花火の夜。

 日々、かなり怠惰に生きている。つまり特別さに事欠き、それはもう、平凡な生活。贅沢もあまりしない、恋人が側に居るのが贅沢。一緒にお風呂に入って、洗い場で互いの体の洗い合っている最中浴場で欲情して、その間湯気立てる浴槽を放置するという独創的な贅沢の方法で、多数の情報の錯綜する中で総合的に見て、俺らは幸せの首位戦線を独走中。

 自転車に恋人が跨ぐ。立ち漕ぎをする。トンボに足を乗せて俺が後ろに立って、ちょっと苦しげな声を上げる瞬間に定着する、俺ラ文化概論。

「魚屋は行かなくていいんだね?」

 首を反らして聞く。うん、俺は頷く。

「最近魚ばっかりだったからな。たまには顔の脂ぎるような肉を食べよう」

「脂ぎったらニキビが出来ちゃうな」

「俺がな。……もう吹き出物か」

 血もドロドロになる。だけどいいところもある、スタミナがついて、性欲が旺盛になる。肉に含まれるビタミンB群は肉体疲労の回復に効果あり、良質なアミノ酸もギッシリだ。恋人の、若しくは旦那様の、健康に気を使う俺は男であることを忘れれば、きっと、おはよう、素敵な奥さん。

 こういう日々を俺は何度だって書いてきた。そして今も書いている。誰かにはむさ苦しくて下らない日々の転がる音だけ聞こえる音楽。平凡、平凡、平凡……、確かな価値があるかどうか。多分誰かには本当に無価値な文字の羅列。そもそも語る俺にすら、恋人と自分に価値のある行為かどうか自信もないのだ。自信もないのだけれど、ないなりに、あるのだ、あるのだ、呪文のように唱えつづけている。

 恐らく人間は、もともと知っているものが好きなのだろう。今も昔も「新鮮な」という冠を着いて現れる全てのものが、いつかどこかで聞いた物ばかりの物語。歌にしろ風景にしろ、今に「斬新な」なんて本当に斬新なものには使われないようになるのではないだろうか。人間が生れてきたからには女親の腹を傷め胎動を嫌というほど押し広げて来たわけで、其処に良心が存在する(具合のいいことに「両親」と「良心」は同じ音だ)。そこに訴えかけるようなやり方が一番しっくりくる。だから家族を扱う物語のどんな多いことか。そして、恋愛を拾い上げる歌のなんて多いことか。俺の今語っているのも家族であり恋愛である。だから平凡である。他のどんな恋人たちとも変わらない、変わることも出来ない。ごく、ごくごく、ごくごくごくごく、普通に水呑み生活。

 二人乗りで恋人が汗をかいた。なので、シャワーを浴びた。そこで行なわれたことは既に俺が他の誰かが何度も書いたこと、なのにどうして知りたがるんだろう。そもそもどうしてやりたがるんだろう。一日に二回は当たり前だ。だけどただの変態なんて言われたら腹を立てて足を高く振り上げて靴の先を味わわせてやるのだ。

「海か……。今年は行かなかったね」

 食後、やっぱり多少、脂っこい。テレビは寂しい砂浜を映し出している。しかし、背景は大荒れであって、傘を飛ばされそうなアナウンサーが映っていて、あんまりこういう映像を見て海に行きたいと思う人はいないような気がするが、いてもいいとも思う。

 恋人も俺ももちろん泳げる。サーフィンとかは、まあ、出来ない。したいと思わない。船には乗りたくない。魚は好きだし、貝類も、アワビとカキ以外は大丈夫だ。

「海に行きたいのか?」

 二人で食器を洗って、ソファに座って、台風の進路が自分の家の方には向かっていないのを確認して、ちょっと残念に思う。不謹慎だが、恋人の会社が休みになれば一日中側に居てくれるわけで、腰が抜けるほどセックスができるのに。

