ブラザーコンプレックス、マザーコンプレックス。

 俺には父親がいない。俺が三歳になるかならないかの頃に死んだということしか俺は聞いていない。どういう風に死んだのかも知らない。「あんたはあの人に全然似ていないねえ」と母はよく言っていたが、写真を見たこともないので、一体どういう顔をしていたのか、俺は全然知らない。俺に似ていないということは、俺よりもずっとサバサバした、男らしい男だったのだろうと十代の入口に立った頃から夢想し、そういう男が家の中にいたなら、俺ももう少し違った男になっていただろうにと、その頃俺はよく悔やんでいた。一方で俺には弟が出来てすぐに死んだが、その弟のことも俺は知らない。ただ、父のことよりは母も俺には赤ん坊のことをよく話して、涙ぐんで「だからあんたは元気なんだ。その分生きなくてはいけない」とお説教をされた。正直された当時はいい思いで聞いてはいなかった、母が泣いたりする姿を息子が見たいと思うはずもない、それでも俺は我慢して聞いて、神妙な顔をして頷いて、長生きだけはしようと心に決めた。

 母一人子一人で育ったという点が影響しているのだろう、十三歳で神羅に入社して、ザックス=カーライルやセフィロスやルーファウスを愛するようになる頃まで、俺の中で母は唯一神に近い存在だった。母というのは俺にとって誰よりも強くて正しい存在だと俺は強く信じていたし、今もそれについては少しも変わらない。俺は自分の為にと同じくらいに、母の為に神羅に入ったのだという自覚がその当時はあって、偉くなろうとは思わなかったが、強くなろう、少なくとも母の肉体一つは満足に背負えるくらいに強くなろうとは思っていた。その結論の曖昧な形が「ソルジャー」というものになっていた。恐らく俺の動機の三割が自分、三割がティファや他の村の人間、そして四割が母へ向かっていたものだろうと今思う。

 ともあれ、俺は母を尊敬していた。いわゆる「反抗期」というものも、俺にはあったのかどうか疑問だ。恐らく「それ」の訪れる時期に俺はザックス=カーライルの庇護のもとにあって、反抗の対象は彼に向かっていたためだろう。俺は母と深刻な諍いをした記憶が殆どない。無論、幼い頃は随分と我儘を言った。とりわけ、回りが持っていたものを自分だけ持っていないということに腹を立てた。しかしそれも、ごく幼い頃に限ってのことで、自分の家は周りとは違うのだという、幼児が持つべきではない達観を持ってからは、贅沢は言わなくなった。美化して言えば、俺はその当時ただ母親のくれる愛があればそれで満足していた。母親は料理が上手だったし、息子を養うために昼間はずっと働きに出ていた。その姿を見ていたからこそ、俺はそうだったのだろう。うちは決して裕福な家庭ではなかった。家は、死んだ父の建てたもので、その貯金もあったが、少なくとも俺は母親が丁寧に化粧をしているところを見た記憶はない。

 だが、俺は親を愛していた。あるとき、確か小学校の二年か三年の頃だったと思う。授業参観の日、確か題目は「自分が育つまで」みたいな、母親が子供を育ててきた苦労について話すような場が設けられた。俺の母は仕事を抜けて、俺の順番ぎりぎりの時に、仕事着に一枚羽織っただけの格好でやって来て、その話をした。母は、俺の前の子の母親までが、どんな風な話をしていたか知らなかった。みんな、苦労話を笑いの種にして話していた。場は和やかな雰囲気に包まれていた。ところが、俺の母は笑えるような話をしなかった、どころか、話している最中に声を濡らし始め、とうとう泣きながら話した。俺がここまで、育ったことを、俺に感謝して泣いていた。その場は一瞬で冷めてしまった。俺は気恥ずかしさで一杯だった。うちの母親は何にも判っていない、配慮がない、そんな風にまで思って、内心で母親を責めていた。いま母親が泣きながら話し終えて、すぐにまた仕事に戻って行った姿を思い出して、俺は泣いてしまう。本当に愛しいと思う。

 俺の十三までの思い出は、一般的な家庭よりも親子でいる時間の少なかったことがありながらも、常に母と共に在ったときのものだ。母に愛育された自分が、とても大切に感じている。俺は今の俺の姿を母親がどう思うか想像するが、どうしても想像しきれない。自分の息子がゲイであること、自分の息子がソルジャーにもなれないで、日長一日、形に出来ない空想にふけって生活していることを、どう思うか判らない。考えるのは少し怖い気がする。ただ、俺はヴィンセントを、母が嫌いになるはずが無いとも思う。確信があるわけではないが、何となくそんな気がする。俺が以前、母の話をヴィンセントにしたとき、彼は、俺のいう言葉に、段々涙ぐんで、それから、「君は幸せだったんだね、素敵なお母さんに愛されて、幸せだったんだね」と言った。そして泣きながら「僕は君を幸せにする」と誓って、泣く俺を抱きしめた。こういう人のことを母が好きか嫌いかは判らないが、ただ何となく、認めてくれそうな気がしたものだ。

