君と共にいます。
常に二人で在る。口には出さない俺たちの約束。
……もう、飽き飽きしたかい?
俺は言い飽きないから、あとまだ何度でも言うと思う。許して欲しい。それだけが俺の命を繋げて行く、これからも、ほんとうに、ずっとだ。
「右の」
「右の」
「引出しの中に茶封筒が」
「茶封筒が二つ」
「二つ。ええとね、『南洋紡績』って書いてあるほう」
「電話番号が載ってるやつ?」
「そうそう。それの中に名刺が三枚入ってるはずなの」
「名刺が四枚入ってるな」
「誰と誰と誰と誰?」
「……ええと、……ナカゴミ、ユフネ、イノマタ、ナカダ」
「……ああそう……、うーん……」
電話の向こうでしばらく悩んでいる様子が在る。
「じゃあ……申し訳ないけど、その四枚、封筒ごと、持ってきてくれるかな」
愛しい彼氏の嘆願に二つ返事でOKすると、ヴィンセントは本当に安堵の溜め息で、
「ああ、ありがとう、ほんとにありがとう、助かるよ」
「別に……」
「それじゃあ、タクシー乗っておいで。降りるときに領収書もらって、前株で『南洋紡績』って書いてもらえば、落とせるから」
本当に、本当に、頼んだよとヴィンセントは言って、そっと受話器を置いた。
俺はうきうきした気分で、ヴィンセントのくれたシャツに着替え、ヴィンセントのくれたズボンに履き替え、ヴィンセントのくれたブレスレットと指輪をした。鏡の前でじっと自分を見て、顔の造作はしょうがないにしろ、「悪くない男」にちゃんとなれていることを再三確認する。それから、忘れないように封筒と四枚の名刺を持って、家を出た。すぐ近所でタクシーを拾い、偉そうな気分で「南洋紡績まで」と言って、煙草に火をつけた。
珍しいことにだ。ヴィンセントが忘れ物をしたのである。否、忘れ物くらい、彼だって人間だからすることはある。傘を忘れて帰ってきたことは一度や二度ではない。しかし、仕事に重要な物を忘れるような男では決してなかったのに。
いや、今朝は場合が場合だった。ただでさえ八時半というありえない時間に起きた上、そろって朝立ちをかましたが為に、「大きいね」「あんたもな」「美味しそうだ」「あんたも」「朝のミルクが飲みたいよ」「俺も飲みたい。ついでにジュースも飲みたい」「えっち」「うん」、朝から布団をぐたぐたにしてしまい、結局大慌てでシャワーを浴びて彼が家を出たのは十時近かった。今夜の帰りが遅いのはやや覚悟している。時間も無かったし、注意力も無かった。仕方も無かった。しようがなかった。しかし一番無かったのは節操だと自覚している。
そんなわけで、生まれて初めてヴィンセントの職場に届け物に行くのだ。夜が遅いから、途中一度でも彼の顔を見られるのは、心が躍る。
働いている男って、カッコいいんだって言う。だから俺は一度でいいからヴィンセントの働く姿を見てみたかったのだ。頭がよくって穏やかで、優しい彼が、銃を振り回すんじゃなくって、パソコンに向かって、係長として部下にてきぱき指示を送る姿。どんななんだろう。スーツ姿は朝も夜も見ているから馴染みのいとおしさ、しかし、公でのヴィンセントのスーツ姿はまた、一段とカッコいいに違いない。
三十分ほど走って、タクシーはヴィンセントの会社の玄関に着いた。言われたとおり領収書を切って、さほど大きな会社ではないが一応の自動ドアを潜り、受付嬢に尋ねる。
「ええと……、審査部のヴァレンタイン係長に、……あの、……届け物の、……おつかいに」
「はい、少々お待ちください」
やや語尾を上げた言い方で、俺の無様な喋り方が掻き消された。受付嬢が内線を回す。
「ヴァレンタイン係長、お客様がお見えです。……はい、はい、かしこまりました」
審査部はエレベーターで二階、降りたら右側。そう教えてもらって、やや緊張しながら入る。いけない、ガキみたいに浮き足立ったら、みっともない。俺はヴァレンタインの恋人なのだ、カッコ悪かったら彼に恥をかかせることとなる……、と、「審査部」と書かれた扉の前ではたと立ち止まった。俺がこんな封筒持って「持って来たよ」なんて渡したら、それこそ。そう、彼の部下の連中のほとんどは、彼が同性愛者だって事を知らないのかもしれないじゃないか。なのに……。
