これが今年最後かも知れない。
そう思うと、轟く雷鳴も叩き付ける雨も、少しぐらいは我慢出来そうな気になるような、やっぱり、厄介以外の何ものでもないような。一斉に打ち鳴らすドラムスに、咆哮するヴォーカル、導くエクスタシー、胸いっぱいに吸い込む青い葉の香気に、往く夏惜しむ気に、なるような、ならないような。
俺たちは上から下までびしょ濡れで、これならまだ泳いだほうが楽しい。
「ナップ、大丈夫? ……風邪ひくなよ?」
短い前髪が額に張り付いて、指摘はしないし表情にも出さないけれど、興味深い顔つきになっている。ナップは苦笑いを浮かべていたが、ふと、額から荒っぽく髪の毛をかきあげた。それから乱暴に頭を振って、犬のやり方で水を飛ばした。
西の空が暗いことに気付いていなかった訳ではなく、そろそろやばいんじゃないと半時間前にナップは言った。俺もうんと頷いていながら、こうしてびしょ濡れになった理由ははっきりしている。互いに一分でも長く「デート」を楽しみたかったからだ。
デート。いい響きだと思う。俺の胸の高さが身長の少年を隣りにそんなことを考えては、唇の端がテンションと共に二度ほど上がる、鼓動は加速する。慣れたはずの喜びがまた頭を擡げて、俺の頬肉の内側を擽って、
「……な、何笑ってんの?」
ナップを不安がらせる。
「ごめんね。もうちょっと早く帰れば良かったね」
ナップの髪は細かな角が幾つも立ったようだ。毎晩、俺が洗う。時に、俺がハサミを入れて整える。まだ寝癖のついたまま外出することにあまり抵抗のない十三歳の髪がどんな匂いか触り心地か、俺は、知ることで罪を深めていくならもうとっくに首と胴がオサラバするほど、知っていた。
いや、ナップの身体のことなら、髪の毛だけじゃない、ナップの知らない場所にあるほくろのことだって知っていた。
「別にいいよ。俺だって遊んでたかったし」
心の動きも、ある程度は把握しているつもり。時々とんでもないポカをやらかして、怒らせてしまうこともあるけれど。
もう、とうの昔に恋人同士で、日常言語の端々に「好きだよ」なんて言い合っていてもなお、うすっぺらなもので終わらせないために、休日には一緒に海岸を散歩したり、昼中かけて美味しいカレーを作ったり。朝から晩までベッドの上、裸で過ごしたりもしたし、日常的行為とスペシャルホリデイ、どうにかしてハートのビートを高鳴らすために、創意工夫は惜しまない。
「身体、冷やさないようにね」
俺もシャツ一枚、既にたっぷり水を含んで肌に張り付いているから、ナップの身体を暖める術はこの手ぐらいしかない。そんな理由付けをして、後ろから抱いた。重なった肌は瞬間息が止まるほど冷たいが、すぐに体温同士が絡み合って、三十六度を感じられるようになる。一瞬だけナップは抗った。でも、こうだろ、俺たちなら、そうだろ? やがてこっくりと頷き、健気さに、うっかりつまづいて、顔はにやつき足はふらついて、くらら、くら、くら、胸燃える。こうなるために振り絞る、なけなしの勇気探したあの日、何も持たないままでもただ「好き」と、言えたのだから及第点。俺はナップが好きだよ、心から君のこと好きだよって、何の嘘もカッコつけもないまま震える声で言った、震える腕で抱き締めた。
こうして当たり前の顔で抱き締められることが既に奇跡なんだよ。
あの頃より俺は、もっともっと弱くなった。ナップの一欠片として喪うのが怖い。例えば、このシャツ二枚ごしの背中の体温だってそうだ。
「先生、温かいな」
でも、俺は強くなった。ナップのために俺の何もかもを喪うのは、正直に言えば怖いけれど、我慢出来ないことはないだろうと想像する。
