ボクと魔王の愛情インフェルノ

既に、歯車タワーを守っていた吸血魔王は魔王城へと敗走している。激烈極まりない魔力も、封印の呪縛の前にあっては無用の長物だった。
 薄暗い陰気な部屋の中で待つエプロスは、ずっと考えつづけていた。時間はあまりない、が、自分に何が出来るのか。戦う、ああ、戦えば勝算は十分に。彼らの肉弾攻撃は一切自分には当たらない。あちらが攻めあぐねている間に、かつてより勢いを増した魔力で退けることは、十分に可能。
 しかし。
 守るべきものがいるから戦う。戦う、と言ったって、いわゆるこういう形の「戦い」をとる事もないように、エプロスは思うのだ。平和主義者というわけでもないが、もともとさほど争いを好む性質でもないのだ。何より、彼の仕える子分魔王ルカが勇者たちとの戦いを望んでいないのだ。肩書きも、持つ力も魔王ではあるが、その心は単に平和と安穏を好む地味なものに過ぎない。そうして、スタンも自分もそれを尊重したく思っているのだ。
 といっても、あちらが剣を振りかざすのであれば、やはり戦わずして物事を解決するというのはやはり難しいことになるだろうか。
 しかし、そういう図式から戦争が起こるのだと言う事を、エプロスは知っている。
 勇者たちが既にこの村に入り、着々と戦闘の準備を整えているこの期に及んでなお、エプロスは考え続けていた。
 刻限は迫る。


 


 ロザリーとて、複雑な気持ちを払拭しきったわけではない。
「……我々は本当に正しいことをしているのかな。いや、私は君に誘われたのだし、君が正しいと信ずるからそれについて行くつもりはあるのだが。分類という支配力がこの世界から消えた今、単純な善悪判断、とりわけ『勇者だから正しい』『魔王だから間違っている』といった価値判断は控えるのが賢明ではないかな。……私には推測以上のことは言えないが、ルカ君は『王女様』が言ったように、本当に『洗脳されて攫われた』んだろうか?」
 ナリはアブノーマルだが一応間違いなく理論的に物事を考察する力のあるキスリングは温泉宿の夜、クールに疑問を呈した。
「私が思うに、分類の力が外れた今、スタン君の行動が必ずしも魔王のそれであるかということはないのではないかと。いや、スタン君が単純に性根の捻じ曲がった男であったなら話は別だよ、分類上『魔王』でなくても、ルカ君を掻っ攫って洗脳するくらいのことはするかもしれない。しかし、彼の行動を想起して見る限り、確かに口も態度も悪い男ではあったが、そうまで致命的に性格の歪んだ男ではなかったと思うのだよ。だから一連の彼の行動には、『魔王的思考回路』ではなく、もっと何か違うものが介在しているのではないかと分析するのだが」
 アイドルは頭が悪くてもいいからと自分で思い込んでいるらしいリンダは、キスリングの話の間、ただ目を丸くして聞いているだけだった。ロザリーは黙り込んで、俯いている。
「君が君の正しいと思うことをするのは、大変結構。まあ、私もリンダ君も、君に共感するところがあるから同行しているわけだし。それに私はルカ君の口から直接、何故スタン君と共にいるのかその理由を聞きたいと思うね。私たちは一方的にマルレイン君の言い分しか聞いていないのだから。スタン君の意見も是非聞きたいところだ。あの理性的なエプロス君があのようにスタン君の側に付くという理由もおのずと明らかになろう。非常に興味深いところだね。……ただ、うん、これは忘れてはならないことだと思うのだが、今はもう、我々は用意されたシナリオの上を歩く身ではない。どんなことでも熟考に熟考を重ねることが肝要だよ。一方的な正誤判断の通用しない世界になったと思うべきだね」
 あるいは自分の胸のうちには、全く場違いな理由でスタンに向かう剣が秘められているのだろうか。そう、ほかでもない、この蛍光ピンクの影だ。未だに腹立たしく恥ずかしい。この影があるから、やはり自分はスタンのことが嫌いだ。
 しかし、仮にこの影の件がなかったとして、マルレインに何の肩入れもなかったとして。スタンとも面識がなかったとして、自分はそれでもマルレインの側に確固たる信念を持って付いていただろうか。そう考えると、決して自身たっぷりには答えられない。自分はいずれにせよ、マルレインの側に間違いなく付いていただろう、が、その根底には「勇者だから」という理由しかないような気がする。勇者だから私は魔王を倒す。それ以外に何の理由もない。それでは確かに、分類から脱却できていないことの証明ではないか。
 「勇者」「ピンクの影」、この二つの「理由」を省いてしまえば、自分とスタンが敵対する理由など何処を探してもなくなってしまうのではないか。
 しかし、マルレインがルカの帰りを待っている。それもまた、事実だ。彼女の無垢な思いをどうして無碍にすることが出来るだろう。
 やはり、戦うのが筋には違いない。
 そうは考えるが。
「……何にせよ、とにかくルカ君たちの元へ辿り着く事だね。彼の口から、答えが出るんではないかな」
 分類など関係ない、一人の「女」として、マルレインの気持ちがわかるから、その想いの報われることを祈りたいのだ。きっと、そうなのだ。
 しかし、もしそうだとしたら、なんて薄弱な理由だろう。
 ……だが。
 自分には忽せに出来ない誇りがあるのだ。自分は勇者だ。自分は勇者だ。勇者なのだ。職掌とでも言うべきかも知れないが、勇者の名に恥じぬ行いを、自分はするためにこの道を往くのだ。そう、自分は勇者だ。
 困っている少女があれば行ってその願いを聞き入れ、その悩みを解消するのが、自分の生きる道なのだ。
 誇り高き、勇者として……。

 

 

 

 

「僕と魔王を他の人が見たらどんな風に思うか」なんて考えたことのなかったルカは、自分の幸せに罪悪すら感じてしまう。こんなに地味で何のとりえもない僕に、誰が命をかけるのだと考えたことすらあったのに、こんな風に争いごとになってしまう。
 僕がマルレインに直接謝りに行けばよかったんだ、ルカはスタンにそう言って、フンと笑われた。
「あの小娘が信じると思うか。……それにおまえは情に脆いからな、以前も一度あったように、泣き落としにかかってしまうことも大いに考えられる」
 魔王は甘えん坊だ。そんな言葉尻に、抱擁してくる。
「おまえはここに居れば良い。……悪いようにはせん」
 そう言って、本当に、ただの「僕」に嘆願してくるのだ。ルカは優しく太い腕の力に、微苦笑してしまう。本当は、本当に不安なのだろう。こうしてしょっちゅう抱きしめていないとどこかへ行ってしまうと思っているに違いないのだ。心から好きでいてくれるのだな、そう思えば、ルカもスタンを好きになる。複雑な事情があって今はこうして、同性同士抱きしめ合うに至るには、それ相応の気持ちの強さがあったのだ。
 僕の大切な魔王。
 何故僕が今ここに在ることを選んでいるのか? その理由を、僕は誰にも話していないよね。きっと、スタンにも話していなかったよね。ほんとうは一番に、マルレインに言ってあげなくっちゃいけないことなのに。手紙を出そうか。だけど君はきっと嘘だって思うだろう。それは、嘘だって思いたいから。
 マルレインとロザリーの思考回路は全くもって正しい、ルカはそう思う。おかしいのは僕の方、ほんとにどうかしてるよね……。こんな僕の我が侭につきあわせて本当にごめんなさい、だけど。
「スタン、……好きだよ」
 どうしてだろう、どうしてなんだろう……。自分でも全くわからないんだよ! 僕はこんなにも、スタンのことが、……好きなんだ、好きなんだ、好きなんだ、もう、ほんとうに好きなんだ。
 理性的に、みんなの納得行く説明は無理かもしれない。だけれど、こういうのって別に論理だってなくたっていいでしょう? 気持ちが先に行く事だって、許されるはずなんだ。
 僕が何処に行っても、スタンは一緒にいてくれる。我が侭かもしれない、だけど、ほんとの気持ち。僕を僕だけをじっといつでもどんなときもどこにいても、見ていてくれる人は、スタンが初めてだったんだ。ダメな僕を、地味な僕を、きっとあのままだったら誰にも見つけられない、小さくて愚かな、世界の片隅の、主体性のない僕に、きちんと影を作ってくれた。僕は、僕だけで僕になることは出来なかった、けれど、スタンと一緒にいることで、「僕」と魔王、魔王と「僕」、僕は僕になることが出来たんだ。
 今、そう考えたなら、たくさんの偶然を、スタンの迷惑を、僕は本当に嬉しいと思う、ありがたく思う。スタンが僕の影にとり憑いてくれてよかったって。
 あのまま地味な僕だったら、誰かに愛されるようなこともなかっただろう。だから諦めていた僕なのに。いつもイライラしながら、怒りながら、それでもずっと側にいてくれた、スタン。僕を忘れないで一緒にいてくれたのは、スタンが初めてだったんだ。
 僕は、嬉しくて仕方がないんだよ。
 だから、ごめんね……。
 最悪の男かもしれない……、でも。
「どうした?」
「うん……、何でもないよ」
 僕はスタンと一緒にいることを選ぶよ。
 ルカは、スタンの腕に手のひらを重ねて乗せた。
 あとはどうやって、戦わずしてこの事態を打開するか、その一点だ。既に吸血魔王は敗北を喫し、城の一室で傷を癒している。ロザリーたちはまもなく、エプロスの館の扉を開く。
 ロザリーさんとエプロスさんが本気で戦ったら……。
 ルカは、青ざめた顔のまま、微かに身震いした。




