ルカは息を潜め、埃っぽい匂いに耐えながら真横から見る乱舞を凝視していた。
軽やかで何処となく民族的な音楽に乗せて、踊るピエロに女たち、数え切れないほどの鞠がピエロの手から手へ擲たれ、寸分違わずその手へと落ちてくる。一挙一動が四度の和音のリズムと合致して、音と光の魔法を見ているような気になる。ルカは興奮の余り、息を早めそうになりながらそれを飲み込み、ただジッとそれを見ていた。
「……見えるか?」
スタンの声が耳元にする。ルカはこくんと頷く。
「……そうか。……声を出すなよ」
もう一度、ルカは頷いた。
ファイアマジック的美しさとはかなさを併せ持つ、サーカスの夜。ぎっちり埋まった客席には、妹の姿が見える、そのとなりにはマルレインがいる。ジュリアもいる、母も父も。見知った顔は大抵揃っている。挨拶の一つでもしに行きたい。しかし子分魔王の自分は自分と親分魔王であるスタンの存在を公にするわけにはいかないから、こんな舞台の袖のカーテンの隅っこから顔を出して、覗き見するほか無い。
スタンはルカの足元に、影となって潜んでいる。圧倒的存在感を誇る魔王さえいなければ、目立たぬ場所にいるルカが誰かに見つかる確率は皆無。先程も団員の一人がカーテンの向こうにいるルカにそのまま寄りかかり、煙草を一本吸って独り言をぶつぶつ言って、いなくなった。その間、ルカはその存在自体、意識されていなかった。
「……子分魔王というより、いっそ幻影魔王に名前を変えるか」
「っていうか、子分魔王っていつからそんな……」
「おまえにぴったりだ」
ルカはくだらない気持ちになりながらも、こうしてサーカスを見ることが叶ったのだから、それはそれで悪くないとも思う。
本当ならば、正々堂々と客席で見ればよいのだ。スタンは嫌がるかもしれないが、二人で並んで座って。しかし、魔王だけに狡猾で用心深いスタンは言った。
「サーカスを観に行きたいというおまえの希望はよく解かった。が、その場であの味噌汁勇者だの時代錯誤一人称娘などに会わぬとも限らん。奴らは余からおまえを奪おうとしておるからな、みすみす前に現れるのは得策ではない。ちゃんと用意した段取りを踏ませて、吸血魔王と幻影魔王にしっかり仕事をさせるのが道というものだ」
かくして、こんなイレギュラーな場所にいるわけだが。
それでもルカは満足だった。サーカスを見ることが出来たのだから、これで十分。
「……スタンは、見なくてもいいの?」
「……興味が無いのだ」
「でも、キレイだよ、ほら……」
そっと、気付かれないようにカーテンを捲り、スタンに覗かせる。スタンは覗いてから、いや、興味など無かったのだがという事に気付いたが、結局ルカの勧めを無碍には出来ないから、じっと見つめる。
「……ふん……」
ペラペラの影のくせに、人型の時と変わらぬ尊大な態度は、滑稽ですらあるが、ルカはもうすっかり慣れ親しんだその口調の、小さな言葉のひとつひとつにこめられた意味を汲み取る術を持ったから、違和感は無いし、それでこそ大魔王などと、内心で嬉しいような気持ちになる。
ユートピア回廊に城を構えて二ヶ月、勇者は歯車タワーに辿りつく事も無く、噂も聞かない。ルカとスタンの生活はまったりとしたリズムで、ゆっくり散歩のスピードで続いていた。あのばかばかしいとスタンは回顧する告白から、どうやらもともと相性の良かったらしい二人は上手に「生活」を作ったのだ。はっきり口に出して確認することはないが、ルカは、「きっと恋人」、スタンも「たぶん恋人」、お互いそんな希望願望夢想妄想にも似た気持ちを持ちながら、玉座に座して飽くことなく話をしたり、当然の顔をしていっしょに入浴したり、ルカは相変わらず躊躇いながら寝室を共にしたり。時々は二人で出かけることもある。エプロスが複雑な表情でルカを一礼して見送るのが常だ。
