俺は、俺は俺は俺は、俺は、俺ことレックスは、つまり俺は、一般的な人間でありたいと思うし人の道を外れたくないと思うし、しかしながら自分に対して素直でありたいとも思う。非常に贅沢でありながら誰もが願うことを当たり前のように願い、そしてそれは自分で努力すればいつか必ず叶うものなのだと、少なくとも努力しつづける限りは転倒して全く逆の方向へ落っこちる可能性はないものだと、信じていた。
それが、呆気なく、ぼろぼろ、ぼろぼろ、がらがら、がらがら、がっしゃん。
俺は判らない。今どうしたらいいのかが、あの時、どうしたらよかったのかが、これからどうしていけばいいのかが、何もかも、何ひとつ。こんな体たらくの癖に、偉そうな顔して教師なんてやってたらしい。誰かに指摘されたい馬鹿にされたい、マゾヒステリック、すなわちマゾヒスティックにヒステリックに望むその訳は、俺が全く判らないから。お前のココがおかしい、そこが間違っている、そう声高に指摘されて非難されて笑われて俺は始めて、自分の問題点に気付くだろう。そしてその解決策にもたどり着けるだろう。
然るに指摘してくれる人のいないいま、俺は恐ろしいサスペンシヴな状況に身をぶら下げている。
一緒にお風呂に入ろう、最初に誘ったのは、断っておくがナップだ。「先生の背中流してやるよ」という魅惑的な誘い文句と共に。俺はそれにほいほいと引っかかっていつからか習慣になった。ナップはあんなことを言っておきながら、実際俺の背中を流してくれたのは最初の二回だけで、後はほとんど何もしてくれない。浴槽に一緒に入って、ただ何となくおしゃべりをして。俺としては、俺の中に最初の頃からあったことは否定できない邪な欲求があったから、ちっともつまらなくなくて。寧ろ俺がナップの背中を流してあげたり髪の毛を洗ってあげたり濡れた身体を拭いてあげたり。そんな他愛もないことが俺には楽しかった。そしてナップも言ってくれた、「アンタと風呂入るの楽しいよ?」、小さな言葉に俺は何度天上界へ赴いたか判らない。
「ああら、今日も一緒なの? 仲良くっていいわねえ……、たまにはアタシもご一緒しちゃおうかしら」
と、スカーレルが冗談とも本気ともつかぬ口調で言うほどに、ナップと俺は確かに仲が良かった。
正直俺は自分の、家庭教師という仕事を幸福なものと思った。そしてその初仕事において、ナップという子を生徒に持つことが出来て幸運だとも。
ナップは、うん、今更俺がここでぐだぐだ並び立てる必要もないだろうけれど、やっぱり並びたてたくなるくらい、いい子だ。いわゆる、頭のいい子という訳ではない、本人も認めている通り、勉強はあまり得意ではない。しかし、いい子、の言葉の守備範囲というのは広い。勉強なんて出来なくても、ナップはいい子だ。そして、勉強が出来るようにもっともっと頑張るというナップは、とってもいい子だ。そして剣術は得意、いつか俺を抜いてくれるに違いない、いい子だ。
親ばかじゃない、教師バカ、というよりもバカ教師。
しかしそういうバカなら進んでなるつもりの俺だ。
ナップを見ていると幸せになれる。ナップは、顔も可愛い、と俺は――他の人の意見を聞いたことがないのでみんなどう思ってるかは知らないが――思う。少なくとも、判断する人間よりも著しく年の下な存在が例外なく「可愛い」と思う以上の理由で、可愛いと。負けん気の強い内面が一番よく現れている目や、尖らせて何か言いかけるときまるでキスしたがってるみたいな唇は、誰が見たって……と思う。俺に言わせれば髪の毛の跳ね具合、すべらかなほっぺた、そしてお風呂に一緒に入る俺しか知らない後から見たときの腰からお尻にかけてのラインとか、可愛さだらけでもう……。でもこれはきっと、まだ俺だけしか知らない、という以上に、「わからない」可愛さだろう。
実は。
実は、……という風にどきどきしながら告白してしまうと、俺はナップのことが好きだ。
この「好き」は食べ物の好きとか友だちとしての好きとか行為としての好きとかとは訳が違う。内奥からフツフツ湧き出てどこへも逃げ場のない思いとして誰もが抱く「好き」だ。
俺がいくら盲目的になっているといっても、一応ナップが男の子、すなわち、同性でありその上俺と十ほども年の離れた子供であるということは重々承知している。更に言えば、俺と彼の関係はこの世で最も神聖不可侵と考えられる、教師と生徒であるということも。
