愛しや実篤。

 武者小路実篤、志賀直哉、木下利玄、有島武郎らが同人月刊誌『白樺』を創刊したのが明治四十三年のことであるが、このとき実篤は二十五歳であって、この前々年に『荒野』を処女出版している。実際には『荒野』のほうが先に世出したものであるのだが、実篤自身は同年秋に書いた「芳子」を処女作としている。この背景には、姪芳子が生後十ヶ月で病死した事実を見ることが出来る。何が先で何が後という分類整理は後に生きる人間が便宜上するものに過ぎず、実篤自身が規定するのは無意味である気もするが、実篤がしたかったんならすればいい、少なくとも、一読者である俺は、そこに実篤の優しさを見ればいいので、問題は無かろう。

 ともあれ、『白樺』であるが、よく知られているとおり、「学習院のお坊ちゃんたち」の同人誌として、世間からは冷視線を受けていた。文字を入れ替えて「バカラシ」などと揶揄されもした。

 この頃実篤は、狂信的なトルストイ信仰から、古い言葉でいえば還俗し、「お目出たき人」あたりで人間的な、悪く言えば俗っぽい神経に戻る。しかし俺が好きなのはここからの実篤である。「荒野」に収録された作品群は白河の清きに魚のなんとやらで、人間的ではないように思う。唯一俺の心の琴線を鋭く弾いたのは、うろ覚えだが、

「僕も君のことを何度自分の妄想の中で汚したかどうか知れない」

 という独白。「君」はちなみに男で、美少年で……。

 還俗、それは武者小路実篤という人間においては「進化」だろうと思う。マキハラさんも言っているが、人は人の間に生まれて人に囲まれて生きてるのであって、俺たちがいるのはどうしたって俗界なのである。俗界の中でもまれてけずられて生きてるのが自然な形なのである。ここは知ってのとおり綺麗なばかりの場所ではないが、それは仕方のないことなのだ。ただ、綺麗になろうと、あくまで俗界に在ることを忘れることなく努力するのは、素晴らしいことであろうと思う。

 綺麗になるとはどういうことか。よく判らないが、結局のところ、「人間的」であることだろうと思う。端的に言えば、殺したりしてはいけない、愛を忘れてはいけない、など。

 人間が人間らしく暮らすための理想郷として(そう、人間が人間らしく生きるには「理想郷」が必要らしい)実篤が作ったのが「新しき村」である。大正九年、児湯郡(宮崎県)に建設されたこの理想郷は、完全自給自足生活の形態をとったコミニュティで、東西洋に「理想郷」計画は数あれど、現在もなお一定の成果をあげて続けられているのは、この「新しき村」をおいて他に無い。村は設立十八年目となる昭和十三年、水力発電所建設計画により、越生(埼玉県)の「東の新しき村」へ移転。現在は養鶏などの小農家の集合体として、来るもの拒まずの実篤の姿勢を貫徹している。

 俺が最も好きな実篤は、この新しき村の移転とほぼ時期を同じくして書かれた「愛と死」以降に現れる。「愛と死」は、俺が無差別に薦める本で、回りには辟易されるが、しかしあれは絶対的にいい。好きなものを薦めるとき、人間というのは理が失われ情に訴える。嫌いなものを攻撃する際にはいくらでも理由を挙げられるのだが、好きなものには理由が定かでないことが多い。実際問題、俺は恋人の何処が好きなのだと問われて、

「穏やかで、頭が良くて、優しくて……」

 と指を折って三つ目で言葉に窮した。しかし、本当に心の底から、鼻血が出るほど、俺は好きなのだ。

 「愛と死」で、物覚えの悪い俺が二度で諳んじられるようになった一文がある。ほんとうに最後の「三六」に、それは現れる。

『死んだものは生きてゐる者にも大きな力を持ち得るものだが、生きてゐるものは死んだ者に戴して對してあまりに無力なのを殘念に思ふ』

 ああ、そうだ、ほんとうにそうだ、ほんとうに、ほんとうにそうだ。

 ところで、俺の手元にある『武者小路實篤集』だと、「愛と死」に続いて収録されているのは「眞理先生」である。「執筆なら朝飯前」の名言を残している実篤だから、もちろんこの間にも無数の創作を行なっているのだが、代表作、それも、最もメジャーな部類に入るものだけを集めたものであるから、こうなっている。

