世界図書館は、ユートピア回廊と呼ばれる、オバケこそ出現しないが、一歩間違えたら谷底へ真ッ逆さまという不安定な足場の地域を通過したところにあるわけだが、そこを既に二往復しているルカたち一行である。
「予想以上に手強い、我々はもっともっと経験を積んで、ルカ君に頼らずとも激戦を勝ち抜ける体力を付けなければならないね」
キスリングの言葉に、みな頷く。いつものごとく、ルカの背中から影を伸ばすスタンが、元魔王・勇者・少年の混成軍を見下ろして、偉そうにフンッと鼻で笑った。
「脆弱な奴らめ。どんな敵が出てこようとも、余の一撃で瞬殺出来るではないか!」
「ふむ、確かに君とルカ君の『友情インフェルノ』は強力であることは認めるが、あれを多用するのはルカ君の消耗が激しすぎるよ。あれはイザというときまで取っておいて、普段は我々で何とかしたほうが、効率よく探索が出来ると思うのだよ」
「そうそう。大体あんたは後ろから適当に攻撃してるだけじゃない、ルカ君は身体張って戦ってるんだから、文句言う権利はないわよ」
キスリングとロザリーに口々に言われ、主に後者の一言にかちんと来たスタンだったが、
「でも、アニキのあの大技は流石ッス! あれとルカの体力さえあればどんなオバケも怖くないッスよ!」
という、ナイスタイミングで出たビッグブルの一言で、事態の悪化はすんでのところで回避された。
「で、どうするんですかー? 何で戻ってきたんだったっけ?」
「うん、そうだね、とりあえず『インフェルノ』の度に使いまくってしまったから、木の実が底をついてしまう。野イチゴのストックも心許ない。幸い、図書館のオバケたちはずいぶんとスーケルを溜め込んでいたから、お金はたんとある。ルカ君、トリステの道具屋に行って買い込んできてくれるかい? 準備が整ったら、……そうだね、時間も時間だし、一休みするのも一つの戦略、英語で言えばタクティクスという奴ではないだろうかな」
見た目はエキセントリックながら、内面は一応まともなキスリングの一言に、ルカは何となく頷く。以前、大樹のウロを目指した際には「早く行くのだ行くのだ!」と言って聞かなかったスタンも、今回はもう目の前に、凹ませるべきベーロンの牙城があるとあって、心を広く持っている。
「じゃあ、決まりね。今夜は一晩ゆっくり休んで、明日こそあのカビくさい図書館の仕掛けを全部解いて、ベーロンを倒しましょう」
ロザリーの一言に、みんなが頷く。そして、各自、ちりぢりにハイランドの町へと散って行った。
「……不満だ。なぜあのレベルは上がっても頭の中身は変わらない女勇者と酢酸臭学者なんかがイニシアティブを取って居るのだ……。やいルカ、だいたいキサマがもっとバンバン前に意見を押し出して行かんから余の偉大なる意見まで軽視されてしまうのだぞ! おい聞ーてんのかコラ!」
歩きはじめる、ぱんぱんに膨れた財布をポケットから出した、その瞬間に、ばん、スタンの手に頭を叩かれて、
「あ……」
膨れ上がった財布が、しゅるり、ルカの手に嫌な虚無感を残して、がけの下へと、音も無く自由落下していった。
「……」
言葉を失ってつり橋の柵に手をかけて、財布を目で追う、が、どんどん小さくなっていく財布は、どこまでも果てなく重力に従って落ちていく。ニュートンに逆らって、再び浮かび上がってルカの手元に戻ってくるという奇跡は起こらない。
「お、……おまえという奴は……」
ことの一部始終を見守っていたスタンが唖然とした声で言う。
「……ど……、どうしよう……」
「ど、どうしようもあるかボケ子分!」
「スタン、伸びて取って来れない?」
「何百メートルあると思っとるんだ……、この崖」
「……」
いやな汗が、ルカの背中に浮かぶ。珍しく、スタンの顔も引きつっている。
十五万スーケル入った財布を落としてしまった!!
