ボクと魔王は叱られるかもしれないが

 主のいない部屋は、主の去ったときとまるで同じ状況。ベッドの脇に立てかけられた歯車の剣もそのまま放置されている。それでも気の利く母親はこまめに掃除をするから、清潔に保たれている。
 その部屋に、ロザリーとマルレインは座っていた。
「……そんな、ことが、あったんですか」
 ロザリーは溜め息を吐いて、首を横に振る。
 スタンがルカを、洗脳。……確かにあの男は、『王女』マルレインを洗脳しようとしていたけれど。ルカをいつも叱ってばかり怒鳴り散らしてばかり、役立たずと罵倒し……、しかし、スタンは決してルカのことを嫌ってはいなかっただろう。何がスタンにそうさせたのかは、彼女にはわからない。が、そうだとしたら……。
「全く持って、……ルカ君ったら……、かわいそうに」
「……私も、ルカが可哀想でならない。あの魔王の術にかかって、完全に悪の道に染まってしまった……。私の言葉に耳を貸そうともしない」
 マルレインも俯いた赤い目に、悔しさと寂しさを共存させた切ない色を浮かべて言う。
 ――ルカは、スタンの術にかかって魔王の僕として我を失っている。もしくは、嫌々、あの立場に在り続けている。
 それが、二人が確信するところだった。

ごく常識的に導き出された、「普通あれだけコキ使われてヒドい目にあわされたら、もうスタンといっしょに居たいなんて思わないだろう」、「にも関わらず一緒にいるというのは、先日のサーカス舞台でのルカの態度を見ても、やはりスタンの術に惑わされているとしか考えられない」というロジックに拠ってだ。
「王女様……」
「もう……、王女じゃないから」
「あ、マルレインさま」
「……『さま』もいらないわ」
「え、あ、……えーと……、マルレ、イ、ン、……私に、お任せください。勇者の名にかけて、必ずやルカ君の正気を取り戻して見せますわ」
 ロザリーは決然と言い、すっくと立ち上がった。そうして自信満々に胸を張って、部屋を出かける。
「待って。……ルカとあの男が何処にいるか、見当はついているの?」
「……」
 すぐに立ち止まり、振り返る。
「……言われてみれば。……王女……マルレイン、心当たりの場所は……、ありますか?」
 マルレインはこっくりと頷いた。ルカの机の引き出しに入った地図を勝手に取り出し、床に広げる。
 彼女は迷いなく、指差した。 
「……ここは……、ユートピア回廊……?」
「発想はきっと同じよ。……あの男も、……ベーロンと」
 ロザリーはマルレインの顔を見た。彼女の目は、地図上の小島をじっと睨んでいる。数々の想いが、ロザリーの中に浮かんでは消えた。そうして、その想いの中には、確かにルカとスタンと自分が、力を合わせて戦った記憶もあった。魔王に囲まれて戦った、今思えばなんとも奇妙で微妙な日々が、しかし不快感なく思い起こされるのは何故か。
 マルレインはしかし、それを知らない。ルカを失った寂しさが彼女の胸を満たしている。
「では……」
 ロザリーは、しかしもやもやとしたものを振り払うように首を振って、立ち上がった。
 自分は何だ?
 正義の名を胸に刻み、この世の悪を絶つ――、勇者だ。
 あの男が、魔王の名のもとに、罪なき少年を惑乱し、少女を悲しませるのであれば、私も勇者の名のもとに、制裁を加えよう。
「行って参ります。全て私にお任せください」
 ロザリーは、ルカの部屋を出た。




 そんなやり取りが自宅の自室であり、マルレインが人の引出しを勝手に開けたということも知らないで、ルカはエプロスの淹れたお茶を飲んでいた。
「……良いのか? こんなところでこんなことをしていて」
 エプロスが不安げに尋ねる。
「スタンは今日、帰って来ませんから。なんだか、行きたいとこがあるとかで……」
「いや、それはそれとしても、わざわざ私のところへ来ることはなかろうが」
「……ご迷惑でしたか?」
 そうではないと首を振る。そうして、うーんと眉間を抑える。
「ただ、あまりおまえと仲良くしてしまうとな、私があの男に怒られてしまうだろうからな……」
 ルカは少し考えた。が、すぐに穏やかに微笑み、
「大丈夫ですよ。僕が勝手にお邪魔したんですから。エプロスさんが悪いんじゃないですよ」
 仮にそれが正しくとも、大魔王は理不尽な理由で怒ったりするものなのだよ……、エプロスは思いつつ、飲み込んだ。まあ、仕方がない。自分だってルカと共にいるのは、嫌なものではない。むしろ、スタンの玩具になってはいないかと、先日の剃刀の件もあって、エプロスは心配していたところだったから、元気な姿を見ることが出来て少しく安心してもいる。
 ルカは、甘いお茶を美味しそうに飲んで、溜め息とともに湯気を吐き出す。
 大魔王の相手が務まるのかと不安になるくらい、温和な表情だ。もっともこれはエプロスが、この少年の前で大魔王がどんなに情けない姿になっているからを見知らないからだ。かすかに漏れてくる情報も、剃刀で少年の貴重な陰毛を剃ったとか、お忍びでサーカスを観に行って勇者に見つかったとかいう断片的な物に過ぎず、普段はあの城の中でどんなことが行なわれているのかということに関しては、エプロスのところまで情報は降りてこない。だからこそ、この村の旅籠で二人の情事を見た時に準じたような、スタンの命令にルカが従うという形の、少年にとっては辛い性交を強いられては居ないかと勘繰ってしまうのも無理はない。
 元気でいてくれているようで、よかった。スタンが感じるものとはまた違う魅力を、エプロスもこの少年に対しては感じており、それは直接的な恋愛感情を喚起するものでは今のところ無いが、それでもこの少年が幸福であれば、どこかで自分も嬉しいと思うのだ。
「……まあ、退屈なら、私で暇を潰してもらっても構わないが。……お茶のお代わりは?」
「あ、いただきます」
 幻影魔王と子分魔王、「魔王」の肩書きのある二人ながら、その間に流れる空気はまるでまったりとしている。子分魔王が二杯目のお茶に口をつけたところで、幻影魔王の館の扉がごんごんと二度ノックされた。
