The future attraction.

 飛び乗り車の窓開けたなら前から後ろへ風を集めて、軽く制限オーバーしながら走る視界に秋を探して、カーステからは、「ROCK-ON」、

ROCK-ON!」

 街から外れてテンション預けた速度に乗って車が走る。

 本日モ晴天ナリ、俺らの空はいつだって、晴天なり。右利きのグローブを二つ、軟球は何球も、トランクに突っ込んだ午前十一時、突発的なドライブはいつでも、行過ぎる風に任せて、視界開けた助手席で夜も笑い明かして、違う世界へ誘われるようなライブドライブ。清らかな空気を震わせる大音響を遠慮なしで振り撒いて風に混ぜ込んだら、オリジナリティだけは溢れるシンフォニーが生まれる。

 いつまでも俺らの尻を離そうとしなかった街並からやっと逃げ切るのに、丁度CD一枚分かかった。車を止めた運転席のヴィンセントは軽い足取りでトランクを開けて、早速俺にグローブを放った。ゆっくり俺と距離を取りつつ、柔かい球筋のボールを俺に任せる。肩慣らし、その指に見惚れる俺は浅まし。

 スポーツの秋と言えば、そういうことになるのだろう。運動といえばやはりセックスを嗜んでいる、一日に何度も。だけどセックスは芸術にもなるしゲイ術にもなるし、食欲を満たしてくれることさえある。さすがにセックスしながら読書をするのは難しいものがある。とは言え、かなり後半に「秋」を満たしてくれる行為である。それでも、いつも同じベッドの上でするよりは、という気持ちにならないことも無い。キャッチボールを始めた俺たちだが、もうこの青い空の色づき始めた山の下、アウトドアでも構う事無く濃厚な愛の時間を過ごすつもりでいる。

 ぱちん、とヴィンセントの放った球が俺のグローブを叩いた。目測で凡そ、二十メートル。ピッチャーズマウンドからホームプレートまでの距離よりもやや長い距離を、キャッチボール程度のフォームで回転鋭いストレートを、俺の構えたところへ見事投げ込む。俺の投げる球も決して遅くは無い。それでも球質はまるで違う。ただ、細身のヴィンセントへ、俺も力を篭めて投げる。少し身を捩るようにして、高く浮いた球を丁寧に捕球した。彼にしろ俺にしろ、肉体的には一般人より優れている自身がある。習慣的な運動が……、この話はまあいいが、とりあえず体脂肪率は相変わらず十に届くことは無いし、ヴィンセントはもっと低いはずだ。キャッチボール一つにしても、力を篭めれば戦闘のように見えてしまうかもしれない。

 また、鋭く俺の掌を、ヴィンセントのボールが射る。球に篭められた力は俺の掌へ弾けるような熱感を与えた。

「ちょっと速い?」

元々ヴィンセントは社会人野球で投手をやっていた。だから、キャッチボールとは言え、球の質は素人とは全く異なる。肉体的にはそう劣るつもりも無い俺も、その一球に顔を顰めないわけには行かない。

だが、気を使われるのは、嬉しいようで、面白くない。ヴィンセントよりも全ての点において劣ることは動かしがたい事実なのだが、それでもヴィンセントに対して劣等感ばかり持っている自分では在りたくないので。

「平気だ」

 振りかぶって、本気で投げる。百二十くらいは出ていてもいいと思う。だが、ヴィンセントはするりとそれを捕ると、あまり力感を感じさせないフォームから、俺の入魂の一球を遥かにしのぐ直球を叩き込んでくる。

「ストップ」

 とヴィンセントが止めた。俺の左手はじいんと痺れていた。ヴィンセントは俺に駆け寄り、「いいこと教えてあげる」と、俺のグローブからボールを抜き取った。

「軟球にも縫い目があるだろ?この縫い目にしっかり人差し指と中指をかけて。あと、腕だけで投げようとしちゃダメだ。お尻から、身体の重心を移動させながら、膝は最後まで開かないようにタメて、最後に肘を柔かくして投げる」

 身振り手振りで教えてくれて、やってごらん、とまた二十メートルの距離をとる。俺の満足のために往復四十メートル走ることなど厭わぬ彼に仄かな感動を抱きながら、言われたとおり、縫い目に指を引っ掛けて、臀部に重心の乗っていることを確認する。