それでいながらその気持ちもまた、自らこそ神聖不可侵であると主張して俺の腹の底に居座った。俺の理性がそれを精一杯の力でどかそうとするのだけれど、何か小さなきっかけ一つによっても理性は敗北する。例えば、ナップが俺の背中に纏わり付いてきた、ナップが怖い夢を見たと口を尖らせて偉そうに「一緒に寝かせろよ」と言ってきた、……ふざけて俺のほっぺたにキスをして来た、「ビックリしてやんの」、俺を指差して笑って。理性は理性自身の理性を失って、泣きながら俺の手の届かないところへ隠れてしまった。恋愛感情は正しさという力を持ち、今や俺の行動を制約しうるまでに増長した。
しかし、それでも、これは理性とは少し違う、責任感が俺を抑制していた。やっていいこととやっていけないこと、しっかりと線引きをした。俺はナップが好きだし、ほんとにほんとに可愛いと思う、だけど、それは俺の中でのみ生きていてよい命であって、一歩出たら許されぬもの。だから俺は口を閉じてそれを少しも漏らさぬよう心がけることが出来たのだ。
それが、だ。
他ならぬナップの、本人は全く無意識の行動によって、呆気なくも崩れてしまうのだ。
それが、あの夜の風呂場での出来事だった。思い出すだに、俺は胸にぞくぞく悪寒が走る。どうして、どうして、どうして。今はナップから直接聞いた後だから、何が彼にそうさせたのか判っているけど。いまだに、あの夜を思い出しては、俺は泣きそうな気持ちになる。泣きそうな気持ちになりながらオナニーをする、そしてし終わって本当に泣くんだ。
だって、……だって、だって! だって!
俺は悪かったのか? それとも間違ってなかったのか? あれは正解? それとも不正解? 誰か教えてくれ。そうでないと俺は……、俺は……。
ざばーふ、とナップが俺の頭にお湯をかける。洗ってあげるよとの嬉しい言葉に、素直に甘えることにしたのである。正直なところを言えば、ナップにはまだ人の頭を綺麗に洗うということが上手に出来るほどの器用さが無い。だからシャンプーをつけても、ただつけて泡を立てておしまい、という感じなのだが、それでも俺は自分の髪の中をナップの指が不器用に泳いでいるという事実を満喫していた。満遍なく泡を立てられ、その途中何度か俺の髪の毛を珍妙な形に変えて笑って、それからまたざばーふとお湯をかけて濯いでくれる。自分で顔を拭いて頭を拭いて、ありがとう、と言った。もう身体は洗った後だから、あとはもうひと温まりして、出るばかりという時。
ナップは唐突に言ってきたのだ。
「なあ、先生知ってる?」
ちょっと生意気な笑顔を浮かべて、俺を侮るように言った。俺はまだ余裕のある表情で、ナップと一緒に浴槽に身を沈めかけた。
「なにを?」
「うん、あのね、男のちんちんって硬くなるんだぜ」
つるりと足を滑らせてナップもろとも浴槽に溺れかけた。バランスを少し崩したことなどおくびにも出さないでいられたことは少なく見積もっても奇蹟が働いたとしか思えない。俺の精神の針はたった一秒ほんのひとことで振り切れた。
そんな俺に気付かないで、ナップはへへッと笑いながら、言う。
「オレ気がついたんだ、だから教えてやるよ先生」
その表情は、どこか誇らしげにも見えた。そこにあったのは、いつもは教わっている「先生」に、逆にものを教えているという、子供らしい優越だったろう。
知ってるよ、と答えるべきだったのだろうか?
しかし俺はもちろん、出来なかった。
「そ……、そうなんだ」
苦しく繕った笑顔を顔にべったりと貼り付けたままで。
「ヤードが『自分じゃなくて先生に教えてあげるべきことだ』って言ってたから、先生に教えたんだ」
「……そ、……そう」
「カイルも似たようなこと言ってたな、スカーレルもヤッファも。キュウマは『スバルには教えてはいけません』だって。……ソノラやアルディラには教えてない、男のことだもんな」
「……う、……う、うん」
どういうつもりがあってこの子はこんなことを言ったのか。俺は何とか答えをひねり出そうと躍起になった。単純に男性の身体に起こる変化の意味を知らないだけなのだろうか、それとも――こう考えるのは間違いなく俺に邪な感情があったからだが――俺を誘って、試して、いるのか。
そして、俺にどういった言葉が用意できただろう?
