お目出度き人。

 教文堂に行っていろいろの本を捜した末、好みの本を何冊か見つけ、値切りも上手く行ったので上機嫌になった。憚ることなく手をつなぎ、今日買った本、昨日読了した本の話などをしながら並んで歩く。今日も外は薄ら寒く、上空の灰色の雲の、我が物顔で占拠しているが為に露出した互いの手の甲が冷えていないか、そればかり考えて歩く。
 読書は恋人に影響されて会得した俺の割に新しい趣味である。否、まだ趣味と呼べる範囲まで成り立っていないかもしれない。日数はまだ浅い。しかしこの年になって、ようやく自分の、知力の乏しさを恥と感じるようになったので、恋人のようになることは無理でも一歩でも近づかんと、書物を読むようになったのである。
 まだ読みはじめたばかりだから、仕入れる本により好みはない。だから小さな古本屋で揃う範囲のもので十分なのである。どれでも好きな本を読むといいと、恋人も書棚を俺に開放し、非常に協力的で嬉しい。
 知というのは紛れも無く一つの魅力であると俺は考えるようになったのだ。俺が恋人に惹かれる理由は数あれど、そのうちで、その知力も一つ、大きな部分を占めている事は否定しない。恋人は賢く、その知で以って俺の道を創り出した。
 しかし、俺は別に賢くなりたいわけではないのだ。恋人が俺には敵わぬほどの知力の持ち主であれば、これからも不都合は生ずるまいと思い込んでいる。だから俺は、自分が愚物であることの理解を出来る程度には賢くあろうと思うのだ。それ以上の知力は俺には不似合いだと確信するし、少し馬鹿で可愛い男という風に見られていたいとい邪な考もある。ただ、賢い男の方が好きだと彼が言ったら、俺がどうするかはわからない。恐らくは本の虫になる事だろう。
 他愛も無い話をしながら、寒さゆえか人通りの少ない街路を行き、続いてリカーショップに入る。いわゆる「酒屋」ではなくて「リカーショップ」であるから、スーパーでは揃わないような洋酒リキュールの類も多くは手に入る。但し、ヴィンセントが好んで飲むピンクジンに使うビターズだけは、ここでは手に入らないので、無くなったら車に乗って隣の町の店まで買いに行く事がある。酒の事は俺には良く分からないが、ヴィンセントはゆっくりと棚を周りながらめぼしいものを捜している。
 底をつきそうなブランデーとジンを一瓶ずつ、金曜日に切れてしまったラムも篭に入れると結構な重さになる。しかし彼は俺に持たせないために、平気な顔をする。そこに更に、ミモレットのエキストラ・ヴィエイユ、これは特別に熟成した橙色をしたチーズであるが、それと、ピクルスの瓶詰めも篭に入れる。あくまで片手でそれを持って、レジへと行く。途中、中等のワインが安くて陳列されているのに彼は目を留めたが、ピックアップすることはなかった。ポイントカードが効く店だから、これだけ買っても贅沢とは言い難い。
 ちゃんと寝坊することなく起きた日曜の午後には、これだけの事が出来るのである。無論、寝坊しても相応の楽しみはあるのだけれど。
「コーヒーでも飲んで帰ろうか?」
 古本の袋と一緒に、酒瓶三つにチーズに瓶詰めが入った袋を握る右手の指先を白くしながら、ヴィンセントはそう提案した。俺は勿論肯いた。
 カフェとは名ばかりの喫茶店に入ったら、俺は彼に先んじてカウンターで、二人分のコーヒーを注文した。鐘も俺が出した。ヴィンセントはちょっと途方に暮れたように笑っていたが、ありがとう、俺の耳元でそう言った。
 店の中は勿論暖房がかかっていて、コートも要らない。広い店内には俺たちのほかに、案外たくさんの客がいて、店の暖かさのために、出るに出られなくなってしまっているようだ。
