ウィルと寝たシーツを翌朝じっと見てみると、やっぱりあるのは赤く縮れた、何か嫌な毛。ウィルが向こうを向いて服を着ている隙に、さっさと何本か摘んで手の中に隠して、「やあ今日も晴れたなあ」とか言いながらこっそりゴミ箱の中に。
しかし、そういうことをした後で、「痕跡」と言えるようなものはそれだけ、というのは、なかなかたいしたものではないかと俺は思う。俺の毛を取り除いてしまえば、シーツはただ「ちょっと寝相の悪い人が寝ていただけです」と言わんばかり。体液の染みもない、汗は、もちろん多少かいてはいるのだろうけど、別に問題が生じるほどでもない。ゴミ箱の中には、確かにティッシュが丸まって捨てられている、けれど、それだってわざわざニオイを嗅いで確かめるような人を、俺は知らないし。
「それじゃ、僕先行きます」
「うん。……あ、ウィル……」
「はい?
ちょっと、と手招きをして、俺はもう一度、ウィルのことをぎゅっと抱き締めた。滑らかな少年の芳しい香りに、俺は寝起きの低血圧そのままに、少し理性がふらつく。ウィルが、そっと俺の背中に手を回す。ウィルの肩の上のテコが、俺たちのする行為の意味も知らないで、幸せそうなウィルを見て嬉しそうな顔をする。そんなテコも可愛くて、俺はウィルのおでこにキスをしてから、テコのおでこにもキスをした。
「……幸せだな……」
俺は、噛み締めながら言った。
「こうしているときが、俺は一番幸せだよ」
ウィルは、もっと強く、きゅっと俺に抱きついて、俺の幸せを倍以上に増幅してみせる。目がうるうるしそうで困る。
本当に俺、この子のことが大切だ。この子のことが大好きだ。この子の見る世界を俺も共有したい、この子の守りたいものを、俺も一緒に守ってあげたい、この子の笑顔の曇るときが来ませんようにと祈る傍らで俺はそのための努力も惜しむまい。幸せになろうよ一緒に、……一緒に幸せになろうよ。うん、確かに俺たちは結婚出来ないかもしれないし、確かな約束は絶対に交わせないのかもしれない、誰かには疎まれるかもしれないし、社会は俺たちを認めないかもしれない。けれど、俺自身はね、いいんだ、二十いくつになってこうまで思う、「俺は全てをかなぐり捨てても君を幸せにしてみせるよ」……、無理だなんて思わないんだ、思えないんだ、だって俺、出来るもの、やってみせるもの。
「……先生……」
「……ん?」
「……またですか?」
ウィルに言われて、俺は初めて――本当だ――気付いた。俺の下半身は、丁度ウィルの胃のあたりを突っつくように、形を変えていたのだ。
せっかくいい事考えていたのに、思考の宿主がこれじゃあ……。
さすがにきまり悪くて、不振そうに見上げる顔に俺は、曖昧に微笑んで、離れた。
「ごめん、そういうつもりは無かったんだけど」
ウィルは黙って俺の顔をじいっと見る。テコは、俺の身体に起こった変化には気付いていなくて、あくまで純粋にきょとんとしている。
「……今は、我慢してください」
ウィルは、溜め息混じりにそう言って、テコを肩から腕の中へ下ろした。
「今は、って……、いや、俺だって大人だから我慢くらい」
「僕も、我慢しますから」
俺の言葉を遮ってウィルは言い、テコを抱いたまま、出ていった。
その後姿を見送って、俺はたまらないいとおしさに、自分の歯を粉々にするつもりで食いしばりながら、ベッドにぼてん、顔から落ちて、しばらくそのまま。
事を男に限定しよう、俺は男だから、男のことしか解らないので。
男性器に適度な刺激を受ける……具体的には、亀頭やその周辺、或いは陰嚢、或いは、まあ、とにかく、そういった部分部分を、優しく触ったり、舌でそっと舐めたりすると、知ってのとおり男性器は肥大する、その事を「勃起」という。平常時と比べて、サイズ、硬度、共に段違いの状況となる。より強い快感を求めるように、震える。
俺は、勃起した男性器を更に刺激することで射精にいたるメカニズムを、知っている。知っているけれど、知らないふりをして、もっとロマンを語りたい。
なぜ性行為に快感が伴うのか? それは、やっぱり性行為本来の意味が「種の保存」にあるからだろうと思われる。人間は、というか、生き物は、どうしても同じ形の生き物を生み出すよう、深いところで命ぜられている。ただ、命令にはどうしても背くものが出てくる、そのための飴が、快感なのではないだろうか。もしセックスが気持ちよくも何とも無いものだったら、誰もしないよきっと、そして人間はやがて滅びるだろう。
性行為に快感が伴うのは、掛け替えの無いことだ。もっとも俺たちは、次第にその快感だけを追うようになり、本来の理由を忘れつつもあるけれど。しかし、それもひとつの進化の形といえるのかもしれない。
とか、なんとか。今日は、新しいところを教えてあげようと思っていたのだけれど、はたして時間があるのかどうか。
「……ミャー?」
秘密の授業なんだよ、とウィルは小さく微笑んで、テコの頭を撫でる。テコは納得したように頷いて、廊下を歩いて行った。
洗顔、朝食、歯磨き、青空学校、午前十一時までのことをしている間、本当にゴメンね俺は、この時間のことで頭が一杯だった。
「……レックスさん?」
「ああ、おはようございまふ」
「……それ、練り歯磨きじゃなくて、シェービングクリームじゃないですか?」
「……ぶひゃあ!」
あるいは。
「先生、そこさあ、違くない?」
「へ?」
