tilt

噴水にはだしを浸しながら本を読んでいる。誰に強いられるでもなく本を読み知識を付けていくことを楽しいと思う心は、ラムザに言わせれば「へん」らしく、足の指の間を水にくすぐられながら食する活字の味は、なかなか理解して貰えず、それはちょっとばかり寂しい。氷はすでに融けたコーヒーのグラスを持ったら、指先が濡れる。シャツで拭いてからページを捲る。しかしそんな気遣いも、濃い緑の葉をさぁっと鳴らして強い風が吹き、無碍になる。背の低い噴水の放物線は崩れ、飛沫が心地よくディリータを濡らした。決して不快にはならない。

「また本?」

「うん」

 背中からした声に振り向かないで答える。

「あきないねえ。ほんとに本好きなんだねえ」

 ラムザは少し呆れたような声音で言う。ディリータもつられて苦笑いを浮かべ、それでも活字を目で追いつつ、

「なあ? でも、楽しいんだ。お前と一緒にいるのと同じくらい面白い」

「同じくらい?」

「冗談だよ。お前と一緒にいるほうが面白」

 振り返って、暑さを馬鹿にするくらい強く抱き寄せようと思っていたディリータだったのだが。

「……また裸か。行水は部屋でしろって」

 ラムザはにっこりと笑う。

「開放感が違うんだ。部屋のお風呂場狭くて」

 狭いといっても貴族の邸宅のそれであるから、二人で入れるほどの広さはあるのだが。ディリータは無論、実際の理由を知っている。

「俺がここにいるってことを知ってたんだろ? 仮にいなかったとしても、誰かに見てもらいたいなんて考えてたんだろう?」

 ラムザは答えず、ディリータの隣に腰掛ける。既に靴も履いていないし、着替えも持参していない、タオルさえも。ビショビショに濡れてから、どうするつもりだったのだろう?

「去年ここでしたよねえ。メイドさんたちみんな里帰りでいない日にさ」

「去年、な。今年はしないぞ」

「今年は、っていうか、今日は、でしょ。今日はまだお盆休みじゃないものね」

「そういうことではなくて」

 いつのまに、本を閉じて脇に置いてしまっている自分に気付かないディリータが、たまらなくいとおしく思えたラムザは、その首に腕を回した。

「君に迷惑かけないよ」

「いや、そういうことではなくてだな」

「本、読んでていいよ。僕あびてるから。邪魔しないよ」

「だから、そういうことではなくて」

 ディリータを無視、しているつもりはないのだが結果的にそうなって、ラムザはざばりと音を立てて水のなかを進む。噴水に手を翳してあらぬ方向へ飛沫を飛ばし、ディリータの顔にまで滴を飛ばす。ディリータは溜め息を吐きながら、高い声で笑うラムザを眺める。本当に、一糸纏わぬ姿。こういう事が一週間に一度……夏場はそれ以上のペースで起こる。そのたび……バレなければいいのだけど、大抵の場合は父上直々に呼び出され、

『もう少しあれとの遊びかたには気を使うように』

 と駄目出しをされる結果に。叱責は苦痛ではない、しかし尊敬する養父の悩みの種になってしまうのは辛い。とは言え、ラムザに強く出られる自分でもなく、自制を促すしか出来ないのは辛いところ。

 でもきっと、父上も、この美しさは知ってるんだ。目の毒だと思っているのかもしれない。あるいは、堪え忍ぶ俺の辛さを慮って下さっているのかもしれない。誰の文句もなく、満場一致でいい景色だと言ってもらえる自信がある、目の前の光景。夏の太陽に、青空に、水飛沫に、金髪はこれほど映えるものなのかと思うほどの一瞬一瞬。ラムザの裸は、少なくともディリータにとってはつねづね危険物であるが、その一瞬一瞬は抱いてしまえば壊れてしまいそうなほどの貴重な美に思える。背中に羽根があれば、もうそれは天使か妖精だ。そんな妄想を、ディリータは本気で抱いた。

 綺麗だな。と、何故それほどまでに思えるのか。笑い声を上げながら全身に水滴をしたたらせる恋人の、まずその見た目の、どこが自分の心を捉えるのか。

 ……輪郭だ、ディリータは考える。そう、改めて考える必要もないか、彼の輪郭。無論、目鼻立ちだって他の誰よりも可愛らしい少なくとも自分の目にはそう映る、そんなこと解っていたけど……まずは、その輪郭だ、中性的な。

 中性的……いや、それも、間違いではないのだが。

 ラムザの身体にはところどころではあるが、やはり、男性のそれでしかありえない要素を兼ね備えている。細い、痩せている、しかし男性的な部分というのは確かにあって、内部に秘めたしなやかな筋肉が、皮膚に輪郭に、微妙な強弱を加え、それがより、美を生み出しているように思えるのだ。

 それは、曲線を主体とした女性の輪郭と、直線を主体とした男性の輪郭と、どちらかと言えばやはり後者寄りの輪郭を創り出すのに重要な要素をなしている。

 そして、その直線によって形成されている肉体が、しかし微妙なバランスで一般的な男性のそれと一線を画しているのは、その所々に存在する傾きによるところが大きい。脇の下から肋骨、そして腰から太股へ描かれていくシビアなラインの連続は、微妙な傾き、一部艶めかしく曲線的な傾きつまり女性の要素をも、ふんだんに取り入れながら……。

