ボクと魔王の寝た後で

 ハイランド近郊、ユートピア回廊の一番奥にそそり立つ、魔王城。禍々しいほどに黒く澱んだ色の外壁の印象どおり、其処は邪悪なる魔王の住まう場所である、が、裏腹に、その魔王二人が邪悪とは言いがたいようなキャラクターを持っていることは、今更説明するまでも無いことだろう。幻影魔王エプロスは毎日正午にその城へ、挨拶に行くことになっていた。というのは、時計の無い魔王の間に正午の到来を知らせるために。言ってみればハト時計のハトのようなものだ。

 ハイランドの屋敷を出たのが十一時四十分、軽い空腹をエプロス自身も感じながら、ふわふわ中空を漂って、魔王城前に到着すると四十七分、入口から薄暗い回廊を辿って、魔王の間の扉の前に到着すれば五十八分で、一呼吸置いてから入室すれば丁度いい。

 いつか、五分前に入室したら、

「あ……!」

「ひゃ!」

 服を着る最中だったルカと鉢合わせたことがある。魔王の魔の扉から玉座まで、たっぷり二十メートルはあるだろうが、それでも白く美しいルカの肌に、一瞬では在るがエプロスは目を奪われた。……それを理由に、

「何なのだキサマは! 余の子分の柔肌をそのようなイヤラシイ下衆な目で見おって!」

 と、スタンに散々叱られた。……では何故こんな時間にこんな場所でルカは裸だったのか、その理由に関しては、馬鹿馬鹿しくて聞く気にもなれない、五分前に入ったのも事実だし、ノックをするのも忘れていた、全面的に自分が悪いのだと、人のいいエプロスは自分を納得させて飲み込んだ。

 という訳で、二分間、扉の外で待ち、さらに念のため三十秒置いてから、エプロスは入室することにしている。懐中時計と睨めっこだ。

 中から、

「す、スタン、早く、離してよ、エプロスさん来ちゃう」

「……フン、大方もう来て、扉の向こうで聞き耳を立てているであろう」

「だ、だったら、尚更……、服着させてよ」

 などと言う、魔王二人の会話する声が聞こえてくる。

 はあ、とエプロスは溜め息を吐いて、それからノックをこんこん。

「誰だ」

 判っているくせに、と内心で呟いて、しかしそんなことでいちいちささくれを作っていても始まらない、エプロスはスタンよりよほど大人だった。

「私だ」

 静かな声で、そう答える。

「ふむ、入れ」

 一拍置いて、ぎいと開く。それから無駄にだだっ広い魔王の間の、一つきりの玉座へ、革靴の底の音も立たぬ重厚な絨毯を踏みしめて、進んでいく。

 そして、いつもの儀式。

「あー。……畏れ多くもスタンリー=トリニダード=ハイハット十四世閣下、不肖なる第二の子分・幻影魔王エプロスめ、本日も忌々しき太陽の天高く上る正午の刻を告げに参上仕った。これより時は夜へと向かい、我らが魔族の刻は近づく、それを祝わんと、そして偉大なる魔王スタンリー(以下略)、そして子分魔王ルカの魔力の更なる増長を祈らんと、昼食の準備が階下に整えられている」

 準備、と言っても、いつものように清潔な、二人の生活部屋の台所はまだ汚れていないといった程度の意味で、昼食も夕食もルカが作るのである。有体に言ってしまえば、ルカが飯を作る支度は出来ている、ということだ。

 スタンは鷹揚にうむと頷く。

 毎度毎度のことだが、馬鹿馬鹿しくなるエプロス、それでも、この男が満足ならば仕方あるまいと、内心の苦味を押し殺す。

 どうせ分類上は最早魔王ではないのだ、自分も、スタンも、況やルカをいておや。だから、こんな風なつまらぬ役回り、演じていなくとも良いのだが。

 つまらぬ役回り、と思っていないから、演じつづけている自分を、エプロスは知っていた。

「ご苦労だった。……ではルカよ、飯を食いに行くか。そうだな今日の昼は……、豚肉の生姜焼きを食いたいぞ」

「豚肉……、多分、あったと思うけど」

「ふむ、無かったら何でも構わんが」

 恭しく礼をして、エプロスは所帯じみた醤油臭いような魔王を見送って、胸の中に溜まったものがほとんど無いものだから、意義の軽く、したところで苦しくもならない溜め息を吐き出した。それは動作以外の意味を、全く持たなかった。

 

 

 

 

 スタンもルカも、エプロスの真面目な人格と、忠実な振る舞いには信頼を寄せていた。スタンはそれ以上のことをあまり考えない、ルカは、それ以上のことをたくさん考えている。

 ルカは、申し訳ない気持ちで一杯になるときがある。

 スタンの我儘を一つひとつ叶えていく、その過程で、頑張ったり、無理をしたりするその度合いは、多少ではないだろう。彼は一人で、だけどいつも自分には優しく微笑んで、働いている。優しく、穏やかで、頭はきっとスタンよりも良いはず。なのに、僕らなんかのためにあんな。申し訳ない気持ちで、一杯になってしまうときがある。