 謙虚な幻影魔王は、ただじっと考えるにつけ、どうにも自分というのはあまり頭のいい人間ではないらしいと言う事に鬱々たる気分になっていくのを止められない。自分はダメだな……、そんなことを考えている暇ではないとハッとして、そうだだから自分はダメなのだと気付く。そして、もう一度考え直す。時間はないのだ。
 あの、ルカとスタン、バカみたいなほどに幸せそうな二人を、守りたい。
 本能的な部分の方が、きっと本当だろうとエプロスは思う。自分は別に、ルカに、スタンに、友人以上の感情を抱いているというつもりはない、けれど。けれど。目の前の幸せが、どうしてか自分にとっても幸せなのだ。あるいは、自分はスタンのように曝け出す強さが欲しいのかもしれない、装いかわすばかりではなく、真っ向から裸になる強さは自分にはないから。そして、ルカのように優しい心でいろいろのことやものを思いやる気持ちも、きっと自分は持ち合わせてはいないもの。自分もいつか彼らのように、強くなりたいものだ。
 そう思う、気持ちに忠実に在るためには、彼らを守りたい。彼らには、必要以上の非などないはずだから、彼らを切り裂く正当な理由など、あるはずがないと信じる。
 女勇者たちには、やはり、帰ってもらうしかない。彼女のことを嫌うわけでもない、ルカが全身全心をかけて共に戦った仲間なのだから。
 そして、マルレイン。王女マルレインとルカの間に起こった物事の詳細を、自分は知らないから、大きなことは言えないが、あの優しいルカのことが今も心のどこかで、自分がスタンと在ることを、彼女に対して後ろ暗いことと感じているのだとしたら、彼女にもそれ相応の理由があり、ルカにも理由がある、それは解かる。しかし、しかし。
 マルレインが、ロザリーが、自分を信じて生きるのであれば、それもまた一つの形。自分もまた、自分を信じて、彼らを守りたいと思う。この気持ちは間違いではない。
 考え自体は全く纏まらず、ただ腹を決めただけで、タイムリミット。館の扉がぎぎいと開いた。
「……来たな、勇者たちよ」
 溜め息混じりに、エプロスは立ち上がる。
 ロザリーの目には、決意の光が漲っている。しかし、そこに一分の迷いも介在しないとは、エプロスは思わない。
「やはり吸血魔王では役不足だったか。だが、魔力を増幅した彼を退けるとは……、大したものだ」
 エプロスの背後に、仮面と手のひら大の二枚のカードが浮かび上がる。それらは誰かが糸で操っているかのように、ふわりふわり、彼の周りを幻惑するように踊る。
「知ってるだろうけど……、我が名は勇者ロザリー! 大魔王スタンリートリニダードハイハット十四世によって拉致された少年ルカを救うため参上した! えぷ……幻影魔王ッ、覚悟っ!」
 勢い良くそう言い放つロザリーにやや気圧されながら、しかしエプロスは微笑を浮かべる余裕があった。
「我が名はエプロス……、幻影魔王。大魔王スタンと子分魔王ルカの安寧を守るため、我は此処に在り」
「子分魔王だって? ……何を今更……、分類などもう無意味なのにそんな非生産的なネーミングを……」
 ブツブツと呟くキスリング、そして魔王的雰囲気を纏い普段より男らしさワンランクアップのエプロスにただ見とれているリンダ。
 そんな二人を尻目に、ロザリーがフンッと笑った。
「ほら見なさい、何が子分魔王よ、王女様、マルレインの言ってたとおりじゃない、やっぱりあのバカはルカ君のこと洗脳したのよ!」
 エプロスは、微笑んだまま、答えない。そしてふわりと浮かび上がった。そうして、エントランスホールの高みからロザリーを見下ろし、そのまま。
 しばらく、じっと動かない。
 ロザリーは焦れて、
「何よっ、卑怯者、そんな高いところいないで降りてきなさいッ」
 と喚く。仮にも勇者が魔王相手に「卑怯者」もなにもないものだが、彼女とて分類がない以上勇者ではないし、エプロスもただの幻術使いに過ぎないので、そのあたりは問題にはならないようだ。エプロスはだから、ぷかぷかと浮いたまま、なお降りてこない。
 彼は、必死に考えていたのだ。仮面のようなほほえみを顔に貼り付けたまま、今しがた見つけたとっかかりを掴み、手放すまいとして。
「女勇者、いや、ロザリーよ」
 エプロスはそして、ゆっくりとホールに降り立って、ロザリーの向けたレイピアに臆することなく、一歩二歩と近づいた。
「君は察しがいい。もう気づいているようだな……」
「な、何よ……」
「どうやら君は、バカだ何だと言いながら、あの男のことを嫌っているのではなくて、『嫌いになりたいだけ』らしい」
 エプロスは突き出された切っ先を、一つ軽やかに退いてかわした。
「グッテン=キスリング博士。君がさっき言ったように、確かに分類はもはや無意味なものだ、それくらいスタンもルカもわかっているさ。スタンはさっきロザリーが言ったような『スタンリーハイハットトリニダード十四世』などという長ったらしい名前ではなく、『スタン』、ロザリーや私が呼ぶよりも、ルカが親しみを篭めて呼んでこそ相応しい名の男に過ぎず、そしてルカも相変わらずただの人だ。確かに二人とも、魔力においてはこの私を遥かに凌ぐほどのものを秘めていても、心に危険な邪悪さは微塵もない」
 エプロスは微笑みを崩さず、続ける。
「ロザリー、君の行動の理由は判った。君は自分が『勇者だから』、ただその一点のみにおいて行動しようとしている。分類が消えた今もなお、君は勇者で在りつづけることに意味を求め、『勇者』の肩書、いや、肩書きという言い方は失礼か……、その誇り、その道徳に恥じぬ道を選ぶという点を除いて、君が私と戦う理由はない」
 核心をきっぱり突かれて、ロザリーは怯んだ。
 確信を持って、エプロスは続ける。
「だから君はスタンが『魔王』であろうとなかろうと関係はない。ただ、そうだなこれは、警察官の気持ちなのかもしれない、助けを求めに来た者を救い、相対悪に制裁を加えるという立場。マルレインに救いを乞われた君は、相対悪のスタンを、『勇者』の道を守るために制裁を加える……。そこには確かに、大義名分も立っているな、ルカが『洗脳』されているという。脆弱な少年が魔王に惑乱させられているという事件があり、それを解決することは『勇者』としての誇りを立てることにもなる。
 さっき君が言った言葉……『ほら見なさい』……『やっぱり』、……ルカが本当の心でスタンと共にいるのではないかと、君も心のどこかで、いや、半ば以上の割合で考えていたのだろう。しかし、もしルカが本心で『子分魔王』という立場にあっても良いと考えているとしたら、君の歩きたい道は崩れて消えてしまう。だから、君はスタンを『邪悪なる大魔王スタンリートリニダードハイハット十四世』として、ルカを『大魔王によって誘拐され心を惑わされた被害者』としてまつりあげたい……、でないと」
 エプロスは、依然自分に当てられた切っ先を、細い指で指した。
「君はその剣の矛先を何処へ向けたらいいのか途方にくれてしまう」
 全てが核心を貫いていた。
 ロザリーの目線が揺れる。

「……一つ、興味深い仮説を立ててみようか」
 エプロスは無防備に背を向けた。彼ほどの者であれば、背後の勇者の踏み込みくらい、瞬時に把握できるが、それにしても両手をだらりと下げて、完全なる非戦闘体勢。ロザリーが自分に切りかかることも魔法を唱えることもしないということには、確信があった。
「……君は、『ルカがスタンと一緒にいたがっている』ということを知らないわけではなかった、ただ、『知りたくなかった』だけだ。……同様に、君にルカ救出を依頼したマルレインもまた、同じ状況にあるのではないか。『ルカはひょっとしたら本心でスタンの元を離れないのかもしれない』、こう考えないはずがない。おそらく、キスリング博士、君はこの仮説を抵抗無く立てることが出来たのではないかな? だが、ロザリー、君とマルレインはそれが出来なかった。何故か。知りたくない、信じたくないと言うだけの理由が、そうさせたのだ」
 この期に及んでも、リンダはエプロスのセクシーな後姿と知的な振る舞いにただ見とれているばかりだ。キスリングは深刻な顔で呟いた。
「……構造的無知」
 エプロスは頷く。
「そんなところだ」
 そして、振り返り、レイピアの切っ先を床に落としたロザリーを見つめた。賢明なる幻影魔王には、ロザリーとマルレインの気持ちも良く分かるし、彼女たちの純粋な考え方に救いが無いから、より痛みを感じていた。
 しかし……。自分は、自分の信じるもののために、今、戦ったのだ。これは、仕方の無いこと、仕方の無いこと。そう思っても、辛い。
「……証拠は……」
 うめくように、ロザリーは言って顔を上げた。
「証拠は、あるの。ルカ君があのバカと、進んで一緒にいるって言う証拠は」
 エプロスは初めて苦笑いを浮かべた。
「……私の言ったことを信じてもらうほか無いな」
「それじゃあ、信じられないわ。だったら力ずくでもっ」
「まあまあまあ、待ちたまえよ……。ロザリー君、彼に戦意は無いのだよ。……エプロス君、ルカ君に会わせてもらうわけにはいかないのだろうか。ロザリー君も会って実際話をしてみればいいじゃないか。そうして、ルカ君がやはり無理矢理に連れてこられたのだということが判れば、君も無理矢理に連れて帰っても……私はあまり賛成できないが、まあ、君の中では納得が行くんじゃないかな。逆に、ルカ君がスタン君との生活に苦痛を感じていないと言うのであれば、諦めるしかないのではないかな。マルレイン君も君同様、その可能性を勘案していないと言う事は十分考えられるからね、その場合は我々の出る幕ではないよ、ルカ君とスタン君とマルレイン君の話し合いで解決してもらうほかないことだよ」
 同じように知的なことを言っているにもかかわらず、キスリングには一切の「萌え」が無いらしいリンダは、ロザリーの答えを待つエプロスの顔をただひたすら穴のあくほど見つめている。エプロスはさいぜんからリンダのラブラブ熱視線ビームに、もちろん気付いてはいるが、そっちに目線を送ろうものなら自分の身が危ないことくらい、もちろんわかっているから、目線はロザリーに固定したまま、一切動かさない。
 やがてそのロザリーが、頷いた。相変わらず攻撃的な声音で、言う。
「わかったわ。じゃあ、ルカ君に会わせて。……でも、もしルカ君が本当に洗脳されてたりしたら……」
「そのときは私の身をくれてやる。煮るなり焼くなり好きにするがいい」
 話が纏まりかけたそのとき、
「あぁん、エプロス様のプリティボディとラブリィハートはリンダのものよ♪」
 と、目をランランと輝かせて言い放った。




 自分に何が出来る。娘のために、何が出来る。ベーロンは自問する。
 「王女」、人形のマルレインがルカに対して好意を抱いていたことは知っている。いや、抱くであろうという推測も、彼ら一行にマルレインを同行させた際にもわかっていたこと。人形であっても、娘が恋をしたのなら、それが上手くいけばいい、父として当然思うこと。そして、今も。魔王が拉致したあの少年に想いを寄せる娘を、直に目にしたなら。
 魔王の影を恐れて、娘の想いを止めることだけが自分のなすべきことではない、そう考える。
 一つ確かなのは、自分は非力ではないと言う事。そして、あの男は魔王を名乗ってはいるが、魔王ではないということ。既に分類の力はこの箱庭の世界に機能していないから、あの男は並外れた魔力を持っていたとしても、魔王のそれにはありえない。
 ならば、ただやつの言う事を聞き入れるのではなく、自分は愛する娘のために、出来る事が在るのではないか。
「見ていなさい、マルレイン……」
 自分にとっては、ただ娘の存在が全ての理由になりうるのだ。娘のために在ると言っても過言ではないこの世界同様、自分もまた、マルレインのために在る。
 娘の幸せのために自分は何だってできるのだ。
 娘にとっての障壁を排除する力を、自分は持ち合わせている。その力を、振るおう。自分はそのために生きている。

 

 

 

 

 数多の小部屋、誘い込むような回廊に、隠し扉。ひとつひとつを間違いなく通過し、エプロスに先導されてロザリー一行は歩く。
「……ッたくっ、たった二人しか住んでないのにこんなバカ広い城建ててんじゃないわよっ」

