親殺し。

 判らないが、俺の母親が或いは父親が俺が今在るような在り様をしていることに肯定的ではない可能性のほうが高いように思う。そしてそんな両親ならとっくに死んでいてくれて結構と思う。倫理を超えてそう思うことの価値をとっくに見出している背景には大樹のように揺らがない、いとおしい存在がすぐ側にいてくれていることへの自信がある。錯覚だろうが気にせず俺はヴィンセントという男を絶対的に信頼しているし、俺ぐらいがちょっと押したり引いたりしたところで折れたり抜けたりしないであろうことは事実だ。ヴィンセントのために、例えば今生きていたとしても俺は平気で親を捨てる。それは親が今俺の側にはいないからという、ただそれだけかもしれない。

 倫理を超えて。倫理を超えて何かを成し得るには倫理的に成す以上のパワーが必要なことだと俺は思っている。結局俺は死んだ親を今になって冒涜したところで倫理を超えることにはならないと判っているから、かなりの勇気を持ってヴィンセントと交合する。しかし、実際に生きていたとして、俺の周囲にいてあらゆる形で俺の精神を、決定を、左右するであろうはずの両親がいても、やはりそうしたに違いない。伴うはずの厭味な後味を覚悟しつつ。つまり倫理では制御できない感情というのはどうしても在るはずで俺はそれを肯定したく思うし、ある覚悟を持ってして見せるつもりでいる。とりあえず自分を愛した人間を何人も裏切った末にヴィンセントと幸せになっていることを俺は認めるから、それくらいの後味の悪さを我慢できないはずがないとも考えているのだ。

 ただ俺がそういう具合に倫理を超越するごとに一定の満悦に浸ることは、実はさほど現実味を帯びたことでもない。狡猾である俺を認める存在を前に得意満面になるのは無意味だと思うのだ。つまり俺の恋人と共に在る事は、恋人に全面的に容認された非道徳・非倫理の所作である訳だが、俺たちのいるのはごくごく小さな、俺たちの定める法の支配する世界に過ぎず、今のところは他に誰も入れてやる積もりはないから、俺たちだけが肯定すれば俺たちは幸せになれる。そんな場所で誰かに対して敵意を剥き出しにするのは、時間の無駄だと今は思っている。俺たちは幸せだ、こんなに幸せだ。世間の連中は本当に馬鹿だな、そう思っていればいい、それだけで十分、それ以上の贅沢は何もしないよ。


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