愛について。

 この間、ヴィンセントと色いろと厄介な最近のことの話をして、俺としても色いろと考えることがあったから、例えばちょっとの間離れるだけでも電気は消すとか、まだ十一月だからストーブは出さないとか、そんな、ひょっとしたら「違う」かもしれないことを、それでも本気でやるようになった。昨日は自発的ににんじんを買ってきて、千切りにしてきんぴらにして、白ごまをかけて食べた。ちっとも美味しくなかったし、飲み込むときにいちいち喉が「んっ」って音立てるような感じではあったけれど、ヴィンセントは一本も残さなかったし、俺も全部食べた。テレビの音のない静かな食卓に、黙々とはしを動かす音と、少ない会話だけ、しかし、それでも十分に密度の濃い時間を過ごしていたのだと思っている。そして、これはこれで幸せなはずだし、これしか知らない俺たちにとってはこれ以外の幸せは見つけようがないのだ。

 食卓を片付けて、食休みの煙草をソファで一緒に吸う。テレビの音がないから、じじじと紙の焦げる音も聞こえる。

 こういう、悪い言い方をすれば「社会不適合」な俺たちの行く先は何処だろう。

 ちゃんとした勤め人であるヴィンセントはそうではないだろうが、俺など完全に弾かれている人間だと言う自覚が、残念ながら俺にはある。俺は同性愛者だし、決して明朗なタイプではない、内向的な正確だと自分でも思うし、とにかく社会の本流には目を向けない。これを個性と言えば格好はつくが、口の悪い、いや、率直な物言いをする人に言わせれば俺は単に「子供なだけ」らしい。大きなお世話だと思いつつも、本当に俺は社会から取り残されて、頑迷な老人になって死ぬのではないだろうかと、考えることもある。まるで実篤の「山谷五兵衛」ものに出てくる、馬鹿一という名の孤独な老人のように。

 それでも、馬鹿一になれるのならばそれは素晴らしい。彼には世俗から脱しえたものだけが持つ神秘さと清潔さが備わっている。そう言えば馬鹿一も十分に「子供」だ。

 しかし、物語世界と現実世界を混同するほど俺も馬鹿ではない。俺の、馬鹿一にはなれないことを俺は知っている。

「けど」

 ヴィンセントは俺の肩を抱いて、微笑んだ声で言う。

「君は今の君のままでいいんじゃないかな……、僕はそれこそ、君が今のままで年を取っていってくれたらなあって思う。君は、君が思っている以上に純粋だし、僕からしたら神秘的だ」

 そんなことを言って俺を喜ばせる人がいるから、俺の頑固さには磨きがかかる。

「そうかな……。実際、ろくに働きもしないで、ただ家の中に閉じこもって、ぼうっとして、時々本読んで……」

「それでいいんだよ」

 ヴィンセントは優しい声、しかし、強い意志を伴って言った。

「君は僕の奥さんだからね。こんなことを言うと嫌う女の人がいるんだろうけれど、でも僕は、僕の奥さんには、家を守ってもらいたい。奥さんの分は僕が働く、炊事洗濯家事一般、僕の出来ないことを、奥さんにやってもらえれば、僕は益々一生懸命に、働いて奥さんを幸せにして上げられると思う。そして、僕の奥さんは君しかいない」

 言葉の終りに、唇が頬を伝う。

「恥ずかしく、ないのか?」

 俺は俯いて、耳の赤いのだけはどうにか、長い髪が降りてばれないことを願う。

「ぜんぜん。本当の気持ちだから、言うのに恥ずかしさなんて感じないよ」

 彼は小さく笑って、

「そういう時の君は、本当に可愛いな」

 と言った。

 

 

 

 

 可愛いと彼が俺に言う。可愛いという言葉は、俺みたいな男にはとっても似合わないと思う。少なくとも、俺を正しく形容している言葉であるとは言いがたい。決して細い、中性的な体型をしているわけではないし、顔もやはり男だ。女装に耐え得たとはいえ、あのようなもの、化粧の仕方で幾らだってカバー出来るものだと、自分で顔を塗りたくりながら思ったものだった。俺は可愛いと言われても、自分にはやはりまるで似合わないような気になる。しかし、ヴィンセントに言ってもらえるならば「頭がいい」でも「優しい」でも「料理が上手い」でも、褒められるならば嬉しく思う。一言褒められれば、それで一日二日イヤなことが続いたとしても絶えられるような気がする。