ゆっくりと尻を左前方へずらすように進ませながら左膝を外に開けぬよう堪えながら踏み出していくと、右足から生まれた力が螺旋状に身体を駆け、着地した左足から湧き上がったもう一つの力と合流し、右腕に殺到するような気になる。「柔かく」のアドバイスに従うために余計な力を抜いた肘は、自分でも思ってもいないほど鋭く振りぬかれた。状態は左足の太股に着くほど伸び、指は自然に、何球を押し出していた。

真っ直ぐの軌道で、ヴィンセントの構えていたところからはやや逸れたが、ぱちん、乾いた音を立てた。

 ヴィンセントが微笑んでいるのが見える。

 本日モ晴天ナリ、こんな風に、晴天なり。

 

 

 

 

 青空の広い中キャッチボールをし、もちろんセックスをしたら、気付いたらもう三時を廻っていた。車に乗り込んでヴィンセントは地図を開いて少し思案する。

「近くに温泉があるね」

 指差した先には、確かに湯煙のマークがある。

「日帰り温泉もある。……この時間じゃ混んでるかな。でも汗かいたし、久しぶりに広いお風呂に入るのも良いと思うけど、どう?」

 うん、と俺は頷いた。ヴィンセントの提案に異論があるはずもないのだ。

 車は数分走って、すぐに真新しい日帰り温泉の駐車場に入った。ヴィンセントの予想は鋭く当たり、下足箱は半数ほどが埋まっている。手ぶらで来てしまったので、手ぬぐい他を入湯券と共に買い求めた。

日帰り温泉に必需の大広間の卓も割合賑わっている。酔っ払った中年のカラオケなど聞きたくも無いので、脱衣所に直行する。かなりの数のスリッパが雑然と入口に並んだ脱衣所も結構な混雑で、扇風機に火照った身体を当てて冷ます老人や、恥ずかしげもなく裸で走り回る豚児、或いは女湯には恋人がいるのかもしれない青年、不安げな趣の髪にトニックを振り掛ける中年など、男の裸の大図鑑が出来そうだ。同性愛者であるから、何となく、でも、確かに、俺の目線は擦れ違う男たちの性器を視界に収める。そして、何となくの安心を得る。ヴィンセントの勝ち、ヴィンセントの勝ち、ヴィンセントの勝ち。俺の恋人の性器は、どこへ出したって恥ずかしくないと、誇らしく思える。自分が同性愛者ではなくて、単にヴィンセントを愛するだけの男であることに気付かされる。

もちろんヴィンセントは俺の考えるそんなことに気付くはずも無い。

「クラウド、ねえ、僕いいこと思いついたんだけど、言っていい?」

 不意に、ヴィンセントは子供のように無邪気な表情を浮かべ、切り出した。さらりとしていながらも滑らかさも併せ持った筋肉質の裸にはあからさまな色気は無いものの、俺のような人間の目には複雑ないやらしさを纏っているように見え、膀胱のあたりに疼きを感じる。ヴィンセントは鞄の中に手を突っ込んで、底の方を探ったかと思うと、ピンク色に透通った頭部を持つプラスチックのバイブレーダーを引っ張り出した。二人で時々行くアダルトグッズショップで買った四つのうちの一つだ。

「これ、入れていい?」

 呆気にとられた俺の眼前で、それをゆらゆら揺らして見せた。ヴィンセントの表情は昼下がりの鈍行列車のような平和さで、口に出していることとはあまりにも裏腹なものだから、周囲にはまるで気取られていない。ただすぐ傍でパンツを穿く五歳くらいのガキが、ヴィンセントの揺らすものを見上げただけだ。それにはヴィンセントも気付き、微笑んで、ゆらりゆらり。

「さすがにこんなに人一杯いるところじゃ恥ずかしい?」

 ヴィンセントの表情は五歳児よりもなおピュアだ。欲望を隠さずに言うと、却ってストイックな趣になるのだと俺は知っている。普段の俺だってずいぶんピュアだろうと思う。「おなかがすいた、ごはんがたべたい」というほどのシンプルな欲を平然と口にしているだけのようにも見える。俺が何とも言えないでいると、彼は肩をすくめて、「まあ、嫌ならいいけど」と言った。

