トゥ ロー

 効率的に言えば俺の考えは、少しも生産的なところの無い、愚かの一言で片付くようなものだろう。けれど、俺はまだ続いているらしい青春の最後期に抱いたこの恋心を、安易にしまいこむことが出来ないでいる。ティーンエイジャーの甘い夢。抱きつづけていればどこかに隙間が生まれて、そこからするっと入り込めて、その中でその奥で俺は幸せを見つけることが出来るんだと――何年ぶりだろ、こんな風に手前勝手な夢想に耽るのは。

 いきおい、一日中そういうことばっかり考える。時間を眼中外に置いて、好きな子のことを考え続ける。

 諦めかけた心に、ナップが戻ってきたからだ。俺はこの幸せの、一日でも長く続くことをただ願う。軍学校に無事合格して、でも、ひょっこり俺の腕の中に帰ってきて、俺をじっと見て、

「ここが一番いい」

 と悪戯っぽく笑って言った。

 俺は自分の胸が緩やかに締め付けられるのを感じる。

 そして、戸惑う。この幸せを手放したくない、けれど、どうしたらいいのか? わからない。誰に認められた訳ではないし、俺も、もちろんナップも、これからのことは少しも覚束ないのだ。ただ、暫定的な幸福が齎されたことだけが事実で、俺は相変わらずナップのことばかり考えて一日を過ごしている。島の子供たちを一緒に教えて、それから俺からナップへ教えられることを片っ端から少しずつ教えて、一緒に食事をして、そればかりで終わっていく一日一日が、俺には切なくなるほど幸せなのだ。

 ナップは俺に、

「先生のこと、大好き」

 と、一言で全てを壊すことを平気で言う。

 相変わらず俺は、その嬉しすぎる言葉に、まだ答える術を持たない。

 ナップも俺がまだ、何にも出来ない子供も同然だということを理解しているからか、それだけ言って平然としている。別に、自分が極端に倫理的であるとも思ってはいないし、一方で性の俗悪を強く持っているとも。ただ、俺にとっては畏れ多いほど幸せな今を、ただ崇拝するだけで過ごしたいと言う、この上なく怠惰な感情も併存することは、否定しない。

 もちろん、俺だってナップのことは大好き、大好き、抱きしめて息が止まるまでキスしていたいほど大好き、それは本当の俺の気持ち。だけど、俺にはそれがどうしても出来ない。ナップが全部容認してくれていると言うことが、ほぼ事実として想像出来ていても、なおナップに触れるということに、俺は二の足を踏む。もちろん、相変わらず一緒にお風呂には入るし、一緒に昼寝をすることもある。何も変わっちゃいない。変えられない俺に俺も焦れている。しかし――俺は自分が道徳的とも思わないが――大人として想像するに、ナップは結果論として全部容認はするだろうけれど、何があるか、どうなるか、そういったことはほとんど想定していないであろうと言うことは容易に想像が付くのだ。だってまだ十二歳。俺が十二歳の頃って言ったら。何してたろう? 何を考えてたろう? 自分なんかと照らし合わせて考えるほど意味のないことも無いだろうけれど、とにかく、「やっぱり駄目だ」と俺は首を振る。

 一番大好きだと思う子のことを思い、一番大好きな子の願いを叶えられない。いいや、こうして抑止している段階でも既に願いは叶えられているのだ。そうじゃない、やっぱりあの子の願いを全部叶えてみせて初めて及第点だ。俺の中にこれだけの人間がいたのかと驚くくらい、幾つもの異なる意見が錯綜するが、大きく纏めてしまえばそれは全く二分される。身もフタも無い言い方をしてしまえば、「するのか」「しないのか」。確かに、単純にそれだけの問題だ。しかしハムレットの例を牽くまでも無く、この問題は構造が複雑でない分、とても困難だ。

 事実はひとつだけ。俺はナップが好きで、ナップも俺のことを好きでいてくれる、ということだけ。その背後に、俺が考えるぐたぐたしたことがあるから、普通なら満場一致で愛のある生活が始まるところ、俺たちに真なる幸福は齎されないのである。

「……レックス? ちょっと、レックス」

 はっ、と顔を上げて、ああそうか、と俺は自分のいた場所が何処だったか気付く。

「……大丈夫?」

「あ、ああ……、ごめん」

 人の領域にお茶を飲みに来て、上の空で考え事しちゃいけないよな……。

「お代わりをお持ちいたしましょうか?」

 俺の手の中にずっとあった紅茶は、とっくのとうに冷めている。……俺の上の空だった時間が五分や十分ではないなということが想像できる。ばつが悪くって、冷えたお茶を一気に飲み干した。クノンは俺の手からカップを受け取り、

