「フミャ……」
木陰に座っているウィルの膝の上で、テコが目を覚ます。膝を貸しているウィルもまた、眠っていて、
「ミャー……」
声をかけようかかけまいか迷っているらしいテコがそう小さく鳴くと、「ううん」と眉間に皺が寄って、薄く目を開く。膝の上の小さな重みに目を落とし、優しく微笑む。
「……寝ちゃったね、テコ」
「ミャー」
テコの頭を手のひらで撫でて、欠伸をする。
「……ここ、ちょうど日が影になって、風も涼しくて気持ちいい。おまえが寝ちゃったから、僕もなんだか眠くなっちゃったんだよ」
「ミャーミャミャ?」
「うん。おまえ、暖かいしね。……さて、と。……先生はさっきからずっと何してるんです?」
と三メートルほど離れた木の陰でウィルを見ていた俺のほうを向く。
「バレちゃったか。感覚が鋭くなってきたみたいだね」
「ずっと、気付いてましたよ。先生の気配は判り易いですから」
「……そう、かな?」
「ええ。少なくとも、僕にはね」
きょとんとしていたテコは、俺の顔を見て「ミャ!」と鳴く。テコは気付いていなかったようだ。
「何をしてたんですか?」
隣りに座ると、もう一度そう訊ねられた。
答えはある。この物騒なご時世だ、森の中でお昼寝もいいけれど、帝国軍に見つからないとも限らない。ウィルが痛い思い苦しい思いするのはイヤだから、起こして連れて帰ろうと、思ったのだけど可愛い寝顔を見ていたら起こすに忍びなくて、仕方なく離れて見張りをしていました。
でも、なんだかそれって、なあ……、うーん、うー、ちょっと、恥ずかしい。
「たまたま通りがかったんだよ、そしたら君が寝てたから。帝国軍のこともあるし、丁度、まさに今、たった今、起こそうとしたところだったんだよ」
「嘘ついてもわかりますよ」
「う、嘘じゃないよ」
「僕に嘘ついたって何の得にもならないでしょう」
「う、嘘じゃないやい……」
テコを抱いて、ウィルは立ち上がる。
テコに、何事か呟いて、テコはウィルの胸にぎゅっと顔を埋める。あ、いいな、そう思ったところに、ウィルの顔が来て、唇が重なった。
「ウィル……っ」
「僕を守っていてくれたんでしょう?」
テコに「もういいよ」とウィルは囁く、テコは顔を上げる。俺と目が合って「ミャ?」と語尾を上げた。
思わずほっぺたを、自覚症状のあるくらい赤くしてしまって、俺は言葉を失って呆然としてしまう。ウィルはそんな俺を見上げて、微笑む。その微笑みは、優しいような、怖いような。そう感じるのは、俺だけだろうか。
「船に帰りましょう。……心配してくれてありがとう」
「……うん」
俺はこっくりと頷いて、ウィルの後ろをテコテコ歩く。……なんだか、それはそれは幸せで、それはそれで情けないような状態の俺を、俺は自覚して、ちょっと悩んでしまう。こんな俺でウィルに尊敬されてるのかなって。いや、まさかそんなことは思わない。俺は軽蔑卑下の対象にこそなれ、敬意など浴びるような存在ではないのだ。
駄目教師の、同性愛者の、小児性愛者の、児童虐待の……!
