シネマ・コンプレックス。

 俺は映画を、あまり観ない。

 言うまでもなくそれは、映画の面白さがちっとも理解出来ていないからだ。のめりこめば、テレビの二時間ドラマでだって泣いてしまうかも知れないような涙腺をしているのだ、泣けると評判の映画ならば、その期待に沿うリアクションが出来ると思う一方で、面白さを理解するしないのレヴェルに至らないのである。

 第一に、俺は人ごみが嫌いだ。普段は家のベッドやソファで、ぐったりと横たわり、もう一人だけ居てくれればそれ以上も以下も要らないという考えに基づいて生きていて、近所のスーパーが、時節の祭や特売で混雑していると、それだけで近付くのが億劫になるような人間が、映画館の、あの高い人口密度に身を躍らせたいとは思わないのだ。右隣に恋人が座ったとして、左隣には当然知らない人が座るわけで、それだって大いに気兼ねする。窮屈な椅子だって嫌だ。毎夜恋人と眠るベッドはどんなに狭くても広いと感じてしまうくせに。

 第二に、……。映像というのは、とりわけ映画館で集合して見る映画っていうのは、すべからく連続的不可逆性の作品であり、俺の好きな小説とは違う。判りやすく言えば、途中でトイレに立ったりすればその二分前後の時間を俺は失い、それを見るためにもう一回分の金を要求される。小説はトイレに持って行って読むことが出来るが、スクリーンをトイレに持っていくことは出来ないし、映画館の座席を全て便座にすることも不可能だろう。いや、トイレに限らなくてもいいのだ、連続的不可逆性映像作品である以上、咳一回、クシャミ一回、瞬き一回ですら、オーディエンスに同時進行する認識を共有する妨げになる。無論これは映画以外、舞台演劇能狂言などにも通用するわけだが、とにかく睡眠などもってのほかだし、原則として一回幾らの金を取る以上、一回で満ち足りなければならないという脅迫観念がある。繰り返しになるが、小説の場合、一度幾ばくかの金を払って買ってしまえば、どんなに傍若無人な姿勢でポテトチップスタコスチップスフィッシュアンドチップスを貪りつつスラップスチックを読んだって誰にも文句を言われることはないだろう。トイレの中で食べながら読んだって文句は出ないはずだ。そして後ろから読んでいったって構わないし、縦書きの文章を横に読んだって良いのだ。

 第三に、これは第二と関連するが、時間を奪われる。映画を観に行くとすれば我が家から最寄の映画館まで歩いて十五分かかり、しかしパジャマ代わりのトランクスとシャツ一枚で行くわけにもいかないから一応一時間ほど前から支度をする。一時間半の映画を観るために必要なのはおよそ三時間というところだろうか。そして窮屈な思いをして観るのは連続的以下略である。映画館に入ってしまったらポケットの中に入っているというのに煙草も吸えない。それは隣りに恋人がいるのにセックスが出来ないのと同じだ。

 映画を楽しむという高尚なレヴェルに至るにはどうしたらいいのか。まず、利己主義からの脱却だろう。多少の時間を払ってでもオーディナリーなオーディエンスと調和を謀りいや図る。入る前にはチップスの類を飽きるほど食べておく。瞬きをしないようにする。眠らないようにする。左隣に元の妻が座ってもあからさまに右へつめないようにする。その程度の努力も出来ないような人間は映画館に来る資格はない。

 ところでリアルなんてものはこの世に一つもありはしないように思う。映像にしろ、小説にしろ、あるいは俺らの目にしろ、何かフィルタを一枚でもかけた時点でリアルはリアルじゃなくなる。リアルというのは、ええと何て言えばいいのか、例えば俺を含むこの星にいる人たちが何かを考え生きていたり生まれたり死んだり、そういう、現象なんではないかと俺は思うのだ。とりあえず俺は今椅子に座っている、それだけは本当だろう。手に余ること、考えてたら頭痛くなってきたけど、とにかくそうなのだ、俺たちが俺たちのことを考えるだけでそれはリアルじゃないし、誰かのことをどう思おうとそれはその誰かとは違う。だから第三者、全く俺たちのこと知っちゃいないような他人が俺たちが生きていることをどう意識しようが勝手だけれど、例えばそれがその目のフィルタを一度でも潜った時点で、それが例えば誰かの手によって美化されようと、語られようと、リアルとは違う。仮にどんなに俺らしい俺がどこか世界にいたとしても、それはリアルではないという点においては変わらない。ちょうど松茸よりヴァイブのほうがペニスに似てても、本物のペニスとは違うように。