急に不安になった。が、今更封筒を渡さず帰れるはずも無い。ヴィンセントは困っているのだ。
友人か甥っ子のフリをするのが一番良いだろうと俺は判断して、深呼吸を一つ。それから扉を明けた。
探す必要も無い、ヴィンセントは真正面にいた。というか、扉を開けた瞬間、俺の目は一分の狂いもなく、ヴィンセントに吸い寄せられていたのだ。
ああ……、溜め息が出そうになった。ヴィンセントが働いている。今朝見たスーツ姿で、俺が選んだネクタイをして、ちゃんと整えた髪の毛で、そろそろ前髪切らなきゃって言ってた。若い社員が差し出した書類に、いくつかなにか、言っている。お説教をしているんだろうか。滅多に見ることが出来ない貴重な光景、俺は見とれた。
「あの……、何かご用でしょうか」
扉に一番近いところに座っていた女子社員が怪訝そうな目で見てきた。俺はまた度偽間儀して、
「いや……、とどけ、そう、届け物を」
などとみっともない応対。
思泥藻泥になりかけたところで、助け舟。
「ご苦労様」
ヴィンセントが立ち上がって、こちらにやってくる。カッコよさと嬉しさで、思わず抱きつきそうになるが、もちろん堪える。迷惑かけてはいけない。
「本当にありがとう、クラウド、助かったよ」
「うん……、いや、別に」
「これが無いと、仕事にならないところだった。……本当に、ありがとう、大好きだよ」
ヴィンセントの声は凛と響く。
ぎょっ、と俺が見る、すぐそばの女子社員もびくっとしてヴィンセントを見る、それどころか、コピーを撮っていた女子社員も、書類の束を持っていた男性社員も、部下と押し問答を繰り広げていた課長代理も、一斉にヴィンセントを見た、そして自然な流れとして俺を一度見て、もう一度ヴィンセントを見た。
ヴィンセントは涼しい顔で、
「あと五分もしたら昼休みだから、そうしたらご飯食べに行こう。まだでしょう?」
「う……、うん」
あと五分。その五分を、ヴィンセントのデスクの後に、亡と突っ立って居るのは、なかなかに大変だった。ヴィンセントがにこにこしながら、俺を連れて「何食べたい?」と聞いて審査部室から出て行く間の数歩も、これこそが針の筵というやつで。
それでもにこにこしながら俺を連れて社員食堂で俺の分の食券も買って列に並ぶ係長は、俺の理想の男の人だ。俺は言うまでもなく恥知らず、そして露悪的な人間であり、やはり恋人にはそれを理解してもらいたい。しかし勿論俺はそれを彼に要求したことは無い、彼は彼のままで。でももう殆ど無意識に、俺の嬉しい行動をとってくれる。赤面しつつ、俺は叫びだしてしまいたいほど嬉しいのだ。
「おいしい?」
「……うん」
「こういうのも悪くないでしょう? 君の作ったのの方が僕は好きだけど」
結構混雑しているのに両隣の席には誰もいない。何だか遠巻きにされて、それでいて気にされている気配をチクチクと感じる。この状況を楽しむかのように、笑顔を絶やさないヴィンセントは、素敵な素敵な俺の恋人。地味な昼定食の味もあまりよく解からない緊張と興奮だ。
あまり腹が膨れたという実感の無いまま、食べ終わった食器を返却して、まだ時間があるから散歩でもしようかと誘われるがままに、ついていく。上着を脇に抱えて、少しネクタイを緩めて歩くその右後一歩半。目を引く長身、長い足、スマートな歩き方、端正な顔立ちも。ああ、ああ、あんたは俺の誇りだ。
「クラウド」
「え……、え?」
「手、繋ぐ?」
「え……」
俺はぶんぶんと首を横に振った。
「い、いいよ、別に……」
そんな俺に、くすっと笑って、
「今日は何だか可愛いね。いつもだけど、いつもより」
立ち止まって、のんびりした微笑を俺に向けた。
「恥ずかしい?」