 ただ、ベッドの上で言われるのは、やや恥ずかしい。やや、いや、とても。

「僕、やっぱり言えないんだよね、会社で、僕の恋人男なんだって」

 彼は、すごく申し訳なさそうに、俺にそう言う。

「別に……、構わないよ。寧ろ、黙っててもらってたほうがありがたいくらい。バレてて、あんたの会社にお使いしに行ったりするの、俺、何となく恥ずかしい」

「んー……、でも、どこかで……これは君もそうだと思いたいんだけど、僕の恋人の素敵なことを、教えてやりたい、誇示したい、そういうキモチがあるんだよ」

 同じキモチの俺は、何も言わなかった。

「『係長代理ってホモらしいよ』、そういう人が在ったら、僕は君を彼女たちの前に連れてって、キスをして、『ホモというのは差別用語に当たるから、今後はゲイと言いなさい』って言ってやりたいような気になる。これは、まあ性質としてはかなり悪いほうなんだろうけれど、僕らを疎む人の前でこそ、僕は君と愛を謳い、こういう形のあることを見せ付けてやりたいような気になる」

 彼は穏やかな微笑の下にかなり強い意志を秘めてそう言う。本当にやりかねないなと思う。その時は仕方ない付き合おうと思う。

「僕はね、クラウド。同性愛という愛の形は存在するのが当たり前だと思う。そうして、……これはあくまで、僕自身が同性愛者だからこう思うだけなのだけれど、同性愛という考え方は、生物学的に非生産的でも、異性愛を超える何かを生み出すように思うんだ。僕ら、いくらセックスしても何も生まれないと思うかい? 違うよね、僕らはいつも何かを生み出している、形はないかもしれないけれど、間違いなく生み出し合っている。凄いことなんだと思うよ、これは。

 異性でセックスをするとき、子供が出来ないようにするためにコンドームをつける。これは、セックスの第一義である『種の保存』を全く無視した、行為のみを尊重したやり方って言えると思う。ある意味では、とても純な純な純なやりかたなんだって。僕らのセックスも、全く同じ。僕らの間に、形の在る子供はどうしたってできない。だけれど、僕らの中には、純粋な愛情が在って、何かを生み出す。そうして、何も道具を用いなくても、生まれ来る何かを感じることが出来る。同性愛はだから、精神に重きをおいて考えるならば、理想的な関係なんじゃないかなって……」

 でも、と彼は笑う。

「してるときは、ただ単純に、君が好き、君が好き、君が好き、それだけになっちゃうんだけど」

 ヴィンセントも俺も人間で、理想を言えば、人間は人の間に生まれてくるもの。俺たちも何かを生んで人間をつくりたいと思う。しかし、それはもう叶わないことだと俺は理解したので、今はヴィンセントを俺を、もっと人間らしくしたいと思う。人間としての理想的な形になりたいと思う。この愛の形を究極まえ突き詰めて考えたときに、たくさん生まれた俺たちの子供が俺たちの栄養素となり、俺たちがもっと美しく穏やかな形になれたならいい。

 抱き合ったとき、初めて一つになれる。人間は元々、母親の身体と繋がって生まれてくる。それ以来人間はたった一人だ。性交のときのみ、一つに戻る。接合点に快楽を感じるのは、決して不自然なことではない。多少の痛みを伴ったとしても。

「僕、セックスが好きだな」

 伸びた俺の髪を指ですり合わせて、寂しいような音を立てるヴィンセントが、不意に言った。

「もう一度するか?」

「いや、それは……、うん、どうしようかな……、また後で」

 こめかみに、キス。

「もっとみんな、幸せにセックスをすればいいのにね」

「……幸せに?」

「ん。セックスって幸せなことでしょ? それを、誰かにがんじがらめにされてる人が多すぎる。もっと、自分と相手の気持ちを精一杯汲んでセックスすればいいんだ。これはもう、僕の経験だけだから本当かどうか判らない、けど、ある程度の自信があることなんだけど、セックスして感じる気持ちよさには、やっぱり相手が必要なもので、相手が好きであれば好きであるほど、気持ち良いと思う。セックスって、痛みを感じるときだってある行為だけど、その痛みを超えて気持ち良いって思えるためには、それだけ重たい愛が必要でさ。本当に好きな相手、僕にとっては君となら、最高の快感を覚えることが出来る。それなのに、つまらない柵のせいで、本当に好きな人とセックス出来なかったり、好きでもない人とセックスしたりする人って、多いんだと思う」