「入れ」
 エプロスが言うと、ぎぎいと扉を開けて、紫色の顔色をした吸血魔王が入ってくる。
「お邪魔しますよっと……、あれまあ、坊ちゃんもご一緒でしたかぁ」
 うへへ、と卑屈に笑う吸血魔王に、ルカはぺこりと頭を下げる。
「こんにちは、吸血魔王さん」
「いやいやいや、さん付けなんて勿体無いっすよー。私なんてね、呼び捨てでいいんすよ呼び捨てで」
「でも……、僕はさん付けの方が呼びやすいんです。……駄目ですか?」
「あわわ、駄目だなんてそんなそんな。もう、うへへへ、坊ちゃんの呼びやすいやり方で、ええ」
「おまえも飲むだろう?」
「あーあーはいはい、頂きますよ」
 大魔王スタンリーハイハットトリニダード十四世の周囲を固める幻影・吸血・子分の魔王三人衆が勢揃いした。それぞれ、スタンに魔王に任命されてからこうしてスタン抜きで顔を合わせるのは初めてのことだ。
 第一の関門である吸血魔王、彼は歯車タワーにおいて、深き墓穴を歩き回って疲弊した勇者たちの前に立ちはだかる。一旦はその魔力を失ったとはいえ、もともと強力な三種の魔法を使いこなす力がある。スタンに再びその魔力を与えられ、今では人血なしでも強大な魔力を操る。
 第二の関門である幻影魔王ことエプロスは、ユートピア回廊への橋の番人だ。再びその幻の力を取り戻した彼には、剣も槍も、もちろんレイピアも意味を為さない。岩をも砕き全てを黒焦げにする雷を自在に操る力も取り戻し、スピーディーかつトリッキーな身のこなしも相俟って、勇者たちを苦しめる。
 そして、第三の関門が子分魔王ルカ。大魔王スタンの片腕として、居城・玉座の間に控える。大魔王スタンから与えられた魔力は、吸血魔王、幻影魔王エプロスをも上回る程のもの。数多くの攻撃魔法に加え、治癒魔法も使いこなす。地味な外見とは裏腹の、大魔王スタンの最後の切り札である。
 禍々しいはずの魔王三人揃い踏みだが、しかしその喫茶風景はのどかというほか、ない。
「……そうだ、村人がくれたクッキーがあるが……。食べるか?」
「ああ、いいですねえ」
「いいっすねー」
「では持ってくる。……あと、お茶のお代わりはどうする?」
「僕、頂きたいです」
「私も私も」
 勇者ロザリーに見つかることは遅かれ早かれ解かっていたが、ルカのミスとスタンの不必要な挑発によって、彼女がこの場所を探し出して侵攻してくるのは時間の問題だ。
「あの、吸血魔王さん、そのグラスの中身って……」
「ああ、これですか。ご安心を。トマトジュースですよしかも百パーセントの。坊ちゃんからのお達しとかで。もう血は吸いませんから」
「……なんだか、わがまま言っちゃってすみません」
「いえいえいえいえ、もう、ほんとに。いやあ。トマトジュースもお茶も美味しいし、私はこれで幸せですから」
「クッキー、持って来たぞ」
 だからというわけで、スタンはこれまで以上に戦力を整備した。それぞれはそれぞれの持ち場を、確固として守るというわけだ。だから本来なら吸血魔王はこんなところで油を売っている暇はないはずだが、スタンの留守中であるから、歯車タワーには本来の鍵の他にも邪悪な結界が張られている。この結界を越えて行き来できるのはスタンを除いてはルカしかいない。
 ただ、「確固として守る」という表現はスタンが用いたものであったが、そこから伺えるとおり、スタン自身には「武力による勇者の殺害(排除)」という意識は、少なくとも念頭にはないようにルカには思えている。
「……ロザリーさん、ほんとに来るのかな……」
 ルカはクッキーを齧って、憂鬱な顔で呟いた。
 エプロスも少し考えて、表情を曇らせた。が、
「……ほぼ間違いなく、やってくるだろうな」
 気休めは言わなかった。
「彼女はやはり、自分の影のこともあるだろうし、サーカスでスタンが挑発的な言い方をしたというのであれば、マルレインは間違いなくロザリーに助力を乞うだろう。彼女は来る。自分のために、マルレインのために。……そして、これはひょっとしたらだが……、ルカよ、おまえのためにもな」
 へえ? と吸血魔王が小さな目を見開く。
「坊ちゃんのため?」
「うん。……ルカは彼女たちに『スタンに操られている』状態であるという印象を与えているのではないかと、ルカから聞いた限りでは、感じられるのだ」
 エプロスはルカの、自己主張の薄い顔を見ながら言った。
「実際、スタンがルカをマルレインの元から、言い方は悪いが攫ったときは、おまえの意思はあまり尊重されなかったと言っても良いのだろう?」
 ルカは頷いた。無理矢理とまでは言わないまでも、第三者にそういう印象を抱かしめるのには十分だったろう。
「強制的に攫われたのにもかかわらずだ、サーカスの舞台上では、おまえはスタンの子分としての役割を全うした……、おまえにそういう意図が在ったかどうかは置いても、彼女たちがまさかおまえが使えるとは思っていない冷気魔法を使ったり、スタンに抗うことなく一緒に消えたり。……彼女たちは、……確信を持って言うわけではないが、おまえが家を出てから、サーカス会場に再び現れるまでの間、スタンに何らかの洗脳を施された、と考えているのではないかな」
 うーん、と吸血魔王は腕を組み、
「それには一理も二理もありますねー」
「ましてや、スタンはルカを家から攫うときに、当時は当面の目標だった『世界征服』を口にしている。……まあ今のあの男にそんな大それたことのできるはずもないが。余計、王女や勇者を逆なでするキーワードではないかと思うのだ。……だから、彼女はおまえのためにも、ココへやってくるだろう」
 エプロスはそれから少し黙りこんで、考えた。
「何とか誤解を解く事は出来ないでしょうか……」
 吸血魔王は青い顔で、力なく首を振った。
「そりゃあ無理でしょう……。坊ちゃんがあの女勇者に何おっしゃったところで、『洗脳されているからだ』って思うに決まってますよ」