「そうですよう、先生さん、5から2引いたら3ですよう」
「うひゃあ!」
こんなことを繰り返していたのだ。俺、やっぱりなんていうかこう、ダメだなあ。すごくダメだなあ。
でも、ダメな俺があまりよくなりそうも無いのは、今の俺のことを、
「好きです」
と言う子が居るから。甘えちゃ、ダメだよ、もちろん判ってる。
昨日の夜見たばかりのウィルの裸に、眩しさをもう感じてる。そして俺は、まるでウィルと同い年の子供みたいに、ドキドキしながらその裸に触るんだ。
瑞々しい少年の肌。「少年の肌」にこんな興奮する俺って、どうなのか。いや、もういいんだ、俺は、人間じゃない、とまでは行かなくても、さっきも言った通り、全てを敵に回してウィルを愛する覚悟は、とっくの昔に出来ているから。
膝の上にウィルを乗せて、その体重を俺はしっかり覚えている、俺の太股にはウィルの重さが丁度良いのだと信じている。痩せた背中にキスをして、しるしをつけようと思って唇を当てかけて、俺は昨日も同じところにつけたのだと、気付かされる。
「先生」
「……うん?」
ウィルは、ちょっと怒ったように言う。
「僕は壁を見ていればいいんですか?」
「ん?」
「先生の顔」
平べったい胸を撫でる俺の手の甲に、爪を立てる。
「見たいんですけど、駄目なんですか?」
そう言う声は素っ気無いけれど、自分の我が侭を自覚し、多少以上の恥ずかしさを感じ、しかし悪いのは自分ばっかりじゃないという開き直りもあり。混ざって、そんな声になっていることを、俺は知っている。
見たいと言ったくせに、俺がじーっと見つめると、目を背ける。
「……ウィル?」
ちょっとした仕草の一つひとつに、俺はひょっとしたら世界をひっくり返しかねない。
頬っぺたを指で触った。瑞々しい、柔らかい、大人びたラインを、最近は無理に作ることをしなくなったなあ。その方がいいよきっと、……ウィルはもともと、とても可愛い顔をしているんだからさ。無理にきつい顔を作ることは無い、その方がきっと楽だし、俺はウィルの寝顔、すごく好きだよ。
一回一回のキスに、もう多少も怖がることなく俺は臨むことが出来るようになった。
唇が触れ合う瞬間を、楽しむことが出来るようになった。
唇が離れる瞬間に、ウィルの唇の隙間から、愛しい吐息が、微かに漏れるのを、俺の唇で感じるのを。した後、やっぱり、不機嫌を取り繕って目を逸らして、しかし、その目元が微かに微笑んでいるところを、見るのを。
そしてまた俺は胸が、ぎゅう、ぎゅう、ぎゅう。
膝の上に乗せると、必然俺の視界はウィルで埋まる。そのままぎゅって抱き締めたときに、初めて俺はその肩越しに部屋の壁に目が行く。胸と胸をくっつけあって互いの心臓動いていることを確認しあって、俺はそれで十分になってまたウィルの顔を見たく思う。ウィルだけ見ていれば、それで本当に幸福。愛し合うってこのことか。愛し合う相手が例えばこんな風に男の子でも少しもその度合いに差は生まれない。ただ俺は、愛し合う相手がウィルであることが嬉しい。
幼さの存分に残る体を独り占めにした。手のひらが、舌が、ウィルを知り、ウィルに染まる。
「せんせ……っ」
そして、耳の置くから、頭の中まで、色が付いていく。これだけ俺が染まるのに、シーツは汚れないのはどうしたことか。いつものとおり、口で、手で、ウィルが二度ほど射精して、俺も一度は到達して、授業時間はもう間もなく終わろうとしている。けれど、なかなかお互い起きる気にならなくて、くったりと肌を重ねて、その上からタオルケットをかぶって。
「……このまま寝ちゃいそうだ……」
苦笑いで呟く。ウィルは俺の頬に唇を当てて、
「鍵は閉まってますから……、心配しなくても大丈夫ですよ」
怠惰に、ああ、ならいいか、なんて事を思いかけて……、扉を、かしゅん、かしゅん、そんな妙な音で擦るのを聞いた。
「……、ああ」
ウィルは、タオルケットの中から滑り抜けて、鍵を開き、扉に隙間を開けた。その隙間から、ひょっこりとテコが顔を出す。ウィルはテコを中に入れて、すぐに鍵を閉める。
「テコも一緒に寝るかい?」
俺が尋ねると、「ミャ!」とお返事をしてくれる。何となく、ウィルと俺は微笑んで、ちゃんとパンツを穿いてシャツも着て、テコをはさんで、一緒に寝る。多少狭いベッドでも、無限の可能性を秘めていて、それは自由な解釈を与えられたということ。大変ありがたい思い。
本当に寝てしまって、起きたのは、
「ウィル? センセ? いるの? いないの? 昼ご飯出来たわよ」
スカーレルが扉をこんこんノックしたとき。授業のはずの時間、たっぷり一時間眠ってしまった。悪い生徒と先生だ、しかし、こうしてベッドで二人と一匹で眠っているときは、生徒と先生なんていう関係では言い切れないところに昇華している俺たちだろう。
少しくしゃくしゃになったシーツを、ウィルと二人で伸ばす。テコは「ミュー」とあくびをして、服を着たウィルの肩によじ登った。
「どう言おうか?」
「睡眠学習とでも言えば良いんじゃないですか? ……みんな鈍いから判らないですよ」
「……うん」
「毅然とした態度を取っていればいいんですよ」
立ち上がって、ウィルににっこり微笑まれて、俺は……、またウィルを抱き締める。果てしなく続いて欲しいという、いけない願いは、確実に叶う。困ってしまう。皺の伸びたシーツに、俺はまた皺を作るためにウィルを抱き締める。
この行為は言わば序曲。