「少し小止みになってきたかな……」
「でもこの中突っ切って帰るのはやだな」
ならもうしばらく、こうやってぴったりくっついていよう。君の身体を温めていよう。この体温を、君に伝えよう。
「んー……、先生さあ」
ナップの心臓は、とくん、とくん、これから先もずうっと止まりませんように。
「……ちんちん押し付けんのやめろよ」
でも重なったままの掌が、どこより一番正直だと俺は思った。
「ごめん、……俺はもう暖かいから」
さほど馬鹿とも思わず、俺は言う。
「わかんねえよ。……何があったの」
綺麗事を並べ立ててもいい。俺の体温を一分でも君にと。
「君の……、シャツの、透けてるの見てたらこうなった。すごく色っぽい、すごくえっちに見える。」
俺がナップのことを大体読み取れるのと同様、ナップも俺のことをよく知っている。知っててわざわざ「そう」言う手間は「愛してる」「大好き」と同じく、惜しまない。
「……変態」
唇尖らせそう言ったナップに、俺は苦笑する。
「大いにそうだろうね。でも、俺が変態であることが今の君をそう困らせるとも思えないんだけどね」
セックス、「好き?」って聞けば、絶対に素直には答えるまい。こういうふうにするんだ、こうしたいんだ、隠し様のない仕様の俺の嗜好はどんな誹謗の言葉も覚悟済みだったが、ナップは幼い性欲と興味で一つひとつ飲み込んでいった。そして最終的には少年はその身体で俺の性器も飲み込んでいた。拓いて行く危うい快感を満たした俺は、射精するとき声を上げた。きっと「愛してる」には聞こえなかった。でも今は射精するときには、ちゃんと言えるよ、心からの愛の言葉。
あの頃の俺には度胸がなかった。傷つけてしまうことばかり、怖れていた。俺がナップを欲しがるのと同様に、ナップも俺を欲しがってくれるということに気付くまで、時間がかかりすぎてしまった。今思えば途方もない回り道。夢に見るほど欲しかったものを、どうして素直に「欲しい」と言えなかったんだろう? 寂しい思いもさせてしまったことだろう。始めに「好き」という言葉を択んで俺にくれたのはナップだったのに。
「……困るよ、先生がそんな変態なのは、困る」
そう言うのは釣り込まれて自分までそういう種類の気持ちになってしまうからだろう。
「身体温まるのは困ることじゃないよ」
俺はそう断じて、腕を解いた。ナップは急に寒くなったように、俺を見上げた。無意識に俺を求めてしまう大きな目に、何を言おうとしていたんだろう、忘れて、ただ俺は、またナップを後ろから抱き締めて、ズボンの前に触れた。当てた掌に湿っぽい感触、の丁度真ん中、息を必死に潜める部分が在る。
ナップの隠す宝物は全部この鼻嗅ぎ当てて、折角隠していたのにと、悔しい気持ちを味わわせてしまう。何かを言えば悔しい気持ちを俺に教えてしまうから、じっと口を噤んだままの健気さが胸を打つ。責任を持って、ナップを幸せにしてあげなくてはならないと肝に銘じ、そこに集まる熱を高めることで、ナップに風邪をひかせないことを考えた。
「み、耳っ、よせよ……!」
首筋に、かえって鳥肌を立たせてしまったのは反省だ。「ごめん」と息で謝って、左手でしっかり抱き締める。右手はズボンのボタンを弾いて、社会の窓というか倫理の扉を開いた。ナップの両手は俺の左手のところ、俺は別に何もしていない、ただ抱き締めているだけ、なのに、俺の腕に貼り付いているかのように、少しもぶれない。
夕立の雨はナップの白い下着まで濡らしていた。それが良からぬ妄想の呼び水となる。ひんやりとしているはずの湿り気は、ナップ自身の体温を吸い取って、内側から仄かに温かく滲んでくるように思える。