 そして、ええと。リアルである必要と言うのはまた、実は全く、ないんだ。俺にしろ、誰かを見て、どういう人間かを自分の中で規定する、しかしそれがリアルであるとは思わない。ただ、俺にとってその人がどういう人かを規定すれば都合がいいというだけの話。言わば、俺は初対面の人なのに、その人の過去とか、俺のいないところでの表情とかを、物語化してしまえるのだ。そして、俺も誰かに物語化されているのだ。俺がこれまで、二十六年の人生生きてきて、多分この男はこういうことはしないんだろうとか、こういうものが好きなんだろうとか、好き勝手に物語化されている。月は公転面即ち月の半面しか地球には見せないで回っているが、その裏にでかい顔が書いてあったと言っても、(宇宙船がなければ)誰も判らないのだ。そして、俺たちは自分の見せたい面見せたくない面をある程度恣意的に出し入れ出来るから、あべこべに、誰かがする物語化作業を操作することすら出来てしまうのだ。そしてまあ、俺はそれに在る程度成功したとも言える。恐らくは誰かが俺に見せたかったのであろう姿が俺にとっても憧れで、見せたい姿だったから、誰かに見せて、「俺ってこういう男だ」と、物語を与えた訳。

 と、まあ、いろいろ言っても、何がリアルかが自分でよくわかっていない俺の空論ではあるのだけれど、ただ、こういう言い方は出来るかもしれない、見た/読んだ人間が、集団として一定範囲内の解釈に至るのが映画、個々に幅が生ずるのが小説、と。しかし、その幅が狭い広いは結局問題にもならない。……ごめん、あれだな、俺自身がよく判ってないし、上手く説明できないことだから、曖昧なままで今日は勘弁してもらおうと思うのだ。

 しかし「観なさい」「観なさい」テレビで言われても、やっぱり映画を映画館で観る気にはならないんだよな。ヘソマガリだから。いや、野球を見るために契約してるケーブルテレビで、ロハで観ることが出来てしまうからか。でもって、「いつでも観られる」安心感で、結局俺は、映画を観ない。今日も夕方まで先週古本屋で山と買ってきた文庫本で恋人欠乏症を補い、もう何年も前にこの本を読んだはずの恋人とこの本の話をするのを楽しみにしている。

 本の感想が恋人とお揃いになることは極めて稀だ。これだけ気の合う恋人と俺が、どうしてか、一冊の本に対して抱くのは違う色。だがそのほうが正常でクールだと恋人が教えてくれたのを俺は鵜呑みにしている。実際、俺の読書量など恋人のそれに比べたらまだ足元にも及ばない。同じ感想を得られると思うこと自体、傲慢なのだ。正しい読みなどない、それを悟り、小説に対して向き合うことの意味を俺はちょっとだけ知った。やっぱり小説を読むという行為は人生の役に立つ。但し、それは小説の登場人物の生き方から学ぶのでは決してなく、小説を読んでいる俺自身の姿を見て学ぶのだ。とりあえず、リアル/アンチリアルの混合物として在る、俺らの世界を思うだけで、十分価値がある。

 色いろと理由を並べ、喋ってきたが、しかし映画をちゃんと観て楽しむことの出来ない俺自身、コンプレックスでもあったりする。暗所恐怖症閉所恐怖症そんな大層なものでもなく、ただ、やっぱり、……一番の問題は寝てしまうことであろうと思う。そして(特に誰か知り合いと行った時には必ず)「どうだった」という自分の抱く感想が、周囲と違うことへの怖れ――これは小説の場合、生じないと言い切ってもいい。「泣ける」と評判の小説にしろ、小説はテレビ・コマーシァル・フィルムで広告が流れることは殆どなく、実際に泣いた人とめぐり合う可能性(危険性)も低いが、映画では「泣ける」と言って本当に泣いてる人が出てくるのだ――がある。泣いてる人の横で平然と苦笑いを浮かべていたら、どうも、な。そういう映画を観たら自分だって泣いてしまうであろうと想像出来ているくせに、そういう色いろ意識してしまうから、やっぱり俺は、映画を観に行こうとは思えないのである。

 

 

 

 

 俺の恋人は男であり、俺も男であるから、男と女でしか出来ない幾つかの、ほんの僅かなことが出来ないのはしかし、苦しみでも何でもないが、やっぱり、何だろうな、率直に言ってしまえば、羨ましいとは思う。俺の尻の穴が女性の性器のように、感じるに応じてぬるぬるになったら、今みたいに毎月ローションに金をかける必要はなくなる。柔かい胸があったら、恋人を包んであげられる、挿んであげられる。

 だが一つひとつを反転させる、それをテキオウキセイと呼ぶのかもしれない。「僕は君のお尻の穴開くの好きだよ」と言い、「挿むのなんてしてもらわなくていい。君のをしゃぶれるほうが余ッ程仕合わせに決まってるさ」と言う。