総面積では複雑さにおいて悪名高きあの世界図書館をさらに上回る。
 広い広い城の中、たっぷり二キロは歩いて、ロザリーは憤りの声を上げた。自分が建てたわけでもないのに、エプロスとしては少し申し訳ない気持ちになる。確かに、これではちょっと広すぎだとは思う。元々は勇者たちを疲弊させるためのこの構造、今も役に立ってはいるのだが。
 そのくせ大魔王と子分魔王は二人しか知らない隠し通路を駆使し、入口から数分で彼らの寝室と玉座の間にたどり着くことが出来るのだ。
「そのくせ宝箱の一つも置いてないじゃないッ、ケチ臭い城なんだからっ」
「うーむ、私の愛しいオバケちゃんも出ないしね」
「まあ……、ガマンしてくれ、あと少しだから」
「リンダはエプロス様のお背中見てるだけで幸せよっ」
「本当にもう少しだからがんばって歩いてくれ」
「まさか変なところ連れてく気じゃないでしょうねー」
「そんな事をするか。最短距離を歩いている」
「リンダ、エプロス様に連れ去られてグリグリモグモグされた〜い♪」
「もう着く」
 最後の隠し扉を抜けて、両開きの赤黒い扉に辿り着いた一行は、すぐには扉を開けず、しゃがみこんで一休み。
「あー、ほんと、何考えてんのかしらこんな城作って」
「でもまあ、世界図書館のように鍵を探して右往左往ということは無いから精神的には楽だったね」
 そしてキスリングは腕組みをして少し考えてから、
「彼はつまり、そこまで邪悪ではないと言う事ではないかな」
 と言った。エプロスは頷く。
「あの男を魔王と言っても構わないのか、私は疑問だ。言っては悪いが……魔王としての風格など微塵も無いぞ、言葉遣いなど、偉そうなものをキープしようとしてはいるが、本心では本人すらそれをわずらわしく思っているのではと思えるほどだ」
 言って、立ち上がる。
「戦う訳ではないのだ、休憩はこの辺でいいだろう。行こう」
 ふうっ、と一つ溜め息を吐いて、ロザリーも立ち上がる。
「話し合いで終わるかどうかは、アイツ次第よ」
 そう言って、重いノブに手をかけ、ぐい、と押す。かちゃり、鍵の手ごたえも無く、分厚い扉を、押し開く。
 それまで以上に、陰気な黒一色に、青白い炎が揺らめく、「玉座の間」。ルカの部屋が丸々十個は入りそうな広大な空間。
 しかし、これほどどんよりした一室なのに、どこかそれまでの回廊よりも雰囲気が和んで思えるのを、ロザリーは訝った。この暗黒の空間、禍々しいはずなのに、このどこか緊張感のほぐれる印象。何によるものかと、玉座を見据えると。
「……来たか、尻垂れ勇者」
 ロザリーの周囲だけ、空気が緊張した。一瞬冷えて、カッと熱くなる。
「やっぱアンタ魔王じゃないこのバカスタンッ」
「ロザリー君、口の悪さだけで人を判断してはいけないよ」
「似非学者とグズ女も一緒か。勢揃いでご苦労なことだ」
 どこか苦々しいような表情で、スタンは歓迎の言葉を口にする。
 本来なら、この者たちは来るはずではなかったのだ。ベーロンは、あの小娘は、間に合わなかったのか。自分の計略が失敗に終わったらしい。ルカの前で、尊大不遜な、言ってみれば「魔王的振る舞い」はしたくないのだが。勇者も魔王もなく、仲良くして欲しいという子分の願いを、自分は一番知っているのだからという自覚があったから。
 でかい態度で座る玉座、膝の中には、もちろん子分魔王のルカがいる。言いようも無い不安を顔に張りつけて、眉を八の字にしている。
「ルカ君ッ……」
 ロザリーに名を呼ばれ、ビクンと身体を緊張させる。
 ルカはロザリーのことが好きだったが、彼女はどうしても怖い。いい人なのは間違いないのだが、必要以上に怖い。彼女といいマルレインといいリンダといい、どうして僕の周りは強い女の人ばっかりかたまってるんだろう。
 スタンはこれ見よがしに、ルカのウエストに手を回す。
「本来ならばおまえなどにルカと話はさせたくないのだがな。子分が望んでおるから特別に許可をしてやろう。剣を置きこちらへ来るがよい」
「……」
「その目は何だ……、ふん、そうか、余が非武装のおまえに攻撃するとでも思っておるのだな? ……相変わらず失礼な女だ」
 自分も失礼の王者のくせにそう言って、
「ルカ、言ってやれ。おまえの言う事であればあの女も聞くであろう」
 ルカはこくんと頷いてごくんと唾を飲んで、
「ぼ……、僕が、見てますから、スタンに攻撃させませんから、ロザリーさん……、信じてください」
 ロザリーの耳には目には、ルカの言い方は脅えたように見える、どこかでまだ、「スタンに脅迫されているのだ」という可能性が去らない。自分の正義を裏付ける、証拠となるのではないか。
「……。ルカ君がそう言うんなら、わかったわ」
 ロザリーはしばらくじっと腰に刺したレイピアを見つめていたが、長く息を吐いて、抜いた刃をリンダに持たせた。
「いーい、アンタそれ、人に向けちゃダメだからね」
「えー、こうですかぁ?」
「っ、言ってる側からッ。返しなさいッ」
 一悶着あって、結局キスリングが持つことと相成った。
「さあッ、これで文句ないでしょ!」
「ふむ……」
 スタンはじろりと上から下まで睨んで、
「……まあ、良かろう。五分だけ時間をくれてやる。子分と話すがいい」
 どこまでも偉そう。イライラしながらやってくるロザリーに、「人の城に侵入して人の子分と話をする無作法を許しているのだから」、当然の対応だとスタンは思う。
 やって来たロザリーをじっと見詰め、さらに抜かりなく、
「……フーマ」
 魔法を封じておく。キッと顔を上げるロザリーに、余裕綽々、
「五分だけだからな」
 と。
 ルカはロザリーの顔がいっそう険しくなったのに、暗澹たる思いとなる。
 スタンだって言うほどロザリーさんのこと嫌ってるわけじゃないのに。どうしてもうちょっと違った対応が出来ないものかな……。辛いのは僕なのに。
 ロザリーはスタンから目線を切り、心を落ち着けるように深呼吸。カリカリしてはダメだ、与えられた時間も少ないのだし。
 自分の行動は正義だったのかどうか。答えはこの少年が与えてくれる。
「……ルカ君。……キミはどうして、そんな……、バカスタンの膝の上になんて座ってるわけ?」
「はあ……、これは、スタンが僕が膝の上にいるといいって……」
「そんなこと聞いてるんじゃないわよっ、ったく……。そうじゃなくてっ、何で、マルレインを置いてルカ君はバカスタンと一緒にいるわけ? ……おねーさんはほんとに、悲しいわ! マルレインだって悲しんでるわよ」
「ああ……、はい、それは……、そうだと思います。僕も、マルレインには本当に……、謝りたいです」
「そうだと思いマスじゃないわよッ、だったらねルカ君、何で……、って」
 ロザリーははたとルカを見た。
「謝りたいって……、謝りたいって、何よ」
 見る見るうちに、苦々しい表情になっていく。
「……余が無理矢理にこいつを攫ったとでも思ったのか?」
 スタンはフフンと笑って見下す。
「愚かな二流勇者め……、だから余と子分の居城へと無粋にも攻め入ってきたのだろうが。以前から判っていた事だが、やはりキサマなど口先だけやる気だけお金もない仕事もないダメダメ勇者なのだやられ役としてはうちの子分よりもなお地味で何の変哲も無いぞまったくこれだから勇者などという人種は愚鈍で困るわ」
 悪口を言わせたならば天下一品、このあたりはさすがに痩せても枯れても分類が無くても「魔王」である。短気な人間は堪忍袋の緒が切れると青ざめるというが、まさに勇者ロザリーがそんな感じ、すっと顔から血の気を引かせて、俯いてぶるぶると拳を振るわせる。
「っ……」
 ルカがあわわわわ状態になっている、慌ててロザリーの両脇にエプロスとキスリングが抑えに掛かる。
 が。
「……ふ、ふんっ」
 息を一つ整えて、ロザリーは顔を上げた。ルカをまっすぐに見つめる。
「私は偽悪魔王と話に来たんじゃない、ルカ君の口から、真実を知りたいの」
 ルカはがくんと頷いて、首の骨が一つ鳴って、痛がった。
「いーい? ルカ君。正直に、簡潔に答えなさい。余計な言い訳なんてしないで」
「は、はい……」
 すう、と息を吸って、吐いて。
「……キミがここにいるのは、百パーセントキミの意志なのね? スタンに攫われたからでは、ないのね? どっち?」
 ロザリーは、じーーーーっと、髪の毛の都合で片方しか見えない目でルカをじっと。
 エプロスが静かな表情でルカを見る、キスリングも同様の表情で。スタンがどういう表情をしているか、ルカには見えない。ロザリーの向こうでリンダはエプロスの背中だけを見ている。
 ルカはごくんと唾を飲んで、
「……僕は、自分の意志で、今ここにいます。そして……、僕は出来る事ならこれからも、ここにいたい……」
 フッ、と勝ち誇ったように笑い、スタンはルカの腰に再び手を回す。
 そうしてあろうことかその耳朶の小さな耳をそっと噛み、
「ひゃ」
 ルカに一つ、可愛い声で鳴かせてから、
「去れ、寸胴大根足勇者。これで判ったろう、ルカは余のものだ、余の唯一の子分だ。余の胡座の中に座ることを許した、ただ一人だけの存在なのだ」
 ロザリーはじっとルカの顔を見つづけた。
「……ロザリー君」
 キスリングが静かな声で言った。
「言っただろう、彼はもう『魔王』ではない、絶対悪ではないのだ。マルレイン君にとっての、そして君にとっての、『望まれる相対悪』にすぎない。……ルカ君、君は、彼の恋人になったのだね?」
「え、え、あ、それは……」
「否定しなくとも良いよ、私はそういう愛の形も十分アリだと思うからね」
 背後で初めてリンダがエプロスから目を離し、「萌え……っ」と呟き、再びエプロスに視線を戻した。ルカ一辺倒のスタンよりも、余地の在るエプロス、という路線らしい。ただ、目の前にある愛の形に妙な興味を覚えてしまっているのも確か。
 ルカは、あまり頑固に否定しては、スタンに申し訳ないと、恥ずかしいのを堪えて、こくんと頷いた。
「……ロザリー君、彼らには幸せになる権利がある。そして、私たちがそれの邪魔をする権利などないし、もとよりそこに理由を探そうとするのが間違いなのだよ。これではっきりした。ルカ君は自分の意志でこの城に、スタン君と共に在ることを選んだ。そうすることがルカ君の幸せなのだよ」
 まだ、未練たらしくルカを見ていたロザリーだった。
 が、全てのピースが一番自然な形にはまった瞬間の「ぱちり」とでも言うような音を、確かに聞いてしまったような気がした。
 目に見えないのは同じかもしれない。しかし、自分の中にある当て所ない「勇者の道」「正義」といったものよりも、目の前で恥ずかしそうに俯き、そのルカの方に顎を乗せてにやにやしている魔王の姿は、憎たらしい、ほんとうに憎たらしい、けれど。
 より確かなものであると、思い知る。
 ただ、どうしても霧消しない、「ルカは本心ではスタンの言いなりになどなりたくないのではないか」「操られているのではないか」、これはやはり、自分を正当化したいからなのだろうか。
「……解かったわ」
「解かるのが遅いわ」
「……。ルカ君は、本当の本当に、このバカ魔王と一緒にいたいのね?」
 ルカは、恥ずかしそうにこくりと頷いた。そうして、反応をうかがうように、上目遣いで見上げる。
 この反応に、嘘があるようにはどうしても思えない自分が辛い。これはルカだと確信する。あの気弱で地味で無特徴の少年だと。ふとしたきっかけで消えてしまうような少年だと。
「じゃあ……、証拠を見せて」
「しょ、……証拠ですか?」
「ふん、未練がましい。キサマ勇者としては三流だな」
「ルカ君がスタンのことを好きっていう、証拠を」
「えー……」
「簡単なことではないか」
 スタンはルカの耳元でクククと笑い声を立てる。
 ルカはいやな予感がして、スタンから身を離そうとする。が、シートベルト、というよりは拘束ベルトの両腕が、しっかりとルカを捕まえている。
「子分よ、余とおまえの仲の良さを見せてやろうではないか。ほれ、余の唇に接吻するがいい。いつもしているようにな」