茫然自失となった少年と魔王は、十分ほどその場から身動きが取れなかった。十一分後、ルカがスタンに口汚く罵られながら、うなだれて、つり橋を渡っていくのを、見ていたものが一人だけいた。腕を組んで、何ともいえない、苦笑を浮かべた彼は、ため息交じりで上空から降りてくる。
「……ルカ」
空から声がして、見上げたところからふわりと降りてきたのは、歯車タワーでルカ一行に打ち負かされて以後、貴重な戦力として加わった元・幻影魔王こと、エプロスだ。不安定な足場に戦々恐々としながらユートピア回廊のアーチを渡るルカたちを尻目に、浮遊する術を身に付けている彼は、足を滑らせる心配もない。ルカ・ロザリーと共に、戦列に加わって以後、第一線で戦いつづける彼も、ルカ同様疲れているはずだが、その化粧をした顔からは疲労を感じさせない。
「……どうするつもりなのだ」
「ど、どうするって? な、な、なんのことでしょう」
「隠し果せると思っているのか。財布を落としてしまったのだろう」
さほど洞察力の鋭くない者でも、ルカの顔色から事実を汲み取ることは容易だ。エプロスは、少し笑った。ルカはしょんぼりと頭を垂れて、「どうしよう……」と。
「……ロザリーさんにバレたら怒られちゃう……」
「だろうな。彼女も私たちと共に、前線で戦って稼いだ金だから」
「……しょうがないから……、これ、売って少しでもお金になれば、とりあえず明日の分の木の実くらいは、買えるかなって思ったんです」
ルカは剣を目の前にぶら下げた。トリステで買った、かなり高価な剣である。ややくたびれてはいるが、なるほど、売れば大きな木の実の何十個かは十分に購入できる額になるだろう。が、エプロスは首を振った。
「それを売り払って、お前は明日からどうするんだ」
「余り物の剣がありますから。それを……」
「鈍い剣で戦い抜けるほど、世界図書館のオバケが甘くないことは理解しているはずだろう。そもそもお前の剣も新しく買い換えたほうがいい。弱い剣を使う余裕などない」
十五万スーケル自由落下のショックはスタンにとっても大きいのか、くたびれたような声で、
「だったら……、どうしろと言うのだ」
と、ふんぞり返る元気も無く言う。
エプロスは腕を組んで、太陽の向きを確かめる。
「……世界図書館にもう一度行って、オバケどもから稼いでくるのが一番手っ取り早いだろうな」
「え……、僕たちだけでですか?」
「彼女にバレたくはないんだろう? 私もいる、二人でならばどうにかなろう」
「……」
「では、決まりだ」
エプロスは、ルカとスタンが同意する前から、ふわふわ浮かんでユートピア回廊を先導する。
死せる月、呪われた絵、主なき魔剣といったオバケたちを、スタンとルカの『インフェルノ』で蹴散らす。蹴散らした跡にはずっしりと重たい金貨袋が残る。消耗した体力は、入り口付近の「本」で補給する。この「本」に触れると、何故だか力が湧いてくるのだ。
スタンの魔力の備わったルカは強い、加えて、エプロスはどんなに危険そうな戦線に身を踊り入らせても、巧みな体裁きで掠らせもしない。二人プラス約一名は、薄暗くかび臭い図書館で地道に戦闘を続けた。
「……ッ、ルカ!」
「わあ!」
「ティールッ!!」
「あ、あ、ありがとうございます……」
「気にするな、またすぐ来るぞ!」
悪い人じゃないんだな。ルカは過程を経て、エプロスへの認識を少しずつ改めていく。体は間違いなく疲れていて、そのせいか二度ほどひやりとする場面も合ったが、いずれもエプロスがルカを護ったのだ。
重たい金貨袋をいくつも抱え、戦士たちが帰途につく頃には、回廊も紺色に包まれていた。エプロスは片手に金貨袋をぶら下げながら、危険の無いようにルカの手を引く。スタンは疲れて影から出てこないため、文句も言いには来ない。
「十五万拾い集めるのは無理にしてもだ」
袋の中の金貨を大雑把に数え、エプロスがにやりと笑う。
