朝がくるまで。

 睡眠時の姿勢というものに色いろ拘り出すと止まらない。例えば、横を向くかそれとも上を向くかというのは意外と大きな問題で、足のやり場を手の位置を、人はいちいち探してしまう。その拘りの大きさがそのまま、睡眠と言うものの人生における重要さを示しているといえるだろう。実際非常にしばしば言われることだが、人間はその生涯の三分の一以上を眠って過ごすわけで、俺は一週間とか十日とか連続で起き続けた挙句、脳に障害を来たし、幻聴と幻覚に苦しみ、結果死んでしまったという人の話を聞いたこともあるし、人間の生活リズムはやっぱり睡眠によって形成される。睡眠にある程度の拘りを持つのは必要と言える。

 もっとも、それについてあまり考えてしまうが為に不眠症に陥るのも間の抜けた話だが。

 どこででも眠れる人種と、そうでない人種とに二分される。二分と言っても、「明るいところなら眠れるがうるさいところでは眠れない」という中央に位置する人は当然いるはずで、一概に分類するのは難しいが、ともあれ俺は眠りに対してさほど貪欲なタイプではないようで、あまり明るかったりうるさかったりすると睡魔はやって来ない。と言うか、ベッドに入ってすぐに眠ることなど滅多に無いのだ。ただ、それでも行為をし終えた後、気絶するように眠るということも時々、いや、割と頻繁にあるけれど、ちゃんと理性的に眠りに就くときには、ちゃんと電気も消してもらう。俺の恋人はいびきをかいたり歯軋りをしたりはしない。俺は昔歯軋りをよくしていたらしいが、最近はおさまったという。ストレスが溜まっていたんだろうか。ともあれ、俺の回りにある音は恋人の鼓動と息遣いのみで、他はほぼ無い。

 真っ暗な部屋の中で暖かさと優しさに包まれていれば、目を閉じて幸せだけを噛み締めて眠れば良い。そう許されているのだから幸福なことだ。もちろん、こんな生活をしている俺たちにも多少の不安や不満はあって、真夜中に目が醒めて眠れなくなったりすることがときどきあるけれど、それを除けば、目を瞑ってしばらくすれば、自然な睡魔に包まれている。布団をかぶって恋人に抱きしめてもらっているので、暖かい。冬など、恋人と布団をセットにして三倍価格でも買い取る。四倍でも買い取る。夏はどうかと言えば、俺たちの住んでいるところは海が近くて夜は風がある程度涼しくなるし、いざとなれば窓を閉めてクーラーを効かせれば良い。恋人と抱き合って快適に眠るためにクーラーをつけるのであって、涼を取るためではない。

 性行為の名残はベット及びその周囲のあちこちにある。使い終わったティッシュを屑篭に、明日の朝捨てればいいやと枕元に置いてそのままだったり、その他にも使ったものを片付けなかったりする。よって、多少の不衛生さは免れないかもしれないが、俺たちは互いに相手の匂いを不快に思ったりなどしないので構わない。寧ろ多少の汗を始めとする体液の匂いは俺たちを満たすものである。俺たちの家は、他の部屋即ち、客を通す部屋は無臭であると思うしそれを保つように俺も心がけているのだが、この部屋だけは、入るとやはり多少の匂いと空気の滞りを感じる。しかし、居心地がいいのだから仕方がない。恐らく俺は他の部屋に布団を敷いても眠れないだろう。

 昼間一人でいても俺は昼寝をしない。それは恐らく夜の眠りだけで満たされるからだろう。

 といっても、休日などは前夜遅くまで結んだり解いたりし合う名残で、昼を大きく過ぎても布団の中にいることもあるけれど。

「……なんじ……?」

「……二時半。またやっちゃったね」

 俺はベッドの上で絶望感に打ちひしがれてしまう。本当に、ヴィンセントが今言ったとおり、またやってしまった。一体これで何度目だろう、休日の半分以上を寝て過ごしてしまうのは。