 芸術作品、そんなことも言いたくなる。天の成せる技だ。だから、天使、妖精、そんな風にだって見えるのだ。

 そんな子が、だから、駄目なんだ……そんなふうに、美しい裸を。勿体無い。

 再び、ディリータの隣に戻って、ラムザは一つ、はっと息を吐いた。

「涼しくなったか?」

「うん。ディリータも浴びたら?」

「タオル持ってないし、そういう趣味はないから」

 最早、本のことなど忘れてしまっているディリータは言いつつも、煌く裸体から目線を動かさない。

「だいたいラムザ、タオル無しで行水したら帰り困るだろうに」

「まあ……、たぶんディリータいるだろうなって思ってたし」

「いなかったら」

「その時はその時。甲羅干しして乾かそうかなーって」

「でもそれで暑くなったらまた水浴びしたくなっちゃうだろ」

「そうなる前にディリータ来てくれると思ってたし」

 これは、決してディリータの迷惑を考えていないのではない。自分がディリータを信頼しているし、だから同様の想いをディリータが抱いてくれていることを確認しての行動だ。

「……で。俺はどうすればいいんだ? お前の予定通りここにいた訳だけど。タオル持ってくればいいのか?」

「うん……。いや……、それよりも、おんぶして部屋まで連れてってくれる方がいいかな」

 ラムザは伺うような目。ディリータはじっと睨み返していたが、根負け。

 水から上がり、濡れた足を乾かす暇もなく、サンダルを穿く。

「俺の背中濡れるじゃないか……」

 と言いつつも、背中を向ける。

「ありがと」

 その背中に遠慮無く、ラムザがおぶさる。

 背中への重量に、ディリータは少し嬉しく思いながら、立ち上がって歩き出した。

 この、天使の身体の前面と、自分の背中は、気持ち良いくらいぴったりと重なるのだ。シャツごしとはいえ、そのフィット感はちょっとなかなか、ないたぐいのもので。裸で抱き合えばそう言えば、どんな角度でも、俺たちの身体はぴったりだなと、ディリータは気付いた。同じ程度の傾きを俺も持っているということなのだろうか? そんな幸せなことを考えながら、階段を上り、風通しのいいラムザの部屋に到着する。

「着いたぞ」

背中はびしょ濡れだ。しかしそれを気持ち悪いと感じない、冷ややかな体温が嬉しいと考える。

「ラムザ」

「んー……ん」

「寝るなよ」

「眠いよ……。居心地いいんだ、ディリータの背中」

 ひとつ、大きく欠伸をして、ベッドの上にごろり、横になる。以前、全裸のままだ。着ろと言われれば意地でも着るまい。

「お前、宿題やったのか?」

「ちょっとずつ」

「今年はもう、手伝わないからね、自分でやれよ」

「わかってるよ」

 ディリータの視線は、その腰や、臍や、腕をさまよう。可愛いとか綺麗とか、それ以外に表現する言葉を見つけようと思っても、十五歳の語彙ではなかなか。

 あまり長くここにいると、何だかいつものパターンにハマりそうだ、そう考えながらも、淡い色の乳首に目を奪われたりなどしてしまう。ようやくのことで窓の外に視線を移し、立ち上がった。

「どこいくの?」

「噴水。本置きっぱなしにしてきた。そのあとは……自分の部屋だ。シャツもズボンも後ろ、濡れちゃったからな」

「ふうん」

「じゃあ、あとで。夕飯で」

 そう言い残し、立ち去ろうとした背中。

 とんでもない重量がかかり、腰から崩れる。

「痛……」

「へいき?」

「平気なわけ……ないだろ、……何するんだよ!」

 背中の上、ラムザが居座る。飛び掛かってきたのだ。

「痛いの痛いの飛んでけ〜」

「ラムザ!」

 怒鳴ってはみるが、効果はない。罪のない微笑みを浮かべて、ラムザはディリータの背中から降りたのみ。それも、体勢を整えようとしたところ、また襲い掛かってくる。

「もう、よせっ、ラムザッ」

 無駄だと思いながらも、ディリータは抵抗を試みる。結局、たいして腕力もないラムザに、組み敷かれてしまうのだが、一応抵抗の形を見せておかないと、ますますこの子は図に乗ってしまう。

「もうちょっと一緒にいようよ。誰も取らないよ本なんて。ウチの中なんだし」

 ラムザはぴったりその身に身を重ね、微笑みながらささやく。

「何がしたいんだよ……」

「こうしたいの」

「当たってるぞ」

「当ててるんだもん」

 ぴったり。

 主としてこういうとき、二つの身体はちょうどいい具合に重なる。突起物を間に挟んでいても、まるで「凹」と「凸」のように、はじめからしっくり当てはまることを前提にしていたかのように、重なり合うことが出来る。ラムザが「凸」になるか、ディリータが「凸」になるかはその時次第。多くの場合、ラムザは「凹」なのであるが。いずれの形にしても、ぴったり型に嵌まれる、自分の居場所だと思える。

「……一緒に取りに行こうよ、本」

「……じゃあ服を着ろ」

「あとで」

 ラムザは必殺の微笑み。

「僕ずっと裸なのにディリータ、僕のこと好きなのにしたくならない?」

 答える事が馬鹿らしい。

「じゃあ何で俺はお前の側にいるんだいつも」

 もう冷たくない、だけどまだ濡れている背中に腕を回す。

「優先順位は、僕、着替え、本。それでいいでしょ?」

「……好きにしろよ」

「違う。君が、どうなの?」

「……それで……」

 まあ……外でやらないで済んだだけ、よしとすべきだろうか?

「それが、いい……」

 ぴったりくる、身体。心は多少、自分がラムザの鍵にあうよう、鍵穴の形を柔軟に変えていく必要はあるかもしれない。しかし、そうすることに何ら苦痛を覚えないのだから、やっぱり二人、相性が最高にいい凹凸なのだと、思うしかない。

 ディリータはそんなことを考えながら、ラムザの美しい傾斜に指を這わせた。


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