 俺の幼少時の思い出は全て母に帰する。

 一方で、ヴィンセントの思い出は彼の兄に帰する。

 ヴィンセントには十三も離れた兄が一人いて、彼は遅い子供だったため、両親よりは兄に大切にされて育った。幼い頃は吃音癖があって、そんなことだけを理由に周りに虐げられていたヴィンセントは、兄に庇護され、兄にだけ認められて育ったという自覚があると言う。俺が母の話をすると、ヴィンセントが涙ぐんだり、泣いてしまったりするのと同様、俺もヴィンセントの兄の話を聞くと、涙が溢れて止まらなくなる。年の離れた兄は恋人のように弟を慈しみ、育てた。彼の兄の話は、無論、弟の内部で多少なりとも美化されている部分は否定できないが、それでも間違いなく神様のような存在だったと想像できる。

 兄は、ヴィンセントのことを抱いていた。それは一番初めは、ヴィンセントが十四歳の頃に始まったことだった。知れれば、近親相姦、幼児虐待、どんな理由でも恐ろしい目に遭っていたろうが、二人の仲が世間に、そして彼らの父母に知れることはなかった。兄は性欲というよりはある種の信念を持ってヴィンセントを抱いていたろうし、ヴィンセント自身も尊敬し愛し崇める兄にそうされることは至上の歓びだったし、寧ろ自分から望んだのだと言うから、その関係は法や道徳で計れる類のものではなかったのだ。俺はヴィンセントの兄のことを心から本気で弁護したいと思う。

 ヴィンセントが三歳の時に、兄から貰った三毛猫のぬいぐるみを、ヴィンセントは宝物にしていた。他がもうぬいぐるみなどに興味を持たなくなる七歳になっても、ヴィンセントはそれを抱いて眠った。あるときいじめっ子に、その大切な猫の尻尾をもがれたときに、兄は泣く弟を慰めながら、猫の尻尾をもとの通り縫って治してくれたという。その話を思い出すたびに、俺は泣けて仕方がない。本当に兄のことが愛しく、弟のことが愛しい。この美しい兄弟を、俺は本当に愛したい。

 兄の中のヴィンセントを愛する気持ちは、小児性愛的に一過性のものではなくて、それこそヴィンセントが二十になって兄も三十三になったときに、相変わらず愛しつづけていたのだ、それは決して、薄っぺらなものではない、恐らくは兄弟愛ですらなかったろう。言語の意味を超越したところに成立する尊敬すべき恋愛関係であったのだと、俺は思っている。

 俺には母がいて、ヴィンセントには兄がいた。しかしながら、俺は母と死別し、ヴィンセントも兄の行方を知らない。だが、今お互いが目の前にいて、かつてされていたのとは、多少異なるにしろ、一生懸命に愛を注いでいる、注ぎあっている。俺はとても運が良いと思うし、ヴィンセントも自分でそう言っていた。愛情を注がれるのは幸せだが、誰かに愛情を注ぐのはそれ以上に幸せなことだ。

 俺を愛し、苦労ばかりして死んだ俺の母も、ヴィンセントを愛しながらヴィンセントと別れることとなったヴィンセントの兄も、同じように俺は悲しく思う、可哀想だと思う。自分のことであるから、母のことを思うと余計に苦しい気持ちになる。母は俺が殺したも同然だからだ。

 こんな逆さまごとは本当にいやだ。俺は母のように、愛を持ち、一生懸命に働いて生きた人があんな風に死んでしまうなんてことは、気が狂うほどに俺は辛い。ましてや、その責任の一端が俺に在る事を思えば、本当に悔しい。どうしたら、よかったのか。

 あんな逆さまごとは本当にいやだ。本当に本当にいやだ。

 この世界から俺たちの味わったような逆さまごとの少しでもなくなることを俺は祈る、願う、出来ることを探して、それを一つでも実行に移そう。社会の外側にいる俺でも、それくらいは出来るはずだ。同じ悲しみを少なくとも周りに味わう人の、一人でも少なくなるように俺は行動していこうと思っている。

 それが母の遺したものもしれないと思う。

 


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