口紅の風邪。

爽やかって何語だろう。筋肉が落ちたと思った。鏡の中の身体が退化していく、焼けていた肌も白くなった。戦わないから、目つきも鋭さを失ったと思う。年は取らないから、皺が刻まれたり腰が曲がったりすることはない、とは言え、こうして人は駄目になっていくのだと思う。倦怠に包まれた自分の身体は。間違いなく男の匂いがした。寝汗だ。少し伸びた前髪は放ったままだ。どんなに寝ても、睡眠不足の錯覚を憶える。目の下に青痣のような影、永く消えない。

……早い、な」

裸同然の格好で立つ長い身体を鏡ごしに見る。俺が昨夜一昨夜一昨昨日に引っ掻いた傷、とりわけ首に立てた爪痕がまだなまなましく残っている。どこかの頭の良い人間が言った、『老齢の好色と言われているものこそ、残った命への抑圧の排除の願いであり、また命への讃歌である』、彼の内の誤った欲情は失った若い時間への後悔と、今後何らかの失態を犯さぬ限り止むことなく続くあまやかな幸福と、そして青臭く幼い恋心ゆえの物だ。

……痛かったか?」

自分の醜態から視線を剥がし、傷をつけてもなお美しい、特別に誂えた陶品のシビアなカーブの連続で描かれた身体に、両腕を巻き付けた。背中で指先が、かさぶたに触れた。きっと、痛くて痒くて、……俺の作った傷……、剥がせば官能的な薄紅色の脆弱な肌、甘い血の滲んだ、酸いような甘いような味を生むに違いない。

俺の恋人、彼氏、愛人、友達、同居人、恋人は、ふんと笑っただけで答えない。重たそうに顔にかかった髪そのままで、俺の目を、食われそうな赤で縛り付けた。唇は恐らく冷たい三日月に歪められているのだろうが、それすらも見えない。瞬きすらも出来ない。瞳孔の奥、あなたがなにをかんがえているのか、解からないけれど、感じることができるような瞬間。例えば食われてしまえば、俺はあなたの一部だ、あなたの想いをダイレクトに感じられる。十秒だったか、それとも何分もそうしていたのか解からない。ヴィンセントがちらりと余所見をした。だから、俺は解放された。 どこかで、けたたましくベルが鳴っている。

無駄な早起きのせいでアイデンティティを喪った目覚し時計が喚いているのだった。接触を断った主因を壊しに、ヴィンセントは苦笑いを浮かべて俺を放した。

形を持った未来を望んだことが在ったはずだ。どんな家に住み、どんなベッドに沈み、どんな曲を聞き、隣には「あなた」がいる。その「あなた」さえいれば、他の物は付随して、全て揃うと考えていた。けれど、『多分本当の未来なんてカラッポの世界』情熱だけでは世界を作ることなんて出来なくて、だから俺の夢は叶ってもカラッポ同然。恋人はいる、だけど、思っていたような家じゃない、ベッドじゃない、あの本棚も、多分俺は気に入らない。唯一嬉しい、「あなた」でさえも、僕だけ見てなきゃ意味がない。

そう例えばトーストにグリーンサラダの朝食に、知らない名前のクラシック。絵に描けないほどにうるわしのブレックファスト。殻の外からならきっと綺麗な形だけど、俺はひょっとしたらこんなかたちを望んではいなかった? いつも、身体が壊れそうな格好の約束を交わし合い、同じ物を交換し合い、胸の奥はその度、捻れ、棚の奥は、夜の数だけ秘密の膜。安い油を売る昼間から、油まみれになりながら、嘘みたいな純情、本気の「愛してる」を撒き散らして、股間を泣き腫らして、俺じゃないみたいに、なってる。 そう、こんなのは多分、俺じゃない。間違えて生きているんだ、きっと。途中で何か、誤解して、そう、こんなのは多分、俺じゃない。 いつか、女の格好をした。男を騙すことができた。自分が美形だと思ったことは皆無、だけど、女にもいそうな顔なんだろうということは理解出来た。

痛い、痛い。愛して貰おうにも、こんな身体じゃ、痛い。無駄な物ばかり、ほしいものに限って、無い。衛生的にもどうかと思う、それでも俺のことを好きでいてくれるから入れてくれるんだと思いたいけれど。

だけど俺たちはもっとスムーズな形で愛し合えたはずだ。

「形を持った未来」の「あなた」が、知らないうちに男になっていたなら、俺は俺じゃいけなかった。きっと、誰よりも綺麗で優しく頭の良い、女じゃなきゃいけなかった。

未来を願うとき、理想を語るとき、夢の中の「あなた」と、たくさんの家具と、一緒に行く近所の市場と、乗り心地の良い広い車、毛足の長い猫、明るい光に包まれた朝食、それら全ては、ひょっとしたら「あなた」よりも、自分を妄想しているのかもしれない。そんな光景に、素敵な「あなた」に、釣り合う美しい、「わたし」を。誰だって欲しいんだ、素敵な、「わたし」が。飾り気の無い服装でも、仮に金の髪でなかったとしても、そこにいるだけで、愛してもらえるような自分になりたいと思ってやまないんだ。 女になれば、だけど、そういうことはきっと、考えてはいけないこと。

「服、脱げ」

「あなた」のように。

「何を唐突に」

「いいから脱げよ」

ボタンの最後の一つを弾き飛ばして。

もっと魅力的な「わたし」のように。

こんな、きれいな白い肌。すべすべで、傷が美しい、甘いガラス。猫の子供がするように、盲目的に胸に唇を這わせ乳首を探して、何の理由があってか、吸い付いた。 女になれなくとも、せめて、男に許せないほど綺麗な貴方のようになりたい、私がここで、こんな愚かなダンス、深くに愛らしきものを見つけ、確認作業、過程においてやはり男なのだ、この身体は。

