躁鬱病

 特に信じる神様はいない。宗教に傾倒する事を悪いこととは思わないけれど、とりあえず俺はいいやと思う。その背景には武者小路実篤がいて、ヴィンセントがいる。ヴィンセントの一番側に俺はいて、かなりキナ臭い言葉に思えることを理解した上で言えば、俺は「神の声」を間近に聞いているし、また全集を繰り返し読むことで「神の言葉」をよく読んでいるから、それ以上あまり沢山の神様を信じてしまうことは、何となくヴィンセントや実篤に対して悪いなって気もする。

 俺は世界人類が平和に暮らせればいい、そのために何か出来ることは無いか、模索して生きているけれど、それは決して大きな決意ではなくて、毎日の生活をどう謙虚に充実させていくかというその努力が呼び込むものであろうと思っている。ヴィンセントの側で俺が、日々を周囲に迷惑を掛けないで、ある程度の奉仕もしつつ、生きていく限りは不当な争いというのは起きないはずで、出来れば世界人類がこの当たり前のことに気付く日を呼び込みたいとも思う。呼び込むためには俺たちがまず、誰かに迷惑を掛けないことだ、誰かを悲しませたり苦しませたりしないことだ。生活、「生きることを活かす」と書く。「生きていることを活かす」と書く。そのどちらをも実現させるのだ。自分がまず生きていること、充実した生を活かす。いきいきとした日々を送る。そして、自分が生きていること、一人の人間としてこの星の上を会話する生き物として生まれてきたことを活かす、人に迷惑を掛けないことで、人に苦痛を与えないことで活かす。

 多少でも余裕のあるとき、俺はそう考えて暮らしている。出来ることはそう多くない。だけど、一つひとつを忘れずにやっていこうと思って、実際にそれを実行できる範囲内で実行している。自然な流れでそれが出来る、それが習慣になりえなくとも習慣になってる気で行動している。

 でもそういう時ばかりではないから、仕方ないのだけど困ってしまう。

 俺は元来打たれ強いほうではないのだろうと思う。割とちょっと、小さなことで揺らいでしまう。こころ、精神的な部分で、まだまだ未熟なのだろう。決して繊細ではないつもりでも、脆弱な精神をしていることは認めなくてはいけないようだ。微妙なきっかけでもって、俺の心はずぶずぶと沈んでしまう。沈んでしまうと常日頃気にかけていることが出来なくなって、自分のことで精一杯になってしまう。視野も心も狭くなってしまう。そしてそんな自分に気付く、気付いて、不貞腐れる。俺って駄目だ駄目だほんとうに駄目だ、ぐちゃぐちゃと呟いて、不貞腐れる自分に満足を覚える。自浄作用が働かなくなる。駄目な自分、と自覚してソファにぐったり横になって、太陽が傾いて薄暗くなって時計がぐるぐる妙に時間が経つのが早く感じられて、いろいろなことが鬱陶しく思えてくる。憂鬱なときの怠惰は憂鬱を増すし、憂鬱であればあるほど怠惰になる。相乗効果が働いてますます目線が下を向く。

 そういうときにどう立ち直るか。偏に自分の努力にかかるのだろうが、俺は自分がそういう状態のとき、その努力をすることが腹立たしい。ほとんどの場合、問題は自分の中から生まれ出ずるのだ。解決は自分の中からするしかない。それなのに、周囲に暗い目を向けて不貞腐れている。一番いけないのは、不貞腐れている自分を鬱陶しいと思いながらも、そうしている自分に珍妙なナルシチズムを感じて、こうしていれば誰かが助けてくれると信じていることだ。

 なんと迷惑な存在であることか。無論、頭の悪い俺だってそれは自覚している。

 ヴィンセントと暮らし始めて、それがもう当たり前になるくらいの年月を経た。ヴィンセントという、精神浄化には著効を発揮する人間の一番側にいるのに、これがなくならないのは情けない。

 人間は誰しも躁鬱病質を持っている。人間の誰しもが盲腸の因子を持っているように。いや、もっと軽度の、それこそほとんどの人間が毎日一度は腹が痛くなるように。しかし大多数の人間はその解決方法を知っている、上手く付き合って生きている。俺は自分が特別、それとの付き合いが下手とも思っていないが、しかし巧みでもないらしい。

