願い。

 一月も五日になって、今年は五日が月曜日であるから、多くの企業は今日が仕事始めであるため、世間は初々しさを残しながらも、もう当たり前のように地球が回り始めた。ヴィンセントも、少し眠いに違いなくても、眠さを隠して、元気を装って、会社に出かけていった。正月休みなんてあったのかどうかと言うくらい、もう言うまでも無いような過ごし方をして過ごした、俺も少し眠い、とろんとした目でコーヒーを飲み、煙草を吸う。まだ頭がぼやっとしている。少し腹も痛い。

 今年の正月にも年賀状は変わらず届いた。友だち、そんなに多くない。けれど知った顔がみんな、同じように何とか無難に年を越せたことは祝福せずにいられない。最近またときどき、あちこちで事件が起こったりしていて、毎年のように年を越せることが当たり前ではなく頑張った結果なんだと噛み締める年が続いているが、多分今年も同じだろうと思う、ともあれ、みんな元気であれば、とりあえず幸せのファーストステップは今年も間違いなく踏んだことになり、気分はいい。みんなそれなりに忙しく、だから満たされた日々を送っているようだ。かつての「仲間」たちの中で、掛け値なしで俺がいちばん怠け者の生き様を演じていることは間違いない。何かのアンケートに答えるときや、カタログを見て応募するときなど、職業欄に「主婦」と書きたくてもかけない「無職」であることは、多少苦しい。ヴィンセントと俺は本人たちの意思とは裏腹に「家族」でも「夫婦」でもないので、俺は被扶養家族ですらない。いちばんいい言葉を捜したら「ヒモ」ということになるのだが、もちろん認めたくない。本当に、十人に一人が同性愛者であればいいのにと思う。

 送られてくる年賀状は俺たちの住所に、二人分をまとめて一通。宛名書きは「クラウド=ストライフ様、ヴィンセント=ヴァレンタイン様」というのが一般的だろう、一方で「ヴィンセント=ヴァレンタイン様」とヴィンセント一人の名を書いて俺を含むのもある、これはこれで嬉しい、また、物好きなどこかの小娘は「クラウド=ヴァレンタイン様、ヴィンセント=ストライフ様」などといちいち捻くれたことをしてくれるが、これもまた、嬉しい。

 写真付きのものがある、立派な「書」が描かれたものがある、多忙な中「夢のある未来に羽ばたく」と社のキャッチフレーズに本社ビルの写真及び関連企業のちまちま書かれた中に几帳面な字で「本年も変わらぬ友情を誓って」と律儀に書いてきたものがある、そうかと思えば、文字とは言えない、肉球がスタンプのように押されたものがあるが、今年は申年である。

 俺たちの出した年賀状は、どうということの無いものだ。近況を書くこともしなかった。恐らく想像がついているだろうから。「あけましておめでとうございます。本年も何卒宜しくお願い申し上げます」という文面を、手書きでヴィンセントが書く、俺がさらに二言くらい、書きたいことを書く、そして俺たち二人分の名前を、それぞれが相手の名前を書く。だからヴィンセントの名前は、あまり字が上手くない。ともあれ、それだけだ。それだけで、俺たちが今どういった状況にあるのかは、察しのいい人たちだから、理解してくれるはずである。無愛想なようだが、ヴィンセントの会社関係の年賀状は全て出来合いの年賀状をプリントアウトして彼一人の名前をつまらなそうに打ち込むだけなので、思いには格段の差がある。

 ここ二年、「やろう」と言っていて結局やっていないのが、俺たちのキスしているところか、抱き合っているところか、とにかく愛し合っているところをデジカメか何かでとってパソコンに取り込んで、年賀状の裏一面にして送るという企み。実際、年末に本当にそうしようかと、デジカメを持ち出して、お互いを撮り合ったことがあったのだが、ご想像の通り、とても郵便として投函出来るような写真は出来なかった。その写真自体はCDに焼いて保存してあるが、公には出来ない。したい気もあるが、しないほうが賢明だということはさすがに俺でも判っている。

 ともあれ、俺たちの手元に届いた、ヴィンセントの仕事関係を除けば僅か十通程度の年賀状が、俺と世界とを繋ぐ唯一の術であるように思える、また、俺の存在を立証しうる唯一の物であるように思える。ヴィンセントは社会に出て働いている人なので、世界と接続されている。また、ヴィンセントは俺を立証してくれるが、神様のような存在だし、ヴィンセントの存在が夢で無いとも、いつ醒めてしまうとも限らないので、逆に怖い、それに、これくらいはヴィンセントに頼らないで済む方法を検討しておきたいものである。また、この年の正月に俺とヴィンセントが一緒の所番地に住んで、例えば「クラウド=ヴァレンタイン様」などと書かれた年賀状が届くような状況だったと、喜ばしい記憶を残す手立てにもなる。