「半分くらいならすぐに貯まる。彼女たちも細かい金額までは、わざわざ覚えてはいまいよ」
「……すみません……」
「構わん。私はお前の力が知りたいから同行しているだけだ。目的を達するために、いまはとにかく木の実を買う金が必要だから協力しているだけだ」
それよりも、とエプロスは微笑んで言う。
「よく頑張ったな、おまえのような若さで」
ルカは、照れくさい気持ちを顔に出さないようにして、しかし結局頬を染めてしまい、小さい声で「ありがとうございます」、と。
「あの……、エプロスさんは、おいくつ、なんですか?」
「……私か? 私は……、さあな、数えていないから。案外もう老人の域に入っているのかも知れんし、あるいはおまえと変わらないのかも知れないぞ」
ぽかんとしたルカの顔が面白くて、エプロスはふっと笑った。
「まあ……、おまえより少し上と言っておけば間違いは無い」
あいまいに頷くルカの頭をくしゃっと撫でた。
買い物を終えてルカたちがトリステから戻ったのは、日もとっぷり暮れた後で、他の仲間たちはルカがいないことをうすうす感づきながらも、何も問題視することなく夕食を終えていた。残っているのは、ビッグブルが食い散らかした肉の破片と、冷えたスープと硬いパンだけだった。
「あらルカ君、帰ってきたのね、お帰りなさい」
ロザリーもそんな風に素っ気無い。ルカは気を悪くすることも思いつかず、「遅くなってすみませんでした」と頭を下げる。
「ちゃんと買えた?」
「はい。大きな木の実を四十個と、野イチゴを二十個、ちゃんと買ってきました」
「そう、ご苦労様。じゃあ、明日も頑張りましょう」
と言って、さっさと部屋に戻っていくロザリーを見送って、ルカとエプロスは人気の無い食堂で、いい加減な夕食にありついた。味気の無いひんやりスープでパンを無理やり柔らかくして、肉の皿の端のソースを指に取り舐る。こんな無愛想な食事でも、腹が求めて止まないのは、都合二日分の戦闘をこなすという激務ゆえであるのは明白だ。
「エプ……、エプロスさんも」
余ったパンを片っ端から平らげそうな勢いのルカは、口いっぱいに頬張って、苦しげに言う。
「もっと、食べれば、いいのに」
エプロスは穏やかに笑いながら、首を振る。
「私はいいよ。それほど食の太いほうではないのでね」
「そう、なんですか?」
「ああ。だから気にせず食べるがいい」
じゃあ遠慮なく、といわんばかりに、ルカはがっつく。スタンは、『インフェルノ』の連発でさすがに疲れたのか、ルカの足の下でおとなしい。
こうして見ると、ごく普通の少年ではないか……。
エプロスはルカの食べる様子を見つめながら、物思いに耽る。こんな影の薄いだけの少年に……、どんな秘密が?
「あー、おなかいっぱい、食べた食べたー」
この世の至福、といった表情でルカは椅子にふんぞり返る。
「満足したか?」
「はい、とっても。おなかいっぱいって、幸せですねー」
ルカは屈託なく笑った。
「それはよかったな。……今日は疲れたろう、ゆっくり風呂に入って休むといい」
「はい。……あの、エプロスさん、今日は本当に、ありがとうございました。すごく感謝してます」
なんでもないように、エプロスは肩をすくめて見せた。このひとはこういう、気障なしぐさをしても気障に見えない、貴重なタイプなんだな、ルカはそう思った。
「気にすることは無い。私は私の興味に基づいて行動するのみだ」
言って、静かに去っていく後姿を、ルカは何となく見つめていた。
あれほどの激戦をこなした後だというのに、疲労の色を微塵も見せない。背筋はすっと伸びているし、汗もほとんどかいていないように見える。
「……んー? メシは終わったのか子分、遅いぞ」
足元からにょきにょき伸びてくる影とは、えらい違いだ……。
「む、なんだ子分その目は」
「……なんでもないよ。おなかいっぱいになったから、部屋に戻る」
「そうして、部屋に戻ったら風呂だ。余も、もちろん一緒にな」