「君とそういう思い切ったことをするのも楽しいかなって、何となく思っただけだから。さっき使わなかったしね、これ」

 言葉の端々に寂しさを感じ取ってしまったと言えば、余りに甘いだろうか。だが俺は年中無休で彼から蜂蜜を飲ませてもらっている。損得勘定を持ち出されるようなことは無かろうと思うが、俺ばかり幸せであることを、俺は幸せとは思わない。言葉を上手に紡げないで、ただこっくりと頷くと、ヴィンセントはまた少年のように笑顔を輝かせた。

「ほんと?嬉しい。ありがとう、……大好き」

 これだけのことで美しい笑みと「好き」という言葉をくれたのだから、これでいいのだ、きっと、これでいいのだ。

 ヴィンセントはバイブをタオルに包んで渡し、奥の便所を指差した。俺はまたこっくりと頷いて(こういう仕草ももう子供のようだ)、個室に向かった。丁度先客が出てくるところで、俺は多分、決然とした顔になっていた、腰にタオルを巻いただけの若い男が、俺とばったり目が合って、驚いたような顔を浮かべた。

 個室の鍵を閉めて、タオルの中から、これまでにも何度となくヴィンセントを愉しませ俺を悦ばせてきた楕円球体を取り出し、改めて見る。俺の中も、時にはヴィンセントの中さえも、入ったことのある欲の玩具、ずいぶんと安かったから、二人ではしゃいで調子に乗って四つも買ってしまったのだが、大抵はこのピンクと、あとは精悍に黒光りするものを使う。たまにヴィンセントのそれをもしのぐ太さ長さを誇りパール様の突起まで備えた巨大ディルドで中をかき回されることもあるが、総じてこれの出番が多い。

 先ほど野原で車のボンネットを有効活用したセックスをした際には、これの出番が無かった。鞄の中に入れたまま忘れてしまったのだろうと推測する。その代わり、指とペニスを存分に味わうことが出来たが、電子的な動き、と言っても内部にあるモーターが廻るだけなのだが、人間の指では表現出来ない振動を奥底に与えられるのは、嫌いではない。

 けれど、ここは温泉だ。野原でセックスをした人間が考えることではなかろうが、衆目を、俺だって気にする。尻にものが入れば、刺激される。一番欲しいものの熱ではなくとも、近いものと器用に判断するから、恐らく、いや、ほぼ確実に、というか、もう想像しているだけで、勃起する。浴場という裸を晒す場所に於いてちんちんを硬くしているのは、只の変質者だ。いや、只のではない、特に変質者と言える。警察に電話されたって何ら文句は言えない。純粋に変態というレッテルを受けることは間違いない。

 しかし、ズボンとトランクスを下ろして、俺は自分の勃起が一向に収まらないどころか、熱を増幅していることに気付いている。変態的な行為に臨もうとして、俺のちっとも自慢にならない男根は、かすかに震えているのだ。無意識のうちに舐っていた指を、足の間に差し入れる。女のように濡れればいい。だが、今は濡れていなくて助かった。トランクスの尻がびしょ濡れになっていたところだ。

 スイッチを切った状態のまま、そっと、丸い頭部を押し当てた。輪郭は人間的な温もりに欠く。大きさも、ヴィンセントに比べればずっと物足りない。俺のがこれぐらいか、当時十代の半ばだったルーファウスもこれくらいだったか。ゆっくりと身体の中へ沈めて行くプロセスに、本当の彼氏でないどころか乾電池で動くモーターに欲情している自分が、どこまでも穢れきったものであるように思えてくる。しかし、俺は俺の、排泄物のような汚さ醜さを意識して、自分でもどのスイッチが入ったか判らず困惑しつつも、赤黒く性器を張り詰めさせていた。

 楕円球は俺の尻の中へ収まった。肛門からは、ピンク色のコードが伸びている。スイッチを下着の中に隠し、ゆっくりと、足元を確かめつつ、歩く。何とも言いがたい排泄欲求と、芽生えた倒錯の悦びに、ズボンの前が苦しい。

