ボクと魔王の和みよう

 魔王になるために必要なのは一定以上に自己中心的な思考回路ではないかと、スタン、リンダにビッグブルその他を見てきてルカは思ったのだが、エプロスもまた十分に自己中心的ではあるものの、しかし彼のことを単純にそう評すことに少なからず問題のあることは、考えずとも判ることで、彼が、今もこうしてスタンとルカの暮らす一番側で、優しく、少し疲れたように微笑みながら、その日々の為に生きる姿さえ見ればいい。

そんなエプロスに、まるで関しないスタンが、仮にも恋人であり子分であるルカは申し訳なく思う。その点では、ルカもまた異端の魔王であろう。

 今日も今日とて、下らぬ慣習儀式の為にエプロスはやってきて、時を告げ、帰っていく。昼食を終えて、子分魔王は珍しく親分魔王の側を離れた。いつでも抱き締めていたい、そうでないとこの子分はどこにさらわれてしまうかわからないから、そんな堂々たる体躯をした男とは思えぬ不安に駆られている親分魔王ではあるが、決して狭量な人間ではない。ハイランドまで出かけてくるよと言えば、回廊で足を滑らせぬよう気を付けろよといつもと同じ事を言い与え、出かけるのを許す。そして、子分が玄関に辿り付く頃、やはり村の入口まで一緒に付いて行ってやる在り難く思えなどとルカを抱き上げて、ハイランドまでずっと抱きつづける。帰りは何時になる、では五時だな、一分でも遅れたら承知せんぞ、きっかり五時にこの場所へ再び現れるのだ、いつもルカが先に着いて待っているのは、スタンがわざと遅れるから。「キサマ子分の分際で余を待たすのかケシカラン!」とスタン自身がわざわざ子分を叱らなくても済むようにと。スタンはいつも物陰からルカの帰りを待っているのだ。

「で。今日はどこへ用事があるというのだ。またあのピエロのところか」

「ピエロて。……そうだよ、エプロスさんとこ。先週約束したんだ、今日行くって」

 ふん、とスタンは抱いていたルカを下ろして、ぷいと横を向く。

「浮気者めが」

 ルカは溜め息をひとつ、密やかに吐いて、

「お茶を飲みに行くだけだよ。新しい良いお茶っ葉が手に入ったって教えてくれたんだ」

「どうだかな」

「……じゃあ、スタンも一緒に来る?」

 スタンはまたひとつ、「ふん」。

「誰があんな下郎の淹れた茶など飲むか」

 いつだったかスタンは自分で、「キサマは茶を淹れるのだけは一人前だな」などと評したのだが。

「じゃあ……」

「いいか、五時だぞ、それより一分でも遅れたらどうなるか……」

 どうしようもない。エプロスを友人だと思うルカを止めることの愚かさも空しさもスタンはわかっていたから、仮に一分二分とルカが送れたところで、どうしようも出来ない。

 スタンは、馬鹿なようで、一応何もかも分っている。全知全能の大魔王であるからして。

 エプロスがルカに、自分の思うような危害を加える存在ではないことも、ルカがエプロスのことを、決して自分に心配をかけるような関係へ発展させる積りのないことも。そこまではっきりしっかり、分っていながら自分がつまらぬことを言う理由も判っている。要するに、理屈上分っていても、心は決して素直には行かないのだ。それは仮に全能の魔王でも能ざることで、またどこかでそんな人間的ですらある自分を愉快に思いつつも、やはり平べったい心の表層部では何とも言えぬもどかしさが支配する。全て、ルカと自分が恋人同士であるのだという前提があってのことで、ならばこの痛みも苛立ちも寂しさも、全て幸いなるものと納得することも出来ようが、人間は、決してそう器用な生き物でもないので。

 ルカは、茶の席で、エプロスにやっぱりどうしても聞きたい事があるのだった。さっき、「一緒に来る?」と誘いはしたが、スタンがいては話は出来ないし、ああ言えばスタンも来たがるまいということは想像の範疇だった。

 ようするに、いつもいつも、迷惑ばっかりかけてすいません、

「と、謝られてもな……」

 エプロスは優しく微笑むばかりだ。

「でも、やっぱり……謝らずにはいられないような、そんな気になっちゃいますよ」

「それはえらく損なことだと私は思うが」

 細い指は、魔王城にあるような禍々しい黒のではなく、白い上品なティーカップを縁取る。長い睫毛の瞼に塗られた青紫の化粧は毒々しいが、その立居振舞は優美とも言えるようなものであって、細身の体に長い巻き毛の金髪、さらりと流したならばその美しさに戸惑いすら覚えてしまうだろうなと、ルカは予測する。