「……そうか……、そうですよね……」
 和やかだった場の空気が、少し白けた。子分魔王と吸血魔王が揃ってお茶を啜る傍ら、幻影魔王は何かを深く考え始めていた。




 スタンはひんやりとした空間に佇み、意識を集中し、呼びかけ続けていた。
「いいご身分だな、ええ? この大魔王スタンリーハイハットトリニダード十四世をシカトかおい、ヒトがわざわざこんな辺鄙なトコロまで来てやったというのに、誠意に欠ける応対は寿命を縮めるぞ。とっとと出て来いと言っておろうがッ、でないとまた凹ますぞ!」
 どんな寂しがりやだって出てきたがらないような言い方に問題があると言う事にどうしても気付かないスタンはさっきから延々とそんな言葉を繰り返し繰り返し、虚空に向けて投げかけている。日没までに帰るとルカに言ってあるから、あと三十分で出てきてもらわないと、スタンとしても困るので、なお声高に叫ぶ。
「おいコラいい加減に出て来んか! 余は忙しいのだぞ、忙しいのに出向いた余を待たせるとはそれだけで万死に値するぞ! とっとと出て来い! すぐに出て来い! いま出て来い! ……出て来んと、殺すぞ!!」
 スタンの喚き散らしも徒労に終わるかと思われた、そのときに、ようやくその空間に色が生じ、ヒトを象った輪郭が生じ、存在感が生じた。
 迷惑そうに顔をしかめた男は、スタンの顔を見て、なおその顔を険しくする。
「……何用だ、ゴーマの生まれ変わり……」
 最後に見たときから、まだ半年も経っていないのに、男は時間以上のスピードで老いたように、スタンには見えた。
「居たのか。ならば何故とっとと出て来ない!」
「……おまえに価値が無いからだ。……私はこんなことをしている時間も惜しい、……用件があるならさっさと済ませてくれ」
「ククク……、その様子ではまだ娘は見つかっておらんようだな……」
 ベーロンは凄惨な目で、スタンを睨みつけた。スタンは今にも崩れそうな初老の身体に、哀れみを含んだ嘲笑を投げた。
「気の毒にな。おまえは自分の作り出した『分類』の力によって全てを掌握し、しかし『分類』の力そのものによって、娘を失ったのだからな」
 いよいよ鋭さを増すベーロンの目に臆するような大魔王ではない。余裕の微笑を浮かべたまま、手のひらを上に掲げた。青黒い光が生じ、そこに水晶が出現する。
 スタンは水晶に念を篭め、ベーロンの前へと浮かべた。
 そこに映し出された映像に、
「……な、……なんだと……、これは……」
 ベーロンは狼狽する。彼の目は、水晶の中の映像を、瞬きもせずただ凝視し、唇を戦慄かせた。
「……余は、おまえの求めているものを与えることが出来る」
 水晶の中には、ルカの部屋に寂しげに佇む、マルレインの姿があった。
「但し、余の言う事を聞くという条件付きだが……。悪い取り引きではあるまい」
 スタンは言い、水晶を自分の手に戻すことなく、踵を返した。
「……時間が来たようだ。また明日来る。そのときにはすぐに出て来いよ」
 スタンはふわりと浮かび上がると、一路ユートピア回廊に向けて飛び立った。ベーロンはただ、頬を涙で濡らし、水晶の中を見つめていた。

 

 

 

夕刻に茶会は解散、吸血魔王は歯車タワーへと戻り、ルカもてくてく歩いて城へと戻った。

下級魔族が居ては城の品格が下がると言って、スタンは城の中にオバケを放ってはいない。だから、漆黒の壁と床と天井に囲まれた魔王城はがらんどうとしていて、物音一つしない。こういうときは、普段は閉口してしまうジェームスのお喋りも恋しくなってしまう。
 スタンと三魔王しか知らない正しい順路を辿って、ルカは寝室に入った。時計を見ると、四時五十五分、あと少しでスタンは帰ってくるはずだ。そう思ってベッドに座った矢先、目の前に現れた。
「あ、おかえり」
「……うむ」
 神妙な顔つきで、スタンはルカのとなりに腰掛けた。情に脆いところを自覚しているスタンなのだが、ルカはそんなことは知らないから、きょとんとしている。魔王は少年の頬に口付けた。
「……おまえも出かけていたのか?」
「う、うん。……エプロスさんのところに」
「……そうか」
「あの、あのね、僕が行きたかったから、行ったんだよ」
「解かっておるわ……」
 そうして、抱き上げて膝の上。優しく抱きしめる。その背中を、後頭部を、しつこいくらいに撫でる。いつもなら、ここまで甘えるようなことはしないのに。ルカは妙に思ったが、スタンのしたいようにさせておいた。
「……おまえが側にいるというのは、本当に掛け替えのないことだな」
 そんなことを言って、ようやく手を止める。ルカの目を見つめて、なんだかどうしようもなく優しい微笑みを浮かべた。
「……どうしたの?」
「うむ、その……、愛しているぞ」
 照れくさくて俯いたルカの頬を撫でて、スタンはもう一度抱きしめた。
「今日の昼、味噌汁勇者がおまえの家を発った。恐らく迷い無くここを訪れるものと考えられる」
「……そう」
「そんな浮かぬ顔をするな。言ったであろう、あの女を殺したりはせぬ。……まあ、それ以上に余の元まで辿り着けずに尻尾を巻いて帰ってしまう可能性もあるが」
 スタンはルカを膝から下ろし、ベッドに寝かせた。
「……おまえは何も案ずることは無い。余はおまえとの約束はちゃんと守る」
「……うん。……って、……スタン、あの、……するの?」
「したいのだ。……駄目か?」
「……駄目じゃ、ない、けど……、っ」
 唇を甘くふさがれて、ルカは腰のあたりに常に存在する官能がぴくりと一つ、うごめき始めたのを感じる。唇を舐められ、舌を差し入れられ、吸われ、魔王の唾液が舌を伝って流れ込んでくる。キス一つだけで、顔は真っ赤頭は真っ白。スタンは「それでいい」とは言うものの、自分が自分でなくなってしまうように、はしたなく裏返りそうな声を上げるのは恥ずかしいことだ。