「すごい、スタン、空中ブランコだよ」
テントの天井から釣らされた二つの長いブランコのそれぞれに一人ずつ、羅衣の女性がぶら下がっている。あっと思ったそのときに交錯し、片方の腕にもう片方がつるされている。何でもないように、もう一度空中でくるりと回転して、元のブランコに戻る。悲鳴と喝采が交錯し、やがて万雷の拍手となる。
「……声を出すな」
とがめるようにスタンが言う。
「ごめんなさい」
しおらしくルカが謝る。
「……だが、……フン、矮小なる人間どもの所作とは言え、見苦しいものではないな」
そんな風に、ルカを喜ばせるようなことを、婉曲に婉曲に婉曲に言う。
そう言うときのスタンは、無意識にルカの横顔を見る。玉座のときはあぐらの中に座らせているし、そもそも影の時にもずっと尻の下にいたわけだから、ルカの表情を見るのは正面からよりも、やや回り込んで見る横顔の方が多い。その横顔をじっと見つめて、スタンはルカの機嫌の良し悪しを知る。機嫌のあまり良くないときでも、ルカはスタンの言う事には従順だが、それは大魔王と言えども、気分のいいものではない。
カーテンの隙間で切り取られた照明の光を受けるルカの横顔、右目をややまぶしそうに細め、くっきりと浮かび上がる大人しい鼻筋に優しい唇。人好きをするかどうかは判らないが、魔王好きのする顔であることは状況を見ても明らかだ。そしてその、平凡でもスタンにとっては特別な横顔は、サーカスの艶やかな空気にかすかなあこがれを抱きつつも、時折客席に目をやって家族たちの顔を追う。機嫌はもちろん悪くはないが、スタンは少し気にもする、魔王と言えども、感情のある一人の男だ。
いまだに、思い切りが悪いなと彼は思っている。世界を手に入れる覚悟のある男に、一人の少年を掌握するのに躊躇いが、ある程度の確信を持ち合う関係になってもなお、消えないのだ。もちろん理由は客席にいるルカの家族やマルレイン、そして今もどこかでスタンを探しているに違いないロザリーなど、ルカのかつての身内だった人間から、ルカを自分が奪ってしまったからだ。一応まだ魔王だから、「申し訳ない」という気持ちは彼女たちに対してのものではなく、ルカに対してのみに留まっているが。しかし、そう思うからといってルカを返そうとは思えない。どうしてもルカは可愛い。可愛すぎる。ルカと共に在る掛け替えのない時間は、どんな事をしても守りつづけたいと思う。
横顔を見て、そんなことを強く考えた。
告白のとき以来、普段はほとんど言葉には出さない想い。出さないのではなく、恐らくは出せないのだとスタンは自己分析をする。気恥ずかしいのはもちろんある、だがそれ以上に、申し訳なさが先に立つ。自分がそう言えば、ルカはどんな気持ちであれ拒むことは在るまい。しかし、ルカが無理に笑ってそんなことを言う、内心で彼女たちのことを考えながら言う、そんなのを見たくはない。しかし我が侭な魔王の欲は、ルカにも言ってもらいたいものだと思うのだ。
これは支配欲だ。自分だけを見ていて欲しいという、魔王のみならず、多くの男が持つ支配欲だ。しかし、それは罪なことだ。
横顔をじっと、見つめる。
不意にルカがスタンの方を向いた。
「スタン、ちゃんと見てる?」
スタンは平静を保って、
「……言ったであろう、興味がないと」
「……でも、キレイだよ」
