成長放棄

「先生の、でかいんだなあ……」

 ナップは俺の裸の一点を、具体的に言おうとしても具体的に言うのは憚られるような場所を見つめて、感心したようにそう言う。慌ててタオルで隠し、反射的に真っ赤になってしまったのは、なんだか、そう、この格好のまま人前に出されたような気になったからだ。

 照れた俺を、ナップは笑って浴槽に飛び込む。

全裸というのは恐らくは、少年の特権である。きっと五歳くらいまでは人前で全裸でいても、文句は言われないだろう。十歳から十代前半――即ち二次性徴を迎える以前の時期――までは、さすがに裸を人前に晒すことには大きな抵抗を伴うけれど、例えばバスルームにおいて同性の前でタオルを外すことくらい何でもなかろう。十代も半ばになると、例え相手が同性であれ、つまらないプライドが働いて、タオルはきっちりと巻くもので、然るに二十代も慣れた俺がなぜいまタオルをしていなかったといえば、もう俺も在る意味ではこれから暫くすれば、嫌なことだが中年になっていくわけで、恐らく深層においてその第一段階として「風呂場での羞恥心の欠如」が始まっていたからではないか。羞恥心を喚起させ、タオルを巻かしめたナップに感謝するべきかもしれない、まだまだ若い行動が取れるわけだ。

でも俺は、というより、殆どの大人がそうなのだろうと思うが、少年が少年らしく振舞う様を見ると、羨ましいと思う。つまり、波打ち際で、あるいは川岸で、下着一枚あるいは全裸になって遊んだりする様を見ると。さすがにナップはもう全裸になったりはしないのだろうが、回りに異性の存在がなければこの子はなら十分、下着一枚くらいはするだろう。俺たちはもう、そんなことは出来ない、ゆえに、非常に羨ましい。俺たちがやったなら犯罪である。少年だから許されるというのが、納得いかないが羨ましい。

「なあ、オレも大人なったら先生みたくなるかなあ」

 ナップは浴槽の淵に肘を突いて、タオルの中の俺をじーっと見ている。気分的に良いものではないが、まあ、好きにさせておいた。

「それは……、まあ、そうだろうね。大人になったら」

「毛も生える?」

「ああ、生えるだろう。大人には色いろなところに毛が生えるからね。だけど、頭髪……髪の毛に関しては薄くなる人もいるし、不思議だね、人間の身体って」

 ナップはなお、じいっと俺の一部分を見つめて憚らない。

 少年という生き物、こう言うところが多少困るんだよなと思う。人の精神状態、「心」と呼ばれるものを、少年は巧みに手のひらへ置いてしまう。それをころころ転がして、時々とんでもなく残酷なやり方で、ぷちっと潰してしまう。指が汚れていやな気をすればそれでお終いで、罪悪感は伴わない。俺は今、ナップの手のひらでころころ転がされる団子虫になったような気分でいた。

 少年は人の気を知らない。ナップはふと、飽きたように、「うーん」と背伸びをして、浴槽に身を横たえた。俺は何となくほっとして、そして恐らくは大人の汚い部分ではがっかりして、身体を洗い始めた。

 俺は教師をやっている訳だけど、自分が教師に適任だとは思わない。もっと他に、しっくりくる人間がいただろうし、俺にしっくりくる仕事もあったろうと思う。しかし、何の因果かこうしている以上、俺はやり遂げるべき責任があるのであって、それを多少の理由で放棄してはならないことは、よく判っている。

 のだが、決定的な資質の有無というのは、問題にして良いのではないだろうか。俺は教師をするには余りにも人間に過ぎる。俺は決して平等な人間だとは言い切れないだろう。

 こんな風に、ひとりといつも、風呂に入る、周囲には秘密で、互いにばれないように、不道徳な真似をして。幾つか並べた今の理由だけで俺には不向きの職業だということが、つまり俺が教師をやるには余りに人間だということも、そして、在る意味では人間ですらないということも……、判るだろう、だから俺は、団子虫なのだ。丁度いい隠れ石なんだから、退けないで下さいよ。

「先生さあ、ひげってはえるの?」

 バスタブの淵を跨いで入ろうとした俺の、今度は顎の下をじいっと見上げてナップは問うた。俺は苦笑して、「そりゃあ」頷いた。

「生えるよ、ちゃんと生えてくるよ」

「でも、生えてるの見たことないよ」

「それは、だって毎朝顔を合わせる前に剃ってるんだもの。無精髭なんてみっともいいもんじゃないからね。まあ、俺はさほど濃くない体質だから、二三日放って置いてもどうって事はないけど」

「ふーん……」

 興味深そうに、俺の顎をじっと見つめている。あまり見つめられることに慣れていない部位なので、妙な気がする。そう思って我慢していたら不意に、

「オレにも生えてくるのかなあ」

 とナップは聞いた。俺は苦笑して、

「もちろん」

 と答えてあげた。

 二次性徴少し前、気になるのも無理はないと思う。格好の質問標的がここにいるわけで、聞かずにはおれないというのも、よく判る。だから俺はナップの一つひとつに、倦む事なく答えた。無論、時折困ってしまうような質問をされることも在って、「赤ん坊はどこからくるのか」なんていうのはその筆頭だ。