何て答えるのが普通だろうか。素直に「恥ずかしい」のだからそう言えばいいところ、俺は知ってのとおり素直な人間ではないから、まるで小学校中学年のガキみたいに、
「別に」
なんて。
そう? なんてヴィンセントは微笑む、そしてまた歩き出す。
俺は自分の言葉を後悔した。気を悪くさせてしまったかもしれない。恥ずかしくないのなら何で手を繋がないのだ、と。
怒らせてしまったのかもしれない。そう思い至った刹那に、俺は顔の青ざめるのを自覚して、膝に震えが走って。
こういう時の俺の行動は一つしかない。後になればなるほどくよくよ悩む時間が増えて鬱陶しいので、即座に行動を起こす。
「……ヴィンセント」
「ん? ……」
振り向いた唇に、少しだけ背を伸ばしてキスをする。
ちょっと驚いたように身を硬くして、でもすぐに、俺の離した唇へ、逆襲。
……我ながら思い切ったことをしたものだ、俺たちは路傍の石とは違うこんなに目立つのに。近所の散歩道とは訳が違うのに。
「……好きだよ」
優しく、優しく微笑んで、ヴィンセントは言った。
誰かに見られていたとしても、そんなの下らない、瑣末なことだとでも言うような、快い微笑み。
優しく穏やかで、すごく頭がよくって。
ベンチにくっついて座って、揃いの煙草を咥えている光景は、きっと、ヴィンセントの隣りに俺がいなくても、俺の隣りにヴィンセントがいなくても、つまらなくて絵にはならない。俺たちがふたり一緒だから、一枚の愛溢れる絵として、ここに成立するのだろう。描きたい奴はどんどん描くがいい、肖像権は気にしないから、いっそリアルにあるがままを写し取ってくれ。構わないよ。
「ヴィンセント」
のどの奥で煙草をぴりりと感じながらも、俺が年に何万回言っているのだか知れない名前はクリアな声で出てくる。
「俺も好きだ、あんたのことがすごく好きだ。……でも、会社の人たち」
「ああ。そうか、みんな僕が君と……、つまり、男のヒトと恋人同士ってことは、今日まで知らなかったんだっけなあ。噂にはなってたみたいだけど」
のんびりと紫煙の行き先を見ながら、まるで他人事のように言う。
「……、まあ、問題ないよ別に」
「問題ない?」
「うん。ぜんぜん。……心配そうな顔しないで、大丈夫だってば。そんなことでクビになったりなんかしないよ。されないくらいの仕事はしてるつもりだよ」
少し、強気な色を顔に浮かべる。俺は安心して、それでももう一度、この散歩道に、俺たちのほかに誰もいないことを確認して、肩に頭を乗せた。
「なんで好きってわざわざ言うんだろうな」
「え?」
「あんたのこと好きってこと、きっと伝わってると思ってるんだけど」
「うん、幸せなことに僕は君が僕のことを好きでいてくれるのが、よくわかるよ」
「俺も、伝わってるって知ってるつもりなのに、何で言っちゃうんだろう」
「簡単なことだよ」
「ん?」
「僕は、僕が君のことを好きっていう気持ちが、君に伝わってることは何となく知ってる。だけど君に、好き、愛してる、言うのは、言いたいからだよ。嬉しいから。言って、君が笑うのが……、いや、君はあんまり笑わないか、でも、ちょっとでも明るい気持ちになってくれるのが嬉しいから。少なくとも僕はそう」
「……そうか」
「君もそうなんじゃないかなって、僕思うんだけど」
「うん……。そうだな俺も、あんたに好きって言うのは、あんたが嬉しそうに笑って、キスをしてくれるのが嬉しいからだ。言いたいから、そうだな、言うんだな」
ちら、とヴィンセントは安物腕時計を見て、それから俺に目線を移して、キス。
「……時間なんじゃないのか?」
「知らない」
時計を外して、一度宙に放る。落ちてきたのを掴んで、スーツの胸ポケットに突っ込んだ。
「クラウド、ここでする勇気、ある?」
「……難しい質問だな」
俺は苦笑いして、次の煙草に火を点けた。二息ふかしてからの方が美味しいって、ヴィンセントが教えてくれたからそうしている。
「ここから一番近いホテルは?」
「タクシーで五分くらい」
「遠いな」
「そうなんだよ」
「……ここ、で?」