矛盾した欲求に焦がれる「――ヴィンセント。あんたが、欲しい」……。

 

 

 

 

例えばそうあんたの身体はとても滑らか、とろりと汗の粒が流れても、俺の肌みたいにしずくが潰れたりなんかしないで、蓮の葉のように、優しい球体のままで、思わずそれをいただけば、俺と同じ味がして、何だか目眩を憶えるけれど、やっぱりそれはあんたの味だ、しょっぱいけれど、渇きは癒され、こころは潤い、要はあんたの身体は言いようも無いほど、俺が好きなものだということ。かといって身体が目当てというわけでは勿論なくて、魂が宿った事によって初めて生ずる魅力という物もあるはずだ、その赤い血が流れてどくどくしている瞳。白ウサギと同じで、メラニン色素が足りなかったって、あんたの瞳は俺の色、俺の中にいる、血の色だ。

仮に鏡に移したとして、俺は首を傾げたって美しくない。あと七つは条件が揃わなければ、きっと誰にも抱かれない。辛うじて、俺が「俺」だという理由があるから、ヴィンセントは俺を抱いてくれるに違いなかった。朝はとうに終わったはずなのに、また、ふたりでは気持ち窮屈なベッドで、俺は鬱々と自分の身体に触れながら、そう思っていた。余計なところに余計なものを、神様が間違えて付けてしまった。

いや、間違えているのは俺か。それとも、恋人か。

どうしてこんな俺でもいいのか知りたい。あんたにはきっと、俺は見たことしかないけど、あんたが好きだったような――ルクレツィアのような――優しくて強くて綺麗な、儚い姿の、女の人の方が似合ってる。あんた自身、それに気付いていないはずないのに。

……お前は、すぐ泣く」

背中から声がした。

「泣いてなんかいない」

乾いている頬を証明するために、身を起こし振り向いた。ヴィンセントは困ったように小さく笑った。

「抱かれているときのお前が、だ」

俺はゆっくりと元の体勢に戻った。細い指が俺の髪を撫ぜて来る。静かな悦びが身体のそこのほうでぐずぐず言っている。そしてこんな至福を、素直に味わいたい欲求が自己主張する。何で、こんなシチュエーション、俺は俺なんだろう。ちっとも不似合いじゃないか。

……止せよ」

手で振り払った。

「触るな」

誰かに見られたくないような醜さの自分たちでは、ありたくないから。

「ふざけたことを言うな」

ヴィンセントは俺の肩を引っ張って無理矢理に仰向けにして、そして笑った。

「私のことが嫌いか」

布団の中の手が、俺の男を探る。

「何故、セックスの最中に泣き出す必要がある? ……本当は嫌なのか? 嫌なのを我慢して、私に抱かれているのではないか?」

器用によく動く、指が、俺を悲しませるのだ。その指に包まれている物が、いっそ亡くなってしまえばいいと願う俺だから。確かに、セックスの最中、俺は泣く。声を上げて泣く。貫かれる痛みに、責められている気になるからだ。痛いのは、お前が間違えているからだ、と。そして気付けば、気持ち良さにも、悲しくなるようになっている。そのうち、キスをされただけで泣き始める、純情な少女のようになるのだろうか。あるいはそうなれば、ヴィンセントは俺をもっと好きになってくれるんだろうか。

掛け布団を握り締める。俺は腰のあたりをヴィンセントに撫でられながら、また、泣きそうになっていた。

……お前の泣く姿は見たくないのでな。ならば、抱くなということか?」

答えられないまま、俺は恐怖に慄く幼児のように、涙を溜めた目を見開いて、震えることしか出来ない。

俺はどんな答えを求めているのか。男でも構わないと言って欲しいのか。しかしそれは欺瞞だ。何よりも俺自身が、男であることを嫌悪しているのだから。だから、ヴィンセントがゲイであろうとなかろうと、関係ない。嫌なのは自分が、ヴィンセントに不釣り合いであるという事だ。男にしろ女にしろ、彼の隣に立って、許される限りの条件を満たす人間でいたい。こんな、醜い身体では嫌だ。だから、俺は、もっとあんたみたいに、綺麗になりたい。ふるえる俺に構わないで、俺の首筋を甘い舌が這い、指が張り詰めた塊を摩る。もう、感じるには自棄糞しかないんだろうな。そう思うと尚のこと、嫌だった。

出口の見えないトンネルの中で、俺はしかし、愛される術を知っていて、想いと反応は別物で、俺は理由を知らないけれど、汚れた場所を愛されたって、泣きながらでだって、零れる言葉は、「もっとして」、こんな汚い俺なんだから、愛されることでまず満足すべきなのだ。「俺」を望むのは、たぶん、間違っている。だけど、ないものねだりは恋と愛と、始まりに憶える気持ちの増長。疑いようの無いこの清んだ愛情をどうか、もっと上手な方法で私は、あなたに、伝えたい。

絶望の淵でもあなたを愛せるから、こんな身体に、もっと価値があったなら。付加価値が。そう、あなたの子供を産むことができたなら。

 

 

 

 