「い、いつも……!?」
 ロザリーがさすがに怯めば、
「はー……」
 エプロスは長い溜め息を吐く。
「ふむふむ、分類の力が取り去られたから『人間』と『魔王』、『男』と『男』という垣根を越えて愛情が生まれるわけだね」
 キスリングは自分なりの理論を打ち立てる。
「やだよう……、こんな、みんな見てるところで……」
「構うものか。接吻すればそこの愚鈍な伸びきったウドン勇者はいい加減諦めるであろう」
「で、でも……、恥ずかしいよ……」
「何だと子分、おまえの言った言葉は嘘か、ええ? 余の事が好きだと、ずっと一緒にいると……」
「あああああ、それ以上言わないでよっ、わかった、わかったから! すればいいんだろっ」
 やけくそ気味に言って、胡座の中、方向転換、目を、ぎゅっとつぶって、魔王の唇に唇を押し当てる。
「……」
「……」
「ふむ、仲良き事は美しき哉、だね」
「…………萌えっ」
 接吻は、このとおり四人が四様のリアクションをするほどの時間、続いた。ルカはとっくの昔に離そうとしているのだが、スタンがそれを許さないのだ。濃厚な、濃厚な、濃厚な口付け。
「んっ、ぷ、はぁっ、はぁっ……、はぁ、はぁ」
「……どうだ、これで信用したであろう。いくらキサマの目が節穴でも」
 ルカは真っ赤になって、ロザリーの方を向くことも出来ない。ただスタンの胸に頭を押し付けて、後からでも解かるほどに耳が赤くなっている。
 僕が一番恐れていたのはこれかも知れない……、希薄な意識でルカは思った。大体、玉座の脇で立って待っていると主張したのに、「おまえのホームポジションはここだ」と言われたから、恥ずかしいのを堪えて渋々「定位置」に居たわけで。これだって、十分、恥ずかしい。
 そのうえ……。
「……まだよっ、そんなの、……証拠にも何にもなりゃしないっ」
 気を取り直して、ロザリーが言う。
「お、おい、そんなことを言ったら何をはじめるかわかったものでは……」
 エプロスの制止を振り切り、ロザリーは言う。
「ルカ君、そんなの、私だって出来るわよ、命がかかってたらそいつと、き、き、キスくらい、平気よッ」
 スタンが青ざめた顔になる。
「……キサマ、何と言う事を」
 胃のあたりをさする。言ったロザリーも、えづきかけた。
「じゃ、じゃあ、どうすれば……」
 ルカが困惑顔で振り返り、また眉尻を下げる。
 まさか、エプロスが懸念したようにこんなところで裸になるわけにも。もちろん、いやだいやだそんなの、死ぬって。
 ルカはあまり回りの良くない、優しいばかりの頭を必死に回転させる。どうしたらロザリーさん、信じてくれるだろう。早く考えないと、スタンは本気で僕のことを……するかもしれない! スタンのことを信じてる、信じてるけど……。
 分類の力が働かなくとも、「勇者」ロザリーの前では相対的に「魔王」になるスタンだ。普段はルカの嫌がることなど絶対にしないのだが。
 しかし、ルカは思いつかない。スタンと自分との関係を裏付けるもの。キスが駄目なら、何がある? そもそも、関係を裏付ける「モノ」なんてあるのだろうか。結婚したわけでもないから指輪ももちろんない。揃いのティーカップも信じてもらえそうにない。
 ロザリーは、自分の負けを確信しつつも、ならばマルレインを納得させるだけの証拠が欲しいと思っていた。何も、ルカを困惑させることが本意では無い。そこまでルカが「共に在りたい」と言うのであれば、力強い証拠だってあるはずだ。先程彼女自身が言ったとおり、人間、脅迫されて命が危うければ同性同士だってキスは出来るはずだし。
「……フフン、何を迷うことが在る」
 背後から、悪魔の声。
 ルカは凍り付いて、慌てて頭を、なお回転させるが、思考はあまりうまく働かない。目が潤んでくる、やだやだやだ、そんなの、こんなの、やだ……、スタンの、馬鹿……。
 無情にも、スタンの両手はルカの胸を、シャツの上からいやらしい手つきで撫で始める。
「やだ……っ」
 ルカが涙目を強く閉じた、その瞬間、スタンの存在感が消え失せた、かと思えば、代わって背後に黒い存在感が生じる。ルカは振り向き、増長して勇者たちとエプロスを睥睨する魔王スタンを見た。
 平面的な顔に、余裕の笑みを滲ませている。そうして、じろ、とルカを見て、一瞬顔を顰めた。
 余がそんなことをするか。
 そんな風に、少し咎めているように見えた。
「では、余と子分の……、人間たちの言うところの『キズナ』という奴を目に焼き付けるがよい。凄すぎて腰抜かしたって知らんからな」
 スタンは影の手を、ルカの頭に乗せた。
「子分よ……。見せてやろうではないか」
「え……?」
「余がおまえに与え、おまえが形にする比類なき魔力を。大魔王である余が子分魔王であるおまえに憑依することによって可能となった、最強の破壊魔法を!」
「え? え? こ、こんな、人の居るところでやったら危ないよ! ……それに、やだ……」
「危ないと思うのなら、きっちりとコントロールするのだ」
「え、だ、だって、恥ずかしいよぉ」
「四の五の言うな! あれが一番判りやすいし効果抜群だろうが!」
「うー……」

「二度とは言わんぞ、子分……ルカ」
 ルカは、負けた。
「……わ、わかったよー……」
 ルカは、目を閉じて眉間に皺を寄せて、玉座の上に立ち上がると、両手を横に広げた。
 ロザリーは、すぐに感じることが出来たルカの身体に集まるただならぬ力の気配に、反射的に魔法バリアを自分と仲間に張り巡らせ、身構えた。
「こ、これは……、人型のスタン君にも、生身のルカ君にもありえないはずの魔法の波動ではないかこれは二人が力を一つにすることによって二倍どころか十倍百倍にまで魔力を増幅しているという訳だねつまりこの力の拠り所こそ二人の愛情言い換えれば絆に他ならずうーむこれは何と言う事だロザリー君彼らは本当に正しいよ」
 ルカは身体中をビリビリ駆け巡る魔力を、両手あわせて十本の指先に溜め込むことに集中する。
 スタンがルカに教えた、切り札の力だ。
 ……良いかルカ、余があの女に敗れるなどということは百万に一つも有り得ぬ事だ、が、念には念を入れるのが邪悪なる余のやり方だ。おまえにこの力を授ける。おまえの魔力は今でも十分に強大な物ではあるが、余が憑依することによって、その力はさらに強大な物となる。……生身の余でも作り出せぬほどの、な。
 二人は二人で一つ。手垢の付いた表現が許されるなら、「1+1=2」ではないということ。
「くっ……」
 ロザリーは、ルカの身体から伝わってくるシビれるような空気の振動に、日傘を掲げ、自分の背後にキスリングとリンダを庇った。それでも、その傘を持つ手が痛くなってくる。
 これはルカ君の力でも、バカスタンの力でもない。二人の力なのだと、本当に痛いほど感じる。
「うううう……」
 ルカが呻き声を上げる。全身に鉄アレイをつけているみたいに、ちょっと動くのも辛い。魔法の重力に押しつぶされてしまいそうだ。信じる力、二人の力、これからの幸福を作り出していく力、そして、ロザリーを説得する力。重たい、重たいもの。それを、細身に受け止めて。
 苦しげに顔を歪めて、両手を真っ直ぐ横に。間違っても、彼女たちに力の一片すらぶつけないように。
「では……、行くぞ、子分」
「……んっ」
 ……やだよそんな名前。
 ルカはスタンからこの魔法の名前を教えられたとき、まずそう言った。やだよそんな名前。もっと普通なのがいい。しかしスタンはこれこそ普通ではないかと。性質的にもまさにぴったしカンカンではないかと。ルカは最後までその前フリと最初の二文字をもうちょっとどうにか出来ないかと粘ったが、粘っているうちに、スタンがどうしてその名をつけたがっているのか、スタンの表情が寂しげになって行くのを見て、理解したから、結局我を折った。……解かったよ、それでいい。そう言うとスタンは嬉しそうに微笑み、ではぶっ放す瞬間にはこの魔法の名前を腹の底から宣言するのだぞ、と約束を求めた。戦闘には気合が必要だとかどうだとか。結局、それにも従うほかなくて。
「……っかー!!」
 そんな声を出して、恥ずかしいのを振り払う。恥ずかしすぎるから、絶対、使わなくても済む状況にしたいと、思っていたのに……。
 しかし、……、約束をしたのだ、僕は。
「僕と魔王の……っ」
 瞑っていた目を、開く。
「……愛情ッ、インフェルノ!!」
 ルカが、天に高く掲げた両手。右の手の五指からは真っ白な、左手からは真っ黒な、合わせて十筋のレーザーが、打ち上げられた。薄暗い部屋は眩しすぎるモノクロームへと色を変えた。眩しい暗闇が場を支配し、足元で床が踊り狂う。天井を轟音と共に突き抜けて、遥か天へと、二人の最強魔法が貫き、十本の糸で天と地とが結ばれる。
 激しい熱と冷気、暴風に、ロザリーはやっとのことで傘を掲げる。その後でリンダもキスリングも、ただ床に伏せて衝撃から身を守る。エプロスも両腕で顔を覆い、辛うじてバランスを保つ。
 やがて色の戻る玉座の間の天井に、ありえないほどの大きな穴が開いていた。不意に音という音が消え、やがて、どさりとルカが玉座に尻餅をついたのどかな音が、皆の耳に届いた。 ルカとスタンの頭上、浮かんでいた雲が、楕円に切り取られ、そこから青空が馬鹿みたいに覗いていた。
 ようやく地鳴りと風が収まり、ロザリーは傘を外した。
「……これが余と子分の最強破壊魔法だ。余と子分が力を合わせて初めて生み出すことが出来た奥義……。これを目にしても、まだ余とルカの間を疑うのであれば、勝手にするが良い」
 スタンはひょいと影に潜り込んだと思ったら、再び人型に戻る。ルカを抱き上げて、「ホームポジション」に座らせて、頭を撫でる。ご苦労だったと、耳元でそっと呟く。
「……恥ずかしすぎる……」
「しかし、今までで一番の出来だったぞ。よくやった」
 労われては、しかし悪い気分がしないのだった。
 ルカはおずおずとロザリーを見て、
「……信じて、もらえましたか? 証拠になってるかどうか、わかんないけど……。この力はスタンが言ったとおり、スタンが僕にとりつかないと使えない、僕たち二人しか使えない魔法なんです。僕がスタンに力を貸して、スタンが僕に力を貸してくれなきゃ、絶対に使えない……」
 ロザリーは、荒い息を吐きながら、しばし呆然としていたが、呼吸を落ち着かせて、……さすがに頷いた。
「……ルカ君……、ルカ君は本当に……」
「……すいません。本当に、僕の我が侭のせいですよね。叱られても仕方ない……。でも、僕は……」
 さすがに、「スタンのことが好きなんです」「幸せなんです」「愛しているんです」とは言いかねたが、真意は十分に伝わっていた。
 ロザリーは、首を振った。
 「正義」、そんな空虚な言葉が今の魔法の衝撃で砕け散ったような気がした。
「……解かったわ。もう……、おねーさんは何も言わないわ」
 そして、悔しそうにスタンを見上げる。ルカは疲弊しきっているが、スタンは影の状態でルカに魔力を流し込んでいたばかりだから、汗一つかいていない。余裕の微笑でルカを抱き、ロザリーを見ていた。
「解かったら、とっとと帰るがいい。もう余の邪魔をしようなどと、考えぬことだ」
 フッ、とスタンは笑い、不意にぎらりと、その目に邪悪な色を混ぜた。
 傲岸不遜なるスタン本人の纏う、間の抜けた雰囲気ではない、緊迫感の漂う、危険なオーラ。膝の上のルカが、何か違和を覚えた。エプロスが、一瞬の雰囲気の変化に、目を見張った。

凛とした声が、玉座の間を切り裂く。
「余はこれより、この力をもってこの世界を征服してくれる。キサマら勇者どもをこの強大な魔力によって捻り潰し、この世界を我が手に!」
 その言葉に、ルカがびっくりして振り向く。
「スタン?」
「余は……、我が名は大魔王スタンリーハイハットトリニダード十四世ッ、今このときより、この世界を支配する者なり!」
「ス……!?」
 スタンはルカを抱いていた腕を解き、浮かび上がると、両手の平から立て続けに黒い光弾を放ち、ロザリーを狙った。咄嗟にロザリーは日傘でそれを跳ね除け、キスリングの手から抜き身のレイピアを取り返し、キッとスタンを睨みつける。
「大魔王ッ……、我が名は大勇者ロザリー! この世界の正義と秩序を守るため、……おまえを、倒すッ」
「ロザリーさん!?」
 キスリングもリンダも、エプロスもルカも、何の前触れもなく始まった戦闘に、硬直した。
「死ね!」
 頭上から降り注ぐ黒い炎に、一番早く反応したのはエプロスだった。エプロスは咄嗟にルカとリンダを両腕に抱きかかえ、キスリングともども強固なバリアで守った。しかし一撃一撃が、エプロスに激しい苦痛を与える。
 が、ロザリーはそれを苦にもせず、レイピアで弾き返す。
「こ、これは……」
 キスリングが目を白黒させる。
「どうしたんだ彼らは……。これはまるで」
「いやーん、エプロス様ったら積極的〜♪」
 エプロスは青ざめた顔でスタンの強大な破壊魔法から身を守るのに精一杯だ。ルカはただ、突然の出来事に、目を見張るばかり。
「精霊よ、我に力を……ッ、消え去れっ、邪悪なる魔王!」
「まさか……」
 エプロスが喘いだ。そして、
「ルカ! ……彼らを止めろ!」
 いつかのように、凍り付いたルカは、動けないまま。
 跳躍したロザリーのレイピアが、スタンの頑強な胸を貫いた。
「ぐ……!」
 衝撃的なシーンに出くわすと、それがスローモーションに見える。よく言われるそのことを、ルカは既に身をもって体験している。「人形」マルレインが破壊された時が、全くそうで、音と色とが遠ざかり、無力な自分はただそれを眺めているばかりで。
 スタンの黒衣を胸を貫いたレイピアが、微かな音しかしそれをルカの耳ははっきり認識していて、肉を突き破った刃が引きずられるように抜かれる音を、聞いた。そして、色の希薄な世界で、スタンのバランスが崩れ、いつでも余裕綽綽の邪悪微笑を浮かべている表情が苦悶に歪むさまを、ロザリーが正義の名のもとに振るったレイピアを納めゆっくりと降りてくるさまを、そうして遅れてスタンがじわじわと落下してくるさまを、その空気を重く突き破る音すらも、ルカははっきりと。
「……スタン! ……」
 悲鳴に近いような自分の叫びから、時間は自らを取り戻し、全ては元のとおりを取り戻す。たんっ、ロザリーの靴が立てた乾いた音、スタンの身体が黒い床に弾んだ、ずん、くぐもった音。リアルタイムに耳に届く。しかし、スローモーションの時間よりも、リアリティに欠如したものに感じられる。全身が赤く腫れぼったいように、熱くなる。
「……キサマだな……、ベーロン!」
 エプロスが喚いた。
 正義の色の瞳をしたロザリーの後ろ、くらい微笑みを湛えた老人の姿があった。
 床に落ちた魔王の身体が、ピクリとも動かず、黒い霧に包まれて、消滅していた。

