あんたが死ぬ日。

 

 あんたが死ぬ日の為に俺が準備してるって言ったら、滑稽だって笑うかい?

 

 

 

 

 あんたも俺も人間だ。人間には命がある。命は終わるものだ。だからあんたは死ぬものだ。俺はそう意識することを一秒たりとも怠らないようにしているんだ。いつあんたが死んでもいいように、俺はそれ相応の準備を、毎日まいにち、繰り返している。いつ一人、置いてけぼりにされてもいいように。たくさんの準備を、重ねている。だけど、そう簡単には終わらない。大変だけど、これからもずうっと毎日まいにち、繰り返していかなければならない準備なんだと俺は割り切って考えている。あんたの死ぬことを、俺は考えて、その日の為に用意している。

 時々夜、血が滞るほど抱き枯れた夜でも、一人、起き上がることをあんたはたぶん知らない。おしっこに起きたふりをして、実際トイレに行って戻ってきてベッドに入って、あんたの顔を、俺がじっと見てることを、あんたは知らない。窓から差し込む夜光で俺の目が慣れた頃、暗闇の中劈いて、あんたの瞼を見据えている俺のいることを、たぶんあんたは。そうして、俺がそのまま、長いときには何十分もあんたの瞼を、見つづけていることを、知らない。俺はその時、ただ考えているんだ。あんたが死ぬ日のことを。そして、準備をしているんだ。計算の狂うことの無いように。頭の悪いことを自覚してはいるけれど、それでも、馬鹿は馬鹿なりに、たくさん、考えているんだ。あんたが死んだらどうなるかを、あんたが死んだ後のことを。

 そうやって見つづけている瞬間にもあんたの息は停まるかもしれない。

 あるいは、いってらっしゃいのキスをして家を出て、会社で死ぬかもしれない。あるいは行き帰りに車にはねられて死ぬかもしれない。

 あるいは、具合が悪くなって死ぬかもしれない。ちょっとした風邪でもこじらすかもしれない。癌になるかもしれない。脳炎にかかるかもしれない。心臓の病気になるかもしれない。

 眠ったまま、もう起きないのかもしれない。

 俺はそういうことを考える。そうして、そういったことの起きた、後のことを考える。一人で、暗い中で、じっと息を潜めながら、あんたの胸がゆっくりゆっくり上下するのを見ながら、俺は考えている。

 あんたは死ぬものだ。

 俺はそう信じている。俺より年上のあんたは、俺より先に死ぬものだ。そう考えて、少しも疑いはしない。だから、あんたの死ぬことを、俺はとても強く考える。こういうことを考えるようになったのは、別に昨日今日の話じゃない。あんたの死ぬことを、俺はずっと前から考えていた。そして、ずっと前から準備を怠らなかった。だけど、俺はまだ準備が終わっていない。まだ明日も明後日もその次の日も、来年も再来年も、十年後も二十年後も百年後も、準備し続けなければいけない。そう考えているうちに、途方も無い気分になってくる。なんだか、途中で飽きてしまうような気もする。だけれど、少なくとも、今日や明日や明後日は、あんたの死ぬことを、真剣に考えていくつもりでいる。考えるという行為を、やめないでいなくてはと思う。あんたの死ぬことを、考えつづけていかなければならないと、俺は思うからだ。

 俺は思い出すんだろうと、ぼんやり想像する。俺は、あんたと一緒に暮らしていたということを、思い出すんだろう。あんたが俺にかけた言葉の一つひとつは嘘じゃなかったって。器用そうに見えて、だけど実際とても正直に真っ直ぐに、俺に気持ちを伝えるためだけに、たくさんのかけてくれた言葉を、一つひとつ、俺は思い出していくんだろうと想像する。何万回も聴いた「愛してる」も、「大好き」も、たぶん一度ずつしか言っていないはずの、小さな楽しい話を、一日に一度「いってきます」、「ただいま」、音声のイントネーション、そして、俺の鼓膜に染みわたった「クラウド」、いろんな種類の「クラウド」。優しい声で、悲しそうな声で、寂しそうな声で、掠れた声で、震えた声で、甘い声で、泣き声で、……「クラウド」。

 俺は思い出すんだろうと、ぼんやり想像する。

 あんたの手触り、あんたの指、あんたの力、あんたの強さ。

 ほんの小さな事だって。初めて二人だけで旅行をしたとき、乗り物に酔った俺と一緒に、ずうっと青白い顔で、座っていたこと、その時あんたが「ごめん」って、何でか謝った。どうしてって聴く気力も無かった俺に、「乗り物酔いの薬を買ってくればよかったんだ。気付かなくてごめん、ほんとうにごめん」って。まるであんたのほうが気持ち悪いみたいで、俺は、少し、楽になった。忘れているだろう。だけれど、俺は覚えている、百年後だって覚えている。

 忘れたほうが楽、考えないほうが楽、見ないほうが楽。

 俺はそれに、ずっと前から気付いている。知らないほうが楽。そんなこと、わかってる。だけど、それでも、俺がそうする、そうし続けるのは、あんたが心配しないようにだ。だから、準備しつづける。あんたが死ぬときのことを考える。俺は、どうなるだろう?

