幸福先生。

これもヴィンセント=ヴァレンタインの話。
 この男と俺とが暮らすようになってどれくらい経っただろうかと考を巡らす時は、たいてい俺が彼にはじめて抱擁を受けた夜の記憶に辿り着くような、そんな寸法だ。あの日の事は忘れようともしない。それまでは逆の関係だった俺たちなのに、俺が泣いて縋り付いて彼が応えた日だ。その件に関してはいつか詳しく記そうと思っている。今思い出しても、あの日がなかったら……、と思う。あの日があったから俺は今こうして、幸せな生活の中に埋もれている事が可能なのだ。
 彼を見ているだけで俺は幸せな心持ちになるのだ。
 記憶のいろいろの幸せを振り返ってみると俺の幸せというのはここ数年いつだって、彼に行き着く、彼にまつわる。そうであって幸せと思う。そうでなかったら辛いと思う。俺は彼と一緒に生きている生き物であるという事実は、寸分違わない。そうだときめてしまう。
 忘れてはならない事として、俺たちのどちらもが男であるという事が挙げられると思う。それは宿命にも似ている、神が与えた試練と言うことが出来るかもしれない。しかしそれも俺たちを幸せにするには欠かせない事だったのだ。もしどちらかが男でなかったらきっと成立せず、今の幸福には辿り着けていないはずである。彼が俺を抱擁するときどきに、俺は俺の男であることを神に感謝せずにはいられない。
 だがそれも今更もう振り返る必要も無い事だ。
 彼の男であることが、俺の男であることが、最早支障にはならない処に至ったのだという自覚が俺にはある。
 幸福であるからだ、俺たちには愛があり、故に幸福であるからだ。これもまた、そうしてヴィンセント=ヴァレンタインの事を話す機会になる。俺にとって彼の俺に齎す幸福を語る事は幸福なことであり、感謝の意を篭めて賛辞する。