抽象的なことだが強くなりたいと盲目的に願う。だけど半面この人より強くなれる日は永遠に来ないことも知っている、どうせずっと、この人より弱い自分。だけど目の前にいるこの人の強さ加減から見習うところは数知れないから俺はきっといい人間になれる、きっときっと。誰かに嫌われているとしてもたった一人味方がいればそれでいいと、そんな開き直った考え方が出来るようになったここ最近、きっとたった一人が俺のすぐ前にいつもいてくれるからだ、何より確かにそこにあるという事実を知ることが出来たからだ。俺は単純、馬鹿みたいに単純、脳味噌に皺なんてない、あるのはいくつかの言葉と数少ない恋愛の方法論だけで、口下手だから伝えたいときにも不貞腐れて「好き」としか言えない。

だけど、そんな俺だけど、あんただけはずっとずっと俺のそばにいてくれると約束してくれたから、俺はこんなにも幸せ。ヒトは有限の未来にある「なくなるかもしれないもの、壊れてしまうかもしれないもの」を恐れる、長生きするから俺たちは余計にだ。だからこそあんたの存在が俺には嬉しい、言葉が、俺には嬉しい。

それは俺らにとっては何ら特別じゃないある日のディナー。紅い視線で、食べてる最中だってのに襟首引っ張って顔寄せて、口付けて。「お前だけが寂しいわけじゃない」って、「私も一緒だ」って、「ずっとそばにいてくれ」って。こんな風に誰かに痛烈に求められているってことは、こんなに幸せなことだったんだ。俺はあわてて席を立ちあがって、形ばかりは開けられている自分の部屋に駆け込んだ。駆け込んでここ数ヶ月誰も寝ていないベッドに埃の匂いのする枕に顔を埋めて、変な笑い方で腹筋を鍛えた。心配して覗きに来てくれたらしいけど悔しいことに、俺は子供みたいにいつのまにか寝ていた。夜中に目を覚ましたら、肩まで布団がかかってて、手が熱いなと思ったら、握られてた。一瞬声を上げそうになった、夢だと思った、だけど、起きてたんだか夢なんだかわからないけれど、俺の頬に手を当てて、押さえてくれた。俺はまた変な笑いが込み上げてきたのを必死で押さえて、埃っぽい布団の中、俺に一番似合うカーブに身体を収めた。人間と人間の作る形ってどうしてこんなに尊いんだろう、尊く感じられるんだろう、俺は鼻の奥に感じられる幽かな香りを信じながら、考えていた。人は一人でも生きられるものだと思っていた、少なくとも俺はそう信じたかった。愛した人間が周りからどんどんいなくなっても、寂しいとは思った、確かに気が狂いそうなときもあったし気が狂ったときもあった。だけど、俺は生者の特権を駆使して前を向くことを知っていた。一人でもやってけると思ってた。そんな風に考えられる自分で今もいたなら、きっとこの人を知ることすらなかったと思う。

自分だけいればいいと思ってた、はずなのに、誰かを好きになって、嫌味なくらい弱気な自分がいる。そう在ることを意識したときに恋が始まっていた。自分よりも優れていると信じたい人とともにありたいと願った瞬間だった。プライドが高いと自己認識しているような俺が、どうしてそんなことが出来たんだろう。自分は唯一で崇高なるもので、自分が尊敬する存在だったのに。きっと昔の俺はこんな風にヘラヘラ笑う俺を嫌いなんだろうと思うけど、だけど駄目だ、かっこわるくても恥ずかしくても今はこうしていたい。今まで俺が醜いと思ってたものにだって、俺はなってみせるよ、どんな風でもいい、あんたが好きだといってくれるんなら、虫けらを見るような目で、俺がさげすんでいた、蜜蜂の娘たちみたいに、猿のように身体を晒しても、今なら恥ずかしくないから。

大好き……、大好き、ヴィンセント。

大好き……。

「お前は私のことを美しいと言ってくれるが」

寝起きの俺に覆い被さって、美しい長いまつげを細めて、彼は低く笑う。垂れ流れてひやりと冷たい髪の毛は慣れない枕のせいか少し跳ねていて、だけどそれでも見られた顔なのはさすがだと思う。俺なんか触らなくても目ヤニがついてるのが分かる。瞼も少し晴れてるだろうし、昨日そう言えば歯も磨いてないから口も臭い気がする。

……きっと錯覚だよそれは。お前は私の美しさではない何かを好きになってくれているんだと思う。それが何かは、私にはわからないが」

勃起したペニスを手のひらで包まれて、俺はぽかんと開けていた口を閉じた。

……やだよ……」

「何故。……言わせてもらうが、お前も美しいぞ……私の知る限りでは……他の誰よりも」

呪文みたいだと思った。そんなの違うと言いたかったのに、耳の奥に入り込んだ細い糸状の言葉が俺の思考スピードを落とした。謳うように彼はなおも続ける。嫌だ、駄目だ、それ以上言わないで、言ったら俺、何も考えられなくなる。

「愛しくて仕方が無い、無論……その顔と身体だけではない、……お前の全て、心も、声も、髪の毛も、すべてが愛しいから、私はお前とずっと、いたい」

俺は脱力してなされるがままになった。気付いたときには前夜から着っぱなしのセーターを捲られて、ベルトは外されジッパーの隙間から欲求を覗かれていた。俺の唇からは泣きそうな声が溢れてくる。しゃがれてて、かすれてて、ちっともいい声なんかじゃないのに、その声すらも褒め称えて、俺は本当にどうにかなってしまったみたいだ。駄目だってことを自分が一番理解しているくせに、今はその言葉を信じたい気分になる、あんたが言う通り、俺は三国一の美人で、神様と彼がその美しい身体に美しい心を植え付けたんだと思いはじめていた。そうして気付けばその唇に赤黒く腫れた肉幹を挟まれ、俺は泣き出していた。うれし泣きかもしれない。 快楽は嬉しく、形は悪いかもしれないけれどやっぱりねえあんたは俺のこと好きなんだねって思える一番手短なやり方だった。指の先から神経を抜かれていくような感覚を覚える。俺は内股を痙攣させて、短く酸っぱい味の息を鋭く吐いた。俺は到達したばかりの泣き声で、笑って、言った。