「何考えてんだよ……、外だぞ……!」
「こんな夕立の中誰も出てきやしないさ」
「でもっ……!」
掌で少し昇ると、お腹はひんやり冷たい。しばし暖めてから、再び下りて、ゴムを潜って湿っぽく温かい滑らかな肌をなぞった。人差し指と中指は、すぐに自己主張烈しい性器の根元に突き当たる。
「大丈夫、誰かに見られたって。ナップはすごく綺麗だし……」
ゴムを引っ張って、ツンと尖った性器を取り出した。
「ここだって、小さいけど元気で、すごく可愛い」
うん、と自分で言ったことに頷いた。
ナップは俺の性器を舐めてくれる。俺がそうしたことに驚いたし泣いたけど、純粋に愛情と性欲に則って行なわれると知って、一般的には不要とされる努力を惜しまない。大変嬉しいし、不器用なりに一生懸命な舌にはいつも幸福をもらうのだけど、俺の性器はどこがどうと言って特徴のあるものではない、二十四の男の性器の平均点として図鑑に載るようなものであって、言うなれば綺麗な印象はどこにもない。グロテスクと見る向きもあるだろう。
「……っ、ん……!」
対してナップの性器は、……今も俺の指の先でぴんと弾んだ。穢れを知らぬ少年の甘酸っぱさを具現化する一つの形態だと思っている。確かに小さいし、俺が其処を間近で見させてもらうようになってからもうすぐ半年になるけれど、相変わらず頬擦りしたくなるようなすべすべの感触。ミスミさまのおうちで、スバルも含めて三人でお風呂に入った。スバルと比べて何が違うって、身体に比例した大きさ以外……。
誰が見たって。それこそ、女性が見たって、可愛いと喜んでもらえるような気がして、それがなぜか、俺の誇りだった。いとおしさを篭めて、手で包む。くん、と一つ、弾む。
ナップの首筋に熱を見て、唇を当てた。声混じりの浅い呼吸を聞きながら、俺は俺の息の音を聞かせる。君愛しさで興奮する俺がここにいるよと教えるために。
「せんっ……せぇ……っ」
ナップの性器の先端に、透明な露が浮かんでいる。緩やかに扱けば、僅かずつ量を増す。
「こんなに熱くなってる。……外なのにね? それとも、外だからかえって興奮しちゃう?」
「待ち侘びる」という言葉がしっくりくる。両手で俺の腕をしっかり掴んで離さないのは、十三歳なりの価値観で、自分の手ではなく恋人である俺の手による射精を求めるからに違いない。
だからこの手を解いた。
「おしまい」
ナップが身体を強張らせて、俺を見上げる。その視線に構わず、パンツとズボンを上げた。ちゃんと、ボタンも留めて、膨らみさえ気にしなければ、何ら問題を差し挟む余地は無し。
言葉もなく、ただ、口がほんのちょっぴり、空いている。
「身体、温まったろ? 雨、まだ当分止みそうにないから」
空は相変わらず黒と灰色の無秩序が支配していた。叩き付ける雨に、海はどこからが砂浜かも瞭然としない。水平線がきらきら眩しいのが、去り往く夏の子の悪戯な笑顔のように思えた。
最後の夕立はもうしばらく続く。
「家に帰ったらすぐお風呂を沸かそう」
だから俺はナップを抱き上げた。下半身は衣擦れさえ快感と変わるようで、その瞬間にも甘えるような声を上げた。
「うん、家まで我慢。俺も我慢するからね」
雨のカーテンに隠されて行こう。ナップは幼子のように俺の肩にしがみ付いて、身を硬くしている。そんな健気さ、愛してる。
家までもつかな、熱い熱い身体を抱きながら、ほんの少し不安に思う。でも、ナップが風邪を引かないことが大事。ね、どうせこの後お風呂に入るんだ。そう、一緒にお風呂、俺、何て幸せなんだろう?
裸にしたなら、何にせよ「待たせてごめん」って言わなくちゃ。