 ロッカーの前で、ヴィンセントは既に腰にタオル一枚の状態で待っていた。

「顔が真っ赤だよ、クラウド」

 耳元で擽るような声を出した。

「じゃあ、ズボンとパンツ脱いで。お風呂、入りに行こう」

 とても上手に裸になれそうな気はしなかったが、尻に笑窪を作りつつ、俺はズボンを下ろす。下着の裾から垂れるコードを見て、ヴィンセントは微笑んで、コードを手繰ってスイッチを持つ。トランクスの前が尖っているのを、咎めもしないで、隠すためのタオルを俺に渡す。俺は慌てて巻いて隠すが、手で抑えていないとそこがどうなっているのかは、瞭然としてしまう。

「じゃ、行こうか」

 ヴィンセントはスイッチをハンドタオルの中に隠し、俺のすぐ後ろに立つ。身体でコードを隠すことによって、俺の内部でバイブが眠っていることなど、誰も気付きはしないはずだ。ただ俺は勃起した性器を必死に隠しながら、ぎこちない足取りで歩くしかない。引き戸を開けて入ると、湯はやはり混雑している。身体を洗う者、風呂の縁に寝そべる者、湯の中で談笑する者、思い思いの方へ向けられた視線が全て自分の下半身を見ているような錯覚に陥った。

「身体、お湯かけて」

 ヴィンセントが立ち止まる。コードが突っ張って、中で角度を変える。腰が砕けそうになる。

「大丈夫だよ、これ防水のだから、つけたままお風呂に入っても壊れない」

 身体を濡らして、浴槽に向かって歩き出す。膝が震えて困る。観察している者がいれば、明らかに俺の動きはおかしい。股間を抑えて膝ガクガクさせて、失禁寸前の子供がこんな動きをするのではないか。

 最低限のマナーとして、腰に巻いたタオルを外さなければならない。ヴィンセントはさらりと外す。俺は、「隠してて」、耳元で囁かれて、仕方なく、左手を押し当てて隠し、右手でタオルを外した。湯温は、平時なら心地良いはずの四十二度、しかし、今の俺にはずいぶん温く感じられた。そのくせ、慎重に身を沈ませたら、汗が噴出して止まらない。ヴィンセントはのんびりと足を伸ばすが、俺はガチガチに固まって、膝を抱えている。

「そんな緊張しないで……、誰も気付いていないよ」

 ヴィンセントはそんな呑気なことを言う。だが、俺は息を呑む思いだ。星の上でこの瞬間、誰よりも損な風呂の入り方をしている自覚がある。

「中でいったらダメだよ?周りの人に迷惑になっちゃうから」

 耳元で、そんなことを言ったくせに、

「っあ!」

 ヴィンセントは無慈悲にスイッチを入れた。思わず声が出た。

「うん、気持ちいいねクラウド……、やっぱりたまに温泉来るといいねえ」

 俺はただがくがく頷いて、顔を覆った。尻の中の、深い上のほう、震え出した塊は、丁度さっきヴィンセントの指が「ここ?」と尋ねながら刺激してきた場所の辺りにあって、俺の下っ腹のあたりまでを烈しく揺さぶる。声を混じらせずに呼吸するのも困難で、性器は早くもピクピクと不意の脈動を見せている。

「見せて……、ああ、すごいや、もうこんなに硬いんだね」

 すぐ後ろを、子供がきゃあきゃあはしゃぎながら走り去った。

「こんな場所でこんな風になっちゃうなんて、クラウド、変態だね」

「そんな……、あんた、が」

 押し殺した声さえも、淫らに震えた。抗弁しかけたところ、ヴィンセントが、目盛りを一つ、上げる。俺はまた、身を強張らせ、言葉を失う。

「確かに僕の提案だ。でも、こんな風に硬くしちゃうのは君の責任だよ。普通の人なら……、例えば僕なら、こんな場所でギンギンに勃起するなんて出来ないよ」

 くすくすヴィンセントは笑って、「ああ、いいお湯だ、気持ちいいねえ」、声のヴォリュームを戻した。

 こういう、無慈悲なヴィンセントがいることを、俺もよく知っている。アブノーマルな形でなくとも、心からの愛と共にくれる虐待の言葉は、十分に文化的な人間であることを自覚する俺の臓器の数々に、原始的な快楽を与えるのだ。俺が悦ぶから、ヴィンセントは時に進んで虐めてくることもある。それが変態かどうかという議論は置いても、思いが伴えば愛の形だ。