「あっちの方でもいい」
「あっちの林?」
「うん。この公園、昼休み終わると途端に人いなくなるから」
「ってことはあんた午後遅刻じゃないか」
「知らない」
「駄目だよ、ちゃんと……」
「知らない。せっかく君といっしょにいるのにそんなつまらないこと考えたくないよ」
子供みたいに言う。俺はおかしくって、笑ってしまいそうになるのを堪えて立ち上がった。
「……ここじゃなくってさ」
我ながら、もう脳の芯まで色が染みているんだなと思う。あんた色に染まっているんだよ、と心の中で言う。
「会社の……、ほら、あんたが言ってた、あんたがやってた」
「資料室?」
「そう。……そっちのほうが、俺はいい。あんたが俺のこと思ってしてたところでさ……。ぞくぞくする」
ヴィンセントは俯いてふっと笑い声を漏らすと、立ち上がった。
「いいね、それ」
神経が無いのではない、在っても、やっぱりちょっとどこか狂ってるのだ。それは俺たち二人とも認めるところ。
紙の臭いの充満する資料室の鍵を、彼は何食わぬ顔で借りてきて、二人きりを確認して、内側からきっちりと閉じる。
閉じられたブラインドから差し込む陽光は陰気な印象で、刻まれた光線に埃が浮かんでいる。こんな綺麗な人がこんなうさんくさいところでしていたのかと、俺は何だかヴィンセントが可哀想になってしまった。
「この辺に座ってね、やってたんだ」
棚の足もとを指差して、彼は言った。
「……じゃあ、ここでするのが正解かな」
彼のネクタイを外して、棚に載せる、そしてボタンを一つ一つ全部外して、下着を捲り上げる。くたびれた臭いの胸に唇を寄せて、乳首を少し吸って、舐めた。
鼻から漏れた息にも興奮しそうな俺は、ひとつ、ここはヴィンセントの会社なのだと言う事、ふたつ、ヴィンセントの昼休みはとっくの昔に終わっているのだと言う事、を念頭において、ズボンの上から触った。こっくりとした手触りの性器は、生憎なことにまだ柔らかい。あまり時間をかけてはいけないのだと、もうジッパーを下ろして、中をまさぐってトランクスのボタンを引っ張って開けて、取り出す。唇を重ねて、重ねたまんまの状態で、撫でて揉んで扱いて。
「んー……」
「ん?」
「ん……」
「……、気持ちいい?」
「うん」
ヴィンセントは微笑んで頷いて、もどかしげに俺の頬を一撫で、
「舐めてくれないの?」
「……舐めて欲しいのか?」
「ん、舐めてくれるんならね」
冷たい床に膝を突いた。俺の手で、立ってくれる嬉しい性器の匂いを嗅ぐ。
いつも、帰ってきて、風呂に入る前の臭いと、今朝に嗅いだ臭い、ちょうどその真ん中くらいの濃さ。俺はこれ、花袋的フェチズムじゃないけど、でもそんな特殊な趣味だとも思っていない。ヴィンセントの身体の匂い、どっちかといえば「臭い」と言った方がいい、俺が鼻に感じることが出来るヴィンセントは、俺を疼かせる。人間は視覚触覚のみならず、嗅覚でも感じられるのだということを証明している。でも多分俺は、ヴィンセントだったら聴覚でも味覚でも第六感でも、平気で射精してパンツを汚しかねない。
ヴィンセントの汗の臭い。垢の臭い。小便の臭い。精液の臭い。耳の奥がくすぐったくなるような、幸福をいつも感じながら嗅いでいる。
舐めてとは言われたけれど、鼻を寄せてばかり。そうだ時間があんまり。最低の時間で最高にヴィンセントも俺も幸せになれなかったらいけないのだ。
俺はでもまず、手で扱いた。眼前でこんなにおいしそうなもの、手で触るだけなんてアホらしいけれど、でも、触り心地だってすごく良いし、官能に障る皮膚の擦れ合う音、臭いだって鼻に届くほど近く、血管の詳細まで見える場所。
そうして、尿道口から浮き出る雫。これが、そう、これがまず俺は欲しかった。
愛液という表現は女性にしか使われないけれど、俺のためにヴィンセントが漏らしてくれる蜜をそう呼ばずして何と呼べば言いのだ。我慢汁なんて品が無い。品が無いのも好みではあるけれど、しかしこれは愛液だ。