ルカの頭をぐるりと通り過ぎ、逆さまの顔でルカを覗き込み、スタンは命ずる。
「ええ……?」
「嫌なのか? 嫌だというならキサマの秘密を……」
「あああ……、もう、わかったよ、入ればいいんだろ……」
「フン、最初からそうやって素直に言うこと聞けばよいのだ。……大体おまえ、そんな汗臭い身体で余の下僕という大役がつとまると思っとるのか。態度悪いぞ」
「……すいません」
スタンの趣味はルカいびりでありルカいじめである。ルカはどこぞの女勇者のように抗わないし口答えしないし、何よりスタンの好む身体をしていた。「ルカの夜を支配することから、人間の支配をはじめる」というのがスタンが内心に標榜する目下のポリシーであったが、状況は徐々に「ルカに支配される」という方向へ傾きつつあることは、密かに明らかであった。
「んっ、……スタン、……、スタン、痛いよぉ……」
「いい眺めだぞルカ、……クックックッ、本当に痛いのか? 痛いという割には命令してもいないのに指を動かして」
「んん……、っ」
「嫌らしい身体だな、子分。お前にはやはり、こういう方面への素質があったのだ。その才能を開花させてやった世に感謝し跪き永遠の忠誠を誓うがいいぞ」
寒々しいバスルームに、獣のように四つん這いになり、股の下から伸ばした手の指を二本、自らの肛門に押し入れているルカを、腕組みをしてスタンは満足げに見下ろしている。
十六歳として、「正常」な羞恥心というものを、徐々に理解し始めたルカである。当初は「自慰」の何が恥ずかしいのか、理解しかねていた彼も、スタンの命令に一つ一つ従っていくうちに、この行為の何たる恥ずかしいことかを、さすがに理解していた。
正気の沙汰じゃない、こんな、お尻の穴に指突っ込んで、四つん這いで……、その上、おちんちんこんなにしてるなんて! それにこんな恥ずかしい声、スタンは笑ってる、「淫乱」なんて言葉を使って……。
しかし、こんな行為を、自分の身体は「気持ちいい」という反応をする。秘められた場所を晒し痛みを感じるはずの場所を抉るという行為も、「恥ずかしい声を出している」「見られている」からこその、快楽が生まれる。そんな心の歪んだ論理がそもそもおかしいのだと、解っているルカだったが、止められないのだ、この指は、この声は。そして、なおおぞましいことには、いま自分は「逆らえないで」しているのではなく、「逆らわないでしている」のだという、薄い自覚があるということだ。「快楽」を求める気持ちが、心の何処かで存在し、花を咲かせている、なるほど確かに、「素質」というものも少なからず在ったのかもしれない。
「スタン……っ」
「んー?」
「もう……、もう、出したい……!」
「イキそうなんだな?」
「え……?」
「だから。精液出すことをイクというのだ。無知な子分め」
「ご……ごめんなさい」
「で、そうかそうか、いきそうなのか」
「……うん」
「構わんぞ、好きなときにいくがいい。但し触ったり撫でたり扱いたりすることは許さん」
「え、……ええ?」
「その指を咥えている卑猥な尻と、胸だけでいって見せろ」
「そ、そんな……」
「これは命令だ」
スタンに、こんな風に翻弄されるのは、不快なはずだ。いくら主体性のないルカであっても、人間であれば、自尊心というものが存在して然るべき、しかし、ここまで言いなりになれる自分というのは、やはり、スタンの言うとおりなのかもしれない、自分は、「淫乱」、なのかもしれない。胸の底がしくしく痛む。
邪悪な笑みが背中に降りかかるのを聞きながら、煮え滾る体の衝動に任せて、ルカは間もなく、解放のときを迎えた。
ルカは激しい後悔に駆られ、指を抜き去り、冷たいバスルームの床に身を倒した。切なげな呼吸、耳に届く、なんとも情けない小声は、本当に自分のものなのだろうか。だとしたら、どうしてこんなことになってしまったんだろう。やっぱり僕が悪いんだろうか。……僕の影が薄いから。