 荷物を置いたヴィンセントが、俺の忘れた灰皿と水のグラスを取ってきた。
 何気ない風に座った彼の長い足に、こういうインチキ・カフェの長い椅子は似合っている。俺など所在なくてブラブラさせてしまう、様にならない。足を揺らしながら、ほとんど同時のタイミングで、ポケットから煙草を取り出す。同じ銘柄のソフトパックに、ライターも安物だ。しかし、似たような動きを同時にしているという自覚が、俺を愉快にした。
 煙草の先をくっつけて火を移すのは、風情こそあれ、縁起が悪いので俺たちはやめてしまった。俺たちはだから、常に二人別々のライターを携帯している。俺が点けても、点けてもらっても、いいのだけれど、平等な関係を好むヴィンセントがそれを疎んでいるのだ。
 ブレンドを頼んだのにアメリカンのような薄いコーヒーを一口飲み、水で口を漱いで、煙草を吸い、灰を落として水を飲み、コーヒーを一口飲む。このややせっかちにも見えるやり方で、俺たちはコーヒーと煙草を味わう。途中に水を入れないと、不味いコーヒーに安い煙草とは言え、味が交じり合ってしまうような気がするのだ。これは、ヴィンセントがそう言ったから盲信しているだけで、本当にそうなるかは、数年もやっていないからわからない。
「……帰りは俺が持とうか?」
 床に置かれた酒瓶たちの袋は、取っ手の部分が細く丸まってしまって、そこに五キロ近い負荷がかかるのだから、途中ではちきれてしまうかもしれない。
 そんな事よりも、重たい荷物を持って恋人の指が傷つくのが俺には怖かった。
 せめて、俺の買った本は、俺が持ちたい。
「いいの」
 諭すように彼は笑う。
「大丈夫だよ。これくらい大した荷物じゃない」
「でも」
「クラウドは優しいね」
 そうして、公衆の面前で頭を撫でてくれる。それが嬉しいものだから、甘えてしまう。
 コーヒーをゆっくり空にしながら、四本ずつの煙草を吸って、灰皿に余裕が無くなってきた。申し合わせて立って、コートのボタンをきっちりと止めてから、再び寒空の下に舞い戻った。
 もちろん、手をつないでいる。また温かい互いの手が、この世界でたった一つの温もりであるかのように思えてくる。人肌は時としてそんな浪漫を喚起する。恐らくは、その温もりは自分の持つ一番最初の力であるからだと、俺は妙な事を考えた。
 あとはもう寄る所はないから、まっすぐ家に帰るだけだ。部屋はきっと外と同じほどに寒いだろうが、ストーブの前で二人でくっつき合う予定を、俺は俺の中で勝手に立てた。白い息を、贅沢に流しながら、実質残り六時間ほどの日曜日を使い切る俺たちは、まっすぐ歩いている。
 俺はヴィンセントの指を気にしながら。
 ヴィンセントは俺が気にするのを気にしながら。
 歩いて帰る。俺たちの脇を、上下ジャージ姿の中年夫婦が通り過ぎていった。森本さんだということはすぐにわかったが、挨拶はなかった。それにも気分を害したりはしない。
 まっすぐ歩いて帰るのだ。
 考えてみると、どんな風にだって歩けるし、生きて行けるのだ、人間は。人と会っても挨拶をしないでだって、走る事が出来るように、人を足蹴にして生きる人はたくさんいる。俺は人間は、生きている状態が自然であり、またその状態を維持する事に大きな意義があると考えているから、なるほどそれでもいいのだ、大いに生きよと思う。
 しかしこのところ、特に恋人と共にいる時間に多く考えるのは、どうせ歩いて生きてゆくのであれば、正しく在りたいと思う、そんなことだ。