 エプロスはカップに唇をつけて、

「先日も言ったと思うが……、心配は要らないよ。私はマゾヒストなのかも知れんな、お前の主人と話をするのは楽しくてたまらない」

 ああ、それは確かにマゾヒストかも――僕と同じですね――と思って、ルカは少しだけ笑った。

「それより……、どうだ、この香り。奥行きが感じられ、しかし無限大などという傲慢なものではない、寧ろ、部屋の向こうの壁が見える程度の慎ましさが感じられるだろう」

「ええ……、本当に。決して強さは感じられないのに、静かに在るばかりと言った感じで。でもそのすました感じが少しも厭味になっていませんね」

 なお、お茶を飲んでいる二人であって、同時に湯気の溜め息を吐き出した。

 息を吐き出して満たされて、ああちがう、満たされに来たんじゃないのにと、ルカは気を取り直す。

「エプロスさんは、僕らを見ているだけで幸せっておっしゃいましたよね」

 エプロスはカップの中の楽園の甘露をじっと見ながら、うん、と答える。

「でも……、何て言えばいいのか判らないけど……、エプロスさん自身の幸せって、必ず、きっと、あるはずなのに、どうして……、スタンの、いや僕らのところに、ずっといてくれるんですか? ……正直、僕はエプロスさんと一緒に生活できるのは幸せだし、エプロスさんのこと大好きです。けど、……やっぱり、その」

「罪悪感が芽生えてしまうか?」

「……それは……、うん……。……エプロスさんも、僕たちがどうこうっていうんじゃなくて、エプロスさん自身の幸せを探せば、もっときっと、幸せになれるはずなのに、スタンが意地悪だし、僕が縛り付けているから……」

 ルカは、俯く。

 エプロスは、いつまでも穏やかに微笑んだままで、

「では、私が私自身の幸せを追えば、もっと私が幸せになれるとお前は思うのか?」

「……はい」

「ならば、私は今と変わらず……いや、今以上、お前たちのことを愛そう。今の私にとって、お前たちを愛する以上の悦びを見出すというのは難儀だ。私はお前たちの和み様を見ているだけで、本当に十分幸せなのだからな。……信じられないか?」

「……いえ……」

 ちょっと、それって、ずるいんじゃないのかな。そんなことが幸せであるはずが無い、自らではなく、他者の幸せを最優先に、そしてそれが幸せだなんて、何で、信じられる? その、ほんの少し疲れた影の顔で言われて。

 けれど、実際にエプロスは、ルカが「子分魔王」へと転じる過程において、誰よりも悩み、戦い抜いたと言っていい、そして、ルカとスタンが今後も愛し合うことが許されたのだと知ったとき、目を潤ませて悦んでいたことを、ルカは見ている。好きな人だから、妙な言葉は投げたくない、が、それは、かなり、特殊な性質ということは確かではないだろうか……。

「ほんとうに、何も、望まないんですか?」

 まるで聖人君主、そして自分たちの堕落しているのが対象化されて悲しすぎる。

 エプロスは、そんなルカの苦しさを敏感に察知して、小さく微笑んだ。

「……私の望みは、お前たち二人の幸福だ。私はこのささやかな幸せを守るためならば、どんなことだってしよう。……だが、……うん、そうだな、ひとつ贅沢を言うならば……」

「出来ることなら、何でもやって見せますよ」

 エプロスはちょっと笑って。

「……約束をして欲しいな。……私は今後、この長い命の尽きるときまで、お前たちの側にいたいと願う。……守ってくれなくても構わん、だが、約束して欲しい。……私をお前たちの側に置いていて欲しい」

 ルカは、たくさんある反応の中から、もっとも妥当と思われるものを選択した、……呆気にとられた。

 エプロスは穏やかな笑みをたたえたままで、じっとルカのことを見詰める。

「……駄目だろうか?」

「は、いや、そんな、駄目とか駄目じゃないとか、いや、駄目じゃないですよ、それはもちろん」

「そうか……、ならば、私は満足だ。それほど幸せなことはない」

 この人、本気で言ってるのだろうか?

 ルカは、端正な顔をまじまじまじまじまじと隅から隅まで見詰める。しかし、目も頬も唇も、嘘をついているようには見えないし、果たして嘘をついていたとして自分なんかに見破れるものだろうか? 白粉にアイシャドーに口紅に、薄い膜のさらに向こうに顔があり、顔の皮膚自体が既に薄い膜で、二枚のフィルタの向こうに果たして心があるのかどうか、見たことも無いから判らない。

 エプロスは本当にそれで満足だと立ち上がり、時計をちらりと見る、五時五分前になっている。

「そろそろ帰ったほうが良いのではないか?」

「え……? あ!」

 ルカは慌てて立ち上がり、

「えっと……、ごちそうさまでした。ご迷惑でなければ、また……」

「うん、待っているよ。また是非遊びにきてくれ」

それでいいの? ルカは問う、あなたはそれでいいんですか? 僕ら、何もしてない、のに、それで幸せ?

 そう不安になるルカだが、スタンのことを思い、またこうしてエプロスのことを思う、その気持ちを愛と説明してしまえる。ルカはエプロスを愛している、その愛の、嬉しくなかろうはずもない。

 


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