その目は自分に見て欲しいと言っているのだ。それくらいわからなくてどうすると自分を責めつつ、スタンはルカの肩越しに覗く。緑の鱗肌の少年が、ルカの太股くらいの太さはありそうな大蛇を身体に巻きつけて見せたと思えば、ルカよりも年下の少年が出てきて、笛で手のひらくらいの大きさはありそうな蜘蛛を軽やかに躍らせる。見事な物だ、とさすがのスタンも感心する。が、その一方で心の狭い魔王は、ウチのルカだって仕込めばもっとすごいのだぞなどと思う。曲がりなりにも自分が魔力を与えたのだ。今でもベルトには、名工の剣と並んで自分の与えた髑髏の杖が挟んである、その気になれば……。
などと、などと、下らぬことを考えてしまう。
プログラムが押し迫ってきたようだ。
鞠の上に載った不細工な大ネズミ、言うまでもなく元・下水道魔王が、器用にも舞台上をうろうろしながら、両手に持った松明をくるくると上空に打ち上げ始めた。右から上そして左手、左手から上そして右手、鮮やかなものだ。決して美しい造作はしていないが、しかし一生懸命さがにじみ出る身のこなしには愛嬌がある、ほう、と感心するような溜め息が客席から漏れ聞こえた。
「……奴め、魔王をしているときよりも幸せそうではないか。けしからん奴め」
スタンがそう呟く。ルカは小さく苦笑する。誰だってきっとそうだよ、などと思いながら「子分魔王」は決して悪いものではないかもしれないとも。
そんな風に思った、矢先のこと。
観客が息を呑んだ、右手から左手へと移るはずの松明を、元下水道魔王が取り落とし、床に転がったのだ。
「……ッ、スタン!」
「馬鹿、声を出すな!」
「火事になっちゃうよっ」
「そんなもの、放っておけ!」
木製の床に布のテント、燃え広がったら一発だ。ルカはスタンの静止も聞かず、舞台の袖から踊り出た。
「ブルースっ」
ルカの掲げた杖から、白く冷ややかな光が発され、瞬間的に燃え上がった炎を一瞬で叩き消した。スタンの魔力によって、初歩的ないくつかの魔法ならば、もう自由に使いこなすことができるルカである。分類からも開放された今、赤黄青の分類色に拘束されず、あらゆる類の魔法を習得することができるのである。
舞台上に突然現れた一人の少年の放った冷気魔法、それによって惨事は免れたものの、観客席の反応は今ひとつ鈍い、「あ、火事になるのかと思ったらなんだ平気じゃん」と立ちかけた客はみな、元の通り客席に戻る。
「……」
ルカは戸惑う。いや、別にどういったリアクションも期待してはいなかったのだが。
「……馬鹿者。見つかっていないのだ、今のうちにずらかるぞ」
足元からスタンの声がする。
「見つかってないって、……こんだけ目立ったのに!?」
「おまえの場合は特殊なのだ。大方サーカスの雑用係と思われたのであろう。ほれ、行くぞ、見つかったら面倒だ」
ルカはがっくりうなだれて、舞台の袖に引っ込む。……いや、見つけて欲しかったわけではない、その方がスタンのためにもなる。……しかし、それにしたって。やはり傷つくものだ。
だから、という訳でもないが、舞台上の、明らかに自分に向けられた声を聞いて、ルカはほんの少しだけ、嬉しかったのも事実だ。
「待ちなさいッ」
凛、と済んで響く声。テント中がその声の主に注目した。彼女はテントの入口に仁王立ちし、切っ先鋭いレイピアを、舞台上の少年に向けた。
「ルカ君ッ、そこを動くんじゃないわよっ」
「ろ、ろ……ロザリーさん!」
「……馬鹿者、だからとっとと……」
足もとでスタンが忌々しげに舌を打つ。
「ルカだって?」
素っ頓狂な客席からする。
「あーあーあー、ほんとだあれはルカだ! みんなほら、あれはルカじゃないか」
間延びした声で、父親が立ち上がる。
「ルカ!」
マルレインが悲鳴に近いような声をあげる。
目立ちたいと願ったわけでもないのだが。
会場中の注目を、ルカは一身に集めた。こうなると、やはり恐慌状態となるわけだ。
「……あわわわわ」
「いいっ、ルカ君ッ、今すぐそっちに行くから、動くんじゃないわよ、いいわねっ」