 俺は俺たちを愛しく思う。ヴィンセントを愛しく思うと同様に、ヴィンセントの隣にいる事が出来る俺も愛しく思う。そうして、俺たちの在る幸福を、愛しく思う。だとしたら、だとしたら、……俺たちは、美しく在りたい、そんな事に至るのだ。ただ、在るだけの俺たちではなくて、美しく在り続ける俺たちでいたい。
 いつか俺たちもしわくちゃになるだろう。それでも、美しい歩き方を、し続けていたいと思うのだ。
 そう在るヴィンセントを、俺は変わらず愛しいと思うだろうし、俺もそう在り続けられれば、愛されない事も無いと、信じている。
 家の中は予想はしていたが、ちっとも暖かくなかった。風が無いだけましだが、やはり寒い。ヴィンセントは手早くジンとラムとチーズとピクルスを冷蔵庫にしまい、ブランデーは棚にしまった。そうしてお湯を沸かしはじめる。その間俺はストーブに火を入れ、とりわけ寒々しい風呂の栓と蓋をして、スイッチを入れた。人心地ついたころには沸くだろうと思われる。
 戻ると、ヴィンセントがカップを二つ用意して待っていてくれた。向かい合わせのソファの片方に、二人で並んで座る。インチキ・カフェの足長椅子よりもずっと座り心地がいいこのソファは、二人で選んだ。ショールームで一目見た瞬間、二人でこれにしようって決めたのだ。あまり幅は広くないけれど、奥行きがゆったりしていて、二人で並んで沈み込み、俺が彼の肩に頭を置くのに都合がいい。これは買う前に店で試した。そう出来ることが選択の最重要条件だったから。
 コーヒーの味も、インチキ・カフェのそれより遥かに美味しい。インスタントの粉をお湯で解いただけの、俺が自分で入れたら非人間的な、宇宙食的と言ってもいい、味がする苦汁なのに、ヴィンセントが入れてくれたというただそれだけの事実が、美味しい。
「指見せて」
 カップを置いて、俺は請うた。ヴィンセントは少し躊躇ったけれど、苦笑いしながら、俺の差し出した手の平に、ずっと荷物を持っていた右手を置いた。
「……冷たいな。痛かっただろう」
「そんな事無いよ。君の手は温かいな」
 何かにつけて、俺を褒める機会を狙っているみたいに、ヴィンセントは言う。その餌に食いついて、すぐに口角が上がるのを堪える俺の身にもなってもらいたいが、これは俺の幸福である。
 俺は冷たい手の、指先を両手で包み込んだ。それだけ、ただそれだけで、他に何もしてやれない自分が、歯痒い。やっぱり無理矢理にでも俺が持てばよかったんだと思う。ほんのこれだけのことを考えて、俺の胸中は申し訳なさでいっぱいになり、やりきれなくなる。
「大丈夫だよ。君が温めてくれたからもう平気」
 手を抜きとって、その手で俺の頭を肩に乗せる、優しく優しく、撫でる。
 安心できない自分はしかし、弱いんではなくて、強いんだと俺は信じている。誰かを想って傷つくのは、俺が強いから出来る芸当だ。弱いのだとしたら誰かと共に在る事を選ばない。人は一人である方が、やっぱり弱い。誰かと共にいると不幸の要素をたくさん背負い込む事になる。それを承知で誰かと共に在り、幸せを掴み取るのだから、共存には強さが必要だ。
 寄りかかったまま、ぼんやりしているのは、時間を無駄に使っているようで、実際に無駄に使ってはいるのだけど、極めて掛け替えの無い、非常に貴重な時間なので、俺はこの時間を大切にしている。時折ヴィンセントがかけてくれる言葉に、どう応えたらいいか、ゆっくり時間をかけて考えて、頭を撫でてもらいながら答える。甘やかされているのが心地よい。昔の俺だったらきっと、こんな時間のある事をおぞましく思っているに違いないが、いま考えるとそれは弱者の僻みに過ぎなかった。誰かと共にいる強さを、俺は身につける事が出来て良かったと思う。