 俺の恋人はちょっと考えて、言った。

「行かなくてもいいけど、行けば行ったで面白いとは思うだろうし」

 煙草に火を点けた。俺も点ける。

 愛し合っている者同士だからこそ、火は別々に点ける。先っぽをくっつけあったりするだろ、あれは危ないし、縁起が悪い。先っぽくっつけあうのはちんちんだけで十分。

「まあな。行ったら行ったで」

 この間は温泉に行った。二人でどこかに遠出するのはさほど珍しいことではないけれど、やはり心躍る。恋人の浴衣姿がよかった。長い足、スマートな体が、もう綺麗で。

 夏と言えば海、しかし、海は夏でなくてもそこに在る、どこかに行くようなものではない。よしず張りが取り払われて海の家が畳まれて、誰の足跡も残らない砂浜に律されぬリズムの波音。まだ冬がはるか遠くとも、海には「夏」と「夏以外」の景色しかないように思える。

 俺たちの今住んでいるのは、海からそんなに遠くない、近所と言ってもいいくらい、自転車でだって行ける。だけど砂浜は狭くて、別に水も綺麗ではなくて、遊んでいるのは近所の子供くらいだ。昔俺が住んでいた――らしい――観光ムード一色の海の街とはまるで違う。もっとずっと寂しい。ただ、「海に行く」と言うなら、そういうところが本当になるだろう。

「行きたい?」

 俺は首を横に振る。

「あの街だったら、行きたくない。思い出すかもしれないし……」

「あんなごみごみしたところには僕も行きたくないよ」

 恋人に振り向く、煙を緩く吐き出して、俺の方を向いて、微笑む。

 その観光都市は、俺と、俺の奥さんが、住んでいた街だ。覚えていないが、思い出すかもしれないし、思い出したくもない。過去は分断され、忘却され、消えたものを欲しがったりはしないし、……今と未来が最上と俺は思うから。

「そうじゃなくてさ、今からでもどうかな、海、そこの」

「そこの……」

「うん。静かだろうし、涼しいだろうし」

 俺は覚えていない。俺にとっての失われた数年間に起こったことを何一つ。恋人はその空白を敢えて埋めようとはしない、今の俺とは違うのだと言う。ただ、幾つかの情報は与えられたり、自分で手に入れたりした。今の俺の、この質素な生活方針というか、精神の持ち方からすれば信じられないことでは在るが、夏の日に砂浜一つ借り切って当時の奥さんと過ごしたことがあったらしい、そういう領収書を見たことがある。胡散臭すぎて笑ってしまうような過去が数字としてそこに在り、嫌悪の対象として立ちあがる。

ああいう俺がいなかったら誰も傷つかなかったのにな。

「誰も居ないだろうし」

 微笑んだまま言う。

 大枚叩いたプライベートビーチならばそういうことをしたんだろうなと容易に想像がつく。要するに露悪的な性格は今の俺とさほど差はないようだ。

 俺はテレビを消した。元々そんなに見ない上に、九時から始まる、他に代わりの効く異性間恋愛物語に興味はない。リアルに続く今が大事だ。

 また自転車で二人、坂道を下って、海沿いの道を少し走ると、糸のような小さな細い街の糸の端の辺りに小さな公園があって、海を望む位置にベンチがある。車止めに俺たちの車を括り付けて、中に入る、犬一匹居ない、宵っ張りの海がまだざわめいているだけで、はるか彼方に灯台。

 俺は恋人をベンチに座らせる。入口から近くも遠くもない。黒いぬらぬらした背中を見せる海がじろりと此方を見た。闖入者を訝っているようにも見える。

 互いの顔も暗くて上手く把握できない。だから近付いてキスをして、ズボンに触った。片手でベルトを外すのに慣れた。ジッパーを下ろすのにも慣れた。シャツを捲り上げる。戸惑う事無く恋人は受け容れ、乳首を触ると息を俺の頬に這わせた。ほんのかすかな汗の匂いに意識が揺らぐのを遊び、首筋から耳への、輪郭も定かじゃないけど何かある線を辿った。