 例えば、明日の朝、あんたが死んでいたら。

 俺は、まず、あんたの名前を呼ぶ。

 あんたは答えない。

 それでも、俺はあんたの名前を呼ぶ。

 あんたは答えない。

 俺は不安になる。

 不安になって震え始める。

 がたがた震えながら、あんたの名を呼ぶ。

 あんたは答えない。

 そうして、あんたの唇が青白くて、かさかさに乾いていて、息をもうとっくにしていないことに気付く。

 俺は泣き出すだろう。

 それでも、あんたが「冗談だよ、びっくりした?」って言って俺が怒ってあんたが泣きそうな顔で「ごめんよ」って言ってくれるのを信じてあんたを揺する。

 その身体が冷たく硬くなっているのを無視する。

 そうしてあんたの身体にすがり付いて、俺は、どうしようもなく泣きつづける。

 そこから先のことは想像もつかない。

 俺はあんたの心配していることを知っている。あんたが先に死んだあと、俺はきっと、もう、どうしようもなくなってしまう。少なくとも、準備の整っていない今のままでは、間違いなくどうしようもなくなってしまう。あんたが死んだ後、俺は生きていられる自信が、今は殆ど無い。あんたに縋りついたまま、あんたのところへ行けると信じて舌を噛む。そうして、あんたのなきがらを血で汚して死ぬ。だけどあんたがそんなことを望みやしないことを俺は知っている。知っていながら、あんたが悲しそうに笑って俺を迎えてくれることを信じて、舌を噛む。いや。舌を噛んだら向こうであんたと喋れないから、包丁を持って来て、あんたの亡骸に身体を重ねて、手首を切るのかもしれない。それは、どうするかまだ決めていない。ただ、あんたが死んだのを確認してしまったあと、ものの十分もしないうちに、俺が死ぬのは、今のままではたぶん、ほぼ確実なことだろうと俺は思う。

 しかしあんたはそれを望まない。

 だから俺は生きなければならない。

 死んだあんたに俺が一番に言わなきゃいけないのは、帰ってきてでも、目を開いてでも、置いてかないででもなくって、たった一言でいい、いや、二言。「ごめんなさい」、そして、「ありがとう」。他には余計なことは何も言わなくていい。というか、言っちゃ駄目なんだろう。

 そして、あんたの唇に、あんたの最後の息を飲み込むための、キスをすればいい。

 ただ、やっぱり、その後のことはわからない。途方に暮れて、また泣き出して、発作的に死ぬかもしれない。しかし、それでは駄目だ。だから、俺はその後どうするかを考えなければならない。その後にまずどうするか、そして次にどうするか、その後の一ヶ月間、一年間、十年間、どういった風に生きていけばいいか。俺は考えなくてはならない。

 その準備には、きっとまだまだ、時間がかかる。十年先も二十年先も、その事ばっかり考えているのだ。百年先も、千年経っても、考えて出るような答えじゃないと、解かっていても、俺は考えなければならない。考え続けなくてはならない。

 朝になればあんたが、俺を揺すり起こして、「おはよう」って笑って、キスをしてくれるのを、俺はわかったつもりになってる。だけど、そんなことは一生わからないこと。必ずいつかは終わる日が来ること。なぜならあんたは人間で、人間は死ぬものだから。約束なんか絶対に出来ない生き物だ。だから、俺はあんたが死ぬ日のことを、今も考えている。あんたの白い顔を見つめたまま。

 このところ、そういう夜が増えたように思う。

 時間が経つにつれて、この夜は増えていくと思う。

 年をとるにつれて。

 あんたがいる幸せを、より自覚するにつれて。

 あんたが死んだ後のことを、俺は考えつづける。あんたが生きていることに甘えられる日の、限りのあることを、俺は知っているから。その日を、その事実を、受け止める為に。永遠なんて無い。有限しかない。しかし、俺のこう考えることに、限りなんてものは存在しない。

 考えは纏まる兆しも見せない。いままでも、いまも、いまから、これから、ずっとずっと、永遠に。だから、俺はその日の来ることを、ただ恐れている。涙を流して恐れている。あんたと別れなきゃならなくなるその日の来ることを、恐れている、恐れている。

 思い出したくないんだ、本当は。思い出じゃなくて、これからが欲しい。俺は、あんたと一緒に生きてきたい、継続してく生活を送りたい。

 

 

 

 

 だから、ヴィンセント。どうか、死なないでおくれよ。

 俺はまだ当分、考えが纏まらない。

だから、俺の考えが纏まるまで、ずっとずっと、ずっとずっと、生きていておくれよ。

 約束だよ。

 


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