 それを言って、謝っても、エプロスはいつも、微笑むばかりだ。

「気にすることなど無いよ」

 いつも、けばけばしい仮面と化粧を纏っているけれど、その素顔がまだ十代とも言えそうな、童顔で優しいものであることをルカは知っている。そんな、それこそ「少年」に無理をさせていることは、ルカにはガマンできないものだった。

 エプロスは、しかし、悠然とルカの頭を撫でて、言った。

「私は幸せだから。……判らないだろうな、まだ……。私はずっと一人だったからな、誰かの側にいられるのが嬉しいんだ。どんな形であれ、役割をもらえるのが嬉しいんだ。話さなかったか? ……ベーロンの言い成りとして働いていたのも、……勿論、知識欲というのもあったが、自分が誰かに要求され、それに応ずるという行為に、幸福感を抱いていたからさ。同様に、いやもちろん、お前たちをあの男と同類に扱うわけではないが、……私の事をどういう形であれ欲する者がいるという事は、私にとってはとても穏やかな幸福なのだよ。だから、気にしなくていい」

「でも、……エプロスさん、ときどき、疲れて見えます」

「それは……、確かに、疲れないとは、全く疲れないとは、言い切れないよ。それは仕方がない、これも仕事だから。だが私はこの疲れを憎まない。幸福な仕事だと思っているから、この疲れとも上手につきあっていくつもりでいるよ」

 はぐらかされているような気になる。しかし、それ以上詰問しても、上手くかわされてしまうか、或いは困らせてしまうだけだろう。ルカは優しいエプロスの手のひらに撫ぜられながら、ああ、僕たちはもっとこの人に感謝しなければならない、と思う。

 ロザリーさん、マルレインの一件の時も、この人は本気で悩み、僕たちのために戦ってくれた、そして、僕たちを守ってくれた。

 このかけがえのない大人を、僕たちは愛さなければならない。ルカはそう考えて、しかし、その手段が思いつかず、スタンには全くその意識がないことを知り、途方に暮れる。

「だから、重用してやってるだろうが。……いいか、あの男はお前とは違うのだ、お前は子分を通り越して余の妻であるがあの男はただの子分なのだ、そこんとこを弁えさせなければならん」

「妻かどうかは置いといて。……ってか初耳だよそんなの。そうじゃなくて、でもさ、スタンはあの人に感謝の気持ちとか、そういうのは無いの?」

「感謝? フン、そんなの、お前に言われんでもしておるわ、あの男がいなければ余はこうしてお前と悠悠自適の生活を続けてはおれん」

「だったら、もうちょっとこう」

「だから、奴を余の第二の子分として重用しておると言うに。何が不満なんだお前は」

「……うー」

 大好きなルカに機嫌を損ねられてはつまらないスタンだから、ルカが苦しそうに俯いてしまってから、誤魔化す為だけに、

「まあ……、お前の意見は頭に留めておこう、そのうちにな」

 などと、あまり考えてもいないことを言う。

 まさかルカ、あの男に惚れたりなど、していないだろうな……。

 そんなつまらない勘繰りは出来ても、子分以外の者のことを深いところで理解することの出来ない、つまり、人の上に立つ器とは決して言いがたい、大魔王スタンである。

 

 

 

 

 エプロスの気持ちは、エプロスの言ったことがそのままの答えであって、彼は少しの不満も感じていない。幸せそうなスタンとルカを見て、その幸せの側にいられることが、幸せなのである。

 なるほど、これは寂しいことかもしれない、こんなことで満足できてしまう精神のものさしというのは、確かに空虚ととらえられても仕方なかろう。だがエプロスは、私は幸せ者だと、胸を張って言うことが出来る積りだ。事によっては、スタンとルカの幸せを足しても、自分の幸せには足らないのではないかというほどに。

 エプロスは、スタンとルカのように、性的な行為に対してさほど幸せを求めないほうだ。究極的にはそれは、価値観の違いと言って片付くもの。スタンとルカは互いの身体を裸を擦り合わせてそこに幸福を生んでいく。しかし、エプロスは、直接的に肌を触れ合わせなくとも、その空気を吸い、その言葉を舐める事で、十分すぎるほど充足を得られるのだ。だから、現状で十分、現状維持で満足なのである。

 長い長い長い時を生きるという点では、エプロスも、大魔王・子分魔王と同じ。これから誰よりも近い位置で、幸せになっていくことが許されている自分は、果報者であるとすら、考えている。

 但し、そこに付き纏うストレスの存在は否定できない、が、それもまた同様に、幸せの一要素となりえることを、彼だけは知っている。

だから、心配などしなくていいんだよ、ルカ。

思う存分幸せになっておくれ。

 魔王城の明かりが消えてから、四十分が経過する。何の気配もしなくなった城を窓際で見詰めてから、彼はこの上なく満ち足りた微笑で、ようやく床につく。明日はまた、彼らが起きるより早く、城へ出向かなければならない。

 


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