「何をしている子分ッ、のろまっ、早くずらかるぞ!」
「で、でも……、あわわ」
素早く舞台上に駆け上ったロザリーに睨まれて、立ちすくむばかり。まるでヘビに睨まれたカエルだ。髪の毛に隠れて片方しか見えない目はキッとルカを見つめ、そのレイピアを突きつける。ルカは脅え、ただ両手を上げて無条件降伏の格好をするほかない。
ロザリーは厳しい目で、
「ルカ君……、単なる噂だと思ってたけど……、……あのバカに魂を売ったって言うのは、どうやら本当のようね。騒がしいと思って来てみたら……、まさかこんな形で再会することになるなんて……。おねーさんは悲しいわよ、しかもそんな不良な杖なんか持って!」
髑髏の付いた杖を、そう指摘する。
「え、え、ああ、あの、いや、その、ちが、違うんです、ロザリーさん、あの、これは……」
「言い訳無用ッ」
「ひっ」
鼻先数ミリのところをヒュンッとレイピアの切っ先が行過ぎる。腰を抜かしそうになる。
「……あのバカは何処」
「あ、あの、あの、あのバカ、あの、バカ、って」
「決まってるでしょうッ、あの大馬鹿魔王のスタンよッ、どこにいるの! 出さないと……、殺すわよ!」
「……っ」
ロザリーの目は、本気だ。どうしようどうしようどうしよう、心底のルカの困惑と脅えに、スタンが舌を打って、ルカの影から抜け出し、人型で現れた。
「……相変わらず騒がしい。この寸胴勇者めが……」
「……あんたこそ相変わらず口だけは達者ね偽善魔王」
「こんな公衆の面前でこんな非力な少年を甚振るのがそんなに面白いのか。見上げた邪悪さだ、誉めてやろう」
「……今すぐ影を元に戻すなら許してあげるわ。そして、……ルカ君を解放しなさい、あんたと一緒にいるのはこの子のためにならない」
「ほう……」
スタンは邪悪に唇を歪めた。
「……おまえは間抜けな誤解をしているようだな。余は別にルカを掻っ攫って無理やり連れまわしているわけではない。おまえが子分を余から引き剥がそうとしても無駄なこと……、ルカは余のものだ。そして、教えてくれよう愚かな味噌汁勇者よ。余はおまえの影を元に戻す気などさらさらないぞ。もし戻して欲しいのなら、それ相応の態度を見せるのだな、……土下座三点倒立でもしたら考えてやらんこともないがな」
もともとそう気の長いほうではない彼女である。スタンは憎まれ口を言い終えると共に、ルカの身を抱えて飛び上がり、退いた。凍れる刃が、スタンとルカの立っていた場所を切り裂いていた。
「チッ……」
憎々しげに舌を打ったロザリーを見下ろし、ルカを抱いたスタンは嘲笑する。
「勇者であっても所詮人間……。余に、……そして我が子分に敵うと思ったか」
そうして、スタンは再びゆっくりと降りてくる。
「それに、なあ、勇者よ。このようにごった返した場所で我らが本気で戦ったらどうなると思う、ええ? 愚民どもの救世主として在るべき勇者が民衆を犠牲にしても構わぬのか? ええ?」
「くっ……」
じりっ、とロザリーは一歩退く。
「ルカを離せ!!」
にらみ合う二人と非力な一人に、客席からマルレインが叫んだ。客席の間をすり抜けて、彼女も舞台の上に踊り出る。
「フン……、キサマなんぞに興味はない」
冷徹にスタンが言い放つ。ルカはどんどん悪くなって行く状況に、ただ青ざめるばかりだ。
「王女様!! ……じゃなかった、その……、とにかく、危のうございますよ!」
「ルカッ、答えよ!」
『王女マルレイン』の口調で、少女マルレインはルカに叫ぶ。
「おぬしはほんとうに、このわらわではなく、その穢れた男を選ぶと申すのか! ……答えよ!! 答えぬと……、ただでは済まさぬ!!」
くっくっくっ、とスタンは喉の底で悪辣な笑い声を立てる。そうして、胸の中のルカの手首を取った。