 しかし、性行為を嫌うわけではない。「気持ちよくて恥ずかしくてわかんない」その性質は今もさほど変わってはいないけれど、スタンが自分を一生懸命気持ち良くしてくれようとしているのはいくら鈍いルカにも解かるから、嬉しく思うし、スタンの気持ちに応えたいとも思う。昔と比べて今は、スタンに施されてばかりだという自覚がルカにはあるから、自分が裸になって自らを差し出し曝け出すことでスタンが喜んでくれるのなら、それはできるだけしたいとも思うのだ。
 小さな耳も、首筋も、優しく舐めてもらいながら、ルカはか細い声を上げる。その中性的な一面とは裏腹に、ジーンズの前では男性器がくっきりと立ち上がって、雄々しく開放を望んでいる。
 魔王は何も言わず、ジーンズのボタンを外す。下腹部が淡く汗ばんでいるのを感じながら、触れて撫でて、口の中でルカの舌が小さく震えたのに、覚えずその舌を舌で弾く。
「は……っ」
 掠れた声がかすかに漏れて、たかが子供のキス一つで感じている自分がいることを知る。
 しかし、魔王の官能に障る舌なのだと確信する。自分が強くルカのことを思い、またルカも強く自分のことを思っているからこそ、少年の舌に、耳が熱くなってしまうのだと。
 微かな糸で結ばれたことを確認して、唇をもう一度舐める。潤んだ時に妖しい緑に揺れる瞳は、子分魔王の専売特許だ。大魔王ですら、喉の奥に石ころが転がるような切なさを覚えざるを得ない。
「……スタン……」
「……う、うむ」
 ジーンズを脱がせ、下半身を裸にしてやれば、ルカは自分からシャツを脱ぐ。そんな姿を見てしまえば、スタンも重苦しい黒衣など鬱陶しいだけのものとなり、脱ぎ捨てる。逞しく完成されたスタンの肉体と、少年の細く未熟な身体は二つに折り重なり、互いの性器を愛撫し始めた。
 こういうときは本当に、疑いようもなく「ラブラブ」だと、スタンは思って幸せになる。ルカの細い指が自分の陽根に這い、時折優しくキスをくれる。大切そうに、慈しんでくれる。熱い息が、時々茎を流れ、口に入れられたときにひそかに漏れる声は舌を伝ってスタンを喜ばせる。性的快感のためだけにルカを側に置いているつもりは毛頭無いスタンだが、しかしこれはこれでやはり掛け替えの無いものよとも思う。
 赤く窄まった肛門はスタンの舌に音もなく蠢く。まだ毛は生えてこないから、少年のそれ。だが、どちらでもいいとも思う。ただ、これはこれでやはり、可愛らしい。舌先を忍ばせると、ルカはスタンの性器を口に入れたまま、「あっ」とか細い声を上げた。スタンは胸の中にとんでもなく酸っぱい何かを押し込まれたように眉間に皺を寄せ、それでもなおルカの秘蕾から舌を外さない。
 まだ、性交には慣れぬ少年の身体を愛するために、スタンはそっと指を差し入れた。
 凶悪に伸びていた爪をキレイに切り揃え続けて、なんだか画竜点睛を欠く魔王になってしまった感もあるが、それでも見た目の良し悪しよりも心の良し悪しと割り切る。滑らかな指に、ルカの肉は強いプレッシャーを与え、その粘り気を帯びた力は魔王の幸福だ。
「ん……、ふ……っ」
「……無理に、してくれなくとも、良いぞ……、子分。感じていたいのなら、感じておれば良い」
 魔王のその言葉にも甘えず、少年は口でするのを断念しても指を絡ませて扱くことは止めない。健気な手淫に、魔王は知らず、息を上げた。
 眼前の、つるりとした尻から漏れ聞こえる、ちゅくちゅくという水属性の音が、ベッドに吸い込まれる。宵闇の褥は堕ちた姦淫の背景。二人だけの広いベッドは、二人だけの為に在るものだから、共に在るために設えられた小さな世界。二人だけの世界。
 スタンの指にも徐々に慣れ始めたルカが、尻をひくつかせて、言葉もなく強請る。その仕草のあまりの愛らしさに、自分の中にルカの血が流れているかのように、同じようにこみ上げるものがあった。そうして、ルカはそのこみ上げるものを堪えることは出来ず、小さな声を上げて、射精した。スタンの胸から腹へ、白濁した闇属性の精液が飛び散り、濡らした。ルカは震えながら、それでもスタンの肉根から手を離さなかった。スタンのものからも、透明な液が滲出している。
 スタンはルカの肛門から指を抜き取り、緩んだ隙間へと、再び舌を差し入れた。微かな苦味を覚えながら、何の嫌悪も無く、意思ある別の生き物のように入口から少し中へと入り込む。ルカは環状筋を締めてそれを拒もうとするが、そうすれば余計にスタンの舌を広く感じることとなる。
「ん、やあ……、ダメ……だよぉ」
 そう泣き声を出されると、それ以上奥に進むことは出来ない。入口に戻って、ルカを身体から下ろしてやる。
 ルカは暫しの間、快楽の余韻に任せて甘い吐息を吐きつづけた。スタンは満たされた気持ちでその姿を見下ろしている。可愛いな……、ほんとに可愛いな……、けしからぬ、余はいったい、どうすればよいのだ、無理難題を押し付けおって、この子分め。
 嬉しくて仕方がないから、無理に不機嫌な物思いを努めてする。でないと、顔がみっともなく緩んでしまいそうだから。
「ちょっと、……まって、ちょっとでいいから、待って」
 振り向いて、ルカは乞う。
「……む、うむ」
 スタンはそんな風に、あいまいに頷く。何とも言えない幸福にスタンが酔いしれていることなど、もう書く必要も無いだろう。可愛い子分魔王が、自分の相手をする準備を整えるから待って欲しい、と。ああ、ああ、ああ、余はどうしたらいい。余は、どうしてこんなに弱くなったのだ。チクショウ、チクショウ、ルカが可愛すぎる……。
 心を移す鏡などこの世になくて良かった。
 形ばかりの平静を堅持しながら、はう、と溜め息を吐いたルカを見て、果たしてこの箍はどれだけ脆いのかと危ぶむ。
 なにものかを「可愛い」などと思う心があったのは意外だ。自分は魔王として、はかないものを、ちいさなものを、よわいものを、壊すために生まれてきたのだと思っていたのに。何かを、こんなちいさな少年を、地味で何のとりえも無いルカを、慈しむ心があったなんて。
 意外だ、驚きだ。
 そして、喜びだ。