部屋に戻って、ああ俺は駄目だなと、気軽に落ち込む。こうやってせいぜい自責をしておけば、しばらく大人しくしていられるようになる。
一人であればの話だ。そこにウィルが入ってくるのだ。
「また何かつまらないこと考えていたんでしょう」
罪の無い、いや、罪はある、どっちかと言えば、毒を含んだ、そんな笑顔で。
「……いや、ちょっとぼうっとしてただけだよ」
そう答えても、テコはウィルを肩に載せて、ベッドに座り、侮るように笑った。
「無理しないでいいですよ。いやらしい言い方だけど、僕は貴方に僕のことで、胸を痛めて欲しくはないから」
そう言われると、確かに凄く救われるのだ。
しかしその「救い」に縋ってしまって本当にいいのかという疑問は残る。毎夜、そのウィルの優しさに救いに、俺は存分に甘えて、舌に載せるのも憚るような事をしてしまっているわけだから。……他の誰に許されなくてもウィルが許してくれるなら俺は何でもいい、どうでもいい、それでその時点で幸せなんだよと、思って、満足してしまう。そう言うときの俺って、ある意味では片手で竜を殺すし、死ぬことも怖がっていないんだと思う。
俺の考えていることは俺の顔に書かれるらしい。ウィルは俺の顔をじっと見て、苦笑しながら、はーあ、と溜め息をつく。テコがミャーアと真似をする。
「僕は貴方に無理をして欲しくない」
テコがずるずるとウィルの肩から前へ、頭の重さで落ちそうになる。ウィルはそっと支えて、膝の上に降ろす。ウィルがその頭を優しく優しく撫でていると、つぶらな眼を細めて、喉をくるくると鳴らして、俺がウィルの言葉を飲み込んで答えようと、だけど迷って、……その間だけで、寝てしまったようだ。
「俺は、……大人で、先生だから。君の先生だから、……無理しなくちゃいけないんだよ」
本当のことを言った、それ以外にないことを言った、だけど、ウィルは納得してくれないだろうなと思いながら、俺は言ったのだ。
想像は的中した。
「納得できませんね」
それでも、俺は納得してくれとしか言えない。それだけにウィルが、俺を認めてくれる気持ちは確かに強く、俺がギリギリで守らなければいけないルールとか概念は、感情の前に薄弱なものなのだろう。俺だってウィルが好きだし、許されるならば大人であることも教師であることも破棄してただウィルを俺の好きなようにしてしまいたいと思う、のだ。
「俺も、ウィルのことは、大好きなんだよ」
「そうであって欲しいと願いますけど。信じていいものかどうか、ね。僕だけ好きなんじゃないかって勘繰りたくもなりますよ、だって普通は」
ウィルは、少し機嫌を損ねたみたいだった。本人無意識のうちに、声のヴォリュームが一つ上がった。
「男は欲しがるものでしょう? 性欲は否定できないものでしょう? 僕はこんなに欲しがっていて……、貴方だって僕のことを好きだと言った、のに、貴方は僕のことを欲してくれない」
ビクンとふるえて、テコが目を覚ました。ウィルのことを見上げて、困ったような顔をしている。
「……テコ」
「ミャ?」
「僕の部屋に戻っていて。先生と話があるから……」
「フミュ……」
「テコ?」
「……ミャー」
テコは寂しそうに、ウィルの開いた扉からテコテコ出ていった。ウィルは溜め息を吐いて、後ろ手に、鍵を閉めた。
ウィルの目は、テコのそれよりも寂しそうに見えた。
俺は、何が答なのか判らなくなる。何を守るべきなのか判らなくなる。
俺の守りたいものは言うまでもなくウィルだ。ウィルの笑顔、ウィルの幸せを、俺はずっと守りつづけたい。それは「先生」だからではなくて、俺の一人の人間としての男の部分の願うこと。そのココロは、ウィルに俺も愛されたいから。俺の愛するという形が「守る」という形だから、ウィルに守られたいと思わなくとも、エゴとして、多少の愛は返して欲しいと思っている。そして、俺はウィルに多少どころかたくさんの愛を貰っていると思っている。
だけど、俺が本当の意味で守らなければいけないのは、例えばウィルの将来。こんなところで俺なんかが狂わせていいはずは無い。それはウィルがただ良家のご子息であるからというばかりではなくて、こんなにいい子が俺なんか――そもそも俺は男だ――好きになって一生を大振りに空振りするようなことは、やっぱりよくないと思う。俺が本当に守らなければいけないのは、だからつまり、教師としての責任と節度だろう。ゲンジさんにこんなことバレたら……、そう思うあたりにも、反映されているとおり。
しかし、俺は教師でなくてもいいからウィルが欲しい、何度も言う、ウィルと愛し合いたい。
だけど、俺は何処まで行っても教師だから、それは許されざることなのだ。
「ウィル……」
ウィルは、座る俺の太股と肩に手をかけて、唇を寄せてきた。
どうして俺はそれを拒めないんだろう? ウィルが好きだから。好きだったら、大切に思うんだったら、拒まなきゃ……、そう腕が動きかけるのだけど、唇に触れる瑞々しく生々しい感触に、俺はその手に力が入らない。
「先生、好きです」
まだ変わらぬ声で、そんな風に嬉しいことを言ってくれる。
誰に接するときよりも、俺に接するとき、優しく喋ってくれる。
ああ、ああ、ああ、……ああ!