 

 

 

 

 誰の元にも正義は存在する。「勇者」の正義、「魔王」の正義、「少女」の正義、「少年」の。そして「正義」の定義など存在せず、在るのはただ「正義」の光によって生ずる影、即ち「相対悪」のみ。これが故に全ての戦争は起こる。「正義」は「善」ではない、いや、「善」すらも誤りであるケースが往々にしてある。国家民族宗教人種、人の数だけに正義が存在し、その誰もが持ち主のみにとって正しい「正義」を持ち、それに忠実にあることを潔しと錯覚する。誰もが正義を持っていて、一方の正義が他方の正義と相反すると言う事を人は便利に忘れることが出来るから、人は「正義を信じて人を殺す」という矛盾した行為に走るのだ。いくつもの正義があり、定義が出来ない以上、そこに存在するのは普遍不変の感情、端的に言えば「愛情」のみであるはずで、それに忠実に生き、その存在を信ずるならば、誰も彼も、「正義に反した相対悪」を殺すことなど出来ないはずなのに。
 便利に忘れることが出来るから。
「その通りだ、……幻影魔王だった者よ」
 ベーロンは凄惨な笑みを浮かべて、エプロスに言い放った。
「そこの女には『最強の勇者』の分類を、そしてゴーマの生まれ変わりには単なる『魔王』の分類を下した。全て私の思惑通り。これでその少年は我が娘の元へ戻り……、マルレインは幸福となる」
「馬鹿な! ルカの不幸をマルレインが望むとでも言うのか」
 美しい顔を歪めて、エプロスは叫ぶ。
 ベーロンは少しも動じることなく、
「これが私にとっての『正義』なのだ」
 と宣した。
 エプロスが手にしたカードを切れ味鋭く投げ付けた、が、それはベーロンの手前で失速し、床に落ちる。痩せ衰えた老人は埃っぽく雑然とした髭を顰めて、
「おまえはただの『人間』だ、私に抗う力などない。……それとも、改めて『魔王』の分類を下して女勇者の剣の錆となるか?」
 怯んだエプロスに冷笑を浴びせ、
「魔王は消えた。勇者ロザリー、おまえは勇者の正義のもと、邪悪なる魔王を屠り去った! ……それで良いのだ。私のやるべき事は全て終わった」
 ベーロンは元のように忽然と消え、「最強」の分類を失ったロザリーが、ぐらりと一度バランスを崩した。どこか痛いかのように顔を歪ませ、一つぐっと拳を固め、それを床に打ちつけた。立ち上がるまでに要した少しの間に、自分の足跡が道になり、それが正道であることを裏付ける、苦い事実がじわじわと胸中に広がって行くのを感じていた。
 邪悪なる魔王を倒し、不幸な少年を救い、少女の願いをかなえる。それが正しき勇者の道なのだ。
 正しき道など、面白くも何とも無い、虚無に充ちたものなのだった。
 勇者は立ち上がる。ただ青ざめて、スタンの消えた床にへたり込むルカの元へ、静かな靴音、ロザリーは歩み寄った。
 耐えるような口調で、
「ルカ君、もう大丈夫よ……。さあ、マルレインの元へ戻りましょう」
 ロザリーは言った。
 ルカは呆然と床を見つめていた。エプロスは床に膝をついて、少年の空虚な表情を、痛い思いで見ていた。自分の「正義」がこなごなに打ち砕かれ、守りたかったものも何一つ守れなかった。言い様もない無力感に、がっくりとうなだれて、床を殴りつけた。
 こんなことが。我知らず呟いて、顔を再び上げる。目を疑う。ルカは立ち上がって、頷いていた。
「……わかりました」
「あの男はもういないわ。それでも君があの男の事、まだ好きって思うなら、直接マルレインに言ってあげて」
 女勇者は、日傘を投げ捨てた。その影は、もうピンクではない。
 キスリングはずっと言葉を失っていたが、その事実に目を見張る。
「……ほ、本当にスタン君は……」
 そこから先を口にするのことがどうしても憚られて、再び黙り込んだ。
「ルカ……っ」
 エプロスは搾り出した。
 ルカは、寂しげに哀しげに、一つ微笑んで頷いた。
「……ぜんぶ、僕のせいです。僕が悪いんです。僕がわがままだからこうなったんです」
「しかしおまえはそれで良いのか!?」
 思わず怒鳴り声を上げる。ルカは、エプロスが一番見たくないと思う種類の微笑を顔から消さず、もうひとつ頷く。そうして、歩き出したロザリーのあとを、とぼとぼと付いていく。
 「正義」とは何なのか? エプロスの正義は「守りたいものを守るため」。しかしその正義はロザリーにもルカにも、そしてベーロンにも共通する「正義」なのだ。
 実際には、「正義」を押し通すことは「悪」であっても、信じている間は幸福だ。真実の御旗の自分が持っていることを誇りに思い、酔うことが出来るのだから。
「……マルレイン君がベーロンに依頼したのか、あるいはベーロンが自らこうしたのかは解からないが、最悪の結果となってしまった訳だ」
 痛恨の極みの表情でキスリングが独り呟く。エプロスはよろよろと立ち上がり、うなだれたまま首を振った。
「こうなるはずではなかったのだ。……スタンは、ロザリーと争いルカが悲しむ姿を見ぬために、自らベーロンにマルレインを説得するよう依頼したのだ。……こんなことになるとは……」
「だがこう言っては何だが……、私ならばそんな軽率な真似はしないだろうね。ベーロンは娘のためならば我を失う。仮に魔王並の力を持つスタン君に依頼され……、仮に脅迫されたとしても、自分の命よりも娘の幸福を選ぶのがあの男だ。……それを予測できないほど、スタン君もある意味では追い込まれていたのか」
「スタンにとってはルカの存在が全てだからだ! あの男にはルカしかいない! ルカと共に在るささやかな幸せの為に、すべては……、そのために……」
 エプロスは声の勢いを失い、再び膝をついた。
「……なのに」
 キスリングは悲痛な表情でルカとロザリーが出て行った扉を見つめた。ルカの、あの哀しげな微笑みに、胸がえぐられるのはキスリングも同じこと。そして、ロザリーが「正義」の名のもとに振るった刃にも心が捩れた。
「スタンが一方的にルカを求めていただけではない、ルカも、スタンのことを」
 エプロスは震えた声で呟く。
 自分は一番側でそれを見ていて、嫉妬するほどにその幸福を知っていた。無表情か困惑顔かどちらかばかりの少年が、スタンの膝の上で、実に色々な表情を浮かべるのを自分は誰よりも知っている。性も分類も超えて、本当に好きと思っている気持ちが、この部屋この城全体を満たしていて、自分もまた同じような気持ちになることができた。悪くない、と思った。魔力などあるいは必要ないとも。力がなくとも、間違えていても、其処に人畜無害の幸福な愛情があれば、何を憚ることがあろうかと。エプロスは二人を愛した。そこにあるのはただ、二人を見ていると幸せになれるからという一方的な心にすぎない。だが、教えられ、洗われるような気持ちになれる。代え難い幸福だった。
 初めはただ、ルカのことを心配しているだけだった。ハイランドの宿で二人の、正確には「やや一人」の情事を見て以来、優しいだけで罪のない少年が魔王の慰み者となってしまうのではと危惧し、そのとおりにスタンはルカを支配していた、が、そこにはルカの応える気持ちも確かにあるのだと知れば、そしてその関係が自分が懸念していたようなものではなく、同性であっても何のそのという強い力で結ばれたものであったと判れば、少年が幸せになる形に何の文句もない。
 スタンはとても嬉しそうに、とても誇らしげに、ルカのいないところで自分にだけ言った。
「余は世界などよりも余程良い物を手に入れた! ふん、キサマなどには一生掛かっても手に入れられぬものを。余は決して手放したりせん、そして、ルカと在る掛け替えのない時間に世界征服など無駄なことはせん、ただ、余は何もいらぬ、ただ、ルカと共に在るだけで十二分に満足なのだからな」
 ルカとスタンと、平時共に在り、二人の幸せを見ているからこそ、自分はそれを守りたいと。
 目の前で、それが崩れた。

 

 

 

 

