魔王、であるからにはその振る舞いも魔王、らしくなければいけないとスタンは魔王、その肩書きに恥じぬ行動を常に心がけ、本質的には人畜有害な男であると言える。ルカが悲しむ顔が見たくないというただ一点で、その行動を変えているにすぎない。その気になればやはり、何をするか解らない。
同じく魔王、であるはずのルカやエプロスの春風のような平和主義に物を言いたい気持ちが多少ながらある。しかし隣接して在れば、その春風はスタンの頬をも和やかにくすぐる。魔王である必然性はルカと過ごす長い時間だけで十分かなどと、曲線的な考え方も出来るようになったのは、やはり収穫と言うべきだろうか。
ルカの愛らしい微笑み、それが曇らないようにと思う。魔王的感性に反するものであっても、手を伸ばすのが賢いのかもしれない。その一方で、どうしようもなく魔王的魔王であることをやめられない部分も残り、それは禍々しい金髪や異形の耳と共に、唯一スタンを魔王たらしめているものなのかもしれない。
「いい、お前に謝られると、困る」
エプロスは既に困惑しきった顔で、ぺこぺこ謝るルカに、中腰の苦しい姿勢で言った。
「お前が悪い訳ではないのだから。……だから、向こうであいつの機嫌をとっていろ」
「でも、でもですよ、だって、あの、その、だって」
「気にしなくていい。……お前たちの側近として生きている以上、覚悟は出来ている」
「でもっ、僕が謝らないで誰があやまるんですか」
その言葉に、少しく笑った。
「確かに……、お前が謝らないと、誰も謝らないな。だが問題ない、寧ろお前にそんな気を使わせるほうが私としては心苦しい」
だから、待っていろ、ちゃんと望みどおり、してみせるから。
エプロスはそう言って、くるりと背を向けた。顔を上げたルカには、その細長い後ろ姿が、実際以上に大きく見える。
ああ、また迷惑かけちゃった。
そうルカが思う程、エプロスは辛く思っていない。それをルカは知らない。
「もう……、スタンもちょっとは……ってスタンッ」
「ん?何だ?」
「人様のおうち来て机の上に足なんか乗っけないで!」
ここの家の椅子は小さいなどと、不平までオマケにつけて、凄まじいまでに尊大な態度は、やはり魔王だからだろうか。そのあたりの感覚、ルカには計り知れない。
「別に余だけが悪いわけでは無い」
スタンはギィと椅子を軋ませて言う。ルカはうっと言葉に詰まる。それを見て一瞬でも満足してしまう自分が実はあまり好きではないスタンは、手招きする。ルカは素直にスタンの膝の上に乗る。玉座の上でおなじみのスタイル、一日の半分近くをこのポジションで過ごしているのに、また飽きずに夜七時こういうことをする。人の家でする。そしてルカもそれに応じるのがマナーと思っている節がある。少なからずの公害になっていることは否めないとの自覚もある。
「ちゃんと……謝ってよ?」
「ん?」
「……そりゃ、僕も買い物忘れてたのは悪かったけど、だからってこんな風にイキナリ人の家上がってっていうのは、非常識だよやっぱり」
「他人の家ではないのだからいいだろうが」
「そういう問題じゃなくって……」
ぎいぃ、と椅子が鳴いた。
「……お前の言っていることも解らん訳ではないがな。ただ、そこまでお前に気を遣われてあの男が喜ぶかどうかも同時によく考えてみてはどうだ」
ルカは一瞬でもその発想に甘えたことを恥じた。しかし、それもまた正解かもしれないと、思いたい気持ちも十分にあるのは、エプロスが繰り返し言うことを無碍にするつもりもないから。
「まあ、年がら年中迷惑をかけておる訳でもなかろうが。今日は例外中の例外だ、余とお前の忠実なる子分として存在することを容認している以上、奴も想定していることだろうよ」
そうかなあ、……そうなのかなあ……。不安げな表情のルカを安心させてやるべく、スタンは椅子にふんぞり返る。その途端、椅子がぎゃあと悲鳴を上げて、二人は見事に床に引っくり返る。したたかに後頭部を叩きつけたスタンは眼から火花を散らすが、それでもルカに痛い思いをさせない為にだけ、神経を払っていた。
「……な、何をしているんだ」
湯気の立つディナーを運んできたエプロスが、呆気に取られる。
「大丈夫か……、どうしたらこんなに見事に引っくり返れるんだ……。ルカ、怪我はないか」
「は、はい……、ビックリしたぁ……」
「……貴様ら、余の心配はなしか」
「……君は殺したって死にそうにないからな」
「ほう……、死にたいらしいな」
「腹が減って気が立っているんだろう、温かいうちに食べてくれ、……口に合うかは判らないが。……椅子は適当に違うのに座ってくれ」