 「眞理先生」は俺の聖書だ。

 基督聖書をホテルに置く西洋人の神経が判るような気がする。俺も眠る前に(その夜、性交をしていなければ)時折、「眞理先生」を読む。どこからでもいいし、どの部分でもいいのだが、ちょっと読む。読むと安心したような気分になって眠りにつく、その眠りのスムーズなこと。とにかく、みんな美しい、美しい、幸福というのは、こういうのをさすのだと俺は納得する。深々と納得する。眞理先生に対しては実際、ジェラシーを感じてしまうくらいに幸せなのだ。しかし俺は出来るならば馬鹿一になりたくも思う。あそこまで最後まで純粋に生けたら、それはほんとうに……。

 馬鹿一の手紙がある。その手紙を読んで白雲が泣く、山谷が目を潤ませる。何度読んでも、俺は泣く。これが病気だとも、思わないのだけど。

 「眞理先生」を書いた実篤は六十四歳。他の作家ならば「すでに」、しかし実篤の場合は「まだ」なのだ。実際、これからまだ二十六年もこの人は生きている。素晴らしいことであると同時に、凄まじいことである。七十歳になると、「水のある土地」を求めて調布仙川(東京都)に越し、なおも執筆を止めない。彼の生命力というのは、読んでいる側からすると、年を重ねるごとに増幅しているかのように感じられる。最も晩年は、仕事というより趣味に生きていたようではある。画と小説との割合では、画に割く時間が半分を占めている。それでいながらも、死の年まで筆を離さなかったことからもわかるとおり、そこには生命力が迸っていた、情熱の塊の老人だった。

「此人は小説を書いたが小説家といふ言葉では縛れない 画を描いたが画家といふ言葉でも縛れない 思想家哲学者と云つても何か残る そんな言葉に縛られないところを此人は歩いた」

 墓標に刻されたのが上の言葉である。

 

 

 

 

 人間の、何歳になってからをそう呼ぶのかは明確ではない。広辞苑には「年とった人、年寄り」とだけあって、まあ、カヴァーする年齢を書いていないのは配慮だろうが、得体の知れないものではある。

 例えば定年後が老人と言うことが出来るだろうし、孫が出来たら呼称は必然「おじいちゃん」になるのでそれも老人と言うことが可能だ。ともあれ、明確ではない。

 何が言いたいかというと、実篤はいつから老人だったのだろうということだ。実篤のいわゆる「山谷もの」は老人たちを描いているが、彼らの実年齢に関しては不明だし、そもそもそれを書いていた実篤(六十代以降)を老人だったと規定してよいのかがわからない。六十代の実篤を老人と規定したなら、この人は人生の三分の一を老人として過ごしたわけで、不謹慎な話ではあるが、亡くなってみて「老人の大ヴェテラン」になったというわけだ。さすがに引退を惜しむ声は強かったが。

 老人力という言葉があったが、実篤は老人力とは無縁の老人だった、と、「老人」が幾つからを言うのか明確でないまま、定義してみようと思う。実篤に失語の症状があらわれたのは、病床の妻安子が「召し上れ」と、ありもしない葡萄をすすめた、その翌々日であった。このとき既に(さすがにこの使い方で正しかろう)実篤は九十歳である。ここに至るまでの実篤は実に矍鑠としており、一言で言えば「若い」。考え方も若いし、どこか幼稚である。客人が来ているのに、平気な顔をして大好きな大相撲に熱中したり、茶室から出るとき自分の不注意で頭をぶつけてほかならぬ千利休を詰ったり。若すぎるほどに若い老人というのが、俺が武者小路実篤の晩年に見る姿であり、そして強い好感を持っている。いとおしくすらある。

 残念ながら……、もとい、ちっとも残念ではないことだが、恋人は武者小路実篤とは似ても似つかない。もっとずっと理知的で頭がいい。文章能力も実篤を凌駕する。年齢では実篤の半分をもう超しているが、似ない。似ないでいいと思う、実篤なんかに似ないでいいと思う。

 しかし、同じように俺も彼も、実篤のことが好きだ、大好きだ。本当は尊敬すべき存在で、「サネアツ」なんて呼び捨てにしては撥があたるほどの人なのだが、どこか苦笑しながらあのおじいちゃんを愛している。


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