Pt.

 係長代理、曖昧なウェイトのかかった恋人の双肩、それなりに凝ったりしていて、一生懸命揉み解したなら、俺の二の腕も結構だるくなったりなどしてしまう。だけれど俺は恋人の体をマッサージするのは好きだ。頭から肩、腕や背中、手、ふくらはぎ、足の指先までこの手で。恋人の滑らかな肌に触れる。「うう」、噛み殺した声、俺のために、いつも頑張ってくれている、俺に美味しいご飯を食べさす為に。彼の疲れを「かけがえがない」なんて言ったら怒られてしまうかも知れない。けれど、彼の中に積もる乳酸は大体俺が原因で、出来れば俺以外が原因でなければいいなんて思う。彼の眉間に寄る皺は、俺を抱いて、射精を堪える瞬間にだけ生れればいい。

「ああ……、ありがとう……」

 仰向けになる、ちょっと上気した頬で、微笑んで言う。

 見た目以上に俺より背が高く感じるこの人を下に敷いて、直に手の平を当てて揉んだ。裸の上半身は細いけれど、しなやかで鋭い、豹の如き筋肉がそこに眠っている。その様は美しいと言い切って構わなかった。そして俺の価値観に基づいて言えば、とても卑猥なものに見える。アクティヴなことはあまりしない、自転車の二人乗りとセックス、他に何があるだろう。運動不足だなあって苦笑いしていることもある。だけど、時々それを解消しようと、腕立て伏せしたり、腹筋をしたり、近所の公園で一緒にキャッチボールしたり、……珠の汗散る肌が緊張感を孕み、その一枚奥、息衝いたパワーが、一瞬遅れて弾ける。溜め息の出るような、肉の躍動。

 俺は俺で、確かに筋肉質だ。その筋肉も性質も、恋人に近いものがあると思う。しかし、俺はそれでも男なのだな。恋人の体は男性美も超えて美しい。そして女性の美しさは俺に意味を持たないから、恋人は何もかもを超えて絶対的にその美しさを保っている。恋人の精神と肉体の美しいことについて、俺はこれまでも何度賛美したか判らないし、これからも何度賛美するか判らない。ただ、俺がしたいようにしていけばいいと思っている。

「今日はもう寝るか」

 俺が言うと、意外そうな顔をする。

 俺は煙草に火を点けて、彼から目を逸らした。

「疲れてるんだろ?」

 視界には入らなかったが、笑顔になったのが判る。

「君が我慢できないだろう。……いや」

 俺の気持ちを受け止めようと努力してくれるのがわかる。俺の心を尊重してくれるのがわかる。自己中心的な解釈、だけど、それも本当だよと、恋人も言ってくれる。

 彼は起き上がり、じいっと俺の横顔を見つめる。俺が振り向くのを待っている。それがわかれば、もう煙草なんて吸っていられない、煙を吐き出して、灰皿に押し付けた。振り向いたその瞬間に言う、

「僕が我慢出来ない」

 俺の頬にキス、音が一つ、舌が蛞蝓のように這う、軌跡を残しながら、ね、しようよ、舌が言葉になって俺の耳に入る。人の命にしろ常ならぬもの、しかしこの愛が永遠もこの世にあるんだと証明する。

「ベッド行こうか」

「……あんたがそこまで我慢できるならな」

 息が笑う。

「できないよ。だけど君は出来るんだろ?」

 

 

 

 

 恋人の腕枕。なんとも甘ったるい空気で、俺らにはとても似合っている一方で、いつも腰がガクガクになるまでして、気絶するように眠ってしまうから、なかなかこういう、和やかな空気が訪れるのは多くない。火照った体も重ねたままではなかなか冷めない。

「好きだよ」

 俺はやっと頷いて、そうだ俺は言葉を喋る動物だったっけと思い出す。

「……俺も。……俺も好きだ」

 肘を突いて、俺の腹に左手を置いた。全てが裸の中で一箇所、冷たく硬いものが当たる。それが恋人の薬指だと俺に知らせる。同じものが俺の左手の薬指に嵌っている。材質はプラチナで、安いものではまったくない。