カイルたちは間違いなく俺という逃げ道を利用した。俺なら何とかしてくれるだろうと。それに、生徒が誤解をしているなら、それを正すのが教師としての役割ではないだろうか。そもそもこれくらいの年齢の子を持つことになったのなら、そこに「性教育」という分野の付帯することは避けがたいことだったろうし。
しかし、俺はそれら全てから、一目散に逃げたかった。いやあ俺そんなこと知らなかったなあ、へえそうなんだ、ふうん、すごいねナップは頭良いんだね、そう言葉を並べて適当に笑って。いつか自分で気付くときが来るだろうから、俺に逃げたカイルたち同様、俺もその時に逃げたっていいだろう。大人としての責任を放棄して。
或いは。カイルたちは俺に「逃げた」んじゃなくて、ひょっとしたら俺がナップに対して、あるいはナップが俺に対して、若しくは互いに無意識に、感情を抱いているということを認識した上でのことかもしれない、性質の悪いからかいなのかも、何だかそう考えると酷い、残酷な気持ちにもなってしまう、ナップが可哀想だし自分も可哀想だし、そんな想像をした自分も酷い、残酷だと。
答えに窮していた俺を見て、ナップは二ヤリと意地悪に微笑んだ。
「知らねえんだ? 先生も」
「……あ……、う……」
うん、とも、違う、とも言えない俺を、ほんの少し馬鹿にした表情を唇の端っこにナップは浮かべて、
「じゃあ、教えてやるよ。あのね、ここをこう」
突然のことだったから、俺もリアクションに脈絡なんてなかっただろう。
今考えると、何て滑稽な、そして何て軽率な、バカなバカなバカな、ことをしてしまったんだろうと。しかし、あの行動が正しかったような気もまた、俺はするのだ。正しかったかどうかは判らないが、決して間違いでもなかったような気がする。少なくともああすることで得られたものだってあったはずなのだし。しかし、今となってもあれが正解か間違いかはわからない、俺には判断できかねる。
「せんせ……」
俺はナップの頭を引っ叩いて、タオルだけ巻いて浴室を飛び出し、振るえながら部屋の鍵を閉めた。
「厳しくする」とか「叱る」という行為は、どうしても対象に不快感を与えがちだが、それを目的としての行動ではない。そうすることによって対象が正しい方向へ進んでくれることを祈らなくては、誰も教鞭を振るう権利はない。しかし、思い惑う、俺はどうして、どうして、どうして、あんな風に、ナップを引っ叩いたんだろう。
ナップを、引っ叩いた。
俺は泣きそうになって、涙目になって。
俺が、俺が、この手で。嘘みたいだった。いくら咄嗟のこととは言え、とんでもないところに手が伸びたとは言え、本当にあんなことをして良かったのかどうか。
わからない、わからない、わからない。
ただ俺は、慎ましい振りして情けなく、自分の部屋で震えていた。それは、一番自分に禁じていたことを二つながら――つまり、ナップを怖がらない、ナップを傷つけない――破ったことへの罪悪感、そして、目の前ががっくりと暗くなる恐怖感。
だが、言い訳になるかもしれなくても俺は言っておきたい。俺は要するに決して優れた人間ではないし、俺のような人間を差して「尊敬している」と言ったナップの気があまり知れないような部分もある。俺は考えていることもやっていることも、決して誰かの尊敬を浴びるようなものではないと思っている。理想基地外と言われても構わないくらいの気持ちでいるし、甘すぎるとも思っている。だが俺がそういう考えを行動をするのは単純に自分が楽だからである。俺はだから、ちっとも大した人間ではない、凡人だ、凡人以下と言っても良いくらいの人間だ。そんな人間だから、出来ることには限りがある。ナップのとった行動は、俺の許容範囲を、軽々と超えていたのである。
いつも風呂上りは部屋で、ナップと話をして、心地良い眠気を感じる頃にはナップの時計(もちろん、俺があげたものだ)が十時前を差していて、「じゃあ寝ようか」ということになる。
今日は俺、今が何時何分なのかも判らない。
部屋で、鬱々、悶々。心から来る疲労で、身体は腫れたように草臥れていて、目を閉じるとさっき俺に引っ叩かれて、びっくりしたように、目を丸くして俺を見るナップの顔が浮かぶから、眠ることも出来ない。こういうとき、疲労は眠気につながらないようだった。
どうしたらいいんだろう、どうしたらいいんだろう。そればっかり考えているうちに、俺は自分の無力さに引っ叩かれたような気になって、何度か押し留めていた涙を、とうとう零した。気付いたら膝を抱えていた。本当にダメな人間、負けた人間がするようなポーズを無意識のうちにとっていた。