数ヶ月ぶりに戻ってきた自分の部屋は、城の寝室と同じ匂いがした。いい加減に放られたクッションも、そのままの位置でくったりしている。この部屋の主がいつ帰って来ても良いように、それを心待ちにしているように。皮肉にも。
「ルカ……」
 マルレインは、ルカの表情を見て、スタンがそうであったように、自分もまた『相対悪』になったことを知った。
 父に、「お前を幸せにするためなら何でもする」と言われ、それに自分は頷いた。それは、ひとえにルカのことを想うが故だ。ルカはスタンに誘拐されたのだと、洗脳されて、帰って来たいのにそれが叶わないのだと、信じていたから。
 ルカをあの男の手から取り戻して。
 ロザリーがかかったものよりも性質の悪い構造的な無知に浸かりこんで、言うなればそれは盲目。これこのときに至るまで、信じていたかっただけ。
 娘のことをこの世界よりも大事に思うベーロンが、どれほど暴力的な行動に出るかということにまでは、考えが至らなかったのだ。
 今となっては、父とは言えあのような男に助けを請うたことが、ルカにこんな顔をさせる結果を招いたのだと、ただ自分の愚かさを思い知るばかりだ。
「……マルレイン、心配かけてごめんね」
 ルカは、痛々しい微笑を浮かべて言った。
 言葉を失って、マルレインは首を何度も横に振った。
 ルカは微笑を消さず、溜め息を一つ、それから、切り出した。
「……僕は、本当に自分の意志で、スタンと一緒に居たんだ。だから、帰ってくるのが遅くなっちゃって……ごめんね。僕は……、うん、本当に、心配かけたね」
 マルレインは、俯いて、また首を振る。
 傍らのロザリーが、その肩を抱いた。勇者は床に置いた右の手を、指が白くなるほどきつく握り締めていた。そうして時折唇を噛んで、深い呼吸を苦しげに繰り返す。
 ほかならぬ勇者の道、『正義』そのものが、ルカに悲しい微笑を浮かべさせ、マルレインを泣かせているのだということを、もちろん解かっているし、それに激しい苦痛を感じてもいる。結局自分のしたことといえば。理想とのあまりの乖離。だとしたら何故自分は勇者などに。誰も救えないで。
「ごめんなさい……」
 マルレインがやっと声に出せたのはその一言のみ。ルカは首を振り側に寄って、マルレインの髪に、そっと手を置いた。
「君は悪くない。気にしないで……。君は、知らなかったんだし、しょうがないんだ、あの状況じゃ……。そして、君のおとうさんも悪くないよ。誰もが同じように、『正義』を持ってるんだ。君のおとうさんも、同じようにその正義に忠実にしただけで、きっと誰も責められないよ」
 しかし、一方の正義が立つことによって、他方、例えばエプロスの正義はこなごなに打ち砕かれた。結局のところ、『正義』など、存在しないも同じこと。
「ごめんなさい……、ごめんなさい、ルカ」
「僕は大丈夫。……泣かないで、マルレイン」
 マルレインは泣き声を堪えて、頷いた。
「僕の我が侭がいけないんだね。……本当は君のところへ戻ってこなければいけなかったのに、いつまでもあの場所にいて……。でも、ごめんね、マルレイン。楽しかったんだ、僕は……。怒らないで聞いて欲しい。僕は、誰かと一緒に居たいってあんなに強く思ったこと、スタンが、初めてだったんだ。こんなの、変だって思うけど、でも本当に……、僕はスタンと一緒にいる間、幸せだったんだ。僕は……、スタンが、好きだった」
 また一つ頷いたマルレインの両目から、涙が床に零れた。
「もしも……」
 ルカは少し、息を呑んで言葉を詰まらせた。
「もしも、……君がいいって言ってくれるなら、僕はまたこれからも、あの城で暮らしたい。あの城は、スタンが僕に建ててくれたものだから。それに、エプロスさんも、吸血魔王さんも、二人だけじゃきっと寂しいだろうから」
 マルレインは、もう一つ頷いた。
「もう、ルカの、自由にして、いい、から」
「マルレイン……」
「わたしと居るより、魔王と居るほうがルカが幸せになれるのなら。わたしは、ルカのことが好きだから。ルカに幸せになってもらえるなら」
 ルカは、穏やかに微笑んで、頷いた。
「僕も、君のことは好きだよ、ほんとうに好きだよ」
 そして、その手を、優しく握った。スタンの丈夫そうな手とは違う、柔らかく傷つきやすそうな、しかし、家事手伝いで少しあかぎれのある、白い手だ。
 ルカはその手を、いとおしげに見つめた。
「マルレイン、本当にありがとう」
 その手を離し、ルカは立ち上がった。
「じゃあ、……ロザリーさん、マルレイン。僕は行きます。城に戻ります」
「ルカ君……」
「誰もが同じように正義を持っている。……僕だけじゃなくって、マルレインも持っていた、そして、ロザリーさんも。みんな、自分の正義に忠実に生きることを潔しとしているんですよね。僕はそれ、それでいいと思うんです」
 ルカは、一瞬躊躇うように唇を噛んだ、そうして……。
「だから僕も、自分の信じるところに忠実に生きることにします」
 ぎゅっと、目を閉じて、大きく一つ深呼吸して、
「……ごめんなさいっ」
 少年の、細い足にわりとフィットした黒のジーンズ、穿き旧された灰色の靴。その下の影が、ぐにゃぐにゃと蠢いて、
「用事は済んだか、子分」
「わあ!」
 その影がぺろりと地面から剥がれ、伸び上がった。
「な……!」
「急に出てこないでよ……」
 したたかに打った尻をさすりながら、ルカは立ち上がる。気まずそうに、呆気に取られたロザリーとマルレインに、とにかく膝に額が付きそうなほどに、頭を下げる。
「ごめんなさい……、ほんとうにごめんなさい」
「フン……、充血小娘よ、キサマのオヤジは余にまだ分類などというチンケな力が通用すると思っておったらしいな。最強無敵の余にそのような力などもはや無意味! そこの愚かなポンコツ豚骨勇者は余を倒したと都合よく思い込んでいたらしいが、最後の瞬間に子分の影に潜り込んだのを見抜けんとは。キサマは所詮その程度なのだ口だけ勇者め」
「す、スタン……」
 再び出てきて早々にロザリーのことを口汚く罵るスタンに、事態の再悪化をルカは危惧する。
「余にとっての正義とは、子分の幸福。それ即ちこの世界の真理。時代錯誤一人称小娘、キサマの願いもまた、我が子分魔王ルカの幸福と安寧であった、そしてヘタレ勇者よ、キサマの願いは小娘の願いの叶うことであった。ルカと余が誰にも邪魔されず、我が荘厳なる居城にてこれからも、平穏無事に暮らしてゆくことが、キサマたちの願うところ……。その願い、叶えてくれよう!」
 素早く人型に変身して、ルカを抱き上げる。ルカは眉を八の字にして、ただ、困る。
「……ルカは余のものだ。二人で在る日々を守ることこそが余の、余なりの正義である。そして、正義は人畜無害な物であるべきだ。この子分の掲げた正義は誰も傷つけぬ。余としては少し物足りなくもあるがな、子分がそれを望むのであれば、この偉大なる大魔王スタンとしても、協力することには吝かではない」
「ごめんなさい、本当に、ごめんなさい。僕はやっぱり……、どうしても、どうしても、スタンと一緒にいたい。スタンは僕の存在を証明してくれる、スタンは僕の側にいてくれる、……僕がいやだって言っても。だから、僕は……、スタンが、好きなんだ」
 スタンは満足げな笑みを浮かべ、ルカの頭を撫でた。
「では、さらばだ愚民ども。相手をして欲しくばまた城までやって来るが良い、余はルカをいじめるのに忙しいが、数分程度ならば相手をしてやらんことも無いぞ。ククク……」
 ぼふん、と室内に煙が立ち込めて、ロザリーとマルレインが咳き込む、その隙に、ルカを抱いたスタンは、部屋から消えた。ただ、その声だけがそこに残った。
「受け取れッ、余からのささやかなプレゼントだ!」




 不安げな顔の少年を背負って、魔王は森を駆ける、草原を駆ける。常人にはなしえないスピードで、脇見運転をしながら。
 ルカは、はぁ、としんどそうな溜め息を、さっきから何度も吐いている。スタンとしては、ルカの思ったとおりに行ったのだからこれ以上ない結末だと満悦しているのだが、振り返らずとも解かるその表情を思えばその心に一点の曇りも無いことを願うスタンとしては、聞かざるを得ないところ。
「……溜め息ばかりしおって。余の背中はそんなに乗り心地が悪いか」
「……。……あれじゃあ、またロザリーさん怒ってるよ。マルレインもきっと」
「案ずる事はない、堂々と構えておれば良いのだ」
「でも……、騙しちゃったよ」
「騙す? 人聞きの悪いことを。おまえは嘘など一言もついておらん。事実をやや言葉足らずに言っただけであろう。何ら問題は無い」
「でも……、あんなことしなくたって」
「ふん。ああいうことの一つもしておかないと、魔王の名が廃るというもの。おまえも一応は子分魔王なのだから、余を見習って悪戯の一つや二つ出来ないようでは困るぞ。……まあ、あの勘違い女がまたカンシャク起こして乗り込んできても、余はどうせおまえを弄る以外は暇な身体だ、相手をしてやらんことも無い」
「……、マルレインにもう一度ちゃんと謝りたいな……」
「む……、まあ、そのへんが心配なら……、またそのうち、一度くらい、余の絶対的な監視のもとでなら、会わせてやらんでもないが」
 風を切り裂き野を越え山を越え雪原を越え砂漠を越え。ルカが少し笑ったのが解かる。面倒ごとを片付けた後でもあり、さらには久しぶりに影の中に長時間息を潜めていたから、気持ちが良い。
「……しかし今度の一件、余としても色々と面倒であったぞ。全知全能の余としても」
 スタンは思い起こして、顔を顰めた。多くの誤算があったことは、縦令全知全能であっても認めざるを得ない。やはり魔王ではなく「ただの男」ゆえに生じた計算違いだったか。エプロスに対しキスリングが指摘したように、病的なまでに娘に固執しているベーロンに娘の苦境を知らせれば、捨て身ともいえる暴挙に出るかもしれないということは、本来のスタンであれば想像できたはず。それを見抜けなかったのは、「どうすればルカが……」ただその一点に、知恵を捻った結果だった。
 ベーロンの手によって、「分類」の力が復活したあの瞬間……。
 スタンは、そして恐らくロザリーも、心の裡に恐ろしい塊が生じ、そこからの信号に抗う術を失っていた。本心では、ロザリーも、本人が口にしたとおり、もう言うべきことは何も無い、あとはマルレインにどう伝えようか、その点のみで、スタンに切っ先を向ける心積もりなど無かった。勿論スタンは、あの場でロザリーを攻撃せんという意志は初めから終わりまで無かった。恐ろしき分類の力が、意志とは無関係に、二人を動かした。
 世界図書館の最深部で二人が相対したときとは違い、力関係では圧倒的に、「最強の勇者」の分類がなされたロザリーに分があった。スタンにかけられていたのはただの「魔王」のそれに過ぎなかったから、まともに戦っていれば、間違いなく負けていただろう。スタンとしても、身の危険を感じざるをえないところであったのは事実だ。「分類」は、「勝利すべき最強勇者」と「負けるべき魔王」、結末を確定させたものだったのだ。
 瞬時の機転。やられたフリをして、子分の影の中に隠れる。その際、女勇者のピンクの影を、黒に戻し、「本当に自分はやられてしまったのだ」、それをアピールする。あの瞬間だけは……、スタンが今思っても、奇跡のようなものだと、感心するほど。あれほど強固な分類の力に、ルカの声にも救われないような状況だったのに、自分はルカを置いて死ぬわけにはいかないと、声嗄らして叫ぶような気持ちがたった一つ、(こんな言い方をスタンはしないだろうが)暗闇を照らす希望の光のように、確かに存在していた。必死の思いでルカの中へ飛び込み……。
 ……目論見は上手くいった。特に、ピンクの影の呪いを解除したのは効果大だった。ロザリーのみならず、エプロスもキスリングも、スタンが倒されたと確信した。ただ一人、ルカだけが、自分の影の中に命が吹き込まれるという、彼しか感じたことの無い違和に、スタンが自分の中に隠れたのだと言う事に気付いていた。
 追い詰められたときには、おまえの影の中に。
 予定通りといえば予定通り。
 しかし、スタンがしたことといえば此処まで。あとは、ルカの必死の演技というか、猿芝居。
「すごい自己嫌悪」
 憂鬱な顔で、ぽつりと呟く。
 スタンの言った通り、嘘は一言もついていない。初めから最後まで本心で喋った。マルレインのことが好きだというのも本当の気持ち。だが、やはり欺くために吐いた言葉は舌に苦い。やっぱり自分も魔王なのかもしれないと、少し嫌な気持ちにもなる。
「くよくよ悩むな。結果的にはおまえの願った通りになった。……おまえの願いはあの小娘も女勇者も幻影魔王も、そして……余のことも救った。余はそれこそが『正義』であると信じていたいな」
 だが、とスタンは一つ唇を歪める。
「きっとあれは世に言うところの『八方美人』という奴だろうな」
 ルカはまたしゅんとする。
「……しかし、余は好きだ」
 ルカは誰にも悲しみを与えなかった、傷もつけなかった。優しさなど、本来は自分の嫌うところであるはずが。ルカの優しさは自分だけ向けられるものでなくとも、嬉しくて心地が良い。共に魔王であっても、ルカには邪悪は似合わないのかもしれないとふと思う。いいではないか、光と影。余は影ならば、ルカは光で。眩しいくらいで丁度いい。
「おまえはそれで良いのだ。おまえのやりたいようにしておれば。少なくとも余はおまえの願いを叶えんとして動くことに、何ら不満を感じてはおらんのだからな」
 ルカは、しっかりとスタンの首に掴まった。
 僕が僕として、僕らしく在るために、魔王の存在は欠かせないのだとルカは思う。「僕と魔王」は、その証明となる括りなのだと、もう一度考えて、罪深き幸福を味わう。
 誰も一人では生きていない。自分に影を作る太陽の存在が必ずそばにある。影が無ければ幽霊も同じ。実体を持つ者には、側に影を作り出す光が不可欠。そしてルカにとってそれはスタンなのだ。
 その人のことを愛する。それは自然なことだ。