 この指輪を作りに行ったときの店員の顔、今も覚えている。俺らのかけがえのない記憶にちゃんと残っている。

「指輪を作りたいんですけど」

 恋人が言うとなり、俺は立っている。

「ええとつまり、……世間では結婚指輪と言われているような……、あるでしょう、内側にイニシャルが彫ってあるような。そういうのを作りたいんですよ。このひとと、僕と。出来ますよね?」

 その店員は一瞬きょとんと俺らを見た跡、変な顔になり、「少々お待ちくださいませ」慇懃に言って、一度店の奥に引っ込む、その瞬間、胡散臭げに唇を歪めたのが、何となく判った。その後彼は戻ってきて、事務的に俺らの指の寸法を測ったり、彫る文字を聞き出したり。そしてその間店の連中の視線は俺らに集まっていた。

「ありがとう。じゃあ、よろしくお願いします」

 彼も、その視線に気付いていたのだろう。

「いいのが出来ると良いね」

 俺のこめかみに、一つキスをした。本当に幸せそうな微笑を浮かべて。だから俺も、本当に幸せな微笑みに、頬が綻んだ。

 あんな高いもの、いいのか? 訊いた俺に、またキスをして、

「君が奥さんと交換したものより、ちょっとでも高い」

 あの店から帰る間、俺はずっとずっと、泣きそうになるのを堪えていた。

 そして今も、変わらず、俺の、恋人の、左手の薬指には、同じ指輪が嵌っている。

「俺の記憶の限りで」

 右手で彼の指に触れる。そこだけ、肌ではない、裸の中で唯一、……だけど、やがて皮膚の一部になる。当たり前の顔をして彼は、会社に指輪をしていく。隠すどころか見せびらかしているのが容易に想像出来る。会社の人たちは俺のことを知っている、係長代理が同性愛者らしいと、ほぼ断定に近い推測をしている。それを誇るような神経の彼を愛するのに何の疑問も要らない。

「俺に指輪をくれたのは一人だけだ」

「僕も指輪を誰かにあげるのなんて初めてだったよ」

 そして言う、「後にも先にも一人しかいない」。

 俺たちのこれは、結婚指輪ではない。どうしたって俺たちは夫婦関係ではないから。だけれど、それより濃い絆を象徴化したものとして、無地のプラチナ、指にしている。

 彼にしろ、俺にしろ、世間が言うところのスマートなやり方は選べたのだ。俺は実際、指輪を交換した相手がいた訳だし、彼だってその美しい外見に優しい精神、引く手も数多だったろう。しかし、彼は笑って言うのだ、

「僕らの周りには本当にろくな女性が居なかったね!」

 彼の心の中で、苦しみの種は既に無い。それを証明するかのように、清々と言う。「本当に、どうしてああも欠陥だらけが集まってのか……、ねえ?」、笑って、言うのだ。

 記憶を洗い流した彼と俺は、自主的に二人、一緒になった。

「君の奥さんだった人は」

 頼んでも居ない、けど、教えてくれる。

「色んな意味で女性的な人だと思う。つまり、僕らには必要の無いものを全部持っている人だ」

 女になりたい、かつてそう痛烈に願って困らせた。女になれば柔かい体で愛しい人を抱擁出来る、女になれば不潔じゃない穴で受け容れられる。そして、女になれば子宮が出来、卵子が生れ、恋人の子供を腹に宿すことも出来る。そして何より、他の誰も俺たちのことを否定しない、笑ったりしない。そう思いつめて、泣いたり、喚いたり、したことがあった。彼を散々傷つけて、「大嫌いだ!」、酷いことを言って、たくさんの迷惑をかけた。あの頃棄てられていても不思議はない。