「スタン……」
「……膝の上へ来い」
 実態を取り戻してからというもの、それまでルカの下敷きになっていたからかもしれないが、ルカをあぐらに乗せるのがデフォルトポジションとなっているから、その五十キロがないと、寂しいというわけではないのだが、自分の身体だけでは軽すぎるような気になる。
 影の身体も、悪くは無いものだな。
 そんなトチ狂ったことを、今考える。あの時は早く戻りたくて躍起になっていたけれど、常にルカが自分の存在を意識してくれていた。あるいは今もそうなのかもしれないが、あの時、まだ自分がルカのことをなんとも思っていなかったときでも、ルカは自分を常に感じていてくれた。
 そうして、頼りない子分は何かというと自分を呼び出した。そのたびに地上に現れるのは面倒だと思っていたはずが。
 頼りにされていると思うのは、悪いものではない、よな……。
 危なっかしい、両手でスタンの肩をそっと掴む。十七歳と、実年齢はさておいてもせいぜい二十代半ばといったあたり、決して離れているとは言いがたい二人の年齢差とは裏腹にその肉体差。ルカの裸体など、角度によってはまだまだ十ニ十三のそれに見える。「だから」ルカが好きというわけではないが、やはりいいものはいいと思う。気弱にそっと抱きついてくるのは、少しだけ震えているのは、まだ不馴れて、怖いからか。しかし、その唇から零れた息は熱く甘く、スタンの首筋を擽り、決して嫌などとは思っていないのだと教える。
「……ルカ、言え……。おまえは……、誰のものだ」
 幾度繰り返したか知れないその問いの答えに、どうしても実感が伴わないのは、それはもう雲のようなもので、中に入ってしまえば白いだけ。雲がどこにあるのかわからないのは、もうスタン自身が雲の中に居るからだということに、彼はまだ気付かない。
「僕は、君の、ものだよ」
 不機嫌な誰かにこんな光景を見せたらきっと拍車が掛かるだろうと予想する。公害になるような二人になりたい。そんな非人道的で邪悪な願望も魔王ならば許されよう。
「……スタンは……」
「余は……、何者にも縛られぬ」
 ルカは、少し寂しそうに身を離す。スタンはじっとその緑の目を見詰めて、吸い込まれるように額にキスをした。
「だが……、おまえに操られている。余はおまえのものだ」
 耳朶の小さな耳に、あいしてる、吐息で言う。
 抱きしめられて、ルカはこくん、こくんと二度頷いた。スタンの手のひらが、柔らかな髪を撫でる。

ルカの胸の深い部分、露出しないから傷つきやすく脆い部分から、涙が零れだした。
 胸の中でひくひくと泣き始めたルカに気付き、スタンは慌ててその顔を覗き込んだ。
「どうした……」
 大きな両の目からぽろぽろ涙を零すルカに、魔王はおろおろするばかり。少年は両手で目を拭うが、涙はそれに遅れず溢れ出してくる。
「余が……、何かヒドイことをしたのか、何か、悲しませるようなことを申したか」
 ルカは首を横に振るばかり。犬の巡査のように、スタンが泣き出しそうになってしまうまで、ルカは一人で泣きつづけ、ようやく止まった涙に目をまた擦り、スタンにしがみついた。
「……どうしたというのだ……、子分よ……」
 おまえだけは余を恐れなくとも良い、そんな風に言うのはこの少年の涙を見たくないからだ。なのに。悲しませて、嫌われてしまったなら、悔やんでも悔やみきれない。
「……大丈夫」
 泣いておいて、何が大丈夫だと、スタンは胸中不安で一杯。
「続き、しよう……、スタン。……大好きだよ」
「……ルカ……、いや、本当に、大丈夫なのか? 怖いのなら無理をせずとも……」
 ルカは、擦ったせいで赤くなってしまった目でじっとスタンを見つめて、
「してくんなきゃ、やだ……」
 そう、言った。
「む……、む、う、うむ……、左様か」
 本当に、操られている。
 ベッドに横たえたルカの、頬を舐めてやると塩辛い。同じ濡れるのなら、涙よりももっと違うものの方がきっと幸せだろう、単純だが、スタンはそう考えた。
 急に泣いたりするものだから、性欲も萎え掛けるところだった。ルカの裸が其処にあって、ルカもちゃんと感じていてくれたから、スタンはもう重なり合うことに躊躇いは無かった。
「……あ……!」
 偉大で荘厳なる性器などとはよく言ったものだ。無駄に立派な陽物を、今のスタンは疎んでいた。あとあとルカがどういったものを求めるかは未知数だが、少なくとも今、この性交に不馴れな少年の細い身体を傷めないためには、こんな太さも大きさも不要なのだ。
「う、う、んん……、んっ、はぁ……」
 細い白い首を仰け反らせて、ルカが喘ぐ。善がっているのか、痛がっているのか。スタンには判然としない。ただ、その生白い首から顎へと舌を這わせ、ルカの舌を誘い出す。口の外で、舌と舌とを絡ませて、腰を行きつ戻りつさせる。快感のためではなく、ただ、慣らせる為に。決して楽な仕事じゃないとスタンは思う。もう欲望が煮えたぎっていて、腰のあたりにむずむずきているのに、思い切り腰を触れない。ルカが知らずに立てる爪も痛い。腰を振り出せばそんなのも気にはならなくなるのに。
 滑らかに流れるルカの髪の一筋の、シーツに広がる行方にすら胸を擽られるような気分。誰かを抱くというのはこんなにも大変なことなのかと、今更のように知る。なるほど、そこにはたくさんの条件が必要なのだ。自分の身体、相手の身体、相手を求める心、それに呼応する欲求の存在、相手が応じてくれる気持ちと、それに追いつく身体。
 ルカと余が抱き合えて、よかった。スタンは真剣に思う。
 無意識のうちに「余とルカ」ではなく「ルカと余」と考えてしまうことにも気付かない。それが当たり前になるのが、一番素敵なことだと、知ってはいても。
 ともあれ、ルカが泣いた理由はスタンにはまだ判らないから、胸の片側で不安を払拭出来ないでいるが、
「……スタン」
「何だ……」
「……動いて、いいよ」
 キス。その行為に快感が伴うようになれば本物だ。