「……そう、赤ん坊かあ」

 いつかはされるだろう、いつかは。そう思っていながら、結論を先延ばしにしていた俺は、困惑した。

「俺が子供の頃には」

 というのは、我ながらいい持っていき方だと思った。そう、「俺の子供の頃」と、「今」と、赤ん坊のやって来方はきっと違うのだ、そうに違いない。

「コウノトリがつれてくるって言われていたけど……、最近はどうなんだろう。最近の流行はどうなんだろうね、ナップは知ってるかい?」

 逆にこちらからナップに聞いて、話を有耶無耶にしてしまう、これがきっと最善策だっただろう。

 ところがだ。

 迷惑な人もこの世界にはいるもので、それを俺は責められない、そういう人の世に出ることは止められないし、きっと彼も一切の悪気は無く、単にナップに同じことを訊ねられて、素直に答えてしまったのだろう。彼にはだから、一切の悪気は無かったんだ、だから彼には、悪気なんてなかったんだ、悪気なんてなかったんだ、繰り返し自分に言い聞かせないと、彼に怒ってしまうだろうから。

「ここにね」

 ナップはざばあと立ち上がって、自分の、具体的に言うことはまた差し控えるが、ある部分を指して、

「種が入ってるんだって。そう教わった。女の人の体の中には、種が植わる土があって、そこで花が咲いて実が成って赤ん坊が生まれてくるんだってさ」

 ぎゃふん。

 ナップが指差して見せながら言ったりするものだから、そんなリアクションをしてしまった。指差して言われたら、俺だって見るしかないだろう、目を背ける理由がもしあったなら、それは口に出せないような代物。

「ああ、そうなんだ」

 だけど建前は冷静な微笑を崩さず、

「それが最近の流行なんだね」

 まだ自分の思いつきにしがみついて、そう言い通した。言い通したことが良かったらしい、ナップは納得したように、またお湯の中に身を沈めた。助かった。心臓がばくばく言っている。お湯が濁っていてくれてよかった、ナップのその部分を見ようと思っても見えないし、凝視した結果に自分の肉体が変形してもそれを見咎められることもない。二重の安全設計になっている。

「オレ、熱くなった。もう出る」

 ナップは額や鼻の頭に細かな汗のしずくを浮かべて、立ち上がる。ひょいと浴槽の淵を跨いで、タイルを踏んで脱衣所に出て行こうとするから、

「ちゃんと身体拭きなさい。湯冷めするといけないから、足にも水をかけて」

 と、一応の注意をする。目の前を、……本当にちょうど目の高さで、横に移動して行ったものの残影を消すために、ナップの顔だけを見る。

「風邪なんかひかないよ。先生いっつもそう言うけどさ、夜だって暖かいんだぜ、ひくわけないじゃないか」

 口を尖らせてそう言う。俺は咄嗟には言葉が浮かばず、仕方なく立ち上がって、彼を抱きとめて、膝から下に冷水をかけて、身体をよく拭いた。水をかけられるとき、彼は甲高い悲鳴を上げて、それが浴室の中にけたたましく響いた。

 

 

 

 

 さっきまでその裸を眼前で見ていた。見られていたことをナップは少しも恥ずかしがってはいない。そんな無邪気さがとても愛らしく、また、羨ましい。俺には無いものを、ナップは持っているんだと思うと、俺も出来れば彼くらいの頃に戻って無邪気に遊びたいと思ってしまう。これは小児性愛者の思うことだろうか。多分、そうだろう。しかし過ぎ去った時のことを懐古するのは誰もが同じことであろう。大人になった今、楽しく水際で裸になって遊べるなら遊びたいが、社会がそれを放擲しておかない。

「先生、おやすみ」

 部屋まで送っていって、俺は微笑んで「おやすみ」と言って、そこからは一人だ。一人だから、なんだか寂しい。くるくる変わるナップの表情や、刺激的な言うことに踊らされている間はそれこそ無我夢中だから、激しく楽しく、そしてある点では落ち着いているとも言える。逆に一人になってみると、とても、なんだかこう、ひとりぼっちを強く感じて、弱くなったような気になる。守るものがいなくなったわけだから、本当なら、強くなっているはずなのだけど、その強さが自分で感じられなくなっている。

 歌の文句。「寂しいという気持ちを始めてぼくは覚えた」、もちろん、俺がこの感情を覚えるのは初めてのことではない。過去二十何年間に何度も覚えてきた。しかし、覚えるたびに、自分にとってコレが最初で最後の感覚だと思いたくなるのだ。

 信じたい気になるのだ。

「馬鹿みたい。ティーンエイジャーじゃあるまいしさ……」

 俺は一人部屋のベッドの上で座って、そう、天井を見て笑った。天井を笑った。なんだか酷く重苦しい気持ちになって、ベッドに横たわり、眠った。何も考えずに眠ってしまおうと思った。