 風呂場の方からピーピーと電子音が呼んでいる。風呂が沸いたのだ。設定温度はいつもの通り温めの四十一度で、一時間くらいゆっくり、眠くなるような時間を一緒に過ごしたい。
「君は先に入っておいで」
「どうして」
「僕はタオルとか着替えとか、持ってくるから」
「どうして」
「どうしてって……」
「一緒に取りに行けばいいだろう」
 もっと素直に、「あんたに服を脱がせて欲しい」と言えばいいのかもしれないが、さすがにそれは出来かねて、こんなぶっきらぼうな物言いになってしまう。
「じゃあ……、一緒に入ろう」
 ヴィンセントは全てを見透かして、言った。ちゃんと解っている、彼は俺の事を、ちゃんと解ってくれている。
 その証拠に、俺の服を脱がせてくれた。それだけじゃない、俺の着ていたシャツに顔を埋める。これを嬉しいと思う俺の心のラインの正体は、推し量りがたい。ただ、そういう感情が存在することを否定しない恋人が、俺は嬉しい。
 裸になるとやっぱり寒い。二人で震えながら凍れる浴室に入る。温めのお湯を掛け合って、とりあえず洗いもせず、浴槽に飛び込んだ。皮膚から数センチまで入り込んだ寒気が抜けるまで、二人して震えて抱きしめあっていた。
 見つけて嬉しいものが、ヴィンセントの体毛だ。色素の関係もあるだろうが、俺よりも薄い。だけどその腕や指にはちゃんと生えていて、彼の男性であることを忘れず、そして感謝する矛先となる。無論、脛や膝にも生えているし、脇の下にもだ。これら一連の体毛が、俺には愛しい。多くの場合、殊女性には理解されがたい嗜好の種類なのかもしれないが、俺はヴィンセントが女だったらどうしよう、男であってくれてよかったと思う人間であるからして、男の証拠とでも言うべき濃い体毛を見ると、安心するのだ。
 浴槽の中で俺の髪を濡らして、尖った髪の毛を寝かせる。
「ほんとうに伸びたね」
 既にヴィンセントの長さを追い越しているのは確かだ。
「うざったいか」
「綺麗だ」
 そうして、俺の髪の一房ひとふさにキスをしている様子だ。まだ洗っていないのに、匂いを嗅いで、熱い吐息を漏らす。その吐息からは煙草とコーヒーと昼に食べたパスタの匂いがする。これは間違いなく、「匂い」なのだと、当たり前の事を考える。彼が俺の洗っていない髪を「匂い」だとして嗅ぐのと同じで。
「君の事が好きだよ」
 ヴィンセントは少し強く俺を抱きしめた。
「何て幸せなんだろう。もっと君の身体に触ってもいいかい?」
「うん」
 俺も何か言い返そうとして、出てくるのがこんな無愛想な科白でいいのか時々不安になる。
 本当は、原稿用紙に書いたら十枚じゃ足りないくらいのことを、言いたい、伝えたい、そう思っているのだけど。
 俺もあんたと過ごす日々がこんなにも愛しい。
 身体を肌を、恋人の指が歩き回る快感。恋人の胸に背中をぴったりと付けて、その心臓の音色を聞きながら、半分のぼせかけつつも、ラムの甘くほろ苦い酔いのようなこの熱に翻弄される。
「しようか」
 ヴィンセントは耳を噛みながらそう言う。
「上がってから君は休んでていいから」
 その言葉尻で、耳朶を舐める。
 吐息に声が混じってしまうのは、不本意だが喜ばしい事だ。
 ヴィンセントは手を伸ばして、血流を集めはじめたものを握った。湯の中で、動かしはじめる。下腹部にざわざわしたものが走る。
「こんなことを言うと、笑われるかもしれないけど」
 徐々に手のスピードを上げながら、彼は言う。
「僕は君と、こうしてずっとだって、セックスをしていたいと思う。こうして在る事は、僕にとっては他にどこ探しても無い幸せだから。ずっとこうしていたい、君と」