「あんた、フェラチオ上手、な。男のくせに……なぁ、……」

彼はどこか得意気に笑った。そのまま俺の両足を持ち上げ、俺の身体をV字に折り曲げると、ペニスの後ろの味を知りはじめた。俺はなお泣きながら、されるがままだ。開拓の瞬間に唇をかみ締めた事を数秒指摘して笑った後、彼の裸が俺に入ってきた。好きだ、好きだ、好きだ、……そんな事を言われていたと思う。

あんたが俺を抱くたびに俺は弱くなっていく。抱かれさえしなきゃあんたのいいところを知って、偉くなれそうな俺なのに。抱かれるの大好きなんだけどな、やられている間は強い自分なんてどうでもいい、弱くなりたいと思いはじめてしまうのがいけないんだろう。

「俺は美人じゃないよ」

俺は苦笑いしながら、目玉焼きを焼く人にまとわりついていた。

「ならそう思い込んでおけ。まったく、人があれだけ思い込ませようとしているのに詰まらん奴だ」

そうか、ならもっと面白くなってやろう……。

「だがそんな風に期待を裏切ってくれるから面白いのだが」

ならこれからは……どうすればいいんだ?

「いっそ、オカマみたくなってみようか俺。女の格好して、女の言葉使って。 ……いっそこの身体も女なら、もっとあんたのこと満足させられるのかもしれない、男には出来ないいろんなやり方でさ」

「要らんことを考えるな。……飯を食うぞ、朝昼兼用」

ヴィンセントはグラスを取り出し、取り付くしまも無い。

「でもさ、女だったら子供出来るよ俺にだって」

俺はその台詞を言って、心が一瞬、腹の奥底のあたりまで沈んだのを自覚した。俺の顔を見て「ふん」とため息を吐き、ミルクを冷蔵庫から取り出すヴィンセントの顔を写した俺の瞳に、何だか余計なフィルタがかかってしまった瞬間だった。

 

 

 

 

髪を伸ばしたって、声を変えたって、女になれるわけじゃない。仮にあんたの言うとおり、綺麗な顔をしてたって、余計なものが生えていて、生えてくる。あんたの子供が欲しいと願う、この痛烈なわがままを、あんたは俺のペニスを握ることで諭した。そこから出てくる意味の無い子種が、俺はとても憎らしかった。俺にはいらないそんなもの、あんたのそれが欲しくて、俺の身体が、その数億匹の意志を止めておく機能を持っていたらと、痛い思いをして想う。ごめんね、繋がるところが肛門で。あんただって気を使うでしょう、こんな狭くて、薄汚い穴だと。

俺にもう一個あったらね。きっとあんたにだってもっと幸せをあげられる。俺はもっと魅力的に慣れる。他に何か失ったっていいよ、この際この目が見えなくなってもいいし、喋れないようになってもいいし、なんならこの邪魔なチンコ切ってあんたにあげたってもいいよ。ねえいらないんだ俺には、俺にはいらないんだ、こんな肉。付け足すよりも抉って欲しかった。俺の真底にあんた一本分溜め置ける空間が欲しかった、欲しかった。「あんたの子供が欲しい」って、それは俺は思っちゃいけなかった。あんたの俺にはそんな穴いらないって言う。だけどね、だけどね、俺は、……俺はね、やっぱり女に産まれてくれば良かったんだよヴィンセント。そうすれば何も困ることなんてない、誰にはばかることなくキスしていい。キスしてるところを見られても顔を顰められたり、吐きそうな顔されたり、しなくてもいい。あんただけ欲しかった、だけど、俺は、やっぱりあんたと俺に付随する幸せも、欲しかった。例えばそれはあんたと俺の子供という形であり、そして周りのみんなを何の抵抗もなく幸せにする繋いだ手のひらだった。

そりゃ確かにみんな言ってくれるし側にもいてくれる。ヴィンセントとクラウドは今でも幸せに暮らしています、だけどごめんなさい、ごめんなさい。ヴィンセントは男なのに、俺も男なんです、俺が間違えてしまったばっかりに、みんなに努力を強いている。俺たちが、俺が、こう在るためだけに、ごめんなさい。

ねえだからさ、ヴィンセント、駄目だよ、そんなところ触っちゃ駄目だよ、汚いよ、変なバイキンがうようよ居るよ、あんた変な病気になっちゃうよ、駄目だよ、あんたが嫌な思いをする、そんな汚いところ触らないで、舐めないで、駄目だよ、お願いだから、お願い、ヴィンセント、俺の尻の穴なんて触らないで!

