真理イクスプローラー

 探すとしたら、俺はやっぱり、真理っていうものを探したい。本当に揺らがないものが何なのか。一応、今も判っているつもりだけど、本当なのか嘘なのか、それは誰にも判らないから。だから、最後まで、俺は、いろいろの真理を探していきたい。愛の真理、美の真理。何が、それを成り立たせているのかを。恋人と俺の、間に存在するはずの、絆のどういったあたりが真理なのか。

 きっと真理がないと、物事は少しの正しさも無くなって、ちっとも上手く行かなくなってしまうことばかりなんだろうと、俺は想像するんだ。逆にいえば、恋人が俺を愛し、俺が恋人を愛する、その一往復が円滑に行なわれているということは、即ち俺たちの間に、断乎として真理が存在するからかもしれない。或いは、俺たちが真理を作り出しているからかもしれない。同性同士の性行為が、最初から真理ではなかったはずだろうと、俺ですら考える。しかし、繰り返しているうちに、真理そのものが、ああなるほどこいつらのやっていることは、本当の本気なんだと、思ってくれたなら。うん、だから、俺はあんたのちんちんを尻に入れて、痛いっていう気持ちよりも、嬉しいっていうほうが、余っ程強いんだ。そんな俺たちはきっと余っ程変わっているねと、あんたはにこにこ言うけれど。けれど、俺たちが、異常とされる形でしてきたセックス、「それは違う」と告げる為に痛みがあったであろう、はずが、今は快感の方がずうっと強い、ということは、真理が認めたと考えるのが、フィクショナルだけど自然な気がする。

 真理が最強の価値観とは思わないけれど、信じていればある程度以上に落ち着ける気はする。例えば、人を殺してはいけない。何故か、人は殺されることを好かないからだ。成る程。だから戦争はいけないのだ。だから剣はいけないし、核兵器やミサイルはいけないのだ、原子爆弾はいけないのだ。では、死を恐れぬ自爆志願者はどうか。死ぬことを志願している人間が死ぬのだから、それは一見したところ、真理の付け入る隙は無いような気がする。しかし、人間は生きていくものだ、生きることが自然な状態であり、そもそも、自分をこの世界に生み出した母のため、父のため、そして、自分に降り注ぐ太陽のため、何よりも、自分を愛する誰かのために、人間は生きなければいけないものなのだ。それに背いた時点で、その者には死より重い罪が約束される。その罪がどんなものであるかは、全く想像もつかない。自殺が出来るということは、要するに、「死」が終りと考えるからで、成る程、俺たちだって死んだことはないし、死にたくはない、何より死も怖いし、俺は真理に背いて恋人を一人置いていきたくないし恋人に置いていかれるなど考えるだけで胸が張り裂けそうになる。が、死は決定的な終りとはいえない。誰が死の向こう側を見て帰って来られようか。たまたまそう言う人間がいないから、人は「死」をピリオドと考える。その先に何か別のものがあって、この生の罪を引き摺って存在することを強いられるような世界だったとしたら、誰も自殺などしないだろう、徹底的に自分の罪を清めて、誰かを傷つけることなく、生きていこうと努めるに違いないのだ。得体の知れない神様を誰もが一家に一台の趣で信じることが出来るのに、何故こういう、もっと実になることを信じることが出来ないのだろうかと俺は考えてしまうのだが、そう逸脱した考えでもないだろうと思っている。

 まずすべきことはこの生を最大限に生き、また愛する者の在る限り、活かし切ることであると、俺は考えた。諍い合う時は愛し合う時を前にして余りにも無力であって、そして愛し合う時ほど重ね易い。重ねて重ねて、天と地を覆い尽くすほどにしてしまえば、争いの余地はなくなろう。そして、とりあえず愛し合う時、自分がまず人間であるということ、この生を生きたいと思っていることを、エゴよりも強く考えることで、真理と共に、恋人が俺が、人間として構造的に発展していく土壌を築くことが出来るのではないかと、考えるのである。


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