「……子分は、余のものだ。余の許可無しでキサマらと口は利かさぬ」
そうして、ルカの手のひらに白く冷たい光を集めて、氷の渦を巻き起こす。
「おまえたちのせいで折角のサーカス見物が台無しになってしまったではないか……、本当に迷惑な奴らよ……」
「え、ちょ……、スタン!?」
「ダブルータス」
反射的に、日傘を掲げマルレインの前にロザリーが飛び出し、その身を守る。まばゆく冷たい光がキラキラと散らばり、あたりを包む。一瞬の間隙を突いて、スタンはルカを抱いたまま、裏口から飛び出した。
氷の渦が収まって、舞台上にロザリーとマルレインは残された。
「……逃げられたか……。王女様、大丈夫ですか!?」
「……もう、王女じゃない、から……」
マルレインは頭を抑えてゆっくり立ち上がる。
「……ありがとう、ロザリー。助かったわ」
「は……。……しかし、あの二人、いえ、あのバカとルカ君は、何で……」
「それは……」
マルレインが事情を話そうとした、刹那。
誰からともなく始まった拍手が、会場中に伝染し、誰もがスタンディングオベーション。
「見事だ! 見事な仕掛けだ!!」
「何てリアリティ! ブラボー!!」
「なかなか見られないぞあんな大仕掛けは」
誰もが、サーカスの興の一つであると信じているらしい。どさくさにまぎれて、ルカの父親も手を叩いて「あれ、さっきの、私の息子なんですよ」などと触れ回っているのだからまったく何を考えているのかといったところだ。
「いや、これは、違……」
ロザリーがおろおろし、マルレインが困惑していると、後から元下水道魔王が二人の背中を突っつき、
「こういうときは、適当に手を振ってお愛想振り撒くでやんすよ!」
と、卑屈な笑みを浮かべてアドバイスをしたのだった。
スタンは、ルカが怒っていると思っていたし、ルカもスタンが怒っていると思っていた。スタンとしては、ルカが大切に思っているロザリーやマルレインにあのような暴言を吐いたりしてしまったことを申し訳なく思っていたし、ルカとしては自分が後先考えずに出しゃばって火事を消そうとしたことで折角のサーカス見物を台無しにした上に、ロザリーに見つかってしまったことを心から反省していた。夜を翔ける重なった影は、互いに憂鬱そうな顔をして、居城へと走る。
「……お帰りなさいませ」
恭しく頭を下げる吸血魔王に構う余裕もなく、二人は玉座に座った。スタンはルカをいつもどおり膝の上の玉座に座らせて、どう切り出そうか、考えていた。
気まずい沈黙が流れる。
「……あー……」
「ごめんなさいっ」
ルカが、スタンの膝の上、振り向いて、頭を下げた。
「む……」
「僕が余計なことしちゃったから、見つかっちゃって……。ほんとにごめんなさい……」
「む……、うむ、そうだ、確かにそうだ、全くおまえという奴は! 余は放っておけと言ったではないか!」
「……ごめんなさい。その……、あの、おとーさんとかおかーさんとか、マルレインもいたし……、火事になったらとんでもないことになると思って……」
火事にはしなかったが、ちょっととんでもないことをマルレインとロザリーにしたスタンは言葉を止めた。
「……まあ、……許してやる」
あっさり、そう言って頭を撫でる。
「今後、気をつければ良い。……余も……、悪かったと思う部分は、その、あるし……」
ルカはスタンがあっさり許してくれたことに安堵し、胸を撫で下ろした。
それからまた、スタンには意味深な沈黙が少し続いて、
「……おまえは、あの小娘どもと余を比べて、余を選んだのだな?」
ややぎこちない尋ね方になってしまうのを承知で、スタンは尋ねた。
「……うん?」
「……だから。……おまえはあの味噌汁勇者に時代錯誤一人称小娘と、余と……」
