僕はここにいます。

 いいものはいつでもいい。いつまでもいい。

 そう思っていた。

「なにしてるの?」

 部屋の片隅にしゃがみこんでブックレットを見ていた俺を見つけて、恋人が上から覗き込む。ついさっきから部屋に入ってきて、俺のことをじっと見ていた。だけど、丁度俺が壁に向かって手のひらを覗き込んでいたから、そしてその背中がきっと真剣だったから、声をかけるのを少し待っていたのだろう。俺がふっと息を吐く刹那をずっと探していて、だから今、話し掛けてきたんだと判る。

 俺は手のひらに載せていたブックレットを掲げて見せた。お気に入りだった、だけどここ二年くらい聞いていなかったCDの。

「歌詞?」

「そう。……覚えてないもんだな、意外と……」

 ここへ引っ越してきたとき、ダンボールからそのまま、戸棚に仕舞って忘れていた。四年前まで好きだった曲を、二年前から聴かなくなっている。一緒に暮らすようになってから、聴かなくなっていた。

「誰? マキハラさんじゃないの?」

「うん」

 普段はマキハラさんばかり聞いているし、二人でドライブに言ってもカセットは全部マキハラさん。こんな曲を聴く俺に、ヴィンセントはきっと気付いていない。こういう俺もいるんだってことを教えるのは、なんだかちょっと、恥ずかしい気もする。

 彼は俺の手のひらから受け取り、じっと見て、マキハラさんのアルバムにシングルがずらりと並んだ棚を見て、俺の顔を見て、

「……へえ」

 と、内側から新鮮味の迸るリアクションをしてみせてくれた。

「聴いたことないなあ。後で聞いてみても構わない?」

「もちろん」

 俺はケースを渡して、立ち上がった。

「まあ、久しぶりに出てきたからちょっと読み込んだ、それだけなんだけどね。今はそれほど興味もない」

 彼はしげしげとCDのジャケットを見つめて、胸を押したら出るような溜め息を吐いた。

「正直言って、意外だ」

 俺は笑って、

「俺も、そんな俺がいたんだなあって思うと意外だ」

 と言った。お茶を入れてきて、ソファに座って肩を寄せ合って。彼は、そんな気持ちおくびにも出さないが、四年前の俺を見て、少し鬱陶しく思ったのかもしれない。ケースを裏にして、机の隅において、じっと俺の横顔を見た。

「まだ三年しか経ってないんだねえ」

 ヴィンセントは少し驚いたような声を出した。それから俺の伸びた髪をさらりと撫でてから、お茶を口にした。

 俺も、言われて、不意を衝かれたような気分になった。その気分が去るのを待つ間お茶を飲んで、ようやっと、頷いた。

 意外な気もする。ヴィンセントと俺は、もう二十年連れ添って尚、いつまでもお互いを愛し合うことに臆病な喜びを感じられる幸せな夫婦のつもりでいるのに、確かにまだ三年の時しか経ていないのだ。それ以前のことがあまりに茫洋としすぎるから、遥か長い間のように感じられているけれど。

 俺たちは生活をしている。「生活」は、重ねていくものだ。重ねて行けば行くほど、分厚く重くなって行くものだ。俺たちの生活は、他人にはあまりにも重く、当人たちにも閉塞感のあるものだが、密室に快楽と幸福があるから俺たちはここに身を浸し、エゴイストになる。回りに迷惑にならないように、エゴイストをし続ける。

 俺は許されるなら、ヴィンセントの奥さんのつもりだ。そして毎日が幸福だ。しかし、今の俺と同じように幸せであった人と俺は離婚し、今こうしてヴィンセントという鞘に、まるで最初から在ったかのように収まって生活している。忘れられるなら忘れたいし、きっと俺たちにはそれが一番良い方法なんだろうけれど、俺たちはそれをしてはいけないということを理解しているから、四年以前のことをこれからも抱えていく必要がある。正しく生きられなかった過去があることを踏まえて、これから正しく生きていくことを理想とするのであれば、それが必要なのだ。

 俺は、奥さんと幸せに暮らしていた。それを捨ててまでヴィンセントと一緒に生活している。ヴィンセントといる方が幸せと思うからだ。ヴィンセントといる自分を自然と思うからだ。ヴィンセントといる自分が本当と思うからだ。奥さんと暮らしていたときの俺は、やっぱり不自然だったし、あんな形で幸せになってはいけなかったんだと今は悔いている。そして、奥さんにも辛い思いをさせてしまった。更には、奥さんと暮らしていた家を出て、ヴィンセントに甘え込んだことによって、ヴィンセントにも。しばらくの冷却期間を置いて三人で会ったとき、俺はすべてを許され、ヴィンセントと結婚した。しかし、俺の罪は消えないし、ヴィンセントが背負った罪悪感も消えはしない。