立ち上がって改めて食卓を見ると、質素ながら食欲をそそる二皿と、綺麗に切り分けられたパン。二人が座っていた椅子は倒れた衝撃で背もたれに大きく割れたヒビが走っている。しばしばルカを膝に据わらせての晩餐を楽しむスタンであり、今日だってそれをしてやろうと思っていたが、さすがにもうやりかねた。ルカに嫌われたくもない。
スタンは憮然とした表情で一口食べた。
そこから先の記憶はあまり無い。食べて、食べて、食べて、「スタンそれエプロスさんの!」、ルカに何か言われた気がするが、気が付いたときには食後のお茶もしっかり飲み終えて、口元をナプキンで拭いていた。十分すぎるほど満腹になったが、厭味な膨満感など微塵も無い。
「……口に合わなかったのではないか?」
案ずるように聞いたエプロスに、ルカがぶんぶんと首を振る。
「とんでもないです、すごい、すごい美味しかったですよ、感動しました」
非常に満ち足りた気持ちで、スタンはルカとエプロスのそんな遣り取りを聞いていた。慣れぬ包丁裁きで一生懸命にルカが作った夕飯もスタンを喜ばせるが、エプロスの繊細な味付けによる料理は、間違いなく高い金をとれるものだ。すんなり誉めるのは癪だが、これは認めてやらない訳には行かないとも思う。しかし、ルカ以外の者を手放しで誉められる語彙の無いスタンは、頭の中をかき回して言葉を捜して途方に暮れる。
「……あの、スタン?」
結果的に、仏頂面になる。
「……うむ」
「どうしたの、そんな……怖い顔して」
「……」
さらりと上手い一言を言えたなら言っている、それで事足りる話だが。
ルカは気を遣って、「そろそろ帰ろうか」とスタンの手を引っ張る。
「ごちそうさまでした、本当に美味しかったです」
「なに。あの程度のもの……。まあ、毎日はさすがに難しいが、問題が生じたときにはいつでも頼ってくれて構わない」
「ほんとにすいませんでした……」
エプロスは柔かく微笑んで、ルカの髪を撫でた。
「我儘を言ってくれてありがとう。私はお前たちの我儘を満たす為に生きていると思っている、それで何の不都合も感じていない。だが……、もし我儘を言うことにお前の胃が痛むのなら、無理に我儘を言ってくれなくとも構わない」
つまり、存在してくれればそれで良いとエプロスは言う。本人はそれだけルカとスタンがいとおしいから言う訳で、ルカからすれば、そんなエプロスがいとおしい。そして、あれだけの飯を食わせてもらったのだから、頭を撫でるくらいなら大目に見てやろう。いや、あの飯ならば頬にキスするくらいまで、何とか我慢できるかもしれない。
「ほんとにごちそうさまでした。それじゃあ、失礼します、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
エプロス邸を出て、暗く危ない吊り橋の手前からスタンがルカを背負う。ふわりと浮かび上がり、あとは魔王城までひとっとびだ。
「……スタン、どうしたの?」
美味い食事に満たされた後とは、こんなに幸せなものだろうか?スタンは考察を続けている。事によっては、ルカをいかせた後、或いは、ルカにいかされた後と、全く異質な、しかし近い量の幸福ではないか。食欲と性欲は両立しないと言う。下手をすればこの満足感でそのまま眠りに落ちてしまう。しかしそれはルカに対して申し訳が立たぬ。だから余は今宵もルカを抱く。
「……スタン?」
「いや……、考え事をしておっただけだ」
「そう、なの?」
「そうなのだ、気にするな。それよりも帰ったら風呂を沸かして入るぞ」
「うん、わかった」
やや性急な結論になるかもしれないことを承知の上で、スタンは、エプロスを必要不可欠と思う。この舌が喜んだからではない、ルカが喜んだからだ。あの男が居れば、時にルカに夕食を作らせなくともよくなる。ルカはスタンの為の家事をせっせとこなすが、それだって何の負担も無くしている訳ではないだろう。時々の夕食の負担が無くなれば、それはルカにとって間違いなくプラスになるはずだ。
無論、エプロスの負担も考えてやらないわけではない。甘えてはいけないと思う、それは魔王的態度とは乖離するが。とは言え、恐らくは本心から、自分たちの幸せを幸せと感じていると言うエプロスだから、甘えられるのを嫌悪しているとも思わない。三人で過ごす時間、無論、スタンは不器用にしか息を出来ないが、そういう時間を設けることが、悪いとも思わない。
妙に家庭的な魔王になりつつあるようだが、それを今更苦しく思うスタンはもういない。