 何も考えずに。だけど、考えてしまうもの。俺は、色いろなことを考えた、それこそ、普段よりももっとずっと、色いろなことを。

 さっきの歌の主人公は、「君」に「会いたくて」、もう風のように速くは歩けなくなった。そう例えば俺も、上手に物を言ったり考えたり、出来なくなるのかな。同じように。そう言う経験はコレまでだって何度もしている、はずなのに、またいつも、初めてのように、怖くなる。自分が自分でなくなってしまうような。多く見積もっても半分くらいの自分でしか、なくなるような――

 ティーンエイジャーじゃあるまいしさ……。

 ティーンエイジャーだったら楽なんだ。俺は、自分の立場というものを弁えなくていい。ただ本当に思ったままを口にすることが許されているんだろうから。プライドの問題さえ、我慢すれば、どんな風にだって俺は言える、思っていることを、素直に、この舌と口で、下手糞な言葉であっても。然るに、今の俺はそうは出来ない。ティーンエイジャーではないから、どんな風に強く思っていても、言うことは出来ない、許されていない。色いろな障壁が、俺の前には存在していて、それが俺の理性となって、俺を止める力になる。そのことは、多分感謝すべきなのだろうが、俺にはどうしてもそれら、目障りにしか見えないのだった。俺の抱いている感情の前には、それら全ては無力にすら成り得るものだろうし……。

「参ったなあ……」

 と、口に出して言ってみる。すると、本当に参っているような気になるのだから不思議だ。

「参った。……参ったなあ……」

 繰り返し口に出してみる。

 どこか愉快そうな自分の声の響き。いやらしい大人になった俺は、どうやら少年に回帰したようなこの感情の、自分の中に今に至って生じたことを、歓迎しているようだ。若々しい、溌剌とした感情。果汁の滴り落ちるような新鮮な感情、俺の中にまた生まれて、俺をティーンエイジャーに回帰させる。なるほど、俺が本当にティーンエイジャーになればいいのか。無理な話だと最初から否定しないで、その可能性を考えてみる。一度生じた感情は、宿主の理性や社会的な通念や周囲の勧告によって変化するものではない、一時的な抑止効果を得られるばかりだ。その感情は生まれて、死ぬまで、宿主の中から突発的にいなくなるたぐいのものではない。その感情の死ぬためには、その感情の本懐を遂げてやらねばならない。

 眠くなってきたからだろう、そこから俺の考えたことは、あまり論理的ではない。最も、この種の感情を語るときに、論理が通用するとも思えないが。

 ただ、俺は徐々に消え行く意識の中で、やけくそな結論に辿り付いていた。

 ティーンエイジャーに戻ろう。

 戻ろうと思っても戻れないのが、二十代になってからのティーンエイジャーであることは、判っている。恐らく、俺がもっともっと大人になって、四十代、五十代になって、なお二十代のことをしようというのは、体力的にどうかは不安が残るが、感情的には可能なはずだ。実際、俺はそういう「大人」がいることを知っている、見たことがある。しかし、二十代からティーンエイジャーに回帰することは、ほぼ無理なのだ。

“大胆に、しかし、あざといくらい、繊細に……”

 ナップの意識がどういう方を向いているか俺に知る術は無い、ただ、俺はナップに対してはティーンエイジャーでいよう。

 “新鮮な、果実のように、滴るような……”

 ナップがそれに対してどう思うか、俺に対してどう変化を見せるかは判らない。ただ、抱いてしまったものを否定は出来ないのだし、否定してはかわいそうだ。在るものは在り、無いものは無い、これは間違いなくあるのだから。

 “好きなものは好きと言える気持ち抱きしめて”

 行けばいい。

 行くところまで行ってしまえばいい、迷惑をかけなければ、そしてもちろん、ナップのことを悲しませる結果を招かなければ。ティーンエイジャーな俺と「教師」の俺とは別物だと考えてくれ……、そう解釈してくれ、……なあ、良いだろうレックス、そう、誰よりも、俺。

 暴力的な結論に至って安心したか、俺はその直後に眠りに落ちたような気がする。そして、大した夢も見ずに翌朝、ナップが起こしに来てくれるまで、珍しく長く眠った。

「先生、大丈夫? なんか、目の下クマあるぜ」

 その割に、気持ちのいい目覚めだ。俺はナップに「大丈夫だよ」と微笑んで、例えばその髪をくしゃっと撫でて感じる手のひらの悦びを伝えられるものならば全世界に伝えたい、少なくとも俺の周りにいる人たちには教えてやりたいと思った。しかし、もう俺は「教師」の俺だから、飲み込んで、

「起こしに来てくれてありがとう。これからももし俺が寝坊するようなことがまたあったら、その時はナップ、頼んだよ」

「うん、わかった。先生が遅かったらオレ起こしに来るよ」

 一つ約束をした。もう、寝坊が怖くない。


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