 時々、奥さんが元気で暮らしているかなってことをすごく考える。考えて、苦しい気持ちになる。こんなことを願うのは、卑怯者のやりかただ。しかし、卑怯でも正しくなくっても、俺はヴィンセントと在ることでしか手に入らない幸せに惑いつづけたい。そして、でも、何もかも忘れずに、生き、死にたい。

「君と、もう十五年とか二十年とか、一緒に暮らしてるようなつもりなんだけどなあ」

 ヴィンセントはもう一度俺の髪に指を通した。

 俺は四年前のCDを、もうたぶん聴くことはないだろうし、メロディをときどき思い出すくらいでしかなくても、捨てることはないと思う。女々しいし卑怯だけど、せめてこういう部分でも、奥さんだった人の記憶を捨ててしまいたいとは思わないからだ。そう言えばヴィンセントも肯定してくれるだろうけど、俺は言わない。言わないでこの罪を隠していく、心の戸棚の置くにしまって。

「クラウド」

 ヴィンセントは思いついたように微笑んで俺の頬にキスして言った。

「君はまだ女の人の裸で勃起するかい?」

 俺はティーカップを置いて、少し考えた。

「わからない……、たぶん、すると思う」

 率直に答えた。

 ヴィンセントと暮らすようになってから、もう女性の裸体には興味を持たない。と言うより、ヴィンセント以外の肉体に、俺は興味を持たなくなった。ヴィンセントの裸体は、裸は、俺にとって全く特別なもので、男性の身体の中でも絶品だと思うから、もう他の何かに興味を持てるようなレベルにはないのだ。実際、こんなことを言ってはまた嫌な人間だと嫌われる原因にもなるだろうけれど、俺は俺の裸に、ありていに言ってしまえば俺のペニスに、直に触れたことのある誰よりも、もうヴィンセントを愛している。順番をつけたりしてはまた、これも嫌われるかもしれないけれど、ヴィンセントが一番だ。そして、一番はたった一つだ。その時その時で卑怯で上手な俺は、一番をつけてきたんだろうけれど、ヴィンセントが誰かに追い抜かれることはないと、ある程度確信を持って俺は言える。

「でも、……俺にはあんたが一番大事で、大好きなんだ」

 繕うような口調になってしまったことを後悔した。そうじゃない、本当に心から、素直に。

 ヴィンセントはわかっているよという笑顔で頷いてくれた。そうして、俺の頭を抱きしめた。

「僕にも、君しかいないから。僕は君とこうしてるとき、本当に生きてることを自覚する」

 ヴィンセントはそう言って、俺の髪の匂いを嗅いだ。

「彼女はまだ君の中にいるの?」

 そう聴いてくる。俺は、嘘をつくほうが余っ程悪いと思ったから、胸の中で頷いた。ヴィンセントはそんな俺に、ちっとも悔しそうでも、妬ましそうでもない、柔らかな微笑を含んだ声で、「そうなんだ」と言って、飽くことなく髪を撫でる。俺はヴィンセントの腰に手を置いて、ずっとその匂いを嗅いでいる。最近あまり匂いを感じられなくなってきたのは、俺がどんどん同じ匂いになっているからだと思えて、嬉しくなる。それでも亀頭の裏側に自分には恐らくないはずの匂いを見つけたときには、嬉しくて仕方がなくなることもある。

 わがままを言ってもいいかな、ヴィンセントは言った。

 俺は、もちろん頷く。

「僕は君の思い出にはならないよ」

 言っていることの意味がよく判らなくて、俺は匂いを鼻の奥に焦がし付けながら、続く言葉がどんなものか考えていた。

 ヴィンセントはゆっくりと繋ぐ。

「僕はここにいるから、君の側に、いつだっているから。十年先も二十年先も、今と同じように、例えば君の髪の匂いを嗅いだり、君とお風呂に入ったり、セックスをしたりしつづける。この命の続く限りは永遠にね。だから僕が、君の中で過去になることは絶対にない。思い出すひまもないくらい、君と新しい毎日を作っていくつもりだから、よろしくね」

 俺は胸の中で頷いた。

 ええかっこしいなのかもしれない、俺の恋人は。しかし、実際に格好良いのだから文句はどこからも出ないだろう。少なくとも、それに酔い痴れる俺は満足だ。酔い痴れているだけで幸せになれるし、幸せに慣れることはありえない。

 とても高級なお酒のようなものだ。

 ヴィンセントが手を離した。俺は顔を上げて、少し紅くなった頬と鼻を隠すのも馬鹿らしくて、そのままヴィンセントの膝に跨った。大の男二人の体重を一点に集められて、ソファがぎっと鳴いた。いつものことだまた始めたかこの主人どもは。俺のご主人様はヴィンセント、ソファはもう慣れろ。ヴィンセントはにっこりと、彼特有の屈託のない子供のような微笑を浮かべて、逆に俺の胸に顔を埋めた。はあっ、と幸せそうな息を吐いてくれて、俺の心臓に耳を当てる。俺の、共に生きていることを感じて、嬉しそうな顔を上げる。

「僕はここにいます。これからも一緒に生きていかせてください」

 改まったようにそう言う。


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