そんな所にあんたの綺麗なものを入れて、擦ったところで、仮にイッたところで、そこには何んにも残らない。頭の悪い俺はただそれを吐き出すだけ。汚くなって出てくるだけ。あんたはそれでも俺の耳元で愛してるって言って優しくティッシュで拭いてくれて、痛くないように時々薬を塗ってくれて、だけどもういいよ、駄目なんだよ、俺には子供を産めない。あんたと、俺とを、決定的につなげるものなんて、何もない。

ヴィンセント、だって、俺、あんたに抱かれた後、いっつもお腹が痛くなる。

大好きな大好きなヴィンセント、俺の大切なヴィンセント。俺にとってのたったひとり、俺にとっての王様、俺にとっての、お父さんで、お母さん、俺のすべて、かけがえのないヴィンセント、俺を産んで、育てて暮れた、美しく優しいヴィンセント。

こんな俺でごめんなさい……。

お願い、もう俺に触らないで。あんたの指が、汚れてしまうさまを見たくないの。

神様。

いるのならどうか、俺に子供を産ませてください。ちっとも俺に似てなくて、黒い髪の綺麗な子供、男の子でも女の子でもかまいません。ヴィンセントが子煩悩になって、俺にかまってくれなくなってもかまいません。俺はそのあとのどんなくるしみにでも耐えてみせますから、どうか、……俺に、子供を産ませてください。 俺はただ泣きながら、ひざまずいて、幼児のように祈った。祈りは俺に絶望を呼んだ。涙が止まらない。ヴィンセントが俺を、柔らかく撫でる、強く抱きしめる。だけどそうされるとますますひどい痛みが俺を襲う。嫌嫌と首を振っても、彼は許してくれない。俺の耳をそっと噬んで、俺の、一番要らないと思っている部分にそっと、触れてくる。

 

 

 

 

発作のような精神不良の原因は除去のしようがないから、俺は心にカビが生えたみたいになった。乾くことのない湿った倉庫の中には、いつも形式上の自責の言葉が詰まっているのだ。子供が出来ない、ただそれだけで。男であるというただそれだけのことで。自責して自分はかわいそうな子だと思い込んで、なのにあの人は分かってくれないと方向違いの苛立ちを産んで、自己嫌悪の念を更に増す。嫌なら出ていってしまえばいいのに、それもまた、出来ない。 俺はいつだって悲しんでいた。甘やかしてくれる恋人を泣きながら、ひっぱたいた。もう来ないで、嫌だ、そんな事を言いながら、そんな事を言う自分でも好きだと言ってと、俺は思っていた。そうしてその願いは叶ってしまう。俺を顔を自分の胸にうずめさせて、言うのだ。

「お前のことを愛している。お前がどんなでも、私はお前のことだけは最後まで、愛し続けるからね」

俺が絶叫に近い声で泣き叫んでも、恋人は構いやしない。

「大丈夫、安心おし。……私は、何処にも行かないよ、お前がどんなでも、自分のことを嫌いでも。お前の屋根になって、壁になって、お前を守る家になってあげるから」

俺はそこに何があるのか分からなかった。そんな風に俺を愛するメリットがこの人にあるのかと、いつだって考えていた。そこにあるのは使命感か? 俺をこんなまま捨てたら駄目だと言う責任? ばかばかしい親じゃあるまいし、あんた俺の親なんかじゃないのに、俺を拘束するな俺に指図するな俺の側になんかいるな、死んじまえ。

俺はもう言葉にならない言葉で最近いつも、傷つけていた。そして全ては俺が女じゃないということ、俺を女でなくした神様に対しての怒りに拠っていた。

「お前は女じゃなくていいんだよ。お前はそのままで十分魅力的なのだから」

嘘を付けどうせ俺にはXXXXなんて無いし余計なものが付いてるしだからあんたは俺となんかセックスしたくないんだなのに何で触るんだ馬鹿野郎触るな触るな俺になんか触るな二度とその顔を俺の前に見せるな、何で……。なんであんたはおれのそばにいるんだ! こんな、価値の無い俺の側に!

俺が叩いても引っかいてもどんな汚い言葉を吐いても、ヴィンセントは俺を抱きしめて、穏やかに笑っていた。俺が泣きじゃくってわがままを言っても、ずっと抱きしめていた。悲鳴を上げて近所迷惑になっても、彼は俺を庇った。そして俺はそのことにすら、腹を立てた。俺にまつわる全てのことが気に入らなかった。俺の目はいつも赤く腫れて、俺はますます醜くなっていった。

そんな俺の側には、頑なに約束を守るヴィンセントがいた。

俺はそして、よく夢を見るようになった。眠りが浅くなっているんだと思う。夢の中ではもっと俺は笑ってて、あいつとじゃれあって、大好きって言い合って。夢の中の俺は目なんて腫れてなくて、いつもにこにこしてて、嬉しそうで、優しそうだった。俺はそれを客観視している。すごく羨ましかった。俺はそうすればいいことを知っているのに、出来なかった。俺の身体は向こうもこっちも、間違いの無い男のそれだった。目が覚めたとき、あれだけひっぱたいたのにまだ、俺の隣にはヴィンセントがいた。

 

 

 

 

それでも俺がこの家から出て行かないのはやっぱり、甘えてるからなんだと、思う。 俺にはどうあがいたって子供は出来ない、百も承知のそのことを、玩具売り場の子供のように駄々をこねて、今日も、守らなきゃ行けない人のことを傷つけて、傷ついて。しかし生まれる場違いな想い、あんた俺のこと守ってくれるて言ったじゃないか、守ってないじゃんか、俺が、こんなに、苦しいのに。

ごめんね、彼は俺を、一つ覚え、抱きしめる。そうすれば全て解決するとでも思ってるのか? 俺はまたいけないことを言う。ふざけんな、あんたのせいなんだぞ、俺がこんなに不幸せなんは、あんたのせいなんだぞ。俺とあんたの間にはなんにも、ないってのに、俺に触るな、触るな、触るな、触るな、触るな。お前なんか……大嫌いだ!