俺だって大好きだよ!!
だけど、だけどさ、だけどな!!
「先生。……僕は欲しい、こんなに欲しいのに、でも貴方は、決して欲しがってはくれない。僕を欲しがることを罪悪だと思っている」
そりゃそうだよ。
「でも、僕とこれからもこういうことしつづけてくれなかったら、僕がどんなに傷つくか判らないと。僕が貴方にフラれたりしたら、僕が死ぬと。……言ったら?」
やっとのことで、
「……ウィルは」
乾いた声、それは冷静なんじゃなくて、喉がからからで。錆ついたような声だった。
「ウィルは、俺に、そんなことを言うのか?」
「……仮定の話ですよ」
素っ気無く、ぷいと横を向く。
ああ、本気だ、と俺は思う。
抱きしめずにはいられない。
「俺なんかのために死んじゃやだよ」
「でも貴方は僕のために死ぬでしょう?」
「勿論。俺は君の先生だから」
無意識に口に出して、先生である理由を悟った。要するに、恋人の理由と、それは一緒だった。ウィルもそれは判ったらしい。じっと黙って、俯いた。
「俺は……、君の先生だから。勉強を教えるのは下手かもしれない、剣術も、教え方は良く判らない、召喚術も、今に君のほうがよっぽど上手くなるだろうと思う。でも、俺は君の、先生だから」
先生だから、愛せない。
先生だから、俺はウィルを愛する。ただ、先生は俺だけじゃないけど、恋人なのは俺だけだと、震えるような誇りを手にする。
「もちろん、俺だってウィルのこと、大好きだよ。……愛しているよ」
生徒と秘密を共有する。そんなこと、あっていいんだろうか? こんな教師、いていいんだろうか? いいや、いちゃだめだ。だけど俺は、教師じゃないし。先生だけど。先生が恋愛をしちゃいけない、生徒に恋愛をしちゃいけない。だったらきっと、誰もが、愛しちゃいけない。そんな事は、言っちゃいけない。
神様。
俺はもうどうなっても構いません、地獄に落ちる覚悟は出来ました。この心が壊れてしまうことも、俺は恐れません。
ですからどうか、お赦しを……、いや、赦さなくとも、……認めてやってくださいこの哀れな男を。
「先生」
その二人称だけが、ちょっぴり耳に痛い。だけど、それなりの罰は受けないと。
ウィルの身体を横たえて、裾から捲り挙げる。下に穿いた半ズボンの前を、そっと撫でてあげる。
「……っ」
立ってたんだ。知って、嬉しくなる。俺なんかを欲しがってくれるんだ。
他のどんなときよりも俺は自分の存在意義を知った。
このためだけにも生きていられると思った。
「……脱がせて下さい」
「え?」
「……服を、汚したくないですから……」
「……もう、汚れそうなの?」
「……知りません」
後で悔やんでも苦しんでも、それは覚悟の上のことだと、興奮した今そう思う。俺はどんな深くに沈んでも、まだウィルの側にいる。それはもう、決めてしまったから。
裸で俺をじっと見るこの子が、俺は本当に本当に、理由以上に愛しい。
「貴方は脱がないんですか?」
「……脱ぎます」
俺の夜はこんな風に罪悪を重ねる場となる。たくさんの宿業を背負って生きる運命にある。しかし、……運命の神様は俺を認めた。
俺のこれは、罪にはならぬと。
「ウィル……、そんな、してくれなくて」
「……ッ、貴方がしてくれるのに、僕だけしないわけにはいかないでしょう」
「そ、そういう、もんかな……、あっ」
俺にとって神様はウィルだから。地獄へ俺を落そうと思えば落せる、その手を一つ前に出せば。しかし、ウィルはそうしないで、俺を赦す。だから俺は全ての神に否定し背く結果となっても、ウィルを愛しつづける。
それが俺の、唯一の正義になるかもしれない、今はいくつもあるけれど、将来的にそうなる可能性は、否定したくなかった。