「クックックッ……、尻と胸だけでいってしまうとはな、見上げた淫乱だな、クハハハハ、それでこそ余の子分だ、誉めてやるぞ」
「……」
ルカは、燠のような身体の、デリケートな熱を冷ますのに必死だ。また新しい息を吹き込まれては叶わない。
「解っているな、ルカ。……おまえの主人は、誰だ?」
スタンはそんなルカの苦労などそしらぬふりで、横たわるルカの上に覆い被さり、聞く。ルカは、ようやくのことで身を起こして、その黄色い目から目を逸らして、「スタン」と呟く。魔王はこの上なく満足げに笑った。
徐々に悪の道に染まっていく僕。
罪悪感を覚えながらも、どこかで心地よい。バスルームの床を濡らす水は、排水口へと流れていく。そう、水はひくい所に流れるもの、人間もまた、同じ。それを快楽と覚えたなら、もう抜け出すことは出来ない。そう考えると、じわりと涙が浮かんでくる。しかし、この涙も、あるいはどこかで、喜んでいるが故の涙かもしれない。
「おまえは余のものだ、解ったな、ルカ」
スタンはそう言い放ち、足元の影に消えた。ルカは自分の影を見つめて、首を振る。
スタンのことが憎いわけではない、嫌いでもない、スタンと共に在る事で、いろいろなことを知ったし、自分も変わることが出来た、それは事実だからだ。しかし、自分が悪に染まっていくプロセスを自覚して、それに抗うことが出来ないというのは、非常に切ないのだ。どうしようもなく、低いほうへと流れていく水。せき止めることは出来ない。
誰かに相談した所でどうなる? いまやスタンは影でありながらも、強大な魔力をもっている。僕の体を使って、とんでもないことをしでかすかもしれない!
そんなことは絶対にイヤだ。ならば、僕が耐えるしか……。
そう思って、立ち上がろうとしたそのとき、ぱちん、指を弾くような音がして、浴室の電気が消えた。突然の出来事に、見事に足を滑らせて、床に尻をしたたかに打ち付けて、ルカは悶えた。
「つぁ〜……、痛っ、あー痛ッ」
尻を抑えて壁に額を当てて、声を出すことで痛みを回避しようとするが、その稚拙な試みは奏効せず、じんじんひりひり、もろに打ち付けてしまったところは痣になってしまったのかもしれない。
「ヒューズがとんだのかなあ……、悪いことばっかり……」
ルカはくしゃみをして鼻水を垂らし、それを手でこすっているうちに、真剣に泣けてきて、それを堪えるために、息を呑んで、手探りに脱衣所に降りてタオルを探した。もう、いいや、ゆっくり寝て、あとは忘れよう。明日になってもスタンがいなくなるわけじゃない、だけど、明日にはベーロンさんとの決着をつけて、そうすれば、スタンともお別れだ。
「タオル……、タオル、あ、あった」
手で、壁にかかっていたタオルを掴んで、ぐいと引っ張る。と、暗闇の中で、タオルが動いた。
「ひゃ!!」
「……濡れた手で触らないでもらおうか、ルカ。タオルはこっちだ」
「エプロスさん……!?」
真っ暗闇ながら、エプロスは的確に、ルカにタオルを掴ませた。タオルを手に、ルカはまだ暗闇になれない目で、いったいどこからこの奇術師は現れたのか、まさに驚天動地の大マジックを見せられたかのように、おろおろしている。
「派手に転んだようだが、尻は大丈夫か?」
「み、見てたんですか?」
「見てはいない、ただ、音を聞けば解る」
「な、なんでこんなとこに……」
「とりあえず服を着ることを勧めよう」
「は、はい……」
困惑の極致に陥れられながら、身体を拭き、
「パンツは右手を右斜め前四十五度の位置にある、シャツはその下だ」
エプロスの的確なアドバイスに従って、服を着ていく。寝間着に着替えたルカは、ようやく自分を取り戻して、ため息を吐いた。
「……びっくりしました、エプロスさん、なんでこんな所にいたんですか?」
壁に向かって話すルカに苦笑を漏らしながら、エプロスはルカの手を取った。
「あ、そっちに居たんですか……」
「ここでは落ち着かない、部屋に行こう」
手を引かれて、暗闇を分けて進む。