 激しい咳をようやく収めて、ロザリーは目に涙を滲ませ、ルカを抱いて消えたスタンの立っていたところを、悔しそうに睨みつけた。
「……ッ、ああああっ、悔しいっ、悔しいっ、キー悔しいっ!」
 じたばた、じだんだ。
 暴れてはみるけれど、しかし言うほど悔しい気持ちでいっぱいというわけでもないのは、寧ろスタンのことを本当に斬ってしまったのではなくてよかったという安堵感からだろうか。
 レイピアを突き出したときには、身体を支配する『勇者』の正義感にただ忠実だった。目の前の邪悪なるスタンをこの世界から抹殺することが、全てに幸福を齎すと信じて。無理矢理に一つの方を向かされていたのだ。「分類」の力によって、目の前にあるものしか見えなくなっていた。ルカの望むところが何か、判かりかけていたのにだ。本当にスタンを斬ってルカを救い出しても、さっき見たように何一つとして解決はしなかったのだ。
 きっとマルレインは前よりも深い悲しみに苛まれることになっていた。
「……マルレイン、大丈夫ですか?」
 口を覆っていたハンカチを外して、うん、と頷く。
「そんなに怒らないで、ロザリー。……ルカが行きたいって言って出て行ったんだってこと、判ったから。もう……」
 ちょっと悲しげに、微笑む。
「それにあなただって、あの人を倒したんじゃなくてよかったって思ってるでしょ?」
 思っていたところを言われて、ロザリーは言葉に詰まった。
 「好き」という気持ちは、自分のためにあるものではないと、マルレインは気付いた。理想的な「好き」は、好きな人の幸福を願うその気持ちに篭められているのではないかということに。そう思うのは難しい。どうしても、自分が幸せになりたいから、「好き」はその人を側に置くことであると錯覚してしまうし、そう思いたいものだけれど。
 自分はルカが好き、その気持ちにもう嘘偽りも無ければ正義も悪も無い。スタンが生きていて良かったと、心から彼女は思った。喉の奥にごつごつと痛い塊は生まれたけれど、大好きなルカが、スタンといることで幸せになれるのなら、きっとそれこそが自分の願ったことなのだ。
 そう思える自分でありたい。
「あの魔王が一番解かっていたのかも知れない……。どうするのが一番いいか……。だから、きっとこれが一番正しい結末なの」
 そう言って、マルレインは一つ、溜め息。ロザリーは何とも言いがたい、安心感や悔しさや苛立ちや充足の入り混じった表情をしていたが、やがてそれら全てが纏まって、彼女もまた、疲労感の伴う溜め息を吐いた。
「……マルレインが、そうおっしゃるなら」
 でもまだ、未練たらしく言う。
「マルレインが、そう、おっしゃるなら、今日のところはあのアホ魔王、勘弁してやりますわ」
 まるで、自分はまだ納得していないのだと、言わんばかりに。
「あなたにも迷惑をかけてしまったわね」
 ロザリーは慌てて首を振る。
「困っている子を助けるのが私にとっての正……、いえ、私の、生きる道ですから。私は私の信じた事をしたまでで、迷惑だなんてとんでもない」
「ありがとう。……でも……」
 マルレインは俄かに表情を曇らせて、ロザリーの足もとを指差した。
 それにつられて、ロザリーも自分の足もとを、見て、
「か……ッ」
 見る見るうちに、般若の形相となる。
 彼女の座るところにあったのは、元のとおりの、ピンクの、蛍光ピンクの影だった。
「……あ……、あんの馬鹿スタンッ……」
 正義がどうのと言葉を並べるだけで人畜無害に消えるようなスタンのわけがない。そんなこと、自分が一番知っているはずなのに。
「ゆ、ゆ、許せんっ、……馬鹿にしてッ」
 すっくと立ち上がる。
「あ、……」
 そうして、マルレインが制止する間もなく、部屋を飛び出して行く。勇者の道には「魔王を倒す」行為は限りなく忠実。ではあるけれど。
 結局、元に戻ったようなものだ。微笑んで、マルレインも立ち上がり、階下で呼ぶルカの母の声に応えた。




 三十分ほどで城に戻ったスタンとルカを待っていたのは、メイクが崩れかけたエプロスだった。
「生きて……、何故……、生きて、……ほんとうに、……ハハッ」
 これほど取り乱すエプロスの姿を、スタンもルカも見たことは無かったから、面食らうのも仕方の無いこと。三十分後に落ち着きを取り戻す頃には、アイシャドーもファンデーションもぼろぼろに。一呼吸置くために席を外し、化粧を落として戻ってきた顔は、優しい顔の青年。二人ともノーメイクエプロスは初見であり、五分ほど見つめてしまい、然る後にエプロスからキスリングとリンダは意気消沈して帰って行ったという旨を聞いた。
「……途中であのうどん勇者とすれ違うかも知れんな」
「……何故。また来るのか」
「影をピンクにしてやったからな」
「……どうして君はそういう……」
「さっき子分にも言ったのだが、おまえたちには魔王らしい点を要求するぞ。そんなことでは偉大なる余の腹心として恥ずかしい」
「私はそんな君の腹心であることが恥ずかしい」
 しっしっ、と、散々撫でられ抱きしめられ、くしゃくしゃになった髪を手ぐしで整えて、スタンは手を振るった。
「ご迷惑おかけして、すいませんでした」
 ぺこり、ルカが頭を下げて謝る。何だか今日は謝ってばっかりだなと、複雑な気持ちで思った。しかし勿論、謝って済むうちは幸福なのである。
「なに、……私は別に。我が侭な主君を持つとお互い苦労する」
「ふん、そのとおり余は我が侭だ。これでこそ大魔王」
 幻影ニセ魔王エプロスは、少し赤い目を瞬かせて、はー、と俯いて、微笑んだ。
「本当に……本当によかった」
 その言葉を発する唇が、紡ぐ舌が、悦んでいる。これほど快楽を伴う言葉はそうはあるまいと、エプロスは思った。
「キサマがそこまで気を揉むとは思っていなかったな」
「だって私は……」
 エプロスは首を振る。
「私は……、君たち二人を側で見ていたい、側で見ていて、幸せな嫉妬を味わいたいのだ」
 スタンは唇を歪めて、
「変態か」
 しかし、表情は満更でもなさげ。
 なんと言ってもらっても構わない、エプロスは嬉しそうに微笑んだままだ。その微笑みにルカは、この人ひょっとして僕と五歳くらいしか違わないんじゃないかと思った。メイクを落とすと意外なほどに幼い印象を与える顔だったのだ。
「君たちには幸せになる権利がある。誰にも邪魔されずに、幸せになっていい。君たちほど愛し合っているのに、どうして幸せになってはいけない法があるだろう」
 やや大げさとも取れる言い方に、ルカは赤くなる。エプロスの前では以前から一応の「公認」を得ていたから、此処まで言われても仕方は無いが、それにしても今日だけでロザリーにリンダにキスリングにまで、「ルカは邪悪な大魔王と恋仲の同性愛者の地味な少年」というレッテルを貼られてしまったわけで、ルカでなくとも恥ずべきところ。エプロスは羨ましそうに幸福そうに、化粧ッ気の無い本当の気持ちとして言うから、ストレートに胸に響く。幸せすぎて、恥ずかしい。
 誰かの幸せのために考えて考えて、答えは出なかったけれど、結果オーライでもこの場合良かろう? エプロスはそう思って、微笑みがとまらない。歌の文句ではないが、正義が救うことは出来なくとも、愛は救うのだ、間違いなく救うのだと、冷静さをやや欠いて全ての生き物に喧伝したい気分にさせられる。魔王と少年の恋愛物語は、少年そのもののごとくに、ささやかで地味、ありふれたものだ。しかし、特別でなくても、純粋にお互いのことを好きだと思い、お互いを尊重し、誰も傷つけずになれる幸せの方法を模索するという、彼らの一連の行動が、何より素敵とエプロスは信じる。そうして、興奮気味に、自分の幸せも知るのだ。その幸せの一欠けらとしてある自分の存在を確かに感じて。
「私は……」
 エプロスは去り際、額に降りかかる金髪を邪魔そうに書き上げて、言った。
「……いや、私がこんなことを言うのも妙な話だが。……私は君たちの何でもないのに、しかし、君たちの幸せを間近で目の当たりにする、このポジションを与えられたことを何よりもの幸福に思う。……答えは出せなかったが……、必死に考えた褒美かもしれない。ありがたく受け取っておこう」
 静かに閉められた扉、スタンはやれやれと溜め息一つに、玉座に腰掛けた。
「ほれ」
 ぼーっと突っ立っているルカに、玉座の上に横柄な態度、手を広げる。ルカはうん、と頷いて、そこに座る。
「……城を補修しなくてはならないな」
 天井には、染まりつつある空が大きく覗ける穴。陽光差し込む漆黒の間というのは、何処となく間の抜けた印象が在る。
「うん……」
 精神的にかなり疲労して、スタンに寄りかかったルカはぼんやりと頷いた。さきほどから少し眠そうな子分の目に、勿論気付いているスタンは、穏やかな呼吸と同じリズムで、少し伸びてうるさい感じもするルカの髪を、柔らかく撫でる。
 今、こうやって当たり前のようにルカを膝の上において……、当たり前のようだが、それは違う。特別なことだ。敢えて言うならば、オーディナリー・デイズにこそ、幸福な飴玉で、それは呆けて包みを開くことをしなければその甘さを味わうことも出来ない。意識すれば、いくらでも甘くなるのだ。幸せな日々は、いつ終わるとも知れない。これからも、いつまで続くかは判らない。永遠を求めはするけれど、いつかは「いつか」ではなく、必ずやってくる約束の時だ。そのときのことを考えれば、胸が張り裂けんばかりに辛い。しかし、それを意識していれば、今、至上の甘さを感じることが出来る。
 ルカはとうとう眠ってしまった。
 自分の中の命、決して手放したりなど……。
 太股に与えられるルカの体重、痩せた少年五十キロ。安心して、どうぞ幸せな夢を見てください。いま、自分はそれ以外の何も望まない。すうすう、規則正しい寝息。素敵な睡眠を。
 世界で一番駄目な魔王になっている、稀有な幸福に身を存分に浸しながら、スタンは恋人の身体が、外から吹き込んでくる風で冷えることの無いよう、力を篭めずに、包み込んだ。
 終わらなくて良かった。スタンはただそう思うことだけで時間を過ごしていた、この子供と過ごす時間が終わらなくて本当に良かった。滑らかな体温に、緩やかな呼吸に、安らかな重さ、既に慣れ親しんだ自分のものになっているそれらと、別れることだけを恐れるようになっている自分に気付いていて、そしてそんな自分を持つことの大切さを、心からありがたく思う。

 どんな夢を見ているのか。心配事がなくなって、ゆっくり、気の行くまで、都合のいい夢を見るといい。おまえの見ないような勝手な夢でも、余は叶えて見せるから。そうして、結局贅沢をしないで、天井の空いた玉座の間を直すことすらも、おまえは余の労力を思って躊躇うのだろう。広いベッドいっぱいどころか、余の膝の上の、お世辞にも広いとは言いがたいスペースで満足だと、おまえは言って、困ったように微笑むのだろう、内心に、これでも僕には広すぎると隠しながら。

 スタンは細い肩から体温が奪われることをただ恐れて、その肩を手のひらで包み込んだ。すう、すう、静かな寝息の乱れることの無いように、優しく、そっと。自分の手がこんな動きをすると、思ったことも無かった。

 ただの男、ただの男だ。派手さのないこの子には、ただの男の自分が一番似合っている。

 身じろぎもせず、ルカの身体を包み込んで、一時間。

 

 

 

 

 ルカが小さく声を上げて、目を覚ました。愛らしいあくびを一つして、ぱちぱちと瞬きをする。自分の肩が温かいてのひらに包み込まれていることを始めて意識する。

「……スタン……?」

「目覚めたか?」

「……ありがとう。……僕、どれくらい寝てたかな……」

 その声音に、

「十五分程だ。よく眠れたか?」

「それだけ……? そう、うん、眠れた」

「そうか。それは良かったな。……寒くないか?」

 こくり、ルカは頷く。

「スタン、寒くないようにしてくれてたんだね」

「まあ……、ああ」

「スタンは寒くなかった?」

「……おまえが、温かいからな。だが、じき日も落ちる、長い時間ここにいては風邪をひく」

 自分は無論、そんなことにはならない構造の身体をしている。ルカがひいてしまうことを、ただ恐れるのだ。

「じゃあ……、部屋行く?」

「うむ。余は喉が渇いた。紅茶を入れて飲むぞ」

 ルカがすとんと軽い靴音でスタンの膝から降りる。スタンはしばらくそのまま、堪えるような顔で自分の足を見ていたが、やがて意を決したように立ち上がり、ルカを抱き上げて浮かび上がった。