 愛されている。

 肌がちりちり焦げそうな羞恥心に身を委ねながらも、俺の胸にはそんな思いが満ちている。この人に、いっぱい、愛されている。悦び以外の、何になる?俺は生きるこの世界にとうの昔に背を向けた人間だ、この人に愛されていれば、何も怖くはない。

 ……はずだが、やはり、ちょっと怖い。

「クラウド、ね、サウナもあるよ。慣れない運動して疲れたでしょ」

 ヴィンセントは立ち上がり、くいと俺の腕を引っ張る。急激な動きには対応出来ない。顔を顰めて、ゆっくりゆっくり腰を上げる。尻から生えているコードを誰にも見られていませんように、祈りながら。

「尻尾生えてるみたいだ。可愛いよ」

 ヴィンセントに囁かれながら、また腰に大急ぎでタオルを巻く。巻いたところで、そこが小型のテントを作っていることは容易にばれてしまう。抑えているのも虚しい努力だ。

 焼ける木の匂いで噎せ返りそうなサウナの中には既に先客がいた。

「あっついわー……、なあ、いっちん早よ出ようやー」

「うるさいわお前……、もうちょっと我慢せえ」

 汗びっしょりの子供が、二人。サウナに入る前から脂汗で濡れた俺の身体に、ちらと目線を送ってきたが、すぐまた二人での遣り取りに戻る。

「もう十分経ったて、絶対」

 身体の少し小さいほうが、大きいほうをせっつく。同い年か、あるいは一つか二つくらいは違うのか。顔が似ていないから、兄弟ではないだろう。

「まだや。まだ八分しか経ってへん」

 俺はヴィンセントと並んで、少年たちの座る場所から一番離れたところに腰を下ろした。相変わらず微動し続けるバイブに、理性が溢れそうになっている。

「なあ、喉渇いてもう死んでまうてぇ」

「最初に十分入る言うたんはお前やろ」

 早く出てくれ、ちらりと十二分計を見る、秒針が漫然とと動いていく様を凝視しながら、俺は不思議と九十度超の室温にも朦朧とすることはない。ただ快感を耐えることにだけ神経が傾けられているからだろう。

「暑い?大丈夫?」

 暑さはどうにでもなろうが、内部の震動はほぼ直接、膀胱を突き上げて伝わるのが、そろそろ辛抱できなくなってきた。中にある数時間分の水分が烈しく揺さぶられるせいで、狭まった尿道がひりひりするほど刺激される。だが「トイレに行きたい」などと言えば、また新しい種を渡すようなものだ。口を噤んで、黙りこくって。しかし、どこかへ置いてやり過ごすことも出来ないほどに俺の中で面積を益す尿意が、急激な勢いで俺を支配し始めた。

 さっきバイブを入れるときにしておくべきだったのだ。ヴィンセントの不意打ちに遭って、冷静な判断能力を失っていたとは言え、どうかしている。だが今更後悔しても遅い。

「なあ、もう出ようやぁ」

 身体に新しい種類の汗が一斉に噴出し始めた。早く出ろ、お前ら早く出ろ、膝に置いた手に白くなるほど力をこめるが、痛いだけで何かの役には立たない。

「あと三十秒や……、我慢せえ」

 あと、三十秒。全身を鼓動が往き巡る。あと三十秒。秒針の速度が一段と遅くなった。

 隣りでヴィンセントはただ熱に耐えている。その肌に浮かんだ汗がセクシーだと考える余裕はもうない。俺が悪いんじゃない、多分、俺だけが悪いんじゃない、ヴィンセントの責任だって半分ある。俺は必死にもがいて逃げ場を探した。今から何かを言ったところで、彼はこの行為を中止したりはしないだろう。むしろ俺の苦しむ様を見て、それはそれは美しい微笑をくれる。その微笑を、俺はずっと欲しがっていた。俺の愚かしい姿を見て彼が見せる表情を、水のようにトイレのように求めていた。

 赤すぎて却って青いのかもしれない俺の顔を、ヴィンセントがちらりと見た。

「クラウド、すごい汗。もう出ようか?」

 穏やかな、優しい声、冷酷とはこういうのを指す。

「十五秒、……さん、にぃ、いち、じゅうっ、きゅうっ、はちっ」

 少年がカウントダウンを始めた、数字が減っていく、早く出て行け、……早く!