 恋人の名を呼ぶ前に、唇を一度湿らせた。俺に出せる一番色っぽくて男らしい声を出そうと思ったから。

 恋人がまた一つ震えてくれた。俺は、俺として、俺が、俺の体で、生きていることを悦びながら、顔を下ろし、乳首を吸った。吸いながら、潮風に舐られて甘酸っぱい熱を絡ませる性器を撫ぜた、撫ぜてすぐ手のひらの熱が嬉しくなって、俺は扱き始めていた。

 恋人が息を上げる。その口から溢れるア行中心の息が声が俺の首筋をぞくぞくさせる。俺も心底感じきって、膝をつき、ペニスを頬張る。経験の割に大した技術もない器用さもない、だからこその懸命さで、撫ぜて、舐める、扱く、愛す。俺の左手の薬指で光らない銀色の、変哲のない指輪は約束のしるしでも何でもなく、未来を呼び込む一里塚。恋人と揃いなのが嬉しいだけ。それすらも無機の感じを与えないように俺は気を使う。腹の底から息をしながら俺の髪に手を置く恋人、の手の左の薬指にも同じ物が嵌っていて、ああ、何の意味もない、しかし、間違いなく未来への。

 少し薄い、だけど、だから、飲みやすい、精液をもらって、それが一つの満足になり、また一つの欲求不満となる。俺もすごく硬くなっていた。吸い出して、口から抜いたペニスは、夜の闇の中俺の唾液で、誰かにはグロテスクに光っている。

「気持ちよかった……?」

 俺はそれに、手のひらで撫ぜて訊く。後残りの汁も欲しい、舌先で掬った。

 暗闇でも俺がどんないやらしい顔をしているかは彼に伝わっているはずだ。

 そしてそれが、とても嬉しい。

「……もっと、気持ちよくしてあげるから」

 靴が邪魔だった、サンダルも邪魔だった。つまりはベルトがボタンが邪魔で、ズボンが邪魔で、下着も邪魔で。

「上は?」

 恋人がそう言うから、シャツすら邪魔だった。

「こんなところで裸になるんだね、君は」

 そうだ、そうだよ。

 椅子の上で膝で立ち、彼の眼前に裸を晒す俺の価値が誰にも判らないことは寧ろ好都合。恋人以外の誰かに触れられたいとは思わない。俺が自分の手で尻の穴を弄るのを、伴って俺のペニスが震えるのを、観察している恋人が、敢えて触れないのを知っている。そしてやがて繋がる肉が、耐えるように震えているのを知っている。

「誰か来たら?」

「どうもしない……」

 恋人は俺の肌に舌を這わせた。微妙な凹凸のたくさんある、男の体をなぞるのだ。

「君の裸を誰にも見せたくない半面」

 腹筋、胸筋。俺の体を形作る要素、彼のいとおしく思う舌が俺に与える新しい価値、

「逆にね、すごく見せてやりたい気持ちがある。ハメ撮りしたなら、それをネットに上げて世界中に晒したい。公衆の面前でセックスして、僕らが愛し合ってるのを知らしめたい。世界が僕らから眼を反らしたなら、そこに僕らだけの世界が生れるよ」

 創造する、新しい世界。

 俺は笑った。

「そういう趣味があったんだな。……道理で」

「道理で?」

 黒い髪の甘さ、知ってるのは俺だけだね、そこに伴う汗の匂いも。

「……いつもより硬くて、美味しかった」

 俺は腰を下ろす。

「腹の中入れたら、きっともっと、ずっと、すごく、美味しいに決まってる……」

 そしてそれはすごく本当だった。

「は……ぁ……、……な、ホラ……美味しいよ、あんたの、美味し」

 無邪気に笑う彼と俺の顔を切り取った、真っ暗な夜空には月もなくて、常夜灯は俺たちのベンチの両側を照らす。屑篭の中の成人雑誌に勃起するようなペニスを俺は持たず、腹の底からの突き上げにそりゃあもう物凄く感じる。一番奥まで入ったときが一番楽で、ちょっと引かれる、それが、寂しくてしんどい。なぜって俺の腹の中は、もう恋人のペニスの輪郭になっているからだ。他の誰でもない、この、俺の、無邪気に笑いながら俺を抱く恋人の形になっているからだ。