初めから口の中に入れていては、これの味も判然としないままに嚥下してしまう。まるで百グラムで何万もするような高級食材を口にするときのように、舌先に神経を集中させて、ぷくりと表面張力浮き上がる「愛液」を、掬い取った。こんな少しだけ、なのに、ちゃんと粘り気も味も香りも感じることが出来る。ここに愛が詰まっているから。だからこそ、愛液。
ただ、やはり少し物足りなくて、唇を寄せて、尿道口を吸った。
「んっ……」
そんな、ちょっと可愛い声をあげる。顔を上げて見たら、ヴィンセントは恥ずかしそうにほっぺたを、ちゃんと紅くしてくれている。
俺の、頭をちょっと抑えて、口から抜かせて、強請るように。
「入れたらだめ?」
「ん……? 昨日の夜から抜いてないんだぞ、中……」
「僕は気にしない」
俺は気にするけれど、
「……しょうがないな」
まあ、多分、大丈夫だろうし。
だが、人の下半身を剥いておいて何だが、こんな精神的にアンバランスな場所で脱ぐというのは、やはり、どきどきする。露出狂というか、「露出して当たり前」の俺たちですらそうなのだから、それに快感を覚える気持ちというのも少しは理解できる。
手が、後から腰を抱く、その前に俺の肥大化した性器に触れる。
優しい指先、右の人差し指だ。ぬるりぬるりと撫でて、舐められているみたい、まるで。
濡れた指先を舐めている音がする。俺のも、愛液。あんたへの愛がいっぱい、詰まっているわけだから。
「……塩っぱい」
「……汗かいたから。悪かったな」
「おいしいけどね」
ちくちく、舌がアナル周辺を濡らす音がする。
「いっ」
歯で毛をはさんで、時々引っ張ったりなど、しながら。
人生にはいろいろの喜びが与えられていて、その最大の喜びの一つ、いや、ほかにどんな喜びも要らないくらいの一つに、俺はもう、虜だ。
「入れるよ?」
「入れて」
愛し合う喜びさえあれば俺は、もう。
愛される喜びも、愛する喜びもひっくるめて、こうして愛し合う。喜びに満ち溢れた生活。一人ではなく二人、しかも、他の誰でもなくあんたと、二人で、俺は今ここにいる。
「いく?」
「いく」
「……俺も、いく……」
あんたのところへ、あんたの居場所へ。
そこが俺の場所。
昼休み終了後三十七分、審査部の扉の前で、係長がいつまでもこんなところで油を売っていていいのだろうか俺にはどうもいいとは思えないのだけれど、既に資料室を出て三本目の煙草。
「あ、係長」
「おつかれさま」
女子社員がヴィンセントと俺をいぶかしんで、行過ぎる。
さっきからうだうだと俺たち、話していることといえば、
「愛してるよ」
「……あんたも好きだな、言うの。俺も愛してる」
「君だってそうじゃない」
公害。街のオフィスの公害になっているのだ。
「寂しいんだろ、帰るの」
「あんただって、俺が帰るの寂しいんだろう」
「寂しいよ」
彼は、手を広げる。
俺は、一瞬伺ったけど、落ち着いた微笑をまるで崩さない。
その腕の、胸の中に、全て委ねた。
「……俺も寂しいよ」
そして、約束されたキス。たまにこんなイベントがあっても、やることは普段と全く変わらない。これこそ生活の尊重と呼べるのではないだろうか。それとも、進歩がないだけだろうか。いや、進歩などという結果を追う必要はないのだ。俺たちは今で既にパーフェクト。俺たちがこの形でパーフェクト。一番素敵な恋人同士の形。もちろん、向上心を捨てたわけではない。しかし今後も努力していくのは何も俺たちが今この状況で不完全だからじゃない。ここから先は殆どもう趣味の世界。多分誰もついてこれやしないだろう、どうすれば恋人がもっと早くいってくれるか、そのための括約筋の動きのひとつひとつ、なんて。
ここから先は俺たちの領域。誰もついてこれやしないだろう。愛してる愛してる愛してる、本当に愛してるからこそ、ここまで爆発的な馬鹿も出来るのだ。
ヴィンセントのいるところに、俺はいる、そしてそこは、途方もない辺境で、俺はそれに満足しているのである。