「ろく、ごぉ、よん、さん」

 お前らが出て行けば、そう、息を止めた瞬間だ。

「うあ……っ」

 尻の中の震動のレベルが、また高まった。

 俺の上げた声に、年上の方の少年が振り返る、目が合った。

「ぜろっ!いっちん、出よ、頭クラクラするわ。……なあ、早よ」

 汗でぬるつく太股と太股の間を、汗ではない液体が洗いながら滑り降りて、股下へと抜けていく。すぐに尻の辺りまで体温の濡れた手を広げ、足を伝って零れてゆく。

「あ、うん……」

 年下の方に引っ張られて、すぐに視線は戻ったが、ドアを開けて出ていく瞬間、もう一度、彼は俺の顔と、膝のあたりを、見た。尿道が爛れたように痛み、それでも苦しみばかりではない、解放される危うい快楽も伴う。灼熱の空気に肌を焼かれていながら、俺は身震いした。覆水盆に帰らずの言葉の通り、流れ出た体液をどこかへ片付ける術を、俺は持っていなかった。

 ヴィンセントは隣で、小さく笑った。

「見られちゃったね、あんな小さな子に」

 俺の足元を覗き込む頬には夥しい量の汗が流れる、でも、どこか涼しげな顔だ。

「……いっぱい出たねえ……、我慢してたんなら言えばいいのに」

 俺はどんな風にだってヴィンセントに抗弁出来たはずだ、俺だけのせいじゃないと、あんたが意地悪だからだと。でも、虐められて悦ぶのは君でしょう?そう優しくたしなめられれば途端に言葉を見失う。理由も経緯も問題ではなく、ただ俺が失禁したということが、この場合は俺にとっても重要だった。

「誰かに気付かれないうちに行こう」

 君のおしっこの匂い好きだし、居心地悪くないけど、ヴィンセントはそう言って立ち上がった。ことりと音を立ててバイブが落ち、床でのたうった。ヴィンセントは苦笑いし、それをぺろりと舐めると、再び俺の中へと押し静めた。

再び内部で弾ける震動と、禁忌とも思える失態を晒した羞恥に、歪んだ性欲は益々刺激される。実際的に穢れ切った身体を持ってこの人の恋人で在るという自覚は、幸福へと形を変える過程、まだ現状、幸福には至らず、洗い場に戻ってヴィンセントに下半身中心にシャワーをかけられながら、そのシャワーの湯にすら差すような快感を味わう、ただおぞましい生き物としか考えられない。

「あっちに露天風呂がある。夕焼けが綺麗だよ」

 先ほどの少年二人と擦れ違った。タオルの上から股間を抑える俺と、すぐ後ろにピッタリ寄り添うヴィンセントは、おかしいと感づかれればあからさまにおかしく、彼が俺の失禁したことに気付いているのは明らかだった。

「大丈夫さ、どうせ二度と会わない」

 俺の心を読みきってヴィンセントは言う。しかし、あまり慰めにはならなかった。

 瓢箪型の露天風呂は、秋風が吹き抜けて寒い。稜線を赤黒く染める夕焼けに目を射抜かれる。

「もう限界でしょ?」

 ヴィンセントは囁く。

「そろそろ許してあげる……。タオル、外れないようにしっかり止めておいてね」

 言葉もなく、ただ頷いて、一歩一歩を確かめながら、俺は進んだ、ヴィンセントは俺の背中を押し、眼下に駐車場を見下ろせる壁沿いへと誘った。

「すごい、綺麗だね……。やっぱり秋の夕焼けは綺麗だなあ」

 ヴィンセントはあくまでも無邪気な声でそう言って、眩しげに右手をかざした。左手に持ったコントローラーの目盛りを、じりりと高める。

「……う……んん……っ」

 柵の縁に手を付いた。

「ほら、僕らの車が見える。……まだこれから入りに来る人もいるんだね」

 ヴィンセントの言葉の通り、眼下にはこれから建物に入ろうかという家族連れの姿も見える。湯上りの赤らんだ顔で車に乗り込む人もいる。後ろを振り返れば、くつろぐ人々がいることも判っている。