「ん……っ、……あ、あ、っ、ああ……っ、っ、あんっ、んっ、んっ……あぁ……」
 交わるときの姿に、人間も魔王も獣もないと考えれば、やっぱり一人の男なのだ、一人の男になれるのだ。気分の悪かろうはずが無い。
 スタンは腰を揺すりルカのことを抱きながら、ルカの流した涙は全て自分が飲み込むのだ他の誰にも舐めさせたりはしないのだなぜならルカの涙は美しく儚く小さな宝石に同じ掛け替えのないものだからしかし余はそれでもその美しい涙を見たいとは思わぬルカの心の捩れる時の少なくなるために余は生きている余はそのために生きているのだ、延々、呪文のように頭の中に繰り返す。
 ルカの知りたい全てのことをルカに教えてやろう。ルカの見たい全てのものをルカに見せてやろう。この少年の為に、余が愛に賭けて出来る全てのことを、余は平気な顔してやってやろう。そうして、優しい笑顔に穏やかな声音の「ありがとう」をたくさん、たくさん、余は聞くのだ。
 「愛してる」一言で代弁できそうなことを。
「ルカ……」
「んっ、んぁあ、ああ、あんっ、あんっ……、あぁん、いっ、……っちゃうよぉ……!」
 心を身体を体力を精神力を総動員して、何十倍もの時間をかけて、伝える。それがセックスの意味だと、スタンはルカの中に淫精を放ち、確信した。
「ん……っ……」
 ゆっくりと、抜いて、やや理性を持った頭で見ると、ああやはり無理があるのかなと、思わずに入られない。ルカのそこはスタンの分だけ広がり、痛そうだ。精液がどろりと溢れ出してくる様は、非常にそそられるものがあるが。
 震えるルカの肛門をティッシュで優しく拭い、胸に飛び散ったルカ自身の精液はもちろん言って気残らず舐めて飲み込む。きっとどの恋人たちもするように、当たり前の男として。
 そして、裸のまま、ルカのとなりに横たわる。ルカは何も言わずスタンの腕に縋り付き、スタンはそれを嬉しく思って横を向き抱きしめる。
「……何故……、泣いたのだ」
 ルカはしばらく黙っていたが、スタンの身体の上に身を重ねて、頬に手を当て恋人の顔を覗き込んだ。
「……怒ったり、笑ったりしない?」
 ルカは困ったように笑う。
「余を怒らせるような内容なのか?」
「……うん……、いや、あのね、『そんなことくらいで泣くな馬鹿者ッ』って言われちゃうかもしれない」
「……余がそう判断したなら、そう言うぞ」
「僕も、ちょっとはそう思う。……けど、でも……、うん、ほんとに、涙が出ちゃったんだ……」
 ルカはスタンから目を逸らして、言った。
「君のことが好きで好きで好きで、大好きなんだって思ったら、なんだか苦しくなって、涙が出てきちゃったんだ。……ね、……なんでだろうね……」
 そう言うルカの、目が潤んでいる。
「そ、そんなことで、泣くな、馬鹿者」
 予定通りの科白で怒ってみせるスタンだが、その気持ちはどうしてか、とてもリアルに感じられた。というより、全く同じ感情が、スタンの中にも感染したのだ。
 魔王の、一人の男の、プライドにかけて、涙だけは流すまいと息を止める。
「君と一緒に居られるって、素敵だな……」
 震えた声で、ルカが言う。
 こういうときは、流したほうがいっそ潔くていいのかもしれない、が、恥ずかしさが先に立って、スタンは無理に笑って、ルカの頭を撫でる。
「馬鹿め……、……」
 上手く言葉を繋ぐことが出来なかったが、ごしごしとその髪を撫でて、言葉を捜す。自分の辞書の中に、今に一番相応しい言葉は無いだろうかと、必死で探す。
「余はおまえと、いつも、一緒だ」
 果たしてこんな言葉だっただろうかと口に出して怪しく思う。ルカが頷いてくれた、その髪が鼻を擽った。そうして、さっきスタンがしたように、ルカが吐息で「愛してる」と言ったから、これ以上ない形で、二人はずいぶん遅い時間の午睡を始めることが出来たのだった。




 鬼気迫る表情で、ベーロンは水晶球をただひたすら、穴のあくほど、見つめつづけていた。呆れるというよりも、感動すら覚えて、スタンはパチンと指を鳴らした。水晶球の映し出す風景が切り替わった。
 マドリルにて、キスリングとアイドル魔王ことリンダを説得している勇者ロザリーの姿が映し出される。
「……キサマがあの蛇蠍のごとき女に『勇者』などという忌まわしい分類をつけてくれたものだから、奴はその気になって余の元へやってくる、余の平穏を、余の安寧を、ぶち壊しにな」
 ベーロンは充血した目を、スタンに向けた。
「あの女は、キサマの娘の差し金だ。キサマの娘が余からルカを奪おうとしておる。……無論、キサマの娘の気持ちも分からんではないが、余としてもルカを渡す気はさらさらないのでな」
 値踏みするような陰険な目で、スタンはベーロンをじろりと睨みつける。
「本当ならばあの娘をとっとと殺してやるのが一番手っ取り早いやり方なのだがな」
 スタンは、目を見張ったベーロンを愉快に見て、サディスティックに笑う。このあたりは元大魔王の面目躍如といったところか。
「……キサマとて、娘の亡骸と見えたくはあるまい」
 スタンは水晶球を掌に載せた。
 ピシリ、一筋、日々が入ったかと思うと、マルレインを、ロザリーを、映し出していた水晶球は見る見るうちに崩れだし、こなごなに砕け散った。
「なにが……、何が、望みなのだ」
「察しがいいな」
 スタンは脆弱な魂を弄ぶ邪な快感を久方ぶりに味わい、いい気分になる一方、自分の中にやはり、ただの男ではありえない成分が間違いなく存在しているのだなと、着慣れた黒衣の着心地に嫌味を感じた。ルカの着ている普段着、あの、何の変哲もないシャツとジーンズ、自分にそんなものは似合わないのだろうけれど。
「キサマの娘の所へ行き」
 しかし、ルカの前ではそんな格好でもいいと思う。ルカの前では自分は魔王ではない。
 猥褻な理由などは皆無だが、裸でいるのが一番いいとも思う。何も着ないで、何となく一緒にいる。性的な意味は排除して、裸の自然体。まあ、ルカが嫌がるか……。