――俺は俺の行動をどこかで弁護したい。生徒が誤った知識に基づいてとった問題行動を咎めるのは教師として当然の仕事であって、それをなあなあで済ませたりしちゃうことこそ間違っている。だから、俺はあの局面において、ナップの頭をはたいたことは、教師として正解だったんじゃないか。
そう、判っている、からこそ、俺は泣くのだ。教師という仕事を今ほど嫌だと思ったことはなかったろう。やっぱり俺は気構えがなってないんだ。ゲンジさんに厳しく叱られるのも無理はない。俺は家庭教師という職業を甘く見ていた。教師失格、人間失格な自分を知った。家庭教師にしても何にしても、五分でなれる職業なんてこの世には存在しないんだ。俺は何もかも、見通しが甘かった。舐めていた。
俺は呆然と、……こうこうと明るい部屋の中、いまの時間も知らないで、眠くもならないで、ただベッドの上、膝を抱えて座ってる。いい加減涙は乾いたけれど、跡を拭う気にもなれなくて、のみならず何の行動も起こす気にならない。教師生徒の関係を超越して大好きな大好きな大好きなナップを引っ叩いてしまった、その理由はどうあれ、可哀想な事をしてしまったという時点で、俺は胸を捩らせた、そして教師失格の烙印を自らに押した。もう、どうすることも出来ない。全ては終わったのだ。心の芯を氷風が凍らせ、氷の柱になおも吹き付け、ヒビが入って割れて壊れた。
いっぱいいっぱいまで俺は絶望した。思考が色を失っていく、頭の中は灰色に覆われて。
ああ、もう、どうでもいいよな……。
そう思って、ようやく身体を動かしてしたことは、ベッドにうつぶせになることだった。顔を掛け布団に埋めて、ぼうっとした頭で、自分の匂いを嗅ぎ取って、「アンタの匂い、オレ結構好きだぜ」と言っていた少年の顔を思い描き、しかし霞がかかったようにそれは輪郭も覚束ない。
こんこん、とノックの音がして、でも俺はそれを空耳だと感じた。徐々に感覚が麻痺していく、頭をフラットにしたから、眠気がようやく自己主張を始めたのだろう。俺はそれに包まって眠るつもりになって、規則正しい息を保つことだけを、意識していた。そのうち、すとんと落ちるだろう。あとはもう、いい、面倒臭い、明日でいい。
けれど、ぎりぎりのところで掴むように、またこんこんと小さなノックの音がした。
俺はうつぶせになったまま耳に届く音を、聞くともなく聞いていた、少なくとも、その音を拾おうという特段の努力はしていなかった。
こんこん、……三回目のノックを経て、四度目、或いは、一二度聞き漏らしていたかもしれない。
こんこんこんこんこんこんこん。非常識な回数、乱打された音に、さすがに俺は意識をこっち側へ持って来ざるを得なかった。懸命の努力で顔をベッドから持ち上げて、叩かれつづける扉を見た。
そして、かぼそく、ふるえた声で、
「……せんせえ……」
「ナップ!?」
人間の反射神経って、こんな凄い。
俺は跳ね起きて、慌しく扉を開けた。ナップが、そこに立っていた。
「……せんせえ」
「ナップ……、ナップ」
俺は馬鹿みたいに、ただ名前を繰り返して呼んだ。言うべき言葉を全く用意していなかった。脳内は急に色を取り戻し、まだ半ば混乱状態。今こうして目の前にナップがいるということも、半覚醒でしか捕らえられていない。突然の肉体反射に、精神が追いつけないでいるのだ。
ただ、ナップの大きな目が、辛そうな色をしていることだけは、判った。
擦ったように、腫れているのが見えた。
その唇が、かすかに戦慄いているのを。
瞳が不安げに、揺らぐのを。
「……ごめんなさい」
ほとんど無意識にだろう、パジャマの裾を強く強く握り締めて、ナップは言う。
「ごめんなさい、……ごめんなさい……、ごめんなさい……」
何が起きているのか、狼狽しきっている俺には、把握しきれなくて、何を謝られているのかも、ちゃんと飲み込めないでいる。
ナップは、泣きそうなのを堪えるために、何度も瞬きをして、睫毛を濡らす。
俺ははっとして、膝を突いた。
「ナップ……、ナップ、どうしたんだよ、何で……、そんな」
「だ……だって、お、おれ、先生に」
声を震わせながら、言葉の途中でぽろりと涙を落して、ナップは言う。拳で頬を濡らすそれを払い除けようと努力している。