「え、え、お城の中なのに、飛ぶの?」

「……悪いか」

 感覚の無い足をだらんと下げて、飛んでしまえば一分もかからぬ部屋に入り、楽な姿勢に座る。この頃には、鈍いルカにも当然、スタンの足が酷く痺れている、そしてほかならぬ自分のせいであるということくらい、気付いている。ルカは申し訳ない気持ちに苛まれながら、お茶を入れる。スタンは、ルカに申し訳ない気持ちをさせてしまったことを、悔やむ。これくらいの痛苦、耐えられぬ自分では、ルカを幸せに出来ないのではないかと極端なところまで話を進めてしまう。

 広大なベッドの脇のサイドボードに、スタンのお茶を置く。スタンの好みはもう覚えた。砂糖もミルクも、多めに入れる。それは、ルカが最初にお茶を飲んだときに、彼がそうしていたから。ルカは気付いていない。少女趣味な魔王もあったものだと皮肉る心の中の自分の唇の端の、どうしても堪えきれない優しい微笑みを可愛いとすら思う。

 同じお茶を並んで飲む、カップは黒く禍々しくとも、甘い。

「……スタン」

 ルカは濡れた唇を舐める時間を挟んで、

「ありがとう」

 カップの中の穏やかな色をじっと見ながら、スタンは一つ「うむ」を無愛想に返事をする。

「ほんとうに、ありがとう。僕のことを、僕の周りの人を、僕の幸せを、守ってくれて、ほんとうにありがとう」

 また一つ、無表情のまま、「うむ」と言って、スタンははっと顔を上げる。

「誤解をするな。おまえのためではない、余が自らの幸せのため、ただそれだけのためにしたことだ」

 そうして、内心ではっとして、歯切れ悪く、

「だが、余が、幸せになる、その隣りにおまえがいて、……おまえが余と共に幸せになることは……、余の幸せがおまえの幸せに繋がっておるのであれば、……それは別に、構わぬ。感謝されるようなことではない。……うむ」

 スタンがカップを置くのを、ルカは待っていた。ルカは自分のカップを既に置いている。スタンはルカが自分のカップを置くことを待っていることに気付いている。気付きながら、なかなか動き出せないで、まるで少年のように胸を高鳴らせながら止まっていた。きっとルカも、自分の気恥ずかしい鼓動を聞いているのだと思う、本当に、何て初々しいんだろう自分たちは。恥ずかしいくらいの純粋性。顔を赤らめたって可笑しくない。

 スタンは、かちゃんと出すべきではなかった音を出して、カップを置いた。

 ルカが、掠れた声で問う。

「……君のところへ、行ってもいい?」

「苦しゅうない」

 間髪入れずに言ってしまったことが恥ずかしい。それでもルカは気に留めず、スタンの隣りに座り直す。黒衣がジーンズにぴったり寄り添うと、二枚の布には、二人が無意識に押し合う力と、あるはずの無い引張力が働くように思える。まるで、重なり合って在るのが自然であるかのように。離れているのはうそであるように。五十キロの体重は、常に魔王の膝の上にあるのが本当なのだ。二人は、決して離れられない。離れたくもない。そういう宿命にあるのだ。そういう宿命にしたのだ。「永久の誓い」なんて、歯の浮くようなフレーズを二人同時に思いついた。

 僕と魔王、なんて自然なフレーズなんだろう。「と」があって、それが当然。口にしてみるといい、すごく滑らかですんなり発話出来るはずだから。

 ルカは何も言わず、仄かに頬を染めてスタンの膝の上に、向かい合わせに座り、スタンの頭を抱きしめた。猛々しい金髪を頬に感じ、はあ、一つ、搾り出すように息をする。スタンもルカの髪に触れて、ただ指先を踊るだけの感触も愛しく感じ、胸が苦しくなる。

 何も言わなかった。ルカは真正面からスタンを見つめた。ルカはスタンの目に捕らわれたような気になる。スタンも同様に、その大きな瞳に吸い込まれ、閉じ込められたような気になったことを、ルカは知らない。

 ルカが自分から唇を寄せた。

 予想の範囲内であったはずのスタンでありながら、一瞬どくりと血が体中で動きを止めたのを確かに感じた。

 まるで、もう自分には存在しないはずのぴちぴちと瑞々しく、そして反吐が出るほど困難で、地に埋もれるほどに疲れる、青春という人生の季節に自分が舞い戻ったかのようだった。覚えたての子供のように何度もキスをして、そのリズムが疎かになる頃には二人は一枚の布にも遮られないようになる。其処にある体温、底にある体温、火が火を呼び寄せるように、一つになる、そこには、光と影のように切り離せない一つだけのものがあるだけだった、誰もそれを認めたがらなくとも、少なくとも自分たちにはそれが本当なのだ。それを裏付けるための挿入であり、それを証明するための射精だ。生殖のためではない性交に意味を見出すとしたら、それはただ一つ愛に他ならず、愛以外の何のためにも、自分たちのこうする機会はもうやってはこないと思う。震えた声で呟く、あるいは叫ぶ言葉は、乳児のそれのように瞭然としなくとも、あらゆる神聖なるものの言葉よりも本当だ。そしてそれは自分たちに一番似合った響きだ。

「君と永遠に生きていきたい。君を永遠に、僕は愛して続けたい」

 ルカは呼吸の整わないうちに、そう言った。スタンが何とも返答出来ないでいると、なおも言い募った。

「君の側にいて僕は初めて、本当になれるような気がする。嘘かもしれないけど、きっとこのことを信じたい気持ちはずっとずっと抱きつづけていくことを僕は誓う。僕は、他にことばが無いからこのことばを使うけど、僕は君のことを愛してる。君のことをいままでも、これからも、愛していきたい。『愛する』気持ちを僕が贈る人は、君以外にも今までもこれからもきっといて、あるいは、いなくなる。だけど、君を僕は永遠に、愛して生きていきたい。君と一緒に、これからずっと、暮らしていきたい」

 ようやく呼吸のスピードを緩めた。

「スタン、僕は、君と別れたくない」

 目に涙を浮かべて。

「僕は君を置いて死にたくない、君が僕の死ぬことを悲しむかどうかはわからない、だけど、僕は心から君の死ぬとき、一緒に死にたいと思う。君と一緒に……」

 ルカはそう言って、スタンの動きつづける心臓に額を当てた。

 

 

 

 

 永遠に続けていく。誰がそれを許さなくとも、自分たちがそのルールを構わないと言ったのならば、それはそれで構わないのだ。翌朝ルカにそれを聞かされたエプロスは、複雑な心境をそのまま顔に描いて、やがて困惑して、

「それでは……何か、私は……、何か、ええ、おまえたちを延々見せられながら生きていくというわけだな。悪くない、むしろ喜ばしいが……、何だろうなこの、なんと言うか……、うう、誰かに助けを求めたいような心持は」

「あ、あの、でも、ええと……、僕も、エプロスさんが幸せになれるように、何でもするつもりです。エプロスさんが僕たちの為に、悩んで、苦しんで、戦ってくれたことを、僕は絶対に……絶対に、忘れません。僕はエプロスさんのこと、大好きです」

 ずっと哀しいような顔をしていたエプロスは、最後の言葉に、はっとして、美しい微笑を浮かべた。

 エプロスがルカの頭を撫でてもスタンはもう怒りはしなかった。

「そうか……。私もおまえたちのことが大好きだよ。……うん、そうだな、おまえたちに延々先まで、霞むほどの先まで、尽くしていけるのであれば、それほど幸せなことはない。私はそのためだけに生きても良いとすら、思えるな」

 ルカは魔王になった。……名前なんていいよう、ルカは眉を八の字にしてそう言ったけれど、どうしても「なんとか魔王」という名称で自分との連帯整合性を作りたかったらしいスタンは言い張った。

 結果的に、ルカにつけられた名称は「子分魔王」。スタン自身が「親分魔王」だからというだけの理由で。「愛情インフェルノ」の一件にしてもそうだが、スタンには命名癖があるようだ。稚拙な趣味であるし、それに付き合わされてことごとく恥ずかしいようなものを背負わされるルカは災難だが、それにも何十年と経過すれば慣れていくのだろう。

「だが……、ルカ。魔王になってこの先もずっとスタンといられるということは、私も心の底から祝福するが、おまえの家族や、女勇者や、マルレインにはどうやって説明するつもりなのだ?」

 ルカは、影の無い微笑。

「説明します。説明すればきっと、わかってもらえると思います。僕たちは僕たちの関係を解かってもらえたから。時間はかかるかもしれないけど……、何とかなりますよ、きっと、うん。僕たちは……この考えが間違ってるか合ってるかはおいといても、僕たちは僕たちの信じる明日のためなら、どんなことだって出来ますから」

「……だが、おまえたちは……、こういう言い方は私としても気恥ずかしいが、結婚、したような、ものだろう。然るにルカ、おまえはまだ十七であって、結婚にはまだ……」

「ええ、ですから、結婚はしてません。スタンとは、まだ『約束』しかしてません。二十歳になったら、おとーさんにもおかーさんにも、感謝して、僕は本当に僕になります。そして……ずっとずっと、ずうっと、スタンと一緒に生きていきたいんです」

 言うようになったな、エプロスはその意志力溢るるひとみに気圧されて、やっと頷いた。

「……そうか。そうか、では、うん、私としても案ずるところなど何も無い。……スタン」

 普段どおり、五十キロを乗せたスタンに、

「私は今まで通り、君たちを守ろう。同じほどの長いときを、私も共有しているつもりだからな。そうする勝手を許してもらおう」

「ふん……、好きにするがよい。但し、余のルカに、あまりしつこくべたべた触れることはまだ許さんぞ」

「……まだって。別にそんなこと許してもらわなくともいい。私は君たちの幸せを傍観しているだけで十分なのだからな」

 スタンはじっとエプロスを見つめ、それからルカの後頭部を見つめた。ルカの表情まで窺い知ることは出来ない。

「……昨日も言ったが、今回の件でのおまえの働きはには満足しておる。……だから……、まあ、うむ、まあいい、下がれ」

「……? うん、承知した」

 エプロスはふわふわ浮いて、退去して行った。

「しかし、あと三年か」

 スタンは独り言のように呟いた。

「二十歳だからね」

「……うーむ……、さすがにその頃にはもう……」

「なに?」

「……いや、その頃にはもう、おまえの……その、何だええと、……け、毛も生えそろっているのだろうなと……」

「……」

 ルカは俯いて溜め息を吐いた。

「そんなに毛、イヤなの?」

「……いや、そんなにってことはだな。無論、おまえの毛である異常はそんじょそこらの毛とは異なり、ただの毛であろうとも縮れ具合も最高でまさに毛の中の毛と言うべき毛ではないかと……」

「……」

 何だかちょっと、情けない気持ちになる。

「……じゃあ、いいよ」

 ルカは諦めたように言った。

「スタン、僕を若返らせることって出来る?」

「……若返らせる? おまえは今でも十分すぎるほど若かろうが」

「うん、でも……、出来る?」

「……余に不可能なことは無い。余が齢四百を越えながら、この若い肉体を手にしているのは、まさに若返りの術を用いているからに相違ない」

「じゃあ……」

 ルカは、何やってんだろ僕、苦笑しながら、しかしあっさりと気持ちよい甘さが口に広がるのを感じていた。僕がスタンにさせられる苦笑、悪くないんじゃないかと思った。

「二十歳になって、僕がもっと大きくなって、それこそおちんちんに毛が生えたりしたら、その時、僕のことを今の僕の姿に戻せばいいじゃない? いや……十七歳でなくっても、君が好きな僕にすればいい。それこそ、もっとちっちゃい僕がイイって言うなら、君の好きにすればいい」

 言われて、スタンはじいっとルカの顔を見つめてしまった。

 今よりもっと小さいルカ。

 ……ちんちんもちっちゃくって、ぷにぷにで……。

「スタン?」

「お、おお、うむ、……ま、まあ、先の話だからな、その時考えることにしよう」

 ……ぷにぷに。

スタンはこれから長い日々のことを考えて、なんだかたまらない気持ちになるのだった。


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