「ああ……。それはな、思う。……恋愛自体、俺たちほどうまく行くものでないとしても」

「うん。……僕は僕らを決して特別とは思わない、ごく普通の仲良し夫婦だって思ってるけどね」

「どうすれば、みんなもっと自由に、心から好きな相手と結ばれるようになるのかな」

「……難しいね。社会が変わらないといけない、そして、そう言っちゃうと、政治のせいとかって話になっちゃう。まあ、実際のところ政治が悪い部分もすごく大きいとは思うけど、やっぱり人間ひとり一人が余裕ないんだろうね。忙しくて、手が回らない。遠くの国で戦争が起っても、関係ないって顔する、もしくは、ステレオタイプにみんな同じことを言う。余裕があれば、真剣に考えて、何かしてみようとかって思うんだろうけど、実際何かしている人のことを見て、『立派だ』なんて褒めるだけで終わっている。じゃあ、考えるための余裕がどうすれば生まれるか。……難しいよね、本当に。でも、きっと方法はあるはずだよ。どんな人だって、一日五分も自分のことを考えられないはずはないんだから。

 その点……、僕は恵まれている。余裕がある。帰れば君がご飯の支度をして待っててくれる。こうしていろんな話をする時間もあれば、肉体的にも精神的にも、充足する時間も与えられている。

 損得勘定を加味して言わせてもらえれば。僕は君と一緒にいることで、僕が満たされるのをすごく感じる。そうして、幸せだ。君と一緒にいるのは、とても幸せだ」

 君は? ヴィンセントは俺の髪を撫でつづけながら、問う。

「俺?」

「うん。君は、僕とどうして一緒にいてくれるの?」

 当たり前のことを何で聞くのだろう、笑いかけて、しかしひとことでは言えないことなのだとすぐに解かる。何故ヴィンセントと一緒にいるのか? 俺はヴィンセントが俺の側にいることで幸せになってくれたら良いと思う。しかし、俺と共に在ることで果たしてヴィンセントは幸せになれるのだろうかと、時々真剣に思い悩む。

 言葉はすぐには見つかりそうも無い。

「俺は……」

 繋ぐ言葉が見つかるまでの、空白を、ヴィンセントは待ってくれる。

「俺は、あんたといて、……俺は、俺が高められるような気になる。あんたが色いろ、言うことや、すること……を、俺は、聞いたり見たりして、……色いろ俺も考えるんだ、俺のしてること、俺の考えていることが正しいのかどうなのか。俺は別に、正しくなくちゃいけないとは思わないけど、でも、俺自身はあんたの隣りにいて、あんたが嬉しくなるようになりたいとか思うし。だから、何だろう……、俺は、俺の幸せのためにあんたの隣りにいるつもりだけど、あんたと一緒にいることによって、あんたから色いろ学んで、俺が高まって、その結果であんたが俺を隣りに置くことが喜びになれば、いいなと思う。そう、うん、あんたが俺といて幸せでいてくれることが俺にとっては一番の幸せで……」

 答えになっていないな、俺は途中で思った。しかし、言葉は無理にでも繋いで、俺の正直に一番相応しい形にしようとした。ヴィンセントは、俺のまるで足りない、頓珍漢な言葉も、一つひとつを理解しようとしてくれた。

「僕は、今の君を隣りに置いていることも、とても誇りに思うよ」

 頭を抱いて言う。

「でも、君が僕の言うことをそんな風に素敵な飲み込み方をして、君がもっと綺麗になっていくことは、僕にとっても嬉しい。そして、何より僕といて幸せって思ってくれて、とても嬉しい。僕も、君といることが、何より幸せだから」

「……俺はずっとあんたの側にいていい?」

「僕のほうこそ。君は僕なんかと一緒にいて楽しい?」

「楽しいどころか、永遠にこうしていたい」

「僕もだよ」

 在る意味、端から見たら気持ち悪いに違いないほど、俺たちは鏡のように、お互いを無限に移しあう。縁起のいいものじゃない。しかし、鏡同士をくっつけて、そこに新しい世界を生み出して、俺たち二人はそこへ住めばいい。社会を捨てるわけではない、しかし、俺たちはそこに理想郷を創れるような気がする。正しいか間違っているかは判らない、けれど、この家の中の状況が、単に幸せな夫婦という範疇に収まりうる限り、間違っているはずも無い。

「君が好き、君のことがすごく好き、愛してる」

 思えば、誰かに愛していると、恥ずかしいと思わないで言えるようになったとき、初めて俺は誰かを愛したことになるような気がする。この考え方も、俺だけの特異な物である可能性が高い、が、こうして俺を隙間無く抱きしめる人が同じなら、その時点で俺にとってそれが正解になる。

 こんな風にお目出たい俺。裸になって思い切り愛について話せるこういう時間があるのは、本当にお目出たい。しかし、惜しむらくはまだ、ヴィンセントや俺や、一部の余裕のある人にしか、この時間がないということ。


top