「ああ……」
こう言うときの、言いようもなく弱気な目は、悪いものではない。ルカがそう思っていることをスタンが知ったら、きっと恥ずかしくて激怒するであろう。
こう言うときは、言いようもなく一人の男。裸の剥き出しの脆弱な心は、ルカの手にそっと撫でてもらうのを待っている。どうか、爪で引っかかないで欲しいと。
「……一番良いのは、スタンとロザリーさんたちが仲良しになってくれることなんだけど……、それは無理なのかな……」
スタンはすぐに答えた。
「無理だな」
「……どうしても?」
「余は偉大なる大魔王で、あのはちがね女は愚かしい勇者だ。そしてあの充血小娘は本来は余に恐れを抱き脅え、勇者どもの庇護を求むる無力な王女だ。これほど相容れぬものはない」
「でも……、この世界からは分類は……」
「残念だがそれは関係のないことだ。余は分類の有無に関わらず偉大なる大魔王であるのだ。その余をあの日傘勇者が勝手に狙ってくるのだからな。余が余でありたく願うことを妨害する奴らに非があるのは明らかな話で、そんな連中と共に在ることなど考えられんな」
スタンはそう言って、ルカを抱きすくめた。
「……なんでそこで抱くの?」
「……余の勝手だ」
「そう……なんだ?」
今言ったことも、嘘ではない。八割以上は本当のことだ。魔王は自分に非はないと思い込んでいる。だから、あの女勇者は全くもって迷惑な存在なのである。しかし、言うまでもなく、根底にはいま彼の腕の中でぼんやりしている少年が絡んでくる問題の存在を無視できない。『独占欲』、誰にも渡したくない、誰にも、奪われたくない。こんな可愛い命を、どうして手放すことができるだろう。
側に置いておきたい、ずっと置いておきたい、だから、自分の魔力をルカには与えた。あの髑髏の杖を、そして、「魔王」の力を。無論、スタンはルカの前では魔王ではなく男である時間のほうが長いから、純正な魔王にするという無慈悲な真似はしていない、ただ、魔王クラスの力を持つ人間に育てたのだ。自分の片腕の、「子分魔王」ルカとして。自分の命の最後の切り札として。
だから、ルカには本当に申し訳なく思うのだが、マルレインやロザリーとは、離れていたい、敵対していたいのだ。
「厄介なことになるかもしれんな……、あの小娘ども、ここに攻めてこないとも限らん」
「……ごめんね」
「もう良い」
スタンはルカの肩に顎を乗せて、その耳に呟いた。
「余にはおまえがいる。あの連中が攻めて来ようと、……何の問題もない」
ルカはこわごわ尋ねた。
「……あの二人を……」
「……ふん」
スタンは玉座の背もたれに身を委ねた。
「殺してやりたいのは山々ではあるが……。奴らを殺せば余がおまえに殺されるだろうからな。適当に痛めつけて追い返すさ」
スタンはそう言って、絶対にルカを渡すものかと心に決め付ける。
大魔王でありながら、大魔王的に喋るにはどうしたらよかったのか……、ルカの前では戸惑うことが多くなる。
「余に……、ついてきてくれるか? 最後まで……」
こんな選択をさせるときに腰に手を回して拘束しているのはアンフェアだと思うから、肘掛に両腕を乗せる。指先がむずむずしてくるのを堪える。魔王なのだから、どんなに卑怯でもむしろそれを誇るべきなのに、いつしかそのやり方を、少なくともルカの前でだけは、忘れてしまったのだ。
「……いいよ」
ルカは、頷いた。
何の理由があってそう言ってくれるのか、スタンは「好かれているのだ」と確認し、感動しながらも、子供のように、絶対離さないとの意思表示、ルカの身体を、強く抱きしめた。
「……ずっと側に、いてくれ。余の側に……」
「うん。いられる限りの間は、ずっといるつもりだよ……、だって僕は君の恋人なんだろ? だったら、それが普通でしょ?」