 無論、睡眠にはそれ相応の効能があって、だからこそ重要なのだが、それでも何故か休日の大寝坊には「人間失格」の風情が漂う。「惰眠」という言葉があるが、「堕眠」、というか「堕民」と言われているような気にもなってしまうのは考えすぎだろうか。ともあれ、ショッキングなことには違いない。

 ヴィンセントは苦笑いしながら、またベッドに入ってきた。早くも足先が冷たい。

「外寒そうだよ、薄曇りで、風も強いみたい」

 そう聞いて俺は、そう言ってそうすることがさらに自分をだめにするような錯覚に陥りながら、ある種のマゾ的喜びを感じたくて、

「……ずっとこうしてたくなるな……、ずっと……」

 試みて言って見た。右目に目脂がべっとりとついている。指で拭った。

「こうしててもいいけど?」

「……寝るのは勿体無い」

 俺は矢鱈に重く感じられる身体を何とか腕で支えて、ヴィンセントにもたれた。ほぼ反射のように、俺の頭の上に手のひらを置く。

「……買い物は行かなくていいんだっけ……」

「うん。大体揃ってたはずだと思うよ」

「……そう……、じゃあ……、いいか」

 パジャマ代わりのシャツを捲り上げて、胸板にほっぺたを押し付ける。

「しよう」

「うん。目、醒めたみたいだね」

 こんな目覚めもある。

 あるいは、平日の朝。

 恋人には会社がある。フレックスタイム制の会社とは言え、余り朝が遅いと、その分夜も遅くなってしまうため、結局のところフレキシブルではない時間で過ごさざるを得なくなる。いつもヴィンセントは九時にうちを出て九時半出勤、七時に会社を出て七時半帰宅という形を取っている。

 だが、ヴィンセントはたまに、まれに、かなりの大名出勤をする。と言っても、ヴィンセントは一応のところ社内において係長代理という、微々たるものだが責任ある立場にあるため、それは大問題ではあるのだが。

「……何時だと思う?」

「……ききたくない……」

 大慌て。

 なんて事はない。ちゃんと食事をきちんと作っている間、ヴィンセントは鏡に向かって顔を洗って。コーヒーまでちゃんとついた朝食を取って然る後、歯を磨いてひげを剃って、いってらっしゃいのキスを何度もしてから、優雅にご出勤と相成る。世間からしたらとんでもない夫婦だろうが、実際俺の旦那様の勤めている会社が俺たちのことを認めているのだからしょうがない。

 たまには、こんなこともある。

「……いまなんじ?」

「……んー……」

 ヴィンセントは複雑な微笑を浮かべたまま答えない。俺のことを布団から抱き上げて、おはよう、一言優しい声で言ってキスをする。この人の声は、どんなに眠いときでも疲れているときでも、あるいは、物凄く元気だったり興奮していたりするときでも、一定のヴォリュームの範囲を超越するということがない。穏やかな、耳に心地いい声なのである。

 何かを隠すように俺に微笑みかける。俺を床に下ろし、もったいぶるように、カーテンにかけた手を動かさない。

 そして、ばっと開いた。

 そこには生まれたての海があった。泣き疲れて眠っているような海だった。一種神々しいような光景。先に時計を見ていてどういうものがあるか判っていたであろうヴィンセントも、それが予想以上のものだったのだろう、ぽかんと見惚れている。

水平線が淡い青で空は群青。高みに行くほど黒の濃くなる青。こんな「朝」の存在することをはじめて知った。俺たちは太陽が出てくるまで、じいっと見つめていた。そうして、六時半頃、太陽が丸く形をあらわす頃に、朝のコーヒーを入れに行った。新聞屋さんが朝刊をポストに指す音も、俺ははじめて聞いた。

この前の夜もセックスはしたのだが、軽めに……。だったから、あんなすごいものを見たのかもしれない。もっとも、ヴィンセントとどっちが? そう問われれば答えに給するのだけれど。

 


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