 自分のコントロール能力の水準は人によって違う。小さなことに腹を立てたり悲しんだりしなくて済むのは、言うまでもなく自らの感情を操作する機能を人間が持っているからだ。物を書いている最中にシャープペンシルの芯が折れた、ただそれだけでいちいち苛立つことはないのだ、一つ二つノックを押してやればよいだけのこと。無論精神状態が芳しくなく、コントロール能力が下がっている際には、それだけのことに、ひどくイライラしたりもするけれど。つまり、そういう時が人間の鬱状態。

 俺は近頃自分のこういった症状を「満月鬱」と呼んでいる。そう名付けたのは暗くないとき、鬱ではないときだ。一年ほど振り返ってみると、俺が情緒不安定になるのは毎月の満月の時期と重なる、もしくは近いということが、何となく判ってきたからだ。だから俺は月が丸くないときは平気だよと、自分にそう言い聞かせるように、冗談を言った。

 当然の如く、これは逆効果だった。ここ二ヶ月ほど、それまで元気だったのが、満月を見て、ほとんど条件反射的に気鬱になってしまうようになった。愚かだが、それでも、今なお俺は、自分が「満月鬱」なのだと思っている。自分の心の打たれ弱さを、満月のせいにしてしまえたらいいと思うからだ。いまに俺は太陰暦に興味を示すようになるかもしれない。

 満月前後は、自分で自分のこの百七十と少しの身長、七十五前後を推移する体重を、持て余している時期であるから、俺の手に納まりきらない部分は当然、ソファであったりベッドであったり、あるいはヴィンセントに支えてもらわなければ堪らない。迷惑をかけている自分を感じてなお自己嫌悪に耽り、深いところへ沈んでゆく。

 しかし、主として仕事が理由で、ヴィンセントの帰りがいつもよりも遅いときなど、俺はもう不愉快と言ってしまって構わないような気持ちになり、あからさまにそういう態度をとってしまう。普段あれほど俺を慈しんでくれるヴィンセントに意地悪なことを言ったりしたりしてしまう。頭の半分は沸騰して、思ってもいないようなことを行動に移してしまう。その目的はただ、ヴィンセントを悲しませること以外に無いのだ。スモッグのかかった目で耳で、俺は全ての物を憎らしく捉え、そこから一番大切な者を除けることすら出来ないで。

 ヴィンセントを困らせて悲しませて、そういう状況下でも俺は自分のそんな行動を悲しいと思う。思いつつも、愉快な気持ちになる。ヴィンセントが悲しそうな顔をすると胸がかすかに爽やかになった錯覚がする。しかし、同時に激しい不快感を催す、何て馬鹿な、何て愚かな、何て迷惑な、俺を自覚して、さらに俺は沈む。苦しくなる。ヴィンセントに慰めて欲しくない、こんな俺の側にいたら駄目になると思う、そう思って攻撃的になって、実際ヴィンセントを攻撃して、あんたなんか要らない出て行けなどと言う、しかし本当に出て行かれたら困るし、ヴィンセントは出て行かないことを判って言う。放っておけと俺が言って、ヴィンセントが本当に俺を放っておいたりしたら、また俺は腹を立てて、何故こんなに苦しんでいる俺を一人残して放っておくんだと筋のまるで通らないことを言う、そして、あんたなんか大嫌いだ、そう言って乱暴にドアを閉めて、大嫌いじゃない、嫌いなものか、愛してる、こんなにあんたのことを愛している、そう思う、だけど、それを口には出せない、何故あんなことを言うんだこの馬鹿、自分を責める気持ちと、何故もっと手ひどくやってこなかったんだと、また自分を責める気持ちが、互いにぶつかって、俺はほとんど放心状態、いつもふらふらと砂浜に出て、ああこのまままっすぐ歩いていったら本当に俺沈んじゃうな、沈んじゃったら、死んじゃうな、その方が楽かな、こんな状態いつまで続くんだろう、大好きな大嫌いなヴィンセントの側にいたって苦しいだけだ、うん、死んじゃったほうがいい、ヴィンセントは悲しむだろう苦しむだろう、しかしそのことは俺に幸福と不愉快両方を与えるのだ――