「……お疲れのご様子ですが」

 と、静かな表情で見透かすように言った。

 クノンがお代わりを持ってくるまでの間、アルディラはじっと、メガネの向こうの目を俺に当てて、湯気の立つお茶を受け取って、ふっと笑った。

「私が見たってわかるわ。……ちゃんと眠れていないんでしょう」

「う、……ええと……、うん」

 俺の頭の悪さは、頭のいい彼女にはどう映るのかな、とちょっとだけ不安になる。「バカね」なんて同情に満ちた微笑をされてしまったりしたら、俺としては救いが無い。

 ……そうだよ、俺は今日、珍しくここまで来てお茶を飲ませてもらってるのは、他でもない、この聡明な女性にご意見を賜りたいと思ったからだ。

 いや、迷ったんだよ……。こんな俺の、愚かな悩みを、誰かに共有させてしまっていいものかどうかと。正直、苦しくてたまらないんだ、どうしたら救われるのかその方法を模索して。カッコ悪いから相談したくないとは思いながらも、正直、今ふたりに指摘されたように、俺は疲れている。このままでは、いつかナップにも心配をかけるようになるだろう。

「……クノン、ちょっと、はずしてくれるかな」

「かしこまりました」

 ぺこりとお辞儀して、正看護人形は自動ドアの向こうに姿を消した。

「……珍しい、って思ってはいたのだけど……、やっぱり何か、相談があるのね?」

 アルディラはそう言って、細い指先で自分の亜麻色の髪をそっと撫でた。

 俺は、先生を前にした生徒のように、こくんと頷く。

「私で相談に乗れるようなことなのかしら?」

「……うん、……いや、っていうか……、本当は、誰にも言いたくないし……、恥ずかしいから、黙ってたい。相談される相手もいやだろうから……、相談することじたいも、ちょっと怖いしさ」

「でも、相談せずにはいられない?」

「うん……」

 アルディラは、紅茶を口にした。俺も、しばらくはぎりぎりのところで迷って。

 彼女がカップから唇を離したのを見て、決めた。

「俺……、ナップのことが、好きで好きでしょうがない。どうしよう」

 アルディラは、そっと、カップをソーサーに置こうとして、思い切り「がちゃん」と音を立てた、その細い指先が震えている。

 ああ、融機人でもこんな風に動揺してしまうんだ。

「そっ……」

 アルディラは、まるで心臓発作みたいに胸を抑えて俯いて、二三秒、動きを止めた、それから、恐る恐ると言った風に、俺を見て、

「……それは、貴方、……本気、なの?」

 と途切れ途切れ。

 ああ、やっぱり、そうだよな、動揺するなっていうの、無理だよな。……言ってから、「あ。アルディラに妙な偏見持たれたらやだなあ」って気付く……、まあ、もう、いいや。

「うん、本気だよ。……もちろん、単純な話じゃないって事は、わかってるけど」

 アルディラは、……怒ったような声を出した。

「自分が何を言っているか解っているの?」

 ……怖い……。萎縮するしかないじゃないか。

「貴方ね……、相手は、まだ……ほんの子供……いいえ、それ以前に男の子じゃないの! 貴方はあの子の教師なんでしょう? それを……それなのに……」

「うん、解ってる。すごい、言いたいことはよく判る。判るから、……解ってるから……、だから、困ってるんだよ、どうしたらいいのか、判らないんだ。何度あきらめようとしたか解らない。ナップを向こうに置いて、もう苦しまなくてもいいんだって思ったんだけど、でも……駄目なんだ! 俺はナップの、俺を好きって言ってくれる気持ちを、無碍には出来ない」

「……あの子が、貴方のことを好きって言ったの? ……え? ちょっと話が見えて来ないんだけど……」

「うん……、最初は、あの子が……いや、正直に言えば一番最初は、俺が『ナップ可愛いなあ』って、教師が生徒見る以上のキモチで、ただ漠然とそう思ってて……、そしたら、ナップが『先生好き』って、言ってさ……。何度、どうにかしちゃいそうだったか知れない。けど、俺、ずっと我慢してたし、今もしてるんだ……、そりゃ、やっぱりさ、取るべき道はひとつって、わかってるんだよ俺だって。でも、でもさ、それでいいのか、本当にわからないんだ。俺は、正直に言えばやっぱり、ナップのことが好きで好きでしょうがないし、ナップだって俺のこと好きって言ってくれてるし……、だから……どうしたらいいのか……」

 相談とは、相談をするという行為自体が重要とも言われる。悩みを誰かに打ち明けた時点で、悩みの半分は解決していると。それは、俺が思うに、自分の気持ちを言葉にすることによって、「あ、なるほど、俺はこう言うことを考えていたのだな」ということが、冷静に理解できるから。

 でも、俺の言葉は、自分で反芻してみても、混乱の極致にあるものだ。単純に迸りそうな欲求を抑えようとしているだけのものに過ぎないだろう。

 アルディラは深い深い溜め息を吐いた、まあ、無理からぬことだろうと思う。

「……少なくとも私は……」

 伏し目がちなこのひとはとてもきれいだ。少なくとも、この女性の美しさを、俺は解る。知的な目元、穏やかな振る舞い、頼もしげで、しかし、どこか儚く消えそうな印象すらある。時折見せる笑顔が、どうしようもなく人懐っこくて、けど、寂しげで。男ならこのひとを好きになっても何ら不思議はない。しかし、俺はアルディラのことも凄くすごく綺麗だなあ、美人だなあって思うのだけれど、ナップの微笑を見るときのように胸をときめかせはしない、そして、これをやっぱり異常と言うのだ。