「余の幸福の邪魔をせぬよう説得するのだ。即刻あの女勇者を呼び戻すようにな」
「……」
「従わねば、問答無用でキサマの娘は地獄行きだ。もう、何処を探しても見つからぬ場所へ追いやってくれるわ」
 娘を想う親の気持ちをこんな風に利用してこそ魔王。
 昔の自分なら拍手喝采のところだろうが、口の中に嫌な苦味が広がるような言葉だった。
「水晶球で見せた通り、キサマの娘は余の子分の自宅に居る。……わかったな、とっとと行くのだ」




 幻影魔王エプロスは一人、横断トンネルのポスポス雪原側の出口に居た。まもなく、ここを通る女勇者たちを待っているのだ。
 雪は止んでいるが、時折吹く風に粉雪が舞い上がる。しかし、魔法の膜で自らを覆った幻影魔王はほとんど寒さを感じていない。
 ここまでは彼女たちも、スムーズに来ることが出来るはず、エプロスはそう確信していた。かつての旅で彼女たちが遭遇した、下水道、水泡、会長といった魔王の邪魔は入らないし、巨牛魔王とアイドル魔王は敵対するどころか仲間になってしまっている。今回はルカのキャラクターが増幅して存在感がなくなってしまうというトラブルも起こりえないから、開けっ放しの横断トンネルまでは、ルカの家から一直線でたどり着くはずだ。
「寒ッ……、ったくッ、相変わらず寒いわねここはぁっ」
 苛立っていては寒さも感じないのではないかと思わせるように怒鳴りながら、ロザリーがトンネルを抜けて出て来た。
「いやいやロザリー君、snowfield即ち雪原というものは寒くて然るべきものであってこういった寒冷地の存在なくしてこの世界の……」
 キッ、とロザリーに睨まれても、他人の批判は一切聞かないキスリングは「平均気温はうんぬんかんぬん」と独自の理論を展開していく。
「ロザリーさん、目が怖いですよぉ。ほら、リンダの歌聴いて、笑って笑って!」
「うるさいっ、あんたたちねえ、もうちょっと勇者一行らしくできないのッ」
 針葉樹の枝に立って見下ろしていたエプロスは、何だか降りていく機会を逸していたが、はあ、と溜め息を吐いて、上空から彼らの前に現れた。
「あっっっっ、エプロス様♪」
 目ざとく見つけたのはもちろんリンダである。
「え? ……、あ、ほんとだ、エプロス!」
「ああ、エプロス君だねえ」
「エプロス様ったらぁ、リンダのこと置いていなくなっちゃうんだもんー、エプロス様の、い・じ・わ・る」
 エプロス様もといエプロスは、リンダのほうを努めて見ないようにしつつ、冷静に、
「……いつぞやも、このようにおまえたちの前に現れたことがあったな」
 自分の会話ペースに二人を巻き込む。
「君はここで何をしているのだね。修行をすると言っていた君がリンダ君を振り切って一人になり、なおかつまたこうして我々の前に現れたということには第三者の意図の存在を感じざるを得ないのだが」
 キスリングの婉曲な言い回しに、エプロスは頷いた。
「その通り」
 その言葉に、ロザリーが油断なくレイピアを構えた。
「血気盛んなところは相変わらずだな……。だが、忘れてはいるまいな、私の身体は幻も同じ、そんなもので貫き通すことは出来んよ」
 音を吸い込む雪原に、乾いた幻影魔王の声は二人を惑わすように響く。
「ロザリー君、待ちたまえ、ここは戦場ではないよ」
 キスリングの言葉に、エプロスはフッと笑う。
「さすがに鋭い洞察力だ。……その通り、私は今ココで君たちと戦う気はない。ただ、君たち勇者一行が無事此処へたどり着くことができるかを見届けたかっただけだ。だが、心配は不要だったようだな、ここに一直線に辿り付いたと言う事は、魔王が何処に居るのかは既に察しているようだな」
「あんたは、……あんたは、あの男の手先なの!?」
 ロザリーの怒気を孕んだ詰問に、エプロスは悠然と微笑む。
「その通りだ。だが私は君たちの気持ちも、あの少女の気持ちも解かるつもりでいる。しかしそれを踏まえて、それ以上にあの少年とあの魔王の気持ちを尊重したく思っているのでね。君たちが君たち自身のことを信じているのと同様、私も私自身を信じて行動しているのだ。だから、君たちと戦うのは不本意ではあるが、やむをえないことだ。君たちに今すぐ引き返せと言ったところで、聞きはしないだろう?」
「あーん、エプロス様の言う事だったらリンダなんだって聞いちゃう」
「あー、リンダ君はちょっとこっちに来てなさい……、ほら、温泉で一休みでもしていたらどうだね」
「そんなの聞くわけないでしょうッ。あんた、知ってるんでしょ? あのバカがルカ君のこと弄んで、無理矢理掻っ攫ったってことを、そのせいでマルレインが悲しんでるってことを!」
 場の雰囲気をぶち壊しにする約一名をキスリングが宿に連れて行って、冷ややかな雪原の空気と同じく、研ぎ澄まされた剣のような雰囲気に、魔王と勇者が相対す。
 エプロスは穏やかな、どこか優しげでもある微笑を崩さず、勇者を見下ろしていた。
「……君は君の信じる道を行くがいい。私は私の守りたいものを守るだけだ。私はルカとスタンを守るために戦う。それは、女勇者ロザリー、君がルカを守りたいと思う気持ちと、何ら違いはない。もはや分類な意味を持たぬこの世界において、奇しくも勇者と魔王として敵対することとなった我々ではあるが、もうそこに在る『理由』、いまこうして私たちが向かい合う理由は、信ずるモノを信じるために、守りたいモノを守るために、ただそれだけだ」
 それから、エプロスは少し申し訳なさそうに一度、頭を下げた。
「……歯車タワーで、君たちは第一の魔王に出遭うことになろう。……本来ならば手土産に歯車タワーの鍵をプレゼントしたかったのだが、やはり度を越したまねをするべきではないだろうからな、申し訳ないが鍵は例の場所に安置されているから、頑張って取りに行ってくれ。私はハイランドで君たちを待つ。……せめて、そこまでは辿り付いて欲しいものだな」
 待っているぞ、そう言い残し、エプロスは背を向けて、ふわりふわりと、トリステの方向へと浮かんで遠ざかっていった。