 浴槽の中であっても、ヴィンセントは最後まで手を止めなかった。俺はヴィンセントの脛に爪を立てて、震えた。
 頭の芯がすっきりするまでの間、ずっとヴィンセントは俺の髪を撫でていてくれた。俺は息が落ち着くまで待って、体勢を立て直し、立ち上がった。
 壁と浴槽の縁に手を付いて、恋人に尻を向ける。
 勿論、向かい合って顔を見ながらの方が良い事は言うまでもないが、この狭いところでは仕方が無い。ヴィンセントもそれを分かっているから、何も言わず、指に唾液を絡ませて、俺の穴に挿入する。
「会社なんて無ければ、ほんとうに僕はずっとこうしているだろうと思う」
 彼は切ないような声で言った。
「ほんとうに、日永一日、ずっとこうして、君と抱き合ってさえいられれば、僕はもう他には何もいらないんだ。……だけどね、そうしてしまうとやっぱりちょっと、君に苦労をかけることになるからしない、したくない。僕はいまこう在る事が、こんなにも幸せ」
 熱く大きな塊を俺はゆっくりと飲み込んでゆく。俺は壁に手を滑らせて転ばないよう、注意した。ヴィンセントもゆっくりと、そっとそっと、俺に沈めてゆく。はあ、熱い吐息は、彼の中から俺に、そして俺の唇から溢れた。
「あ……ッ」
 奇妙な声を出して、俺は壁に縋り付く。ヴィンセントが俺の腰を支えて、緩やかなスピードで揺すりはじめた。ヴィンセントが動くたびに、足元の水が大きく波打つ。その波に引きずられそうになるのを耐えつつ、ヴィンセントが俺を巻き込む波には、喜んで飲まれていく。
 同じだ、俺も同じだ、ヴィンセント。
 あんたとこういうことだけ、して生きていけたらどんなにか幸せだろう!
「好きだよ、クラウド、君が好きだ」
 その一つ一つに、その倍以上のリアクションをしたいのだけれど、喉が詰まって言葉が出てこない。そのうちに、恋人の手に扱かれた俺の性器からは精液が噴き出し、腹の奥底には熱い奔流が放たれた。崩れそうになった身体を、自分だって射精直後でしんどいだろうに、ヴィンセントが抱きかかえて、そっと抜き去り、浴槽の中に座らせてくれた。
 汚れた湯の中に座り、ヴィンセントは何度も何度も俺の肩にキスをした。
「愛してるよ」
 その声は明瞭で、たった今まであんなことしていたとは、到底思えない。俺はまだ鼓動が収まらないし身体も火照っていると言うのに。
「俺も、愛してる」
 やっと言えたそんな科白に、ちゃんと反応して、強く抱きしめてくれる。願わくばこんな甘やかな時間の永遠に続くことを。しかし、俄かに空腹を覚えた。腹が鳴って、それをからかうことなく、立ち上がる。
「君はもう少し温まるかい?」
「いや……、俺も出る」
「ベッドまで運んで行こうか」
「いいよ。飯の支度は俺も手伝うから」
 立ち上がって、浴槽を跨いで出て、風呂場から出掛けて、身体を結局洗っていなかったことに気付く。
「とりあえずそこだけでも洗ってから出よう」
 ヴィンセントの提案にはもちろん賛成する。ヴィンセントは手にボディソープを取って泡立てて、俺の股間を手のひらで丁寧に洗った。それがまた、妙に快感で、俺は洗われながら膝が震えて来た。
「また大きくなっちゃったね」
 湯で流すと、二度達しているのに俺のは紅く腫れ上がっている。ヴィンセントは微笑んで、膝を突いて俺のそれを口に含んで、舐め回した。
 身体が冷えないうちに服を着て、二人して体重計に乗ってみた。俺は七十六キロで、少し太った。ヴィンセントも七十八キロで、少し太った。どうせだったら二人で七十七キロだったらよかった、そんな事を考えながら、太った理由は一緒に暮らす幸せな恋人の存在しかありえないのだと気付き、「幸せ太り」という世にも恥ずかしい太り方をしていることに、透明な快感を覚えた。