こういう毎日、俺は必ず一回、家を飛び出す。夜のことが多かった。Tシャツとトランクスだけとか、見られたら微妙に恥ずかしいかもしれない格好で外を出歩いて、誰ぁれもいない砂浜で、膝を抱えて、苛められた子供が独りでするみたいに、Tシャツで顔を拭く。自分がとても、嫌いだった。あんなことを言ってしまう舌を、してしまう腕を、俺は痛めつけたい衝動に駆られて、一度だけだがナイフを持ち出したことがある。あれだけの毎日を送っていて、死のうとしたのが一回だけというのは奇跡的なことかもしれないが、厚ぼったい三日月が空にかかった晴れときどき曇り、何の面白味もない平凡な夜に、俺は死のうと思ってた。

嘘だ。俺は死のうと思ったんじゃない、死のうとする人間の真似をしただけだ。 俺は一振りのナイフが秘めた殺傷能力を知っていた、呆けたような月明かりにぬらりと光る刃の、冷たさを知っていた。ナイフを握り締めて震えたまま二十分もすると、いつものように、細長い影が俺を覆った。子供のように、にっこりと笑って。

……見つけた」

俺の隣に座る。彼は手を伸ばすと俺の手に爪を立てて、ナイフを落とさせた。

「駄目だよ、……悲しくても自分を傷つけたら、駄目だよ」

俺は、嬉しいはずなのに、またこの男の事が憎くて仕方がなくなった。あんたのせいじゃないか、俺が死のうなんて思わなきゃいけなかったのはあんたのせいだ。

……ああ。構わないよ、クラウド、僕が、……いるから」

あんたがいるから俺は、こんなにも苦しまなきゃいけないんだ。わかってる? あんたのせいなんだよ? 俺が、子宮を欲しいなんて、思うのは、あんたが、いるからなんだぞ。

「そんな格好じゃ寒いでしょう? クラウド、僕のコートを貸してあげる。そして、よかったら、家に戻らないか? 君の好きな紅茶を買ってきてある、もしクラウドが良いと言ってくれるなら、僕はまた君のことを、世界で一番大切にしてあげられると思う」

嗅ぎなれた匂いに、俺を見失う。ほんとはどうしたいのかが解からない。 どこかに存在する、キスして欲しい、抱いて欲しい、愛してるって言って欲しい。俺の嫌いな俺が、あちこちを攻撃しはじめた。死ぬことを前提にしてたはずの俺は、抱きしめられると、ひどく落ち着いていて、こんなおだやかな時間が永遠に続けばいいのになんて、思っていた。

繰り返す日々。攻撃と防御と回復、あいつの顔は、せっかく綺麗なのに、いつもどこかに傷が付いていた。女みたいなその顔が憎らしくて憎らしくて、何度も引っかいた日もあった。彼は引っかかれても、まるで人間じゃなくて、猫にされてるみたいな笑顔を浮かべて、俺を抱き上げて、「クラウド……、いい子のクラウド、僕の愛しい」呪文、もしくは、子守り歌のようにぶつぶつ呟いて、あやすのだった。

その生活の中で俺が転がりはじめた。しかもあいつはそれを止めなかった。つかの間の平穏を得るためにあいつが取った自衛手段だったのかもしれない、まさかこれに満足していたとは思えないし。

「綺麗だよ……、とても綺麗だ、本当に。……素敵だ、誰よりも……」

俺の腕に、何だ、あんたの方が細いじゃないかといいたくなるような、傷だらけで生白い腕を絡み付けて、抱き寄せる。髪の匂いを嗅がれ、服の上から愛撫され、何度も何度もキスをされている間、俺は醒めた幸せを感じていた。途中で、彼の台詞が嬉しすぎて、ついつい、笑い出してしまった。

「僕の、奥さんになって、ずっと側にいてくれるかい? ……そうそう、嫉妬しそうだから、セックスはするけれど、子供は作るつもりはないから……、いいね、クラウド?」

俺が笑うと、彼は子供みたいに不貞腐れて、言った。

「何がおかしいんだ? ……僕は、君だけ、いればいい、君が僕に、僕の欲しいすべての幸せをくれるから」

そして俺の裸じゃなくなった唇を、指でなぞった。

「愛してるよ、クラウド……、僕の大切な、愛しい、クラウド。君に指輪を、買ってきてあげようか、それとも君も一緒に来るかい? 何でも、欲しい物を言って」

なにもいらないよ、俺は言った、多少はやっぱり、低い声。ヴィンセントは優しいね、と俺の髪を撫ぜた。

その日から俺は女になった。

 

 

 

 

皮膚が既に仮面なのに、その上一枚皮が張り付いたような、そんな感じだ。幸い、性格のいいらしい肌は、それをすんなりと受け入れた。だけど、唇が何だか重たいし、物を食べるときには気になるし、カップにも付いてしまうし。女性というものがいろんな宿命を背負って生きているらしいことに、俺は圧倒されてしまう。女性の持つ強さというのはあんがい、こういうところから来ているかもしれないな。

言葉づかいばっかりはどうしても上手く治らない、一人称も、時々間違える。女性の描くなだらかなカーブにも俺は作れない、けれど、俺は正しく間違えた、女になった。

……寒い」

声も、変わらない。 人通りがほとんどない少ない冬の海の街、開いている店がほとんど無い中にも、この時期を別荘地で過ごす俺たちのような変わり者のために、いくつかの生活必需品を揃えるための店が並んでいる。長いことここにいる俺たちは、常連というほどではないだろうが、それでも行けば、店員の目には留まる。それまではゲイのカップルということで、奇妙な視線を当てられていたが、今はごく普通の恋人同士、もしくは夫婦という視線を送っていくれている。いや、もしくは、そう見る努力を俺の格好が強いている。俺たちは何のおかしいところはないのだから。いっそ、見なくたっていい。

「スカートなんて穿いてくるからさ。いっそ、ズボンでもジャージでも」

「やだ。……せっかくいっしょに歩くのに、そんな格好」

だが女性は生活に適した格好の方がいいものだ、ヴィンセントは苦く笑い、クリームチーズを籠に入れた。

なら明日、ジャージを買いに行って頂戴、俺は銘柄が嫌だとクリームチーズを棚に戻した。隣のクリームチーズと、ついでにモツァレラも。今夜の晩ご飯はあたしが作ってあげる、ねえ、パスタでいいでしょう?