 ロザリーはその背中を、複雑な思いで見送る。心深い交流があったわけではなくとも、彼はかつての仲間だ。共に戦った仲間と刃を交えなければならないというのは、やはり気の重くなることだ。しかし、自分に勇者として信ずるものがある以上、やはりルカを救い、マルレインを救わなくてはならない。分類など関係ない。しかし、自分の守りたいひとを守るために歩む道は、勇者としての正義の道。自分はそのためには、引き返すわけにはいかないのだと、ロザリーは再び決意を固める。
 彼女の背後で、かちゃりと温泉宿の扉が開いた。リンダがきょろきょろ見回して、
「あーっ、エプロス様もういないのー? ひっどーい」
「ロザリー君、とりあえず今日はここで一泊して、体制を立て直すと共に今後の作戦を練らないかね。というのも、彼らの本拠の位置も確定したし、戦力も明らかになったし、価値ある会議が出来るはずだから。それに、エプロス君の思惑が明らかになった以上、スタン君が本当にルカ君にひどいことをしたのか、疑う余地が出てきたように思うのだ。エプロス君はある程度道徳心のある人だからね、彼が組するということは、やはり相応の理由があるように思えてならないのだよ」
 ロザリーは少し考えてから、頷いて、宿に入った。




「と、言うわけだ。彼女たちは横断トンネルを抜けた。遅くともあと一週間と待たずに歯車タワーに辿り着くだろう」
 玉座の間、エプロスは女勇者たちとの再会の報告を行なっていた。勇者一行はロザリーにキスリングとリンダを加えた三人だけ。しかし、女勇者は方向転換をする気など一切無いようだとの報告を受けて、スタンは舌を打ち、膝の上のルカは表情を曇らせた。
 というか、他の誰かの居る前で膝の上というのは恥ずかしいからやめてほしいのだが、スタンはやはり自分の上に何かが乗っていると安心するらしい。出来る限り膝の上にいろと言われて、素直にルカは従うのだ。
「……はー……」
 スタンは目頭を手で抑えた。
「……ご苦労だった」
「彼女たちはやはり、君がルカを洗脳したに違いないというマルレインの誤解の元に動いているようだ。まあ、あれだけのことをすれば当然だろうとは思うが」
 幻影魔王は浮遊して玉座に歩み(?)寄って、間近にスタンを見つめた。
「君はまさか、彼女たちに頭を下げて願うことなど思いつきはしないだろうな」
 そんな幻影魔王のありえない提案に、スタンはキッと顔を上げて、睨みつけた。ルカは自分を挟んで行なわれるスタンとエプロスの強い視線の応酬に、身も竦む思いだ。実際にはスタンによって、エプロスを上回る魔力が与えられていても、本人にはそんな優秀な魔法使いになったなどという自覚は無いから、やはり怖いものは怖い。
「余がそんな屈辱的な真似をすると思うか」
「思わないさ。言ってみただけだ、ただ君がそれをすれば、事は簡単にケリがつくのにと思うだけで」
 そして、エプロスはルカのみならず、スタンの頭にまで手を置いて、優しく撫でた。はっとしてスタンがその手を払いのけようとする瞬間前に、エプロスはその手を退ける。
「この子が何を望んでいるのか君だって知っているだろう。……争いではない、平和だよ」
「……。もう下がれ。ルカに触れるな」
 そんな事くらい、解かっておるわ。だから……。
「……」
 エプロスはまだ何か言いたげにしていたが、口をつぐんで踵を返し、出て行った。重い音を立てて、扉が閉まる。
 何を置いても、ルカを抱きしめて。
「余だって泣くほどおまえが好きだ。……あの尻の垂れた女が信じるものの為に戦うのであれば、余もおまえとの生活を守るために戦う。って、そんな顔をするな子分、おまえの悲しむようなことは、断じてせぬから……」
 魔王とは因果な物よ。そのイメージゆえ、エプロスの言うように謝ったとしても勇者は信頼しないであろう。正当な段取りを取って手に入れた幸福な日々さえ、一方的に洗脳だ誘拐だと断ぜられ、崩れてしまう。こんな風に縋り付きたくはないが、余は魔王として何をした? たった一つ、唯一の魔王らしい行いといえば、あの女勇者の影をピンクにしたくらい。こまごました悪事もしたかもしれないが、それは全て人間レベルのもの。
 世界征服など今は考えもしないというのに。
「僕、がんばるよ」
 ルカはそう言う。
「僕、がんばるよ。がんばって、ロザリーさんたちとスタンが仲良く出来るように」
 こう言われては、
「仲良くなどするものか! あんなクサレ女勇者などと!」
 そう言う。
 だが、ルカの頭を撫でて撫でて、この幸せを決して手放しはしないと、心に決める。
 ルカが叶えたいどんな願いも、余には叶える力があるのだから、と。
 スタンはそのまま玉座で黙考していたが、決意したような顔で、ルカを抱いて立ち上がる。
「どこか行くの?」
 スタンは頷いて、そのまま歩き出す。歩きながら、ルカに答える。
「城のすぐ外までだ。……おまえに、最後の魔法を授けようと思う」
「え……?」
「万が一にも余が負けることは有り得ぬ。が……、うむ……、もしも、本当にもしもの時の為に、な」
「……」
 がんばる、とは言ったけど、ロザリーさんと戦うなんて僕は一言も。
 反駁しかけたルカに、スタンは安心させるように微笑んで、
「安心するがいい。おまえがこれから教える力を使わねばならぬような状況になどするものか。全ておまえの望みどおりにしてみせるさ……」
 優しい魔王に、ルカは頷く。そうして、その広い腕の中に、なんだか当たり前のように自分が在ることを急に意識して、恥ずかしくなる。しかしその恥ずかしさはほかでは絶対味わえない稀有な物。だとしたら、今後もいつでも味わえる状態にありたいと思う。その為には。
 この問題を解決しなければならない、そして、刻限までそう間はないのだ。


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