 ヴィンセントは賢く寛大で優しいから、俺がどんなに悪いことをしても、俺を許してしまう。きっと一度俺を殴るくらいのことはしなければならないのだろう、そしてヴィンセントもそれは判っているのだろう、だけど、彼もそれを先延ばしにしたいに違いないし、俺もヴィンセントには殴られたくない。ヴィンセントに殴られたらそれこそどうなるか判らない、何をしでかすか。

 迷惑人間だな、と思う。ただの迷惑人間だ。躁病鬱病そんな画数の多い漢字を持ち出して誤魔化しているだけだ。いい年をして自分のことも制御できないただの駄目人間だ、そしてますます深い気鬱。

 砂浜に、ヴィンセントがやってきて、俺はまた怒って、だけど半ば無理矢理、抱きしめられて、俺は泣きながら暴れて、近所迷惑な声を上げて、家に帰る、ヴィンセントの腕の中で眠る。深い深い眠りの中で、いくつかの、前夜の苦しみを引き摺った夢を見て、目が醒めるとヴィンセントはいない、俺は本気で心配になって降りていくと、寝てても良かったのにって、困ったように、嬉しそうに、優しく微笑むヴィンセントがいる。俺は何も言えないで、また部屋に戻る。戻って、ぐったりとベッドに横たわる。

 こういう最悪の状況がいつも、大体三四日続くだろう。何もする気が起きなくて、インスタント食品を食べるか、トイレに行くか、それ以外のときは大体天井を見ていたりタオルケットを握り締めたりして過ごしている。

 やや平静を取り戻せたなら、俺は大人しくして、不愉快なことから自分を疎外する努力をする。今は悪いけれど不愉快なことを治すだけの力が俺にはないと、自分で判っているから。大人しくしている。そうして、ようやく取り戻せつつある自己修復の機能に頼って、静かに呼吸するだけの、無害な、しかし、益も無い物体となる。動くのが億劫でなくなったら、ゆっくりと、書棚から武者小路実篤を取り出す。何を読むかは決めていない、どの作品が好きかと問われれば「愛と死」だがあれはまた鬱になってしまう可能性がある、それ以外の何かがいい、代表作中の代表作だけを集めた、つまり読み尽くした人間にはあまりに常識的な、「近代文学全集 武者小路実篤集」の目次をベッドの上に開いて、旧字のふんだんに使われた「眞理先生」を読み始める。

 そもそも実篤を読もうと思って全集を引っ張り出して、広げた時点で、俺は浮上しているのだ。

 没頭するように、あっというまに「眞理先生」を読み始める。何度読んでも泣いてしまうところがあって、それは馬鹿一の手紙であって、俺はそこを読んでまた泣いた。作中の白雲子が泣きながら朗読し、語り手である山野伍兵衛が目を潤ませる、馬鹿な馬鹿一の馬鹿正直な手紙だ。山野は「白雲子の感情家なのにも感心したのは事実だった」と言っているが、だとすると俺も十分に感情家らしい。

 そうして流した涙は、きっと、もう大丈夫だという証拠だろうと思う。少なくとも自責や乱暴によって流した涙よりも数層倍に質の優しいものであると思う。勿論、胸が痛くなって泣くのだけれど、その痛みは苦しみではない、マッサージの時の痛みに似ているかもしれない、後に痛みの残らない、むしろ健やかになる、その証拠としての涙だ。

 「眞理先生」を読み終わって、思い立って俺は文庫版の『眞理先生』を取り出す。これはヴィンセントが会社の近くの古本屋で見つけてきてくれたもので、俺は元々「眞理先生」は早い時期から読了していたのだけれど、この古めかしい文庫本には、当時未読だった山野伍兵衛ものの短編「兄弟」が収録されている。「眞理先生」を読み終わった俺は何かの流れに乗って、「兄弟」が読みたくなったのだと思う。「兄弟」を読んだら実篤のお孫さんが書かれた後書きまで読んで、少しく笑って、二冊を元あった本棚に戻した。

 そして立ち上がって、食事や排泄以外の目的で階下に下りていき、財布を取り出す、中にはちゃんと紙幣が何枚か入っていることを確認し、それから家の鍵をポケットに入れた。もう盛りを過ぎた桜にも、まだ花弁がついているはずだった。それを確認しようと思ったのだ。ヴィンセントのための食料を買うついでに。


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