 何とも言えない、気まずい雰囲気になって、……アルディラがまたひとつ溜め息を吐いたあと、切り出した。

「……。レックス……、こんなことを聞きたくは無いのだけど……」

「……うん、正直に答えますよ」

「貴方……過去に、女性経験と言うものは、なかったの?」

 俺は、お茶を思い切り噴出した、……咄嗟に横を向かないでいたら、アルディラの顔面直撃していたところだ……、危ない……。

「ご、ごめ……、ふげ」

「落ち着いてからでいいわよ、答えるのは……」

 散々噎せて、吹き散らして汚した床をせこせこと拭いて……。何やってんだかな、俺はほんとにもう。

「……で……、え、ええ、と、女性、女性経験?」

「……そう」

「そ、それは……、いや、その……、うう、これ、言わなきゃダメ? ノーコメントで誤魔化せない?」

「強制はしないけど、ね。嘘をつくくらいなら言わなくてもいいわ」

「……うう……」

 目線を泳がせながら、俺は、顔から湯気が出るくらい真っ赤になっている、一方でアルディラは、静かな表情で俺を見ている。

「……あるよ……、いちおう」

 無意識のうちに口を、子供が言い訳するようにとがらせてしまいながら、俺は言った、言ってやった。

「あっ……あるけどっ、それが、何だって言うんだ」

 アルディラは……、いや、こう言う話題はどうかとも思うんだけども、彼女は俺に、ハイネルさんとのことを、教えているから、だからまあ、それは彼女の勝手で言ったって事も出来るんだけど、でも、その、なんだ。

 アルディラは、アンニュイな溜め息を吐き出す。

「そういう経験をしていながら、貴方は女性よりも、男の子の方がいいって言うの?」

 ……こくん、お説教をされてる子供みたい。

「男の子じゃない、ナップがいいんだ、ただ、全ての女性よりも男性よりも、ナップが俺の中では一番なんだ。ただ、……俺は、ナップと、その……ええと、せ」ここで、声が裏返ったので、俺はお茶に手を伸ばしている。「せっ、せっ、性行為をしたいって訳じゃ、無いんだ……。いや、もちろん俺も、男だから、そういう欲求を持ってるって事は、否定しないよ、でもさ、その、それがメインでナップのことが好きなんじゃない。もっと、こう、精神的に、俺はナップとずっと一緒にいたいって、そう、思うんだ……」

 アルディラは、なおもじいっと俺を見つづける……、うう、泣いちゃいそうだよお……。

「バカな人」

 ……ほとんど、涙目になっていた俺に、しかしアルディラは、ふっと微笑んだ。

「もっと得な選択肢なんて一杯あるでしょうに……。でも、一番貴方らしい。……そういう不器用なスタイル、嫌いじゃないわね」

「え……?」

「本当はね、……これは多分、私だけじゃないと思うけど……みんな、薄々は感づいているはずよ、貴方があの子を、ただの生徒だなんて思っていないこと……。さっきは正直、ちょっと驚いたけど」

「え」

「だって。貴方のナップを見る目は、他の誰を見るときよりも、ずっと、ずっと優しそうなんですもの。……正直、あの子がちょっと羨ましかったわ」

 アルディラは、そして、ダメな息子を見るような眼になる。

 そういう目をされると、俺としては、どうしたらいいのか見当もつかなくなる。

「まあ、……頑張るしかないんじゃないかしら? 何もお手伝いは出来ないけど、応援はするわ。大丈夫、……形がどうであれ、大切なのは純粋に想う気持ちじゃないかしら。貴方たち人間の心は、きっと素晴らしい可能性を秘めているはずだから」

 俺としては、もう語るべき言葉もなく、ただこっくりと頷いてしまうばかりだった。ただ、アルディラの優しい言葉に感謝して、まだ半分ほど残っているお茶を、ゆっくり時間をかけて飲むことにした。

「確かに、可愛いものね、あの子は」

「……うん、可愛い、すごく、可愛い」

「貴方の気持ちも判るわ。……私には経験が無いけれど、……同性愛という関係は、ある意味では最も崇高な恋愛関係ではないかとも思うのよ」

「いや、俺は別に、ナップが男の子だから好きなわけじゃないんだけど」

「でも、形式としてはそうなるでしょう?」

「う、それは……、そうだ」

「戸惑う必要は無いわ。貴方の、そのどうしようもない優しさ、思慮深さがあれば、怪我をすることは無いはずよ、縦令相手が男の子であっても……」

 その力に、少しだけ、でも、確かに力を得て、俺はまた、こっくりと頷く。

「あの子がそれを望むのならば、叶えてあげられる立場にいることを、幸福に思ってもいいんじゃないかしら」

 俺は頷きながら、俺がナップを愛する、ただそれだけの行為に問題があるのではなくて、この広くは無い島にも問題は無いし、だったら一体、どこの誰が、ナップと俺の間の障壁になれるのだろうと思った。

 そして、ナップはもうすぐ十三歳になる。


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