 だけれど恋人は、俺を抱き締めて離さないで、

「女なんか要らないよ」

 邪悪な声を出した、「あんな無価値な生き物もない」。自分たちもまた、女の股の間から、遡れば男と女の行為の末に生れてきたのに、「そういう装飾物があるからいけないんだよ」、俺らの行為からうまれるものがないなんて嘘だと。「女の方がそりゃあ、楽だろうね。男と違って濡れる訳だ。だけど、要するに好都合だ。君と僕とが愛し合う為にはそんな簡単には、確かに行かない。だけどその分、僕は君をもっともっと欲しいと思う、永遠に、恋人みたいにね。だから結婚だって要らない」、そして彼は爽やかに笑い、吐き棄てるように言う、「全ての女と、君と僕以外の全ての男がいなくなればいい。だけどその願いはなかなか叶わない。だからその代わり、全てに背中を向かせよう。そうしたらここは、君と僕だけの世界になるよ」。

 かつて彼を困らせた女の人のことを、今彼は、

「ああ、あの人。……彼女がどうかした?」

 何でもないという風に振り返る。

「不安?」

 俺に、逆に訊ねてきて、俺が答えられないでいると、ちょっと笑って、こう言った。

「安心して。僕の胸とお腹の中には、百二十パーセント、もう君しかいない。入りきらない分が言葉や精液で、いつも君に零してる。他の奴なんて入れるつもりは無いよ、そんな勿体無いことしたくない。要らないものは全部切り捨てて、君、必要な存在、だけ僕は、代わらず保ち続けていくんだから」

 俺も同じだ、俺は言った。

「でも、俺は彼女のことを思い出すときがある」

 だけど俺は笑う。

「今何をしてるのかなって、興味がある。俺の知らない世界の外の話だから。そして、想像……いや、もう事実だろうね、……その場所は、あんたと俺のこの世界より、遥かにみすぼらしい、居てもつまらない世界なんだろうなって。そして彼女は女であるが故に、俺らのいるこの世界に入って来れない。それは可哀想だなって」

 彼女を引き千切るように、俺は離婚したのだ。彼女と恋人と並べたときに、一目散に恋人の元へ駆けた。後から考えれば、あれほど酷薄な真似は無い。だけど、恋人は俺の選択を誉めた。「よくこっちへ来たね」、当時はまだ、そんなに優しい、自然な微笑を見せてくれはしなかったけど、俺にキスして、抱いてくれた。

 灯りを落したばかりで、眼が効かない。今、こうして恋人の体温、……恋人の存在、感じる俺の土壌の成り立つのは、汚れた血と泥で塗り固められた過去。当然の罰として、世界は俺に背を向けた。ただ、俺らはそれを誤りとは思いたくない。一生懸命の結果がこれだと思っている。自我を持って生きる俺は同性愛者であって、「そうするのが自然」と誰が言っても、また、その相手がどんなに魅力的な体をしていても、男を選ばずにはいられないし、疑問も感じないのだ。

けれど、「世界」の誤解は幸いにして、俺らだけの世界と、そこに息衝く文化が生誕する環境を形作る。世界は俺たちに背を向け、俺たちのことを無視し始めた、すると不思議な現象が起こる、俺たちは俺たちだけを見ていれば良く、只管に愛し合うことでお互いを高められる価値を手に入れるのだ。

言ってしまえばそれは俺たちの「子供」以外の何者でもなく、二人でこれから更に良いものへ築き上げていくべきものだ。俺の恋人が女だったら、そこに余計なものが幾つも幾つも入ってきて困惑するところだった。俺の恋人が男でよかった。

 少しずつ、俺の眼は彼の体の輪郭を把握し始める。細い体、秘められた力。暗闇という、論理思考力を低下させる世界で見ると、宝石よりもずっと価値のある肉体に見える。そしてその肉体に、まだ同化せず、俺と揃いのプラチナが巻きついている。俺はこの人の奥さんではなく、この人は俺の旦那さんではない、けれど、記号一つでそう見えなくもないのだから不思議。

 恋人の名を呼んだ。「ん……?」、恐らく無意識に、伸ばされた左手、俺の頬に触れる、その手に右手を重ねて、俺は目を閉じる。良かった、本当に良かったと、訳もなく、俺は安堵して、とても緩やかに、穏やかに、眠りに落ちる。明日も、この居心地のいい俺らの世界から出て、俺のために仕事をして乳酸を溜め込んで帰ってくる恋人が、どうかどうか、どうか、どうか、どうかどうか、どうか、いい夢を見てくれますように。


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