「……ほんとうに、ほんとうにそれで良いのか?」
「……僕は別に、不幸じゃないし。スタンといて、つまらないとも思わないし……、スタンのことキライでもないし。だから、僕は頷いたんだ。だから僕は、スタンの恋人になったんだ」
もしそれを嫌だと思ったなら、いくら僕だってそれくらいの意思表示はしていた。その意思が受け入れられなかろうと、嫌な物は嫌だと、もう言っていただろう、事は、個人の感情にまで介入したレベルのことなのだから。
スタンはしばらく黙り込んで、それからそっと、ルカの腰に腕を回した。そして、
「……本当に……、……本当に本当にだな!? おまえは、本当に、余の……、いや……」
勢いを失って、言葉はふわりと掻き消される。
「……何でもない」
「僕はこういう考え方は好きじゃないんだけど……」
ルカは、スタンが言葉に詰まったのを聞いて、唐突に切り出した。
「だけどスタンは僕のことを傷つけないって約束してくれた。魔王なのに僕に優しくしてくれる。僕のことを大事にしてくれる。だから僕も、スタンのことを大切にしたいと思ったんだ。……なんだか、損得勘定働いてるみたいで、『僕がするから君もして』みたいで、嫌なんだけど、でも、僕はそう思って、いま、してる」
それから、また少し黙って、見つけた言葉を上手に口に出せるように、唇を舐めた。
大魔王の耳に快い少年の声は、優しい微笑を含んだ声音で、
「僕は君が好きだよ」
と言った。
大魔王の手はどんどん優しくなっていく。少しの傷もつけてなるものか、少なくとも自分の手ではと、慎重すぎるほどに慎重。いつしかキスも甘いものとなった。優しく、愛しさのみが篭った手、指、唇。それでいて、ルカの身体がキスに震えるたび、唇を離して、その表情をおずおずと伺ってしまう。スタンは、スタン自身を持て余している。自分の幸福の器というのは意外と小さかったのだと知る。これでは世界も入らないだろう。ルカだって、溢れてしまうのだから。
「……スタン、……ねえ、かぎ、掛かってる?」
「……む……」
「かけてよ、ちゃんと……。見られたら、恥ずかしいよ……」
「……うむ」
指を鳴らして、玉座の魔を施錠する。ルカの要望に対しても素直になった。困った顔と同じほどに、その微笑みが大切なのだ。無論、同じほどに困った顔も見たく思うが、それはいつでもできる。自分も幸せになりたいのなら、その微笑みを覗けたほうが効率的だとは思えば、本当に優しい男になれる。
「女勇者どもがやってきたら、余と共に戦えるか?」
慈愛の手のひらを止めて、ルカの目を横から覗き込み、スタンはどきどきしながら待つ。
「……それは……、正直なところ、わかんない」
それでもいい、とスタンは頷いた。
「僕は……、戦うっていうよりも、……あの、スタンと、ロザリーさんやマルレイン、エプロスさんも、みんなが、また、一緒に楽しくやれたらいいなって思う。僕が戦うことで、それが叶えられるなら、そうする。今はまだ、わかんないよ……」
スタンはまた頷いた。
「でも、でもね、スタン、僕は、スタンの」
言おうとして、止める、止めてまた言おうとする、ああ、何て、なんて、恥ずかしい言葉だろう! 何で恥ずかしい言葉になっちゃうんだろう!
でも、薄っぺらな僕の自我の、本当の気持ちだからと、ルカは吐き出した。
「僕は、スタンの、恋人だから。一緒にいるよ」
スタンは頷いて、抱きしめる。その力はルカにきつい思いをさせない、しかし、確かな腕の力を感じさせるほどのもの。覚えたのだ、ルカと共に在りつづけて。その力に、ルカが心を許し、裸になってくれる。
共に在るのだ。
そのことをこんなに強く思ったことは、今までにない。