 俺の中に時として生まれる嫉妬の牙を、そう言って舐めて、俺に舌を出させる。そこで、ふっと顔を引く、俺は、恐らく全ての女に舌を出しているのだ、あっかんべえだ、俺は、男よりも女よりももっといいいきものだ、と。思い込ませるだけの力を与える舌だ。

 時に恋人は饒舌になる。俺以外の人間全てを敵に回してもいい覚悟を漲らせて、言うのだ、「汚らしいよね、異性愛なんてさ。そう思わない?異性愛じゃない、人間が汚いのかな、そこまでは判らないけどさ、セックスって行為に生産価値を見出すなんて愚かだ。僕は君が好きで、君が僕を好きで……好きだよね?好きで、うん、ありがとう嬉しい。互いに好きあってて、それだからセックスをする。それで十分じゃない。……こう考えると自分の身すら呪わしく思えてきちゃうなあ、こういうの自己矛盾って言うのかな。でもさ、やっぱりね、僕は同性愛の方が良い形だと思うんだよ。まじりっけなしで君のこと好き愛してるって気持ちだけで抱き合うだけで僕ら幸せになれる。形じゃないよ、絶対に形じゃない。心だ」……、そして大体、最後はすごく憎らしい表情になって、「僕らが同じでよかった。君が僕の側にいることは、何より正しい。それを僕が本当にしていくよ」、とうに片のついたはずの事項に向かって言い捨てる。俺はうっとりとその肩に頭を委ねて、煙でぼんやりする視界、彼が確かに過去を撃ち抜くのを見るのだ。

「僕は   が嫌いだからさ」

 ヴィンセントはそう言って、俺のペニスを掴む。

「    とか とセックスする自分想像すると、反吐が出そうになるんだ」

 俺のものを見る目は、子供のように無邪気で嬉しそうなのだ。普段アレだけ大人で優しくて穏やかな人が、時として憎しみに駆られる姿は、自分を見ているようで、同じ要素がまた一つ彼の中にあると判るから、嬉しささえ浮かんでくる。

「君が、君の……これがね、  の中に入ってたって、……そういう過去を思うだけで、悪い子だって思うけれど、あれは君じゃないものね。……君は僕のことが、好きだよね?僕だけのものでいてくれるよね?ずっと、僕の恋人で、傍にいてくれるよね?」

 うん。

 ただそれだけ、俺は答える。

「ずっとだよ。ずっと、ずっと最後まで、……永遠にさ、僕の恋人でいてくれるね?」

「ああ、……当たり前だろう。……   の中に入ったって想像するだけで、俺だって反吐出そうなんだから」

 全く無責任な肉体に宿る魂よ。恋人がこれだけ愛しくなり、これからもますます愛しくなり、永劫最後まで連れ添いあう、そんな未来すら想像出来なかったのか。愚かさを嘆く暇よりも、恋人の髪を撫ぜて、一つでも多く「愛してる」と言うほうが重要。

「俺だって、    、嫌いだよ」

 そうとだけ言って、もう、苦しみを抱くんじゃない、恋人に抱かれんだ、俺の身体、浄化されてくんだ。

 

 

 

 

 俺らの多くが「中流」であるとか「一般」であるとかいう括られ方をするのであれば、例えば大金持ちが金の力で平民をやりこめる話を見て、どう思うだろうか。恐らくそれはスポットライトの向きで決まる。つまり主役、主人公、そういうスポットがどちらに当たるかだ。平民に当たっていたら、俺たちは用意にその主人公に同化し、大金持ちを敵と見るだろう。「こういうときの彼の気持ちを考えてみよう」式の国語の問題が罷り通っている世界だから、登場人物に同化して物事を考えるのは得意なはずだ、……俺らも、あんたらも。憎たらしい大金持ちめ、いつか見ていろと拳を固め、見事主人公が大金持ちに勝利したとき、確かなカタルシスを得る。しかし、その勝利の結果、主人公が敵と見なしていた大金持ちよりも更なる大金持ちになったら、どうだろう。その同化はどこまでも可能だろうか?

一方で、大金持ちを主役とし、小市民的性格の登場人物群をやり込めていく話である場合はどうか。スポットの当て方によって、同化対象は大金持ちになり、敵は同化している我々自身に近しい立場に在る平民たちである。平民たちを経済力でやりこめる主人公は、知能レヴェルの低い平民たちの鬱陶しい反撃に合いながらも、最終的には無事、何らかの形で勝利を収める……。これでカタルシスを得ようと思えば得られてしまうのが不思議といえば不思議で、自分の身体の一部を虐めて気持ち善がっているセルフ=マゾヒズムである。

 まあ、それだけの話なんだが。


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