「足元に気をつけろ、……ここがベッドだ」
ルカは自分が座ってから、エプロスが壁際のソファに座った気配を感じた。
紳士だな……、このひと、何処かの誰かとは偉い違いだ……。
「あの……、それでエプロスさんどんな、御用でしょう」
「ああ、別に用というほどでもないのだが……、一言、言っておく必要があるかと思ってな。他の連中は気付いていないようだし……」
暗闇の中で衣擦れの音がする、足を組替えて、どんな素材で出来ているのかルカには解らなかったが、少なくともクリーニング代は高そうなズボンが擦れ合った音だろう。
「あー……、私の部屋には、筒抜け、だからな?」
「はあ、何がでしょう」
エプロスは暗闇の中でじっとルカの目を見る。
元魔王の目は、暗闇でも少年の、まだあどけさなさの残る顔を映し出していた。人であれ、魔王であれ、愛らしいものを好むところに変わりはない。ルカは、いわゆる見栄えのするタイプではない、だからこそ、こうまでも影が薄くなるわけだが、しかしよくよく見れば、どことなく中性的な、可愛らしい顔をしている、エプロスは観察しながらそう思い、そしてなるほど、これならば、と考察する。
「お前たちが浴室でしている行為の音は、全て私の部屋に筒抜けになっているからな」
「え……」
ルカは白く固まった。
「壁が薄いのだろうな、この宿屋は。部屋で横になって、何か面妖な物音がすると思っていたら、な」
エプロスは、また足を組替えて、言った。固まったままのルカに、構わず話を続ける。
「……うすうす感じていたことを言わせてもらうと、ルカ、お前には主体性というものがないのだな。川に流される小枝のようだ、あっちにふらふらこっちにふらふら、そういう生き方をしているように見える。その上そこに、魔王という激流が生まれてしまったから、完全に流れに飲み込まれているように見えるぞ」
ショックを隠し切れない表情のルカの、後ろを見る。この部屋の電気を消したのは正解だった。こんな説教……、説教のつもりはないが、スタンはそう取るだろう……を聞かされて、大人しくしていてくれるはずがない。
「お前が嫌だと思うことなら、嫌だと言えばいい。自分の意思で決めるのだ」
エプロスはそう言って、見るからに気弱そうな少年の顔を再び観察する。赤くなったり青くなったりをしばらく繰り返していたが、震える唇を叱咤するように噛み締めて、顔を上げて、エプロスのいる方を見て、言った。
「……うるさくしてごめんなさい」
エプロスは少し笑った。
「うるさくはなかったがな」
「……でも僕、主体性、出てきたと思います、昔と比べたら」
「昔はもっと酷かったのか?」
「いまは大体のこと、自分で決めるようになりましたから、だいぶましになったかなって……。だから、……その……、あの、ええとですねつまり」
歯切れ悪く言葉を探して、徐々にトーンが下がっていく。
「スタンと、あの、ああいう、いわゆるですね、ああいうことをしているのは、僕は、ただ流されているだけじゃ……なくって」
「では、お前がしたいからしているのか? それは違うだろう」
ルカはがくがく頷く。
「そうですそうです、僕がしたいからしてるんじゃないんです。スタンがしたがるんです。でも……」
眉を八の字にして、うかがうような目をした。
「……その、僕も……」
ごめんなさいごめんなさいと何度も言われているようで、エプロスとしては良い気分はしない。
「気持ち良い、ですし、スタンが言うには、年齢的にも、仕方ないんだって……」
「……そう、吹き込まれたのだな?」
「吹き込まれたって言うか……。なにも知らなかったから、スタンに教えられたことしか、知らないです。だけど、それしかなかったら、それが本当になりますし……、それに、ええと、何ていうんだろう……」
「つまりは……、嫌じゃないんだな? ああいうことが。ただ強いられてしているだけのことでは、ないと」