「晩は何にするんだ」
 ドライヤーが嫌いな俺が逃げないよう抱きしめながら髪を乾かしてくれるヴィンセントの髪の毛からは、まだ水滴が零れ落ちて彼のシャツを濡らしている。
「そうだねえ……。昼がパスタだったから、ご飯ちゃんと炊こうか。あと牛の心臓があったと思う。あれも早く使わないといけない」
「焼く?」
「そうだね。……ルッコラとチコリもあったよね。マリネみたいなサラダみたいなの、作ってみようか。……さあ、乾いたよ」
 髪の毛が熱い。頭を振って、冷ましているとクラクラしてくる。彼は俺の髪みたいに丁寧ではなく、かなりおおざっぱなやり方で自分の髪の毛を乾かす。スイッチを切ってもまだ、湿っぽいように見える。
 突っ立っていた俺の髪を一房、摘んで撫でる。
「綺麗な髪だ、本当に」
「洗ってないんだぞ」
「構わないさ。君の髪は綺麗だ」
 靴下もちゃんと履いて、さらにスリッパを履いて二人でさほど広くない廊下を並んで歩いて、キッチンに立つ。キッチンだってそんなに広くはない。すれ違うのがやっとのくらい。だけど俺は手伝いたいし、彼はそれを喜んでくれる。エシャロットを荒い微塵に切って、それから彼がベランダから詰んできたセージは適当に細く刻む。
「これは……、イタリア料理?」
「正解。たまたま材料が揃ったからね、思い付きで。牛の心臓のソテー、サルビア風味ってところだね」
 バットに下処理を済ませた牛の心臓のスライスを並べて、俺が刻んだセージとオリーブオイルをふりかける。牛の心臓と言ったって、肉屋で「ハツ」と称して売っているものであるから、見た目は普通の牛肉と変わらない。下処理を済ませてあるから、脂身は殆どなくなっているが。
「今日は昼にも鶏の内臓を入れたパスタを食べたし、朝はトーストにレバーペーストを塗って食べたし、内臓の日だね」
「そういう手の込んだこともあんたが休みだと出来るんだ」
「君も美味しいのを食べさせてくれるじゃない」
「あれは別に……、そんな手間暇かけてないし……」
「じゃあ、愛がたくさん詰まっているから美味しいんだね」
 彼はバットにラップをかけて冷蔵庫に仕舞う。マリネが済むまで、別の品を作るのだ。とりあえずごはんに火を付ける。漬物や佃煮の類を冷蔵庫から食卓へ出している最中に、蓋がぐらぐら言い出したから俺が弱める。それだけでありがとうのキスを貰う。昨日のお冷やご飯も入れて、しばらく弱火でことこと。うちには炊飯器なんてものはない、二人で一緒に暮らすようになってから買った鍋で炊いている。この方が、時に焦がすことはあっても、美味しいご飯が食べられる。俺はヴィンセントに美味しいご飯を食べてもらいたいと祈っているから、こっちの方がいいに決まっている。
 冷蔵庫の野菜室から白い茸、最近流行のエリンギを取り出し、それを薄くスライスしていく。薄切りにするとまるで松茸のようにも見えるが、松茸よりこちらのほうが安いし、味は上に思える。
 始めは銀色だったのが、使い込まれて薄黄色に染まりつつあるフライパンを火にかけて、一欠けらのバターを落とす、それが泡立つ音が小さくなった瞬間に、エリンギのスライスを投入し、強火で手早く火を入れる。塩と黒胡椒と、ほんの少しの醤油を垂らして、香ばしい匂いを立てる。それを小鉢に盛って、俺に出してくるよう頼む。向かい合わせの食卓に、また一つ彩りが加わる。
 冷蔵庫からバットを取り出す。
「まだちょっと早いかもしれないけど」
