない、しかし勿体無い、そんな歌声。楽器をやっていたからか、それとも声がいいのか、唄い方を知っているのか、多分、どれもが正解で、ヴィンセントの舌に乗ると言葉は確かに力を持った。

「多数決で決めれば、なるほど、『格好良いもの』は溢れかえっていていいのかもしれない。けれど、それは思考停止の賜物だ。本質的な価値を見出すことを放棄して、用意されたもののアクセサリ見て、満足しちゃってるだけだからね」

 ヴィンセントの考え方はたった一つ、確固たるものだ。描かれた言葉は大いに力を持つ、しかしそこに付帯する記号を全て取り払ったときに残るものに意味があるのであって、無駄な肉を殺ぎ落とす過程をサボタージュしてはその目は塞がれているも同じ事だ。

 俺が自分を失った時にも、ヴィンセントは俺の本質を見抜いていた。俺はヴィンセントに嘘がつけない。それは安心感に繋がっている、嘘をつかなくてもいい清々しさよ。

「僕は思う。人間は『物語』から脱するべきだと思う。……『物語』って楽なんだよ、歴史にしろ、政治にしろ、世の中に起こること全部、主観の入ったお話で説明出来る気になるし、実際そうやって語られたお話が罷り通って新聞にも教科書にも載ってる訳だから。でもさっきも言った通り、アクセサリを外して語られる事が無いのは、それだけ不純物の混じっている証拠だ。本質が何処にあるかは、誰かに材料見せてもらって判ることじゃない、自分で手を伸ばして掴むものだ。そして、……正解なんて何処にも無い」

 俺は、はっきりと頷いた。穏やかに微笑んだヴィンセントは、小さな声で俺に「ありがとう」と言った。「ありがとう」を言うのは俺のほうだと思ったけれど、いい。誰かに「ありがとう」を言う喜びを、俺に言葉を話すことで味わってくれたのなら、俺は本当にありがたいから。

「……俺たちにはさ、目が二つある。遠近感をとるためだよな、立体的にものを捉えるためだよな」

「そうだね」

「とすると、世間の奴らはみんな、視力検査してるみたいなものだろうかな」

「ああ、そうだろうね。どこまで小さいのが見えるか、それでいいんだろう」

 一つの結論、と言うには、いつでも判っていることだが、俺は恋人が話すのを聞いて、自分の欲求が確かに満たされたのを思う。

「キスしてもいいか」

「して下さるのでしたら」

 ちょっとおどけて言ったから、俺も恭しく、その頬に手を当てて、唇を重ねた。ただ、果たしてそれが恭しいやり方かどうかは判らない。

 そのまま腕を首に回して、満足げに微笑んだら、俺はもう七時まで目を醒まさなくて大丈夫。

「あんたの声、聞けて、よかったなあ」

 抱き合ったまま横たわる俺たちは、各種の理由によって、好まぬアクセサリを着けられ、その為あまり、美しくない、格好よくない。視覚的にも、ヴィンセントは美しいが俺はさほどでもなく、目頭に目脂が付いている可能性も否定できないから、外見は望み薄だ。

「そう?僕も君とおしゃべりが出来てよかった」

 だが、俺の気持ちは満ち足りており、ヴィンセントの鼓動もゆっくりで、これから夢への穏やかなカーヴを、言葉少なに寄り添いあう、ここには金気臭いものは何も無く、人間の匂い。叫ぶ必要も無ければ、顔を顰める必要も、涙を流す必要も無い。穏やかに、優しい眠りへと、時間を大切に使い、この今を最大限に尊重すればいい。

 ゆらり、ゆらり、ゆらりと。


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