 リズミカルな生活。一週間が七日、うち二日が休日というのは、非常にバランスが取れていると思う。俺は宗教というものに縁遠い人間だが、そう定めた神に対して一種の感心を抱く。俺の待ち遠しさの限界は、きっと五日。といって全ての週間が五日の平日を包含している事はなく、祝日という大変有難いものもある。彼が恋しくて死ぬ日はきっと俺には来ないのだ。
 然し率直に言えば、それでも恋しい。と、我が侭を、言ってみる。
 有り体に述べれば俺は手淫無しではその五日間の一日一日すら平静には過ごせない。
 これは特段に恥ずべき事でもないような気がする。
 証拠であるような気がする。俺は心と身体が切り離せないものだと想っていて、心が寂しい時には身体も寂しく、身体が冷たいときには心も冷え切っている時だと思っている。身体の充足を心が忌まわしく思うようなことはあたりまえの考えではない。だから俺は彼と褥の上で舞踏する際に満たされていくのは身体だけではないと考えている。そうして孤独に耐え難く哀しく思うときには心も同じく哀しいのだということは繰り返し説明する必要も無く、残り香の褥で手淫するほか、俺には出来ないのだ。
 一日の始まりは大体頭痛から始まるような気がする、続いて腰痛を感じ、尿意を感じて便所に行く。ところがこの時は昨夜あれほど踊ったくせに自分の性器は勃起していて小便一つするのも難儀だ。若い証拠かもしれない、確かに自分はまだ二十代であり、老けるには早すぎる、寧ろ喜ぶべき事かもしれない。だが勃起時の小便がしづらいのも事実である。
 そうして、朝食を作る。
 俺は常日頃、幸福とは愛情とは、生活であると考えている。だから彼の朝食を作る作業は楽しい。立っているのが辛いくらいでも作りたいくらいに。トーストが焼ける頃に彼を呼びに行くと、いつも清潔なワイシャツに身を包んでネクタイを選んでいる。せっかくいろいろな色のを持っているのに、週に一度は俺がとりたてて考えなく買ったのを巻いている。
 そうして、ゆっくりと朝食を摂り、出勤の準備を整える。この間、俺は徐々に寂しくなっていく。無意味に彼の後ろを狭い家の中で追い回したりする。行ってくるよと彼が言う段になると堪らなくなって玄関先、衆目憚らず抱擁を求める。疎むことなくそれに応じてくれる彼のアフターシェイブローションの香りを胸に染み込ませる。一日帰ってくるまで、彼の匂いというのは、ローションの匂いになる。だからその匂いで昼下がり家事を終えて所在無くなったときに、手淫をするのだ。スーツ姿の彼に抱かれるのだ。それを俺は別に恥ずべき事とは思っていない。仕方ないのだから仕方が無い。
 手淫を終えたら眠気が訪れるので寝る。これは多くの場合二時過ぎと思う。ベッドの上で手淫をするからそのまま一眠りするのは好都合なので、彼の匂いのする布団を身体に巻き付けて眠る。枕の角に頭を乗せると彼の肩に眠っているような心持ちがして俺は少し浅い眠りに、存外スムーズに降りていく。
 夕刻四時には目を覚ます。これ以上眠りこけてしまうと、生活に支障が出てしまうからだ。寝癖を直してから、街に買い物に出掛ける。このごろはもう寒くて、すぐにかじかんでしまう手の、ポケットの中で探す体温が無いのが余計に寒い。二人ならばどちらかのポケットに一緒に入れてあたためあえるのに。
 二人分の食料を買う。食欲旺盛な男が二人だから、量の一日分にしても豪勢なことに、今更ながら非効率的なことに気付く。しかしそれでも良い。
 家に帰るともう五時を回っていて、紅茶を入れて飲む。それから食事の支度に取り掛かる。昼は茹でるだけで出来るパスタで済ませたから既に空腹だ。
 自分のためだけでない食事だから精が出る。
 七時過ぎに彼が帰ってくるまでの時間は、早い。冷たい空気を連れて、帰ってきた彼は、仕事で疲れていないはずがないのに、うがいをして手を洗って、俺を先ず抱きしめてくれる。窮屈なスーツを脱ぐよりも先にだ。君はあたたかいねと、ほんとうにあたたかいねと、いくつか溜め息を挟みながら、たっぷり抱擁をくれる。
 一緒の食事を終える頃に湧く風呂には、一緒に入る。ここからが俺たちの実質的な夜だと思う。夜は安らぎだ。そうして身体が覚めないうちに、二人でベッドに入る。昼間手淫をしたときとは比べ物にならないほどの、充足、心も身体も、の、充足に、俺は沈み込み、気絶して眠る。




 俺は彼のくれる幸福にどっぷりとはまってしまっている。彼は、俺に家で待つ生活の、幸不幸を教えてくれるような気がする。そうして、俺は幸福追求者だ。働く忙しい彼の日々の幸福にちょっとでも貢献するためにどうすればよいかを考えている。繰り返すが、幸福とは幸福な日々の事を差している、が俺の意見だ。だから俺の、幸福を追求する意義のあることは否定できないはずだ。そうして、俺のその研究の成果は彼が幸せでいてくれたなら、成功ということになる。と言っても、彼はいつだって幸せそうだけれど。
 そして俺が幸福を追求し、彼の為に生活をこの生活を捧げるように、彼は俺に生活を捧げてくれているように見える。どうしたら俺が幸せか、を考えていてくれているように思う。俺と共に在り、生きて行くこと。それだけじゃない、俺を良くする言葉をたくさん考えて、俺にくれる。それはひとえに彼の、たゆまぬ努力と研究の結果であると思われてならない。彼こそ、幸福を追求し、探求して日々を生きている。きっと会社でもそんなことを考えているに違いない。といって、不良な社員ではなかろうが。
 ともあれ俺たちは幸せだ。互いが愛し合い、幸せな生活を創り出す努力を怠らないのだから、当然のように幸せだ。万歳。
 こうして生きているだけでも、とんでもない偶然の産物なのに。その上こうして幸せになれる俺たちの罪作りなこと。そうして、なんて、幸福なことよ。


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