 前置きして、鮮やかな手つきでエシャロットを微塵に切る。そしてルッコラとチコリを俺に委ね、先程エリンギを炒めたフライパンをキッチンペーパーでざっと拭う。火を付けて、ついでにとなりのご飯鍋の火は止めて、熱した鍋に塩胡椒した心臓のスライスを入れて強火で火を入れながら、俺に切った野菜をボールでオリーブオイルに和えて冷蔵庫に入れるようてきぱきと指示する。カッコイイからといって見惚れている暇はない。二人の幸福な食卓のために。
 心臓を裏返してから先程みじんにしたエシャロットを入れて、赤ワインビネガーを注ぐ。それから煮詰めて、火を止めてからオリーブオイルを軽くかけて香りを付ける。真っ白な皿に、食欲をそそる匂いの心臓が綺麗に盛られる。
 冷蔵庫で冷えた葉野菜を取り出して、彼はそれを俺に任せた。
「君のセンスで」
「……そんなのあるか」
 菜箸で、熱い心臓の上に冷たい野菜を乗せていく。何だか稚拙な出来上がりになってしまったが、彼は「美味しそうだね」と言った。
 彼はそれを食卓に移し、俺はご飯鍋を鍋敷といっしょに持って置く。揃いの茶碗……、夫婦茶碗ではなく、純粋に同じ柄同じサイズの茶碗に、濡らしたしゃもじで飯を盛る。その間にヴィンセントは冷蔵庫からジンを取り出し、グラスにジントニックを作って持ってくる。
「じゃあ、いただきます」
「いただきます」
 グラスを当てて、一口ジントニックを飲む。薄目に作ってくれたから、トニックウォーターの刺激が舌に心地よい。半面彼のグラスはどうみても半量以上のジンが入っているらしく、あまり炭酸の泡が立っていない。そう言えば、俺のグラスには檸檬の香りがするが、彼のものには入っていないようだ。
 牛の心臓のマリネサラダを取り分けてもらって、食べてみる。心臓は案外に柔らかくて、サッパリしている。ビネガーの酸味も快い。彼が即興で作ったエリンギのソテーも、少し冷めてしまったけど爽やかな香りとちょうど良い塩加減だ。こうして食卓を見回すと、ご飯のおかずになるようなものは漬物と佃煮を除くとないけれど、しかし食欲を良い具合に満たしてくれるメニューだと思う。ジントニックも作用して、俺は白飯ばかり三杯もおかわりした。自分で作れば二杯で済む所を。俺の体重は当分の間は増え続けるだろう。今の所は筋肉ばかりだから良いけれど、それでも八十に差し掛かったら自重しようと思う。
 時計は六時半を指している。早い夕食だった。二人で食器を洗ったら、そのままアルコールの時間になる。キッチンからロックアイスを入れたアイスペールを運んでくる。戸棚から出したロックグラスに氷を入れて、スコッチウィスキーにリキュールを注ぐ。デザート代りのディジェスティブは、甘露なゴッドファザーだ。こんなものを飲むから、また太ってしまうのだが、やめられない。だから、八十に手が届くようになったら、痩せるのだ。……無理だろうか。
 いいさ。
 何の意味も無くそう思う。早くも顔が温かい。風呂にのぼせたみたいに。
「それ飲んでしばらく経ってアルコールが抜けたら、また一緒にお風呂に入ろうか」
「……頭、乾かしたのに?」
「うん。それもまたいいだろう?」
 彼は微笑んで言う。
「俺としたいの?」
 変な冴えかたを始めた頭で、俺は言った。彼は微笑みを崩さず、
「ああ、したい。すごくしたい。ずっとしたい。今だってしたい。だから、またお風呂でしよう」
「駄目だね」
 俺は笑って言い放った。
「あんな狭い所は嫌だ。ベッドがいい。風呂では触るだけだ」
「でも、僕は君の裸を見ているだけで胸の奥が……」
「駄目だ。我慢しろよ」
 怪しいものだ。俺が我慢できる保障が無い。寧ろ、裸を見ただけで鼓動のテンポが上がってしまうのは、確実に俺の方だ。