 舌と舌が粘っこく糸を引く。俺はけだものの類の声で善くなり、射精する。誰か来い、誰か来い、誰か来い、そんなことを思いながら、喉を仰け反らせて暗闇を見上げると、そこには暗闇ではなくて幾多の星があった。降るように見えた。けれどそのどれ一つとして俺らには無縁の輝きだと、恋人が俺の中に出すのを感じながら俺は思う。別に誰かが目を反らさなくとも、ここが世界と言えばいい。

「なあ、……まだ、なあ、もう一回」

 抜いても零れないよう、指をあてがった。すぐ下は海、柵の手すりに手をかけて誘う。この尻に欲情できる恋人、悪い子だと俺を誉めて今度はバックから。風が汗に空回りする。

「お尻の穴、好きだよ、……いいね」

 風の波の、夜の音でも、隠し切れない粘液の音と、恋人のいやらしい声。ぬるぬるの手で俺を扱く、刈首に人差し指を当て、挟むように。俺が嗄らす声をもっと欲しいのだと思う。

 特に何の過失もなく在る俺らを否定する世界が現実なら、未来に生きると決めている。子供が生れないことを何度も何度も書く趣味の価値、判ってもらえなくてもいい。病んでるなら病んでるでいい。俺には一番側に俺を誰より肯定する存在が在って、だからここまで開き直って……、世界よ、俺のキックを召し上がれ。

 ずるずると硬い地面に落ち、俺は自分の後ろの口が精液を吐き出すいつもの通りの排泄を寂しく終えて、柵に額を押し付けた。冷たくて心地いい。恋人がティッシュで拭いてくれようとするのを止めて、自分で片付ける。場所は違えど流れは同じ。床や布団を汚さなくていい分だけ、外のほうがいいかもしれない。

「結局誰も来なかったね」

 裸の俺の側に、彼もまだズボンのベルトを解いたまま、座って、煙草を取り出した。火を点けてから、俺に渡す、自分用の一本を、また取り出して火を点ける。吸って、頭くらくらきて、脳裏星が飛んだ。

「……そんな、心底残念そうな声出すなよ」

 こうして見ると、誰より大人っぽくて穏やかで優しい頭のいい素敵な俺の恋人は、子供みたいに笑うのだ。

「ねえ、またいつか外でしよう。もっと危ない場所でもいいし、君が不安なら人の通らないところとか。……それこそ、ね、どこかの砂浜まるごと借り切って、ずっと裸でいるのも楽しいかもしれないね」

 ああ、と俺は、何の疑問もなく言った。

 何の痛みも感じずに言った。

「そうしたらさ……」

 それだけではなく、俺は言葉を繋ぐのだ。

「花火を上げようよ、そんな多くなくていい、俺たちで、並んで見る、一つだけでもいい、一つきりの花火……打ち上げ花火をさ」

 一緒に肩を並べて多分裸で見る。花火師は迷惑か?

 自分たちの生活姿勢を否定してまでも俺は自分たちの愛を重要視する。

「そして……、たくさんセックスしよう、おかしくなるくらい、な」

 煙草を消し、恋人は俺の顔をじいっと見てから、キスをした。俺たちの口腔を煙が行き来する。俺も煙草を消した。何度もキスをした。

「そんな日まで待たなくてもいい、……待ちきれない」

 恋人は、指をぺろりと舐めて、くたりと寝た俺のものの先を撫ぜる。

「今でいい」

 扱き始めた。俺は恋人がそうする様子を黙って見て、全面的な同意を篭めて、頷いた。


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