「あ、いや、そりゃもちろん、嫌じゃないってことは、ないですけど……、でも、ただ強いられているだけでもないような、気がします」
「……」
「あ、あ、あの……、ごめんなさい、何と言うか、その……」
暗闇の中でエプロスが動く気配を感じた。ルカはびくりと肩をすくめた。
最初に触れたのは、肩。肩に指が当たったのだ。それだけで、ルカは強い圧力に、ベッドに仰向けになる。
「え? ……え??」
目を丸くしていると、頬に冷たい手のひらが当てられ、微かに甘い薄荷の匂いのする息の匂いが鼻先に漂う。ルカは動転していると、さらにエプロスは、ルカの耳元に、
「え??」
ルカにとっては『なんかわかんないけどぬるっとしてて気持ちいいもの』、言うまでもなく舌を、這わせた。スタンは影でしかないから、こんな風に「実在の人間」にされることは今まで一度もなかった。だから、ルカは事態のどう展開していくかを、ただ翻弄されているほかない。
「エプロスさん……?」
震えてもいない、泣いてもいない、ただひたすらに困惑した素のリアクションで、ルカはたずねる。
「な、なにしてるんですか?」
エプロスは答えず、ルカのシャツの中に、ウエストから手を入れた。
「ひゃ!」
やたらと冷たい手に、ルカの身体が強張る。エプロスは構わず、ルカの脇腹を撫ぜ、それから乳首へと指を伸ばした。
「つ、つめたいですよぉ……」
ルカは、ほんの微かに身を捩っただけだ。
エプロスは眉間にしわを寄せて、手を抜いた。圧し掛けていた体重もどかして、ため息と共に、再びベッドに腰掛ける。
「……少しは……」
「はい?」
「少しは抗ったらどうなのだ……。お前、これでは、あの男が実体化したら一瞬で食い物にされてしまうぞ」
「……? え?」
「お前の身体はお前のものだ、お前の心と同様にな」
「……」
エプロスはじーっとルカを見つめて、それからパチンと軽く指を弾いた。真っ暗だった室内の蛍光灯に明かりが入った。ルカが眩しそうに目を細める。
ルカの足元からスタンが顔を出す。
「……何だ急に明るくなったり暗くなったり……、って、こらそこのピエロ男、何の用だ、そこで何をしている」
「ルカよ、悪魔のなぐさみにならぬよう気をつけることを私は勧めよう。……もっとも最後は、おまえ自身の決めるところだが」
「あっ、おいこら待たんかこの……っ、子分! 何してる追うのだ!」
スタンの存在を無視して、エプロスは静かな足音で部屋から出て行った。
「ぬぅう、あのピエロめ油断ならんな……。奴もあの落下傘女と同じく危険な存在に……。おいルカ、聞いているか、おい、……おいってばよ」
「え、あ、なに?」
「あの男は何故ここにいた。余の知らぬ間に、お前によからぬことをしでかしたりなどしていないだろうな」
自分のしている「よからぬこと」を棚に上げてスタンは詰問した。ルカは、本能的ともいえる機転をきかせた。
「何も、されてないよー」
「……ほんとだろうな」
「うん、本当だよ。僕は大丈夫」
まだ、やや猜疑心の残るまなざしをルカに送っていたが、スタンは黒地に黄色という単純な顔に、お得意の邪悪な表情を浮かべた。しかし、笑ってはいない。シンプルな構造から笑みを消すと、悪そのものという雰囲気を帯びる。ルカはその顔にじっと睨みつけられて、悪夢を見ているような気分にさせられる。
「いいかルカ、キサマは余の子分なのだ。余の知らぬ所で勝手な行動を取ることは許さん」
「……うん」
ルカは頷いて、エプロスの出て行った扉をちらりと見た。スタンはじっとルカを見つめ、というか、睨みつけ、さらに言い聞かせるように、言う。
「お前は余のものだ。お前の心も身体も、余の手の中にある。少なくともこうして、余がお前の影に宿っている間は。そして、あるいは、その後も。お前は余の言うことだけを聞いていればよいのだ」
スタンは、ルカにだけ「怖い」と思われる表情で、そう言った。
「……うん」
ルカは頷く。スタンは満足げに息を一つ吐くと、元の影に戻った。