 とりあえず、普段は世間世俗と絶縁されて生きている気分でありながら、こうして繋がってみるとまた俄かに嬉しいような気持ちになる。いい気なものだ。

 しかし一月も五日になってしまうとそれは薄れて、また世間から外れた偏屈な老人のようになり、昼間は武者小路実篤を読みマキハラさんを聞き必要最低限の買い物に出かけ、夜は恋人と濃厚な契りを交わすばかりの日々、昨年を敷衍するような日々、それで構わぬ、なりふり構わず幸福を求める。実際、この家の中はそれが許されているし、これが正しい。そして、「誰にも迷惑をかけずに幸福を追求する」「世界の平和を祈る」「愛すべき人を愛す」「本を読む」「買い物に出かける」などの点で、これは社会的に見ても正しい。しかし、実際にはそんなことを考える余裕もなく、社会人は忙しく、難しい顔をして、眉間に皺を寄せて、昨年を敷衍するような日々。

 それで構わぬ、とは俺は思えない。これは、俺がことさら自己中心的だからではないように思う。社会人の大多数が成人であり、成人が「人権を与えられているもの」と定義できるとすれば、俺は社会人ではないから成人ではなく人権が与えられていないから人間ではないと話を無理矢理転倒させることも可能だ。

 しかし、実際には成人だから人権が与えられ、人権を与えられるものが人間なのではない。俺も人だ、ヴィンセントも人だ、社長も課長もOLも鼻をたらした子供もみな同じように、人である。人であるからには、どこかしら共通するところがあって、例えば平和を祈り、正しいことを好み、また正しいことを好みつつ逸脱も楽しみ、幸せを求めるという点では、ほぼ誰もが同じと言って構わないはずである。然るに、多くの人間はそれを忘れて、つまらないことに没頭することでしか生きられない。

 無論、俺が特別恵まれているとも思う。俺にはヴィンセントがいる。俺の考える時間を、俺の勉強する時間を、俺の生きていくことを、ヴィンセントは保証してくれる、これは俺にとって非常な幸運である。誰にも恐らく真似の出来ない幸運である。しかし、これは俺が特別怠惰であるから、ヴィンセントの負担が大きくなっているに他ならない。先日彼は「そんなことないよ? 僕は君の為に働くの、ちっとも苦痛じゃないからね」と言っていたが、彼の殆どを信用できる俺でも、さすがにこれは信用しかねた。ともあれ、多くの人は、ヴィンセントほど寛大な人を側におかなくても、気の合う仲間、奥さんでも恋人でも友だちでも飼い猫でも何でもいいから、共通認識を持てる人が側にいれば、俺のように考えることはとりあえず可能であるはずだ。そうして、考えることが、少しでも世界をいい方向へ持っていけるのではないかと俺は思う。

 といって、俺は世界を、どういう方向へ持っていきたいのか自分でも実はよく判っていない。

 とりあえず、争いのなくなることだ。しかし、競争意識の欠如は人間を駄目にする。ただ、人を殺して何かを手に入れることはいけない。それをもっとみんなが理解することだ。人を殺していい場合なんてこの世には一つだってない。戦争の最中ですら人を殺してはいけない、人を殺すのは罪だから。罪ということばに人間はもっと敏感になっていい。

 人殺し合いがなくなれば、少しは世界はきっとよくなる、そう信じることからまず俺は始めた。ただ、それだけではちっとも人殺し合いは減らない。祈った、だけど減らない。祈りは、祈る人間を満たすことは出来るが、祈られる人間を満たすことはあまり出来ないのだ。どうすればよいか、実行に移せばよい。しかし、小さな一人の人間に出来ることはたかが知れている、自分の手の届く範囲に、願うことだ。祈りよりももっと生っぽく願うことなら、まあ、俺にだって出来るし、きっと誰にだって出来る。「明後日の日曜日開いてる? 遊ばない?」と願うのと同じだ、気軽な気分ですればいい。

 祈りが世界を救うかどうかは判らないが、願いは救うように俺は近頃思うようになった。と言うのは、宗教が世界を救わず、宗教が人殺し合いの原因になることを俺は知っているからだ。

「世界中が穏やかな笑いに包まれますように。誰かが傷つきませんように。心からそう祈っています。世界の人に優しい一年になりますように。あなたにとっても、そして、あなたの好きな人にとっても」

 俺は上手くない字でそう書いた。ヴィンセントはそれを読んで、本当に涙を浮かべた。俺も涙を浮かべるような心持でこの文を書いた。本当にこうなればいいと、俺は思って、そして本当にこうなったらどんなに素晴らしいかとも、俺は思って、しかし今はそうではないのだと、泣きたく思ったのだ。


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