羨望鏡。

 第三者的に見て。俺たちが決して清くも美しくもなくてもいいから、俺たち自身は俺たち自身を胸張って「美しい」と言っていられたらいいなと思っている。眞理先生は「真理に背いた美は賛美しない」と仰っているが、俺たちと社会とどっちが真理かはその道を知る人でも容易に判断は出来ないような問題であって、また美とは相対的と絶対的の両側面を持つもので結局何がどう判断するかは覚束ない多数決でしか決まらないのだから、要するに俺たちがお互いを美しいと賛美しあうことに少しの問題も伴わないと思っている。

 俺が俺の恋人を好きな理由の一つにはどうしたってその見た目が俺に居心地がいい、「美」があるということを否定するつもりはない。ただそれは所謂「面くい」とは違う。ヴィンセントは俺の目に「美」と映る、といって、万人がそう捉えるかと言えば、非常に残念なことだがそうではないのだ。とは言え、俺はヴィンセントの横顔をじっと見ているだけで一日を過ごしたっていいくらいだ。もちろんそれだけでは欲深な俺は足りないだろうから、撫でたいとか舐めたいとか思うようになるだろうけれど、とにかくそれくらい俺にとっては美しい横顔だと言いたいのだ。そのパーツ一つひとつを分解していってはどれだけ時間を貰っても困らせるばかりのことだから、とにかくそう言ってさえおけば伝わると思って、言っておく。

 真理的な美は要するに心から顕れる美だろうと乱暴に解釈するが、彼の心はその見た目よりも尚清い。先生も一目見たら俺の恋人の清いことを認めるだろうと勝手に思っている。「勝手」でも、俺が「思う」と決めることがまず重要と考えるから、それで良いのだ。

 須く俺たちは生まれてきた命として美を追い求めるべきだ。俺は眞理先生の忠僕ではなくとも、出来れば内面からじわりと現れて見る者の心をも清くするような美しさを目指すべきだ。この血に塗れた手をした俺は愚か過ぎる存在でも、それが正しいことだということくらい、判る。判るけれども、なかなか俺の心は美しくなることはない。清らかで穏やかな恋人のことを愛しいと思う俺の心は、時に醜く歪む。嫉妬や憎悪に駆られこの手が止まらなくなりそうな瞬間が間々、多々、ある。そういう瞬間の少しでも少なくなるようにと考えて生きているつもりでも、恋人は「それだから、人間だよ」と認めてしまうので、結局眞理先生の仰ったことや真理の導く先よりも恋人の方が重たい俺だから、ならばこのままでいいと、思う。

 身勝手な気持ちと知りつつ、世界の平和を願う。世の中の平穏無事を願う。つまりは、世界が平和なら俺たちの住処に火の粉が飛んでくるようなこともないだろうから、世の中が平穏無事なら誰も俺たちに牙を剥くことはないだろうから。生臭いとしてもそれは結局俺のような人間に世界平和を涙ぐむような気持ちで祈らすには十分な動機となりえるのだから、夢を描きもしないでまず牙を砥ぐ首よりは余ッ程まともな心の持ち主だと言い切れる自信がある。

 この感動的な関係の暗礁に乗り上げるようなことは仮にも無い。俺と恋人の感情は重なるところは重なってそうでないところはそうでなくて問題が無い。他者の干渉を話題にすればきりがない。過去を参照する趣味も無い。一応は俺でも人生を観照しようという努力は常にしていてその結果恋人と俺の幸せに万歳三唱したいような気持ちでいるのだ。単調な日々が続くかもしれない、反動で退屈な日々も来るかも知れない、危なっかしく暗礁に乗り上げることがあるかもしれない、難攻不落の俺たちの城も傷はつくだろう。愛しているんだ、愛し合っているんだ、それが俺たちのいる世界であり、俺たちにとってはたった一つの正解だ。永遠に輝きつづける。昨日も、明日も、同じ程眩く煌きつづける。世界中に愛が広がるような気になりながら、俺たちは俺たちの狭い世界に、とりあえずとにかく、たくさんの愛を鏤めて生く。


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