「昔の服はどうしたの」

「捨てちゃった、あんなのもう着れない」

彼は俺の髪を撫でて、

「わかったよ、じゃあ明日、買いに行こう」

笑って言った。 トマトの缶詰が入っているから少し重たい袋、彼は何も言わずに担いで、俺と手を繋いだ。下半身が寒いのにも、早く慣れなければいけない、そんなことを思いながら、俺は微笑んで彼と話をする。決して野蛮に荒く笑ってはならない、優しく、喉の奥で笑みの成分を溶かしてから、だ。

ヴィンセントも幸せそうだ。俺は女になってよかったと思う。彼の手はひんやりしていて、冷たい海風から、俺の手で守ってやる。女が男を守るなんて何事かと旧人は言うかもしれないが、大好きな人の手が悴むのを放ってみておくのは不義理じゃないか。

俺たちの幸せを壊していたのは誰より俺だった。ヴィンセントが、俺に触れて、俺は目を閉じて、当たり前のようにキスしあえる関係に、俺たちははじめてなれたような気がした。俺のスパゲティを美味しいと言って食べてくれて、食後の皿あらいを手伝ってくれて、風呂が湧いて、一緒に入る支度をする。 俺の男の身体、俺に最後に残された「男」を、ヴィンセントは愛でた。 壊れそうだ、ヴィンセントは擦れた声でささやく。いいよ壊して、俺が乞う。抱かれるたびに思ってしまう、自身の壊れ具合、それがしかしたまらない。もっと、突いて。俺は、女で、ちゃんと出来る場所があるけれど少し変わってるから、お尻の穴が一番感じるのだ。

だから、そこ、が、いい。

どんなんでも俺のことを好きだっていってくれるあんたにあえて、ほんとうによかった。

ほんとうに、よかった。

愛し続けてもらえる自分を作るために、俺は今朝も鏡に向かう。鏡に向かって、多少は上手になってきた化粧をする。睫を弄るときは今もおっかなびっくりだけど、それでも口紅は上手に塗れるように、なった。一昨日、昨日と来て、今日もまた俺は女になる。明日はどうか解からないけれど、ちょっとまだ、俺は男に戻る自信が無い。服は実は、ベッドの下にこっそりひとそろい、隠して持っているのだけど、それを着たらまた俺、悪いやつになりそうで、ちょっと怖い。本当に、どんなでも……愛してくれるあの人だから、怖い。
いつか、自信を持って生きられる日には、俺はしっかり手を繋いであの人の隣、ばっさり切った後ろ髪、筋肉の着いた腕を堂々と晒して、抑える事のない笑いで、……一人称「俺」、ちゃんとした「男」で、歩けるように。ファンデーションの膜で、怖がってる顔色を隠したりしないで大丈夫なように。

裸の唇でも、あんたのことを傷つける自傷行為的な言葉を吐かないように。

 

 

 

 

俺は……。俺はあんたに謝らなきゃいけない。こんな苦しい中で、たった一人側にいてくれて、こんな暗い中で、淡い光を灯してくれて、こんな寒い中で、安らかなぬくもりをくれるあんたに、ずっとずっとずっと、哀しい想いをさせててごめんって。俺は自分の理想の自分を探すことだけに目を奪われて、ほんとに欲しかったものを見失っていた。そしてその「欲」は決して自己都合な物ではなくて、俺たちには決して欠かせない――だから俺が欲しがってたものなんだっていうことを、忘れていた。 ごめんなさい、ごめんなさい。俺は忘れていたんだ。あんたの側にいられるだけで幸せだったという事を。気付けないでいた俺をどうか責めてください。痛い想いをさせて、解からせて下さい。いや、痛い想いをしても結局わからなかった自分を、いっそ捨ててしまって下さい。俺はそれだけのことをした。あんたを、知らなかった。

だけど。

いや、だけど、なんて言い訳聞きたくないだろう? だけど俺は、もうどうなってもいいから、裸の俺をあんたに、解かってもらえなくてもいいから聞いて欲しい。

俺は、あんたにわがままをいっぱい聞いてもらえて嬉しかった。

子供みたいな事を言って暴れても、あんたは俺から逃げなかった。どんなに汚い言葉を吐いて、傷つけても、大丈夫そうな笑顔であんたは空気のようにそこにあった。俺はとうに気付いていたはずなんだ、あんたが、俺にとって、唯一の存在だという事に。 ここまで壊れてしまった。修復不可能にしたのは他でもないこの俺だ。

だからいつまでもそんな風に、大事そうに俺の手を握っててないで、あんた一人の自由を探しに外へ出……、いや、いっそ、俺が出て行く。

さあ、だから、とりあえず離して。

俺はあんたと離れたくないけれど。あんたの幸せを願うから。あんたと離れてあげるよ。

あんたと、離れて、あ、げ、る、よ。

……ヴィ」

俺の汗ばんだ左手を握ったまま、一晩中俺の側にいる、あんたを誰が嫌えるの? 大丈夫だよ俺じゃなくてもあんたにはきっと、いい人がすぐに見つかる。いい人、そう俺なんかよりもずっと、頭が良くて、素直で、優しい人が。俺みたいにすぐ壊れたりしない、道を踏み違えるような人じゃない、ちゃんとした男か、ちゃんとした女が、すぐに現れるから。 あんたの幸せをこれ以上壊したくないんだ。

