わしも知らない。

自転車の「トンボ」、分かるだろうか、後輪の車軸のナットが飛び出しているあの部分、あそこに足を乗せられる程度の金属棒、あれのことだ、あれに両足を乗せて、運転手の肩をつかんで、風に彼の髪に俺の鼻をくすぐらせるための、二人で自転車に乗って近所を散歩するための。交通違反をしながら、鼻歌を唄う、寒いね寒いねって、言わなくても解ってる、海沿いだけど雪は降らないけど、北風がぴゅうぴゅう寒い、むき出しでハンドルを握る手が、少し赤くなっている、交通違反の罰だと思う。自転車の「トンボ」、交通違反をするためだけにあるような気がするのに、何でそんなのが手に入ってしまうんだろう、もっとも法律自身に守られる積もりがないのだ、ただそこにいるだけあるだけ、ばらんみたいな、パセリみたいな、「トンボ」、きっと第一義は、こんな風なために、大の男が、すこし空気の抜けたタイヤを噛み潰すように、二人乗りをするために。

猫が踏まれた時のような音、ぎぎいいぎぎぎぎいっぎぎ、ぎいゃあ、って音を立てて、坂道を抑速ブレーキ効かせながら、そろそろ、緊張しながら下っていく、もしくは、フリスクの香りのする息を白く、はっはっ、はっはっ、規則正しく、流しながら立ちこぎをして、のしのし、誇りにかけて上っていく、坂道、横から来る風が、耳にばあばあ聞こえる二人乗りを、見とがめられたとき、彼がどんなふうに、おまわりさんを誤魔化すのだろう、そんな想像をする、さんざ屁理屈こねてさきっと……、つかまらなくっていっしょに、ずっといられたらそれでいい、坂を上り切って、振り返ると、恋人も俺も家も、犬も俺たちには背景の人たちも、木も、空気もきらきら、平等に太陽が照らしているのが見える、それを見るためのサイクリング。スーパーマーケットへ行くのだ。

今はまだ軽いものだ、俺ひとりしか乗っていない、といって八十近い体重があって、それを太くもない足二本だけで、支えて運ぶ、だけど前のかごには帰りには、二人分のごはんが入って、帰りはまだ、下り坂だから救われているね、寒い寒い、冷たいのに、少し彼の髪からは汗の臭いがした、帰ったら風邪ひかないうちにあったかくしてすごそう、だけどよかったね俺と、あとごはんの分よりか重くなる事は、無いんだよ俺たちは、幸運だと俺は思う、言わずに笑う、子供なんて余計なものはいらない、つくることに、義務感にかられることもないから、安心。

本当はもっと早く、まだ太陽が高くてあったかいうちに、俺は助手席に彼は運転席に、俺たちのベッドにもなってくれる車に座って、来るはずだったのに、俺はトンボに彼はサドルに、年老いて尾っぽが分かれた猫みたいな自転車に乗って、きいきい、はあはあ、言いながら、一路目指している俺たちの、ごはんの揃うスーパーマーケット、こんなに遅くなってしまったのは、昨日せっかく早く寝て今日はそこそこにいい時間に起きて、いつでも来れたはずなのに、恋人も俺も、俺たちを取り巻く雰囲気も、昼下がりという一番相応しくない時間帯にもかかわらず、お互いが好きで好きで堪らなくなってしまったから。自転車の「トンボ」、分かるだろうか、けだるくなってねむくなって、ごはんも食べずに翌朝まで、お互い毛脛むき出しにして大口あけて、寝ちゃうかもしれないようなときには、風の入らない車じゃなくって、油の切れた自転車の方がいい、もう一度目を大きく開けて、冷たい風に涙を浮かべて、舌をぴりぴりするほど乾かして、手のひらもほっぺたも真っ赤にして、二人乗りをした方がいい、そういうアイディアのための。横断歩道で止まったときにも降りないで、両隣の人たちの変な目を快感に変えるための。その隙にふと撫でた恋人の項は、ちょっとだけ汗ばんでいて、舐めてみるとしょっぱかった、その味を舌に乗せて、口の中をペロペロ舐める、すぐに味が消える、匂いもなくなってしまう、目の前にいる人の存在を、口で感じられなくなる、だけど手のひらはすぐに、強く肩をつかんで、振り落とされたりしないように。
 段差で、猫がぎゃうって鳴く、だましだまし、帰りまで本当に持つか分からないけれどこのねこまたに、何とか生きてってもらわなきゃどうしてもいけない、二人乗りのために、きっと美味しい俺たちの夕食のために、そうして今夜以降の生活のために、トンボも付けたのは、俺たちの幸せのために、崇高な、その目的のためだけに。
 誰もいないのにベルを鳴らす、俺たちがここにいるよって、二人乗りをしているよって、何かに知らせて誇るために、誰もいなくたってベルは鳴らす、さび付いたベルが、しゃりんしゃりん、錆の粉を吹きながら、しゃりんしゃりん、情けない音を立てる。そうまでして、鳴らす理由の、二つ目を、俺も知らない誰も、知らない。素敵な音色がたそがれに響く。
 遠くで踏み切りが鳴り始めた。


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