「せんせいに、悪いことした……、さっき、カイルに言われたんだ、謝って来いって、っ、オレ、知らなくてっ……、だからっ、……ごめんなさい、って」
ナップは完全に泣き出して、しゃくりあげながらつかえながら、そう言った。俺はその言葉の、胸に染み込んでいくのを聞いて、……本能だろう、ナップを、抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫だから。泣かないで、ねえ、ナップ」
君に泣かれると、俺は本当に困るから。俺は心から願った。ほんとに、この子の涙を流すきっかけに俺はなりたくなくて。どうか、どうにか、この子の泣かずに済む世界を、俺は造りたいと思った。
「せんせ……」
「うん。大丈夫。怒ってなんかいないよ、俺こそごめんね、叩いたりして。ごめんね、ナップ」
素直に言えばこんなに楽なのに、言えなかった俺。生徒に動いてもらって、やっと俺は俺に戻れた。
「……ごめんなさい……」
「ううん……、いいんだよ、ナップ、俺の方こそ、ごめんね……。大好きだよ」
どさくさに紛れてそんなことを言う、けれど、ナップを安心させるには他に言いようがなかった。
ナップを部屋に招き入れて、しばらく、落ち着くまで、抱いていた。落ち着いたら、ナップは眠りに落ちた。純粋にこの子の眠りを、俺は妨げたくなくて、俺の布団に寝かせた。……もちろん俺は、床に寝転んで、上着をお腹の上にかけて。ナップを抱きしめて眠りたい、安堵と怠惰に塗れたい、そう思ったことは、勿論認めるけれど。
固い床でも、俺はすんなり、夢へ落ちた。
ナップはばつの悪そうな顔で、もう一度「ごめんなさい」と言った。俺は微笑んで、髪の毛を撫でた。寝癖のついた髪の毛、後でとかしてあげよう。俺は朝、一緒に、また話が出来る、笑える自分が、何てかけがえないんだろうと思って、どうしても幸せになるのを止められない。
反省材料も多い。要は、俺もうちょっと、許容範囲を広げることじゃないかな。だって俺のとった行動って……まるで、女の子みたいだった、本当に、笑ってしまうくらい。
正しくなかったにしろ、間違っていたかどうかも証明できない。ただ、俺はこの事件を経て、自分がやっぱり、「外れ」てしまってることに、気付かざるを得ない。どうしたってナップのことを、単なる生徒としてみることは出来ないのだ。俺がナップに対して抱いている感情というのは、「恋心」以外の言葉に置き換えることが出来ないもの。だから、俺は例えばああいう時、純粋に教師としての振る舞いをすることに、強い抵抗を覚えてしまう、どころか、教師としてとるべき行動を取った後に、妙な後悔に苛まれる。健全な状況じゃない。教師として生徒に恋愛感情を抱くのがどうしていけないのか、その答を身をもって知った。俺は率直に言って、今のままナップの「先生」でいることは難しいと思うし、今のままナップの「恋人」を目指すのも難しい。しかし、その両方を大事にしたいなどと、贅沢にも、不健全にも、俺は思っている。そう思うのは、もちろんどこかでそれが可能になると思っているから。
この感情は、誰にも言えない。
言えば激しく非難されるだろうし、俺自身も自分の間違いを確信して、やめてしまえるだろう。けれど、やっぱりどこかで甘えたいし、努力もしたい、ナップを好きと思う気持ちが教職へのプラスになるとも思うし、きたない言い方をすれば俺は「雇われ家庭教師」なのだからそこから脱却するのは簡単だとも思うし。今、ナップの保護者として在る俺だけど、恋人に立場を転じてもなお、ナップを保護し正しい方向へ導くことは十分に可能だと思うし。……同性愛する時点で、正しくないという人もいるだろうけど。
俺自身、経験はないけれど……、同性愛という形に偏見はない。同性愛というのは一種の自己表現であって、単純に気って捨てられるようなものではないと思っている。同性愛者は両性愛者である時点で、異性限定愛者よりも価値は高いと思っている。スカーレルのことも、俺は尊敬しているし。だから、……だからと言ってまあ、ナップと付き合ってからのことを考えて、「俺たちは間違ってませんッ」と主張する準備をするのはまた、違うとは思うけれど。
こんな風なことを真剣に考えてる、俺の馬鹿なことを、痛めつけるように誰かに指摘されたい。
とりあえず今夜、ナップと二人で、保健体育な話をする時間を設けなければならない。
その時間に向けて、今から少なからずの興奮を覚えている俺を、誰かに口を極めて非難されたい、そんな風に俺は……俺は、逸脱を感じる。