……ヴィン……」

視界がぐらぐらと揺れる。あんたの顔が歪む。泣いているみたいに見える。薄暗い中で俺の瞳には俺が映らないからあんたはたった一人だった。客観視したときもしも俺がいなかったら本当にひとりぼっちなんだろうなと思った。でもあんたの隣にいるのは、何も俺じゃなくたっていいはずだ。俺がここにいるのはたったひとつの偶然だから、そんなものには頼らないで、早く、出て行け。俺が甘えないように。

身体のあちこちが痛んだ。頭ばかりが生っぽく冷たい。しかし頭から徐々に神経が戻っていくと、体中が濡れている事に気付いた。それがとても気持ち悪くて、俺は思わず吐き気を催した。唾を何度も飲み込んで、とげとげしい胃を抑えつけた。

……?」

声が声にならない。 まぶたがはれぼったくて、眼球自体が微熱を持っているような感じがした。

唇がかさかさに乾いて、発音しようとすると割れて痛んだ。 そして俺の左手は、何かに拘束されて重く、動かなかった。俺は関節を叱咤し、首をあげた。左手の上に、二つの白い手のひらが乗せられていた。石のような冷たさが、とても心地よかった。俺は力を失して、湿度の高い枕に再び頭を落とした。そして何の意味も無いような言葉を発するために、ぴりりと痛む唇を無理に動かしていた。

「出てけって、言ったのに」

俺は重苦しく感じる布団を押しのけて、右手を二つの手のひらに、乗せた。

「起きたのか?」

思いのほか明瞭な声が掛かった。俺は答えないで、手に手を乗せて、その冷ややかさを楽しんでいた。細い体温がとてもその人らしく思えて、俺は愉快だった。多分、俺の額に当てようとしたんだろう、動きかけた片方の手を、強く押さえた。肩が冷えるぞと言われれば、俺は尚その手のひらに近づく。終いにはその手を取り、頬に触れさせ、熱いまぶたを冷やす氷嚢代わりにした。 ヴィンセントの掌だ、と思った。器用にボタンを縫い、料理をし、俺の髪を整えるのが得意な掌だ、と。

その時俺はいっそ、鮮烈と言っていいほどに、これが自分の掌ではないということを悟った。瞬間的に、これはヴィンセントの掌であり、俺のものではないのだということに気付いた。その途端、ふっと、身体が軽くなったような気がした。

それは、多分俺が「二」から「一」に、初めてなった瞬間だったんだと思う。

……起きてるよ」

「何か、食べるかい? 冷たいもの……アイスクリーム」

「要らない……。腹、減ってないから」

俺の乱暴な言葉づかいに、彼は一瞬だけ唇に微笑みを浮かべた。だがすぐに「手を離しなさい」と、命じた。

「どうして?」

……熱が下がったかどうか……」

「まだ下がってない」

「なら、肩まで被らないと」

「俺が手をどけたならあんたは、どっかへ行くんだろう」

「行かないよ」

「嘘だ」

ヴィンセントは俺の手を、それまで以上に強く握った。

俺は安心して右手で、布団を肩まで上げた。

「汗をかいて、気持ち悪い、ヴィンセント」

……待ってて、着替えを持ってきてあげるから」

「要らない。男だから我慢できる」

俺の幼稚な物言いに、彼は何か言いかけた。俺はそれを遮って続ける。

「俺は女じゃない。どう足掻いたって女じゃない。チンコは生えてるし切る勇気も無い。この低い声は誰のものだ? あんただってとうに気付いていただろう、俺が女じゃないってことに」

ヴィンセントは、少し倦んだような表情を浮かべた。

「何故君はそう自虐的な事ばかり言うんだ、病気のときにまで……」

「あんたがどんな俺でも愛してくれるって事が解かったから」

……卑怯な真似をするものだ」

「解かってたんだろう俺の、汚い考えなんて底が知れてた。……あんたが俺からいなくなるはずがないって信じてた。根拠も無いけれど、俺はあんたの前からいなくならないから、多分あんたも俺から消えたりしないだろうって」

言いながら、俺は皮肉な微笑みが唇を痛めつけるのを止められない。

「卑怯だ。解かってる、でもな、あんたを、心から愛してる。あんたが俺を捨てようと、俺の理想はあんただ。俺じゃない。俺はあんたを求めてたんだ、俺を求めてたんじゃない。もう俺は、俺のために壊れたりなんかしない」

ヴィンセントは何も言わなかった。 そして数秒後に俺の手を払い、俺が恐怖にガタガタ震え始める頃を見計らって、着替え一式を持って戻ってきた。乱暴にパジャマを脱がせ、身体をぐいぐいと拭いて、新しいのを着させて。そしてわざわざ脱いだものの匂いを嗅ぐ。

「汗臭い」

それをわしづかみにして、またいなくなった。まもなく洗濯機が動き出す音をバックに彼は戻ってくる。腰に手を当てて、なにごとか大きな声で怒鳴ろうとしたらしいが、息を吸い込んで、そして恐らくその吸い込む途中でそのことの指す意味に気付き、大きなため息に変えた。

彼はそして俺の布団に飛び込むと、俺を乱暴に犯した。俺はくすぐったいとゲラゲラ笑いながら、彼を貪った。たっぷりと汗をかいたから、俺の風邪は治った。


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