 日帰り温泉、公共の場だ。だとしたら俺は、ヴィンセントは、公共の福祉に真っ向から抗っていることになる。それは俺の望んでいた形のはずだ。誰にも触らせないこの聖域、ヴィンセントと俺の二人だけで居ればいい。だが一度社会の中に放り込まれれば、俺は身の焦げるような羞恥を味わうこととなる。

 それすらも快感ならばそれも構わないと、胸を張ればいいのだ、きっと。

 下ろした右手を、ヴィンセントは俺の下半身へ回す。横から見れば何をしているかは瞭然であるが、左右に遮るものはない。後ろからだって、何をしているのか、怪しまれる可能性は十二分にある。だがヴィンセントは恐るべき勇気で、社会に向けた背中をもっともっと醜くしようと試みる。タオルの中へ潜った手を、俺の性器の根元にかけた。

「ぬるぬるだ」

 俺たちにとって普通が、彼らにとっては異常と映る可能性を、どう妥協しても排除出来ないというなら、素直に俺は諦める。人間であることをやめて手に入れる幸福に片手を乗せて、君もおいでよとあんたが言うなら、俺は素直に手を伸ばす。

 朦朧の中、ヴィンセントの指が絡まり、動き始めた。漏れ聞こえる手と性器の間の汗の滴が潰れて滑る音、俺の吐息、美しい視線だけに映る醜い体、歪んで煮えて融け出して、あんたの掌の上で俺は、また、俺の形を取り戻す。「可愛い」とあんたが言う形へと姿をいくらだって変えるがむしゃらな器用さをご覧に入れよう。

 気付かれたっていいさ、もう、見ろよ、見ろよ、見ろよ、俺ら綺麗だ、俺が綺麗だ、この姿でこんなに恋人に愛されてんぜ。処女雪を初氷を踵で踏みつけにしてバラバラにする勇気と覚悟を備えた、心と身体こそが宝だ。

 焼けた尿道のとば口に詰まっていた精液の塊が、括約筋の引き金に押し出される。低い壁に向かって、弾ませた魂の鼓動。瞬間、膝から力が抜ける。焦る事無く身体を支え、俺が長い射精を終えたのを見計らって、手の中スイッチぐるりと回し、俺の心も解き放つ。

 最後まで声を殺せたのは、緩い俺にしては上出来だろうと思う。ヴィンセントに身体を支えられながら、瓢箪の端っこで身体を、どうにか自分で流し、足だけを浸した。隣りでヴィンセントが、青に黒と赤を混ぜた空を見上げて、そこに浮かぶ雲の模様を指差して、「秋だねえ」と呟いた。鳶が一羽、寂しげに通り過ぎて行く。

「汗流して、出ようか、クラウド」

 うん、と頷いた。俺たちは日常の風景になる。まだ熱を帯びたような身体の理由は、ヴィンセントがくれないからだと判っている。そして、ヴィンセントもそれを表出させることはないけれど、俺に入れたいのだ。

 サウナの方に目をやると、係員らしき人が「使用禁止」の札を掛けている。中で異臭がするらしい。どこの誰の仕業やら、見回すと、あの少年の片割れがいた。俺を見て、口をぽかんと開けたから、ストレスから解放された気で、小さく手を振った。それは単なる挨拶、さっき其処でお会いしましたね、ご縁があったらまた会いましょう、また会いましょう。

「なあ、いっちんどうしたん?」

 腰にタオルも巻かない弟分が少年の腕を引いて下から見上げる。腰にタオルを巻いた少年は今少し俺に目線を送ってから「なんでもない」と首を振った。「また露天風呂、行こ」、「えー、なんで?上がるん違うん?」、「ええから……、露天風呂、行くで。もう一回温まり直してからや」。十代の入口といったあたりに見える弟分は、唇を尖らしながらも、腕を引かれてついていく。それはとても愛らしい光景かもしれないなどと、勝手ながら、俺は思った。小さな世界があそこにもあるのかもしれない、などと。

「クラウド?」

 ヴィンセントにくいと腕を引かれて、俺も頷いた。

「……車、戻ったら、また、しよう、ヴィンセント」

 俺の声は明瞭だった。ヴィンセントは嬉しそうに目を細めて、頷いた。着替えている最中に、彼はまた、俺の尻尾のスイッチを、くるりと回した。


back feat. 一郎明之。