「お預けかあ……。わかったよ、そのぶん、ベッドではたくさん楽しもうね」
「時間もまだ、たくさんあるしな」
 彼はグラスを空にした。
「じゃあ、タオルを準備してくるよ。ゆっくり飲んでいて」
 時刻はまだ、六時代だ。彼が戻ってきて俺が少し一段落しても、まだ七時を少し回ったくらいだろう。
 眠るのはきっと十一時だ。だとすれば、二人の休日はまだ、あと四時間もある計算になる。
 二回目の風呂に入るのが三十分として。
 三時間半もベッドの上で踊ることが出来るのだ。いや、……限定しなくてもいい。四時間でも五時間でも、明日以降に問題が生じるとしても、お互いの欲しいだけ、欲しいだけ、欲しいだけ、身体をやり取りすればいい。何て幸せなことなんだろう、何てお目出度いことだろう。俺たちは、何て幸せなんだろう。幸せすぎて涙が出そうになるくらいだ。またいつもの悪い癖で。
 喉の奥が腫れぼったく感じられる。それを悪化させるために甘い酒を飲んだ。
「なあだって実際そうだろう、なんてお目出度いんだ俺たちは。互いの事だけを考えていられる、自分ではない、互いのことだけを、恋人のことだけを、愛して生きていられる。なんて幸せで、お目出度いんだろうよ」
 俺はそう口に出して、微笑んだ。目の周りがきっと紅くなっている。
「俺は餓えているのだ。ヴィンセントという、恋人の存在に餓えている。……何で俺こんなところで一人なんだ? ヴィンセントはどこに行ったんだっけ……」
 俺はグラスを置いて立ち上がると、まだまっすぐ歩ける足で、食卓から出た。
「ヴィンセント、どこだ」
 家中に響く大声で呼ぶ。びっくりしたような顔で、彼が二階から顔を出した。
「どうしたの」
「降りて来いよ」
「まだ着替えの支度が……」
「いいから来いよ」
 酔っ払いの我が侭に、気を悪くすることなく降りてきて、俺にいきなり抱き付かれても、
「どうしたの?」
 優しい。
「どうもしない」
「アルコールが抜けたら、お風呂だよ」
「いらない」
「どうして?」
「いましようよ……、いましようよ、ヴィンセントいま、しようよ」
 俺は蛸みたいにヴィンセントに纏わり付いた。そうして、首に噛み付いた。
「酔っ払っちゃったんだね。……ちょっと強かったかな、悪いことをしたね」
「酔っ払ってないよ。触ってよ、ちゃんと立ってる」
「本当だ。元気がいいね。今日はもう三回もしたのに」
「元気なんだよ。だからご褒美を頂戴」
 ソファに横たわって、ヴィンセントの愛撫を受けながら、俺はちらりと時計を見た。時計の長針が、ものすごいスピードでぐるぐる回りはじめた。短針がそれに連れて、八時を指し九時を指し、時間がどんどん経過していく。その間俺は、ヴィンセントの甘い愛撫でもまだ一度も射精できないまま、焦れている。激しく興奮して、ペニスは痛いくらいに肥大しているのだが、ヴィンセントの手に寄っても俺は射精できないまま
「クラウド」
 激しく驚いて、俺は目を開けた。
「大丈夫?」
「……ああ……」
 時計を見た。まだ七時ちょうどだ。
「駄目だよこんなところで寝たら。それとも、もうお風呂にも入らないで寝るかい?」
「いや」
 俺は空になったグラスの底に淡くたまった熔けた氷水を煽って、頭を冷やした。
「大丈夫。ちょっと休めば入れるよ」
「そう?」
 彼はアイスペールと空のグラスを持って、キッチンに入っていった。手際良く洗う様を、俺は寝覚め酔い覚めの心地よい気分で眺める。甘い光景だ、酔いしれながら、眺める。
 七時二分。
 俺たちの休日は、まだ長い。


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